邪馬台国畿内説 Part346
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1525372527/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>156
>少なくとも、卑弥呼の直前の後漢の頃は
倭の北限が狗邪韓国、倭の南限が倭奴国だから、対馬海峡周辺だけが倭なんだよ。<
成程。
後漢の頃は、九州中南部は、東テイ人の国であった、という事になり、
それが卑弥呼の頃には投馬國になっていた、という事になり、
史料事実とほぼぴったり合うね。 >>193
>倭国は隋の時代に遂絶している。
根拠は? >>199
三種の神器が倭王の王権の象徴だからだよ! >>157
>まあ、景行天皇と筑紫の神夏磯姫の関係はそれかもしれないね。
でも八咫の鏡を持っていたのは景行天皇ではなく神夏磯姫の方なんだよね。<
成程ねえ。
まあ、景行は、山口県から出発して筑紫に凱旋しているから、
筑紫倭國の将軍の一人ではあって、
大和の書紀はそれを盗用したんでしょうが。 >>202
>唐が同時に別の2つの国を同じ名前で呼ぶ
>なんて奇妙なフルタ説を正当ばしてくれないだろ
じゃあ、倭国と日本国が並存していた別の国であることは認めるんだな? >>208
>九州中南部は、東テイ人の国
東鯷人は呉地だから ×
>卑弥呼の頃には投馬國になっていた
何の繋がりもない作り話は × >>204
>>>200
>
>纏まってはいないが、畿内の庄内式の模倣という共通性は
>見られるようになる
>3世紀はまだ畿内と密接なのは博多湾沿岸地域だけだろう
纒向は東海との結びつきが強いんじゃなかったっけ?
博多湾沿岸部は西日本各地から物資が集中したけどね。 >>211
忍代別の称号があるから、筑紫倭国から出た分家の一つでしょうねえ。 >>214
庄内甕は在地模倣製作だから
物資が集中した根拠はない >>215
なんで忍代別だと筑紫倭国から出た分家になるんだ
意味不明 >>214
纒向の搬入土器は東海が多いけど
庄内式自体が吉備の技術の影響だから情報交流が緊密なのは吉備のほう
北部九州でも庄内式模倣製作の中心の那珂が畿内と緊密 >>218
直接交流だとは思いませんね。
纒向はあくまでも東海地方を通じて西と交流していたということであり、独自の主体性を欠く従属する土地なんですよ。
当時は海運が主力だから、吉備と東海は直接交流できたでしょうが。 そんな纒向が、豊かで文化的水準も高かった筑紫を従えることなど無理。 >>220
庄内式の成立は河内だからな
庄内式の前段階に畿内第V様式圏があるから
舟で行けるとこだけというのは新石器時代の話だから >>220と>>221
慌てて文体を変えるのを忘れてるなw
>>220は岡上口調
>>221は名無しの八咫バカ口調 東海系のS字甕は博多遺跡には入るけど
古墳時代初頭から外港になる西新町からは出ない >>222
>舟で行けるとこだけというのは新石器時代の話だから
根拠は? >>227
何の知識も無い人から根拠はと聞かれても困るが
縄文時代でも中部高地は遺跡が密集する
弥生時代は水稲栽培適地、それにより土木技術が発達する >>220
>纒向はあくまでも東海地方を通じて西と交流していたということであり
ことであり?
どっから湧いて出て来た話だ? 畿内説明は土器の話しかできないのかよ
倭人は鉄の鏃を使うって書いてあるんだろ
ヤジリが出ない時点で九州確定なんだよ
俺は卑弥呼の墓も想定ついてるけど
荒らされたら申し訳ないから書かないだけだからな >>231
倭人が全員鉄の鏃を使うって書いてないな >>162
>記紀の神話では、
榊の枝に八坂瓊之五百箇御統、八咫鏡、青白の布帛をかけ祈祷をしたのは
天磐戸のときに中臣氏の祖の天児屋根と忌部氏の祖の天太玉がやったことだから、
神夏磯媛や熊鰐や五十迹手も同じようなことをして恭順の意をした表したことにした<
「恭順の意」とは限らない、と思いますよ。
記紀神話は、天孫族の阿毎氏の皇国史観という宗教的な「結論先にありき」で書かれていますから、
「恭順の意」を表したように書いているんでしょうが、
「三種の神器」様の組み合わせで出迎えた、という事は、敵味方を示す旗印のように、
自分たちの部族の出目や地位を相手に伝えよう、としているんだろう、と思いますよ。
つまり、神夏磯媛や熊鰐や五十迹手らは、
自分らが、倭国の王家や、天孫族系の阿毎氏系王家に繋がる部族である事を、
軍を引き連れて来た(倭国系の遠征将軍の?)景行や仲哀に示そう、とした。
ニギハヤヒが東征将軍の神武らに示したお宝と同じようなの事なんでしょうね。 テンプレに出てくる「"嘉平限断論"」ってなに?
ググってもこのスレしか出て来ないんだが >>163
>>(唐会要の正北抵新羅)どっちにしても倭國は、九州であり、<
>仮説は循環論法になるので × <
変な男。wwは・・・・か?。
「唐会要倭国伝の正北抵新羅」という史料事実を出発点にした論を書いているのだから、 循環論法になっておらず、
「倭國の中心部は大和にあった」という無根拠な事を言い張ったwwの方が、
「結論先にありき」の循環論法。
>>どっちにしても倭國は、九州。<
>言張るだけでは日本では × <
史料事実を否定して「大和が倭国の中心であった」として言い張るだけでは、
「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・大和説者には通用しても、
国民や人類や世界の学者や科学者には通用せず、×。
>>李賢は、後漢書とも隋書とも違う別の情報を得た<
>誰も知らない<
確定的な別情報(郭務ソウらからの)を得なければ、李賢は「邪摩惟」情報を知る事が出来ない。
>>李賢は、後漢書の邪馬臺國に注を付けたのであって、<
>後漢書の「邪馬臺」の音が今は隋書の「邪靡堆」と訛っているという推測
つまり、「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」は後漢時代の「邪馬臺國」と同じ国であり
「邪馬壹」ではなく「邪馬臺」を前提として推測している<
「案:今名邪摩惟、音之訛也」は、「今の名のが邪摩惟がである」と事を断定した表現であり、
後漢書の「邪馬臺國」の名前が「邪摩惟」に変わった、という事を「案」じている。 >>231
>ヤジリが出ない時点で九州確定なんだよ
鉄鏃があちこちから出てる阿波はどうなるの? @阿波 >>222
>庄内式の前段階に畿内第V様式圏があるから
その庄内式の前段階は、畿内第V様式の「東阿波型土器」だよね。 @阿波 >>166
>畿内という文言は、現在使われている地域概念が定着しているので ○ <
畿内という文言は、大和に天皇がいたという事を前提にした文言であるが、
大和が天皇になったのは天智からであり、だから、天智以前の話に「畿内」を使うのは、
「結論先にありき」の循環論法になってしまうので、×。
>「東征毛人五十五國」 毛人は東国なので ×<
倭国の位置は、唐会要倭国伝で「正北抵新羅」であるから、九州であり、
その倭國の「東征毛人五十五國」の「毛人」は九州以東の地の部族の事になり、
単なる「東国」として、大和以東の人種だ、とするのは嘘つき騙しになるので、×。
>(文身國)出雲が文身國である根拠がないので ×<
梁書が出雲を「文身國」と記録しているので、このwwの説明は嘘つき騙しになり、×。 >>232
全員どころか、畿内では誰も使ってないw 3世紀の鉄器が出土するのは北部九州で関西からは出ない、絹も同じ
3世紀当時は関西は未だ未開の地で国なんか存在してなかった。 「晋書限断論」とは晋書の始まりをどこに置くかという問題。
荀?は曹叡が死んで曹爽と司馬懿の連立政権が始まる239年を晋書の開始年と主張した。
王?は司馬懿が曹爽を誅殺した249年(嘉平元年)を晋書の開始年と主張した。
290年に司馬炎が死ぬと魏が滅亡した265年が晋書の開始年となった。 >>240
>3世紀の鉄器が出土するのは北部九州で関西からは出ない、絹も同じ
3世紀の鉄器は阿波でも出土する。
3世紀の丹が採れるのは阿波だけ。 @阿波 >>>(陳寿の三国志を評価した後代の人である事には違いがない)
晋の後の時代に三国志を評価したのは誰かと訊ねている<
>>「晋書の筆者」を挙げた<
>「晋書」の評価が低いのは書いてあげた<
晋書の筆者が、陳寿や三国志を評価した事には変わりがない。
>(唐代の晋書の陳寿伝は、) 陳寿ではなく三国志の評価を訊ねている<
晋書は、陳寿も三国志も、どっちも評価している。
>>七支刀の「こうやの宮」の存在<
>って何?<
「桐の家紋」の主が七支刀を持った使節らを受けている、という形の人形群があるから、
「桐の家紋」の主は、倭王旨その人か?、倭王旨の家臣の最高位的な人物。
>>〜などが根拠。<
>だから仮説であり作り話は ×<
否定反論の根拠も言えずに、「ただ仮説だ」と口先だけで否定宣伝をするwwは、
全て仮説であり、作り話であるから、×人間。 >>181の続き
>>底本になったのは、写本。
>>系統の違う版本の底本写本群は、当然12世紀以前のもの。<
>それはどこにあるのかを訊いたが応えはない<
当然、殿本考証の時点で、最大限の資料収集をしていたんだから、
清朝の殿本考証の場に、揃えられていた。
当たり前の事。
>>(邪馬壹國や邪馬臺國や邪靡堆や邪摩惟)
史料事実の差異を根拠にしているから <
>字が違うから別の国というのが仮説だから × <
字形も音韻も説明記載内容や時期も違えば、「別の国」である、
というのは、史料事実を根拠にした史料実態であり、
仮説ではないので、
wwは、また、×。 >>241
鉄器が無い→農業生産性が低い→人口が少ない
鉄器が無い→戦争に弱い→他国の侵略を受ける >>246
>鉄器が無い→戦争に弱い→他国の侵略を受ける
鉄器が無い→農業・手工業生産性が低い→先進国の文化を受け入れる @阿波 >>182
>>(北宋本(魏志32、蜀志0、呉志12)南宋本(魏志60、蜀志35、呉志71))
だから、それが 膨大な「最大の校異・考証集成」の「殿本考証」の中での、
北宋本と南宋本の校異・考証箇所。<
>それはおれが最初から言ってること<
それは、私が最初から言っていた事。
>お前は「殿本考証」で北宋本と南宋本の他にその他(諸本)があると書いていた
途中で話を変えてごまかすな <
北宋本(魏志32、蜀志0、呉志12)南宋本(魏志60、蜀志35、呉志71)という記載では、
その数が、殿本考証での、北宋本と南宋本のそれぞれの中の考証箇所数を示している可能性が高く、
北宋本と南宋本間の考証箇所であれば、北宋本と南宋本の考証箇所数が一致する筈であるので、
それが「違う」という事は、
単に「殿本考証での、北宋本と南宋本のそれぞれの中の考証箇所数を示している」という可能性が高い。
>>「本体」という文言を曲解した事を咎めただけ。<
>お前が自分のレスに返答してるから教えてやって おかしな「本体」を訂正してやっただけ<
お前の「言葉尻の誹謗」のために、世間の人々に何の話なのか?が判るように、
その返事に「何の話であったのか?」の説明も入れる必要がある事になり、
しかし、行数が32を超えれば、5chにその投稿全部を抹殺されてしまう可能性があり、
だから、お前の・・・・投稿文をカットした投稿を書いた、
というだけだ。 >>222
内陸の僻地であった纒向は邪馬台国と関係ないということで。 >>241
魏志倭人伝の記述と畿内の状況はかけ離れすぎている。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 キナイコシが鉄器に過剰反応するのはなぜだろうか、、、 >>256
優れた考古学者の始業時間ではないのかな。。。 >>253
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 >>255
計算すると、西暦200年頃からだな。。。 >>261
では、邪馬台国時代の天皇は誰なのだろうか、、、 >>262
計算すると、応神天皇の頃だな。。。
昔の天皇は長生きだな。。。
魏志倭人伝にも倭人が長生きで100年生きるとあったが、それが正しいことが証明されたな、、 >>263
計算すると、神武天皇の方が800年以上古い時代のようだな。。。 >>265
大物主も神武天皇の時代の人なのだね、、、 仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。 古事記と日本書紀を読み進めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。 >>183
>>親魏倭王印や魏の臣下の銀印の身分を貰っていた九州倭国は、
魏の薄葬令の制約をもろに受けるが、<
>畿内で最大級の古墳が作られる時代は、魏がとっくに滅びたあとだぞ
その頃にも本国だとザラコクが主張する九州ではしょぼい前方後円墳しか作ってないよな?
魏の薄葬令なんて関係ない時期でも、九州に巨大古墳はない
つまり倭国の中心とはほど遠い土地だ <
卑弥呼の宗女の壹與が女王になれば、
当然卑弥呼の親魏倭王地位の継承を自覚しているのであり、
「率善中郎將」や「爲率善校尉」や「銀印青綬」を受けた家臣らも、
当然薄葬令の順守を自覚する事になる。
だから、倭国の中心は、薄葬令に制約された地域だ。 >>185
>日本書紀 巻第十四 大泊瀬幼武天皇 雄略天皇
別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連連、未詳何姓人奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」是以、大連爲奏於天皇使留居于角國。
是、角臣等初居角國而名角臣、自此始也。<
この「紀小弓」の「紀氏」は、
高良大社の隆慶上人伝によって、半島の王となったとなった、という伝承のある氏であり、
「紀氏=姫氏」であるから、
「東海姫氏國=倭國」の人物(おそらく王的地位)だな。
書紀は、ここでも、倭國の人物や歴史を盗用していたらしい。 >>187
>九州説は、白村江敗戦後まで九州王朝が存続してるっていうんだから、
そこが否定されたらもう意味なしだろ <
否定されないから、関係がない。
唐会要倭國伝に拠って、
倭国が新羅に「正北抵新羅」だ、とか、
日本国伝に「日本、倭國之別種。以其國在日邊、故以日本國爲名。
或以倭國自惡其名不雅、改爲日本。
或云「日本舊小國、呑併倭國之地に」とか書かれているんだから、
倭国は、ずっと新羅のほぼ真南の九州にあった事になり、
九州倭国であり、九州王朝そのものだ。 >>191
>それらに、唐が日本と呼ぶ国が 同時に2つもあるとは書いてないよ <
旧唐書の日本国伝にも、
日本国以外に倭國も以前に日本国と名乗った事が書かれているが、
唐会要は、更に、(日本国伝ではなく)倭国伝に、
則天に倭國使節が「日本国」を名乗った事を記載し、
更に、開成4年までの遣使に「倭國」を名乗った遣使もあった事を記載して、
倭国が「倭国と日本国の両方を名乗っていた」という実態が書かれている。 >>269
相変わらず詭弁にもならない駄論を書き連ねているなぁ
本当に頭悪い
ザラコクの信奉する古田史学では、白村江まで九州王朝が
存続しているっていう主張なんだろ?
そしてその間ずっと古墳を作ってるよな?
でもその間ずっとしょぼい小さなものだけ
魏朝は、265年に終わってるんだが、その魏が終わった後
薄葬令をいつまで守ってたっていうつもりなんだ? >>193
>倭国は隋の時代に遂絶している。<
旧唐書と唐会要は、倭國(俀國の後)が、
貞觀五年頃に遣使を往来再開したが、失敗して由是復絶になり、
また、「至二十二年又附新羅奉表、以通往起居」にし、
唐会要では、永徽五年や、白村江の後の咸亨元年や則天の時や、開成4年までも、
倭国は遣使を派遣した事になっている。 九州の古墳の副葬品は豪華だよ。
沖ノ島の祭祀も豪華だよ。
何がしょぼいって?
卑弥呼がいたはずの3世紀の畿内の遺跡の方がしょぼいよ。
まわりの関西圏と比べても格段にしょぼいw >>254
優れた考古学者に打ちのめされた話題なのではないのかな。。。 >>277
優れた考古学者に打ちのめされたキナイコシが、やる気を失ったのではないのかな。。。 >>265
大物主も神武天皇の時代の人なのだね、、、 >>279
あの掘立遺跡が大物主の倉庫で、神武天皇の時代のものだから、孝元天皇の妹の墓は随分と後の時代の物だね、、、 >>258
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は無いもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。 >>280
しかし、大物主はその孝元天皇の妹の夫でもあるね。。。
どういうことだろうか、、、 >>283
やはり、大物主というのは役職名なのではないのかな。。。 改めて狂人のキナイコシが貼り付けているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 >>284
九州の王族に仕えた霊園管理者の役職名なのだろうな。。。。 >>197
>>していない。<
>お前が北宋本・南宋本の他にもその他の諸本がたくさんあったと連呼して
間違い箇所数を貼り続けたから
俺が殿本考証については北宋本・南宋本の間違い箇所数しか書いてないと
指摘してやったんだろ、自分のアホをごまかすな<
この・・・・wwは、まだ、殿本考証は
「清朝初期、勅命をうけて清朝学者たちの大成したもので、
現在においてなお、最大の校異・考証集成である」
というものであるのに、
実際には「北宋本と南宋本しか考証していない」
なんて解釈をしているアホであったらしい。 >>201
>九州倭国は、晋の惠帝の時の遣使が日本国を初めて名乗り、
は、作り話だから × <
釈日本紀がついうっかり引用紹介してしまった史料実態であり、
作り話ではないから、×。 >>202
>九州倭国は、晋の惠帝の時の遣使が日本国を初めて名乗り、
大和は、隋の文帝に小野妹子が日本国を初めて名乗った、という話であり、
それを紹介したのが、旧唐書日本国伝の、
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本」
の文だ。<
>あんたらのそんな突飛な考えはどうでもいいよ だって、それ・・・
唐が同時に別の2つの国を同じ名前で呼ぶ なんて奇妙なフルタ説を正当ばしてくれないだろ<
倭国が先に日本国を名乗り、大和が隋の文帝に開皇末に日本国を名乗った、
というのは、史料事実であり、史料実態だ。 >>204
>(筑紫地域は)纏まってはいないが、畿内の庄内式の模倣という共通性は
見られるようになる
3世紀はまだ畿内と密接なのは博多湾沿岸地域だけだろう<
逆だ。
庄内の発祥は、糸島地域であり、
那珂八幡地域や大和や河内や播磨は、糸島地域からの伝来模倣生産であり、
(大和を省く)播磨や河内が、那珂八幡地域の弥生銀座に、
市を介して搬入上納をしたのだ。 >>206
>そもそも2万戸奴国の比定が三雲の飛び地と早良平野という
九州説でも言わないおかしな国にしてるから「ようだよ。」と作り話しても ×<
伊都國の東南百里(約7.6km)に奴國があって、
二万戸あって、
東側が「不彌國と邪馬壹國に遮られる」地域と言えば、
三雲平原地域〜早良平野地域、という広域しか残らないから、
この・・・・男は、×。 >>207
>姫氏と阿毎氏系の団結が強くなって、<
>作り話だから ×<
松野氏姫氏系図では、倭奴國〜帥升時代には合同しており、
卑弥呼共立後も、阿毎氏の伊都国に、姫氏の卑弥呼政権の軍事中心の一大率が治していたんだし、
その後も、壹與や那珂八幡や銚子塚のいる阿毎氏系のような王らが出ているから、
作り話ではなく史料実態であり、
この・・・・男も、×。 >>235
>「唐会要倭国伝の正北抵新羅」という史料事実を出発点にした論を書いているのだから、
>循環論法になっておらず、
循環論法を理解できていないので ×
>国民や人類や世界の学者や科学者には通用せず、
国民や人類や世界の学者や科学者は言張ることはないので ×
>確定的な別情報(郭務ソウらからの)を得なければ、
存在しない報告書を妄想で作っているので ×
>後漢書の「邪馬臺國」の名前が「邪摩惟」に変わった、
変わったのではなくて、音が訛ったと「案」じているので × >>238
>畿内という文言は、大和に天皇がいたという事を前提にした文言であるが、
畿内を地域概念とは考えないのは特殊な人だけなので ×
>倭国の位置は、唐会要倭国伝で「正北抵新羅」であるから、九州であり、
仮説は循環論法になるので ×
>梁書が出雲を「文身國」と記録しているので、
これも仮説であるので × >>244
>晋書の筆者が、陳寿や三国志を評価した事には変わりがない。
晋当時の人の陳寿評価は書いてあるが
三国志を評価したとウソをついているので ×
>晋書は、陳寿も三国志も、どっちも評価している。
これもウソなので ×
>「桐の家紋」の主が七支刀を持った使節らを受けている、という形の人形群があるから、
あの人形は誰でも作れるから不可
>否定反論の根拠も言えずに、「ただ仮説だ」と口先だけで否定宣伝をする
自分の仮説は根拠になると言張っているだけなので × >>245
>当然、殿本考証の時点で、最大限の資料収集をしていたんだから、
>清朝の殿本考証の場に、揃えられていた。
紹煕本が殿本考証に対校された南・北宋本の誤謬さえ正しうる
しかし、その紹煕本さえ写本残片に比べると、さらに訂正しうる個所がある
ということだから、清朝の殿本考証の場に底本写本が揃えられていたというのは ×
>字形も音韻も説明記載内容や時期も違えば、「別の国」である、
>というのは、史料事実を根拠にした史料実態であり、
「別の国」であるというのは史料実態ではなくて仮説なので × >>249
>それは、私が最初から言っていた事。
言っていないから、訂正箇所数を書いて何の意味があると俺が訊いたが応えなかった
>考証箇所数を示している可能性が高く
可能性が高いんじゃなくて文脈から訂正箇所数だから、
俺が版本が多く残っていたことにはならないと書いたんだろ
>行数が32を超えれば、5chにその投稿全部を抹殺されてしまう可能性があり、
>だから、お前の・・・・投稿文をカットした投稿を書いた、
自分のレスのほうを消せアホが >>288
>実際には「北宋本と南宋本しか考証していない」なんて解釈をしている
で、お前は北宋本と南宋本の訂正箇所数をコピペしてたわけだが
殿本考証では北宋本と南宋本の他に何を考証したのか? >>289
>釈日本紀がついうっかり引用紹介してしまった
九州倭国と書いてある箇所を引用しなければ × >>291
>庄内の発祥は、糸島地域であり、
研究者が誰も言っていないことを素人が言張っても × >>292
>三雲平原地域〜早良平野地域、という広域しか残らないから、
考古無知だから × >>293
>松野氏姫氏系図では、
考証をまったくやっていないから × >>305
やったという根拠は何も書いたことがない いやどう見たって、偽系図だろう
あれを見て、真作の古系図だと思えるのは、疑うことを知らない
小鹿のような性格の人だけだ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています