邪馬台国畿内説 Part346
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1525372527/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 畿内説の人に質問
畿内説にもいろいろあると思いますが、現在の学界では
瀬戸内航行説と日本海航行説ではどっちが有力ですか?
また投馬国はどこだってのが最有力ですか?
(邪馬台国九州説の人には聞いてない。あくまで邪馬台国畿内説の場合で) >>96
>瀬戸内航行説と日本海航行説ではどっちが有力ですか?
学会では、魏志倭人伝には深入りせずに、倭国の国家形成を探るようになっていると思います
なので、瀬戸内航行も日本海航行も、どちらもほぼ論じられていません >>97
投馬国の位置についても「ほぼ論じられてない」でOK? 前>>890
>誤魔化しても無駄。新羅の東南も南も大海。
新羅の南は、東南の大海=日本海の中にある倭国の対馬
倭国の北は大海の日本海で限られている
>魏志の頃から、「 倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑」と書かれている。
魏志でも、「韓在帯方之南」「倭人在帶方東南大海之中」であるので
倭人は韓の南ではなく東南
>後漢書の邪馬臺國は、国家や歴史学者は、殆ど皆知っている。
後漢書に注をつけているのだから、「誰も知らないような地名を持ち出して」というのは
「今名邪摩惟」のこと
>李賢は、隋書に注を書いたのではなく、
隋書の「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」を知識人は皆知っているから
後漢時代の「邪馬臺」の音が今は訛っていると推測している >>98
論じている人は少なくないが学者同士の議論になってないというのが正解だろう >>274
>晋の後の時代に三国志を評価をしたのは誰かと訊ねている<
それなら、晋書に書かれた、
「於是詔下河南尹、洛陽令、就家寫其書。壽又撰古國志五十篇、益都耆舊傳十篇、餘文章傳於世」
を命じた皇帝や、
裴松之や、晋書の筆者。
>>後漢書の「邪馬臺國」は魏志の「邪馬壹國」と、対象が違う別のもの。<
>後漢書は卑弥呼が共立されたことを書いているが 「邪馬壹國」は無い <
5世紀の後漢書の頃は、倭王の居地は、邪馬壹國女王之所都ではなく、
邪馬臺國という狭い地域名の地(久留米付近)に変わっていた。
>>張元済は、「古文(古い形の文字)」や「古型」を持つ本を求めていた。<
>張元済は、紹煕本は「多く古文を存し」と言っているから<
だから、邪馬壹國が古文古型であった。
>>(古田論証)魏志の写本者には「壹と臺」を錯誤したものは0人だった<
>書写本じゃなくて版本だろ<
版本での錯誤の有無は、底本写本を介して、写本での錯誤の有無になる。
>初めて版本が刊行される前の時代の後漢書や隋書での引用に「邪馬臺」が書かれている<
後漢書の邪馬臺國は、魏志の邪馬壹國と、対象が違うから、関係がない。
その事も判らずに書いた隋書の魏徴らは、
高慢な「自己解釈」による前史の「内容説明的な書き換え」をした後代史家であった、 という事だ。 >>776
「南→東」などの嘘つき騙しのように、
無条件に自分の思い込みが正しいものとして妄想するのが、
トンデモ大和説者の特徴。 >>781
>帥升は倭の面土王、あるいは倭面土王かで決着してない <
後代史書の「自己解釈に拠る原史料の内容説明的な書き換え」は、
参考資料程度であり、論拠にならない。
>そもそも倭王ではない<
後漢書は、「安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見」と紹介している。 >>786
>すでにテンプレに説明あるわ 苦笑<
テンプレは、長過ぎて、説明を探しに行く気が起きないわ、苦笑。
まともに議論したいんなら、テンプレの該当箇所を転載転記してくれ。 >>787
学問的には
・根拠のない妄想で説明できると主張…×
・事実や史料実態という根拠というを元にして説明したもの…○
だから、「南→東」などの嘘つき騙しは、学問にならない、というだけ。 畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
大和朝廷の主体は尾張と出雲。
次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。 邪馬台国畿内説とか素人を騙すタイトルを付けるな。
邪馬台国はヤマト国。
他の畿内、摂津、河内、和泉、山背は邪馬台国ではない。
勝手に縁起悪いものに混ぜるな。
畿内の勢力が関東東北を征伐したみたいな誤解を生む原因になっているわ。
畿内は近畿周辺の勢力にフルボッコにされた側なのにね。 近畿の男系は縄文系の遺伝子は結構残っていて、他の地域と大差ない。
畿内の弥生時代の遺跡は縄文時代の遺跡に連なるものが多い。
渡来人が縄文人達の水源を奪った痕跡もない。
渡来人達が新たに住み始めたのは洲や井戸の技術がないと住めない水利の悪い台地。
2世紀半ば迄は環濠が要らなくなるくらい平和な時代になっていた。
神武東征前のヤマトの記述。
ナガスネヒコ、ヤソタケル、土蜘蛛、皆仲良く暮らしていたんだな。
2世紀半ば以降の倭国大乱、畿内征伐でこれらは崩れ去る。
攻めてきたのは、出雲など山陰と尾張三河など東海の勢力だよ。彼らが平和な世界を破壊したんだな。 近畿は元々縄文系勢力も渡来人系勢力も仲良く暮らしていた。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。
スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。
結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした大和朝廷だよ。
近畿は大和朝廷の最初の討伐ターゲットだったんだな。
大和朝廷は4世紀前後四道将軍で関東東北を征伐する。
大和朝廷に虐げられていた元々の近畿の勢力、関東の先住民が手を結び、神功皇后応神を旗頭にして大和朝廷の旧勢力に叛旗を翻すんだよ。
藤原氏の守り神が関東の人々であるように、近畿と関東は同盟関係だったんだな。 魏志倭人伝
邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。
出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。
出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。
邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。
伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか? >>109-112は俺じゃない。ほんとに悪質なアラシだな >>97
>なので、瀬戸内航行も日本海航行も、どちらもほぼ論じられていません
めちゃくちゃ逃げていてワロタ >>796
>で、西谷正は帥升と邪馬台国は連続した政権だと言ってるのか?<
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku13/yamai21.html
に拠れば、
西谷は、古田さんの「筑紫説」を、なかったかのように取り上げずに、
他の九州説を批判否定されたようです。
西谷も、「南→東」の嘘吐き騙しの詐欺師仲間です。 >>804
>九州で大乱があったから畿内で卑弥呼が即位したと。<
九州であったのは、「倭國亂、相攻伐歴年」であって、
天子や皇帝に反逆する「大乱」ではない。
范曄は、自己の誇張古代解釈に依る「前史記載の内容説明的な書き変え」をする人物であり、
その部分は論拠には出来ない。
勿論「畿内」も×であり、
大和での卑弥呼共立も、「南≠東」に拠って×。 >>808
>部族連合に毛の生えた程度のイト倭国体制が崩壊して 初期国家としてのヤマト倭国が始動した
これが学者の圧倒的多数意見でしょ<
「ヤマト倭国」は、「南≠東」や「正北抵新羅の否定」などの嘘吐き騙しによって×。
「圧倒的多数の学者」も、嘘つき騙しの宗教にクルった・・・・詐欺師であり、×。 >>812
大和説が、あまりにも言い負かされるんで 、
とうとうありとあらゆる事を否定し始める、という・・・・になったな。 >>815
>このスレでは誰も
「天地開闢以来、大和天皇家が列島を一元支配して来た」 なんて事は主張してないぞ
天皇の支配や皇国史観の話はそもそもスレ違いだ<
Yahooで、
東大と京大を渡り歩いて「イリヒコ」という人物と畏友である事を誇り、
「漢籍の書棚」の作者である「天誅」とい称する・・・・大和説男が、
「天地開闢以来、大和天皇家が列島を一元支配して来た」説
である事を肯定していた。 >>817
>>(セレモニーや墓は、破綻が来るまで)
後になればなるほど「進化拡大する傾向」があるもの。<
>後になって出先の将軍風情の進化拡大したときには、
本国の王の墓はもっと大規模になってるんだよ
九州でもしょぼい前方後円墳を作り続けてるだろ?ww<
親魏倭王印や魏の臣下の銀印の身分を貰っていた九州倭国は、
魏の薄葬令の制約をもろに受けるが、
「東征毛人五十五國」をした東征将軍は、制約を受けず、
征服した毛人たちを威圧するためにも、巨大化をした。 >>101
>それなら、晋書に書かれた、
命じた皇帝は司馬氏、裴松之は東晋の役人
清朝の考証学者である趙翼なども、晋書はデマや誤報、
くだらないゴシップを信じ過ぎると低い評価を行なっている。
>邪馬臺國という狭い地域名の地(久留米付近)に変わっていた。
作り話はいらない
>邪馬壹國が古文古型であった。
紹煕本は12世紀末の版本
>版本での錯誤の有無は、底本写本を介して、写本での錯誤の有無になる。
版本は12世紀以降なのでならない
>後漢書の邪馬臺國は、魏志の邪馬壹國と、対象が違うから、関係がない。
仮説を根拠にするのは循環論法になるから不可 >>822
>>私の話は、清初期の殿本考証での話<
>他本(諸本)とは楊紹和と張元済がすぐれていると言っている紹煕本以外の版本のこと
清初期の殿本考証での話ではない<
「ここで注意すべきは「殿本考証」の性格だ。清朝初期、勅命をうけて清朝学者たちの大成したこの考証は、
現在においてなお、最大の校異・考証集成である。
特に注目すべきは、当時現存していた北宋本・南宋本を、全巻にわたって対照し、記録していることだ。
北宋本(魏志32、蜀志0、呉志12)南宋本(魏志60、蜀志35、呉志71)
しかも、南宋本(「宋本」と記す)については「各宋本」「宋刻一本」という表現のしめすように、数本使用している。<
は、「殿本考証」での話」。
>>((翰苑)その写本の元になるものを「本体」と書いた。<
>>>631ではお前は自分の書いた文だけを引用して、自分の文に返答している
原本(オリジナル)は正本<
原本は不明。
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/kanen-wa.html
に現れた本文の事を「本体」と言った。 >>823
>>隋書は、魏志や後漢書から見れば後代史書であり、<
>「邪馬壹國」と書かれている倭人伝は12世紀以降の数少ない版本<
少なくない。
「ここで注意すべきは「殿本考証」の性格だ。
清朝初期、勅命をうけて清朝学者たちの大成したこの考証は、
現在においてなお、最大の校異・考証集成である。
特に注目すべきは、
当時現存していた北宋本・南宋本を、全巻にわたって対照し、記録していることだ。
北宋本(魏志32、蜀志0、呉志12)
南宋本(魏志60、蜀志35、呉志71)
しかも、南宋本(「宋本」と記す)については
「各宋本」「宋刻一本」という表現のしめすように、数本使用している。」
だから、「「殿本考証」は、北宋本・南宋本以外の残存写本や版本を、
沢山「校異・考証」している事になる。 >>833
>>その倭國は、白村江でも唐と戦った国であり、<
>残念ながら、それ 日本だって金石文でてるから<
残念ながら、その金石文で「日本」を称せたのは、九州倭国と、大和日本国の双方。
九州倭国の方が「日本国」を名乗ったのは、
晋の惠帝の時から、開成四年の遣使の時まで。
大和が日本国を名乗ったのは、隋の文帝の時以後。 >>128
>「殿本考証」での話
北宋本(魏志32、蜀志0、呉志12)南宋本(魏志60、蜀志35、呉志71)は
殿本考証での誤りを正す個所の数
北宋本、南宋本(数本、紹興本系列の本)しか書いてない
他本(諸本)とは張元済の話で、紹煕本以外のこと
>に現れた本文の事を「本体」と言った。
お前が、「本体」などと変な表現の自分のレスに返答していただけ >>834
>>ネットではまだまだ九州説論者が元気で驚いた<
ネットでは、大和説者は、少人数でも大量投稿できるからね。
元気なんじゃなくて、煩いだけ。
史料事実や史料実態からの意味のあることはからの、一切言わない。
最近の研究成果も追ってないし、原典の漢文も読めない 。
そんな連中が3人くらいw。 >>129
これも>>131で回答
お前は更正数を版本数と勘違いし、張元済の話での他本(諸本=紹煕本以外の版本)を
殿本考証の話と勘違いしている >>836
>>(正北抵新羅)倭国中心部は新羅のほぼ真南の九州にあった、<
>「中心部」が間違い
そんなことなんてどこにも書いてないのを脳内妄想で補っているだけ
倭国の西の端が新羅の南って書いてあるんだよ <
新羅に敵対的に抵抗するのは、倭国の本体の中心部。 >>130
白村江の戦いの時点で唐が日本と呼ぶ国が2つあるなんて、古田説はムチャクチャな説だね それよりも『須 王 津』の話だよ
『白猪森』『白猪山』など、
凄い土地を持っていたという話とか、どういう話なんだと思う
国を持っていたのかな >>135
九州に倭王朝があり、畿内にプレ大和朝廷があったはそれほど無茶苦茶とも思えんがな。 日本の記紀神話?
そもそも引用だという話があったり、古代中華の話? 二王朝が並び立っていたのは、大和王朝万世一系の立場からは受け容れ難いのだろう。 >>140
二王朝とか万世一系とかいうレベルじゃないぞ
唐が同時に別の2つの国を同じ名前で呼ぶかアホ!って話だ
脳が腐ってるのか? >>138
この人は、、何が問題だか理解できてないんだろうか 九州説のいう王朝って言葉の使い方がいい加減なだけだと思う
各地には各地の支配者である首長がいて、それが豪族になり、国造なり県主なりと呼ばれるようになる
九州の首長は、奴国が国造(筑紫国造)、伊都国が県主(怡土県主)、末慮国が国造(末羅国造)になっているね
こういうのを全部王朝扱いしても、構わないけどさ、あまり意味のある議論にはならないだろう 名前が違うから別の国だ
と言い張ってたトンデモ珍説が
とうとう辻褄合わなくなって
名前は同じだが別の国だ
と言い出して泥沼
って話だよ
笑い話 >>143
奴国は筑紫国造じゃなくて儺県主だろ、(筑紫国造の同族だろうけど) >>96
>畿内説の人に質問
畿内説にもいろいろあると思いますが、現在の学界では
瀬戸内航行説と日本海航行説ではどっちが有力ですか?
また投馬国はどこだってのが最有力ですか?<
「畿内」なんて、まだ存在していませんでしたから、
この投稿そのものが、嘘つき騙しの詐欺投稿です。
>(邪馬台国九州説の人には聞いてない。あくまで邪馬台国畿内説の場合で)<
邪馬台国なんて文言もありませんし、
大和であっても、「南≠東」ですから、
この投稿そのものが、嘘つき騙しの詐欺投稿ですし、
掲示板は、原則は自由投稿の筈ですし、意見を述べるか述べないか?も自由な筈です。 >>97
「南→東」などの史料事実の否定曲解をしている「大和説学会」では、
魏志倭人伝が大和説にとっては全く不利であり、大和説を破綻させる事も知っているので、
根本的史料である魏志倭人伝には深入りせずに、
始めから、卑弥呼が大和にいた、という「結論先にありき」の循環論法の嘘つき騙し論法で、
国家形成を探るようになっていると思います。
なので、瀬戸内航行も日本海航行も、どちらもほぼ論じられていません。 筑紫で各勢力が激しい権力争いをしているのに、大和の田舎者がそれに参入することは難しい。
政権を大きく揺るがす出来事がない限りね。
そう、例えば白村江の敗戦とか。 畿内説ではない人が畿内説の人に聞きたかっただけだろ >>143
帥升からは博多湾沿岸勢力のみが倭の代表でしょ。
ただ、その博多湾沿岸の主人そのものがしばしば交代するだけで。
他の地域の勢力は博多湾を抑えない限り大陸との交渉はできない。
だからこそ、魏志倭人伝において一大率による伊都から北、すなわち対馬海峡の統括が大事になるんだろう。
ここを押さえた者が倭王となる。
それが白日別(天下を治める国の意、筑紫の別名)の持つ意味だよ。 筑紫で激しい権力争いをしている根拠はないけど、
北部九州で勢力争いがあった場合
新興勢力は本州の大きな勢力と手を組んだほうが有利になる >>141
少なくとも、卑弥呼の直前の後漢の頃は倭の北限が狗邪韓国、倭の南限が倭奴国だから、対馬海峡周辺だけが倭なんだよ。
で、畿内説は倭国大乱の間にそれが畿内まで拡大して畿内が倭の中心になったと言うんだろ?
ぎからみて、そんなに遠くの国を同じ倭という名前で呼ぶかねえ。 >>155
まあ、景行天皇と筑紫の神夏磯姫の関係はそれかもしれないね。
でも八咫の鏡を持っていたのは景行天皇ではなく神夏磯姫の方なんだよね。 後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。 >>99
>新羅の南は、東南の大海=日本海の中にある倭国の対馬
倭国の北は大海の日本海で限られている<
唐会要の「新羅の東南」や「正北抵新羅」でも、魏志倭人伝の行程記載でも 、
どっちにしても倭國は、九州であり、
倭国の北は、半島〜九州の間の大海。
>魏志でも、「韓在帯方之南」「倭人在帶方東南大海之中」であるので
倭人は韓の南ではなく東南 <
唐会要の「新羅の東南」や「正北抵新羅」でも、
魏志倭人伝の「帶方東南大海之中依山島爲國邑」でも行程記載でも 、
どっちにしても倭國は、九州。
>後漢書に注をつけているのだから、「誰も知らないような地名を持ち出して」というのは
「今名邪摩惟」のこと<
だから、李賢は、後漢書とも隋書とも違う別の情報を得たので、
後漢書の邪馬臺國に「今の名」で注を付けた。
>隋書の「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」を知識人は皆知っているから
後漢時代の「邪馬臺」の音が今は訛っていると推測している <
アホ言いなさんな。
李賢は、後漢書の邪馬臺國に注を付けたのであって、
隋書の邪靡堆に注を付けたんではない、んだよ。 記紀の神話では、
榊の枝に八坂瓊之五百箇御統、八咫鏡、青白の布帛をかけ祈祷をしたのは
天磐戸のときに中臣氏の祖の天児屋根と忌部氏の祖の天太玉がやったことだから、
神夏磯媛や熊鰐や五十迹手も同じようなことをして恭順の意をした表したことにした >>161
>どっちにしても倭國は、九州であり、
仮説は循環論法になるので ×
>どっちにしても倭國は、九州。
言張るだけでは日本では ×
>李賢は、後漢書とも隋書とも違う別の情報を得た
誰も知らない
>李賢は、後漢書の邪馬臺國に注を付けたのであって、
後漢書の「邪馬臺」の音が今は隋書の「邪靡堆」と訛っているという推測
つまり、「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」は後漢時代の「邪馬臺國」と同じ国であり
「邪馬壹」ではなく「邪馬臺」を前提として推測している >>106
>畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。<
畿内という文言は、「天子皇帝天皇」の存在を前提とした宗教的な文言であり、
2世紀末には存在しないし、
大和の勢力変化は、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の結果であった可能性が非常に高い。
>纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。<
九州倭国の「東征毛人五十五國」があった事と、
九州倭國の地方の市を監督する「大倭」職がいて、頑張ったから。
>記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。<
神武らに拠る東征建国は、紀元前91年頃。
>大和朝廷の主体は尾張と出雲。<
尾張は、東征毛人55国の中の一つ。
出雲は、国譲りや東征毛人55国でも滅びず、
梁代にも文身國と記録され、残存していた。 >>113
>邪馬台国はヤマト国<
邪馬台国なんて存在しないし、
邪馬壹國女王之所都の事なら、「ヤマト」は、「南≠東」だけでも×。 >>164
>畿内という文言は、
現在使われている地域概念が定着しているので ○
>「東征毛人五十五國」
毛人は東国なので ×
>文身國
出雲が文身國である根拠がないので × 神夏磯姫が三種の神器を掲げたのは、倭王であることを示すためだろうね。
景行天皇とむやみに衝突するのを避けたかったのもあるだろうけど、自らの正統性を示す意味もあったと思う。 >>115
>スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。
近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。 倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。<
倭国大乱もなかったし、
「倭國亂、相攻伐歴年」があったには九州付近であるし、
近畿地方で起きたのは九州倭國の「東征毛人五十五國」。
>結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした大和朝廷だよ。<
大和朝廷もなかった。
>近畿は大和朝廷の最初の討伐ターゲットだったんだな。
大和朝廷は4世紀前後四道将軍で関東東北を征伐する。<
「三道将軍」の派遣は、九州倭國の「東征毛人五十五國」の事。
大和は、その「東征毛人五十五國」に従軍した事を古事記に伝承し、
書紀は、それに出雲方面への戦争に従軍した事を付加して「四道将軍」と改竄した。 >>162
>神夏磯媛や熊鰐や五十迹手も同じようなことをして恭順の意をした表したことにした
恭順を意味するという根拠は? 神夏磯姫は土蜘蛛も退治できないくらいだから
豊前あたりの小国の首長 >>116
>魏志倭人伝 邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。 弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。 奴佳鞮は中臣。 邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。<
九州倭國の共立支配や東征中心は、邪馬壹國と伊都国。
いずれも「姫氏系と天孫族の阿毎氏系の合同王朝の倭奴國の後継的」な国であり、
東征毛人五十五國の中心的な国であったから、
その臣下の呼称が、「東征毛人五十五國」に遺残する事は、幾らでも有り得る。
阿毎氏と姫氏とが婚姻で?合同していた事になる倭奴國(委奴國)からは、
AD57年の遣使の後に、姫氏系の一部が大野の地(卑弥呼が出た地)に分離し、
更に残った倭奴國は、奴國と伊都国に分裂して、
争って乱していたようであり、
そして、伊都国と邪馬壹國が共立中心になって、卑弥呼の共立にこぎつけた。 >>120
>学者にとっちゃ筑紫説なんて無いだろう<
弥生銀座や糸島の繁栄を無視して、
それらを倭国の地方の小国であるかのような言い方をして、
大和が倭国の首都であったかのような説を唱えた西谷は、
「南→東」などの嘘つき騙しもしており、
まあ、まともな人間ではないね。
おそらく皇国史観宗教に狂った・・・・学者。 >>171
~夏磯媛は周防の娑麼の南だから筑紫の魁帥じゃないよ 日本書紀に筑紫の梟帥と書いてあるよ。
他の勢力と組まれないように、先回りして豊前まで来ただけだよ。 >>127
>(陳寿の三国志を評価した後代の人)命じた皇帝は司馬氏、裴松之は東晋の役人<
後代の人である事には違いがない。 そして、この男(ww)は、私が「晋書の筆者」を挙げた事をこっそり隠している詐欺師。
>清朝の考証学者である趙翼なども、晋書はデマや誤報、、くだらないゴシップを信じ過ぎると低い評価を行なっている。<
唐代の晋書の陳寿伝は、司馬氏とは何の関係もなく、「デマや誤報、くだらないゴシップ」ばかりである筈がない。 この・・・・男の、「紹介や評価」の紹介の方が、信頼性が全くない。
>>邪馬臺國という狭い地域名の地(久留米付近)に変わっていた。<
>作り話はいらない<
七支刀の「こうやの宮」の存在や、高良大社の磐井伝承や、久留米付近の古墳や、横穴式石室や、装飾古墳などが根拠。 楽浪滅亡の半島情勢も傍証。
>>邪馬壹國が古文古型であった。<
>紹煕本は12世紀末の版本 <
底本になったのは、写本。
>>版本での錯誤の有無は、底本写本を介して、写本での錯誤の有無になる。<
>版本は12世紀以降なのでならない<
系統の違う版本の底本写本群は、当然12世紀以前のもの。
>>後漢書の邪馬臺國は、魏志の邪馬壹國と、対象が違うから、関係がない。<
>仮説を根拠にするのは循環論法になるから不可<
史料事実の差異を根拠にしているから、循環論法にならない。 まあ、神夏磯姫の筑紫の倭国女王としての権威が弱まっていたのは確かだろうけどね。
オオタラシヒコを利用して、耳垂など以前の邪馬台国の官を倒さなくてはいけなかったからね。
逆にいうと、邪馬台国が九州北部であった痕跡が神夏磯姫の記事に色濃く残っているんだよ。
神武から景行までの間、大和には女王はいないけど、筑紫には八咫の鏡を持つ女王がいて、耳垂などの邪馬台国の官名もまだ残っていたんだ。 筑紫の帥で八咫鏡を持つ。
倭国女王である平原の卑弥呼そのままですな。
卑弥呼の没後、おそらく数十年しか経っていないから、直接の後継者か。 >>131
>>「殿本考証」での話 <
>北宋本(魏志32、蜀志0、呉志12)南宋本(魏志60、蜀志35、呉志71)は
殿本考証での誤りを正す個所の数<
だから、それが 膨大な「最大の校異・考証集成」の「殿本考証」の中での、
北宋本と南宋本の校異・考証箇所。
しっかり読めよ。
>北宋本、南宋本(数本、紹興本系列の本)しか書いてない
他本(諸本)とは張元済の話で、紹煕本以外のこと<
それが、「殿本考証の説明」を書いた張元済の話。
しっかり読めよ。
>>(太宰府の翰苑の元の原文)に現れた本文の事を「本体」と言った。<
>お前が、「本体」などと変な表現の自分のレスに返答していただけ<
お前が、「本体」という文言を曲解した事を咎めただけ。 >>176
>後代の人である事には違いがない。
晋の後の時代に三国志を評価したのは誰かと訊ねている
>「晋書の筆者」を挙げた
「晋書」の評価が低いのは書いてあげた
>唐代の晋書の陳寿伝は、
陳寿ではなく三国志の評価を訊ねている
>七支刀の「こうやの宮」の存在
って何?
>〜などが根拠。
だから仮説であり作り話は ×
>底本になったのは、写本。
>系統の違う版本の底本写本群は、当然12世紀以前のもの。
それはどこにあるのかを訊いたが応えはない
>史料事実の差異を根拠にしているから
字が違うから別の国というのが仮説だから × >>180
>だから、それが 膨大な「最大の校異・考証集成」の「殿本考証」の中での、
>北宋本と南宋本の校異・考証箇所。
それはおれが最初から言ってること
お前は「殿本考証」で北宋本と南宋本の他にその他(諸本)があると書いていた
途中で話を変えてごまかすな
>「本体」という文言を曲解した事を咎めただけ。
お前が自分のレスに返答してるから教えてやって
おかしな「本体」を訂正してやっただけ >>126
>親魏倭王印や魏の臣下の銀印の身分を貰っていた九州倭国は、
>魏の薄葬令の制約をもろに受けるが、
畿内で最大級の古墳が作られる時代は、魏がとっくに滅びたあとだぞ
その頃にも本国だとザラコクが主張する九州ではしょぼい前方後円墳しか作ってないよな?
魏の薄葬令なんて関係ない時期でも、九州に巨大古墳はない
つまり倭国の中心とはほど遠い土地だ 畿内説はすぐ卑弥呼より後の時代の話を持ち出して話をそらすんだよな。 もうこれを書くのも何度目か、なんだが
日本書紀 巻第十四
大泊瀬幼武天皇 雄略天皇
別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連連、未詳何姓人奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」是以、大連爲奏於天皇使留居于角國。
是、角臣等初居角國而名角臣、自此始也。
この小鹿火宿禰を「倭王」だとか言うやつはいないよ
八咫鏡持っている=倭王、じゃないんだよ
神夏磯姫も当然、倭王ではない >>133
>お前は更正数を版本数と勘違いし、張元済の話での他本(諸本=紹煕本以外の版本)を
殿本考証の話と勘違いしている <
していない。
そんな事は始めから判っている。
「ここで注意すべきは「殿本考証」の性格だ。
清朝初期、勅命をうけて清朝学者たちの大成したこの考証は、
現在においてなお、最大の校異・考証集成である。
特に注目すべきは、当時現存していた北宋本・南宋本を、全巻にわたって対照し、記録していることだ。
北宋本(魏志32、蜀志0、呉志12)
南宋本(魏志60、蜀志35、呉志71)」
と書いてあるんだから、
「当時」とは、殿本考証の時であり、
「全巻にわたって対照し、記録」とは、
殿本考証の時の「北宋本」部分と「南宋本」部分の、それぞれでの、考証箇所数だ。
お前は、日本語も読めない・・・・アホだ。 九州説は、白村江敗戦後まで九州王朝が存続してるっていうんだから、
そこが否定されたらもう意味なしだろ >>183
>畿内で最大級の古墳が作られる時代は、魏がとっくに滅びたあとだぞ
箸墓は卑弥呼の時代ではなかったのか? >>135
>白村江の戦いの時点で唐が日本と呼ぶ国が2つあるなんて、<
釈日本紀や晋書や唐会要や新唐書の情報もあるが、
根本的には、旧唐書などの、
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本。」
記載が根拠だ。
>古田説はムチャクチャな説だね<
釈日本紀や晋書や唐会要や新唐書や旧唐書などの記載を否定するなんて、
大和説は、ムチャクチャな説だね。 それらに、唐が日本と呼ぶ国が
同時に2つもあるとは書いてないよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています