伊都国東遷スレ 3
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1、魏志にある邪馬台国は「ヤマト」であり、倭王権の基礎となった。
2、だたし、その女王、「ヒミコ(日巫女)」とは伊都国の関係者である。
3、平原一号墓の巫女王は、東遷前の先代のものであり、銅鏡による太陽祭祀を主宰する「日巫女」の墓として、最もふさわしい。
<ポイント>
・記紀の伝承がおおむね歴史的事実の繁栄であることが視野に入ってくる
・唐古、鍵と纏向の間にある文化的断絶(銅鐸祭祀断絶と銅鏡祭祀開始)を伊都国勢力の進入から説明できる
柳田康雄の考え方(仮説)に基本的に一致しています。
<参考 URL >
歴史秘話ヒストリア 「女王卑弥呼はどこから来た?」
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「伊都国を掘る」2000年
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784479840541
柳田康雄 「 弥生王権論 伊都国からヤマト国へ」 2016年
http://www.city.itoshima.lg.jp/m043/010/040/070/030/kankotosyo.html ここに実例があるように、説明なんて妄想でどうにでもなってしまう
問題なのは、その説明を導きだした根拠と立論過程だというのに、
自称理系の非論理的思考しかできないご老人には理解できない 街道の名称は、大抵はその道がどこに続いているか、で付けられるけど
峠の場合は、その場所の名称や特徴で付けられてることが多いと思う 筑紫の日向
八咫鏡
残念だったねwキナイコシさんw 結局、俺が決めたからこれが正しいんだ!としか言えない伊都クズ >ことが多いと思う
ことが多い 多いけれども、それ以外の例もあるある
思う キナイコシ敗北 キナイコシは祓詞の筑紫の日向をどこだと考えているの? キナイコシさん
議論で敗北したから結果連呼、罵詈雑言とは哀しくないのですか?
虚しくないのですか?
筑紫日向も八咫鏡も古来由緒ある権威ですよ。
3世紀に鉄器ゼロwww うる星やつらで巫女のサクラが「はらったま、きよったま」とお祓いしていたのは、この祓詞だったんだな。 まともな人は歴史学的に通用する根拠を全く提示できないままの妄想レベルの主張をいくら連呼しても論争に勝ったことにはならないということを理解しています >>709
そうだな。
鉄器ゼロだから完全敗北 キナイコシだな。 祝詞も平安時代のもんだしね
時間軸を無視したつまみ食いは相変わらず キナイコシさんは構成の誤謬をまじめにわかってないようだね。
今回のMVPは事例を挙げた上で
>>672
華麗に本質を語った
>>674さんです。おめでとう。 筑紫の日向は確定ということでよろしいでしょうか?
キナイコシさんは漢尺おこして議論放棄したようですし。 >>712
根拠は?
少なくとも筑紫の日向は記紀にも出てくるのだから、平安時代に作られたものではない。 >少なくとも筑紫の日向は記紀にも出てくるのだから、平安時代に作られたものではない。
納得です。
記紀=奈良時代。の中でも古い記事。
撃滅キナイコシ。 >>716
大祓の祝詞は延喜式が出典だ
それくらい調べておけ
>>717
自演で恥を上塗りするとかどこまでもバカだな キナイコシは論点をずらして誤魔化すしかないのだなあ。 冷静な第三者のふりをして議論誘導しようとして失敗
キナイコシw 倭奴國は東遷した。
帥升に滅ぼされた倭奴國の難民は東へ落ち延びた。
帥升に滅ぼされた倭奴國の捕虜百六十人は、生口として漢に送られた。 朝めざめると伊都説が無惨に爆死していた
終わったな >>718
>大祓の祝詞は延喜式が出典だ
延喜式で初めて定められたのではなく、延喜式で改めて確認したと言うだけ。 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方可四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方可三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日) >>723
記紀を参照した後代のものであるということは変わらない >>698
ジリジリと動かなくなった期間の中日を取ればいいだけということは変わらないですよ。
夏至の判別には、特別な知識も道具もいらない。太陽の巫女である日巫女が朝日の出る位置を確認するだけ。
で、一方の秋分はどうでしたっけ?
垂直二等分線とか直角とかとかいろいろ数学的な智識とともに、野外でのその厳密な適応が必要でしょう。
「どちらが簡単か」結論はでているのでは? おっと、>>698 は、>>598の間違いですね。
粘着の方は、平原遺跡が王墓でもなく、10月20日に日向峠を向いていないと言いたいなら、
もう私ではなく、柳田先生にクレームするべき案件じゃないですか?
手元で「伊都国を掘る」を見直してみましたが、p163の参考写真を見る限り、私は先生の考えに大賛成ですが。 >>727
10月20日って、なんの日?
日向峠に、何があるの? あと、以前ご紹介頂いた論文コピーですが、国会図書館使えますね。
耳璫についての論文、やっと入手できました。
他にも内行花文鏡に関する論文もいくつか入手しましたので、色々読んでみます。
ヒント下さった方、ありがとうございました! >>729
一の鳥居からみて大柱越しに、日向峠から日の出が上がる日ですよ。
日程的に伊勢神宮や神嘗祭と関係あるのではと、大和岩雄を引用しながら、柳田先生が言っていますね。
そして、これは岡上の指摘ですが、三輪山と箸墓主体部と日の出の方向が(だいたい)一致する日ですね。 そもそも
鳥居(?) → 1号墳 → 大柱
という配列なんだよなw
現代の鳥居をイメージして内外の区切りとするなら
1号墳を聖域とし中からその10月20日という謎の日の
日の出を拝むって配置になってない
そもそも「峠」ってのがあまりにあやふや
山頂ならともかくだ
まあ「太陽信仰ありき」のこじつけだろうな
実際「伊都国を掘る」を読んだ時にそう思ったわw >>734
あなたの鳥居に関する考えが固定的すぎるからでは?
檜原神社の鳥居はくぐることはできませんので、単に境界を表してますね。 >>735
?
何も「くぐれる」「くぐれない」を問題にしていない
埋葬主体・鳥居?・大柱が一直線はともかく
それが10月20日日向峠からの日の出を表せてるなんてなんの根拠もない >現代の鳥居をイメージして内外の区切りとするなら
>1号墳を聖域とし中からその10月20日という謎の日の
>日の出を拝むって配置になってない
鳥居をイメージして内外の区切りとして、
1号墳を聖域とし外からその10月20日の日の出を拝むっていう
配置になっている
―――――
こっちが事実ですよ。
気になる方は、伊都国を掘るをご参照してくださいね。 >>737
>1号墳を聖域とし外からその10月20日の日の出を拝むっていう
>配置になっている
さきに「日の出を拝む」という結論ありきで
10月20日が出てきたんでしょ? >>737 八咫バカ
>1号墳を聖域とし外からその10月20日の日の出を拝むっていう
>配置になっている
でその「10月20日」と限定する根拠は?
1日や2日それ以上ずれたところで
そりゃ何処かの山の稜線上だわな
ちなみにp164には鳥居からじゃなくって別の
>主体部割竹木棺の主軸と「大柱」を結ぶ延長線の彼方にあたる
>王丸山北側稜線裾からの日の出が10月25日になってる
・・・とある
要はどのポイントを選択するかでいろんな結果がある
でその一つをつまみ出して我田引水牽強附会してるのがお前みたいなやつ >>739
結論ありきというか、内行花文鏡への指向が顕著な墓ですから、
当然日の出は検証するべき要素でしょうね。 >>740
当該ページを見てるなら話が早いじゃないですか。
全体としては平原と伊勢つながりを指摘しているのが全体の行論でしょ?
我田引水どころか、柳田先生の結論を全否定している方がいう言葉でしょうかね? >>739
1号墳が聖域とされてるなら、なぜ陸橋部に鳥居がないのか?
説明が首尾一貫しない >>741
検証したら
なんの意味があるか分からない日に
なんの意味があるか分からない場所から
太陽が昇ったわけだ
これは検証に失敗したということでは? >>734
> 鳥居(?) → 1号墳 → 大柱
鳥居の前に集合して一号墓に遥拝すると、その向こうに墳丘と御柱があり、さらにその向こうの日向峠から太陽が昇るわけですね。
>そもそも「峠」ってのがあまりにあやふや
>山頂ならともかくだ
平原遺跡から見て日向峠のすぐ左にクジフル岳が見えるはずなので、そことの位置関係は確認する必要はあるかも。
高祖宮(高千穂宮?)との位置関係も。 >>743 八咫バカ
・・・で?
柳田が言ったからどうかしたのか?
「虎の威を借る狐」ビッグネームに頼るバカw
柳田が伊勢と平原を直結しようというのならそりゃ否定するわ
(まあそこまで断定的な表現ではないと思うが)
もしコケ脅しにビッグネーム出してるなら止めたほうがいい
畿内説の連中なんてかつて京大の大先生の
学会を支配してたような説がひっくり返るのを知ってるので
(むしろひっくり返って今の畿内説がある)
学者の名前で盲信するやつも少ないだろうとw もしかして、春分の日にはクジフル岳から日の出するのではないだろうか。 >>745
意味がわからないのは、あなたがアレなだけすよ。
遺跡の語る意味を読み取ろうとしない態度をこちらにまで強要しないでください。 >>749
じや、意味がわかるのなら説明して貰おうか >>750
甘えてないでまず、「伊都国」を掘るを10回ぐらい読んでみては(笑)?
柳田先生の言いたいことがわかるかもしれませんよ。 >>749
>遺跡の語る意味を読み取ろう
電波ゆんゆんのイタコ芸はやめろwwww
そもそも10月20日日の出という確定してないものに
更に纏向と重ねようとするのだから
精度は下がるのは当たり前な話
(1.0未満に1.0を掛け合わせるようなもの)
だがこの手の連中は俺様ストーリーに手っ取り早く持っていきたいから
さも確定済みのように言う
トンデモのパターン 纒向ってなんですか。
勝手に悪い電波を受信でもしましたか?? まあ
・埋葬主体の主軸 ― 大柱
・鳥居 ― 大柱
の2つが微妙にズレてるし
ある特定の日の日の出とか厳密に意識したものとは思えないし
本に出てる図で見るなら
鳥居の真ん中で両の柱の結んだ線に直角に交わったライン上に大柱があるようには見えない
(柱)
→→→→→→→→→→→→ (大柱)
(柱)
「ざっくり直線状に配置してみました」ってところか?w >>751
自分でなんの説明も出来ないの?
他人のネームバリューだけ借り物競争? >>755
うーん、平原の遺跡状況に関する考えはありますが、
これ以上は独自説になりますからねぇ。
平原遺跡については、柳田先生の考えの範囲内で止まっておきます。
つまり、「二世紀末ごろに伊都国に太陽祭祀を主宰した巫女王がいた」というところです。
日の出の絡みなら、鳥居から神域を挟んで大柱越しに日向峠から登る朝日を10月20日にみていた、というところです。 >>757
そう思うなら私が言ったレスか何かを示してもらえますか?
万一うっかり?言ってしまっているなら訂正の必要がありますから。
私は箸墓との関連は予想しては見ましたが、纒向は全然別ですよ。 >>759
箸墓って、どこにあるか知らないの?
w >>687
>少なくとも祝詞が作られた頃まで。
祝詞の日向が、日向峠を指している訳ではないから、>>686への答えにはなってないよ >>707
>筑紫日向も八咫鏡も古来由緒ある権威ですよ。
由緒ある権威なのは確かだが、筑紫日向は宮崎県、八咫鏡は伊勢と皇居の賢所で、
どちらも糸島や平原1号墓とは関係ない
それを日向峠という小さな地名一つで結びつけ、権威を仮冒しようとするのが伊都国説 >>760
私は纒向は記紀にいう日代宮か珠城宮が第一候補と考えてますので。 >>763
あなたが独り脳内で考えてたって、世間にゃ通用しないでしょ
そんなことも分からないの? >>762
>由緒ある権威なのは確かだが、筑紫日向は宮崎県、八咫鏡は伊勢と皇居の賢所で、
宮崎県では、筑紫の日向の小戸における禊にちなんで住吉神社を立てたのがどこだかわからなくなる。
住吉神社は筑紫の博多湾沿岸にある(かつては現在の場所ではなく福岡市西区小戸にあったとされる)。 宮崎県を日向国と呼ぶのは、景行天皇の命名にちなむのであり、イザナギの時代には該当しない。 自分の説と合わないからって、纏向古墳群に属する古墳に結びつけたことを「纏向に重ね」たと表現したら悪し様に罵るって、どれだけ身勝手で傲慢なの? >>766
神代の章に書かれてるからって
神代の地名じゃないんだよ 岡上が傲慢とおっしゃる >>767 さんが、書き込みしたと思われるお上品なレスは、
こちらです。
>>752
妄想上の「岡上説」に対して罵詈雑言を浴びせてますね(笑) じゃあ、イザナギが禊をした筑紫の日向の小戸の橘はどこなの? >>746
>鳥居の前に集合して一号墓に遥拝すると、その向こうに墳丘と御柱があり、さらにその向こうの日向峠から太陽が昇るわけですね。
ということは、日の出は大柱の影で見えないんじゃない? >>769
妄想上の「岡上説」だって決めつける証拠は? そうなんですか。それは失礼。
まぁ岡上説では纏向遺跡はあんまり言及しませんから。
とにかく批判は歓迎ですが、的外れなものは困りますね。 >>772
影は細いから、集まった人たちのうち、影で見えない人は一部だろう。
太陽は斜めに上がっていくしね。
それほど問題ではない。 まあ >>754 でも書いたが鳥居の柱跡が描く角度を考えるなら
1号墳の領域を意識してると考えるのが精々
その先の大柱ですら怪しい
いわんや日向峠とか
で10月20日なんて二分二至でもない
全ては
「伊都国と大和は連続してる」
という妄想はじめにありきの
東遷説信者のヨタ 全ては
「伊都国と大和は連続してる」
という大型内行花文鏡への極度の志向性という根拠に基づいた仮説
ですね。 >>766
>宮崎県を日向国と呼ぶのは、景行天皇の命名にちなむのであり、イザナギの時代には該当しない。
じゃあ、イザナギが禊をした筑紫の日向の小戸の橘はどこなの? >>777 八咫バカ
>という大型内行花文鏡への極度の志向性という根拠に基づいた仮説
残念ながらヤマト王権の萌芽を語るのは神獣鏡なんだな ( 常識 ) >>779
それ、量的に持たないと価値にならない粗製濫造の品ですよ >>746
>平原遺跡から見て日向峠のすぐ左にクジフル岳が見えるはずなので、
そのクシフル岳が「邪馬台国関連の話題」以外で確認できないんだが?
日向峠から高祖山の間に名前を付けたくなるようなピークはないと思うんだ
本当にそんな「山」があるのか?というところから疑問がある
それに多くの「邪馬台国関連の話題」を挙げているページが示すクシフル岳の位置は
高祖山の隣であって、日向峠のすぐ左というような位置ではない
結局、お鏡さんの論は柳田先生の本の内容にただ乗りしてるだけじゃないのか? >>781 八咫バカ
お前の言う「価値」の基準は知らんが
美術品じゃなくて考古資料として
仮に粗製乱造としてなにか問題あるのか?
ヤマト王権の萌芽を物語るのに何の変更もない
芸術品美術品として価値があったとしても
遅れてやってきたなら
それは粗悪品を濫造してた初期ヤマト王権が
あとから一品物で価値のある(笑)鏡を入手したって話にしかならない
本当にこの手のバカは考古資料としての価値と
美術品の価値みたいなのをゴッチャにしてる >>775
>影は細いから、集まった人たちのうち、影で見えない人は一部だろう。
>太陽は斜めに上がっていくしね。
>それほど問題ではない。
ということは、大柱はそれほど大事じゃないってことじゃないのかな?
斜めに上がっていくなら、日向峠もそんなに関係ないことになる
日の出の瞬間が日向峠ってのが大事という説なんだと思ってたよ
こだわらなくていいんだね! >>782
岡上病お疲れ様です。
>>783
はいはい、誰が「美術品としての価値」があると言ったんですか?
脳内岡上説を論破お疲れ様です。
他ならぬ畿内古墳の埋葬状況からして、神獣鏡は、その階層性の下層であり、
物理的にも足元の方に埋葬されていますよね。 >>781
だから原始貨幣説があるんだが
史料としての価値は十分だ >>785 八咫バカ
>他ならぬ畿内古墳の埋葬状況からして、神獣鏡は、その階層性の下層であり
そりゃその時代の鏡の価値の問題だ
で内行花文鏡がヤマト王権の誕生を物語る遺物だってのは誰が言ってるんだ?
大体画文帯神獣鏡とかが西日本を中心に出てくるあたりが
画期とみなすのが常識だろうに
ここまで話が通じないのか・・・
言ってるのは
「ヤマト王権の萌芽云々」
なんだから
お前のシナリオじゃあまず大型内行花文鏡が畿内に出現
それを持ってヤマト王権の誕生って話じゃないのか? >>785
>岡上病お疲れ様です。
捏造はいけないね!
>>782には「岡上」という文字列は一つもないぞ!
きちんと「お鏡さん批判」って書かないと!
お鏡さんが、クシフル岳の位置一つ十分に把握しないまま、
原田大六氏の誤認(周長が八咫)と、柳田先生の説に乗っかってるだけという批判には
一切触れずに逃げるんだよなぁ まあこの八咫バカのような視野狭窄起こしてるやつは
とかく九州と大和しか頭にないんだろうが
例えば吉備の楯築だの出雲の四隅だの
別に銅鏡がなくても成立してる
要するに銅鐸銅剣をいったものから巨大首長墓へのシフト
その直接的原因に銅鏡は関係がない
いわんや内行花文鏡とか限定する必用は微塵もない >>787
>言ってるのは
>「ヤマト王権の萌芽云々」
>なんだから
邪馬台国のスレじゃなかったのかf^_^;
邪馬台国とヤマト王権を混同したアホ
>お前のシナリオじゃあまず大型内行花文鏡が畿内に出現
>それを持ってヤマト王権の誕生って話じゃないのか?
岡上氏ではないが、内行花文鏡の筑紫から畿内への流入によりヤマト王権の基礎が作られるのだろうね
内行花文鏡は紀元前の前漢の頃から王権の象徴として倭に与えられ、しばしば副葬品として出土する
畿内へも、饒速日の神宝として籠神社に内行花文鏡が伝えられてきた >>789
>例えば吉備の楯築だの出雲の四隅だの
>別に銅鏡がなくても成立してる
吉備も出雲も王権としては継承されず、筑紫を起源とする天皇家の支配下に飲み込まれただろ。 >>790
>邪馬台国のスレじゃなかったのかf^_^;
>邪馬台国とヤマト王権を混同したアホ
お鏡さん自身は畿内説を自称していて、卑弥呼は纒向にいたって言ってるよ
つまり邪馬台国がヤマト王権の萌芽
それなのに、ヤマト纒向はほぼ語らないんだがね >>790
>邪馬台国とヤマト王権を混同したアホ
おいゴミ、スレタイ読め
八咫バカがほざくぃてるのは
平原とヤマト王権の連続じゃなかったのかよ
>岡上氏ではないが、内行花文鏡の筑紫から畿内への流入によりヤマト王権の基礎が作られるのだろうね
根拠なし
大和(あるいはもう少し広く畿内)を中心に分布するになるのは神獣鏡が嚆矢
>吉備も出雲も王権としては継承されず
巨大首長簿の文化の発生とその後の王権の覇とは別の話
古墳文化の成立に銅鏡を必須にする必用がないってことだよ >>791
>吉備も出雲も王権としては継承されず、筑紫を起源とする天皇家の支配下に飲み込まれただろ。
それは結果であって、巨大墳丘墓をただ一人の王のために作る人員を動員できるだけの
王権が自立している
そうした地域王権の伸長に乗り遅れて、たかだか12×8メートルの墳墓を王墓だと言い、
さらには倭国全体を統属させる倭王の墓だと信じているのが本当に不思議 >>6 八咫バカ
>鏡が出土 : ☆(3点) *日本最大、最多
そもそも鏡で言えば
これなんか一体意味があるのかと・・・
要は「卑弥呼の墓」としての話だろ?
最大でもむしろそんなバカでかい物は大陸にはない
ひと目で舶載じゃないと分かるって話だし
「最多」も舶載じゃないのに意味があるのか?
なんだろう?
「わーい、大きいぞ、多いぞ」
ではしゃいでるバカにしか見えない >>794
>それは結果であって、巨大墳丘墓をただ一人の王のために作る人員を動員できるだけの
>王権が自立している
それは王ではなく、地域首長だよ。
中華から倭王に叙せられたのは博多湾沿岸の王家だけ。 >>795
>「わーい、大きいぞ、多いぞ」
>ではしゃいでるバカにしか見えない
キナイコシのことですね
わかります >>796
>それは王ではなく、地域首長だよ。
>中華から倭王に叙せられたのは博多湾沿岸の王家だけ。
中華思想の中ではそれが唯一解だが、魏志倭人伝でも狗奴國男王卑彌弓呼が出てくるだろ?
卑彌弓呼が中華から狗奴国王に除せられたりしてないってのはいいな?
そのレベルでも王と呼んでも良かろ? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています