晋の郊祀制度は泰始2年以降、
感生帝説と六天説を否定し、天帝の神格は一つとする立場から園丘(昊天上帝を祭る壇)と南郊(守護神としての天を祭る壇)は
同一の場所(方沢と北郊も同じ)で(昊天上帝一柱を南郊で)祀り、年一回のみとする。東晋以下南朝系で実施される。

晋書礼志に、
「十一月庚寅(一六日)の冬至には武帝「親ら円丘を南郊に祀る。是より後、円丘・方沢(=方丘)を別に立てず」とある。