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聖徳太子の正体は、押坂彦人大兄皇子だった。
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0001日本@名無史さん
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2018/05/18(金) 11:07:52.47
聖徳太子の正体は、押坂彦人大兄皇子だった。
0002ココア ◆OO1bbXYxqU
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2018/05/18(金) 11:15:32.33
結論を先に言うと
「聖徳太子=押坂彦人大兄皇子」で間違いない。

推古天皇が即位したことになっているが、日本に来た中国の皇帝の使者は
日本側の女帝の存在を認識すらしていない。つまり、推古天皇は実在ぜず
「聖徳太子=押坂彦人大兄皇子」が実際の第33代天皇である
0003ココア ◆OO1bbXYxqU
垢版 |
2018/05/18(金) 11:17:43.08
第33代推古天皇は架空の人物で
押坂彦人大兄皇子が実際の第33代天皇である。

第34代舒明天皇は、押坂彦人大兄皇子の息子である。
第35代皇極天皇は、押坂彦人大兄皇子の孫である。
天智天皇と天武天皇は、押坂彦人大兄皇子の曾孫である。
0004ココア ◆OO1bbXYxqU
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2018/05/18(金) 11:19:33.14
押坂彦人大兄皇子は「太子彦人皇子」「忍坂日子人太子」とも呼ばれており
そもそも名前に「太子」が入る人物である。
これは聖徳太子が押坂彦人大兄皇子と同一人物だからである。
0005ココア ◆OO1bbXYxqU
垢版 |
2018/05/18(金) 11:20:47.42
押坂彦人大兄皇子は、天智天皇よりも大物である。

『延喜式』には押坂彦人大兄皇子の墓についての記載があるが
その墓域の広さは東西15町、南北20町と尋常ではない大きさである。
これは『延喜式』では最大の大きさである。
父の敏達天皇が東西3町、南北3町、
天皇としては最も大きい天智天皇でも東西14町、南北14町にすぎない。
0006ココア ◆OO1bbXYxqU
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2018/05/18(金) 11:24:34.74
『隋書』
開皇20年(西暦600年)、俀王あり、姓は阿毎(アマ)、字は多利思北孤(タリシヒコ)、阿輩雞弥(オオキミ)と号す。
王の妻は雞弥(キミ)と号す。後宮に女六七百人あり。太子を名づけて利歌弥多弗利(ワカミタフリ)となす。
大業三年,其の王多利思北孤,使いを遣わして朝貢す。使者曰く『海西の菩薩天子重ねて仏法を興すと聞く。故に遣わして朝拝せしめ,兼ねて沙門数十人来りて仏法を学ぶ』

阿毎多利思北孤
・姓は阿毎(アマ)、字は多利思北孤(タリシヒコ)
・阿輩雞弥(オオキミ)と号す
・太子を名づけて利歌弥多弗利(ワカミタフリ)となす

押坂彦人大兄皇子
・太子彦(タイシヒコ)と呼ばれる。
・大兄君(オオエキミ)と呼ばれる。
・子供(ワカ)の名前は田村(タフリ)である。

※日本書紀では「村」を「フリ」と読む

倭王・阿毎多利思北孤と押坂彦人大兄皇子が同一人物であることが『隋書』の記述からわかる。
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