邪馬台国畿内説 Part347
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1525836259/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 酒を飲めない者が、身分の高い人と互いに逢えば、後ずさりしてまわり巡って、草の中に入り、別れを告げる。
身分の高い者が物事を説明するときは、酒を飲めない者はあるときはしゃがみ、あるときは跪き両手を地面につけて体を支え、こうして恭順と敬意を示す。
説明に対する返事に、、、中国では強く感動したり驚いたりしたときに発する語である発音と同じ、、、アーと発音する。
比べた結果、承諾したようなものだ。。。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) 倭国もまた中国のようにもとは男子を王とし、その状態が七、八十年続いたが、国は乱れ、互いに攻め戦い、年を経た。
こうした後、女子を共に立て王とした。
名は卑弥呼といい、亡霊に仕え、路上で民衆を惑わすことができた。。
すでに高齢で、配偶者はないが、弟があって、国政を補佐した。。。。
王となってからは、会見した者は少ない。。。。
女が千人、自分たちの意思で奴隷となって仕えている、、、
ただ一人だけ男子がいて、飲食を給仕したり、言葉を伝えたりと、女王の居る所に出入りしている。。。。
宮室、楼観、城柵が厳重に設置され、常に、人がいて、武器を持ち守衛している。 女王国の東から千里余り海を渡ると、再び国(四国)がある。。。
皆、倭人の種類だが、また侏儒国があり、それは(四国の)南側にあって、人の長さが3、4尺なのだ。。。
女王の元を去って四千里余りだ。。。
また、裸国と黒歯国があり、同様に(女王国の東から海を渡る)東南にある。。。
航海して1年ばかりかかる。。。
謁見して倭人の地の絶えているところを問うと、海の中の州や島の上にあって巡り廻って5千里、(と答えがあった)、、、 ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。 景初二年六月、倭の女王は、周代の役職名と同じ大夫と呼んでいる、難升米らを派遣した。。。
彼らは郡に詣でて、天子に謁見して献上したいと求めた。。。
太守の劉夏は役人を派遣し、京都に詣でるために手を貸して送った。
その年の十二月のことであった。。。
皇帝の意思表示の公文書に倭の女王に報いて以下のように書かれていた。。。。 皇帝の命令および意思表示。。。。
魏に親しい倭の王の卑弥呼よ、帯方の太守の劉夏が使いを派遣して、汝の大夫の難升米を送ってきた。。。
次の使いは、都の市場へ、牛利が汝の献じた男の奴隷四人と女の奴隷六人と班布を二匹二丈、奉じるために到着した。
汝のいる場所は遠距離を越えなければたどりつけない、、、
したがって、使いを派遣して貢を献上したことは汝の忠節なる孝心によるものである、、、
我は甚だしく汝を哀しく思う。
今、汝を魏に親しい倭の王と認定するから、紫の帯紐を通してある金の印鑑を利用しなさい、、
包装して封じ目をつけ、帯方太守に持たせておくから、受け取って帯紐(を通してある金の印鑑)を利用しなさい。
汝は倭の人種を安らかになるように鎮め治めて、孝行を示す順序を間違わないように勉めなさいよ。。。。
(其は語気を強めている)
汝の派遣でやって来た使いの難升米牛利は遠く海や道などを横切ってこちら側へ移動するため、道路で勤労してきた。。。。
今、難升米はこれより以降、率善中老将とし、牛利はこれより以降、率善校尉とし、青い帯紐を通してある銀の印鑑を利用させる、、、
(私が自ら)引見して労い、(青い帯紐を通してある銀の印鑑を)贈って、(倭国に)返し、(あなたのもとに)派遣する。
今、絳という地域で作った龍が交わっている柄の錦を五匹、絳という地域で作ったちりめん製で粟色の絨毯を十張、茜色の織物を五十匹、紺青色の織物を五十匹によって、汝の献上した貢に対して直接答える。
又、特に汝に対しては、紺という地域で作った句や文を織り込んだ錦を三匹、白い絹を五十匹、金を八両、五尺の長さの刀を二口、銅鏡を百枚、真珠と鉛丹を各五十斤を贈る。
全てを包装して封じ目をつけて、難升米牛利に持たせて帰す。
到着したら、記録して受け取り、全てあますことなく、汝の国中の人に示すべきです。。。
(私の)国家が汝を哀しく思っていることを知らせなさい、、、
だから丁重に汝の好きな物を送るのだ。。。 ◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
◆FAQ 65
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物の尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜後漢初:23.1cm (安定的)
後漢末〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 正始元年に太守の弓遵が建中校尉梯儁等を派遣した。。。
皇帝の意思表示の公文書と印鑑と帯紐を献上するために倭国に詣うでた。
仮の倭王を拝み、同時に、皇帝の意思表示の公文書をもたらし、金、白い絹、錦、絨毯、刀、鏡、採掘物を贈った。
倭王は表に(書き)上げ、使いによって、皇帝の意思表示の恩に返答して感謝した。
正始四年、倭王は再び使いに大夫の伊聲耆掖邪拘等の八人を派遣し、奴隷、倭国の錦、深紅と青の絹、綿の衣、白絹の布、丹、木製の短弓、矢を献上してきた。。。
掖邪狗等は同じく率善中郎将の印鑑と帯紐で(その地位に)任命された。
正始六年、皇帝の意思表示があって、倭国の難升米に黄い軍旗が贈られ、郡に持ち込まれ、仮に授けた。
(代わりの者に授けたのか、代わりの物を授けたのかどちらかなのだろうね。。。。) 正始八年、太守として王頎が役所に到着した。
倭国の女王の卑弥呼と狗奴国の男王は交わったが、卑弥(弓はミドルネームではないのかな、、)呼がありのまま過ぎたため仲良くできなかった。。。
倭国は載烏越等を派遣して郡に詣でて、(二人の不仲が原因で女王国と狗奴国が)互いに相手を攻撃している状態だと説明した。
塞曹掾史張政等を派遣して、皇帝の意思表示の文書と黄い軍旗を与え、(卑弥呼に)拝謁した。
難升米を利用し、触れを出し、(争っている兵たちに相手を攻撃するのをやめなさいと)告げて諭した。
卑弥呼は、死ぬので、先に、塚と(熊本城からその塚までの)道を100歩分あまり作り、徇葬者として女の奴隷を百人(選び)、(狗奴国の)男王を(倭国王として)立てた。
国中が(男王に)服さなかった、、、、
更にお互いを咎めて殺しあい、当時、千人あまり殺した。
ふたたび(女王として)、卑弥呼の十三歳の娘の壹與を立てて王とした。。。。
国中がついに安定した。
政等はお触れをだして、壹與(が王であること)を告げて、(人々に)諭した。
壹與は倭の大夫である率善中郎将の掖邪拘等二十人を派遣した。
政等が還るのを送らせることで、土台のしっかりした非常に高い建物にも詣いらせた、、、
男女の奴隷三十人を献上し、白い玉を五千孔、青い大きな勾玉を二枚、(織り込まれた)文が雑に異なる錦を二十匹、貢いだ。。。。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 以上テンプレ(嫌がらせの書き込み部分を除く)
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし >>139
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 論破され尽くされたテンプレートの合間に、魏志倭人伝の素晴らしい翻訳があるな。。。 伊達郡(川俣町)という掲示板
川崎に住んでいる、
亀戸(亀戸天神)に行ってきたと言ってる人がいたり
家の老婆も同じことを言っていたんだけど、
どういうことだと思う、
受験などではないと言ってる 近畿は元々縄文系勢力も渡来人系勢力も仲良く暮らしていた。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。
スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。
結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした大和朝廷だよ。
近畿は大和朝廷の最初の討伐ターゲットだったんだな。
大和朝廷は4世紀前後四道将軍で関東東北を征伐する。
大和朝廷に虐げられていた元々の近畿の勢力、関東の先住民が手を結び、神功皇后応神を旗頭にして大和朝廷の旧勢力に叛旗を翻すんだよ。
藤原氏の守り神が関東の人々であるように、近畿と関東は同盟関係だったんだな。 >>142
あまり出来栄えの良くないテンプレートに分断されてしまい、残念だね。。。 畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
大和朝廷の主体は尾張と出雲。
次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。 魏志倭人伝
邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。
出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。
出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。
邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。
伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか? >>146
>纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
魏の使いが滞在して、一大率も置かれた九州のどきがないことから、邪馬台国とは関係ない土地です。
>記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
後になって、ヤマト征伐の出発地は筑紫とされています。 一大率が置かれた博多湾沿岸は3世紀初から
畿内の大和型庄内式(庄内2式期併行)の模倣生産が始まる
5世紀に日向国に九州最大の前方後円墳が造られる >>150
>一大率が置かれた博多湾沿岸は3世紀初から
畿内の大和型庄内式(庄内2式期併行)の模倣生産が始まる
5世紀に日向国に九州最大の前方後円墳が造られる
それは、筑紫忌部の所業。 @阿波 >>141
何があったの
てかそんなのはじめて聞いたわ(まああまり紙面を賑わわせなかったみたいなのでお察しかもしらんが) >>150
なるほど卑弥呼の治世に畿内を占領したのだな。
台与の頃かと思っていたが。 ていうか、筑紫の倭国を追い出された神武が大和に東征したんやで。
それを恨みに思って、記紀には卑弥呼のことを書かなかったんや。 纒向遺跡の桃の種 年代が邪馬台国と重なる
5/16(水) 1:12配信
奈良県桜井市の纒向遺跡は、出土品などから最有力候補地といわれる一方、遺跡のできた時期が異なるとする意見も出ていました。
桜井市纒向学研究センターによりますと、遺跡から出土した桃の種の年代を分析したところ「西暦135年から230年ごろ」と判明しました。
橋本輝彦統括研究員は「科学的根拠がまた一つ加わった。
纒向遺跡の年代を新しくとらえる先生方に対しては一つの反証になったと考えている」と話しました。
邪馬台国があったとされる年代と重なり、「近畿説」に弾みがついた形です。 >>973
また既知害大和説者が暴れだしたな。
荒らせば荒らすほど、大和説の愚かさが明らかになるだけだと言うのに。
九州説に負けた、と認めてるんでしょ。 >>974
畿内説なんていやらしいネーミング誰が言い出したのかな?。
邪馬壹國筑紫説でいいだろ。
勿論、摂津河内和泉山背は、邪馬台国でもヤマト国でもない。
九州倭国の「東征毛人55国」の中の一国ずつ、でよい。
死なば諸共みたいに他の関係ないエリアを巻き込むな。 >>978
そりゃ大和説学者は、オームと同じく、
学問や科学の本質を知らない国粋皇国史観狂の、
アマチュアの・・・・ガキの詐欺ごっこだからな。 >>979
>(九州説と、畿内説ではない大和説との論争)昔っていつから?<
江戸時代から。 >>980
>「正北抵新羅」って混一図の誤解とかと同じなんでは<
そりゃ、
混一図のようなような「方向や里数計測方法」の知らないような、
はるか後代のでアホ使節の記録と、
白村江で倭国と実際に戦争した唐の記録とでは、
信頼性が全く比較にならないよ。 >>982
国粋皇国史観にクルった学会教育界の大和説学者や、右翼マスコミの、
年代測定のニュースが方々で流れて来て、
一般人の間でも「纒向遺跡が当時の王都だ」って」嘘つき騙しが
浸透させられてきたから、
これまで以上に大和説のガキらは、・・・・カルト化するんだろうな?。 >>983
>土器測ったんじゃダメだ〜の、桃のタネを測れ〜の言ってた人が頓首だわな<
土器でも桃の種であっても、どちらでも、
AMS法でプラズマ化をしてしまえば、2割位?古いデータになってしまって、
絶対年代根拠にならない、
という事が、この男も大和説学者らも、全く判っていないようだな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています