邪馬台国畿内説 Part347
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1525836259/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>843
>逆にそれ、ただの墓
>阿波さんに突っ込まれるよw
先にやられてしまったw @阿波 >>850
湿地帯?
馬鹿言ってんじゃないよ
うちの水泳部は奈良湖で毎夏遠泳訓練だぞ! >>854
南を東と間違える連中が日本と中国を行き来してたとしたら恐ろしい事実だが >>1
女々しい
独学を積めよ
古代史なんてなんて、日本史の一部
正統化するの畿内説
畿内説もいいが,証の提示が畿内は??????? >>848
邪馬台国論叢での吉野ケ里の
位置づけはいかがと考えますか? >>858
見りゃわかるだろ。
倭国の城だよ。倭国乱では狗奴国側。
畿内なんてそもそも吉野ヶ里までたどり着けないし
倭国が大船団でサービスして畿内から運んでやったとしても
1万人総がかりでも落とせやしない。 >>790
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今言えこのサギブキジジイ! >>858
吉野ヶ里は神埼国の跡
奴国はじめ他の九州北部の諸国とともに伊都国(倭国)の属国だった >>素粒子レベルでは、素粒子が粒子性と波動性の両方の状態が起こっている、<
>この時点で間違っている 量子という言葉が理解できていない
素粒子って言葉も、現代物理ではまったく使わないとは言わないけれど、意味が不明確になるので基本的には使用を避ける<
無駄で無意味な論だな。 量子は、当初は質量と荷電量を持った最小単位群として定義され、 しかし、それが最小ではない事が確認されて、更に素粒子というものを再定義化されたもの。
>量子は、粒子性と波動性を「同時に示す」んだよ 「両方の状態」ではない<
、同じことだ。
>>波動場の斥力と引力の相互作用に拠って凝集性が起こって、<
>「波動場」などという概念は、量子論にはないぞ<
当たり前だ。場の一つの状態だ。
>「凝集性」なんていうのもない <
複数以上の場の相互作用の、引力の存在に拠って凝集が起こり、その凝集体やはり別の周りの場と斥力を持った時に、粒子性が備わってしまう事になる。
>>それが粒子性の発生の原因だ、という論理なんだよ。<
>そんな論理はないww<
50年以上前に、私が院にいた時に発表した論理だ。
>畿内の遺物の14C年代測定法による編年の否定のためだっていうのが、バカすぎる<
場の相互作用の存在は、結果として「場全体の安定状態」を志向するのでのあり、だから、プラズマ化をして外周電子を失えば、原子核は核内の「電子の荷電」の分を放出(放射性崩壊)して、原子核内の安定を図ろうとする 畿内説の人は纏向纏向としか言えないのな
そこしかないから
纏向が3世紀後半以降のものだって判明したらショック死しそう
纏向がアウトなら吉野ヶ里レベルの唐古・鍵しかなくなるし 俺は九州説だが纒向は3世紀前半だろ。
3世紀後半には稲部遺跡も出現するし
それで鉄器なし遺跡があったらもう奇跡だよ。奇跡。 炭素年代測定法は年輪年代法により導かれた正確な年代を基に絶対年代を補正する
日本の場合年輪年代法の絶対年代の担保がないため、参考程度にしかならない
桃の種130年〜235年、一緒に計測された土器付着物は100年〜200年というが現在多数説の布留0式280年、それと同時期から少し前の庄内3式の年代から大きく遡るではないか
桃の種は100年の誤差があれど実際の示す年代はその中の1年でしかない
他の試料の確率分布法のグラフを見たらわかるが、両端に行くと確率が減る
つまり卑弥呼の年代の230年ぐらいをピンポイントで示してる確率はものすごい低い
恐らくピークは180年ぐらいを示しているだろう、そうなるとこの試料はやはり年代が古く出ていると批判するべきではないか
この試料からは巻向が後漢の時代を示すとも言えるのにそうは言わないのは結論ありきである証拠だ
2世紀中頃なら従来通説との乖離が大きいからそれは無いというのなら、それこそ炭素年代測定法より土器編年に重きを置いているわけで炭素年代測定法の意味がないではないか 纒向遺跡がヤマト王権の首都だったというのは確実なんでしょ?
しかし邪馬台国とは限らない
国名が酷似してるから関連を連想するけど >>866
>50年以上前に、私が院にいた時に発表した論理だ。
癲狂院? >>840
>>試料や方法によって年代のバラつきがありすぎる<
>その通りなんだけれど、木を焚いた煤なんかだと、木の中心部は切り倒されて時点で
大きな木だと200年位前に固定されたCO2だったりするのに対して、一年草や
その年に固定された光合成産物であることが確認できる試料だと、相対的に
信頼度の高い測定結果とみなしうる
一年草の場合は、植物体が柔らかいから残りにくいし、柔らかいから周囲の炭素の
混入も想定しなければならない
その点、桃の核のような、その年に成長した組織であることが確実な部位で、
しかも硬くて周囲の炭素のコンタミを落としやすい(極端な場合には周りを
削り落として芯だけで測定すればいい)材料は、相対的にというフレーズは
つくが、ある程度信頼性の高い結果が期待できる
今回の測定結果は、複数の測定機関で西暦135年から230年の間という、
誤差込みで100年幅というばらつきを認めたものだが、
それでも遺跡の建物3世紀前半には存在していた、というのを認めるくらいの精度はあるだろう<
AMS法でプラズマ化をしてしまっていてはダメだ、と言ってんだよ。
先に、同一資料で、一般ベータ線法での計測とAMS法での計測でのデータを比較して、
どれ位の差異が発生しているのか?を確認して、
それから桃の種のAMS法での計測値の補正をやらないと、
ダメだ、と言ってんだよ。 >>842
>>吉野ヶ里は筑紫の集落ではまだまだ弱小<
>後学のために、吉野ヶ里が弱小レベルに見える遺跡をできるだけたくさん教えて!
比恵・那珂遺跡群は入れていい?<
当然、弥生銀座や、糸島付近からから筑前地域全域に存在する遺跡群。
吉野ヶ里は、鏡がなく、剣も「一本副葬」レベルで千戸位の「其餘旁國」レベル。 >>846
>漢書地理志に記された「百余国」は倭国大乱の前段階にすでに伊都国=倭国の属国だった<
倭国大乱なんてなかったし、30国は、であり、ほぼ共立諸国として独立的であり、
まだ属国にはなっていない。
>倭国大乱は伊都国=倭国が東に勢力を伸ばし出雲、吉備、讃岐、阿波、播磨などの勢力を付き従える過程<
倭国大乱ではなく、
倭國は「正北抵新羅」の九州地域であり、
出雲は梁代まで独立的であり、
吉備、讃岐、阿波、播磨、河内、摂津、山城、大和、紀伊などは、
九州倭国の「東征毛人55国」地域。
>西日本に連合王国を打ち立てた伊都国=倭国はヤマトに拠点を移しここを中心とした これが纏向
手薄になった九州北部には元本拠地の伊都国に一大率を置き監視した<
「南≠東」に拠って、×。 >>847
>伊勢遺跡は? <
出雲系と越系と、九州倭国の「東征毛人55国」の3勢力の共存地。 吉野ヶ里が弱小という表現は変でしょ。
倭人の城であって、単純に強いか弱いかだったら軍事的には強い。
弥生筑前の大発展を認めたら困る畿内説が
環濠集落じゃないと国と認めない変なルールで誤魔化してきたから
価値基準がぐちゃぐちゃになってる。 >>857
>なんとなく東と思わないのか? <
思わない。
この男も、「南→東」の嘘吐き騙しの宗教に狂った・・・・詐欺師だな、と思う。 >>858
>邪馬台国論叢での吉野ケ里の 位置づけはいかがと考えますか?<
吉野ヶ里は、
須玖岡本などの「鏡や3本の剣の副葬」と比べて、
鏡がなく、剣も「一本副葬」レベルで、
千戸位の「其餘旁國」レベル。 >>877
ククク
やつは四天王の中での最弱...
みたいな話でしょ >>879
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今言えこのサギブキジジイ! >>877
>倭人の城であって、単純に強いか弱いかだったら軍事的には強い。
軍事施設としては、基肄城、大野城の方が重要だし。 >>858
>邪馬台国論叢での吉野ケ里の
位置づけはいかがと考えますか?<
邪馬台国は突然できた国では無い
吉野ヶ里は都市機能があり文明も同年代の畿内の遺跡より優れていると思う
倭国を率いる国としてはそれなりの体を成してる遺跡が畿内には必用 纒向を王都とするには
2世紀、3世紀初頭ぐらいの文明が優れた遺物が多数必用?? 王都である遺物はないから、傍国の一つ。
九州北部は吉野ヶ里級の遺跡が複数あると見られる。
最大の国ゆう 途中で送ってしまった。
奴国二万戸に比べれば、吉野ヶ里はまだまだ小さい方。 そしてその奴国より重要な機能を持つ国邑として伊都国が記録され、実際に糸島平野には多数の王墓が発見されている。
吉野ヶ里には王墓はない。衛星都市の一つ。 当時 文明は西から東は定説だがな
奈良のくそ田舎に文明が渡ったのは邪馬台国以降
弥生期と古墳期をごちゃまぜにしちゃいかんな
箸墓は前方後円墳 素人でスマン
箸墓をモモソの墓とするならそれ以前の陵墓の比定をひっくり返すことにならないか
畿内説人に聞きたい >>883
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
早く言えこのサギブキジジイ! >>869
>俺は九州説だが纒向は3世紀前半だろ。
3世紀後半には稲部遺跡も出現するし
それで鉄器なし遺跡があったらもう奇跡だよ。奇跡。<
纏向や石塚は、
基本的には九州倭国の「東征毛人55国」の一つであり、
庄内で、且つ前方後円墳であるから、那珂八幡などの後になり、
3世紀の末頃になってしまうでしょうね。 >>871
>纒向遺跡がヤマト王権の首都だったというのは確実なんでしょ?
しかし邪馬台国とは限らない 国名が酷似してるから関連を連想するけど<
根本的に「邪馬台国」なんて、史料に存在しないから、×。
史料事実に沿って、「邪馬壹國」で論理を構築すべし。 >>888
>吉野ヶ里には王墓はない。衛星都市の一つ。
吉野ヶ里の北墳丘墓は、14の甕棺が埋納されていて、
ただ一人の卓越した首長の墓ではないので、王墓ではなく
特別な地位にあった特定家系の家族墓と見なされているが、
それでも墳丘サイズは南北約40m、東西約27mの長方形に近い形態で、
その高さは4.5m以上あったと考えられている
衛星都市の特定家系墓でもこのサイズの墳丘を作っているのに、
12×8メートルの倭王墓なんていうのは考える必要ないだろw しかし久しぶりに覗いたが・・・
週刊誌に出てた
「新・卑弥呼の墓は99%本物だ!」 福岡県で全長450mの前方後円墳発見
ってのは話題になってないのか?w
勿論トンデモを百も承知で週刊誌買って読んだが
(週プレなんてグラビア目当て厨房の頃買って以来だw)
年代おろかそもそも自然地形かどうかも
まだ決まってなさげなのに
(記事の中で古墳と断定してる人はいたが)
99%とかいつもの九州(クズ)説のアレだったなw
しかもこれを卑弥呼と推してる地元の学者ってのが
九州王朝説のご様子とあっては何をか言わんやとwww >>890
>箸墓をモモソの墓とするならそれ以前の陵墓の比定をひっくり返すことにならないか
>畿内説人に聞きたい
私もプロではないが、もともと陵墓の治定は江戸時代の私人蒲生君平の研究成果「山陵志」に
拠って決めてるだけだから、ひっくり返るも何も、最初から正しい保証はほぼない
実際、発掘成果により今城塚古墳が継体天皇の真陵であることは確実と
考えられているけれども、宮内庁が言うことには「現治定の太田茶臼山古墳で
長年お祀りをしているのでこちらにお移りになっていると考える。陵墓指定の
変更は考えていない」(意訳)だそうだ
現治定はもともといいかげんで、信頼性がなく、正しい真陵が
判明したところで変更はされない
ということで、それ以前の治定がひっくり返ったところで誰も気にしないし困らない >>883
>遺跡が畿内には必用
あげ足を取りたい訳でも、重箱の隅をつつきたい訳でもないんだが
「ひつよう」は「必要」だろ?「必用」じゃなくて
一度きちんと変換すれば、あとは予測変換で間違えなくなると
思うから次から直して >>873
>AMS法でプラズマ化をしてしまっていてはダメだ、と言ってんだよ。
これが言いたいだけで、素粒子物理、核物理が分かるって言い張ってるんだよなww
でも書いているのは常識以前の大間違い
>>866
>50年以上前に、私が院にいた時に発表した論理だ。
おもしろいww
どこの大学だ?
大学名くらいなら特定はされないから言うてみ
ちなみに私は東大で博士号取ってるよww >>897
横道だけど
江戸時代の陵墓治定は遅くとも元禄時代から始まってる
寛政期の山陵志はその後の治定作業に影響を与えてないわけではないけれども
あくまでも参考程度にしかなってないよ 畿内説は今回の桃の種の年代をなぜ古すぎると言わない?
炭素年代測定法に疑いを持つことすらタブーなのか? >>899
>AMS法でプラズマ化をしてしまっていてはダメだ、と言ってんだよ。<
>これが言いたいだけで、素粒子物理、核物理が分かるって言い張ってるんだよなww でも書いているのは常識以前の大間違い<
重力場と電磁場とが相互作用をしている、という事の知らず、
同一検体で、ベータ線法での計測値と、AMS法のプラズマ化での計測値の比較、という事も思い至らないwwは、
常識以前の・・・・アホ。
>>50年以上前に、私が院にいた時に発表した論理だ<
>おもしろいww どこの大学だ? 大学名くらいなら特定はされないから言うてみ
ちなみに私は東大で博士号取ってるよww<
最近私のPCが、頻繁に、「検索侵入」されている、という警報が掲示されており、
しかし、その警報そのものも侵入者であった可能性もあり、
だから、一切相手にしていないし、
wwも嘘つき騙しの・・・・であるから、全く信用していない。 え?
「ww」がザラコクのPCに侵入してるって話か?w >50年以上前に、私が院にいた時に発表した論理だ
ドコの病院デスカ? モモソの陵墓の比定は正しくて 他は適当なんて詭弁だな >>906
>モモソの陵墓の比定は正しくて 他は適当なんて詭弁だな
それを言っている人は多くはないよ>「モモソヒメの治定は正しい」
間違ってなくてもおかしくない、くらいで >>900
そうですね。
元禄年間に徳川幕府から「阿波淡路右両国之内、古代之天子葬之場所有之由ニ候云々」として阿波で古代天皇の埋葬が行われた痕跡を徳島藩に調査させている。
元禄十四年四月二十四日(同日)、勝浦郡大原村千代ヶ丸の観音山古墳を徳島藩普請奉行 猪子理五郎等が掘り出した時の記録も残っている。
『(元禄)同十年十一月十九日、土屋相模守殿、御留守居呼出左之書付御渡、
覺
阿波淡路右兩國之内、古代之、
天子葬之場所有之由に候、淡路國三原郡有之旨に候、場所吟味有之候䔡其所に矢奈等被申付、雑人不入込候様可被申付候(中略… )
同十四年四月廿四日、勝浦郡大原村千代ヶ丸觀音山へ、普請奉行猪子理五郎、森脇彌五兵衛罷越、石之櫃堀出し申處に、内に右左品々有之、
一、石櫃長九尺八寸、深貮尺九寸、幅三尺餘、切ふさ貮枚、むぎ合に仕、内樋有之、
一、しやれかうべ貮つ、長サあぎとまで壹尺四寸、丸サ三尺七寸廻り、兩眼の間三寸、
一、上下の齒長さ八分、左奥齒より右之奥齒まで壹尺四寸、兩方の耳幅長さ壹尺五分、
一、今一つかうべの儀は不分明
一、刀一腰長さ六尺八寸、幅貮寸五分、
一、釼二振有之内一振は長五尺五分、幅三寸五分、今一振は長壹尺五寸、幅三寸五分、
一、鉾一、長さ貮尺は丶七寸、石突八寸、
一、矢根廿五本有之、長壹尺貮寸、幅三寸、
一、からうとの内かうや貮つに書付添、
右之通 以上』
「古代天子葬之場所有之由の候… 」 この記述から、徳川幕府は阿波国に古代天皇陵が存在することを知っていたことになる。
反正天皇は「古事記」に「御身の長(たけ)九尺ニ寸半、御歯の長さ一寸、広さニ分、上下等し斉(ととの)ひ、既に珠を貫けるが如くなりき。」と記録されているが、
こちらの記録と千代ヶ丸 観音山古墳の埋葬者の身体サイズときちんと一致している。
徳島市は大原町千代ヶ丸。この千代ヶ丸山 観音山古墳は、実は反正天皇の御陵跡であったのである。 @阿波 >>902
>重力場と電磁場とが相互作用をしている、という事の知らず、
出た!ww
重力場ってww
重力、弱い力、電磁気力、強い力の順で強くなるのは知ってるか?
重力は弱すぎて、原子核内のような強い力の働く領域では、ネグって構わないものだよw
>同一検体で、ベータ線法での計測値と、AMS法のプラズマ化での計測値の比較、という事も思い至らないwwは、
あっそうか!
ザラコクはAMS法でも、β線を計ってると思ってるんだ!
それは思いもよらなかったわ! 確認しなくてごめんなぁ!
AMS法では、原子核の質量そのもので分離して原子核一つ一つを数えるんだよ!
AMS法ではβ崩壊速度は関係ない
かといって、プラズマ化したからといって、原子核の崩壊率には何の影響も一切ないけどな
>常識以前の・・・・アホ。
ザラコクと常識が同じだったらヤバいわww >重力、弱い力、電磁気力、強い力
ザラコク先生の頭の中じゃ統一場理論がカンセーされてるかもしんないwww >>908
その「古代」って現代用語と意味が違って「過去」って意味
で、阿波には土御門が流されているから調査対象になっただけ >>911
>その「古代」って現代用語と意味が違って「過去」って意味
「古代」も「過去」じゃなかったっけ?
>で、阿波には土御門が流されているから調査対象になっただけ
で、反正天皇の御陵跡が分かったんだから、めでたしめでたし。
で、結局「阿波淡路右両国之内、古代之天子葬之場所有之由ニ候云々」だった訳だ。 @阿波 >>912
そう主張したけど幕府には無視されて終了
昔も今も徳島にはおかしな人がいたってこと 畿内説的には何故南じゃなくて東なの?
説明してくれる?
これ説明出来ない限り畿内説は成り立たないよ? >>913
>そう主張したけど幕府には無視されて終了
無視されたという根拠は?
当時はこの「勝浦郡大原村千代ヶ丸觀音山」に葬られた人物が誰なのかを知る術もなかっただろう。
だが、この貴重な発掘調査・資料が文献で残っていることがすばらしい。
後世の研究に繋がった意義は大きい。
ところで、他所ではどのような元禄時代の陵墓調査記録があるのかな?
もしかして、これも「阿波」だけ? @阿波 >>914
倭人伝の「会ケイ」の東・・・って鹿児島よりも南になるけど
倭人伝の方角や距離の記述はかなり大雑把というか 大陸の常識では、倭国は南国なんだよ
所有無與儋耳朱崖同って書いてあるし、
夏后少康之子封於會稽で、計其道里、當在會稽、東冶之東というのが陳寿の認識
だから、なんでも南にしてある
末慮国から伊都国が、実際は北東なのに東南陸行と書いてあるのは
別の理由(本来の行き先が別の経路)だと思うけれど
最初の倭人在「帶方東南大海之中」の範囲であれば、
南と東はどうでもいいと思っていた節もある >>917
>元禄の修陵を知らんのか?
だから、阿波以外で「掘り出した時の記録」が残っているの?
もしかして、これも「阿波」だけ? @阿波 >>916
それは既に何度も説明されているけど水行は潮に流され風にも煽られたりと、当時は人力だから遠く感じて仕方がない。例えば100m船を漕いでも環境次第では500m分のエネルギーを使うだろう。
しかし方角は太陽と月がある限り間違える事ははい。 >>919
古記録に照らし合わせて天皇陵を探し出して保存しようとする事業なのに
畏れ多くも掘り荒らすという破壊行為をドヤ顔で報告してきたのはキチ阿波だけ あ、訂正w
古記録に照らし合わせて天皇陵を探し出して保存しようとする事業で落選したからといって
掘り荒らすという破壊行為に及んだのはキチ阿波だけ >>921
>畏れ多くも掘り荒らすという破壊行為をドヤ顔で報告してきたのはキチ阿波だけ
ほんとだね。 だけど、当時もまさか「勝浦郡大原村千代ヶ丸觀音山」山稜に大王墓が在るとは思わなかったんだよ。
やはり、大王墓は山稜に在るんだね。 @阿波 記録や学問的成果を無視あるいは牽強付会した妄想を喚き散らすのは阿波の伝統なのか? >>902
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今言えサギジジイ! >>920
>それは既に何度も説明されているけど水行は潮に流され風にも煽られたりと、当時は人力だから遠く感じて仕方がない。例えば100m船を漕いでも環境次第では500m分のエネルギーを使うだろう。
そんな説明よりも、今の日本が倭と呼ばれるようになる前に、百越の一派に
倭と呼ばれる集団があって、それと同祖とみなされたから倭と呼ばれるようになった
だから南方系、という方が説得力がある
典拠は論衡
巻八儒増篇第二六
周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶
巻一三超奇篇第一八
周時天下太平 倭人來獻鬯草
巻一九恢国篇第五八
成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯
>しかし方角は太陽と月がある限り間違える事ははい。
実際に倭国を訪れた魏使の報告書が間違っていなくても、
それを見て史書を撰述する史家が、大陸の常識に従って「南のはず」と
判断するのは普通にありえる
「間違えることははい」というのは誤変換だよね
本来は、「間違えることは、はい、あります」かな? >>926
百越の倭が渡来定着した事を証明する証拠遺跡も、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器も土壁の中国系住居も
石刃の中国系耕作用農具も中粒種のイネも漢字の金石文も龍信仰も亀卜も一切ない。
漢人の単なる勘違いか、別物だと知ってて故意に同名を付けたかのいずれか。 日本最古の神社は大神神社ではなく高鴨神社だ。
大神神社は崇神の時代。
高鴨神社は孝昭の時代。
その高鴨神社よりさらに上座にあり、
もはやいつ頃出来たのかも分からない古い名神大社がある。
高天彦神社だ。
場所は御所市高天。
高天原最有力地である。
つまり高天彦神社は奈良盆地最上座に位置し、最古かつ最聖の神社である。
その高天彦神社の境内に径百余歩ほどの塚があり「奴婢」が埋葬されている。
http://9327.teacup.com/zenyamaren/img/bbs/0001836M.jpg
埋葬された奴婢とは土蜘蛛である。
かつて葛城で土蜘蛛を退治した男がいた。
日向から来た神武である。
それはヒメ(踏鞴五十鈴)=ヒミコの時代でもある。
纏向に卑弥呼墓などあるわけがない。
アホの>>1www
アホの>>1www 高天原は御所の高天で正しいと思うが、卑弥呼とは全然関係ないと思うぜ。 >>916
>倭人伝の「会ケイ」の東・・・って鹿児島よりも南になるけど
倭人伝の方角や距離の記述はかなり大雑把というか<
「計其道里、當在會稽東治之東」の「計其道里」は地の文である事を示しており、
だから、当然「魏使らの記録からの陳寿の判断」である事を示し、
揚子江河口南岸から九州方向は、「東〜東北東」の範囲内にあるので、
陳寿の判断はほぼ合っており、
「倭人伝の方角や距離の記述はかなり大雑把」という事にはならない。 >>918
>大陸の常識では、倭国は南国なんだよ<
いや、陳寿は、「計其道里、當在會稽東治之東」という計算。
>所有無與儋耳朱崖同って書いてあるし、<
「其風俗・・・所有無與儋耳朱崖同」という記載であり、
風俗の類似がある、と言っているだけ。
>夏后少康之子封於會稽で、計其道里、當在會稽、東冶之東というのが陳寿の認識
だから、なんでも南にしてある<
誤魔化してはいけない。「東冶」ではなく「東治」。
>末慮国から伊都国が、実際は北東なのに東南陸行と書いてあるのは
別の理由(本来の行き先が別の経路)だと思うけれど<
これも×。
陳寿の行程説明方法は、「出発説明+途中説明+到着説明」の原則であり、
「東南」は、(目的地方向ではなく)、出発時点での出発方向説明。
>最初の倭人在「帶方東南大海之中」の範囲であれば、
南と東はどうでもいいと思っていた節もある<
ない。
魏や郡役人や魏使らは、南と東とをほぼ全く間違っていないし、
唐会要倭国伝でも倭国の位置を「新羅の東南」且つ「正北抵新羅」と書いており、
九州を特定している。 >>920
>それは既に何度も説明されているけど水行は潮に流され風にも煽られたりと、
当時は人力だから遠く感じて仕方がない。
例えば100m船を漕いでも環境次第では500m分のエネルギーを使うだろう。
しかし方角は太陽と月がある限り間違える事はない。<
南北間の海上距離や遠距離は、目視出来れば簡易三角測量でも里数の概算が出来るし、
目視出来なくても、一寸千里の法で概数計測出来る。 三国時代は領土だけじゃなく科学の諸分野でも覇を競っていた。
その副産物として数学も発達したから、当然特に魏と呉がその領土拡大の
最遠部での派遣を巡って嘘の記事を書くわけはない。他国から馬鹿にされる。
魏の換骨奪胎によって成った晋は魏の直系であり、書いた人は蜀の官僚。
畿内説が言う「倭人伝は嘘」説は、根拠がない。
箸墓や巻向だけ都合良く調節しておいて他は嘘というダブスタは学問と呼べる
代物じゃない。
正史編纂でミスったら首が飛ぶ世界にクズ学者共を連れていきたいね。風説流布で
全員死刑w 壮大な宮殿を建ててる連中が南と東を方角間違えるって
無理矢理にもほどがある
畿内説者は古代人馬鹿にしすぎだな 日本の神話(記紀神話)自体
『松傾』の話だと書いてない? 『ボーボボ』
『ずっとオレのターン』
『何者にもなれない お前たち』
同じ画像ばかり出て来たり 馬鹿馬鹿しい
魏志倭人伝なんて全体から見れば巻末の付録程度
風俗風習についても東南アジア地域との混同は大昔から否定されてるところ
陳寿が倭国にやってきた魏使のものもした(単一の)記録を直接見て
書いたという保証は何処にもない
「素直に読んだらピタリと分かるな」
どとほざく九州説はおよそ学問じゃない
と言うか倭人伝の行程記事を読み解けば
必ず邪馬台国にたどり着けるという前提がなければ
そもそもゲームが成り立たない
メディア・出版業界によって作られたブームと言う産物昭和の遺物 『日本昔話』=『ドラゴンボール』?
『るろうに』という作品のwiki
>あなたの畠に作った茄子や胡瓜は、どうなさいます。
>善い加減のトキにちぎって、沢庵にでもおつけなさるでしょう。
>アイツラはそれと同じことです。
家の写真みたいじゃない?胡瓜のような葉、葱の華・・・などが写っていたり、
むかーし、家に凄い刀(謎の刀)が飾ってあったとか 老婆が言うには馬に乗って・・・
何やらという話をしていた、
腰に刀を差し、どこだったかな〜城があってとか >>933は>>934のツッコミの意味が分かってるのか?
そもそ三国志は陳寿のあくまで私撰であって
正史に咥えられるのは陳寿の死後のことだ
そのことを>>934は笑ってるのだろうと思うが
もっとも仮に朝廷で編纂したものであっても
東海の彼方にある倭国の情報に誤りがあったとて
首も飛ばなきゃ史書としての評価に影響もないだろう
老婆は二本松のほう、
家が伊達郡?川俣町のほうに住んでいた・・・という話 「老婆ガー」とか喚く基地外
まだ居座ってるんだな
どうせ意気軒昂にこの板の邪馬台国スレにやってきたが
相手にされなかったりコテンパンにやられた
ゴミクズレベル九州説(東遷説・九州王朝説)の成れの果てだろうが なぜ家の話をしているのか?なんだよな、
伊達郡の川俣町という掲示板でしょ、
香野という家があったという話などもそうでしょ
実際(現在というか、かなーり前の事だと思うんだけど)、
住んでいるところは神奈川県の川崎市川崎区 どういう事なんだろう、
いまも川崎に住んでいるんだけど、
近所の寺院に通っていたと言っていたり
このスレの話というのは超時空(悪く言うとデタラメ)のような話でしょ、
もれ(仮)の話は、時代的には最近というか現在? 本当の話
兄、弟、妹:5月15日生まれ、
あの写真(胡瓜の葉、葱の華・・)の家
むかーし住んでいたことがあるんだよ
というところが伊達郡とか川俣町・・・?そっちのほう これも偶然なんだけど凄い話
5月生れ、おうし座、金牛宮?
『金の子牛』 >>942
>そもそ三国志は陳寿のあくまで私撰であって
>正史に咥えられるのは陳寿の死後のことだ
陳寿の死後、どころじゃないよ
正史と認められたのは、唐代の初め、7世紀になってから 亀戸天神?
牛の像があると書いてあるでしょ、
むかーし遊びに行ったりしたと言っていたり
老婆が生まれるよりも前の話、
老婆も、そういう話を聞かされたんだと思う レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。