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凸凸凸日本の城総合スレ凸凸凸Part36
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0001日本@名無史さん
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2018/05/23(水) 14:29:14.62
荒れないためのルールを作っておきます。

・城壁の議論や城壁以外の議論を妨害・規制することを禁止
 両者とも双方敬意を表して尊重し共存してマターリ進行すること。

・中世の城スレッドなどの他のスレッドへレスするか
 当城総合スレッドに書き込むかは各人それぞれの自由な選択に基づき任意である。

・他のスレッドへの強引な勧誘、誘導は差し控えて、レスする当人の自由な選択を
 スレッドの住人間相互に尊重すること。

・落とし格子に関する議論をスルーしたりして妨害するのは禁止です。

以上のルールを立てておきます。
城総合スレッドですので城壁の議論だろうがそれ以外の議論だろうが、
規制する行為は荒らし行為と見なし、両者相互に尊重してマターリ共存していきましょう。
また、上記ルールを否定、批判するのも荒らし行為といたします。

前スレ

凸凸凸日本の城総合スレ凸凸凸Part35
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1495030368/
0699日本@名無史さん
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2019/05/09(木) 23:53:54.55
>>697
テレビや雑誌のランキングに明確な定義も基準も無いと思うけどなあ
それに広かったり高かったりしたら最強ってわけでもないだろうし
0700日本@名無史さん
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2019/05/10(金) 08:04:10.32
とにかくみんなはランキングが好き。
それだけのことだ。
乞食の世界にだってランキングがあるのだからなww
ちなみに共産主義運動だって、ランキングのつけあいで結局
殺し合いになって自滅したしww
0703日本@名無史さん
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2019/05/10(金) 19:22:24.92
>>697が比べられる基準を提示してみてはどうだろうか。
そんなことが、できるならw
0708日本@名無史さん
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2019/05/11(土) 21:01:24.68
競馬だったらキタサンブラックとゴールドシップを比べるようなものだな
時代がちがうものを比べても意味がない
0710日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 00:35:59.47
別に意図的に抜粋はされてないよ
ただ688でも書いたように687の最後の二行が完全に妄想ってだけ
ただ彼自身割とブレブレの事を言ってるのは事実だし、論調が変わることは多い
要は、時間と共に事実が明らかになっていくことで説が変わったと捉えるか、単に自分の利益のために論調を変えてると捉えるかは個々人の裁量に委ねられてる
それと、彼がツイッター芸人気質なのも事実
0711日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 12:13:54.87
城の魅力を存分に伝えられる番組なら参道するんじゃないの
0712日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 17:12:59.20
千田の矛盾だらけの発言は今に始まったことではない
0717日本@名無史さん
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2019/05/13(月) 23:27:16.69
肥前名護屋城は昔、古川博士の設計で会津若松城と唐津城を参考にして復元予定になっていたらしいな
0719日本@名無史さん
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2019/05/14(火) 23:12:11.87
>>716
寛永四年、京都新城取り壊し開始
飛雲閣附属建物に寛永五年三月から寛永六年八月迄‥の墨書
飛雲閣は秀吉の遺構、徳川の寄進と伝わる
0720日本@名無史さん
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2019/05/15(水) 07:48:24.23
官邸サイドから文化庁に城は保存よりも活用に
舵を切るべきとのお達しが出たとか
0721日本@名無史さん
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2019/05/15(水) 11:10:32.58
>>715
肥前名護屋城(1591)の棟梁も、大坂城(1583)大和郡山城(1585)聚楽第(1586)石垣山一夜城(1590)指月(1594)木幡山伏見城(1596)まで、
秀吉(秀長)居城天守をすべて手掛けたであろう中井正吉(1533-1609)だろうから、外壁仕上げを除き、慶長伏見大地震で望楼がズレ落ちた指月伏見城までは構造的はほぼ同じと思われる
よって第一層をだるま落しすれば聚楽第天守、第二層もだるま落しすれば石垣山一夜城天守になりそう
0722日本@名無史さん
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2019/05/15(水) 17:40:48.83
>>715
最上階だけ真壁…それみて思い出したが、
関ヶ原後の家康(中井正清)による再建(木幡山)伏見城だが、屏風絵が3種類ある。
@全階真壁の堺市博物館本、A最上階のみ真壁&下四層が白漆喰塗籠の池田本、B全階白漆喰の出光美術館本、薮本本。
その理由として、白漆喰塗籠の普及&流行があると思うが、↓のように推理した。諸兄の御意見よろぴく。
@堺市博物館本…1600年、家康再建直後(全階真壁)
A池田本…1605年、新将軍・秀忠の御座所として改装(最上階のみ真壁、下四層白漆喰塗籠)
B出光・薮本…1614年、大坂冬の陣、将軍秀忠本陣として改装(全階白漆喰塗籠)
0723日本@名無史さん
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2019/05/15(水) 18:05:25.36
>>722
所詮は絵画、という野暮天を置くとして

伏見城は慶長6年から10年まで毎年のように工事をしているから、
それに併せて改修した可能性はある

似た例として松の丸前の馬出があるし
0724日本@名無史さん
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2019/05/15(水) 18:54:43.17
>>723
付き合ってくれて、おサンクスコ!

>伏見城は慶長6年から10年まで毎年のように工事をしているから、
江戸城も全国から大名がやってくるようになって、本丸御殿がどんどん手狭になり、
慶長天守が元和・寛永と代替わり毎に、北へ北へと追いやられていく
信長・秀吉・家康・秀忠・家光までは、天下取りの過程だから、
創建当初の想定を超えて全国から大小名が所領の安堵や陳情、隣国との領土争い仲裁などに殺到して、拡張増築を繰り返さねばならなかったと思われ

ついでに「権現様お好み」天守って具体的に何だと思う?
浜松城、慶長江戸城、駿府城、姫路城の例から類推するに、大天守に小天守3つで「天守(台所)曲輪」を形成する「環立式天守」に「(夏も雪が積もって見える金沢城みたいな)鉛瓦葺き屋根」だと思うんだが、どうかな?
家康の代まではまだ秀頼が健在だったから、いつ天下の風向きが変わるか判らず、万一の籠城戦に備えて、台所を備えた天守曲輪、溶かして鉄砲玉にできる鉛瓦が必要と思ってたからでゎ?と
0727日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/16(木) 06:53:41.22
>>724
関ヶ原での勝利以降、豊臣五大老とはいえ事実上の天下人となった家康の天守を建てたのは棟梁・中井正清(秀吉が重用した中井正吉の息子)。
それらの編年は、
再建木幡山伏見城(1600)慶長二条城(1606)慶長江戸城(1607)駿府城(T1607U1608)名古屋城(1611)豊臣滅亡(1615)家康死去(1617)
家康が自らの居城として0から設計して建てたのは慶長江戸城と駿府城TUの3城。
近年の江戸始図や駿府城天守台基部の発掘調査から、前者は大天守+小天守2の連立式、後者は大天守を4棟の小天守が回の字に取り囲む特殊な環立式で、
いずれも天守曲輪を形成することがその目的と思われる。天守曲輪をそなえた姫路城も1609年で、慶長期の家康(娘婿)居城にのみ見られる特色である。

「鉛瓦」に関しては「江戸城の天守は五重。鉛瓦にて葺きたまう。富士山に並び、雪の嶺に聳え、夏も雪かと見えて面白し」で明らかだし、
駿府城に関しては、1層目は四方高欄、2〜3層目は土瓦、4〜6層目が白鑞(しろめ・鉛と錫の合金)瓦、最上階7層目のみ銅瓦と、合計3種類の瓦が使われていた。
その理由としては、溶かして鉄砲弾にするという金沢城(前田利家1580)のアイデアをヒントにしている可能性が高いが、慶長期に頻発した全国各地の大地震被害状況を踏まえた中井正清による、
家康居城天守の大型化に伴う、屋根瓦の軽量化(耐震性の向上)が目的だったのではないだろうか。
0728日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/16(木) 07:24:15.94
また「権現様お好み」の外壁仕上げだが、木幡山再建伏見城は、再建を急いだためか柱を露出した真壁で、
秀長の大和郡山城から移築した可能性が高い慶長二条城は真壁ながら、その上から白漆喰塗籠とした長押型出し白漆喰塗籠となっている。
おそらく移築に際し、京の都には白亜の天守が優雅と考えてのことだったと推察される。
https://twitter.com/fukuhen/status/445442674951077889/photo/1
この慶長二条城から家康の好みは(現在の皇居の櫓同様の)長押型押し出し白漆喰塗籠になったと思われ、続く慶長江戸城も同様と思われる。

ただ凍傷大権現絵巻に描かれた駿府城U期天守を見ると、元和・寛永江戸城同様、外壁の長押から下がおそらく銅板になっている。
https://castleinformation.blog.so-net.ne.jp/upload/detail/m_nagoya20559.jpg.html
その理由をあえて推察するに、後の寛永大坂城や名古屋城と異なる、駿府城の立地が考えられよう。
創建当初は長押型出し白漆喰塗籠だった外壁だった(↓東海道図屏風)が、
http://www.shizuoka-bunkazai.jp/blog/images/%E9%A7%BF%E5%BA%9C%E5%9F%8E%20%E6%8B%A1%E5%A4%A7%E5%86%99%E7%9C%9F.jpg
伊豆半島を震源とする半ば慢性化した小地震により細かいヒビが入り、そこに雨水が浸透してカビだらけとなったため、数年後の改装時、
金属で軽量化し耐震性を高めるという金属瓦(最上階の銅瓦)のアイディアを、外壁にも適用したためと思われる。
元和江戸城(1623)の本丸北西隅に移動&新築にあたり、連立式から単立式へ変更→超巨大化したため、棟梁中井家では、
(駿府城U期改装天守で実証済みの)金属瓦+外壁(共に銅)を採用していることからも、上記推理は裏付けられよう。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0729sage
垢版 |
2019/05/16(木) 08:15:49.10
江戸始図に連立式(環立式)の天守台(北に付け櫓と枡形虎口を挟んで多聞櫓、西に枡形虎口を挟んで小天守一棟)が描かれている慶長江戸城、
最近千田嘉博氏が新しい案を発表したけど、漏れは敢えて黒田家蔵の大坂夏の陣図の天守(白漆喰壁に修正したもの)を挙げたい
https://tabi-mag.jp/os0065/

漏れの巨根、じゃなくて根拠はこちらw
-大阪城図はじめ、京大阪図、冬の陣図とも全く異なる天守であること
-中井家本丸図に描かれた単立式+付け櫓ではなく、小天守が大天守を取り囲む連立式(環立式)であること
-姫路城、彦根城、駿府城など、慶長期の家康天守に共通して見られる最上階の唐破風(秀吉天守は三間四方)
-最上階高欄下に描かれた寅(家康を象徴)

これらから、家康に面従背腹の黒田長政が、家康の慶長江戸城を、落城した豊臣大坂城として(腹)黒く描かせるwことで、
徳川将軍もいつかこうなるだろう(こうしてやるw)と揶揄しているのを、解る人にだけ解るように描かせたと思われるw
0731日本@名無史さん
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2019/05/16(木) 12:42:37.10
>>729
西ヶ谷氏も似たような説をだしてたな
黒田屏風の天守には宇和島、福井、加納等の徳川型天守の特徴が盛り込まれていると
しかし俺は冬の陣図、京大坂図の天守は秀吉時代で夏の陣図の天守は秀頼時代の天守だと思っている
0732日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/16(木) 12:48:38.14
慶長度江戸城(1607)は、同時期の姫路城(1609)に彦根城(1603)の最上階高欄(実際に出られる)を付したデザインが有力。すなわち、

妻側…D大屋根+C唐破風⌒+BA突破り大屋根△+@比翼千鳥△△
平側…D唐破風⌒+C千鳥破風△+B比翼千鳥△△+A大唐破風⌒+@無破風

また、駿府城U(1608)・名古屋城(1611)天守同様、1層と2層が同大であった可能性も高い。

ちなみに名古屋城の内部構造は、同面積の下2層に3層の望楼を載せた後期望楼型(半間ズレた柱筋に注目)ながら、外観は層塔型であるため、前期(なんちゃって)層塔型。
https://www.freeml.com/bl/10034699/360328/
それに4年先立つ慶長度江戸城天守が中井家指図(柱筋が完全に通る後期層塔型)であるとする故宮上重隆(竹林舎)の比定は完全に誤りである。
その残党と思しき「立て板の書き込み」は、その無理な比定から逆算して、層塔型の誕生を慶長度江戸城からとするネット喧伝を至る所で行っており、要注意である。
慶長度天守の翌年に再建された、最上階高欄や2層分を突き破る下層部大屋根を廃していない駿府城Uも、それを裏付ける。
おそらく、寛永度江戸城には比定できない津軽古図(江戸御天守図)を無理に実現した図面として、元和度天守に比定したためと思われる。
当然ながらその特異な破風配置は、江戸城天守を描いたどの天守にも一致せず、不採用となり実現しなかった計画図と断定できる。
https://castles.xsrv.jp/2013/02/05/%E5%9F%8E%E3%81%AE%E5%86%8D%E7%99%BA%E8%A6%8B%EF%BC%81%E5%85%88%E8%A1%8C%E6%B4%BE%E7%94%9F%E8%A8%98%E4%BA%8B%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E3%81%AE%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9F%8E%E5%A4%A9%E5%AE%88%E3%81%AEe/
0733日本@名無史さん
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2019/05/16(木) 12:49:43.49
元和度江戸城(1623)は、元和と言う年号から秀忠(将軍在位1605-1623)を連想してしまいがちであるが、
実際は家光(将軍在位1623-1651)への代替わりのため、本丸御殿の拡張に伴い、本丸北西隅に新築したものと思われ、
棟梁は中井正清の子で、寛永度二条城(1624・廃城となった木幡山伏見城から移減築、行幸した後水尾天皇が登閣)や寛永大坂城(1626)も担当した中井正侶。
全階の柱筋が完全に一致した中井家指図が無理なく比定でき、家光の治世を描いた江戸図屏風・江戸名所図屏風・武州豊嶋郡江戸庄図の3点の天守の破風配置にも完全に一致する。

妻側…D大屋根+C無破風+B千鳥破風△A比翼千鳥△△+@千鳥破風△
平側…D大屋根+C無破風(出窓唐破風)+B無破風+A千鳥破風△+@比翼千鳥△△
0734日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/16(木) 13:07:04.82
>>731
>しかし俺は冬の陣図、京大坂図の天守は秀吉時代で夏の陣図の天守は秀頼時代の天守だと思っている

つまり、冬の陣(1614.11)と夏の陣(1615.5)の半年間に大急ぎで建て替えたってこと?
徳川秀忠が外堀(→内堀)を埋めてる最中に、そんなことしたら、大変なことになると思うんだけど…
0736日本@名無史さん
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2019/05/16(木) 15:38:11.32
>>728
最上階の高欄から凄い雨漏りがしたので、大御所家康が名古屋城でもこうなのか?と不満を言ったので、名古屋城では最初から高欄を付けなかったらしい

>>>729 >734
大坂城図、京大坂図、冬の陣図は、絵師が大坂城の現物を見て描き、
夏の陣図はかなり後になって描かせているから、その時の天下人クラスの大天守と言えば、慶長江戸城と駿府城ぐらいしかなかったから、それを黒く描いたと思われ
0737日本@名無史さん
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2019/05/16(木) 16:24:24.24
愚子見記の慶長度江戸城天守と寛永度江戸城天守を比較すると、
1階平面は同じで、最上階は5尺小さい、棟高も5尺低い

ここまで一致していると基本構造が同じと見るべき
0738日本@名無史さん
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2019/05/16(木) 17:46:41.86
>愚子見記の慶長度江戸城天守と寛永度江戸城天守を比較すると
>ここまで一致していると基本構造が同じと見るべき

愚かな子が見て記す...だから宮上氏に騙されて竹林舎なんかに入っちゃうんだよw
後出しジャンケンの安土城もダメ、夏の陣図を鵜呑みにした豊臣大坂城もダメ、駿府城もダメ、復元案全部ダメじゃん!w
0739日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/16(木) 18:45:23.83
名古屋城のはね出し架構には、いちゃもんつけるくせに何なんだこいつは

https://www.sankei.com/life/news/190514/lif1905140020-n2.html
弘前城では石垣修理の完了後に改めて、重要文化財の天守を天守台石垣の上に戻す。
ジオテキスタイル工法などで補強した上で、万が一の大地震に天守台石垣が耐えきれず崩壊したとしても、
その上に建つ天守は石垣から崩落しないようにしなくてはならない。
そこで天守台石垣の中に、天守の基礎になるくいを設置するなどの補強策も議論している。
これまでの城跡整備では、石垣の内部構造を破壊するので、石垣内にくいを打つのは許可されなかったが、
城跡の歴史的価値と安心・安全を高度に調和させるのが時代の要請である。
0741日本@名無史さん
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2019/05/17(金) 19:36:13.46
>>738
宮上氏は岐阜城でもやらかしているよ
山麓の四層天守→その後の発掘調査で4段の平屋御殿と判明
山頂の三層天守→池田氏時代の山頂天守(加納城へ「御三階」として移築)を信忠→信孝時代を飛ばしてそのまま信長時代に比定
→現在ではほとんどの学者が、記録から同時期の家臣の飛騨高山城や長尾城のように平屋御殿に望楼を載せたものと推定
もう滅茶苦茶…
0742日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/17(金) 21:11:21.30
駿府城天守を望楼型にした上で小天守付ける内藤晶もどうかと思うが
悪いけど城郭研究家は何れも傷だらけだよ
0743日本@名無史さん
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2019/05/17(金) 21:36:14.76
>>742
駿府城も望楼型にしとかないと、津軽古図を元和江戸城に比定できんもんなwww
0745日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/17(金) 21:56:00.86
>>732 
あっ、そういうことか!
中井家指図はどう見ても寛永大坂城と同じ完成度の後期層塔型、内部構造は2重櫓+3重櫓の望楼型の名古屋城の前じゃないでしょ

>>738 >>741
岐阜城(加納城御三階を比定)、安土城、豊臣大坂城(夏の陣図そのまま)は全部ゴミ箱行きw
巻き返そうと
@寛永江戸城には比定できない津軽家古図を無理矢理元和江戸城に比定するため、
A中井家指図を、規模がほぼ同じなのを良い事に >>737 慶長江戸城に比定し、それを前提として
B続く駿府城も中井家指図をベースに後期層塔型に復元

慶長度江戸城(A後期層塔型の中井家指図を比定)→駿府城(B中井家指図をベースにした層塔型w)←元和度江戸城(@津軽古図を比定するため)

建築技術の発展段階を無視した強引な比定を重ねる故宮上重隆氏は城郭史研究の汚物と言っても差し支えないな…
0747日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/17(金) 22:12:54.44
>>745
ホントだw 宮上案駿府城、中井家指図ベースだw
http://castles.chicappa.jp/2013sp/2013report

でも、こんだけ執拗にネット工作を続けてるのに誰も賛同者が現れない「立て板の書き込み」はおそらく故宮上重隆の息子さんなのだろうw
0748日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/17(金) 22:41:00.48
内藤晶の
前期望楼型→後期望楼型→前期層塔型→後期層塔型
進化説を信じる人か
0749日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/18(土) 05:38:07.92
信じるも何も、
名古屋城‥見た目は大人(層塔型)中身は子供(望楼型)の前期層塔型(少年コナンw)
中井家指図…見た目も大人(層塔型)中身も大人(層塔型)の後期層塔型(入側柱筋が完璧に一致した寛永大坂城とほぼ同じ完成度)。慶長度江戸城には比定できないよw 諦めなwww
0750日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/18(土) 08:20:32.33
>>744
藤岡通夫氏は津軽家絵図は寛永度江戸城の計画図と推定していた
そもそも家康が生きていた時代の慶長度天守内に東照宮があるとかおかしいだろ
0751日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/18(土) 08:31:12.75
津軽家絵図は天守台の構造からして高さ10間に20間四方の慶長度の天守台と違う
0752日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/18(土) 09:00:14.23
>>749
名古屋城が前期層塔型とする考えがそもそも間違い
あれは1・2階が同大の層塔型天守それだけの話
そして慶長度江戸城天守で完成して何か問題ある?
0754日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/18(土) 12:21:03.14
故・宮上重隆の息子「立て板の書き込み」...このスレが過疎ったのはこいつのせいだな
0755日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/18(土) 12:47:35.22
>>745
宮上氏の復元案は、指図の比定や独自復元案、それらすべて間違いと言って良い

>>750
中井家指図は元和度天守の特徴に完全一致してるから、津軽家古図は採用されたなかった計画案で、
おそらく宮上氏は最上階に東照宮があったという記録から、実現した天守と短絡してしまったのだろう
0756日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/18(土) 14:47:29.43
>>755
徳川大坂城天守と破風配置が同一の中井家指図が元和度江戸城天守なら、
同時期に江戸と大坂に同じ破風配置の天守がいたことになるのだが
0757日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/19(日) 00:02:26.15
常々思うけど徳川幕府が天守の高さや新規改修を規制したのは何故だろう
むしろ煽って財政圧迫させてやればいいじゃんと思う
0758日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/19(日) 03:47:35.18
威信財という観点から見るべき

豪奢や贅沢が身分の高さと連動する劇場国家なんだよ。
0759日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/19(日) 14:36:33.75
552 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2019/02/12(火) 00:43:27.15
一国一城令は分らんでもないけど改修や天守の階層制限は意味わからない
城に金使わせて疲弊させることもできたのに
0760日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/19(日) 19:24:41.12
御公儀江戸城天主再建を致さざる所に諸侯此れに遠慮の気配無きと申すか
徒らに御天主階層を誇るは戦国往時の機運にて天下大乱を画さんとするにあらずや
屹度厳しく沙汰さるべし
   さいつよのしょうぐん
0761日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/19(日) 20:59:03.55
戦国時代に天守の高さを競う風習とかあったか
むしろ糞デカい天守とか戦時にあっては邪魔だろう
0762日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/20(月) 00:08:56.49
宣伝も戦争の一種だからな。
0763日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/20(月) 00:41:22.21
戦時は高いほど遠くまで見渡せるし、デカイと狙撃範囲が増える
戦時じゃない時はいかに金を持ってるかのアピールになるから、その藩に仕えれば安心だと思わせることができる
そもそも江戸城よりデカイものを作れば江戸幕府なんて目じゃねえよ、俺の方が金持ってるよってことを民衆に示してることになる
だからこそ諸大名に天下普請を課して名古屋城や大坂城を作らせて浪費させた
いかに堅固な城を作ってるかを理解させ、反乱する気力を削ぐ目的もあった
同時にあんな凄い城を作れる江戸幕府すげーと民衆に知らしめる効果もあった
0764日本@名無史さん
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2019/05/20(月) 15:15:43.62
参勤交代も大名を疲弊させるためなどと言われるが、それは後付けの理由だろう
徳川への忠誠を示すため大名が自主的に江戸詰めを始めたものなのだから
それが競争となってどこも参勤してくるようになった
幕府としても忠誠はしめたもの
事細かに参勤のルールを定めるようになった
金がかかるからとそれを自主的にやめてしまう大名は謀反への第一歩として捨て置けない
0767日本@名無史さん
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2019/05/20(月) 21:04:38.63
>>763
物見目的なら火の見櫓で充分だし砲撃戦になるとデカいだけの建物とか反って的になるだけだけどね
同時代の西欧のイタリア式築城だとすでに城塔もないし城壁も限りなく低くして被弾面積を少なくしてる
天守に軍事的意義とかそもそもなくて権力の誇示意外の意味はないでしょ
0768日本@名無史さん
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2019/05/20(月) 21:24:35.24
山城から平城になったため、距離が減った物見の効果を補う目的もあったかと
0771日本@名無史さん
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2019/05/20(月) 22:19:18.24
高ければ高いほど、遠くを見渡せるし
天守は火の見櫓より遥かに頑丈

その辺を天秤にかけて建てるか否かを決めるのでしょう
0772日本@名無史さん
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2019/05/20(月) 22:42:07.36
日本は西洋みたいに大砲が発達してなかったから
壁厚くすればなんとかなったのでは
0773日本@名無史さん
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2019/05/20(月) 22:48:12.02
後は大砲の射程に入らない位置に天守を作るとか
大砲の登場で、川を背景にした後ろ堅固の城は時代遅れになった
0775日本@名無史さん
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2019/05/21(火) 20:41:28.88
赤穂城とかもいいんじゃないかな
横矢が発達して五稜郭みたいになってきている
0776日本@名無史さん
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2019/05/21(火) 21:07:43.85
天守を作らないまま放置してる城とかあるけど
籠城戦に不利になるからとあえて作らなかったのもあるだろうな
熊本城天守も西南の役の際にわざと燃やしてるし
0777日本@名無史さん
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2019/05/21(火) 21:52:40.75
天守台だけは作るというのは、どういう心理なのだろう
磐座のような巨石信仰に通じるものかな
0778日本@名無史さん
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2019/05/22(水) 01:17:14.62
>>767
天守がよく建てられた慶長期まではそもそもまともに大砲がなかった
戊辰戦争で天守がマトにされまくったのも有名な話
何言ってるかよくわからん

天守台を戦時に建てるのが大変だからね
建物だけなら最悪簡易な櫓を木材で組むだけでもいい
金銭問題とか幕府からの圧力で中止になったのも多々あるだろうし
0779日本@名無史さん
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2019/05/22(水) 15:12:29.82
家康は関ヶ原合戦前後で大砲ヤバイと感じ始めた感がある
アダムス辺りから聞いたんだろうな
0780日本@名無史さん
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2019/05/23(木) 00:38:01.77
>>779
『名将言行録』には、そういう話がいくつか載ってる。
唐入りや関ヶ原の戦訓だろう
日本は馬車が未発達だから、マンパワーでの大砲を運んだのだろうが…大変だね
0781日本@名無史さん
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2019/05/23(木) 01:13:19.05
こないだの戦争でもインパールやらニューギニアやら山越えが必要だと、山砲、歩兵砲を分解して車輪から何から担いだり馬の背に載せたりで運んだからなぁ
0782日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/23(木) 01:16:09.29
その昔、徴兵で砲兵をやらされた教師が「重たかった、重たかった」ばかり言っていた
0783日本@名無史さん
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2019/05/23(木) 08:11:29.22
近世日本の大砲を運搬する際には、何本も綱を渡してそこに棒を通して
担いで運んでいたらしい
0784日本@名無史さん
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2019/05/25(土) 19:24:59.43
>>777
格式だろうね。
0786日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/25(土) 21:56:54.37
>>783
大砲といっても大半は個人で打てるような大きな鉄砲みたいなものだったらしいな
勢楼櫓から打てるようだったし
0787日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/25(土) 22:08:34.97
どうせズラリと石垣工事をやるのだったら、ついでに天守台くらい作らせてくれよ
台だけだったら御公儀も認めてくれてるんだろ
これから先、天守閣だって認めてくれるような事態になるやも知れないしさぁ
先の事はわからないんだしさぁ
0789日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/26(日) 08:19:33.34
「先っぽだけでいいから、先っぽだけだから」って感じ?
0790日本@名無史さん
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2019/05/26(日) 17:59:41.84
>>777
篠山の巨大天守台は大坂に睨みを効かせるためだった気がする
甲州流でありながら赤穂の天守台は防備の役に立たない位置に造られているらしい
0791日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/28(火) 12:50:59.72
今週の週刊出顎124号に新発見の寛永度江戸城天守の計画図が紹介されていた。
天守一階床下にびっしり描かれた、地階の採光窓が圧巻。
この図を寛永度とした根拠は亀甲積みの天守台石垣かもしれないが、
大坂冬の陣図に亀甲積み石垣が描かれているので、
この図は寛永度以前の、もしかしたら実際に建てられた元和度天守の絵図かもしれない。
0792日本@名無史さん
垢版 |
2019/06/01(土) 17:01:07.26
>>791
御殿の南にあるので影ができるらしいね。
0793日本@名無史さん
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2019/06/06(木) 08:13:11.62
>>792
御殿の南に天守台と云えば、福岡城。
以前は、何故わざわざ光を遮るのか?と訝しく思っていたが、あれは大砲対策かもね。
南側の台地に大砲を据えられても、天守台が障壁として、御殿を守れる
0794日本@名無史さん
垢版 |
2019/06/08(土) 14:45:04.13
徳川の天守は北西がデフォルト
例外は南西の寛永度二条城天守位か
あれは御幸御殿からの眺めを最重要視したのかな
0795日本@名無史さん
垢版 |
2019/06/09(日) 14:49:02.87
二条通り(大路)から見ると正面になる
0797日本@名無史さん
垢版 |
2019/06/13(木) 22:34:31.50
先人たちの底力 知恵泉「徳川三代の天守(前編)創業者 家康のシンボル」[再]

2019年6月18日(火) 12時00分〜12時45分 Eテレ

先人たちの底力 知恵泉「徳川三代の天守(後編)後継者秀忠・家光のシンボル」

2019年6月18日(火) 22時00分〜22時45分 Eテレ

徳川家康・秀忠・家光の3代将軍は、代替わりの度に江戸城天守を建て替えた。
それぞれの将軍が天守にこめた思いを2回シリーズで探る。
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