凸凸凸日本の城総合スレ凸凸凸Part36
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荒れないためのルールを作っておきます。
・城壁の議論や城壁以外の議論を妨害・規制することを禁止
両者とも双方敬意を表して尊重し共存してマターリ進行すること。
・中世の城スレッドなどの他のスレッドへレスするか
当城総合スレッドに書き込むかは各人それぞれの自由な選択に基づき任意である。
・他のスレッドへの強引な勧誘、誘導は差し控えて、レスする当人の自由な選択を
スレッドの住人間相互に尊重すること。
・落とし格子に関する議論をスルーしたりして妨害するのは禁止です。
以上のルールを立てておきます。
城総合スレッドですので城壁の議論だろうがそれ以外の議論だろうが、
規制する行為は荒らし行為と見なし、両者相互に尊重してマターリ共存していきましょう。
また、上記ルールを否定、批判するのも荒らし行為といたします。
前スレ
凸凸凸日本の城総合スレ凸凸凸Part35
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1495030368/ >>729
西ヶ谷氏も似たような説をだしてたな
黒田屏風の天守には宇和島、福井、加納等の徳川型天守の特徴が盛り込まれていると
しかし俺は冬の陣図、京大坂図の天守は秀吉時代で夏の陣図の天守は秀頼時代の天守だと思っている 慶長度江戸城(1607)は、同時期の姫路城(1609)に彦根城(1603)の最上階高欄(実際に出られる)を付したデザインが有力。すなわち、
妻側…D大屋根+C唐破風⌒+BA突破り大屋根△+@比翼千鳥△△
平側…D唐破風⌒+C千鳥破風△+B比翼千鳥△△+A大唐破風⌒+@無破風
また、駿府城U(1608)・名古屋城(1611)天守同様、1層と2層が同大であった可能性も高い。
ちなみに名古屋城の内部構造は、同面積の下2層に3層の望楼を載せた後期望楼型(半間ズレた柱筋に注目)ながら、外観は層塔型であるため、前期(なんちゃって)層塔型。
https://www.freeml.com/bl/10034699/360328/
それに4年先立つ慶長度江戸城天守が中井家指図(柱筋が完全に通る後期層塔型)であるとする故宮上重隆(竹林舎)の比定は完全に誤りである。
その残党と思しき「立て板の書き込み」は、その無理な比定から逆算して、層塔型の誕生を慶長度江戸城からとするネット喧伝を至る所で行っており、要注意である。
慶長度天守の翌年に再建された、最上階高欄や2層分を突き破る下層部大屋根を廃していない駿府城Uも、それを裏付ける。
おそらく、寛永度江戸城には比定できない津軽古図(江戸御天守図)を無理に実現した図面として、元和度天守に比定したためと思われる。
当然ながらその特異な破風配置は、江戸城天守を描いたどの天守にも一致せず、不採用となり実現しなかった計画図と断定できる。
https://castles.xsrv.jp/2013/02/05/%E5%9F%8E%E3%81%AE%E5%86%8D%E7%99%BA%E8%A6%8B%EF%BC%81%E5%85%88%E8%A1%8C%E6%B4%BE%E7%94%9F%E8%A8%98%E4%BA%8B%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E3%81%AE%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9F%8E%E5%A4%A9%E5%AE%88%E3%81%AEe/ 元和度江戸城(1623)は、元和と言う年号から秀忠(将軍在位1605-1623)を連想してしまいがちであるが、
実際は家光(将軍在位1623-1651)への代替わりのため、本丸御殿の拡張に伴い、本丸北西隅に新築したものと思われ、
棟梁は中井正清の子で、寛永度二条城(1624・廃城となった木幡山伏見城から移減築、行幸した後水尾天皇が登閣)や寛永大坂城(1626)も担当した中井正侶。
全階の柱筋が完全に一致した中井家指図が無理なく比定でき、家光の治世を描いた江戸図屏風・江戸名所図屏風・武州豊嶋郡江戸庄図の3点の天守の破風配置にも完全に一致する。
妻側…D大屋根+C無破風+B千鳥破風△A比翼千鳥△△+@千鳥破風△
平側…D大屋根+C無破風(出窓唐破風)+B無破風+A千鳥破風△+@比翼千鳥△△ >>731
>しかし俺は冬の陣図、京大坂図の天守は秀吉時代で夏の陣図の天守は秀頼時代の天守だと思っている
つまり、冬の陣(1614.11)と夏の陣(1615.5)の半年間に大急ぎで建て替えたってこと?
徳川秀忠が外堀(→内堀)を埋めてる最中に、そんなことしたら、大変なことになると思うんだけど… >>732
よくある加納城御三階を無視する人がする後期望楼型論 >>728
最上階の高欄から凄い雨漏りがしたので、大御所家康が名古屋城でもこうなのか?と不満を言ったので、名古屋城では最初から高欄を付けなかったらしい
>>>729 >734
大坂城図、京大坂図、冬の陣図は、絵師が大坂城の現物を見て描き、
夏の陣図はかなり後になって描かせているから、その時の天下人クラスの大天守と言えば、慶長江戸城と駿府城ぐらいしかなかったから、それを黒く描いたと思われ 愚子見記の慶長度江戸城天守と寛永度江戸城天守を比較すると、
1階平面は同じで、最上階は5尺小さい、棟高も5尺低い
ここまで一致していると基本構造が同じと見るべき >愚子見記の慶長度江戸城天守と寛永度江戸城天守を比較すると
>ここまで一致していると基本構造が同じと見るべき
愚かな子が見て記す...だから宮上氏に騙されて竹林舎なんかに入っちゃうんだよw
後出しジャンケンの安土城もダメ、夏の陣図を鵜呑みにした豊臣大坂城もダメ、駿府城もダメ、復元案全部ダメじゃん!w 名古屋城のはね出し架構には、いちゃもんつけるくせに何なんだこいつは
https://www.sankei.com/life/news/190514/lif1905140020-n2.html
弘前城では石垣修理の完了後に改めて、重要文化財の天守を天守台石垣の上に戻す。
ジオテキスタイル工法などで補強した上で、万が一の大地震に天守台石垣が耐えきれず崩壊したとしても、
その上に建つ天守は石垣から崩落しないようにしなくてはならない。
そこで天守台石垣の中に、天守の基礎になるくいを設置するなどの補強策も議論している。
これまでの城跡整備では、石垣の内部構造を破壊するので、石垣内にくいを打つのは許可されなかったが、
城跡の歴史的価値と安心・安全を高度に調和させるのが時代の要請である。 >>738
宮上氏は岐阜城でもやらかしているよ
山麓の四層天守→その後の発掘調査で4段の平屋御殿と判明
山頂の三層天守→池田氏時代の山頂天守(加納城へ「御三階」として移築)を信忠→信孝時代を飛ばしてそのまま信長時代に比定
→現在ではほとんどの学者が、記録から同時期の家臣の飛騨高山城や長尾城のように平屋御殿に望楼を載せたものと推定
もう滅茶苦茶… 駿府城天守を望楼型にした上で小天守付ける内藤晶もどうかと思うが
悪いけど城郭研究家は何れも傷だらけだよ >>742
駿府城も望楼型にしとかないと、津軽古図を元和江戸城に比定できんもんなwww >>743
三浦正幸は津軽家絵図を慶長度に設定していましたね >>732
あっ、そういうことか!
中井家指図はどう見ても寛永大坂城と同じ完成度の後期層塔型、内部構造は2重櫓+3重櫓の望楼型の名古屋城の前じゃないでしょ
>>738 >>741
岐阜城(加納城御三階を比定)、安土城、豊臣大坂城(夏の陣図そのまま)は全部ゴミ箱行きw
巻き返そうと
@寛永江戸城には比定できない津軽家古図を無理矢理元和江戸城に比定するため、
A中井家指図を、規模がほぼ同じなのを良い事に >>737 慶長江戸城に比定し、それを前提として
B続く駿府城も中井家指図をベースに後期層塔型に復元
慶長度江戸城(A後期層塔型の中井家指図を比定)→駿府城(B中井家指図をベースにした層塔型w)←元和度江戸城(@津軽古図を比定するため)
建築技術の発展段階を無視した強引な比定を重ねる故宮上重隆氏は城郭史研究の汚物と言っても差し支えないな… >>745
ホントだw 宮上案駿府城、中井家指図ベースだw
http://castles.chicappa.jp/2013sp/2013report
でも、こんだけ執拗にネット工作を続けてるのに誰も賛同者が現れない「立て板の書き込み」はおそらく故宮上重隆の息子さんなのだろうw 内藤晶の
前期望楼型→後期望楼型→前期層塔型→後期層塔型
進化説を信じる人か 信じるも何も、
名古屋城‥見た目は大人(層塔型)中身は子供(望楼型)の前期層塔型(少年コナンw)
中井家指図…見た目も大人(層塔型)中身も大人(層塔型)の後期層塔型(入側柱筋が完璧に一致した寛永大坂城とほぼ同じ完成度)。慶長度江戸城には比定できないよw 諦めなwww >>744
藤岡通夫氏は津軽家絵図は寛永度江戸城の計画図と推定していた
そもそも家康が生きていた時代の慶長度天守内に東照宮があるとかおかしいだろ 津軽家絵図は天守台の構造からして高さ10間に20間四方の慶長度の天守台と違う >>749
名古屋城が前期層塔型とする考えがそもそも間違い
あれは1・2階が同大の層塔型天守それだけの話
そして慶長度江戸城天守で完成して何か問題ある? 故・宮上重隆の息子「立て板の書き込み」...このスレが過疎ったのはこいつのせいだな >>745
宮上氏の復元案は、指図の比定や独自復元案、それらすべて間違いと言って良い
>>750
中井家指図は元和度天守の特徴に完全一致してるから、津軽家古図は採用されたなかった計画案で、
おそらく宮上氏は最上階に東照宮があったという記録から、実現した天守と短絡してしまったのだろう >>755
徳川大坂城天守と破風配置が同一の中井家指図が元和度江戸城天守なら、
同時期に江戸と大坂に同じ破風配置の天守がいたことになるのだが 常々思うけど徳川幕府が天守の高さや新規改修を規制したのは何故だろう
むしろ煽って財政圧迫させてやればいいじゃんと思う 威信財という観点から見るべき
豪奢や贅沢が身分の高さと連動する劇場国家なんだよ。 552 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2019/02/12(火) 00:43:27.15
一国一城令は分らんでもないけど改修や天守の階層制限は意味わからない
城に金使わせて疲弊させることもできたのに 御公儀江戸城天主再建を致さざる所に諸侯此れに遠慮の気配無きと申すか
徒らに御天主階層を誇るは戦国往時の機運にて天下大乱を画さんとするにあらずや
屹度厳しく沙汰さるべし
さいつよのしょうぐん 戦国時代に天守の高さを競う風習とかあったか
むしろ糞デカい天守とか戦時にあっては邪魔だろう 戦時は高いほど遠くまで見渡せるし、デカイと狙撃範囲が増える
戦時じゃない時はいかに金を持ってるかのアピールになるから、その藩に仕えれば安心だと思わせることができる
そもそも江戸城よりデカイものを作れば江戸幕府なんて目じゃねえよ、俺の方が金持ってるよってことを民衆に示してることになる
だからこそ諸大名に天下普請を課して名古屋城や大坂城を作らせて浪費させた
いかに堅固な城を作ってるかを理解させ、反乱する気力を削ぐ目的もあった
同時にあんな凄い城を作れる江戸幕府すげーと民衆に知らしめる効果もあった 参勤交代も大名を疲弊させるためなどと言われるが、それは後付けの理由だろう
徳川への忠誠を示すため大名が自主的に江戸詰めを始めたものなのだから
それが競争となってどこも参勤してくるようになった
幕府としても忠誠はしめたもの
事細かに参勤のルールを定めるようになった
金がかかるからとそれを自主的にやめてしまう大名は謀反への第一歩として捨て置けない >>763
物見目的なら火の見櫓で充分だし砲撃戦になるとデカいだけの建物とか反って的になるだけだけどね
同時代の西欧のイタリア式築城だとすでに城塔もないし城壁も限りなく低くして被弾面積を少なくしてる
天守に軍事的意義とかそもそもなくて権力の誇示意外の意味はないでしょ 山城から平城になったため、距離が減った物見の効果を補う目的もあったかと 高ければ高いほど、遠くを見渡せるし
天守は火の見櫓より遥かに頑丈
その辺を天秤にかけて建てるか否かを決めるのでしょう 日本は西洋みたいに大砲が発達してなかったから
壁厚くすればなんとかなったのでは 後は大砲の射程に入らない位置に天守を作るとか
大砲の登場で、川を背景にした後ろ堅固の城は時代遅れになった 赤穂城とかもいいんじゃないかな
横矢が発達して五稜郭みたいになってきている 天守を作らないまま放置してる城とかあるけど
籠城戦に不利になるからとあえて作らなかったのもあるだろうな
熊本城天守も西南の役の際にわざと燃やしてるし 天守台だけは作るというのは、どういう心理なのだろう
磐座のような巨石信仰に通じるものかな >>767
天守がよく建てられた慶長期まではそもそもまともに大砲がなかった
戊辰戦争で天守がマトにされまくったのも有名な話
何言ってるかよくわからん
天守台を戦時に建てるのが大変だからね
建物だけなら最悪簡易な櫓を木材で組むだけでもいい
金銭問題とか幕府からの圧力で中止になったのも多々あるだろうし 家康は関ヶ原合戦前後で大砲ヤバイと感じ始めた感がある
アダムス辺りから聞いたんだろうな >>779
『名将言行録』には、そういう話がいくつか載ってる。
唐入りや関ヶ原の戦訓だろう
日本は馬車が未発達だから、マンパワーでの大砲を運んだのだろうが…大変だね こないだの戦争でもインパールやらニューギニアやら山越えが必要だと、山砲、歩兵砲を分解して車輪から何から担いだり馬の背に載せたりで運んだからなぁ その昔、徴兵で砲兵をやらされた教師が「重たかった、重たかった」ばかり言っていた 近世日本の大砲を運搬する際には、何本も綱を渡してそこに棒を通して
担いで運んでいたらしい >>783
大砲といっても大半は個人で打てるような大きな鉄砲みたいなものだったらしいな
勢楼櫓から打てるようだったし どうせズラリと石垣工事をやるのだったら、ついでに天守台くらい作らせてくれよ
台だけだったら御公儀も認めてくれてるんだろ
これから先、天守閣だって認めてくれるような事態になるやも知れないしさぁ
先の事はわからないんだしさぁ 「先っぽだけでいいから、先っぽだけだから」って感じ? >>777
篠山の巨大天守台は大坂に睨みを効かせるためだった気がする
甲州流でありながら赤穂の天守台は防備の役に立たない位置に造られているらしい 今週の週刊出顎124号に新発見の寛永度江戸城天守の計画図が紹介されていた。
天守一階床下にびっしり描かれた、地階の採光窓が圧巻。
この図を寛永度とした根拠は亀甲積みの天守台石垣かもしれないが、
大坂冬の陣図に亀甲積み石垣が描かれているので、
この図は寛永度以前の、もしかしたら実際に建てられた元和度天守の絵図かもしれない。 >>791
御殿の南にあるので影ができるらしいね。 >>792
御殿の南に天守台と云えば、福岡城。
以前は、何故わざわざ光を遮るのか?と訝しく思っていたが、あれは大砲対策かもね。
南側の台地に大砲を据えられても、天守台が障壁として、御殿を守れる 徳川の天守は北西がデフォルト
例外は南西の寛永度二条城天守位か
あれは御幸御殿からの眺めを最重要視したのかな 先人たちの底力 知恵泉「徳川三代の天守(前編)創業者 家康のシンボル」[再]
2019年6月18日(火) 12時00分〜12時45分 Eテレ
先人たちの底力 知恵泉「徳川三代の天守(後編)後継者秀忠・家光のシンボル」
2019年6月18日(火) 22時00分〜22時45分 Eテレ
徳川家康・秀忠・家光の3代将軍は、代替わりの度に江戸城天守を建て替えた。
それぞれの将軍が天守にこめた思いを2回シリーズで探る。 質問です
ここに写ってるお城と山はいったい何でしょうか?
分析をお願いします
https://i.imgur.com/8kt9Hrl.png >>801
ですよね
ニュース速報板で御嶽山だと言われてておかしいなと
NHK番組、江戸特集の写真でした
ありがとうございます 千田が本性を現し始めたな
やっぱあいつは反安倍の左巻きだ 千田のエレベーターへの固執は異常だな
車椅子経験者の意見さえ否定してやがる
エレベーター業者や障害者支援団体との癒着が疑われるレベル 車椅子経験者なだけで、車椅子を常時使ってる人でも無いし、車椅子が5cmの段差でさえ恐怖に感じるってのは常識
千田の指摘は大げさすぎるけど的を得てるし、車椅子経験者君の発言がズレてるのも事実 ゆうべのG20夕食会で安倍総理のあいさつ
大阪のシンボルである大阪城は天守閣の復元がなされました
「しかし、ひとつだけ大きなミスを犯してしまいました
エレベーターまでつけてしまいました」
ギャグを言おうとしたんだろうが、面白くもないうえに障碍者をdisる内容になってしまっている
ストップをかける側近は居なかったのか >>807
むしろああいうのは側近が書いたんだろうね
大阪では有名な自虐ネタだから
でもそれをバリアフリーがスタンダードな他国に言っても困惑されるのは当たり前
そして社会問題にまでなってるという >>807
日本史と関係ねえし、得意げに書いてるアホくささに気づこうな 「どこそこの城へ行く」という書き込みに、
内容関係なしに「旅行版いけ!」と一々噛み付く奴はキチガイだと思うけど、
大阪城のコンクリネタとエレベーターネタは定期的に書き込まないと気のすまないキチガイが常駐しているのは事実。
勝手にナガレガーとか言われても… 大阪城内、石の階段が歩きにくいから階段の一部を破壊して鉄板製の桟道を作っとるわ
ここを山岳用?自転車で走ってくるやつがいる 千田がいくら史跡を破壊しないと強弁したところで
エレベーターやスロープは遺構も歴史的景観も破壊する 千田は自分の肩書きと立場を政治的に悪用してるだけだな
名古屋では河村市長を引きずり降ろし、
国政では安倍総理を引きずり降ろしたいのだろう
バックにいるのは立憲民主党か共産党か公明党知らんが 頭おかしいのは盲目千田信者の方だよw
教え子か何かか? しかし、全世界の国家元首が集合して記念撮影をする場所が大阪城とは・・・・
豊臣秀吉が凄すぎる・・・・
https://i.imgur.com/S3ErmCJ.jpg 今度関東でサミットやるなら千葉城や私市城天守のそばでやってくれ 江戸城の天守と本丸御殿を再建して、そこでサミットやったらいいんだよ
壮観だよ 本当は家の話をしているだけなんだけど、
浄土真宗〜何やらみたいな話でしょ 法隆寺の五重塔にエレベーターというのは要らぬことの例になるが、鉄筋コンクリートの大阪城にエレベーターは何もそういう例にはならないってことだ 安倍は鉄筋コンクリートを知らなかったんじゃないか? 総理がイジッたのは、大阪城天主閣にたどり着くまでの石垣部分を登るために後付けしたエレベーター塔の事を言っているんだろう
でも、あの石垣は徳川築造の遺跡、文化財だから石を取っ払って穴を開けたりできないわけだ
そういう制限の中で致し方なくぶざまな姿になっているわけだが あのガラス張りのエレベーターは外観を木目調にするとか、もう少し景観に配慮してほしかったな
バリアフリーはある程度は必要だとは思うが、あのエレベーターはいかにもバリアフリーしていますをアピールしているみたいで… あの場所は当初は渡り廊下を復元する計画もあったらしい
それで松岡利郎氏に復元図の作成依頼がきて図を書いたが、
結局はあのエレベーターになったと そう言えば、戦前の大阪城天守閣再建で現状の石垣等は徳川の手によるもので、
豊臣のものでは無いという認識はどのレベルまであったのだろう
流石に学術レベルでは、あれが豊臣の縄張りでないという認識はあったよね? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています