>>213
>>九州中南部は、東テイ人の国<

>東鯷人は呉地だから × <

倭人は、「倭人在帶方東南大海之中」であり、
陳寿は「計其道里、當在會稽東治之東」という判断をしており、
帯方から行くべき所、という記載。
東鯷人は、
漢書では「會稽海外有東鯷人、分為二十餘國、以歳時來獻見云」であり、
後漢書も「會稽海外有東鯷人、分爲二十餘國」であり、
以歳時來獻見は、海賦に拠れば、後漢最末期に、漢朝に「序に就いた」という記録があってから、
記録が無くなった。
いずれにしても、東鯷人は、会稽海外であって、呉地ではない。

>>卑弥呼の頃には投馬國になっていた<

>何の繋がりもない作り話は ×<

会稽を起点にして海外に相当するのは、九州〜薩南諸島や南西諸島。
帯方からは 「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑」として区別されているから、
九州の北半分は倭人地域になり、九州の南半分は東鯷人だろうという事になる。
そして、卑弥呼の頃には、九州南部の東鯷人の記録が無くなっていて、
その代わりに投馬國が出来ている事になる。