X



天下人のナンバー2を語ろう
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/11(金) 23:39:27.84
武家政権の草創期、天下人の創業を支えた優れたナンバー2達がいた。
ナンバー2はトップとは異なる資質・能力を持って、組織作りに貢献した。
そんな異能のナンバー2を主軸に、組織論・部下の心得まで またーり語りましょう。

【盟友】   北条時政  佐々木道誉  前田利家
【ブレーン】 大江広元  夢窓疎石   天海
【外様】   梶原景時  明智光秀   藤堂高虎
【筆頭】   和田義盛  高師直    井伊直政
【親族】   源義経   足利直義   豊臣秀長
【黒幕】   二条良基  千利休    茶屋四郎次郎
【重鎮】   三浦義村  斯波義将   土井利勝
【参謀】   黒田如水  本多正信 

※あくまで個人の主観です。 似たタイプを仕分けてみました。
0049日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/27(日) 19:42:00.19
記者: 「秀頼公を殺せ」と指示しましたか?

家康: 言ってないと思います。
秀忠: 「潰せ」とは言いましたが、「殺せ」とは・・・、記憶に無いっす。
0050日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/27(日) 19:44:57.73
日本史上最高のナンバー2は井上コーチ
というわけで 50get
0051日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/27(日) 21:14:56.30
>>48
秀吉が晩年に設けた五大老は幼君を支えるための集団指導体制であるが、
この中でも徳川家康がダントツの実力者であるので、秀吉没後そう遠くない時期に崩れることは、
秀吉は予見していたんだと思う。
制度論としての五大老は家康VS四大老という構造を本質的に有している。
前田利家亡き後、その跡を継いだ利長が家康の最初の標的となり敢え無く陥落、次の標的は会津の上杉景勝となった。 このあと、五大老は徳川・前田VS毛利・上杉・宇喜多と分裂するわけだが、「四大老は家康の押さえ役」という秀吉の裏構想はまあ機能したと言える。
 従来、毛利輝元は安国寺恵瓊や石田三成に説得され西軍総大将に祭り上げられた凡将の見方が多い。 しかし近年では「毛利輝元は意外に積極的だった」という見方がなされている。
 小田原征伐時、輝元は秀吉より聚楽第留守居役を仰せつかり、「この城を輝元に預け、皆は輝元を天下殿と思え」という秀吉の言葉も残っている。 
小早川隆景在世中の話だが、秀吉は「東国は徳川、西国は毛利の仕置に任せる」と言ったことがあり、 輝元はその時の感激を書状にして隆景に送っている。
 三成の決起後、家康の留守居を追い出して大坂城西の丸に収まった毛利輝元が浅野長政を除く四奉行を従えて秀頼を奉戴する姿は、秀吉の描いた未来予想図どおりではなかったか。
0054日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/28(月) 19:12:38.02
>>51
秀吉が家康に天下を取られることを生前から見越していたなら
朝鮮出兵で投入した全兵力と全財産を掛け全大名に命じて
徳川を潰したらよかったじゃん
秀吉存命中ならできたと思うぞ

違うだろ
家康は秀吉の妹旭姫を娶り秀吉の生前は
「私こそは太閤様の義弟」「私がいる限りは義兄上さまに甲冑を着させません。
私になんでもお命じください」と豊臣家一門のような顔をしていたんだよ
秀吉はすっかり騙された
0055日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/28(月) 20:59:47.55
源義経が兄頼朝の勘気を蒙った理由を歴史書はいくつか挙げている。
頼朝の許しを得ずに後白河法皇から官位を貰った、平氏討伐の功績を誇り驕慢な振る舞いが多かった、軍令・軍律を無視してスタンドプレーに走る等々。
要するに義経は人格的に未熟 我儘であり、 義経とそりが合わない讒言魔の梶原景時の報告を頼朝が信じたという事である。
兄弟のコミュニケーション下手がそれに輪をかけて両者の疑心暗鬼を生み、近親憎悪に発展した。 
まあ、古くからこういう解釈で兄弟対決は処理されてきた。 
後白河法皇の兄弟離間策に嵌められたという解釈もこの文脈上にある。
 しかし最近は義経の内心、具体的には兄への対抗心や上昇志向に兄弟対決の原因を求める説がある。 
これは法皇が鎌倉幕府に対抗するために義経を取り込んだ、という従来の説を進めて、
義経の側にも「魚心あれば・・・」なんとかの気負いがあった、という見方である。 
無論、義経には最初から頼朝への叛意があったわけではない。
 源義朝の嫡子であり政治手腕と人望に勝る武家の棟梁たる兄に対するリスペクトを抱きながらも、
軍事的才能は自分の方が上で、母の身分を別にすれば自分も源氏の棟梁としての資格は十分にある、という自尊心が義経にあった、とする解説である。
義経の驕慢さも根っこはココだと言うわけだ。 
0056日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/28(月) 21:06:14.47
義経が頼朝に対抗して京都に“第2幕府”を創れるほどの能力も人望もないことはその後の歴史で証明されるわけだが、
平家滅亡直後の義経を見つめる頼朝の眼には相当ヤバい危険分子に移った事であろう。  
屋島・壇ノ浦の合戦においては東国遠征軍よりも義経が組織した現地召集部隊が活躍し、
法皇周辺には反鎌倉派の公家や寺社勢力も存在した。 
また、間の悪いことに頼朝とソリの合わない叔父の源行家も義経の元に転がり込んできた。
義経は義経で、 完全に終わっているのに自らの復権を信じて止まない平時忠の娘を妻に娶るというサプライズを見せてくれる。 
義経は存在すること自体が 「第二の木曽義仲」である。  これはもう討たれて当然である。
0057日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/28(月) 23:46:39.22
存在することが罪というなら、上総広常もそれにあたるね。
軍事力では御家人中最大であり、鎌倉幕府初期の実質ナンバー2とも言える。
広常は朝廷からの独立志向が強く、政治路線としては頼朝と正反対だった。
傲慢無礼で不遜な態度であり、後世の高師直や上原元秀のルーツみたいな男だ。
この人も討たれて当然の人ですよ。 (尤も、広常に謀反の意志は無く、討滅後、頼朝は悔やんだという。)
0058日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/29(火) 09:55:25.45
鎌倉幕府の成立については歴史学界では2つの対立見解がある。
東国国家論(主に東京大学系)と権門体制論(主に京都大学系)がそれで、
現在も論争が続いている。幕府草創期にも路線対立があって、
この際京都の貴族とはサヨナラして坂東は独立独歩でやっていこうという考えと、
朝廷とは上手に付き合って自治権の拡大を志向する考えで、上総広常は前者の代表格である。
富士川の戦い後、すぐさま平氏討伐の上洛を果たそうとする頼朝に対し、
広常はまずは坂東を固めることを進言した。
頼朝への臣従を明らかにしない常陸佐竹氏への討伐進言は、元々広常と佐竹氏が所領争いをしており、広常の私怨の側面が大きいが、
頼朝は「広常は『なんで、今後も京都に気を遣わねばならんのだ』と常々語っていた。」と、
証言しているので、広常は真正の東国独立派だったのだろう。
結局、1183年10月、いわゆる「寿永の宣旨」によってこの路線問題は決着するのだが、
単なる偶然か、この2か月後に広常は誅殺されている。
 義経もそうだが、政権ナンバー2が消されることによって「鎌倉幕府」は成立をみる。
0061日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/30(水) 03:05:59.12
立花道雪
0062日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/30(水) 20:04:15.45
立花道雪は大友宗麟の家臣にしておくのはもったいない人物だ。 主君と家臣が逆だったらよかったのに。
宗麟は凡将ではなかったが、晩年の凋落がすさまじい。
0063日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/30(水) 20:39:15.81
立花なんてまた地方の小城主にすぎんのに
大河板にいる宗茂ヲタか
0064日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/30(水) 21:23:01.50
道雪の話を無理やり宗茂に結びつけようとするアンチってどうよ
0065日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/30(水) 21:49:02.50
大友宗麟も名将の部類に入ると思うが、道雪や高橋紹運などの優秀な家臣団に恵まれれたところが大きい。
最盛期には8カ国の太守となり、天下をも射程圏に入れる立場になった。 しかし、結果はご覧のとおり。
息子に家督を譲ったとはいえ、家運がダダ下がりの中でキリスト教にのめり込む宗麟の姿を
立花道雪はどう見てたんだろうか? 
0066日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/30(水) 21:49:43.28
道雪って宗茂時代よりも小さい領主だったよな
0067日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/30(水) 23:44:58.49
>>66
領地の多寡にかかわらず、家臣がどんどん離反していく主家に留まり、老体に鞭打って最後まで忠義を尽くす道雪の人生哲学がいいんだよ。
「武士は二君にまみえず」というのは平和な江戸時代の「あるべき武士像」であって、源平合戦の頃より、武士は主君をころころ替えるのが当たり前だった。
道雪の同僚 高橋鑑種は毛利元就のヘッドハンティングを受けて大友家を離れようとした。
別に俺は宗茂オタではないが、立花道雪の薫陶と名将高橋紹運のDNAが、戦国武将の“完成形”である立花宗茂(ちょっと盛ってみましたw)を生み出したと思う。

立花道雪は知略・実戦に優れ、文化面にも心得がある。 戦国武将としては最高クラスの武将だよ。
0068日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/31(木) 12:09:31.82
>>67
最後まで忠義を尽くした忠臣なら楠木正成や真田信繁もそうだと思うが
ここは忠臣スレではなく天下人のナンバー2スレだぞ?
そもそも大友宗麟が天下人ではないのに大友宗麟の忠臣が
天下人のナンバー2などであるはずもない

完全なスレチ
0070日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/31(木) 20:40:22.15
>>69
不比等のどこが凄いのか正直よくわからない。 正直、この人は名前負けと違うんかと。
正直、詳しく説明してもらうと助かるのですが正直。
0071日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/02(土) 10:46:53.98
大宝律令を作ったことしか思い浮かばない
0072日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/02(土) 21:11:53.42
豊臣秀吉ーー黒田如水コンビが最強でしょ
0075日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/03(日) 17:14:02.64
黒田長政はその遺書の中で『関ヶ原で徳川に天下を獲らせたのは自分と父親である。』と述べている。
だが、実の所、関ヶ原の勝敗を決定的にしたのは長政よりもむしろ吉川広家であろう。
実際に広家は出雲15万石から防長二ヶ国29万石余石の恩賞を受けた。
 しかし、この評価は広家にとって心外であり、自分への恩賞などとんでもない話であった。
関ヶ原合戦で見せた広家の西軍サボタージュはあくまで毛利本家を守るためであって、
その結果が毛利本家の改易とあっては本末転倒である。
 広家の必死の嘆願の結果、彼に与えられるはずだった領国に毛利家が転封され、
吉川家は毛利本家の家臣のまま岩国3万石の領主となった。
幕府は吉川を独立した大名にしようとしたが、毛利本家がそれを認めなかった。
本家の為に良かれと思ってしたことがその後250年も本家の恨みを買い、
反対に徳川から厚遇を得たのは人生の皮肉である。
0076日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/03(日) 17:16:27.19
風雲急を告げる幕末、長年疎遠だった毛利本家の危機を救うために奔走したのが
十二代岩国領主吉川経幹である。 
第一次兆州征伐の折には長州藩と幕府・朝廷の間を調停し、
第二次長州征伐(四境戦争)の際には芸州口の戦いに活躍した。 
この四境戦争の勝利が徳川幕府崩壊の引き金になったのは周知の通りである。
徳川に天下を獲らせ吉川は、徳川から天下を奪ったことで
「関ヶ原」の失敗に始末を付けることが出来た
0077日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/06(水) 15:47:52.61
江戸幕府を下から支えた弾左衛門こそ幕府ナンバー2だな
0079日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/08(金) 17:45:48.84
>【外様】 藤堂高虎 (>>1
>立花道雪の薫陶と名将高橋紹運のDNAが、戦国武将の“完成形”である立花宗茂を
生み出した (>>67)

藤堂高虎も立花宗茂も外様大名としては異例の厚遇を得た人物だが、
高虎は豊臣秀吉の死後さっさと豊臣家を見限って、関ヶ原前より家康になびいてその信頼を得たのであるのに対し、
宗茂はバリバリの西軍、負け組からの敗者復活である。共に三代の徳川将軍に仕え、
重用された理由は武将としての才能は勿論のこと、その人柄も大きい。特に宗茂はその面が顕著である。
 脇坂や松倉などの日和見参加組には見られない、宗茂を貫く主家への徹頭徹尾の忠誠心の厚さが、
仇敵徳川家にとっては非常な魅力に映った。宗茂を語るにはやはり立花道雪と高橋紹運の二人の父は外せない。
0081日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/08(金) 21:05:35.88
<ウィキペディアから一部引用>
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは、その直前に徳川家康から法外な恩賞を約束に東軍に付くように誘われたが、
宗茂は「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い」と言い拒絶した。
家中でも重臣・薦野増時は西軍に勝ち目なしと東軍への味方を進言したが、「勝敗に拘らず」と増時を留守に残し西軍に参加した。
そして石田三成率いる西軍に属し、伊勢方面に進出する。

・・・・・・・関ヶ原から大坂城に逃げ帰った宗茂は籠城・徹底抗戦を毛利輝元に進言したが、
吉川広家の「家康は毛利家を不問に付す」という話を信じてこれを却下してる。
んで、柳川に逐電した宗茂は改易と。
じゃが、「勝ち組」広家と「負け組」宗茂はしばらくして立場が逆転する。  
人生何が起こるか、わからんね。
0083日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/08(金) 21:14:53.72
立花ヲタが必死に立花宗茂を徳川家康のナンバー2にしようと常駐してる
大河板も日本史板も荒らしてる
0085日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/08(金) 22:16:27.75
>>82
立花宗茂って、あまりにパーフェクトヒューマン過ぎて、逸話をそのまま信じられないこともあるね。
まあ逸材であることは事実だろうが、「日本無双」とか聞くと少し引く。

>>83
敢えて言うなら家康のナンバー2というより秀忠・家光のナンバー2だな。相伴衆。そういう意味では伊達政宗とも似ている。
宗茂と違って政宗は天下の副将軍気取りの大大名だから、こちらは本当のナンバー2だな。 
仙台城だったか瑞巌寺だったか、に天皇を迎える御幸の間があったらしいし、徳川と伊達は一種の競合関係か?
戊辰戦争時には輪王寺宮を東武皇帝に担ぎ、権征夷大将軍になったとの見方もあるし(かなり眉唾w)、
この「伊達中華思想」もなんかワラカス。
0086日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/09(土) 10:56:13.57
>>84
立花ヲタって往生際悪いよね
連日次期大河は立花宗茂で決定したとネットに連投したり
天下のナンバー2は立花宗茂だといったり
自演が酷い
0087日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/09(土) 11:03:29.42
自分が気に食わないレスはみんな同一人物に見えるやつって
うざいし格好悪いな
0088日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/09(土) 16:36:21.46
立花が徳川政権のナンバー2はあり得ないだろ
築城家で大坂の陣の先鋒で和子入内に汗をかいた藤堂にはまったく及ばない
本拠地の場所や石高の差がそれを証明している
0090日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/09(土) 19:59:58.10
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した

理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから

女達は犯され
老人と子供は燃やされた

悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ

そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた


朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人10万人大虐殺

https://youtu.be/iBIA45CrE30
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ
https://www.youtube.com/watch?v=sYsrzIjKJBc
https://www.youtube.com/watch?v=SiHp41uWo1I
https://www.youtube.com/watch?v=zYBCTRryFP8
https://youtu.be/-wF31xbwqPM
0092日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/09(土) 22:32:55.05
通のおススメは松平忠明
0093日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/10(日) 20:35:47.67
松平忠昭は家康の外孫であると同時に養子になっている。
家格は譜代大名だが、
実質的には親藩大名であり、“弟”である御三家の藩祖たちより20歳程の年齢差を考えれば、
家康死後の秀忠体制下での松平忠昭は徳川一族の最長老ということになろうか。
  大坂夏の陣後、家康の特命で忠明は大坂藩主となり、戦災で灰塵に帰した大坂の再建にあたることになった。 
家康がこの大役に忠明を抜擢したのは単に自分の孫だからという理由ではあるまい。
実際に忠明は大坂の復興と市街地拡大に手腕を発揮し、後世に「水都大阪」と呼ばれる基礎を作った。
  松平忠明は豊臣秀吉・五代友厚と並ぶ大阪建設の偉人として再評価されつつある。
 また二代将軍秀忠は死の間際に忠明を井伊直孝と共に大政参与(家光の後見人)に任じた。
松平忠明は石高・官位において御三家の下風に立つが、年齢・経綸に加えて幕政においても
事実上の徳川一門筆頭となった。
0095日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/10(日) 22:08:00.92
松平忠明は大坂の陣に参加した親族衆で、忠直・忠輝が改易された結果、
唯一の存在になったからな
0096日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/11(月) 09:44:31.19
土井利勝は家康の御落胤という俗説がある。(『徳川実紀』など)
西田敏行主演のドラマではその設定でやってた。肖像画だけでいうと、似てるっちゃあ似てる。
秀忠は実の兄弟より、この2人の「 」付き兄弟の方を信頼してたとしたら、 秀忠も本当は寂しい奴だったのか、と。(TT)
0097日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/12(火) 11:52:45.63
>>86
こんな所まで来て立花憎しに凝り固まってるお前が余程酷いよ
ヲタに意見するなら該当スレでやってこい
0098日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/12(火) 13:11:00.04
俺が未だに彼女がいないのは立花のせい。 おまえに俺の心の痛みがわかってたまるか
0099日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/12(火) 13:39:26.49
>>97
立花専用ヲタスレは一人で回しているので誰も来ないからって
他のスレ荒らししているお前が邪魔だよ
おまえのために立てた立花専用ヲタスレでお前一人でやってれば済む話
0100日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/12(火) 13:51:15.36
このスレのどのレスが気に入らないのか 具体的にレス番言ってろ
0102日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/12(火) 14:15:27.38
紀州の資産家殺人事件も新幹線刺殺事件も黒幕は立花だからだ
0104日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/12(火) 14:37:09.16
立花がいついかなるときも
天下人のナンバー2かそれに近い立場だったことは一度もない
よってスレ違い
0106日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/12(火) 15:08:43.89
>>104
また立花ヲタが立花こそは天下人のナンバー2だという長文コピペするよ
0107日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/12(火) 15:34:24.94
だから、立花が天下のナンバー2って書いてるレス番ってどれよ?
アンチ立花の過剰反応だろ?
0109日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/12(火) 15:42:25.55
どう見ても立花の評判を落としたいがための自作自演だろ
相手にするなよ
0111日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/12(火) 15:46:44.78
なんだよ、アンチ立花の自演かよw
ていうか、スレの前の方で戦国大名も平安王朝もOKって書いてるじゃん。
過疎スレだし楽しくやろうぜ
0113日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/12(火) 15:59:37.58
>>112
聖徳太子は実在しません。
0115日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/12(火) 16:26:10.36
どこが? アホですか?
厩戸王は摂政でも皇太子でもないし、十七条憲法も後世の創作だぜw
真田信繁が大坂の陣に参加してなかったら「真田幸村が実在しないっていうのと一緒じゃん」
とは言えるがな。 今のところ「聖徳太子」の政治実績 ≠ 厩戸王の業績 つーこと。

>>114
やり直し
0116日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/12(火) 16:36:06.19
実績に誇張があるのと実在そのものを否定するのは、似て非なるものがあるのでは
0117日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/12(火) 17:21:55.54
誇張と捏造は似て非なるものがあるが、その議論は「聖徳太子」スレで
0118日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/12(火) 17:36:38.99
捏造と言い切ってしまうのも危険な気がするがスレの内容と逸れていくので割愛

最強のNO2といえば藤原道長か北条義時を推す
0119日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/12(火) 17:41:57.82
藤原良房
0120日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/12(火) 21:09:31.35
幼君や傀儡を頭に戴くナンバー2はスレの主旨からはちとズレるな。
やはり、ここは藤原冬嗣だろうよ。
藤原四家の中でも一番パッとしない北家の再興を図り、20世紀半ばに至るまで
天皇家に次ぐ家格を維持した人物だからな。 最高権力者としての期間も徳川家より長い。
0122日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/12(火) 21:46:54.83
強いて言うなら梶原景時
0123日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/12(火) 21:59:17.30
キチガイお断り!
0125日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/12(火) 22:40:37.32
しかし総スカンな状況はいかがなものかね
もっと上手く立ち回れなかったのか
0126日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/13(水) 00:07:43.74
木曽義仲の没落後、京都に陣取った幕府軍にあって梶原景時は土肥実平とともに
播磨・美作・備中など5か国の守護に任じられた。 いわば西国探題に近い役割である。
治承・寿永の内乱後、和田義盛に代わって侍所別当になる。
石橋山合戦では平家方に属し、頼朝の南関東制圧後に頼朝に帰参した“外様”の景時が
頼朝の「一ノ郎党」に駆け上がる姿は、後年の明智光秀や井伊直政に通じる。
 また、武勇よりも事務能力に長けていることが出世の理由であり、自らの失脚が二代将軍頼家の没落に繋がった点は石田三成を彷彿とさせる。 
この場合、北条時政が徳川家康の役回りと言えようか。
 梶原景時は讒言によって義経や畠山重忠を陥れたとされ、その人物評価は当時からすこぶる悪い。
しかし、彼には彼なりの“道理”や“信念”があっての行動であろうし
それゆえに頼朝と頼家 二人のボスに重用されたと考えるべきである。独裁者のニーズに唯一応えられた人材が景時ではなかったか?
 事実、景時の没落を契機に源氏将軍家は滅亡へと向かうのである。
0127日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/13(水) 15:32:01.61
中途入社組が出世するにはプロパーとは違う方法でトップに認めてもらうしかない。
同僚の欠点や不正を社長に報告する梶原は頼朝にとっては貴重な目であり耳だった。
こういう人物をナンバー2に抜擢するのもけだし当然であり、梶原もそこを見越しての行動だろう。
0129日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/14(木) 11:01:03.48
木曽義仲政権のナンバー2は樋口兼光になるかな?
0130日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/15(金) 04:12:08.79
巴御前
0131日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/15(金) 12:25:52.93
樋口今井はニコイチ
0132日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/16(土) 23:19:45.27
義経は木曽義仲の後継者だったかもしれんね。
西国武士や源氏内部の反頼朝のシンボルにはなりえたし
本人も側近もそう自覚してた。
0133悪女論で連投してみる
垢版 |
2018/06/17(日) 15:02:29.66
◆中国三大悪女と言えば、漢の呂后・則天武后・西太后が鉄板であるが、
はて? 日本の三大悪女って誰になるのかな?とちょいと検索してみた。
林真須美・畠山鈴香・木嶋佳苗かと思いきや、出てくる名前は北条政子・日野
富子・淀殿。
 うーむ、違和感がある。銭ゲバの富子はいいとしても、政子と淀殿を悪女と呼ぶのは如何なものか? 定番の3人よりすっと悪い女がいるはずである。 
日本三大悪女は藤原薬子・美福門院・阿野廉子だと考えている。 
この中でも薬子が一番始末が悪い。この女は日本の歴史を変えた、いや、
変えようとして変えそこなった。(続く)
0134悪女論で連投してみる
垢版 |
2018/06/17(日) 15:06:15.67
◆「薬子の変」―――最近は「平城太上天皇の変」とも言うらしい。 
桓武天皇と嵯峨天皇という有名どころに挟まれた平城天皇は在位期間の短さゆえか影が薄い。 
しかし、調べてみるとこの人はなかなか有能な政治家である。
蝦夷征討や平安遷都で膨大な国費を浪費した父・桓武天皇の政策を改めて経費削減を図り、
官職の整理や地方政治の立て直し等、改革意欲が伺えて非常によろしい。 
だが傍に居たナオンがよろしくなかった。
 寵姫というのは才色兼備の魔性の女と言うのが定番だ。英邁な平城天皇を狂わせた薬子はかなりの“上玉”だったに違いない。カワイイよ薬子。
 もしも薬子の変が成就したのなら、現在の京都市は間違いなく無かった。
藤原北家の摂関政治も無かった。 奈良の都が1000年続き、黒船来航後は
勤皇の志士たちは奈良市内を闊歩することになる。素晴らしい。激しく萌える。 
薬子と平城上皇の壮大な「歴史逆行実験」はある男によって粉砕される。
0135悪女論で連投してみる
垢版 |
2018/06/17(日) 15:08:54.59
◆坂上田村麻呂と聞くと思い浮かべるのは蝦夷征討。近頃は敵将の阿弖流為の人気に押され気味だが、
桓武天皇の寵臣の印象が強い田村麻呂は次代嵯峨天皇の危機を救った武将だという事はあまり注目されない。
軍権を握る田村麻呂が嵯峨天皇側についたことで平城上皇の逆クーデターは簡単に制圧される。
本来、国を二分するような大乱の香りを醸し出していたのに、歴史オタとしてこの結果は残念でならない。
しかし、薬子の最期はドラマチックである。ヒトラーと同じく帝都奈良で服毒自殺。
楊貴妃もそうだが、「傾国の悪女」の末路はこうでなくちゃあね。(おしまい)。
0136日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/17(日) 20:11:45.90
坂上田村麻呂亡き後の嵯峨天皇朝のナンバー2は藤原冬嗣となったが、 これは本人の才能もあるが、
薬子の変で藤原式家が没落したことが大きいね。
0137日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/19(火) 17:03:57.93
>>136
藤原冬嗣は嵯峨天皇が東宮時代に東宮職の役人を勤めて気に入られた
薬子の変は
平城天皇+藤原式家VS嵯峨天皇+藤原北家
の戦いだった
0138日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/19(火) 23:57:35.88
上皇側が勝ってたら空海はどうなってたか。 日本文化も大きく変わっていただろう
0139日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/23(土) 21:07:09.04
織田信長と源頼朝にナンバー2はいない。 天才型独裁者だから。
徳川家康にはナンバー2ばかりである。 バカだからである。
0140日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/03(火) 22:24:37.66
藤堂高虎の幕府への貢献は大きい。
だから高禄を拝領しても譜代から反発は少なかった
0141日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/03(火) 22:27:53.86
城普請で大活躍した高虎
駿府城大手門前に屋敷を構えた高虎
大坂の陣で先鋒をつとめた高虎
和子入内に奔走した高虎
0142日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/04(水) 11:13:59.01
高虎はもとは豊臣秀長の家老だろ
外様で32万石って特別多いわけではない
関ケ原で家康に恩を売った豊臣恩顧の外様で
もっともらったのはいくらでもいるから
0143日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/04(水) 22:47:21.56
関ヶ原の論功行賞で8万石→20万石になった。 単純に考えると20→32万石への増加分は
徳川幕府への忠勤に対するご褒美ということになる。 しかも、他の大名は増封の代わりに遠隔地へ飛ばされている。
これに対し高虎は関西の要地を与えられているので幕府の信任の度合いが違う。
家格も「願譜代」だし。  井伊家が表の譜代筆頭なら、藤堂は裏の譜代筆頭と言えるかも。
0144日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/05(木) 14:49:58.13
譜代筆頭は酒井氏

徳川家と姻戚なら一代に限り譜代格の家はたくさんあるし
高虎の特別待遇ではない
「願譜代」筆頭は前田家で、次いで池田家
0145日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/05(木) 20:30:59.65
それは家レベルの話だな
高虎は人レベルで特別待遇されたよ
0146日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/05(木) 22:19:49.98
駕籠のまま登城を許す。
0147日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/05(木) 22:58:07.61
>>141
歴史学者の桑田忠親の評価では大した武功はなかったとのこと。
軍人ではなく、政治家・テクノクラートとして出世した武士なのかな。
0148日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/06(金) 12:02:11.37
>>145
藤堂高虎は大老にも老中にもなれていないのだし
天下人のナンバー2というには役不足、過大評価
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

ニューススポーツなんでも実況