【下剋上】 北条早雲 【大器晩成】
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北条早雲の没年齢は64歳説と88歳説があるがいまだに確定せず。
どちらでも遅咲きの英雄には変わりない。 >>153
駿河に下向したのは今川家のお家騒動解決のためだからね。 >>153
応仁の乱で幕府が機能不全に陥ったとき、
実質的な素浪人状態になった時期はあったのではないかな?
あの時は、俺は幕府の役人だといっていても、対抗する方も俺こそが正当な
幕府の代理人だと主張していたのだし。
応仁の乱の西軍は天皇まで対抗する人を担ぎ出しているくらいだしな。
最後には西軍の総大将も東軍の総大将も入れ替わって何がなんだか
わからない始末になっているくらいだし。
幕府の何々と名乗っていても、何それ状態になっていたのでないの? 享年64説のほうが有力なんだろ
で応仁の乱の時は12歳か やっぱりあれだよな!
88歳説が真実じゃないか?
別に当時でも60〜70代で活躍した武将がいても不思議ではないだろ 相模三浦氏を皆殺しにしてるから決して毛並みのいい貴族出身ではなかったんだろう
素浪人出身説もあながち嘘ではない 中央の役人が地方に出向
↓
中央が傾く
↓
地方で好き勝手にやり出す
こんな感じだよな 64歳説の根拠は北条と関係ない農家の明治期以降に書かれた過去帳だけど
88歳説の根拠はなに? いやそれはない
早雲なんて9割以上創作だったじゃん 結局は北条早雲も源義経や真田幸村と似て創作が多すぎる武将の一人か
真実が明るみになれば失望させられる面も多いのかもしれない >>169
>>170
今残っている良質な資料だけだと、たいていの歴史偉人なんて
まともなことが書けなくなるだろう?
北条早雲なんて、本名でさえ確定できないのだし、
結局あれやこれやと適当な伝承を膨らませて、話を盛るしかないのだし。
それに本人からして、あることない事その場を盛り上げるために受け狙いで
ホラを吹きまくっていたかもしれないし。
21世紀の現代でも著名な政治家や実業家、芸能人は面白おかしく
色々とやらかしているだろうww
菅直人は菅原道真公の子孫だと吹聴していたし、
亀井静香は津和野の亀井の殿様の一族だとギャグで吹聴していたww
鳥越だってお殿様の子孫だと自称してNHKの番組で紹介されていたしww
パフォーマンスにしても、すしざんまいの社長の正月恒例行事や
zozo前澤の女優との付き合いww じゃあ、早雲のどこの馬の骨かもわからない素浪人出身伝説が当たってるかもしれないじゃないか
貴族出身こそ見栄を張る作り物で ふつう、自分が偉い人間の子孫だと主張したがるものだ >>171
菅直人の祖先は美作菅家党らしいが美作菅家党の全部が菅原氏の血を引いてる訳ではない。
安倍晋三の祖先も松浦党とは言ってるが松浦氏と縁続きではない。 >>173
長野業正は在原業平の子孫というがそんな中途半端な人の子孫を名乗ったんであろう。 >>174
そういやぁ
安倍総理は安倍宗任の子孫だと称しているな。
もっとも安倍さんの場合は岩手に行って、選挙対策のために
言ったみたいだけど。
北条早雲の子孫は別に伊勢氏のままでよかったのに、どうしてわざわざ
鎌倉北条の子孫と称したのかな?
しかも驚くことに、周りのライバルが一応認めているのだよな。
長尾景虎が上杉と名乗ったときは、武田信玄なんか馬鹿にして、長尾、長尾
と読んでいたしな。
でも長尾の家も一応は上杉の血は入っているのだよな。
今の政治家なら先祖は有名人と言っても笑い話で住むけど、
あの時代はもう少しみんなこだわっていただろうしな。 素浪人の家柄なら妹が名門今川家に嫁いで嫡男産むなんてこと出来ないだろ >>176
しかし松浦党の中に安倍氏の名前があるのは間違いないようだ。
村上水軍の中にも安倍氏の名前があり豊臣秀吉の命によって陸に上げられ山口県で農民になったという。 >>178
当時の下級武士ぐらいかな?
今でいうなら中流層の出自。 しかし北条早雲は自分語りをしなかったのだよな。
朝早く起きろとか、女は馬鹿だとかのと小言は結構言っていたのに。
結局本名すらよくわからない始末だ。
普通はアレだけ成り上がれば、あることないこと本人から場を盛り上げるために
話をしそうだと思うけどな。 >>181
早雲生前から謎の人物だったとか勘違いしてね? >>181
おそらく生前からあることないこと、語られて伝説的な存在に
なっていたのでないの?
現代の著名人だって、あることないこと語られて結構伝説的な人間に
なっているし。 今川家の人間は早雲の素性を当然知っているし当然周りの勢力にも知れ渡っていただろう >>137
肩書きのない落ちぶれた時期っていつだ? >>187
応仁の乱の直後じゃないのか?
どうも早雲は足利義視の側についていたみたいだからな。
一応応仁の乱は東軍の足利義政の側が勝ったと言うことになって、
その息子の足利義尚が次の将軍になったのだけど、その間義視の方は
美濃のほうで逼塞していたからな。
そのときは実質的な肩書きもない素浪人状態になっていたのでないの?
実家のほうも分家筋の義政のほうについた側が押さえていたみたいだし、
お前は義視についていたのだから実家からも放置プレイ状態に
されていたのでないの?
そこで妹の縁にすがって今川家に押しかけてきたのと同時に、中央では
義視の息子が将軍になって、運が開けたのでないの? >>186
素浪人出身だと知れ渡っていたわけだ
もし武家貴族の出ならば今川家の文書にそう書いてあるはずだが書いていない 今川家文書に早雲の出身が記されていないのか?
やはり別に名門でもなんでもない下層出身者だから特別に記す必要もなかったかも知れん どこの馬の骨かもわからない素浪人出身説が盛り返してきたなw ここって具体的な史料の提示もなく
持論を披露するやつらばかりなのな
素浪人の根拠となる史料はないんだろ? 本当に素浪人ならそいつの姉(若しくは妹)を有力大名に嫁がせない
江戸時代の大奥と違い、それ相応の身分なのは明らか 素浪人の根拠もないが武家貴族の出自たる根拠もないから困ってんだろ
ここまで憶測だけで出自を判断しなければならない武将は他にいないよ >>195
京で出仕してたころと駿河の両方で
伊勢新九郎名の史料があるんだから中央の伊勢氏に連なるのは確定でしょ?
そのなかでの地位については諸説あるだろうけど、上の世代で今川と交流もあるわけだし
状況証拠からみてただの素浪人って言うのは無理があるだろ もっとも北条早雲に近い戦国武将を上げるなら同じく出自不明の山本勘助や >>200
山本勘助のほうは実質的に大河ドラマの主人公になったのだよな。 メチャクチャ汚い手も使ってきたから放送するとイメージが壊れるからだろ きれいごとだけで生きられると思うなよ
現代もそうだけど 昭和での早雲の評価はまさに下剋上の梟雄扱いだつたんだが
平成からは人生訓の教師のような扱いをされてるのは何故なんだ? 早雲とか松永久秀とかは江戸時代になって子孫が大大名でもない所為で
大分話盛られて面白おかしく改変されたらしい
その方が江戸時代の庶民や下級武士に受けたので
川角太閤記とかそのあたりがやらかしてる 伊豆を取った後も今川家の武将として今川家の戦に参陣し
その後今川家と揉めることなく独立を果たす
まさにサラリーマンとしての理想じゃないか >>181
貴族出身が真実なら自分語りするはずだが
しないとなると素浪人出身だったからじゃないか? >>207
早雲の子孫の中には、小大名になって明治まで続いたのもいるぞ。
にもかかわらず、本名が確定しないと言うのが疑問なのだ。 狭山藩とかか
問題は記録残すの大好き人間(公家・僧侶)がわんさかの京にいた頃に
あまり目立ったことしてなくて
今川家も氏綱時代の対立の御蔭で早雲の功績とか知らんわ状態になった時期あったし
肝心の氏綱が「伊勢」という名を捨てて「北条」という名を浸透確立したかったので
外に向かっては早雲の若い頃や伊勢氏的な部分を自ら封印した感じがある
そういうのが原因では 関東に移ってからは本家の幕臣伊勢氏とは連絡なかったのかな
宇都宮氏なんかは戦国時代になっても本家と豊前に移った分家(城井氏)が交流持ってたけど 明応の政変までは本家の貞宗あたりと連絡はしてたかも
しかし極秘連絡とかだと手紙自体残り難いし、忍者的な人を使って口上のみだと文書残らないし
伊勢本家が義輝義昭時代に衰えたりで
江戸時代の初めには既によくわからん状態だったみたいだ ・素浪人出身か武家貴族出身か?
・88歳死亡か64歳死亡か?
もはやこの二つだけは検証不可能 まあ、謎はまだ色々有る
茶々丸が結局いつ何処で死んだか? (足利義澄に報告した記録が有っても良い事件)
小田原城を自分の城にしたのは正確には何時なのか?
等々
茶々丸の件はその後反義澄派になったので早雲の功績が無視されて記録も残らなかったのかもしれん あの戦国時代でも、主君の家を滅ぼしても、中国みたいに九族皆殺しと言うことは
あまりやらずに、たてつく人間だけを殺して、それ以外の人間は割と傀儡の主君
みたいな形で形だけは家を存続させたりする例が結構あったのだよな。
あの信長の家でも、斯波氏の守護の家は桶狭間の前くらいまでは残していて、
形だけの主君としてそれなりに仰ぎ奉っていたからな。
小田原北条家でも古河公方の家とは和解して、北条氏康の娘と古河公方の当主の
間に生まれた足利氏姫を古河城の城主にしていたいのだからな。
管領の伊勢氏も普通なら小田原に呼んで、それなりの捨扶持くらい与えても
よさそうなのにな。
なぜか管領の伊勢氏に対しては冷たい扱いをしているのだよな。 小田原城の乗っ取りだが
まさに何でもありの梟雄そのものだなw 祀り上げて敬うのは関東公方だけで充分だと思ったんだろう
関東管領は関東公方と基本対立してたからな
「え、あいつも敬うの」とか言われそうだし 応仁の乱。
北条早雲。
足利成氏。
太田道灌。
今まで15世紀が話題に上らなかったことが不思議 64歳説って黒田が信憑性ゼロの史料を根拠に言ってるだけやん 謙信は弱い奴が自分を頼って来ると助ける「義の武将」だから
北信濃の豪族も助けてるし
増してや関東管領の上杉憲政に頼られたら勇んで関東に出馬するわな
実は越後から関東制覇した後、西の甲斐に進撃して信玄潰すという
遠大な目論見も有ったのでは、という説もある 上杉と言っても関東管領の上杉四家と越後守護の上杉は昔々に同じ祖先から枝分かれしてる
だけど親戚だから山内上杉の当主に男子生まれん時に越後の上杉から養子もらったりしてる
謙信は元々上杉の守護代の長尾家の四男で父は長尾為景
この為景が越後守護の上杉房能を襲撃してさらに山内上杉とも戦うのだが
その時に早雲が為景側に味方したという説がある
つまり謙信の親の時代には協力関係だったと言えるかもね >>223
真田幸隆が謙信を頼っていたらどうなっていたろう? 勝海舟が武田信玄と同じぐらいに大好きだった武将だぜ >>234
勝海舟の先祖は越後の出身なのになんで信玄なんだろう。 そりゃ信玄の内政が孔明なみに優れてたからに決まってんだろ? 勝海舟が内政に特段に優れてた戦国武将の名に信玄と早雲を上げている。 >>237
海舟は内政屋じゃなく外交屋と軍事屋だろう。
海舟は言わば鈴木貫太郎。 余談だが
勝海舟が西洋兵学を勉強したときになんだよ信玄流と同じじゃねえかよ!と確信したらしい >>212
京都伊勢氏出身で幕府奉公衆の伊勢貞就なる人物が下向して後北条氏に仕えていたりするあたり結構、密接に関係を保っていた模様 おっといけね、元奉公衆だったのは貞就の父、貞辰の方ね 平塚競輪では美味しい思いしかしてないが、小田原競輪でろくな目にあってないから嫌い。 何で「北条」というイメージの悪い姓を名乗ったのだろう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています