邪馬台国九州説(平原、筑紫、田川)
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たくさんの資料の宝庫九州
さあ語りましょう
畿内説は別のスレでお願いします 辛国息長大姫大目命について、異説としては、唐土に関わらず、新羅との結びつきが強いとされ、『古事記』にもある阿加流比売神に比定するものがある。
また、辛国は三韓征伐を指し、名前の類似から神功皇后に充てるものもある。他に、道鏡や染色に関する技術集団の、新羅系の赤染氏との関係が指摘される。
河内国大県郡の式内社に、赤染氏(常世連)の祖神である常世岐姫命を祀る常世岐姫神社(八王子神社)がある。辛国息長大姫大目命と常世岐姫命は同神の可能性もある。
「第二座忍骨命は、天津日大御神の御子にて、其の荒魂は第二の岳に現示せらる」、「第三座豊比売命は、神武天皇の外祖母、住吉大明神の御母にして、第三の岳に鎮まり給ふ」とある。
豊比売命は近くの古宮八幡神社の御祭神でもあり、豊玉毘売命に相当することになるが、豊玉毘売命が住吉三神の母というのはあまり言われない。
5月5日の当社の例祭の際は、古宮八幡神社から豊比売命が当社に下向する。古宮八幡神社が当社の元宮であるとの指摘もある。
文化財として、神社縁起書三巻、楠正成奉納の鈴及鏃、伝教大師奉納の捻珠がある。 【邪馬台国の終焉】
八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮(香椎宮)に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、仲哀の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。
倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。
仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じく景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にした。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。 >>493
文章が長いから支持されない。
三行でまとめたら? そんなに短くしたら、根拠としている文章の部分が消えてしまう。
上の文章の特徴は、既知の話の解釈の変更のみであり、オリジナルの部分がほとんどないことなんだ。
記紀の話は、視点を変えるだけでガラリと印象が変わる。 >>493書き込の最後の方に少し意義あり
筑紫では
応神との関係がある人の古墳の上に八幡が多く
応神より前の王の墓の上には熊野が多い
筑紫の諏訪に限っては自由気ままに神を祀っているふしもある
700年代より前は筑紫の一宮は香春神社だった
>>497
コメントありがとうございます。
香春、宇佐は豊前ではないでしょうか?
香春から宇佐への権威の変遷の背景として、邪馬台国体制の消滅があったのではないかということです。
表現については、分かりやすくすることを検討します。 香春山が古代において最大級の銅の産地であっことも重要なポイント。
畿内政権にとっては和銅年間の秩父での銅が最初だが、それより遥か前から九州倭国では銅を香春山で生産していた。
鉄は朝鮮半島から輸入していた。 香春の山を削ってるのは
出てきたものがとんでもないものだったからとか? 遺跡はあんなに深くにはないよ。
あれはただ採掘しているだけ。 >>502
その昔 財政難から香春岳を売ろうとした行政側に一人の議員さんが「神の山を売るとはけしからん」と抗議したそうだ。
その議員さんは斬り殺されたとか。福永さんの講演で語られていました。
だからこそ歴史を取り戻さないといけないのかも知れません。 >>500
宇佐八幡宮の元は大分八幡宮だよ。
宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』に筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とある >>505
それは知っている。
それはあくまでも八幡神の移動であり、より古い香春の神からの権力の以降がそれ以前にあっただろうということ。
その実態が、神功皇后による田油津姫の攻略だろう。 仲哀が天津神の末裔、田油津姫が国津神の末裔なら、その両者を滅ぼした武内宿禰と神功皇后は、まさしく筑紫倭国の覇者であり、倭武そのものだ。
武内は隠語で住吉の神と呼ばれるが、住吉神社は筑前一宮。
さらに筑後一宮の高良大社も、末社はすべて武内を祭り、事実上は高良の神でもある。
肥前一宮も、壹與の河上神社から八幡神社にかわっている。
肥前一宮は前述の通り。
旧邪馬台国のすべての一宮は、武内と神功皇后を祭る宮になった。
完全な政権交代が完了した。 >>507
>肥前一宮は前述の通り。
おっと、豊前一宮ね。 はじめは万葉集読んで何だか怪しいって興味もって
色々な伝承やサイトをみて
流れ流れて、こんなスレにも来て色々勉強なりました。
皆さんありがとうm(__)mペコリ
私の父が香春でしたし、祖母も京都郡や田川の地主だったから
余計に興味もって見ていたんだと思います
今は父も祖母も天国ですが、
これからも興味もっていきたいと思っています
これからも新しい発見もあるかも知れませんし
九州の歴史がどうなるか判りませんが、楽しみにしておきます
読んでみて本当にワクワクしました。楽しかった
これからも頑張って書いて頂けたら嬉しいです
宜しくお願い致します こちらこそ、読んでくれてありがとう。
テレビとかで見ると、のどかな田舎に見えるけど、3〜4世紀には倭の中心だったんですね。 倭面土国や倭奴国や黒歯国や侏儒国など、
JAPの国名にはプリミティブでモンキッシュな
イメージが強いですね
土人や猿人の住む国だったのでしょう
今でもそうですが とあるスレで言ってる人がいたんだけど、
倭国からの使者というのは、どこの国の人なんだろう?中近東?
『倭 新羅 百済 高句麗』ググると画像が出てくるはず 記憶が曖昧なんだけど
香春神社か仲哀峠の近く?で古い瓦が沢山でたって
ニュースだか資料を読んだことあったんですが
あれは何の建物の瓦だったのでしょうか?
まさか法隆寺? 倭の最後の王
薩邪夜について知りたいけどわからない あちこちに記録はあるから、いたことは確かだ。
ただ、畿内説にとってはもっとも都合が悪い人物だな。 さちやま=薩野馬=薩邪麻
間違いない鍵を握る人なのに資料が少ない
存在したら都合の悪い人達によって全力で消されたのかもねえ 【白村江の戦いと倭国滅亡】
663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。
668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。
671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。
筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。
701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。 ただ単に、捕虜になった、筑紫君の人ってだけだよ
都合が悪いも何も、大和朝廷から君姓を下賜された、ただの地方豪族 >>525ただの地方豪族を8年間も捕虜にしねえだろ
この薩夜麻が知りたい
この人に感想を聞きたいくらいなのに
単にその他大勢と一緒に捕虜になって、その他大勢と一緒に返却されて、
とりあえず、君姓の豪族だから名前が残った
その程度の人物だよ
それ以上のどんな「意味をつけたい」と思うんだ?ww サチヤマを返すために、自分が残留した人がいたな。
サチヤマが重要人物なのは間違いない。 日本書紀では7世紀末の出来事は順序を入れ替えたり人物を合成したり分けたり
場所を変えたり、都合の悪いことは書かないとか色々手を加えてますね。 >>535
奈良では成立しないからな
阿波では辻褄が合わない >>529
でも畿内説スレには来るんだろ、ほんとに九州関係者は自分勝手だぬ >>536
都が移れば徐々に衰退するけど
それでも博多とかは古代から現在まで繁栄し続けてるね。 >>537
>阿波では辻褄が合わない
阿波「以外」では辻褄が合わない。 阿波「以外」ではこういった説明が出来ない。
【壬申の乱】は
大友皇子軍の淡海の大津宮=阿波吉野川下流域北岸の鳴門市大津町木津
大海人皇子軍の吉野宮=吉野川上流域北岸の三好郡三野町加茂宮
が天武天皇紀の戦闘記事である、本来の壬申の乱の舞台なのである。 @阿波
【天武天皇紀に記される地名が阿波吉野川北岸の地名にはっきり残っている】
⚫︎粟津:鳴門市里浦町粟津
⚫︎大津宮:鳴門市撫養町木津、鳴門市大津町木津野
⚫︎菟田(うだ):板野郡土成町鵜田尾(うのたお)
⚫︎鈴鹿:板野郡土成町樫原を流れる鈴川(すずかわ)
⚫︎桑名:板野郡土成町と阿波市市場町の境 九王野(山)
⚫︎安八麿(あちはま):阿波市市場町粟島(あわしま)
⚫︎大野:阿波市市場町大野
⚫︎尾張:阿波市市場町尾開(おばり)
⚫︎倭京:阿波市市場町奈良坂(若宮皇太神宮)
⚫︎不破道:阿波市市場町大門から讃岐に通じる奈良街道
⚫︎乃楽山(ならやま):阿波市市場町奈良街道沿い城王山(旧名 奈良山)
⚫︎美濃:三好郡三野町
⚫︎伊勢:阿波市阿波町伊勢
⚫︎高安城(たかやすのき):美馬市脇町の大滝山
⚫︎吉野宮:三好郡三野町加茂野宮 >>540
玄関だと思てたらそこで家が終わり、畿内は裏山だったw 阿波さん>>541みたいに、なぜこんなに同じ地名が福岡と同じなの?
奈良はトンデモ歴史とわかったけど
四国と九州の関係が、わからない
鏡みたいに写したのかな >>543
どっちも畿内の都から国司が赴任してた地方だからだよ >>543
>四国と九州の関係が、わからない
簡単なこと。 倭国(阿波)から、九州や畿内、関東、日本海へと忌部一族が進出したからですよ。 @阿波 近江大津宮は発掘調査により場所が確定しているし
奈良の吉野では吉野宮跡の遺跡の発掘が行われている
阿波や北部九州で近江大津宮跡や吉野宮跡の遺跡の発掘はあったのかい?
日本史板はとんでも説を流さないとねらーとは言えない雰囲気を醸し出しているが
あまりにも考古学と史学の知識がなさすぎ >>546
>近江大津宮は発掘調査により場所が確定しているし
どこに確定? @阿波 >>548
>国の史跡に指定されているが
近江の国府だろうね。 @阿波 >>552
>阿波に琵琶湖はない
阿波に琵琶湖はないが、淡海(阿波の海)はある。 @阿波 >>551
>国府は別の所にあるぞ
どちらかが国府で、どちらかは百済貴族の屋敷跡だろう。 @阿波 九州であってほしいというイデオロギー以外に何もないのが九州説
科学ぶってる創造論とかと同じオカルト 魏志倭人伝を読み込めば誰でも九州説(伊都国)になる
読んでない人が妄想で変な説を色々と主張している。 大津京は熊本県だよ
熊本県菊池大津古墳でググるとよろしい クジラがいたという淡海(近江)が有明海のことですね。
そういえばイルカウォッチングに行ったなあ。 >>559
>魏志倭人伝を読み込めば誰でも九州説(伊都国)になる
魏志倭人伝を読み込めば「其山有丹」で九州説(伊都国)は消えてなくなる。 @阿波 >>563
>魏志倭人伝を読み込めば誰でも九州説(伊都国)になる
いろんなところで書いているんだけれど、史書は「暗号書」でも「判じ物」でも
ないんだから、普通に読むことが想定されているんだよ
「読み込まなければ分からない」ことは、撰者の意図を超えた超解釈でしかない
九州説(特に伊都説)はそういう、超解釈だけが基盤のトンデモカルトになっている >>564
>いろんなところで書いているんだけれど、史書は「暗号書」でも「判じ物」でも
>ないんだから、普通に読むことが想定されているんだよ
だから、普通に読めば、帯方郡から一万二千里の九州北部が邪馬台国だよ。 >>563
泡君は「其山有丹」の部分しか読んでないんですね。 >>564
畿内説や阿波説の人は邪馬台国をおらが村にしてくて恣意的に解釈してるからな。 >>568
>泡君は「其山有丹」の部分しか読んでないんですね。
「其山有丹」だけで十分証明されているが、以下は補足。 @阿波
@倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑
四国東部は帯方の東南に当たり、四周が海で、山や島に人が居住し、国を為している
A今倭水人好沈没捕魚蛤
徳島県南部海部地方などに古くから見られる漁法(海人の素潜り漁)
B文身亦以厭大魚水禽
入墨(文身)を表した土製仮面(顔面全体に丸い道具で突き刺した模様がある)が出土している
C種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜
吉野川中流域(旧麻植郡)は古来より麻や桑を栽培し、往古より践祚大嘗祭で麁布を調進している
D倭地温暖
徳島は黒潮が近くを流れ、温暖な地である
E其木有{木冉}杼豫樟楺櫪投橿烏號楓香其竹篠幹桃支有薑橘椒襄荷不知以爲滋味有爾猴黒雉
特に、橘は徳島県南部が古くからの産地である
F女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
徳島の東の海(紀伊水道)を渡る千余里で倭種国(紀伊半島)が位置する
G問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里
徳島は離れた海中の洲島の上を、あるいは隔絶し、あるいは陸続きに、ひとまわりすると、五千里あまりになる
H直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華ケイ五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛 丹各五十斤
鳴門の萩原墳墓群などに中国産の真朱が使われている
I女王国への行程記述 >>570
@四国だけでなく日本列島全体が当てはまるので×
Aこれも日本の沿岸部で一般的に見られるので×
Bこれも四国に限らないので×
Cこれも四国に限らないので× >>570
@四国だけでなく日本列島全体が当てはまるので×
Aこれも日本の沿岸部で一般的に見られるので×
Bこれも四国に限らないので×
Cこれも四国に限らないので×
D九州も温暖ですね×
E柑橘類は九州が本場で橘も九州が原産地×
F九州から見たら本州、四国があります×
G北部九州一周ですね×
H真珠は西九州で多く採れますね、天草真珠とか有名です×
I行程記事で四国にたどり着くのは不可能ですね×
阿波説には何一つ根拠がありませんね。 過去にも大きな地震あったらしいな
熊本県の三角半島辺りは、地震前は大きかったんだって
崩れて沈んだみたい
天草の牛深神社まで卑弥呼が来たらしいから、船で来たのかな
卑弥呼が倭王になる前は
阿蘇の麓、有明海側にいたと思う
万葉集の柿本人麿は過去の都を巡っては歌を残しているので
人麿が歌った地域には必ず何かのヒントがある
人麿の歌は本当に興味深い
九州説の人は読むべき >>574
>卑弥呼が倭王になる前は
>阿蘇の麓、有明海側にいたと思う
うんうん、卑弥呼は肥国の女王だと思う。
そして倭国全体の女王に共立され、伊都に入ったんだ。 これは私の推理だけど
百済奈良は福岡の地名や名所を真似をした
真似をしすぎたばかりに卑弥呼の墓のヒントを残してくれた
箸墓
ヒントは九州にハシハカかハシと言う地名なのか?
もしくは見た目通りに箸が立っていたのか?(墓標のように)
茶碗の山盛りご飯の中心に箸を差して
仏壇や神様にお供えをする場所もある
もしかして箸墓は、この見た目から来ているんじゃないかと?
@東京DNAは田川
>>577
>もしくは見た目通りに箸が立っていたのか?(墓標のように)
平原遺跡の御柱?
鳥居のような二つの穴の遺構? 邪馬台国では箸は使われていないと、魏志倭人伝に書かれているわけだが。 大陸との交流の記録が150年間空白
これがキーポイント
畿内のヤマトが北九州の邪馬台国を滅ぼして
国交が途絶えたからという仮説がしっくりくる 古代語では端=ハシ
どこかの土地の端にハシハカあるのかも
平原古墳のまわりの端山古墳細石神社茶臼塚古い歴史あるんですね >>580棒を立てたら、後年に箸を立てたみたいだ〜と言われただけかも
真似をしすぎた百済奈良からヒントもらう名案
>>580
魏使を迎えた宴会で箸を使わなかっただけだろ
竹籠や高坏に盛られたご馳走は冷えてるから手掴みで食べられる。 >>587
ご飯が冷めていたら、あんたは箸を使わずに手掴みで食べるのか。 >>580それならば奈良の箸って漢字はどうして
使っているのか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています