伊都国東遷スレ 3
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1、魏志にある邪馬台国は「ヤマト」であり、倭王権の基礎となった。
2、だたし、その女王、「ヒミコ(日巫女)」とは伊都国の関係者である。
3、平原一号墓の巫女王は、東遷前の先代のものであり、銅鏡による太陽祭祀を主宰する「日巫女」の墓として、最もふさわしい。
<ポイント>
・記紀の伝承がおおむね歴史的事実の繁栄であることが視野に入ってくる
・唐古、鍵と纏向の間にある文化的断絶(銅鐸祭祀断絶と銅鏡祭祀開始)を伊都国勢力の進入から説明できる
柳田康雄の考え方(仮説)に基本的に一致しています。
<参考 URL >
歴史秘話ヒストリア 「女王卑弥呼はどこから来た?」
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「伊都国を掘る」2000年
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784479840541
柳田康雄 「 弥生王権論 伊都国からヤマト国へ」 2016年
http://www.city.itoshima.lg.jp/m043/010/040/070/030/kankotosyo.html 宮中の祭祀と同じで、だれも正確な理由は知らないし、太陽暦と太陰暦の換算をした明治以降にも混乱がある。
仕方のないことだ。、 倭人の暦ははっきりせず、曖昧だったんだよ。
魏志倭人伝も、それ示唆している。
おそらく神嘗祭と新嘗祭はもともと同じ祭りだったが、ずれて分裂して別の月になった。
明治の時に太陽暦に固定したが、それもいい加減で、一月ずらしたりしている。
平原遺跡の祭祀がそれよりも高い精度であったとは考えにくいから、数日単位でこだわるのは無意味。 魏略が「其俗不知正歳四節、但計春耕秋收為年紀」と書いてるからねえ
レイライン説そのものが眉唾ってことだろう まあ、大まかに春秋の日の出の方向になっているという認識だったのだろう。
平原遺跡から見た日向峠の日の出を一年の基準にしたのだろう。
中国人から見たら、ひどく適当でおかしなことのように見えただろうね。
でも倭人にとっては、ヒムカ様がヒムカからの日の出をもとに田植えと稲刈りの時期を決めるのは当然のことだったろうね。 妄想の上に妄想を積み上げたものを当然といわれてもな ってか・・・
日向峠から朝日が上がって見えるという
10月20日って、なんの日なんだ?
話が見えない 死んだ後の墓だから田植えと稲刈りは関係ないだろ
頭も西に向けてるから日向峠は関係ないし 畿内説が見事に粉砕されたので
纏向は伊都国東遷の証と証明されました それより、日向峠ってなんで特別視されてるの?
なんか意味あるの? >>582
>頭も西に向けてるから日向峠は関係ないし
埋葬主体部の軸線が、お鏡さんの主張する日向峠と平原遺跡を結ぶ直線と
はっきりずれているんだよな
主体部の軸線は、日向峠よりも南に向いている
この辺も、お鏡さん自身の見解を聞きたいんだが、
決して答えようとはしないんだよな >>585
>それより、日向峠ってなんで特別視されてるの?
伊都国説の人たちにとっては、記紀にある天孫降臨後の「日向」三代は
伊都国の物語だってことになっていて、筑紫の日向=伊都国
その証拠に「日向峠」に「日向」の地名が残っているって論法なんだよ
伊都国説にとっては、根幹に関わる大事な地名 >>573
>平原遺跡の祭祀がそれよりも高い精度であったとは考えにくいから、数日単位でこだわるのは無意味。
「数日単位でこだわるのが無意味」はいいんだけど、
数日が無意味なところで「110日を積み上げる」っていうのは意味があるのか?
110日にどんな意味があるのかもはっきりしないし
お鏡さんが大事にしているのは、10月20日で122日目
110日とどんな関係があるんだ?
一度モモソヒメからの類推だとお鏡さんが書いていたが、モモソヒメが
親魏倭王の日巫女で、その母親の日巫女が110日に関係するからモモソヒメって
名前にしたって言いたいのかな?
でも、10月20日ならどうやっても110という数字は出てこない
夏至から12日後から数えて、110日目なら10月20日になるけれど
大体、日本の祭りは満月の晩が一つの基準だろ?
まあ、それは太陰暦がしっかりしてからの話なのかもしれないが >>587
>>588
日向峠は伊都王都である三雲遺跡群から東の早良平野に抜ける重要交通路にある峠
北側には「高祖山」あり 日向峠から早良平野に抜け
油山山麓を東進すると那珂・須玖・板付の奴国に至る >>583
東遷したなら三雲遺跡と同レベルの出土品があるはずだろう。 >>590
>伊都王都である三雲遺跡群
末慮国と奴国の国邑の位置も分かったら教えて >>590
高祖山と日向峠の間にある峰をくしふる山と言うらしい。
つまり、筑紫の日向のくしふる山だね。
そこにあったとされるのが高千穂宮だ。
このくしふる山、奈良時代には怡土城という中国式山城があった。
これがもっと古くに起源を持つなら、山上から山麓まで囲む楼閣であり、魏志倭人伝の楼閣高くしてという記述や、記紀の高千穂宮という名称に一致する。 >>593
神道の教義を伝える祝詞の中でも、国生みをしたイザナギの禊の場所を伝えるのがこのフレーズ。
祓詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸諸の禍事 罪 穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を 聞こし食せと恐み恐みも白す >>594
これが難しい。
代々の墓なら三雲だが、行政地区なら前原、王城なら高祖宮が伊都国になる。
郡使が滞在したなら、前原の方だと思うのだが、とにかくそれにより末盧国の解釈が変わる。 >>558
>中日を取ると書きましたが。
>日本語読んで下さいね。
サインカーブと何度も書いてありますが?
日本語読んでくださいね?
サインカーブは日本語じゃない、ですか?
じりじり遅くなって、肉眼観察では動かない程度の日が1週間程度あるが、
いつから動かないとするか、いつから動き出したとするか、決めがたいんだよ
前に、10月20日の日の出の方角だっていって、やたら太い線のアプリの画像を
上げていたが、それを使って夏至の前後の日の出の方角がどう動くか、確認してみたら?
そして、日本の夏至の時期は梅雨にかかったりするし毎日「観測」できる訳でもない
夏至の日の出の方角は、それなりの精度で出すのはたやすいが、
夏至の日を特定するのはお鏡さんが思うよりずっと難しいよ >>596
>神道の教義を伝える祝詞の中でも、国生みをしたイザナギの禊の場所を伝えるのがこのフレーズ。
祓詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等 諸々の禍事・罪・穢 有らむをば 祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと 恐み恐みも白す
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」
倭国(阿波)の「竺紫(とくし)」で、倭国(阿波)の「阿波岐原」
高らかに、倭国(阿波)を讃えていますね。 @阿波 >>596
>筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時
禊をするくらいだから、海辺だよね?
まあ、川でもいいんだけれど、その禊で産まれた神の名前が
底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命であることを思うと、
それなりに深さのある海が想定される
でも日向峠は山の上
峠の一帯が日向だという見方も可能だが、それなら峠以外になぜ日向の地名が
残らなかったのかという疑問が生じる
地名というのは言葉の化石と言われるくらい長く残るものだから、
日向峠以外に日向のない『日向の地』というのは考えにくいのも事実 筑紫の日向に首都(伊都)を作ったんだから(日向峠に作ったわけじゃない)
糸島市の最初期の旧称が日向なんだろうね。
イザナギの頃は糸島市のあたりが日向だった。
そう考えると、イザナギというのは菜畑遺跡など唐津や壱岐の、
日本最初期の発展地域の出身と考えれば合点がいく。
その後しばらくは、早良平野福岡平野が中心地となるから、
日向へ抜ける峠は日向峠。
日向に降臨して首都を作った時に、日向→伊都に名称が変わったわけだ。 なぜ天孫降臨の地が南九州の日向になったか?
筑紫国造磐井の乱があり、筑紫のままだと磐井が正当化されてしまうからだ イザナギの禊の場所、筑紫の日向の小戸は博多湾に面している福岡市西区になる。
禊にちなんだ住吉神社はもともとそこにあったとされる。 つまり記紀でも祝詞でも、筑紫の日向、魏志倭人伝における伊都が倭国王権の発祥の地、代々の王都としているんだよ。
その王宮の名が高千穂宮、3世紀の王は卑弥呼となる。 >>603
筑紫の日向にニニギが降臨(記紀
それが三雲南小路遺跡
というのが伊都説でしょう?
だったら簡単で、筑紫の日向=三雲南小路遺跡のある糸島市(伊都)。
もともとは日向という土地だったのが、都になったから、
伊都に名称変更されて、
その後は怡土とか糸島とかになるわけでしょう。
日向峠という峠の名称だけが残ったわけです。 王宮が高祖宮(高千穂宮)なら、山側になる。
小戸の橘(岬のこと)であれば海側になる。
少なくとも墓所であるという根拠はない。 >>602
>筑紫国造磐井の乱があり、筑紫のままだと磐井が正当化されてしまうからだ
でも、伊都国には怡土県主の家系があるから、
奴国王家の筑紫君は正当化されないんじゃないの? >>604
>筑紫の日向、魏志倭人伝における伊都が
だから筑紫の日向=魏志倭人伝における伊都=糸島市でしょうに。
あなたが自分で言っているw 日向峠はあくまでも、日向=糸島市へ向かう峠だから日向峠であって、
筑紫の日向の名残りであっても、そのものではない。
日本海が日本じゃないのと同じ。 >>601->>606
すごく早口に書き込んでくれた感じだけれど、
日向峠以外に日向のない『日向の地』というのは考えにくいのも事実
改名した、はいいけれど、それでも日向峠に地名が残るなら、他のところにも
残っておかしくないんじゃないの?
どうして他には残らなかったの?
逆にどうして日向峠は、例えば伊都峠とかに改名されなかったの? >>609の理論だと、まさに「伊都に向かう峠」になるわけだから、
真っ先に伊都峠になってもおかしくなさそうなんだけど? >>610
伊都が中心地になったのに改名する必要ないでしょう。
どうしても改名するとしたら、伊都が中心地になってるから、
奴国峠とか早良峠とかになったでしょうけど。 これだか話が流れてしまうと、「照富神社の『みあれ祭』の謎」は
誰も答えてくれないんだろうな >>611
考古学的には、早良区や春日市以南の那珂川流域が栄えて、
その次に三雲です。
ですから、弥生銀座が最強の時代の名前が、日向。
大都市から日向峠を経て離れた周辺地域です。
その日向に遷都して、日向は伊都になった。
峠の名前はそのまま残った。 >>612
>伊都が中心地になったのに改名する必要ないでしょう。
>どうしても改名するとしたら、伊都が中心地になってるから、
>奴国峠とか早良峠とかになったでしょうけど。
中心地に向かう地名の方が優先されるんじゃないの?
と思ってググって見たら、峠の両側の地名と峠の名前は関係なさそうな感じ
峠の名前もそれぞれ固有名詞っぽい
日向に向かうから日向峠ということもなさそう
なんか、ある「地名」に向かう峠だから、その「地名峠」になっているところ、
見つけたら教えて! いや、それもうやめようよ
それの検証をするために、他例を探そうって話なんだから
それに今、峠を降りたところの日向がないんだから、現時点では
日向に向かう日向峠になっていない なんだろう
この件も鏡もどう論じても、出土している事実と墓の様相は否定できない。
当時の文献等皆無なのだから、すべて"〜だっただろう"になり、それはかなり後世の事柄からしか推論できないのでは完全否定はできないんだよな
だから考古学的事実は重い。
鏡も柱もだが、八咫鏡では単位でないなら「咫」の意味合いは何だったのか?の論証が必要となるし、
柱の件では、鳥居ではないなら何のための柱だったのか?も必要となる。
つまり、すべてが推論である以上、できるだけ否定したいなら、代案が必要なんだよ。
単位、鳥居以上の可能性の高い推論が必要となるね。 キナイコシ
日向峠を攻めようと悪だくみして 自爆
八咫鏡に話題変更しようとして失敗
液晶画面にグーパン自滅 乙www >>618
>糸島峠ってあるぞい。
ありがとう
糸島市と早良区の境だね
これだと、糸島の方が格上かな?
微妙
それと、糸島と言っている時点で、それなりに新しい地名だね
怡土と志摩が合併した後ってことだし
地名は改名される例でもあるね キナイコシはいつも議論に負けてるなあ。
そろそろ罵倒タイム? >>620
>嘉麻峠
ありがとう
これは嘉麻市と朝倉市の間の峠でいいのかな?
これもどっちが格上かは難しいね >>621
>鹿牟田峠
>山鹿市や大牟田が終点
八女の奥から、山鹿市の方へ下りる峠だね
鹿牟田峠という名前から見ると、大牟田も関係しそうだけど、
峠との位置関係では大牟田はあまり関係なさそう
もっと広い牟田郡とかあったのかな? 土器土器
キナイコシがどんな屁理屈をひねり出すのか
土器土器w >>622
>京都峠
ありがとう
でもこれは、峠の前も後ろも京都郡じゃないかな?
京都郡に行くための峠じゃなくて、京都郡にある峠だからって感じがする なかなか、都(とまでは行かなくても中心的な地域)から出るときに、
行き先の地名になるのか、都に向かうときに行き先の地名になるのか、
判断がつかないな >>631
そうだね。
筑紫の日向=糸島市に対して、
日向にある峠だから、日向峠だったのか、
日向に向かう行先だから、日向峠だったのか、
日向から伸びる峠だから、日向だったのか、
判断はつかないね。
いずれにせよ、
筑紫の日向と、日向峠があったのだねえ。 神道の教義を伝える祝詞の中でも、国生みをしたイザナギの禊の場所を伝えるのがこのフレーズ。
祓詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸諸の禍事 罪 穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を 聞こし食せと恐み恐みも白す >>619
>出土している事実と墓の様相は否定できない。
出土している鏡は、破鏡供献の仿製鏡で、墓の様相はいろんな柱穴が、
幾何学的に整えられずに配列されている
この事実と墓の様相からは、魏使から見ても「大作冢徑百餘歩」とされた
親魏倭王の墓とは考えにくい
というか、径百歩ない時点で親魏倭王の墓ではないことは明らかだろう
それで、親魏倭王の前代の日巫女というのが出てきたんだとは思うが、
これを倭王の墓とするのも同じく難しい
>代案が必要なんだよ。
小国・伊都国の特定家系の有力女性の墓、というのが代案だね 菜畑遺跡が原初。
だから日向=糸島市の海岸でイザナギが禊。
その後はしばらく福岡市でいろいろあって、
大国主やらなんらやも福岡市。
その頃に日向=糸島市への日向峠と呼ばれ始めた。
天孫降臨で日向峠を越えて筑紫の日向へ移動して、
伊都建設=三雲南小路遺跡。 >>632
>筑紫の日向=糸島市に対して、
>日向にある峠だから、日向峠だったのか、
>日向に向かう行先だから、日向峠だったのか、
>日向から伸びる峠だから、日向だったのか、
>判断はつかないね。
というところで、最初の疑問に戻るんだが、
日向が伊都に改名されたときに、
伊都にある峠だったら、なぜ伊都峠にならなかったのか?
伊都に向かう行先だったなら、なぜ伊都峠にならなかったのか?
伊都からから伸びる峠であるなら、なぜ伊都峠にならなかったのか?
結局、説明がつかないんだよな
日向を伊都にかえるという意思が、王の側にあるなら、
日向にちなむ峠の名前だいうなら合わせて改名するべきじゃないのか? >>636
>菜畑遺跡が原初。
菜畑遺跡はどうがんばっても、末慮国だと思うが?
そこまで日向・伊都国にしてしまうのかい? >>637
なんで奈良県なの?平城県に改名するべきじゃないのか?
なんで京都府京都市なの?山城国なの?
平安府平安市、平安国に改名するべきじゃないのか? 中立な客観的学術的議論を装っていたsage進行の人が、
キナイコシであることがハッキリしました〜www
キナイコシのスパイwww
キナイコシのスパイwww
キナイコシのスパイwww >>636
>大国主やらなんらやも福岡市。
これは無理だろう
大国主は、出雲風土記で所造天下大神と呼ばれる主神だ
しかし北部九州の風土記その他にはほぼ出てこない
宗像三神との間の子がいるから、交流はあったと思うが 大作冢
三国志当時伝韓伝に、韓人の住居が冢の如しと記述されている。
弥生時代の韓人の住居は、径10〜15メートルの円型もしくは方形の住居。
つまり平原遺跡の1号墓+2号墓は、大いに冢を作る。
徑百餘歩
東夷伝里で、平原遺跡の1号墓+2号墓の長径は百余里ジャスト。 キナイコシ
正体がバレて
液晶画面にグーパン自滅 乙www 神道の教義を伝える祝詞の中でも、国生みをしたイザナギの禊の場所を伝えるのがこのフレーズ。
祓詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸諸の禍事 罪 穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を 聞こし食せと恐み恐みも白す >>639
>なんで奈良県なの?平城県に改名するべきじゃないのか?
奈良(なら)は、日本国の発祥とされる歴史的地名である。
異表記として那羅・平城・寧楽などがある(読みは全て「なら」)。
改名しても、元の地名も残るのが普通
それが、日向峠一つで、他に一切見られないのが不思議、という話 地名が伊都に代わって、日向峠だけ残ったという話だ。
日向も重要な地名。
伊都も重要な地名。
どちらも重要だから絡み合って残っているだけのこと。 >>642
>東夷伝里で、
平原1号墓出土鏡の面径が、正しく漢尺で2尺だと、
漢の度量衡が正しく伝わっていると主張しながら、
里(と歩)は、漢や魏の度量衡が伝わっていなくて、
謎の東夷伝里を使っていたとするご都合主義が笑われているんだよ
>平原遺跡の1号墓+2号墓の長径は百余里ジャスト。
二つの墓の大きさを合わせて径と呼ぶ例は見たことも聞いたこともない
もしあったとするなら、双墓などの書き方がされてなければおかしいと
思わないのかい?
蘇我蝦夷と入鹿の墓は、「今来(いまき)の双(ならびの)墓」と書かれているよ なんや。
結局はキナイコシが普通の人のふりをして紛れ込んでいただけかw >>647
>平原1号墓出土鏡の面径が、正しく漢尺で2尺だと、
>漢の度量衡が正しく伝わっていると主張しながら、
そりゃ後世の日本の記録だ。
魏志倭人伝は魏代の中国の記録。
混同するな。
>二つの墓の大きさを合わせて径と呼ぶ例は見たことも聞いたこともない
>蘇我蝦夷と入鹿の墓は、「今来(いまき)の双(ならびの)墓」と書かれているよ
後世の日本の記録と
魏志倭人伝の魏代の中国の記録<珍しい殉葬墓
混同するな。
キナイコシレベル。 >漢の度量衡が正しく伝わっていると主張しながら、
んなこと誰も主張しとらんw
魏志倭人伝の里や歩は東夷伝里。
倭人伝に書かれている通り、当時の倭人は(公式には)里を使っていない。
後世の日本人が平原1号墓出土鏡の面径を測ってみたら、
正しく漢尺で2尺=円周八咫だった。
別の時代の話だよん。 >>613
謎もなにも、それ、伊都国や平原と何か関係があるのか? キナイコシ
第三者を装って伊都説を論破しようとして 滑落
液晶画面にグーパン自滅 乙www >>646
>日向も重要な地名。
>伊都も重要な地名。
>どちらも重要だから絡み合って残っているだけのこと。
伊都は、どのように重要だったのかも考えを教えてほしい
読みが大事なのか、文字が大事なのか
後に長く使われた「怡土」の表記は、大和朝廷が「都」の字を嫌って
文字を変えたのか?
しかし、実際には大和朝廷側が、地名にはよい字を使えとむしろ
言っている(諸国郡郷名著好字令)し、伊都都比古では普通に
都の字を使っている
伊都国説の人は、この辺をどう考えるの? 委奴 伊都(首都時代) 怡土 糸島
だから何なん?キナイコシ?www >>648
>山城国は?
京都府 相楽郡 「山城」町(現木津川市) キナイコシ
第三者を装って伊都説を論破しようとして 滑落
液晶画面にグーパン自滅 乙www >>652
>謎もなにも、それ、伊都国や平原と何か関係があるのか?
「伊都国王墓と伊都国説の人が主張する平原1号墓」のところで、
10月20日に執り行われる祭が、
「照富神社による『みあれ祭』」なんだって
お鏡さんが>>492で紹介してるよ
私は関係ないと思うんだけれど、
お鏡さんによると「10月20日の祭」は地元でも大事にされているらしい、よ?
「10月20日の祭」=「照富神社による『みあれ祭』」 >>651
>後世の日本人が平原1号墓出土鏡の面径を測ってみたら、
>正しく漢尺で2尺=円周八咫だった。
>別の時代の話だよん。
ということは、作った当時の伊都国の弥生時代の人は、
「漢尺を知っていて、それに合わせて面径を二尺にした」んじゃないんだね!
だって、時代が違うんだから!
これでいい? >>652=>>660=キナイコシのタゲ逸らしwww 考古学的には平原遺跡の仿製鏡は途中の習作鏡が無くて
いきなり出現するわけです。
ということは技術的には中国からの何らかの直輸入があったわけで
つまりは107年に中国の鏡職人を勧誘してきたのでしょう。
ということは、当然のことながら、
銅鏡の作成に関しては漢の度量衡で作成していた。
魏志倭人伝の里程記載よりはむしろ、
倭人の中の銅鏡職人だけは漢魏本国の度量衡をいち早く取り入れていたわけです。 漢鏡作る人は漢の尺で作って何も不思議ではない。
それと他の度量衡が伝わってなくても普通。
伝わってたとしても使ってないのは普通。 >>661
後漢末になって後漢初期まで使われてた一尺を使ったんなら、そりゃ偶然だろうな
たまたま一尺鏡だったモデルを二倍サイズにしたとかな >>663
>銅鏡の作成に関しては漢の度量衡で作成していた。
ということは>>651は全否定ってことでいい? >>664
でも、1世紀ころの尺でしょ?
不思議だよ >>664
>漢鏡作る人は漢の尺で作って何も不思議ではない。
>それと他の度量衡が伝わってなくても普通。
>伝わってたとしても使ってないのは普通。
この「漢鏡」を作る人は何人(なに人)?
「倭国の人」? それとも>>663の言う「中国の鏡職人」なの?
どんな人を想定してるの? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています