>>723
付き合ってくれて、おサンクスコ!

>伏見城は慶長6年から10年まで毎年のように工事をしているから、
江戸城も全国から大名がやってくるようになって、本丸御殿がどんどん手狭になり、
慶長天守が元和・寛永と代替わり毎に、北へ北へと追いやられていく
信長・秀吉・家康・秀忠・家光までは、天下取りの過程だから、
創建当初の想定を超えて全国から大小名が所領の安堵や陳情、隣国との領土争い仲裁などに殺到して、拡張増築を繰り返さねばならなかったと思われ

ついでに「権現様お好み」天守って具体的に何だと思う?
浜松城、慶長江戸城、駿府城、姫路城の例から類推するに、大天守に小天守3つで「天守(台所)曲輪」を形成する「環立式天守」に「(夏も雪が積もって見える金沢城みたいな)鉛瓦葺き屋根」だと思うんだが、どうかな?
家康の代まではまだ秀頼が健在だったから、いつ天下の風向きが変わるか判らず、万一の籠城戦に備えて、台所を備えた天守曲輪、溶かして鉄砲玉にできる鉛瓦が必要と思ってたからでゎ?と