邪馬台国畿内説 Part347
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1525836259/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>584
>>>577
>>奴国には王はおらず伊都国に王がいるとはっきり書いてるのに
>
>奴国には王はおらずとはっきり書いてあったり
>しないよね
王や官はいれば必ず書いてある。
奴国には官はいても王はいない。
ついでに言うと、早良や糟屋の王国も邪馬台国の時代にはない。
それら筑前の中を遷都して、卑弥呼の時代には伊都が王都であった。 伊都国が任地の大率は刺史みたいなもんなんだから
邪馬台国にいる女王が任命した地方官だな >>575
>>>558
>
>思いつきで言うな、戦前生まれ
>律令制の郡名に糸島郡なんか無い
>怡土郡と志摩郡、三雲郷というのも無い
だから延喜式をもとに筑前の郡を全て挙げたから、参考にしてね!
怡土郡、志摩郡はあったようだよ。
三雲郷は知らん。 >>603
魏志倭人伝には置くと書かれている。
駐留ではない。 >>605
王都である伊都から出発して各地を検察したから、刺史のようだった。 倭国大乱→伊都国(倭国)による東への侵攻のこと
伊都国による九州北部の制圧は2世紀までで完了
その後東に侵攻し日本の覇者となる
高地性集落が九州北部には無く瀬戸内、近畿、東海、北陸に分布しているが
これは倭国大乱のなか東進する伊都国軍に怖れた諸国が環濠集落を捨て高台に逃げ込んだ証拠
やがて西日本を制圧した伊都国は纏向に前線基地をつくった
これが纏向遺跡 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津住吉
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 >>606
>怡土郡、志摩郡はあったようだよ。
>三雲郷は知らん。
戦前生まれの変質者が「怡土郡」を使ってるのを見たことが無い
最初に俺が言ったのを忘れてるようだが
「博多湾沿岸には糸島の影響はない」
現在我々畿内説が、論文で読んで使ってるデータというのは
戦前生まれ九州説の爺さんたちがボケ始めた後に
現役の学者が学術調査した成果なので
考古学に関連した内容は、博多湾という呼称も含めて現在の行政区分で会話している >>497
>出土物や風俗その他は九州説有利だと、九州説の人は思っているようだけれど、
基本「倭地」についての情報で「邪馬台国限定のこと」ではないので、わりにどうでもいい
・邪馬台国の発音に近い地名 <
「邪馬台国」なんて存在しないものを設定する事自体がインチキ騙し。
>・戸数7万戸<
九州は、筑紫及びその周辺で十分だが、大和盆地では、全く×。
>・30近くの国々の盟主<
馬韓や弁辰との比較で、九州及びその周辺島々でほぼ十分だが、
大和は、始めから盟主ではなく、九州倭國の「東征毛人55国」の一国であり、
九州倭国から別れた別種の旧小国。
>・宮室、楼観、城柵 <
九州は、吉野ケ里があり、大野付近の安徳台の精査発掘待ちであるが、
大和の纏向には宮室、楼観、城柵が存在せず、
九州倭國の地方の市を監督する大倭職の祭祀建築。
>・卑弥呼の墓、径百歩・徇葬百人について述べないと、ほぼ意味がない <
筑紫には祇園山があるが、大和にはない。 >>604
奴国には王はおらずとはっきり書いてあった
というのがウソ
二行目は根拠ないので妄想 >>499
>邪馬台国畿内説は厳然と存在するんだが 狂ったのか?<
卑弥呼の頃に、「邪馬台国」も「畿内」も存在しないんだよ。
狂ったのか?。 魏志倭人伝には、伊都国が千戸しか人がいないと書かれている。漢数字で千と万は間違えるはずはないので、実際千戸程度しかいなかったんだろうね。
もう一つ魏志倭人伝には、一大率が伊都国に置かれているとある。
3世紀半ばに大兵団が置かれていた場所の候補地は博多那珂地区しかない。
博多も区域としては伊都国に含まれるが、一大率が支配していたのだろう。
つまり伊都国は、平原周辺(王とその取り巻き)以外の大部分を一大率に召し取られたと考えると矛盾がない。
魏志倭人伝によると、
伊都国から奴国までは百里、奴国から不弥国まで百里とある。また不弥国からは南へ船で20日進むとある。
不弥国は周防灘に面した国と考えるのが妥当。
奴国は不弥国と伊都国の中間にある。地図を見ると遠賀川がその辺りにある。
遠賀川流域は、縄文時代〜弥生時代にかけての石器の一大製造拠点。その石器は九州全土に広がり、特に九州北部に強い影響力を持っていた。
また遠賀川流域の飯塚市から、行橋市には古くからルートがあり、関門海峡が通れなかった当時玄界灘と周防灘を結ぶ重要な迂回路であった。
奴国は2万戸の大国であり、遠賀川流域一帯の国であったと考えられる。
問題は不弥国である。
魏志倭人伝によると伊都国と同じように千戸しかないとある。壱岐ですら三千戸であることを考えるとかなり不自然。
行橋市の北は京都郡、苅田。
石塚山古墳など早期の前方後円墳がある。
巨大古墳のあるところは、労働力の集積地(非農業人口集積地)。つまり拠点地域。
不弥国も伊都国と同じように、大部分の領地を女王国に召し取られた可能性がある。
その地域支配の拠点が苅田辺りに作られていた可能性がある。
九州北部支配の拠点、博多那珂地区の一大率と苅田の駐屯兵団。少なくとも二ヶ所は魏志倭人伝の時代から存在。 >>493
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
早く言えこのサギブキジジイ! >>608
刺史は地方に置かれるんだよ
都にはいない
基礎を勉強してね >>504
>実際、ほとんどの史料事実は畿内説に都合がよく、九州勢に都合が悪い<
実際、ほとんどの史料事実は九州説に都合がよく、大和説に都合が悪いし、
畿内なんて、存在すらしない。 >>617
墓地に兵団は置かない。
墓を作ったら人夫は他へ移動する。 畿内説は間違っている。
何故ならスレ主がテンプレを書き換えるからだ。 >>508
>まだ弥生で「三種の神器ガー!」とか言ってる情弱がいるんだな<
記紀の記録に拠れば、「三種の神器」は、
天孫族系の部族や阿毎氏らが、「その部族の紋章」のようにして使われていたもの。 >>523
>江戸時代まで細石神社にあったものが何の記録もないっていうのはおかしい
口伝しかないということは、三雲を調査してる青柳種信の『後漢金印略考』や
鑑定した魯南冥の『金印弁』でも
細石神社のことは書かれてないってことだから<
細石神社の神主さん一族は、
金印は天皇家の記紀の記載を否定する可能性が高いので、
当然、1800年位もの間、1800当然秘匿していたのだし、
公にすれば没収されて抹殺される可能性が高いから、
青柳種信にも魯南冥にも言わずに、黙っていた、と思うよ。 >>621
>畿内なんて、存在すらしない。
おまえ故人の特殊な思想・宗教的理由から存在を認めたくないだけだな >>524
>>米田は、加美も、大和とは別の権力地域だ、と言っているし、<
>それは服部とかいうおっさんのつまみ食い話だろ 学問とは関係ない<
米田は、古田史学会の本にも書いていた。
>>伽耶の陶質土器と共存しているから、3世紀末以後の話だよ。<
これも米田が関係していたようだし、新井さんも同じような事を書いておられた。 >>609
高地性集落ってbc200〜ad300まである
倭国大乱による東進だけじゃ説明つかんだろ >>630
ほら、証拠が出せない
また口から出まかせだったんだな
九州説はこれだから信用されないんだ >>629
>米田は、古田史学会の本にも書いていた。
どろぼうと深く関わってる組織の本は読んだことが無い
米田の講演や論文から都合がいいとこだけパクったんだろ? >>631
倭国大乱じゃなくて九州から東への何波もの植民地活動ですね。 >>617
>もう一つ魏志倭人伝には、一大率が伊都国に置かれているとある。
そんなことは書いてないよ、女王国の北側に一大率を置いたとある。 ザラコクは脳の経年劣化が激しいので意図的にウソをついているとは限らない >>600
一大率は女王国の北側の諸国に置かれlk
伊都国には女王卑弥呼がいて治めている。 >>525
>>糸島と、博多の弥生銀座は、金印の倭奴國以来仲間同士<
>弥生銀座は春日周辺のこと、<
いや、弥生銀座は首都圏であるから、福岡平野から太宰府付近までの広域。
>弥生終末には博多、比恵那珂のほうが中心地<
その付近も首都圏。
>博多湾、今津湾は畿内、山陰の影響下<
畿内なんて存在しないし、
大和は九州倭国の別種の旧小国で、地方の市を監督する大倭職の地。
そして、博多湾、今津湾は、出雲や半島や海峡や瀬戸内などの海上からの搬入港。
>糸島三雲は遅れている<
元の倭奴國の地であり、壹與の後の4世紀頃には、また倭國の王家になっていた。 >>529
>>平原遺跡の耳璫は魏晋の頃のもの。<
>それって変質者が柳田の考察を改竄した編年だろ<
気味が悪い男。
何故「変質者」とやらの名前が言えないんだい?。 >>644
>弥生銀座は首都圏であるから、福岡平野から太宰府付近までの広域。
>その付近も首都圏。
>博多湾、今津湾は、出雲や半島や海峡や瀬戸内などの海上からの搬入港。
反日朝鮮人のお前が決めることじゃない
>元の倭奴國の地であり、壹與の後の4世紀頃には、また倭國の王家になっていた。
反日の妄想はいらない >>645
お前はレスを読む読解力がない
Yahooで聞きかじったことも全て勘違いしている >>533
>それは改竄常習変質者が考古無視した一体
博多湾沿岸には糸島の影響はない <
影響ある。
自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。
常治伊都國、於國中有如刺史。
王遣使詣京都帶方郡、諸韓國及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。 >>643
漢文読めない恥さらしが満座の失笑を浴びました >>627
卑弥呼の時代に畿内という概念があったという証拠を出せ。 >>537
>面していないよ<
糸島水道は伊都国だから、伊都国は博多湾に面している。
>博多湾側には博多産の庄内式土器を使う人々の遺跡がある
伊都国内部には庄内式はほとんど入らない<
おや?、この男は、
柳田のついうっかり発言と、明大の佐々木の(変更後の)論考を、
否定する気なのかな?。 >>650
影響はないというのは出土物の話をしている
三雲の楽浪土器の下限がTB期、交替的な馬韓土器は福岡平野が多いから
「郡使往來常所駐」「特置一大率檢察」という記述も
卑弥呼の遣使を境に博多側に移行している可能性もある >>538
>それは伊都国を事実上占領してる邪馬台国の官だ<
邪馬台国なんて存在しないし、
伊都国の一大率は、共立卑弥呼の国の、軍事警察の中心だ。 >>655
それら、なんの否定にもならない
ザラコクや伊都厨の妄想だけが否定されてる >>655
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今言えこのサギブキジジイ! >>541
前からおかしかったこの大和説者が、
とうとう妄想を始めたか 。 >>545
>今津湾沿岸は糸島ではなくて福岡市西区今宿、周船寺<
変な男。
伊都国は、前原〜糸島水道。
>今津湾沿岸も山陰、瀬戸内、畿内の影響下だから <
今津湾沿岸も、玄界灘の海上からの搬入到着地。 >>553
>ほら、伊都国は検察されてる側だ<
伊都国は、検察する側だ。 伊都には大率を置き、卑弥呼が伊都から北を支配していた。 >>665
>伊都国は、前原〜糸島水道。
伊都国の話などしてないが、
伊都国が前原〜今宿までの糸島水道の比定なら
三雲は伊都国の南になる 大率の主力は水軍だと思う。
壱岐や対馬を含めた対馬海峡、言うまでもなく倭国の生命線を鎮守するものだろう。
三雲は大率を置いた伊都国の王宮などがあるところだから、大率で支配する必要はない。
大率を置いたのが伊都国にいた倭王であることがはっきりするね! 変質者伊都厨みたいな爺が近くに住んでる方は
必ずお子さんの送り迎えをしていただきますようお願いします。 >>553
>ほら、伊都国は検察されてる側だ<
いや、伊都国は、「世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐」であり、
他の「官」の国ではなく、独立的であり、
共立女王との同盟国的な地位の国だ。 >>554
>人口も少ない伊都国が最強軍事国家とか どんだけトンデモ妄想するやら<
狗奴國と並んで、「王」が存続しており、
伊都国は、一大率もいて、共立卑弥呼と同盟國的な国だ。 いずれにしても
光武帝からの金印は伊都国に贈られたもので
倭国王師升は伊都国王だと確定してるから
2世紀までの段階は伊都国が日本代表であることは確かだ >>569
>邪馬台国の時代には奴国が最大で、伊都国はかなり落ち目なんだよ<
邪馬台国なんてないよ。
また、奴國は、「王」がいないから、落ち目なのであり、
その地域は、三雲や平原〜日向峠〜早良平野付近なんだよ。 >>675
反日民族は自分の仮説の連呼だけしかしないから
学問の場では全く相手にされていない >>672
一大率なんか置かれて対等なわけないだろ
そもそも統俗に関係だ
伊都説の史料無視ぶりは酷いもんだな
ww 伊都クズは歴史学と考古学の方法論を理解してないからな >>617
>魏志倭人伝によると、
伊都国から奴国までは百里、奴国から不弥国まで百里とある。
また不弥国からは南へ船で20日進むとある。
不弥国は周防灘に面した国と考えるのが妥当。<
魏志の里は、(長里ではなく)短里記載である、という事が史料実態であるから、
始めから×。 >>635
ほら、また証拠が出せず、口先だけ。
また口から出まかせだったんだな。
大和説はこれだから信用されないんだ。 >>636
>>米田は、古田史学会の本にも書いていた。<
>どろぼうと深く関わってる組織の本は読んだことが無い
米田の講演や論文から都合がいいとこだけパクったんだろ?<
米田自身が書いていた。 帥升に関わる遺構・遺物が明らかでないのに
考古学的に確実になるはずがない >>677
伊都国が日本最強の軍事力を持ってるから一大率が置かれたんだが?
倭国大乱の覇者としてね >>656
>三雲の楽浪土器の下限がTB期、<
ふーん、だから三雲で楽浪土器→庄内土器の変化が起きた事になるのか。
>交替的な馬韓土器は福岡平野が多いから<
こりゃ、西新町への半島人の流入の話だな。 >>684
年代でおおよそわかる。
その時代に王墓は伊都国にしかない。 2世紀までの日本全国の墓で中国の鏡など大量の副葬品がでるのは伊都国比定地の三雲・井原・平原遺跡しかない
全国どこを掘っても三雲・井原・平原以上のものが出てこないのだから
光武帝から金印を得た王も倭国王師升も伊都国の王としか考えられない >>668
>伊都国が前原〜今宿までの糸島水道の比定なら
三雲は伊都国の南になる <
「東南至奴國百里」は、
末盧國から到着した伊都国の中心地の前原付近からの位置説明。 >>682
反日のお前が書いてあると言張って、書いてあったことがない 仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。 古事記と日本書紀を読み進めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。 >>692
伊都国の中心地が前原付近とする考古学的根拠は?
国の入口からの方位にしたり、出発方向にしたり
反日思想組織の都合に合わせて変えてたら
方位を書いてる意味がなくなる >>512
倉庫の遺蹟は、実はネアンデルタールのものだったのではないのかな。。。 >>515
仕方ないよ、、、、
奈良のあの古墳は、天皇の妹を祭ってあるものなのだもの。。。
魏志倭人伝の世界の古墳とは、時代も、距離も、方角も、形も何もかもちがうのだからね。。。。
テンプレートは嘘をちりばめて、その全てのことに言い訳しなきゃならないのだからね、、、 >>516
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 >>448
あの、鍵穴型の墓のせいじゃないのかな、、、
魏志倭人伝に書かれているものとは帯方郡からの方角も距離も形も違うけどね。。。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています