急成長する新興企業のワンマン社長などがそうであるが、年齢。学歴などを問わず、
徹底した能力主義・成果主義で人材を重職に抜擢する人事政策をとる者は、
降格人事も情け容赦なく行う。織田信長と明智光秀の関係がその典型であろう。
 明智光秀の前半生は詳らかではない。通説に従えば土岐氏庶流明智氏の出で、
斎藤・若狭武田・朝倉氏家臣を経て、足利義昭の側近となり、義昭と信長の連絡役となった。
その後光秀は才能を信長に認められて寵臣となり、織田家中で初の城持ち大名となる。(諸説あり)。
本能寺の変の一年前 光秀は家臣へ宛てた書状の中で信長に対する盲目的なまでの感謝と崇敬を吐露している。
 しかし、信長の気まぐれなのか、些細なことで不興を買った光秀は所領を召し上げられ、
まだ征服していない土地を新両として与えられる。新両は自分の力で獲って来い、というわけである。