伊都国東遷スレ 3
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1、魏志にある邪馬台国は「ヤマト」であり、倭王権の基礎となった。
2、だたし、その女王、「ヒミコ(日巫女)」とは伊都国の関係者である。
3、平原一号墓の巫女王は、東遷前の先代のものであり、銅鏡による太陽祭祀を主宰する「日巫女」の墓として、最もふさわしい。
<ポイント>
・記紀の伝承がおおむね歴史的事実の繁栄であることが視野に入ってくる
・唐古、鍵と纏向の間にある文化的断絶(銅鐸祭祀断絶と銅鏡祭祀開始)を伊都国勢力の進入から説明できる
柳田康雄の考え方(仮説)に基本的に一致しています。
<参考 URL >
歴史秘話ヒストリア 「女王卑弥呼はどこから来た?」
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「伊都国を掘る」2000年
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784479840541
柳田康雄 「 弥生王権論 伊都国からヤマト国へ」 2016年
http://www.city.itoshima.lg.jp/m043/010/040/070/030/kankotosyo.html >>185
>280mしかない、だろ。
>二点の距離を取るには短すぎ
墓穴の東端からほんの14.8m離れた位置の大柱でどこかの方角を
示しているとか言っている人がいるのですが?
箸中山古墳の、後円部の中心の台から夏至の日の出の方向の直線を引けば、
穴師山山頂脇と穴師大兵主神社をきっちり通って、反対側は前方部の中軸線を
きっちり通るよ
自分で線を引いてみればいい >>187
神道? 鳥居? 神道、鳥居と言えばやっぱり忌部の郷でしょう。 @阿波
忌部の郷 忌部山黒岩 忌部神社旧社地 真立石(上古神社鳥居)
http://i.imgur.com/aaVKHYN.jpg >>189
その前方部の中軸線が曲者。
http://www.geocities.jp/watsns/gesi1.html
このページには「何故か」ないが、別ページの図を見ると箸墓古墳の中軸線はこう見たいだぞ。
http://www.geocities.jp/watsns/img/gpsz3l.jpg
この線以外に中軸線が引けないと言えるのか?
この線が中軸線であるという証明は?? >>191
それがなにを意味するの? 邪馬台国に関係あるの?
そんなお遊びより、もっと探求すべきものがあるだろ? @阿波 110日という中途半端な数字だけだとご都合主義だよ。たまたま、偶然と区別がつかない。
お話としてはおもしろいけど、学術的にどうこうとなるとね。
ただ、偶然も二つ重なるとそれは偶然なのか?と思えてくる。
今日の、箸墓は夏至を意識したものだ、これはこの二つ目になりうる。
さらに、三つ四つと続く可能性も? >>193
それがなにを意味するの? 邪馬台国に関係あるの?
そんなお遊びより、もっと探求すべきものがあるだろ? @阿波 >>190
玉造は忌部の専業ってほんと?スレチだけど。
いわゆる蘇我氏は北陸が拠点で玉造やってて
それがいわゆる蘇我氏の経済力の源泉って話があるんだわ。
北陸からヤマトに移ってもヤマトでの玉造も蘇我氏が管掌したらしいよ。 >>189
>穴師山山頂脇と穴師大兵主神社をきっちり通って、反対側は前方部の中軸線を
山頂脇ということは、きっちり山頂ではないということ。
そもそも知らない山だし。
そりゃ、周りが山だらけなんだから、どこかの山の山頂付近は通るだろう。
それが何かの根拠になるのか? >>194
まあまあ、このスレは邪馬台国論をちょっと端に見て、
日本の古代史を地道に模索してる感があるから
ちょっと遊んでるように見えても
何か新しい発見があるかもしれないじゃない。 邪馬台国や卑弥呼を考えるということは、古代の倭国について考えることなんだよ。
倭国とはそもそもどのような国でどこにあったのか。
日本との関わりはどうなっているのか。 >>176
>それに秋分・春分より、太陽運行が一番偏る夏至・当時の方が起点にしやすいですね。
サインカーブって知ってるかな?
夏至と冬至は、数日間では太陽の位置があまり動かないから、
夏至(冬至)の日の出の方角というのはそれなりに正確に測れても、
夏至の「日」っていうのは分かりにくいんだよ
それに対して、春分、秋分は真東から日が昇る日であり、この辺は一日での
日の出の位置の移動が一番早い時期なので、方位さえ正確に測れれば
春分の「日」は特定しやすい
ということもあって、古代の太陽暦の暦は春分基準が多いんだよ
こういう「常識」も、「夏至から110日はおかしい」の傍証
ちなみに、夏至は一番夜明けが早い日でも一番日暮れが遅い日でもない
それぞれ前後に一週間ずつくらいずれてる
まあ、正確な時計がなければこういう細かいことは計れないけれど >山頂脇ということは、きっちり山頂ではないということ。
>>160に挙げておいたURLの記事を読んでごらん
その山頂脇が、ライン上にある里宮の穴師大兵主神社の奥宮である
本宮があったと目される場所で、「ゲシノオオダイラ」と呼ばれる場所だ
おそらく漢字は「夏至の大平」
山頂よりむしろわざわざここを通るように作られたようだ >>191
>この線以外に中軸線が引けないと言えるのか?
普通に幾何学的な中心線になってるだろ?
何が言いたいんだ?
ただケチを付けたいだけだろ?
>>191さんは>>135で大嘘を書いた人ですか? 日本書紀の倭迹迹日百襲姫命をヤマトトトヒ「モモソ」ヒメと読むのは、
古事記の夜麻登登「母母曽」毘売に合わせてそう読まれているのだが、
古事記の万葉仮名表記はいわゆる「オ段甲類、乙類」を区別している
「母母」は乙類だが、古事記で百をももと読むときには「毛毛」と
いう甲類の表記をとっている
この辺も、ちょっと意識しておいてよい >>201
>>普通に幾何学的な中心線になってるだろ?
なってないな >>203さんは>>135で大嘘を書いた人ですか? 前方部はその一本の中心線しか引けないのか?
参拝する場所からずれてるけどそれでいいのか? >>205
>参拝する場所からずれてるけどそれでいいのか?
参拝する場所、じゃなくて、遥拝所って書こうな で、ずれてるけど? それはいいのか?
ずれてけるけど、中心線www >>202
甲類乙類の分類は絶対的なものではないというだけだろ。 >>195
>玉造は忌部の専業ってほんと?スレチだけど。
もちろん本当ですよ。勾玉だけじゃなく、軽量薄型土器(庄内式の原型)、前方後円墳もね。 @阿波
>いわゆる蘇我氏は北陸が拠点で玉造やってて
その蘇我氏も倭国(阿波)の名方郡が本願地。 北陸忌部は蘇我氏だったのかも。 @阿波 前方部の中央にある遥拝所からずれてる中心線が、夏至の方向にピッタリ(笑) >>208
絶対的ではないが、積極的に否定すべき根拠がないケースでは重視すべきだろ 北陸忌部は後に言う、蘇我氏だったのかも。
その北陸の墳墓が方墳だったらその可能性が高い。 @阿波 >>197
>ちょっと遊んでるように見えても
>何か新しい発見があるかもしれないじゃない。
それは時間の無駄 もう、とっくに決着ついてるでしょ? 一番簡単明瞭に「其山有丹」で。 @阿波 >>207、>>210
>で、ずれてるけど? それはいいのか?
>ずれてけるけど、中心線www
自分で>>191で引用している図をよく見ればいいじゃないか
http://www.geocities.jp/watsns/img/gpsz3l.jpg
遥拝所が作られたのがいつだと思っている?
箸中山古墳が作られてからかれこれ1750年以上経っていて、前方部の角は
既に削られてしまっている
引用されてる図では、右下隅の部分が、左下と比べて削れているのが見て分かるだろ
現在の遥拝所は、その「削れた前方部の両端」を結んだ線分の中央に位置しているんだよ
右端が削れている分、左に寄っている
作ったときの軸線は、この図の軸線で正しい
ちゃんと図を見る能力も足りないんだな >>215
>右端が削られたって証拠は?
適当な画像処理ソフトで左右反転画像を作ってみれば確認できるだろ
墳丘の裾をめぐる道がかなり古くからあって、この道のために削られてるんだよ モモソではなくホソだと思うけどなぁ
五百木でホ
百をモモと音写した古事記が
日本書紀より後の成立という前提があるけど。 >>216
削られた証拠にはなってないな
単なる憶測だ 春分秋分と夏至冬至は
どっちが測量しやすいんだろうね? >>199
>>方位さえ正確に測れれば 春分の「日」は特定しやすい
方位を正確に測るのと、夏至から110日、(10月20日の場合は120日)
数えるのとどちらが簡単ですかね?
箸墓が夏至の方向を向いているのでしたら、太陽運行を見てるのは
間違いないのですから、そこから110日で分かりやすいと思いますどね。 ちなみ例のHPでは、卑弥呼=日巫女が結論ですね。
もちろん、私と全く同じ見解です。 >>212
いわゆる継体大王の婿入り先の
ことなんですけどね。北陸の蘇我氏。
元は出雲の玉造工房の別れのようです。
したがっておそらく方墳でしょう。 >>222
>元は出雲の玉造工房の別れのようです。
>したがっておそらく方墳でしょう。
それなら出雲も方墳でしょうね。
出雲忌部も後に言う蘇我氏だったということです。
日本海へ進出していった忌部一族に、後にいう蘇我氏も入っていたんでしょう。 @阿波 太平洋側の各地にも方墳があるとすれば、特に古墳時代後期に力をつけた蘇我氏一族の墳墓の可能性が高まる。 @阿波 倭国(阿波)では他に、忌部の里旧麻植郡に「忌部山型石室」古墳群
「倭大国魂神社」のある旧美馬郡に「段の塚穴型石室」古墳群などがあり、
どうも、地域部族により、墳墓形式があったようだ。 @阿波 >>218
>削られた証拠にはなってないな
>単なる憶測だ
ごめんなぁ
がんばってケチ付けようとしているけれど、墳丘端は確認されているんだ
桜井市立埋蔵文化財センターの各種ダウンロードから、
「講座 入門箸墓古墳 第2回(PDF形式・3.46MB)」っていうのを
ダウンロードしてもらって見てもらえば分かるけれど、
纏向遺跡118次発掘調査(箸中山古墳周辺12次)の発掘範囲に墳丘端がかかってるだろ
http://www.sakurai-maibun.nara.jp/_src/sc4790/h25.kouza2.pdf 出たな、黒幕の桜井市。
町おこしのために邪馬台国の歴史を歪めようとしている。 >>221
>ちなみ例のHPでは、卑弥呼=日巫女が結論ですね。
>もちろん、私と全く同じ見解です。
こういうのが悪質な印象操作だよなぁ
お鏡さんのいうのは、
「卑弥呼=日巫女」だから『複数いても構わない』
『複数いても構わないから』『魏略の卑弥呼と親魏倭王は別人』
だろ?
最初の「卑弥呼=日巫女」は多くの人が推論としていっている部分
推論であって、結論でもなんでもない
『複数いても構わない』から『魏略の卑弥呼と親魏倭王は別人』の部分は
お鏡さん以外、「誰も賛同してない」ぞ! >>227
話をそらすな!
前方部の墳丘端が削られてるのは確認できたな?
遥拝所がずれてると言っているのは、この削れた後の墳丘端を基準に
中央を取っているからだよ これも確認できるな?
事実は事実なんだから、素直に認めな >>228
あー揚げ足取られる前に訂正
×『複数いても構わない』から『魏略の卑弥呼と親魏倭王は別人』の部分は
○『複数いても構わない』から『魏略の女王と親魏倭王は別人』の部分は お返事ないから、再掲
そして、特別な儀式に対する疑問をこれから書く
お鏡さんが言うのは大柱の存在だが、その他にも平原1号墓の埋葬主体部の周りからは多くの柱穴が検出されている
埋葬主体部のすぐ周りに配置されているものは、方形に並べられ、また軸線上に少し離れて両側に1本ずつ柱穴があるため、棟持ち柱のある喪屋が想定されていたが、柱を立てるには穴が細すぎるということで、今は「杭(くい)列」跡とされているようだ
また主体部と大柱の間に二対の穴があり、これを「鳥居」のあとだと考える人もいる
ここで問題にしたいのは、これらの「杭列」「鳥居」の配列の「いい加減さ」だ
二つの「鳥居」は平行に立っていない
「杭列」もきちんと長方形にならず、歪んだ配置になっている
大事な女王を送る葬送施設の作りとしては杜撰だ
平原1号墓の平面図としてはこれが見やすいんじゃないかな
http://syoki-kaimei.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_221/syoki-kaimei/Y23E5B9B3E58E9FEFBC91E58FB7E5A2B3E585A8E4BD93E59BB3.jpg
そして、お鏡さんが大事にしている大柱と日向峠を結ぶ線と、埋葬主体部の軸線はずれている >>231
>また主体部と大柱の間に二対の穴があり、これを「鳥居」のあとだと考える人もいる
これが鳥居の原型。 忌部山の青石だよ。 木製などずっと後の代物。 @阿波
忌部の郷 忌部山黒岩 忌部神社旧社地 真立石(上古神社鳥居)
http://i.imgur.com/aaVKHYN.jpg >>232
>現代的な感覚で杜撰といってもな
その頃、纏向遺跡では、きちんと軸線をあわせた建物が建てられているのであった
この建物の話をすると、倉庫だといいたがる人が湧いたりするけれど、
倉庫程度(実際は中心施設)でもきちんと四辺を整えた建物が作れる訳だ
3世紀当時、きちんと杭列を整えるだけの技術は十分にあるんだよ
それが、倭国にただ一人の倭王の葬送のための、一世一代の儀式の場が、
適当に杭を打ったような「雑さ」っていうのは日本人の感性では許しがたいと思うんだが? 考古学完全否定しないとスタートラインにも立てない九州説ってww 何をどう否定した?
古代人は方角や大きさがわりとラフだったというだけだろ。 >>242
>古代人は方角や大きさがわりとラフだったというだけだろ。
でも、平原1号墓出土鏡は、直径を二尺丁度に合わせたって、誰かが言ってたよ?
漢尺は伝わっていても、漢の度量衡に咫はないんだけどさ
そして、漢尺は伝わっていても、漢の歩や里は伝わってなくて、
高々12メートルくらいの墳丘墓が径百歩らしいよ?
そして、漢尺は伝わっていても、漢の里が伝わっていないから、
末慮国ー伊都国間と、伊都国ー奴国間で3〜4倍も長さが変化する「謎の里」を
使ってたらしいよ
本当にラフでいい加減だよね! >>235
>蘇我の古墳は六呂瀬山のようです。
方墳もあるようですね。
葺石墓でもあり、忌部一族を祀った古墳ですね。 @阿波 >>239
>纒向は崇神の宮だろ。
>記紀くらい読めよ。
だから、纏向遺跡が邪馬台国の時代なら、崇神も同じ時代になるだろ? >>243
だから魏志倭人伝で文句が書かれているんだよな。
まさに邪馬台国だよ。 おかしくないよ。
邪馬台国じゃないから何にも無いだけで同時代。 >>247
>だから魏志倭人伝で文句が書かれているんだよな。
文句って何だよ?
具体的に書いてみ?
魏志倭人伝に書いてあるのは
「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩」という、王(首長)の死に際して
巨大な冢=墳丘を作る倭国の風習で、それがそのまま古墳時代につながる >>249
>邪馬台国じゃないから何にも無いだけで同時代。
そうだね
(北部九州は)邪馬台国じゃないから
(北部九州には整った建物も、儀式に使った祭祀土坑も、大きな墓も)
何にも無いだけで同時代。 >>251
北部九州には無い、邪馬台国時代の大きな墓って、
具体的にはどの墓のこと? >>253
>北部九州には無い、邪馬台国時代の大きな墓って、
>具体的にはどの墓のこと?
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部
てなサイズがある
纏向型前方後円墳は、弥生墳丘墓に入れる立場だけれど、
纒向石塚古墳で全長96メートル、
纒向矢塚古墳も96メートル
纒向勝山古墳が110メートル
東田大塚古墳で墳丘長120メートルある
これらすべて、弥生時代末期の邪馬台国時代かそれよりも古いものだよ
この、各地で首長層が成長し隔絶した地位を持つようになった時期に、
北部九州は主張個人への権力集中の点で出遅れている 他にも四隅突出墓の地域には、鳥取市・西桂見墳丘墓という一辺が60m以上にもなる
最大級の墳丘墓があるし、丹波の王墓級としては他にも大風呂南墳丘墓という
27×18メートルの厚葬墓があり、鏡以外の副葬品では平原1号墓より豪華だよ
たくさんあるだろ? >>254の訂正
× 北部九州は主張個人への権力集中
○ 北部九州は首長個人への権力集中 >>254
ふむふむ。
畿内には邪馬台国時代に大きな古墳があったんだね。
邪馬台国時代の女王墓はないのかい? 整った建物に何も無くてプラス要素からマイナス要素になってしまったことに気づいていないようだな。 >>257
>畿内には邪馬台国時代に大きな古墳があったんだね。
畿内に限らず、西日本の複数の地域でただ一人の首長のために膨大な労力を
つぎ込んだ巨大墳丘墓の時代が古墳時代に入る直前にあるんだよ
そして、定型化した前方後円墳は各地の墳丘墓の特徴を総花的に取り込むことで完成している
その巨大墳丘墓の時代に取り残されているのが北部九州
>邪馬台国時代の女王墓はないのかい?
その時代の列島の最大の墳丘墓が、倭王墓の第一候補になるのだが、>>254にに示したように
纒向古墳群のものはどれも築造時に列島最大なので、条件をクリアしている
あとは編年次第で、卑弥呼の没年前後のものが特定できれば、それが卑弥呼の墓で
ある可能性が高い
ただ、埋葬主体部が発掘された墳墓がないので、今のところ決め手がないというところだよ
この畿内の王墓級で埋葬主体部が「発掘された墳墓」がない、というのを
畿内では「副葬品がない」、とわざとすり替えてグダグダ言ってるのが九州説のヤカラ 九州倭国は、2世紀半ばから倭国乱やってましたからなあ。
倭人伝によると、
3世紀半ばまで邪馬台国と狗奴国で激しく戦ってましたからなあ。
>>259が考古学的に明示している通り、
巨大墳丘墓なんて作っていなかった
北部九州に邪馬台国で確定ですなあ。 伊都クズの言う「考古学的に」は考古学者が誰も主張していない >>258
>整った建物に何も無くてプラス要素からマイナス要素になってしまったことに気づいていないようだな。
平原1号墓では、柱穴二つで地上部はまったく分からないにもかかわらず
「これは鳥居だ」「古代神道の証拠だ」と吹きまくるのにww
しかも二対のうち一つは、方形周溝墓の「周溝の中」に立ってるし
どうも鳥居じゃなさそうだぞw
建物のすぐ近くから大型祭祀土壙も出ているし、柵列で囲まれている
建物そのものに十分な価値があるし >>260
>巨大墳丘墓なんて作っていなかった
>北部九州に邪馬台国で確定ですなあ。
でも魏志倭人伝には「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩」という、
王(首長)の死に際して 巨大な冢=墳丘を作る倭国の風習が
ばっちり書かれていてそれがそのまま古墳時代につながる
北部九州では無理じゃね? >大型祭祀土壙も出ているし、柵列で囲まれている
これが畿内説の反論か〜(棒読み 三国志東夷伝には、
三国志東夷伝韓条にも「冢」が出てくる。
弥生時代朝鮮半島の住居を冢の如しとしていることから、
せいぜい10〜15メートル以下の、円形もしくは方形の家屋が、「冢」 >>260
>九州倭国は、2世紀半ばから倭国乱やってましたからなあ。
それいつ頃?
卑彌呼が共立されてから、乱は治まってるし各地で実際に巨大墳墓を作ってるよ?
>倭人伝によると、
>3世紀半ばまで邪馬台国と狗奴国で激しく戦ってましたからなあ。
魏志倭人伝には倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼『素不和』と書いてあるんだが?
通常の読み下しでは「もとより和せず」だ
激しく戦っている風でもないぞ?
魏志倭人伝、ちゃんと読んでるか?
誰かの勝手解釈も解説本じゃなくて、原本で読んでるか? 倭王墓と主張する墓に、きちんと整列した杭列すら作ってないのに? 現代の大家である、
コウ・シブサワは何をしているんだろう 整った建物に何も無くてプラス要素からマイナス要素になってしまったことに気づいていないようだな。
え?何か出土したの? >>261
王権の象徴たる八咫の鏡は、そのために副葬したはずだけどね。
これこそが倭国女王の墓であると。 >>273
卑弥呼が本当に倭王であるかどうかを確認しに来た。
そして、伊都国までしか来なかったが、確認はできた。 皇帝が封して金印や贈物を贈ったのに、卑弥呼の手元で開封されるとこまで見届けないと職務怠慢じゃん。 >>277
>王権の象徴たる八咫の鏡は、そのために副葬したはずだけどね。
平原1号墓の破鏡供献の出土鏡の円周長が八咫だという主張には、根拠もないし意味もないことはさんざんやったんだけどな
それに「八咫の鏡」と書いてる時点で、日本の皇統の象徴である伊勢の御神鏡「八咫鏡」とは別物だって分かってるんだろ?w 周尺也。
通典引白虎通曰。夏法日。日數十也。日無不照。尺所度無不極。故以十寸爲尺。
殷法十二月。言一歲之中無所不成。故以十二寸爲尺。
周據地而生。地者、陰也。以婦人爲法。婦人大率奄八寸。故以八寸爲尺。
按奄字未詳。疑是手之誤字。
上文曰十寸爲尺。此及夫字下云周制八寸爲尺。
別周制之異乎古也。王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。
鄭注曰。周尺之數未之詳聞。案禮制。周猶以十寸爲尺。
葢六國時多變亂法度。或言周尺八寸。以步㪅爲八。八八六十四寸。
鄭意八寸爲尺。周末始有之。與許說異。然許亦曰諸侯力政。
分爲七國。田𤲮異畮。車涂異軌。律令異法。則其說亦未嘗不合也。
左傳。天威不違顏咫尺。咫尺並言。不云二尺也。
國語、列子皆言其長尺有咫。亦不言其長二尺也。是可證周未嘗八寸爲尺矣。 定義が混乱していたんだよね。
そして倭人は独自解釈で鏡を作った。 倭人独自なら漢尺である必然性はないな
つまり、平原出土鏡の円周が八咫である根拠もなくなる
お疲れ様w 「八咫の鏡」好きのみなさん。 またまた倭国(阿波)から、はいどうぞ。
第2番札所 徳島市 「金山神社・立岩神社」 「八尺(やあた)の鏡はこの地で作られた」
ご存知のように日本の皇室に代々伝わる『三種の神器』とは、『天叢雲の剣(草薙の剣)』、『八尺の鏡』、『八尺(やさか)にの勾玉』をいうが、その神器のひとつ『八尺の鏡』の製作地はこの神社であるという伝承がある。
その背景には、銅鐸や銅鏡の出土が多く「たたら跡」と見られる史跡もあるこの地区が「日本の治金技術発祥の地」ではないかという説がある。
見渡すと周辺にも「金谷」、「多々羅(古来、精錬所のことを『たたら』という)」、「八田(八尺)」という地名が残り、まさにこの「金山神社・立岩神社」の鎮座地自体も『多家良(たから)』という埋蔵金ミステリーそのまんまの名前。
この精錬伝承の中心となっているのが、『金山神社』と『立岩神社』の両神社である。金山神社は鍛冶の神である金山毘古(かなやまびこ)神を祀り、その境内の中に高さ7m幅4mの日本一の巨大陽石(と掲示されている)をご神体とする『立岩神社』が鎮座する。
この巨石は『天津麻羅(あまつまら)』を祭神とし、素朴に男性を象徴しているが特に通俗的な信仰はない。
古事記には「八尺の鏡は天の金山の鉄をとりて天津麻羅を求ぎて伊斯許理度売命(いしきりどめのみこと)に科せて鏡をつくらしめ」という記述があり、これがこの地が八尺の鏡製造地であることを裏付けている。
なお、ここより直線で13キロ西には神山町の『立岩神社』(第3番札所)があり、ここには高さ20m幅20mの女性器を象徴する巨石があり、古来より「天の岩戸」と称されている。 @阿波 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています