邪馬台国九州説(平原、筑紫、田川)
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たくさんの資料の宝庫九州
さあ語りましょう
畿内説は別のスレでお願いします クナ国が熊襲国なら、宮崎から鹿児島。
熊襲国でないなら、どっかの豪族だろうけど
証明するのは難しそう。 >>455
>証明するのは難しそう。
クナ国に相応しい弥生後期集落遺跡群がないからね。 @阿波 法隆寺だけでなく般若寺やその他にたくさんの寺院が
奈良や京都に移築されたと思っている
話は逸れるが讃岐山城は九州からの避難場所
九州からの避難した人が四国に流れ住んだと思っている >>457
>九州からの避難した人が四国に流れ住んだと思っている
なんの理由で九州から避難したの? @阿波 邪馬台国は北部九州地域で福岡、佐賀、長崎、大分、熊本だな。 >>459
>邪馬台国は北部九州地域で福岡、佐賀、長崎、大分、熊本だな。
なんか「畿内説」と同じく大風呂敷だね。 @阿波 邪馬台国は筑紫平野東部内陸で、筑後川中流平野と筑後平野内陸部だな。
投馬国は筑後平野沿岸部だな。
奴国は佐賀平野中部西部だな。
不彌国は吉野ヶ里周辺だな。 吉野ヶ里遺跡近辺
伊都国は嘉瀬川扇状地だな。 肥前国庁跡惣座遺跡近辺 >>461
>邪馬台国は筑紫平野東部内陸で、筑後川中流平野と筑後平野内陸部だな。
だから、その弥生後期集落遺跡群はどれ? @阿波 >>447
肥国と熊襲は名前が被っている。
実は肥国の王家が熊襲なんだ。 >>450
瓦は重くて輸送コストがかかるが、そのほかの建材は輸送が可能。 >>463
肥国には豊の字も入っているし、久士も筑紫のクシと見なせば
他の全ての国名を含んでいると見ることができる
これはどういうことだろうか 筑紫の紫は中華の紫禁城からきてんだよ
中華では紫は高い身分の人の記し
日本にも滅多にない紫の地名
中華の影響を受けてたんだね
縁起では、黄泉から帰った伊弉諾尊が禊祓を行った「筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原」がこの地であるとし、宮地は住吉三神が生まれた浜であるという。この宮の神官は、古く、「佐伯氏」であった。
阿波伎原って筑紫にあったんだね 筑紫の日向の阿波伎原って宮崎県じゃないからね
福岡県の日向峠あたり
筑紫の阿波岐原@ | 知っとうや2
アメーバブログの中にあります(うまくコピー出来ませんでした) ついでに上記のブログの写真に三重県伊勢神宮の
元となった福岡県の二見が浦があります
これが元々の伊勢神宮です そうなんやで 福岡は阿波も出雲も大阪も京都も熊野もあるんやで
お隣の大分には吉野もあるやで >>465
なるほど。
クシも入っているのか。
気がつかなかったな。 【筑紫の日向】
そもそも筑紫とは、博多湾を望む高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったらしい。
それが拡大して博多湾沿岸から有明海沿岸や遠賀川沿岸まで含めるようになった。
こうして成立した倭国は、筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であった。
福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の筑紫日向なら朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。
伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、その中に高祖宮がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の伊都が倭国の王都であり、天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の都である。 【肥国】
倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫(天津国) が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫(天津国)が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。
筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
おそらくその過程には、本来は肥国の中心の一つであったであろう筑後山門の出身の卑弥呼が筑紫も含めた倭国女王になったことが関係しているだろう。
卑弥呼は倭国王を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治した。
特に敵対的だった伊都より北の天津国は一大卒を任命して監視した。
卑弥呼は死後に倭国の都である伊都の平原遺跡に葬られた。
肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
ただし肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は必ずしも良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。 >>473>>474なんて纏まった文なんだ。素晴らしい
>>434にも書いたけど、卑弥呼が阿蘇の麓の柿原神社の
近くにいて若宮神社から船で諸国に行っていたって
伝説は当たってるような気がしたわ
海沿いの若宮神社にもそんな言い伝えが書いてありました
しかし、あんな田舎だったとは
もう少し調べてみます >>472
熊本にも氷川町の吉野や熊本市の城南町に吉野山があるね。 >>468
二見ヶ浦も九州には福岡以外にも豊後二見ヶ浦、八代の二見ヶ浦などがありますね
九州と伊勢神宮の繋がりをうかがわせるよね。 >>475
若宮神社ですか。
調べてみます。
伊勢の起源は明らかに九州ですよね。 >>483
>残念ながら津軽は関係ないですね。
それが関係あるのです。
古田武彦氏は偽書であることが明白な東日流外三郡誌を真書と主張しておられました。
古田の電波を信じる人を啓発するためには、彼が東日流外三郡誌wを真書とした黒歴史を周知するべきですね。 古田武彦氏は正しいことも言ってるけど
間違ったことも言ってたな
年寄りだったから一度言ったことはなかなか訂正しない人だった。 >>482佐賀県の黒川町の若宮神社
熊本県との境目 >>485
正しかったのは倭国は筑紫。
東日流外三郡誌を持ち出したのは間違い。 >>473神武東征の出発かあ
対馬の周りや玄海灘は潮の流れ早いからなあ
手漕き船だから、もっと西から出発してるよ 実際に古い記録では、豊前国一宮は現在の宇佐神宮ではなく、当社を指す場合があるという。
もともと香春三山(一ノ岳・二ノ岳・三ノ岳)の山頂にあった三社が、和銅2年(709年)に現在地に移設したのが、現在の当社。
その際は香春宮と呼ばれた。それ以前の三社それぞれの創祀・創建は不詳。辛国息長大姫大目神社と忍骨神社に正一位の神階が与えられたのは、承和10年(843年)のこと。
これは大和国の主要な大社である大神神社(859年)、石上神宮(868年)、大和神社(897年)などと比べても極めて早い段階となる。
山城の平安京に遷都した後の平安時代は、大和国の古社への崇敬が若干衰えるとも指摘されるが、それを加味したとしても、いずれも二十二社の名だたる名社。
それを押さえての神階の高さから考えると、豊前国のもとの一宮というのもあながち的外れではない。
順徳天皇の建暦2年(1212年)8月21日の宣旨、後嵯峨天皇の寛元元年(1243年)10月8日の宣旨などでは、33年に一度の造営や、当社造営が当国課役とする旨の内容が見られる。
文永6年(1269年)3月23日の下知では、当国国司は、毎年春冬二季の祭祀に、必ず国司代を参向させることなどが記されている。
『延喜式』神名帳における格に関わらず、中世においても朝廷や武家からの崇敬が厚かったことがうかがえる。
御祭神は、三社の御祭神である辛国息長大姫大目命、忍骨命、豊比売命。『日本三代実録』では、豊比売命を辛国息長大姫大目命と同一している。
当社の社前には、「第一座辛国息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ、豊前国鷹羽郡鹿原郷の第一の岳に鎮まり給ひ」とある。
辛国息長大姫大目命について、異説としては、唐土に関わらず、新羅との結びつきが強いとされ、『古事記』にもある阿加流比売神に比定するものがある。 辛国息長大姫大目命について、異説としては、唐土に関わらず、新羅との結びつきが強いとされ、『古事記』にもある阿加流比売神に比定するものがある。
また、辛国は三韓征伐を指し、名前の類似から神功皇后に充てるものもある。他に、道鏡や染色に関する技術集団の、新羅系の赤染氏との関係が指摘される。
河内国大県郡の式内社に、赤染氏(常世連)の祖神である常世岐姫命を祀る常世岐姫神社(八王子神社)がある。辛国息長大姫大目命と常世岐姫命は同神の可能性もある。
「第二座忍骨命は、天津日大御神の御子にて、其の荒魂は第二の岳に現示せらる」、「第三座豊比売命は、神武天皇の外祖母、住吉大明神の御母にして、第三の岳に鎮まり給ふ」とある。
豊比売命は近くの古宮八幡神社の御祭神でもあり、豊玉毘売命に相当することになるが、豊玉毘売命が住吉三神の母というのはあまり言われない。
5月5日の当社の例祭の際は、古宮八幡神社から豊比売命が当社に下向する。古宮八幡神社が当社の元宮であるとの指摘もある。
文化財として、神社縁起書三巻、楠正成奉納の鈴及鏃、伝教大師奉納の捻珠がある。 【邪馬台国の終焉】
八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮(香椎宮)に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、仲哀の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。
倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。
仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じく景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にした。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。 >>493
文章が長いから支持されない。
三行でまとめたら? そんなに短くしたら、根拠としている文章の部分が消えてしまう。
上の文章の特徴は、既知の話の解釈の変更のみであり、オリジナルの部分がほとんどないことなんだ。
記紀の話は、視点を変えるだけでガラリと印象が変わる。 >>493書き込の最後の方に少し意義あり
筑紫では
応神との関係がある人の古墳の上に八幡が多く
応神より前の王の墓の上には熊野が多い
筑紫の諏訪に限っては自由気ままに神を祀っているふしもある
700年代より前は筑紫の一宮は香春神社だった
>>497
コメントありがとうございます。
香春、宇佐は豊前ではないでしょうか?
香春から宇佐への権威の変遷の背景として、邪馬台国体制の消滅があったのではないかということです。
表現については、分かりやすくすることを検討します。 香春山が古代において最大級の銅の産地であっことも重要なポイント。
畿内政権にとっては和銅年間の秩父での銅が最初だが、それより遥か前から九州倭国では銅を香春山で生産していた。
鉄は朝鮮半島から輸入していた。 香春の山を削ってるのは
出てきたものがとんでもないものだったからとか? 遺跡はあんなに深くにはないよ。
あれはただ採掘しているだけ。 >>502
その昔 財政難から香春岳を売ろうとした行政側に一人の議員さんが「神の山を売るとはけしからん」と抗議したそうだ。
その議員さんは斬り殺されたとか。福永さんの講演で語られていました。
だからこそ歴史を取り戻さないといけないのかも知れません。 >>500
宇佐八幡宮の元は大分八幡宮だよ。
宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』に筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とある >>505
それは知っている。
それはあくまでも八幡神の移動であり、より古い香春の神からの権力の以降がそれ以前にあっただろうということ。
その実態が、神功皇后による田油津姫の攻略だろう。 仲哀が天津神の末裔、田油津姫が国津神の末裔なら、その両者を滅ぼした武内宿禰と神功皇后は、まさしく筑紫倭国の覇者であり、倭武そのものだ。
武内は隠語で住吉の神と呼ばれるが、住吉神社は筑前一宮。
さらに筑後一宮の高良大社も、末社はすべて武内を祭り、事実上は高良の神でもある。
肥前一宮も、壹與の河上神社から八幡神社にかわっている。
肥前一宮は前述の通り。
旧邪馬台国のすべての一宮は、武内と神功皇后を祭る宮になった。
完全な政権交代が完了した。 >>507
>肥前一宮は前述の通り。
おっと、豊前一宮ね。 はじめは万葉集読んで何だか怪しいって興味もって
色々な伝承やサイトをみて
流れ流れて、こんなスレにも来て色々勉強なりました。
皆さんありがとうm(__)mペコリ
私の父が香春でしたし、祖母も京都郡や田川の地主だったから
余計に興味もって見ていたんだと思います
今は父も祖母も天国ですが、
これからも興味もっていきたいと思っています
これからも新しい発見もあるかも知れませんし
九州の歴史がどうなるか判りませんが、楽しみにしておきます
読んでみて本当にワクワクしました。楽しかった
これからも頑張って書いて頂けたら嬉しいです
宜しくお願い致します こちらこそ、読んでくれてありがとう。
テレビとかで見ると、のどかな田舎に見えるけど、3〜4世紀には倭の中心だったんですね。 倭面土国や倭奴国や黒歯国や侏儒国など、
JAPの国名にはプリミティブでモンキッシュな
イメージが強いですね
土人や猿人の住む国だったのでしょう
今でもそうですが とあるスレで言ってる人がいたんだけど、
倭国からの使者というのは、どこの国の人なんだろう?中近東?
『倭 新羅 百済 高句麗』ググると画像が出てくるはず 記憶が曖昧なんだけど
香春神社か仲哀峠の近く?で古い瓦が沢山でたって
ニュースだか資料を読んだことあったんですが
あれは何の建物の瓦だったのでしょうか?
まさか法隆寺? 倭の最後の王
薩邪夜について知りたいけどわからない あちこちに記録はあるから、いたことは確かだ。
ただ、畿内説にとってはもっとも都合が悪い人物だな。 さちやま=薩野馬=薩邪麻
間違いない鍵を握る人なのに資料が少ない
存在したら都合の悪い人達によって全力で消されたのかもねえ 【白村江の戦いと倭国滅亡】
663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。
668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。
671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。
筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。
701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。 ただ単に、捕虜になった、筑紫君の人ってだけだよ
都合が悪いも何も、大和朝廷から君姓を下賜された、ただの地方豪族 >>525ただの地方豪族を8年間も捕虜にしねえだろ
この薩夜麻が知りたい
この人に感想を聞きたいくらいなのに
単にその他大勢と一緒に捕虜になって、その他大勢と一緒に返却されて、
とりあえず、君姓の豪族だから名前が残った
その程度の人物だよ
それ以上のどんな「意味をつけたい」と思うんだ?ww サチヤマを返すために、自分が残留した人がいたな。
サチヤマが重要人物なのは間違いない。 日本書紀では7世紀末の出来事は順序を入れ替えたり人物を合成したり分けたり
場所を変えたり、都合の悪いことは書かないとか色々手を加えてますね。 >>535
奈良では成立しないからな
阿波では辻褄が合わない >>529
でも畿内説スレには来るんだろ、ほんとに九州関係者は自分勝手だぬ >>536
都が移れば徐々に衰退するけど
それでも博多とかは古代から現在まで繁栄し続けてるね。 >>537
>阿波では辻褄が合わない
阿波「以外」では辻褄が合わない。 阿波「以外」ではこういった説明が出来ない。
【壬申の乱】は
大友皇子軍の淡海の大津宮=阿波吉野川下流域北岸の鳴門市大津町木津
大海人皇子軍の吉野宮=吉野川上流域北岸の三好郡三野町加茂宮
が天武天皇紀の戦闘記事である、本来の壬申の乱の舞台なのである。 @阿波
【天武天皇紀に記される地名が阿波吉野川北岸の地名にはっきり残っている】
⚫︎粟津:鳴門市里浦町粟津
⚫︎大津宮:鳴門市撫養町木津、鳴門市大津町木津野
⚫︎菟田(うだ):板野郡土成町鵜田尾(うのたお)
⚫︎鈴鹿:板野郡土成町樫原を流れる鈴川(すずかわ)
⚫︎桑名:板野郡土成町と阿波市市場町の境 九王野(山)
⚫︎安八麿(あちはま):阿波市市場町粟島(あわしま)
⚫︎大野:阿波市市場町大野
⚫︎尾張:阿波市市場町尾開(おばり)
⚫︎倭京:阿波市市場町奈良坂(若宮皇太神宮)
⚫︎不破道:阿波市市場町大門から讃岐に通じる奈良街道
⚫︎乃楽山(ならやま):阿波市市場町奈良街道沿い城王山(旧名 奈良山)
⚫︎美濃:三好郡三野町
⚫︎伊勢:阿波市阿波町伊勢
⚫︎高安城(たかやすのき):美馬市脇町の大滝山
⚫︎吉野宮:三好郡三野町加茂野宮 >>540
玄関だと思てたらそこで家が終わり、畿内は裏山だったw 阿波さん>>541みたいに、なぜこんなに同じ地名が福岡と同じなの?
奈良はトンデモ歴史とわかったけど
四国と九州の関係が、わからない
鏡みたいに写したのかな >>543
どっちも畿内の都から国司が赴任してた地方だからだよ >>543
>四国と九州の関係が、わからない
簡単なこと。 倭国(阿波)から、九州や畿内、関東、日本海へと忌部一族が進出したからですよ。 @阿波 近江大津宮は発掘調査により場所が確定しているし
奈良の吉野では吉野宮跡の遺跡の発掘が行われている
阿波や北部九州で近江大津宮跡や吉野宮跡の遺跡の発掘はあったのかい?
日本史板はとんでも説を流さないとねらーとは言えない雰囲気を醸し出しているが
あまりにも考古学と史学の知識がなさすぎ >>546
>近江大津宮は発掘調査により場所が確定しているし
どこに確定? @阿波 >>548
>国の史跡に指定されているが
近江の国府だろうね。 @阿波 >>552
>阿波に琵琶湖はない
阿波に琵琶湖はないが、淡海(阿波の海)はある。 @阿波 >>551
>国府は別の所にあるぞ
どちらかが国府で、どちらかは百済貴族の屋敷跡だろう。 @阿波 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています