天下人のナンバー2を語ろう
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>>38
明智秀満
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E7%A7%80%E6%BA%80
有能なナンバー2の資質として挙げておきたい点は、「場合によってはトップに異論・苦言を言えること」である。
これが出来るナンバー2がいない組織はイエスマンばかりで、トップが間違った判断をした時に修正を行う装置が無い欠陥を抱え込むことになる。
上記ウィキペディアに見る逸話を読むと、明智秀満は親分にズケズケと諫言する熱血漢である。
斎藤利三と並ぶ明智家の重臣であり、男子のいない光秀の後継者に成り得る立場でもある。
琵琶湖を馬で渡る、など虚実相い交じったエピソードを持つ人物なので、次期大河ドラマ「麒麟がくる」でも出番が多そうだ。 >>1の中で北条時政は【盟友】ではなく【親族】だな。兄弟と違うけど。
というか、時政をナンバー2になったのは頼朝時代ではなく実朝時代。
実朝は傀儡将軍なので実質ナンバー1とも言える。 松井も武井も本能寺後光秀を天下人にするために集結してないのに
勝手に光秀の家臣になりたがってたことにするな
光秀幕臣説ヲタは日本史板でも大河板でも大暴れしてるな
幕臣ヲタによれば光秀は足利義昭の側近ナンバー1で
次期将軍としてふさわしい立ち位置にいたというのだが
永禄年間の「明智」を光秀だとしても足軽衆という雑用係にすぎんというのに 秀吉は家康を牽制する対抗馬として弟秀長を抜擢し、官位や石高で家康に並ばせた。
秀長没後は竹馬の友である利家を重用、これまた秀長の代わりに持ってきた。
豊臣政権の不幸は、将来の家康台頭を予見して 抜擢した2人が予想より早く没したことである。
これは蒲生氏郷にも言える。
野心家のナンバー2を掣肘する役目を負っていたナンバー3の不在が家康の幸運。 >>46
利家も秀長も家康より年上だ
家康よりも先に死ぬことが予見できなかったわけではないだろ
秀吉の失策は徳川を善人に見すぎたことにある
秀頼の叔母である江を自分の養女にして徳川秀忠に嫁がせ
徳川秀忠に秀頼の後見人になってもらおうとした
利家や秀長に期待していたなら自分の養女はそっちへ嫁がせなければならなかった
結局、秀頼の叔母が徳川に嫁いでいようが
秀頼は叔母の夫であり正室の父である徳川に殺されてしまったが 記者: 「秀頼公を殺せ」と指示しましたか?
家康: 言ってないと思います。
秀忠: 「潰せ」とは言いましたが、「殺せ」とは・・・、記憶に無いっす。 日本史上最高のナンバー2は井上コーチ
というわけで 50get >>48
秀吉が晩年に設けた五大老は幼君を支えるための集団指導体制であるが、
この中でも徳川家康がダントツの実力者であるので、秀吉没後そう遠くない時期に崩れることは、
秀吉は予見していたんだと思う。
制度論としての五大老は家康VS四大老という構造を本質的に有している。
前田利家亡き後、その跡を継いだ利長が家康の最初の標的となり敢え無く陥落、次の標的は会津の上杉景勝となった。 このあと、五大老は徳川・前田VS毛利・上杉・宇喜多と分裂するわけだが、「四大老は家康の押さえ役」という秀吉の裏構想はまあ機能したと言える。
従来、毛利輝元は安国寺恵瓊や石田三成に説得され西軍総大将に祭り上げられた凡将の見方が多い。 しかし近年では「毛利輝元は意外に積極的だった」という見方がなされている。
小田原征伐時、輝元は秀吉より聚楽第留守居役を仰せつかり、「この城を輝元に預け、皆は輝元を天下殿と思え」という秀吉の言葉も残っている。
小早川隆景在世中の話だが、秀吉は「東国は徳川、西国は毛利の仕置に任せる」と言ったことがあり、 輝元はその時の感激を書状にして隆景に送っている。
三成の決起後、家康の留守居を追い出して大坂城西の丸に収まった毛利輝元が浅野長政を除く四奉行を従えて秀頼を奉戴する姿は、秀吉の描いた未来予想図どおりではなかったか。 >>51
秀吉が家康に天下を取られることを生前から見越していたなら
朝鮮出兵で投入した全兵力と全財産を掛け全大名に命じて
徳川を潰したらよかったじゃん
秀吉存命中ならできたと思うぞ
違うだろ
家康は秀吉の妹旭姫を娶り秀吉の生前は
「私こそは太閤様の義弟」「私がいる限りは義兄上さまに甲冑を着させません。
私になんでもお命じください」と豊臣家一門のような顔をしていたんだよ
秀吉はすっかり騙された 源義経が兄頼朝の勘気を蒙った理由を歴史書はいくつか挙げている。
頼朝の許しを得ずに後白河法皇から官位を貰った、平氏討伐の功績を誇り驕慢な振る舞いが多かった、軍令・軍律を無視してスタンドプレーに走る等々。
要するに義経は人格的に未熟 我儘であり、 義経とそりが合わない讒言魔の梶原景時の報告を頼朝が信じたという事である。
兄弟のコミュニケーション下手がそれに輪をかけて両者の疑心暗鬼を生み、近親憎悪に発展した。
まあ、古くからこういう解釈で兄弟対決は処理されてきた。
後白河法皇の兄弟離間策に嵌められたという解釈もこの文脈上にある。
しかし最近は義経の内心、具体的には兄への対抗心や上昇志向に兄弟対決の原因を求める説がある。
これは法皇が鎌倉幕府に対抗するために義経を取り込んだ、という従来の説を進めて、
義経の側にも「魚心あれば・・・」なんとかの気負いがあった、という見方である。
無論、義経には最初から頼朝への叛意があったわけではない。
源義朝の嫡子であり政治手腕と人望に勝る武家の棟梁たる兄に対するリスペクトを抱きながらも、
軍事的才能は自分の方が上で、母の身分を別にすれば自分も源氏の棟梁としての資格は十分にある、という自尊心が義経にあった、とする解説である。
義経の驕慢さも根っこはココだと言うわけだ。 義経が頼朝に対抗して京都に“第2幕府”を創れるほどの能力も人望もないことはその後の歴史で証明されるわけだが、
平家滅亡直後の義経を見つめる頼朝の眼には相当ヤバい危険分子に移った事であろう。
屋島・壇ノ浦の合戦においては東国遠征軍よりも義経が組織した現地召集部隊が活躍し、
法皇周辺には反鎌倉派の公家や寺社勢力も存在した。
また、間の悪いことに頼朝とソリの合わない叔父の源行家も義経の元に転がり込んできた。
義経は義経で、 完全に終わっているのに自らの復権を信じて止まない平時忠の娘を妻に娶るというサプライズを見せてくれる。
義経は存在すること自体が 「第二の木曽義仲」である。 これはもう討たれて当然である。 存在することが罪というなら、上総広常もそれにあたるね。
軍事力では御家人中最大であり、鎌倉幕府初期の実質ナンバー2とも言える。
広常は朝廷からの独立志向が強く、政治路線としては頼朝と正反対だった。
傲慢無礼で不遜な態度であり、後世の高師直や上原元秀のルーツみたいな男だ。
この人も討たれて当然の人ですよ。 (尤も、広常に謀反の意志は無く、討滅後、頼朝は悔やんだという。) 鎌倉幕府の成立については歴史学界では2つの対立見解がある。
東国国家論(主に東京大学系)と権門体制論(主に京都大学系)がそれで、
現在も論争が続いている。幕府草創期にも路線対立があって、
この際京都の貴族とはサヨナラして坂東は独立独歩でやっていこうという考えと、
朝廷とは上手に付き合って自治権の拡大を志向する考えで、上総広常は前者の代表格である。
富士川の戦い後、すぐさま平氏討伐の上洛を果たそうとする頼朝に対し、
広常はまずは坂東を固めることを進言した。
頼朝への臣従を明らかにしない常陸佐竹氏への討伐進言は、元々広常と佐竹氏が所領争いをしており、広常の私怨の側面が大きいが、
頼朝は「広常は『なんで、今後も京都に気を遣わねばならんのだ』と常々語っていた。」と、
証言しているので、広常は真正の東国独立派だったのだろう。
結局、1183年10月、いわゆる「寿永の宣旨」によってこの路線問題は決着するのだが、
単なる偶然か、この2か月後に広常は誅殺されている。
義経もそうだが、政権ナンバー2が消されることによって「鎌倉幕府」は成立をみる。 立花道雪は大友宗麟の家臣にしておくのはもったいない人物だ。 主君と家臣が逆だったらよかったのに。
宗麟は凡将ではなかったが、晩年の凋落がすさまじい。 立花なんてまた地方の小城主にすぎんのに
大河板にいる宗茂ヲタか 道雪の話を無理やり宗茂に結びつけようとするアンチってどうよ 大友宗麟も名将の部類に入ると思うが、道雪や高橋紹運などの優秀な家臣団に恵まれれたところが大きい。
最盛期には8カ国の太守となり、天下をも射程圏に入れる立場になった。 しかし、結果はご覧のとおり。
息子に家督を譲ったとはいえ、家運がダダ下がりの中でキリスト教にのめり込む宗麟の姿を
立花道雪はどう見てたんだろうか? >>66
領地の多寡にかかわらず、家臣がどんどん離反していく主家に留まり、老体に鞭打って最後まで忠義を尽くす道雪の人生哲学がいいんだよ。
「武士は二君にまみえず」というのは平和な江戸時代の「あるべき武士像」であって、源平合戦の頃より、武士は主君をころころ替えるのが当たり前だった。
道雪の同僚 高橋鑑種は毛利元就のヘッドハンティングを受けて大友家を離れようとした。
別に俺は宗茂オタではないが、立花道雪の薫陶と名将高橋紹運のDNAが、戦国武将の“完成形”である立花宗茂(ちょっと盛ってみましたw)を生み出したと思う。
立花道雪は知略・実戦に優れ、文化面にも心得がある。 戦国武将としては最高クラスの武将だよ。 >>67
最後まで忠義を尽くした忠臣なら楠木正成や真田信繁もそうだと思うが
ここは忠臣スレではなく天下人のナンバー2スレだぞ?
そもそも大友宗麟が天下人ではないのに大友宗麟の忠臣が
天下人のナンバー2などであるはずもない
完全なスレチ >>69
不比等のどこが凄いのか正直よくわからない。 正直、この人は名前負けと違うんかと。
正直、詳しく説明してもらうと助かるのですが正直。 黒田長政はその遺書の中で『関ヶ原で徳川に天下を獲らせたのは自分と父親である。』と述べている。
だが、実の所、関ヶ原の勝敗を決定的にしたのは長政よりもむしろ吉川広家であろう。
実際に広家は出雲15万石から防長二ヶ国29万石余石の恩賞を受けた。
しかし、この評価は広家にとって心外であり、自分への恩賞などとんでもない話であった。
関ヶ原合戦で見せた広家の西軍サボタージュはあくまで毛利本家を守るためであって、
その結果が毛利本家の改易とあっては本末転倒である。
広家の必死の嘆願の結果、彼に与えられるはずだった領国に毛利家が転封され、
吉川家は毛利本家の家臣のまま岩国3万石の領主となった。
幕府は吉川を独立した大名にしようとしたが、毛利本家がそれを認めなかった。
本家の為に良かれと思ってしたことがその後250年も本家の恨みを買い、
反対に徳川から厚遇を得たのは人生の皮肉である。 風雲急を告げる幕末、長年疎遠だった毛利本家の危機を救うために奔走したのが
十二代岩国領主吉川経幹である。
第一次兆州征伐の折には長州藩と幕府・朝廷の間を調停し、
第二次長州征伐(四境戦争)の際には芸州口の戦いに活躍した。
この四境戦争の勝利が徳川幕府崩壊の引き金になったのは周知の通りである。
徳川に天下を獲らせ吉川は、徳川から天下を奪ったことで
「関ヶ原」の失敗に始末を付けることが出来た 江戸幕府を下から支えた弾左衛門こそ幕府ナンバー2だな >【外様】 藤堂高虎 (>>1)
>立花道雪の薫陶と名将高橋紹運のDNAが、戦国武将の“完成形”である立花宗茂を
生み出した (>>67)
藤堂高虎も立花宗茂も外様大名としては異例の厚遇を得た人物だが、
高虎は豊臣秀吉の死後さっさと豊臣家を見限って、関ヶ原前より家康になびいてその信頼を得たのであるのに対し、
宗茂はバリバリの西軍、負け組からの敗者復活である。共に三代の徳川将軍に仕え、
重用された理由は武将としての才能は勿論のこと、その人柄も大きい。特に宗茂はその面が顕著である。
脇坂や松倉などの日和見参加組には見られない、宗茂を貫く主家への徹頭徹尾の忠誠心の厚さが、
仇敵徳川家にとっては非常な魅力に映った。宗茂を語るにはやはり立花道雪と高橋紹運の二人の父は外せない。 <ウィキペディアから一部引用>
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは、その直前に徳川家康から法外な恩賞を約束に東軍に付くように誘われたが、
宗茂は「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い」と言い拒絶した。
家中でも重臣・薦野増時は西軍に勝ち目なしと東軍への味方を進言したが、「勝敗に拘らず」と増時を留守に残し西軍に参加した。
そして石田三成率いる西軍に属し、伊勢方面に進出する。
・・・・・・・関ヶ原から大坂城に逃げ帰った宗茂は籠城・徹底抗戦を毛利輝元に進言したが、
吉川広家の「家康は毛利家を不問に付す」という話を信じてこれを却下してる。
んで、柳川に逐電した宗茂は改易と。
じゃが、「勝ち組」広家と「負け組」宗茂はしばらくして立場が逆転する。
人生何が起こるか、わからんね。 立花ヲタが必死に立花宗茂を徳川家康のナンバー2にしようと常駐してる
大河板も日本史板も荒らしてる >>82
立花宗茂って、あまりにパーフェクトヒューマン過ぎて、逸話をそのまま信じられないこともあるね。
まあ逸材であることは事実だろうが、「日本無双」とか聞くと少し引く。
>>83
敢えて言うなら家康のナンバー2というより秀忠・家光のナンバー2だな。相伴衆。そういう意味では伊達政宗とも似ている。
宗茂と違って政宗は天下の副将軍気取りの大大名だから、こちらは本当のナンバー2だな。
仙台城だったか瑞巌寺だったか、に天皇を迎える御幸の間があったらしいし、徳川と伊達は一種の競合関係か?
戊辰戦争時には輪王寺宮を東武皇帝に担ぎ、権征夷大将軍になったとの見方もあるし(かなり眉唾w)、
この「伊達中華思想」もなんかワラカス。 >>84
立花ヲタって往生際悪いよね
連日次期大河は立花宗茂で決定したとネットに連投したり
天下のナンバー2は立花宗茂だといったり
自演が酷い 自分が気に食わないレスはみんな同一人物に見えるやつって
うざいし格好悪いな 立花が徳川政権のナンバー2はあり得ないだろ
築城家で大坂の陣の先鋒で和子入内に汗をかいた藤堂にはまったく及ばない
本拠地の場所や石高の差がそれを証明している >>89
家光は酒井忠勝じゃないかな
家綱なら知恵伊豆か保科正之か 松平忠昭は家康の外孫であると同時に養子になっている。
家格は譜代大名だが、
実質的には親藩大名であり、“弟”である御三家の藩祖たちより20歳程の年齢差を考えれば、
家康死後の秀忠体制下での松平忠昭は徳川一族の最長老ということになろうか。
大坂夏の陣後、家康の特命で忠明は大坂藩主となり、戦災で灰塵に帰した大坂の再建にあたることになった。
家康がこの大役に忠明を抜擢したのは単に自分の孫だからという理由ではあるまい。
実際に忠明は大坂の復興と市街地拡大に手腕を発揮し、後世に「水都大阪」と呼ばれる基礎を作った。
松平忠明は豊臣秀吉・五代友厚と並ぶ大阪建設の偉人として再評価されつつある。
また二代将軍秀忠は死の間際に忠明を井伊直孝と共に大政参与(家光の後見人)に任じた。
松平忠明は石高・官位において御三家の下風に立つが、年齢・経綸に加えて幕政においても
事実上の徳川一門筆頭となった。 松平忠明は大坂の陣に参加した親族衆で、忠直・忠輝が改易された結果、
唯一の存在になったからな 土井利勝は家康の御落胤という俗説がある。(『徳川実紀』など)
西田敏行主演のドラマではその設定でやってた。肖像画だけでいうと、似てるっちゃあ似てる。
秀忠は実の兄弟より、この2人の「 」付き兄弟の方を信頼してたとしたら、 秀忠も本当は寂しい奴だったのか、と。(TT) >>86
こんな所まで来て立花憎しに凝り固まってるお前が余程酷いよ
ヲタに意見するなら該当スレでやってこい 俺が未だに彼女がいないのは立花のせい。 おまえに俺の心の痛みがわかってたまるか >>97
立花専用ヲタスレは一人で回しているので誰も来ないからって
他のスレ荒らししているお前が邪魔だよ
おまえのために立てた立花専用ヲタスレでお前一人でやってれば済む話 このスレのどのレスが気に入らないのか 具体的にレス番言ってろ 紀州の資産家殺人事件も新幹線刺殺事件も黒幕は立花だからだ 立花がいついかなるときも
天下人のナンバー2かそれに近い立場だったことは一度もない
よってスレ違い >>104
また立花ヲタが立花こそは天下人のナンバー2だという長文コピペするよ だから、立花が天下のナンバー2って書いてるレス番ってどれよ?
アンチ立花の過剰反応だろ? >>107
スレタイは読めないのか?
名前がでることすら不相応なんだよ どう見ても立花の評判を落としたいがための自作自演だろ
相手にするなよ 弾左衛門が幕府のナンバー2というレスはあるけどなw なんだよ、アンチ立花の自演かよw
ていうか、スレの前の方で戦国大名も平安王朝もOKって書いてるじゃん。
過疎スレだし楽しくやろうぜ どこが? アホですか?
厩戸王は摂政でも皇太子でもないし、十七条憲法も後世の創作だぜw
真田信繁が大坂の陣に参加してなかったら「真田幸村が実在しないっていうのと一緒じゃん」
とは言えるがな。 今のところ「聖徳太子」の政治実績 ≠ 厩戸王の業績 つーこと。
>>114
やり直し 実績に誇張があるのと実在そのものを否定するのは、似て非なるものがあるのでは 誇張と捏造は似て非なるものがあるが、その議論は「聖徳太子」スレで 捏造と言い切ってしまうのも危険な気がするがスレの内容と逸れていくので割愛
最強のNO2といえば藤原道長か北条義時を推す 幼君や傀儡を頭に戴くナンバー2はスレの主旨からはちとズレるな。
やはり、ここは藤原冬嗣だろうよ。
藤原四家の中でも一番パッとしない北家の再興を図り、20世紀半ばに至るまで
天皇家に次ぐ家格を維持した人物だからな。 最高権力者としての期間も徳川家より長い。 >>122
一の郎党、と称されたようだからいいと思う しかし総スカンな状況はいかがなものかね
もっと上手く立ち回れなかったのか 木曽義仲の没落後、京都に陣取った幕府軍にあって梶原景時は土肥実平とともに
播磨・美作・備中など5か国の守護に任じられた。 いわば西国探題に近い役割である。
治承・寿永の内乱後、和田義盛に代わって侍所別当になる。
石橋山合戦では平家方に属し、頼朝の南関東制圧後に頼朝に帰参した“外様”の景時が
頼朝の「一ノ郎党」に駆け上がる姿は、後年の明智光秀や井伊直政に通じる。
また、武勇よりも事務能力に長けていることが出世の理由であり、自らの失脚が二代将軍頼家の没落に繋がった点は石田三成を彷彿とさせる。
この場合、北条時政が徳川家康の役回りと言えようか。
梶原景時は讒言によって義経や畠山重忠を陥れたとされ、その人物評価は当時からすこぶる悪い。
しかし、彼には彼なりの“道理”や“信念”があっての行動であろうし
それゆえに頼朝と頼家 二人のボスに重用されたと考えるべきである。独裁者のニーズに唯一応えられた人材が景時ではなかったか?
事実、景時の没落を契機に源氏将軍家は滅亡へと向かうのである。 中途入社組が出世するにはプロパーとは違う方法でトップに認めてもらうしかない。
同僚の欠点や不正を社長に報告する梶原は頼朝にとっては貴重な目であり耳だった。
こういう人物をナンバー2に抜擢するのもけだし当然であり、梶原もそこを見越しての行動だろう。 義経は木曽義仲の後継者だったかもしれんね。
西国武士や源氏内部の反頼朝のシンボルにはなりえたし
本人も側近もそう自覚してた。 ◆中国三大悪女と言えば、漢の呂后・則天武后・西太后が鉄板であるが、
はて? 日本の三大悪女って誰になるのかな?とちょいと検索してみた。
林真須美・畠山鈴香・木嶋佳苗かと思いきや、出てくる名前は北条政子・日野
富子・淀殿。
うーむ、違和感がある。銭ゲバの富子はいいとしても、政子と淀殿を悪女と呼ぶのは如何なものか? 定番の3人よりすっと悪い女がいるはずである。
日本三大悪女は藤原薬子・美福門院・阿野廉子だと考えている。
この中でも薬子が一番始末が悪い。この女は日本の歴史を変えた、いや、
変えようとして変えそこなった。(続く) ◆「薬子の変」―――最近は「平城太上天皇の変」とも言うらしい。
桓武天皇と嵯峨天皇という有名どころに挟まれた平城天皇は在位期間の短さゆえか影が薄い。
しかし、調べてみるとこの人はなかなか有能な政治家である。
蝦夷征討や平安遷都で膨大な国費を浪費した父・桓武天皇の政策を改めて経費削減を図り、
官職の整理や地方政治の立て直し等、改革意欲が伺えて非常によろしい。
だが傍に居たナオンがよろしくなかった。
寵姫というのは才色兼備の魔性の女と言うのが定番だ。英邁な平城天皇を狂わせた薬子はかなりの“上玉”だったに違いない。カワイイよ薬子。
もしも薬子の変が成就したのなら、現在の京都市は間違いなく無かった。
藤原北家の摂関政治も無かった。 奈良の都が1000年続き、黒船来航後は
勤皇の志士たちは奈良市内を闊歩することになる。素晴らしい。激しく萌える。
薬子と平城上皇の壮大な「歴史逆行実験」はある男によって粉砕される。 ◆坂上田村麻呂と聞くと思い浮かべるのは蝦夷征討。近頃は敵将の阿弖流為の人気に押され気味だが、
桓武天皇の寵臣の印象が強い田村麻呂は次代嵯峨天皇の危機を救った武将だという事はあまり注目されない。
軍権を握る田村麻呂が嵯峨天皇側についたことで平城上皇の逆クーデターは簡単に制圧される。
本来、国を二分するような大乱の香りを醸し出していたのに、歴史オタとしてこの結果は残念でならない。
しかし、薬子の最期はドラマチックである。ヒトラーと同じく帝都奈良で服毒自殺。
楊貴妃もそうだが、「傾国の悪女」の末路はこうでなくちゃあね。(おしまい)。 坂上田村麻呂亡き後の嵯峨天皇朝のナンバー2は藤原冬嗣となったが、 これは本人の才能もあるが、
薬子の変で藤原式家が没落したことが大きいね。 >>136
藤原冬嗣は嵯峨天皇が東宮時代に東宮職の役人を勤めて気に入られた
薬子の変は
平城天皇+藤原式家VS嵯峨天皇+藤原北家
の戦いだった 上皇側が勝ってたら空海はどうなってたか。 日本文化も大きく変わっていただろう 織田信長と源頼朝にナンバー2はいない。 天才型独裁者だから。
徳川家康にはナンバー2ばかりである。 バカだからである。 藤堂高虎の幕府への貢献は大きい。
だから高禄を拝領しても譜代から反発は少なかった 城普請で大活躍した高虎
駿府城大手門前に屋敷を構えた高虎
大坂の陣で先鋒をつとめた高虎
和子入内に奔走した高虎 高虎はもとは豊臣秀長の家老だろ
外様で32万石って特別多いわけではない
関ケ原で家康に恩を売った豊臣恩顧の外様で
もっともらったのはいくらでもいるから 関ヶ原の論功行賞で8万石→20万石になった。 単純に考えると20→32万石への増加分は
徳川幕府への忠勤に対するご褒美ということになる。 しかも、他の大名は増封の代わりに遠隔地へ飛ばされている。
これに対し高虎は関西の要地を与えられているので幕府の信任の度合いが違う。
家格も「願譜代」だし。 井伊家が表の譜代筆頭なら、藤堂は裏の譜代筆頭と言えるかも。 譜代筆頭は酒井氏
徳川家と姻戚なら一代に限り譜代格の家はたくさんあるし
高虎の特別待遇ではない
「願譜代」筆頭は前田家で、次いで池田家 それは家レベルの話だな
高虎は人レベルで特別待遇されたよ >>141
歴史学者の桑田忠親の評価では大した武功はなかったとのこと。
軍人ではなく、政治家・テクノクラートとして出世した武士なのかな。 >>145
藤堂高虎は大老にも老中にもなれていないのだし
天下人のナンバー2というには役不足、過大評価 本多正信も老中にはなってない
土井利勝も大老にはなってない >>149
そのあたりもナンバー2じゃないだろ
初期は崇伝だの天海だの家康側近の怪僧が牛耳ってて
大老も老中も置かれていないし >>150
じゃあ、家康(時代)のナンバー2と呼べる人物は誰だろうか? 秀忠は別にして。
それと、このスレで言うナンバー2ってのは、大老だとか管領だとか、そういう肩書や序列を指してるんじゃないでしょ。
トップへの影響力、 組織への貢献度、 そういう広義のナンバー2.
それに、ナンバー2論というのは別に名前挙げていくだけでなく、 中身を議論していくのが
楽しいのであって、 格の上下を云々するだけでは ハナシとしてはつまらんし。 「天下人のナンバー2を挙げよう」ではなく、「語ろう」だからね。
佐々木道誉について語りたいけど、語るだけの知識が無いので、とりあえず名前だけ挙げときます >>152
意味が通じない奴だな
肩書の上下をいっているのではないだろう
藤堂高虎は願譜代だから天下人のナンバー2だというレスに対して
大老にも老中にもなっていない譜代格など意味がないというレスがついたのであって
そもそも序列関係ないのならば願譜代の話を出すのが間違っている
自分の推しメンが違うと言われたからって八つ当たりするのは違うぞ >願譜代だから天下人のナンバー2だというレス
そんなレスはありません。
>関西の要地を与えられているので幕府の信任の度合いが違う。
> 家格も「願譜代」だし(中略)藤堂は裏の譜代筆頭と言えるかも
幕府の信任が厚い願譜代の大身だから、 ‘裏の譜代筆頭’という比喩が言えるかも
というレスはある。
>大老にも老中にもなっていない譜代格など意味がないというレス
に対して、大老や老中だけがナンバー2というわけではない、というレスだな。
このスレの前の方にあるBSTBSの{THEナンバー2」の面子を見てみ。
「ナンバー2」論を語るのに、面白い人物を語れればいいんだよ。
おまえさんは以前から 他のレスに噛みついてばかりいるが、 一度自分でもハナシ語ってみろよ。
名前挙げるだけの一行レスか、 他人のレスに頓珍漢な文句つけて勝利宣言するだけの男ではないはずだ。
吉川広家や明智秀満なんかも名前出てるぜ。 ちなみに上記番組に藤堂高虎も入ってるし。
過疎スレなんだから楽しくやろうぜ。
> 関ヶ原関係のドラマや映画では、本多正信が家康のナンバー2として描かれることが多い。 石田正継 (ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E6%AD%A3%E7%B6%99
生年不詳だが信長や上杉謙信と同世代で関ヶ原合戦まで存命。 肖像画を見るとなかなか貫禄ある。
石田三成の右腕と言えば島左近だが、 三成が中央政界で如何なく能力を発揮できたのも、
この有能な親父さんの影のサポートがあったればのことだろう。
自戒の念を込めて 父親に感謝。 >>158
君って、天才だね。 子供の頃は神童って呼ばれてたでしょ?
>>159
服部半蔵も「THEナンバー2」で取り上げてたね。
http://www.bs-tbs.co.jp/no2/60.html
家康はナンバー2だらけだw 三成オタは夜郎自大で困るね
夜郎自大だから三成オタなのか とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
2X9 日本だけの評価ではない日本史も優秀で便利。天下というと昔で今は手狭だろうね。
かといって評価は上がり続けているだろう。 ◆徳川家康の嫡男 松平信康節婦事件について、従来の説では織田信長が優秀な信康を見て、
息子の信忠の代には織田家は徳川家に逆転されると警戒し、信康切腹を命じたとされていた。
しかし近年、松平信康自害事件について研究が進み、信康の自害は信長の命令で行われたのではなく、
家康派 対 信康派 という徳川家内部の対立の結果、家康が自ら決断したという説が有力となった。 これとともに「織田信忠凡庸説」も影を潜め、
織田信忠と松平信康の現在の評価は逆転しつつある。
(続く) ◆織田信長が天下統一を目指して、短期間に版図を急拡大することに成功したのは、
やはり家臣の活用が卓越していたからだろう。
身分や家柄に関係なく、能力主義の人事評価で家臣団を競わせ底しることで
組織を活性化させる部下管理術は現代のベンチャー企業の先駆けと言える。
信長の場合、少しやり過ぎの所があり、後に本能寺の変の遠因に繋がる。
この社内競争主義は息子たちも例外ではなかった。 ◆信長の嫡男・信忠は側室腹であるが正室に男子がいなかったので幼少時から織田家の跡取りとして扱われた。母が信長の愛妾だった由もある。
成人して家督を譲られ、形式上は織田家の送料となる。
しかしながら、信忠も養子に行った弟たち同様に父信長の家臣の一人にすぎなかった。
美濃の領主・岐阜城主 織田秋田城介信忠である。
羽柴秀吉が中国方面軍司令官、明智光秀が近畿軍司令官、柴田が北陸、滝川が関東と、
有力家臣がそれぞれエリア責任者になったように、信忠も武田勝頼攻めの総大将となった。
信忠は見事に大役を果たし、織田政権ナンバー2の面目を果たした。 ◆織田信忠は史料が乏しく、その性格までは解らないが、家康の息子で言うと、
松平信康や結城秀康のような、気性の激しい野心家タイプではなくて、
秀忠や孫の保科正之のような控えめで父親に従順な性格ではなかったかと推測する。
気性の激しい者同士なら信長・信忠関係はとっくに破綻していただろう。
徳川家だけでなく武田信玄・義信親子も然り。信忠は気難しい親父の猜疑心を取り除く術をちゃんと心得ていた武将だった。
やがて、本能寺の変が起こる。京都に居る兵は本能寺の信長軍と妙心寺の信忠軍のみのはず。
異変の第一報を聞いた信長は 「さては城介(信忠)の謀反か!」と叫んだそうだが
、事実なら、信長は心の底では息子を信頼していなかったということになる。
天才型独裁者にはナンバー2はいないーーー信長最期の信忠評がこれをよく物語っている。
(終わり) 今の時代に必要とされているのは高師直であろう。
すべての権威を否定し破壊しつくす。 江戸時代の幕政の改革者といえば、日本史の授業でも色々と人名と政策を覚えさせられる。
最近は徳川綱吉でさw改革者扱いである。
しかし、安達泰盛が幕政改革者として教科書に出てくることはない。
ここはもう少し教科書編纂者も考えた方がいい。 >>1
秀吉の参謀に黒田如水・竹中重治、 家康には本多正信は定番だが、信長・頼朝・尊氏にはいないな。
ナンバー2というか右腕みたいな。 >>158
三成は天下人ではないが、天下人候補だな。 人望が無い、とよく言われるが西軍にあれだけの面子を集めたのは
やはりそれなりの力量があったことは言える。
隠れ西軍の直江兼続と佐竹義宣は親友。 近年 石田三成が見直されている。
豊臣政権において最大の大名である徳川家康が天下を手に入れたことは、一見
当然の成り行きと言った趣がある。
三成は家康の天下取りに立ちはだかった「抵抗者」としての役割を担わされているが、
本来、天下の相続人は「秀頼・三成」コンビであって“横入り”したのは家康の方である。
思うに、秀吉→家康という同世代の老人による継承はやや違和感が伴う。
織田信長の一番弟子の羽柴秀吉が信長の後継者となったことを考えれば、
秀吉の後継者も彼の一番弟子である三成がその後継者に就くのが順当であろう。
徳川家康が天下人になるならば、それはポスト信長・ポスト秀吉ではなくて、
ポスト今川義元であるべきであった。 義元が織田を破って畿内を制圧し、
義元没後に天下を奪う、というルートが家康本来の天下獲りコースだったと思う。
清和源氏の“嫡流”源頼朝の鎌倉幕府創設、源氏将軍亡き後の自称嫡流足利尊氏の幕府再興とくれば、次も足利一門の有力大名が天下人になる、というのが、
「歴史の王道」である。
王朝交代上等の中国ならいざしらず、万世一系の天皇家を頂き、下克上が普通の戦国時代にあっても氏素性にうるさい日本においては、
織田信長の「横入り」は異常である。頼朝―尊氏―義元―家康と言う流れが日本歴史のあるべき姿だった。
いや、正確に言うと、今川義元→徳川信康というルートである。(続く) 徳川氏が清和源氏新田流というのは仮冒であって、これは無視しておくが、
信康は今川義元の甥であり、母方の生家関口氏(瀬名氏)も由緒正しき駿河今川氏の一門であり、父家康とは比べ物にならない毛並みの良さである。
桶狭間での織田の勝利が無ければ、今川氏真の天下”を奪って徳川幕府を開いていたのは徳川信康だった蓋然性が高い。 仮想歴史はこの辺に留めるが、
徳川信康に既視感があるのは、どうも武田(諏訪四郎)勝頼にある。
武田勝頼が武田家の惣領というよりも名門諏訪氏の嫡流と言うイメージを持つのと似た、信康の「今川臭」が信康謀反事件に関係したことは間違いない。
信康事件の真相は未だ不明の部分が多いが、最近の研究では家康と信康の不和説、浜松衆(家康派)と岡崎衆(信康派)の対立などが指摘されている。
徳川家家中の派閥争いとの見立てだが、その視点に立てば家康と信康は
“ライバル関係”にあったということである。武田氏対策でも意見の違いがあり、
家康は信康を抹殺する必要があったのだろう。
信康に叛意があったとは思えないが、既視感と言えば「武田義信事件」を思い起こさせる。
義信の正室は今川義元の娘であり、信康といい、義信といい、今川縁者は親父から始末される運命にあるようだ。 >>182
参謀なら頼朝には梶原景時か大江広元かな。
尊氏の場合は途中まで直義がそれっぽい。 大江広元は官僚。 現代で言うと事務方トップの内閣官房副長官。
広元は北条義時の時代に幕府ナンバー2になった。 この人ってどこか周恩来に似ている。
周恩来は「不倒翁」という渾名があり、毛沢東時代に最高幹部が次々に粛清されても
渾名のとおり、絶対に失脚することがなかった。 源氏政権から北条政権へと代わってもその地位に
揺るがなかったのは官僚としての実務能力が買われただけではなく、政治感覚も秀でていたためであろう。
大江広元がその真価を発揮したのは承久の乱であった。
後鳥羽上皇の挙兵を知った幕府側は、当初、鎌倉に籠って上皇軍を迎え撃つ戦略であったが、
文官の広元は積極的に京都に撃って出るべし、と上洛を進言した。 この積極策が鎌倉内部の求心力を高め、
関東御家人の北条氏離反を未然に防ぎ、早期の内乱収束をもたらした。 >>186
尊氏は高師直だろ
直義は尊氏の実弟で何なら征夷大将軍になれてしまう血筋なのでちょっと違う 七カ国の守護を務めた佐々木道誉さんのこともたまには思い出してあげて下さい。 木曽義仲が京都に幕府を開いていたことに教科書は何故か触れない。
チーム頼朝とチーム義仲は相似形である。 例えば、
北条時政 − 中原兼遠 北条政子 − 巴御前
三浦義澄 − 根井行親 九条兼実 − 松殿基房 etc
そして、大江広元に対応するのが、
太夫房覚明
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%9A%E6%98%8E
ウィキを読むと覚明は筋金入りの反平家であり、義仲死後は何と鎌倉に暮らしていた。頼朝にも近侍しているところなど興味深い人生を送っている。
文筆に長けた人物だったので、回想録などを書いておれば第一級の史料になっていただろう。 >>188
平清盛 高師直 織田信長の3人は破壊と創造を行った剛腕政治家だった。
(高師直は創造はしなかったが)
足利直義は北条泰時を手本としたように、改革派というよりは復古派であり、
実際に朝廷や寺社勢力などの旧支配層との協調路線を取った。
次代のニーズに応えたのは尊氏―師直ラインであり、直義派はいずれ滅亡する運命にあった。
>>189
後光厳天皇擁立の際、天皇の祖母の広義門院を口説いて治天に引っ張り上げたのも佐々木道誉の功績。 あそこで北朝を再建出来たことで足利幕府も持ち直した。
観応の擾乱後は佐々木道誉と斯波高経が幕府の両巨頭。 >>191
佐々木道誉は足利の譜代でも連枝でもない
ときに尊氏に反逆し何なら征夷大将軍の座を足利から乗っ取ろうとしてた
(道誉は宇多源氏なので清和源氏の足利に遠慮する必要もない)
感じも見受けられるから
室町幕府のナンバー2というのは違和感ある >>193
別に身内じゃないとナンバー2ってわけでもなかろう。豊臣政権のナンバー2は家康だし。(まあ義理の弟だが)
応仁の乱の山名も宝治合戦の三浦も外様。
佐々木道誉が尊氏に逆らったのってプロレスだろな。全然、真剣じゃない。高師直だってやってるし。
むしろ外様衆で道誉ほど尊氏に尽くした奴はいない。
南北朝時代ってのはみんな自己都合でころころ旗色を変える時代だ。尊氏京大からしてさっさと北朝を裏切って南朝に帰参するわ、
一門筆頭の足利(斯波)高経なんかもコロコロ寝返っては帰参し、を繰り返している。
道誉が将軍を狙ってたなんちゅう説は初めて聞いた。 まあ空想は自由だけど。 ごめん訂正。
別に身内じゃないとナンバー2ってわけでもなかろう ×
別に身内じゃないとナンバー2ではない、ってわけでもなかろう 〇 平清盛の下でのナンバー2は平重盛になると思うが、 徳川信康、源義経・範頼、足利直義、豊臣秀次・・・・と、
親族がナンバー2になるとそいつは碌な最期を迎えていない。大搭宮護良親王もそうだ。
親族でナンバー2で無事だったのは豊臣秀長と徳川秀忠ぐらいか?
江戸時代になると世の中が安定してきたので保科正之もいるけどね。
近現代では秩父宮さんがちと危なかったかも。 本多正信は苦労人で、他人の心や世間の眼を敏感に読み取る人だった。
徳川家重の側用人の大岡忠光に似て、家康にとって精神的に欠かせない家臣である。 >>195
信康が存命の頃は天下人のナンバー2という立場ではないな ナンバー2といっても、後釜を狙うタイプと徹頭徹尾支えるタイプとあるからね。
秀吉で例えれば、前者は家康で後者は秀長。
さらに参謀タイプも加えると話がまた変わる。
秀吉の参謀は黒田如水か石田三成か。 >>201
補佐役、大番頭、参謀(またはブレーン)、後継者等、いろいろある。
>>1で粗方分類されているが、これに【ライバル型】というのも付け加えてもよさそうだ。
第二次安倍内閣での石破幹事長、 ケネディ政権のジョンソン副大統領などだ理解しやすい。
欧米にはこのタイプが多そうだが、中国・日本など東アジアでは例が少ないような。
日本で行くと 秀吉の下での家康、北条義時の下での三浦義村、後醍醐天皇の下での足利尊氏ぐらいか? 江戸時代から終戦後しばらくまでは田沼沖次は賄賂政治家としてマイナス評価をを受けていた。
ところが70年代頃からは重商主義的・開明的な政策を掲げた「改革派」政治
家として見直されてきた。最近の傾向では、徳川綱吉が「改革派」に仲間入りし、
NHKの複数の歴史番組では“韓国ごり押し”のような綱吉特集を連発させている。
歴史上の人物の再評価・見直しは良い傾向だと思うが、徳川宗春は現在も正当な、
というか公平な評価を得ているかと言うと、どうも、まだまだな気がする。
徳川宗春の「経済観」「人間観」は非常に現代的であり、逆に言うと当時の感覚では「ぶっとんだ」ものがある。
自らの犀作理念を記した著書(『温知政要』)も出すなどユニークな存在であり、
そのために質素倹約を奨励する徳川吉宗と対立、結局失脚させられた。まあ、ここまでは分かる。
しかし、現在においても宗春が吉宗のライバル、敗者止まりの評価なのが個人的には納得いかない。 現代の日本史学界に「吉宗信者」みたいな人たちが多数派を占めて、宗春の評価見直しを妨害しているのだろうか? 田沼沖次× 田沼意次〇
犀作理念× 政策理念〇
どーせ誰も読んでいないだろうが、一応・・・ 【ライバル】型ナンバー2に入りそうなのが源三位頼政。
頼政が保元・平治の乱という二つの政変を上手く泳いだのは彼自身の政界遊泳術の故ではなく、単に権力者美福門院との関係の結果なのだが、兎に角、中央政界の置ける清和源氏の命脈を保ち、且つ家格の上昇をみたことは注目してよい。
平清盛からの信任が厚かったことは間違いなく、ゆえに清和源氏として初めて公卿に列せられることになった。
まあ、“ライバル”というには清盛との実力差があるし、ナンバー2と呼べるほど政権中枢にいたわけでもないのだが、頼政の決起が歴史の大転換をもたらしたのでヨイショしてみました。 >>192
貞和の政変で斯波父子が失脚してからは佐々木道誉が幕府NO。2だよ。
ただ、その時の将軍は義詮なので尊氏のNO.2ではないけど、一応スレタイには合ってる。
>>121
北条時政が幕府No。2になったのは三代将軍実朝の代から。頼朝時代は重臣の一人でそれ以上の権力も地位も無い。
但し、義経が逐電した直後に頼朝の名代として京都へ乗り込んできた時は、文字通りの幕府No、2として大いに辣腕を発揮した。逆に言うと、京都政界における予想外の時政の声望を知った頼朝は、以降時政の徴用を止めるきっかけになったのかもしれない。
大江広元も幕府No.2になったのは北条義時の時代から。 源頼朝の時代のNO2は、源氏御門葉の席次第一位の平賀義信ではないか。
ただし、官位の序列で言うと、頼朝の次に官位が高いのは大江広元だった。
頼朝がもっと長生きしていれば、鎌倉幕府の序列は史実と違ったものになったかも知れない。 平賀一族である大内氏は畿内周辺で6か国(一説では7か国)の守護を務め、
承久の乱では上皇軍の主力を担った。
また大内氏以外の西国御家人が上皇方についているので、兵力動員から見れば
承久の乱は幕府内の東西対決であった。 大内惟義
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%83%9F%E7%BE%A9
頼朝時代というより、和田義盛滅亡後、北条氏に対抗できる最大の御家人。
承久の乱で上皇方が勝利すれば、 後鳥羽院政下での京都幕府≠フ執権になっていただろう。
正確に言えば承久の乱直前に惟義は死去しているので執権は倅の惟信だろうが。 北条時政は将軍家の外戚ではあったが、頼朝時代は親戚扱いはされなかった。
単なる御家人の一人。 要地の守護に任じられたているので重視はされていたが、
それは別に外戚だったからではない。
外様御家人にとって、頼朝の源氏一門優遇は複雑なものがあっただろう。 >>193
室町幕府のナンバー2は管領だろ
高師直までは執事と呼ばれていたが
佐々木道誉はその下の四職でそこまで権限ないよ 序列・位階ではそうなんだろうが、実力者という意味では「実質ナンバー2」という表現はある。
義詮時代の貞治の変で斯波高経が失脚してからは佐々木道誉が事実上のナンバー2.
義詮も天下人だし、時代的にも未だ創業期みたいなもんだからスレタイには合ってる。
ただ尊氏時代はまだナンバー2ではないな。>佐々木道誉
有力大名の一人。 佐々木道誉を尊氏の盟友とまで呼ぶのは少し違うかもしれんが、位置的には羽柴秀長存命時代の
前田利家には近いかな。 その時代の政権ナンバー2は秀長と千利休。
実力と官位で言うと徳川家康だったがこの人は政権の蚊帳の外だし。家康がナンバー2になるのは
秀次事件の後 秀吉が耄碌してからだな。
閑話休題
序列の話をすると 田沼意次が老中筆頭になったのは晩年であり、「田沼時代」の大半は
松平武元(この人は優秀で意次も頭が上がらなかった)が老中筆頭。
山名宗全も管領の畠山や斯波よりも実力があった。
このスレはそういった実力者を語るスレだと思うんだが、そういう歴史知識が不足し、
中学校レベルの知識の肩書や地位にこだわる人が多いな。
少し残念。 自由な発想で歴史を掘り下げてみればいいのに。 役職は下でもこいつのほうが力があった
俺が推すのだから間違いない
それが分からないのは中学生レベルだという阿呆w >>211
地位が2番目でないからナンバー2ではない、とか言い出したら
>>1のほとんどはナンバー2とちゃうがなw
>>212
貞治の変とか斯波高経とかは教科書に出てこんからなあ。 一般の企業でも、副社長や専務より実力者常務が実質社内ナンバーツーということはある。(うちの会社がそうなんだが)
室町幕府は有力守護の寄り合い所帯だから序列と実力順位がずれることがある。
山名宗全・大内義興・三好長慶・伊勢貞親などがいい例。(後二人は守護ではないが)
室町幕府以外では、葉室顕隆 土御門通親 長崎円喜も有名。
日本ではこういった「影の実力者」が多い。 源頼朝 − 梶原景時
徳川家康 − 藤堂高虎
北条義時 − 大江広元
この組み合わせは最強だった。 『立斎旧聞記』によれば立花宗茂について家光は、「この日本の諸大名歴々たりといえども、
御前にて頭巾をかぶり、殿中にて杖をつく人は宗茂の他は一人もないとのことである。
今すでに、将軍の寵遇、他に超えたり」と、他者ならば不敬扱いされるような特別扱いを許していたとされている。
また、家光が能、狂言、茶席など宴を催した際や、上洛、大坂行き、日光社参など、何処に行っても宗茂を相伴し、
『徳川実紀』にも「当代御咄衆の第一にて御待遇並々ならず」とある。 ナンバーワンとナンバーツーより様々に能力の高い武将や軍師がたくさん登用されて、
国家として人材がうまく有用に使われていく世の中がよいと思う。 The ナンバー2って番組、歴史の話なのに全部言い切って話すのな。
凄えいい加減、本当に無駄な知識にしかならないな。 日本史って、ナンバー2が鵜がしてきた歴史なんだよね。 関白・執権・管領・老中・・・・。
明治以降 な規格制度が出来たが、これは一種の集団指導体制で、今の安倍政権も安倍・菅・麻生・二階の集団指導政治。
まあ、信長・秀吉時代と吉田茂がワンマン政治かな。東條は微妙。 推古天皇→蘇我馬子
天智天皇→中臣鎌足
源頼朝→北条時宗 ガースー「成人式の馬鹿騒ぎでアベコロナが大爆発や
よっしゃ、よっしゃあ」 ガースー「宣言解除して聖火リレーでばか騒ぎ
アベコロナが大爆発や
よっしゃ、よっしゃあ」 日本の歴史なんかしょせん天皇トップのナンバー2争いなんだよね
でないとただの侵略者だから 天皇と天下人とは別の存在
天皇は「王道」であり天下人は「覇道」
その覇道の世界でも源実朝が飾り物(覇道の中の王道)であり実権(本当の覇道)は北条氏にあった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています