【下剋上】 北条早雲 【大器晩成】
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>>42
イノシシ狩りを名目にしたんじゃなかったっけ? 何が遅咲きよ
伊勢の傍流が奉公人として若くして出世して
今川の後継問題や鎌倉公方の仕置きを任されるんだから早咲きの部類だろ とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
UM7 >>56
ながらくは早雲の生年が永享4年(1432年)が定説であったが、近頃は康正2年(1456年)も有力視されている。55さんは65死亡ならロマンがないと思われたんだろう。 どこの馬の骨ともわからない素浪人が実力で戦国時代の幕を開いたことに
ロマンを感じる。早雲が切り開いた道がなかったら秀吉は出て来れなかっ
ただろうね。 伊勢宗瑞の父は政所伊勢家の有力一族
足利義政を操りロボットにしようとした伊勢貞親の懐刀
応仁の乱直前の文正の政変にもろに関わる
足利義視を追放しようと画策して失敗するくらいの権力者の父
従兄は貞親の息子で伊勢貞宗で細川政元も一目おく室町幕府重鎮
盛時の伊豆切り取りも細川政元とかの意向の元
官房長官(伊勢貞宗)の子飼いの財務官僚がキングメーカーの幹事長(細川政元)の了解の元に知事に天下りしたのが真相
姉貴が今川の正室に収まるのも身分的には五分五分、田舎の知事と中央の事務次官の娘の政略結婚
甥を今川の跡取りにしたのも中央の権勢の元 色川高志(葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室)の挑発
色川高志「関東連合文句があったらいつでも俺を金属バットで殴り殺しに来やがれっ!! 関東連合の糞野郎どもは俺様がぶちのめしてやるぜっ!!
賞金をやるからいつでもかかって来いっ!! 糞バエ関東連合どもっ!! 待ってるぜっ!!」 (挑戦状) 北条早雲はどこの馬の骨ともわからない身分から実力で成り上がった秀吉の先駆者。身分や権威が実力に取って代わられる時代が生んだ乱世の奸雄。 法衣姿の有名な肖像画は本人を目の前で見て描いたのではない
江戸時代の作なんだってね? >>80
幕府申次衆の息子。道三の北面の武士の息子とは違う。 要約すると
・素浪人じゃなくて幕臣
・1456年生(1432年生まれだと申次衆になったのが51歳で遅すぎるため)
・伊豆諸島の販路を抑えるために三浦義同を滅ぼす
・敵対していた尾張斯波氏に足利義澄が懇意になったため独立大名化
こんな感じ >>89
今年は今川義元の生誕500周年でもあるが
その早雲は今川家に出自してから関東大名になれたのである
早雲の亡くなった年に義元が生誕するとは不思議な因縁である >>89
今年は今川義元の生誕500周年でもあるが
その早雲は今川家に仕えてから関東大名になれたのである
早雲の亡くなった年に義元が生誕するとは不思議な因縁である もうすぐ「今川氏親と北条早雲」という本が出版される そういえば徳川家康が信玄と同じぐらい崇拝してた武将が早雲だったとか 早雲がいなければ今川氏はどうなっていたかわからない。 今川から独立して伊豆と相模を支配したのが早雲だったよな 女城主直虎でも大河ドラマになったのだww
(まともな資料がたった一行しかないという)
新解釈の新資料を駆使した北条早雲で大河ドラマを作っても良いのでないの?
というか、新解釈新資料バージョンで歴史作家が北条早雲を描きなおしても
いいのでないの? 「乱世の奸雄」という言葉は早雲のためにあるんだね。どこの馬の骨ともわからぬ素浪人が
一国を実力で切り取ってしまった。まさに下剋上。戦国時代の幕を切り開いた英傑だ。 早雲の出自を探るのは秀吉の出自を探るのと同じくらい無意味かつ徒労。戦国時代を始めたのも終わらせたのも素性のわからない成り上がり者。それが戦国時代。旧来の身分秩序が崩れて実力の
時代になったんだよ。 「太田道灌と北条早雲」
これで大河ドラマにすればよろしい 家訓・早雲寺殿21箇条は神仏を崇めよの次がいきなり早寝早起きのススメ
お前らもとりあえずもう寝ろ >>104
スケールダウンは否めないが早雲は三国志の曹操に近い人物だったのであろう >>112
生年は、長らく永享4年(1432年)が定説とされてきたが、近年新たに提唱された康正2年(1456年)説が有力視されつつある.
生年が康正2年(1456年)なら30代。 しかしどうして北条早雲は大河でやらないのだろうか? 北条五代だと100年になり真田三代より長すぎる
早雲だけだと話題に乏しい
よって太田道灌と北条早雲の2人で行くしかない >>115
そうとも言い切れないだろうww
女城主井伊直虎なんか、一行だけしかまともな資料が存在しないのに、
北条早雲はもう少し資料があるだろう?
適当な小説家が新資料を駆使して傑作を書いたらいいだけだろう?
しかも江戸城を作った太田道灌が友情出演するのだから、
東京の人は喜ぶだろうし。
大河ドラマは地域振興的な役割もあるのだからww >>114
同じ時代が舞台の花の乱が視聴率低迷したので懲りたのかな
花の乱面白かったけど
もしやるなら原作は箱根の坂が個人的に希望だな 今のNhkだとラブライブとのコラボになるな
早雲→興国寺城→沼津 >>118
島津や加藤清正は朝鮮がらみでできないのだけど、
北条早雲は朝鮮がらみの問題はないはずだけどな。
女を馬鹿にしているからかなぁww
もっともおいらはあの家訓は正しいと思うのだけどなww 真田太平記みたいに大河とは別枠の年間時代劇で北条太平記を作成すべき 大河も戦国ばかりやらずに高橋是清・石橋湛山・池田勇人なんかをやれ。 名家に生まれた人間が家のコネで幕臣になり、なんやかんやで地方に下って更に大成功するという
庶民からすれば夢のない話やで〜 >>136
そうとも言い切れないだろう?
まったくの肩書もない素浪人に落ちぶれた時期があったのは確実なんだからさぁ。
少なくとも腕のいい小説家なら、新資料を駆使しても司馬遼太郎の竜馬本みたいな
傑作はかけると思うぜ。 信じない
どこの大名家に行っても喜んで召抱えられたはず 今川家なくして早雲はなし
奇しくも早雲が亡くなった年に今川義元が生誕した 今川家に輿入れできるほどの名家に生まれなければ早雲はなし そうだよな
姉(若しくは妹)のツテがないと北条早雲はなかった
ただの素浪人なら今川氏に姉(若しくは妹)を輿入れさせることができない
ただ、最近早雲の素性も明らかになってきているから大河ドラマで取り上げて欲しい 自分的には名門伊勢氏備中流の盛時と後の北条早雲がどうしても同一人物とは思えん。
大森藤頼をだまし討ちするところや罪人を蓑虫踊りで処刑することなんか、毛並みのいい武家貴族のやれる芸当じゃない。
生年も二説あるということからして、別人じゃぁないのかな?
その辺りをネタに大河ドラマの脚本つくればいい。
すでに「花の乱」でやってることだし。 別人とかあほなことを言う前にその嘘くさいエピソードのほうを疑えよ 最近の歴史本では64歳没説が主流になってきてるが。
四男の北条玄庵が97歳(推定だが)まで生きていたらしいから
案外に早雲も初期の88歳没説が正解なのかもしれない 伝説としては88歳死亡の方が面白いんだが64歳死亡にしたい勢力も多いんだな 何を持って素浪人とみなすのかと言うことだよな。
今だって、三代くらい世襲で国会議員をやっていた一族でも、
一度でも選挙に落ちてしまえば素浪人認定されるのだからな。
北条早雲もそれに似たような感覚じゃないの? >>153
駿河に下向したのは今川家のお家騒動解決のためだからね。 >>153
応仁の乱で幕府が機能不全に陥ったとき、
実質的な素浪人状態になった時期はあったのではないかな?
あの時は、俺は幕府の役人だといっていても、対抗する方も俺こそが正当な
幕府の代理人だと主張していたのだし。
応仁の乱の西軍は天皇まで対抗する人を担ぎ出しているくらいだしな。
最後には西軍の総大将も東軍の総大将も入れ替わって何がなんだか
わからない始末になっているくらいだし。
幕府の何々と名乗っていても、何それ状態になっていたのでないの? 享年64説のほうが有力なんだろ
で応仁の乱の時は12歳か やっぱりあれだよな!
88歳説が真実じゃないか?
別に当時でも60〜70代で活躍した武将がいても不思議ではないだろ 相模三浦氏を皆殺しにしてるから決して毛並みのいい貴族出身ではなかったんだろう
素浪人出身説もあながち嘘ではない 中央の役人が地方に出向
↓
中央が傾く
↓
地方で好き勝手にやり出す
こんな感じだよな 64歳説の根拠は北条と関係ない農家の明治期以降に書かれた過去帳だけど
88歳説の根拠はなに? いやそれはない
早雲なんて9割以上創作だったじゃん 結局は北条早雲も源義経や真田幸村と似て創作が多すぎる武将の一人か
真実が明るみになれば失望させられる面も多いのかもしれない >>169
>>170
今残っている良質な資料だけだと、たいていの歴史偉人なんて
まともなことが書けなくなるだろう?
北条早雲なんて、本名でさえ確定できないのだし、
結局あれやこれやと適当な伝承を膨らませて、話を盛るしかないのだし。
それに本人からして、あることない事その場を盛り上げるために受け狙いで
ホラを吹きまくっていたかもしれないし。
21世紀の現代でも著名な政治家や実業家、芸能人は面白おかしく
色々とやらかしているだろうww
菅直人は菅原道真公の子孫だと吹聴していたし、
亀井静香は津和野の亀井の殿様の一族だとギャグで吹聴していたww
鳥越だってお殿様の子孫だと自称してNHKの番組で紹介されていたしww
パフォーマンスにしても、すしざんまいの社長の正月恒例行事や
zozo前澤の女優との付き合いww じゃあ、早雲のどこの馬の骨かもわからない素浪人出身伝説が当たってるかもしれないじゃないか
貴族出身こそ見栄を張る作り物で ふつう、自分が偉い人間の子孫だと主張したがるものだ >>171
菅直人の祖先は美作菅家党らしいが美作菅家党の全部が菅原氏の血を引いてる訳ではない。
安倍晋三の祖先も松浦党とは言ってるが松浦氏と縁続きではない。 >>173
長野業正は在原業平の子孫というがそんな中途半端な人の子孫を名乗ったんであろう。 >>174
そういやぁ
安倍総理は安倍宗任の子孫だと称しているな。
もっとも安倍さんの場合は岩手に行って、選挙対策のために
言ったみたいだけど。
北条早雲の子孫は別に伊勢氏のままでよかったのに、どうしてわざわざ
鎌倉北条の子孫と称したのかな?
しかも驚くことに、周りのライバルが一応認めているのだよな。
長尾景虎が上杉と名乗ったときは、武田信玄なんか馬鹿にして、長尾、長尾
と読んでいたしな。
でも長尾の家も一応は上杉の血は入っているのだよな。
今の政治家なら先祖は有名人と言っても笑い話で住むけど、
あの時代はもう少しみんなこだわっていただろうしな。 素浪人の家柄なら妹が名門今川家に嫁いで嫡男産むなんてこと出来ないだろ >>176
しかし松浦党の中に安倍氏の名前があるのは間違いないようだ。
村上水軍の中にも安倍氏の名前があり豊臣秀吉の命によって陸に上げられ山口県で農民になったという。 >>178
当時の下級武士ぐらいかな?
今でいうなら中流層の出自。 しかし北条早雲は自分語りをしなかったのだよな。
朝早く起きろとか、女は馬鹿だとかのと小言は結構言っていたのに。
結局本名すらよくわからない始末だ。
普通はアレだけ成り上がれば、あることないこと本人から場を盛り上げるために
話をしそうだと思うけどな。 >>181
早雲生前から謎の人物だったとか勘違いしてね? >>181
おそらく生前からあることないこと、語られて伝説的な存在に
なっていたのでないの?
現代の著名人だって、あることないこと語られて結構伝説的な人間に
なっているし。 今川家の人間は早雲の素性を当然知っているし当然周りの勢力にも知れ渡っていただろう >>137
肩書きのない落ちぶれた時期っていつだ? >>187
応仁の乱の直後じゃないのか?
どうも早雲は足利義視の側についていたみたいだからな。
一応応仁の乱は東軍の足利義政の側が勝ったと言うことになって、
その息子の足利義尚が次の将軍になったのだけど、その間義視の方は
美濃のほうで逼塞していたからな。
そのときは実質的な肩書きもない素浪人状態になっていたのでないの?
実家のほうも分家筋の義政のほうについた側が押さえていたみたいだし、
お前は義視についていたのだから実家からも放置プレイ状態に
されていたのでないの?
そこで妹の縁にすがって今川家に押しかけてきたのと同時に、中央では
義視の息子が将軍になって、運が開けたのでないの? >>186
素浪人出身だと知れ渡っていたわけだ
もし武家貴族の出ならば今川家の文書にそう書いてあるはずだが書いていない 今川家文書に早雲の出身が記されていないのか?
やはり別に名門でもなんでもない下層出身者だから特別に記す必要もなかったかも知れん どこの馬の骨かもわからない素浪人出身説が盛り返してきたなw ここって具体的な史料の提示もなく
持論を披露するやつらばかりなのな
素浪人の根拠となる史料はないんだろ? 本当に素浪人ならそいつの姉(若しくは妹)を有力大名に嫁がせない
江戸時代の大奥と違い、それ相応の身分なのは明らか 素浪人の根拠もないが武家貴族の出自たる根拠もないから困ってんだろ
ここまで憶測だけで出自を判断しなければならない武将は他にいないよ >>195
京で出仕してたころと駿河の両方で
伊勢新九郎名の史料があるんだから中央の伊勢氏に連なるのは確定でしょ?
そのなかでの地位については諸説あるだろうけど、上の世代で今川と交流もあるわけだし
状況証拠からみてただの素浪人って言うのは無理があるだろ もっとも北条早雲に近い戦国武将を上げるなら同じく出自不明の山本勘助や >>200
山本勘助のほうは実質的に大河ドラマの主人公になったのだよな。 メチャクチャ汚い手も使ってきたから放送するとイメージが壊れるからだろ きれいごとだけで生きられると思うなよ
現代もそうだけど 昭和での早雲の評価はまさに下剋上の梟雄扱いだつたんだが
平成からは人生訓の教師のような扱いをされてるのは何故なんだ? 早雲とか松永久秀とかは江戸時代になって子孫が大大名でもない所為で
大分話盛られて面白おかしく改変されたらしい
その方が江戸時代の庶民や下級武士に受けたので
川角太閤記とかそのあたりがやらかしてる 伊豆を取った後も今川家の武将として今川家の戦に参陣し
その後今川家と揉めることなく独立を果たす
まさにサラリーマンとしての理想じゃないか >>181
貴族出身が真実なら自分語りするはずだが
しないとなると素浪人出身だったからじゃないか? >>207
早雲の子孫の中には、小大名になって明治まで続いたのもいるぞ。
にもかかわらず、本名が確定しないと言うのが疑問なのだ。 狭山藩とかか
問題は記録残すの大好き人間(公家・僧侶)がわんさかの京にいた頃に
あまり目立ったことしてなくて
今川家も氏綱時代の対立の御蔭で早雲の功績とか知らんわ状態になった時期あったし
肝心の氏綱が「伊勢」という名を捨てて「北条」という名を浸透確立したかったので
外に向かっては早雲の若い頃や伊勢氏的な部分を自ら封印した感じがある
そういうのが原因では 関東に移ってからは本家の幕臣伊勢氏とは連絡なかったのかな
宇都宮氏なんかは戦国時代になっても本家と豊前に移った分家(城井氏)が交流持ってたけど 明応の政変までは本家の貞宗あたりと連絡はしてたかも
しかし極秘連絡とかだと手紙自体残り難いし、忍者的な人を使って口上のみだと文書残らないし
伊勢本家が義輝義昭時代に衰えたりで
江戸時代の初めには既によくわからん状態だったみたいだ ・素浪人出身か武家貴族出身か?
・88歳死亡か64歳死亡か?
もはやこの二つだけは検証不可能 まあ、謎はまだ色々有る
茶々丸が結局いつ何処で死んだか? (足利義澄に報告した記録が有っても良い事件)
小田原城を自分の城にしたのは正確には何時なのか?
等々
茶々丸の件はその後反義澄派になったので早雲の功績が無視されて記録も残らなかったのかもしれん あの戦国時代でも、主君の家を滅ぼしても、中国みたいに九族皆殺しと言うことは
あまりやらずに、たてつく人間だけを殺して、それ以外の人間は割と傀儡の主君
みたいな形で形だけは家を存続させたりする例が結構あったのだよな。
あの信長の家でも、斯波氏の守護の家は桶狭間の前くらいまでは残していて、
形だけの主君としてそれなりに仰ぎ奉っていたからな。
小田原北条家でも古河公方の家とは和解して、北条氏康の娘と古河公方の当主の
間に生まれた足利氏姫を古河城の城主にしていたいのだからな。
管領の伊勢氏も普通なら小田原に呼んで、それなりの捨扶持くらい与えても
よさそうなのにな。
なぜか管領の伊勢氏に対しては冷たい扱いをしているのだよな。 小田原城の乗っ取りだが
まさに何でもありの梟雄そのものだなw 祀り上げて敬うのは関東公方だけで充分だと思ったんだろう
関東管領は関東公方と基本対立してたからな
「え、あいつも敬うの」とか言われそうだし 応仁の乱。
北条早雲。
足利成氏。
太田道灌。
今まで15世紀が話題に上らなかったことが不思議 64歳説って黒田が信憑性ゼロの史料を根拠に言ってるだけやん 謙信は弱い奴が自分を頼って来ると助ける「義の武将」だから
北信濃の豪族も助けてるし
増してや関東管領の上杉憲政に頼られたら勇んで関東に出馬するわな
実は越後から関東制覇した後、西の甲斐に進撃して信玄潰すという
遠大な目論見も有ったのでは、という説もある 上杉と言っても関東管領の上杉四家と越後守護の上杉は昔々に同じ祖先から枝分かれしてる
だけど親戚だから山内上杉の当主に男子生まれん時に越後の上杉から養子もらったりしてる
謙信は元々上杉の守護代の長尾家の四男で父は長尾為景
この為景が越後守護の上杉房能を襲撃してさらに山内上杉とも戦うのだが
その時に早雲が為景側に味方したという説がある
つまり謙信の親の時代には協力関係だったと言えるかもね >>223
真田幸隆が謙信を頼っていたらどうなっていたろう? 勝海舟が武田信玄と同じぐらいに大好きだった武将だぜ >>234
勝海舟の先祖は越後の出身なのになんで信玄なんだろう。 そりゃ信玄の内政が孔明なみに優れてたからに決まってんだろ? 勝海舟が内政に特段に優れてた戦国武将の名に信玄と早雲を上げている。 >>237
海舟は内政屋じゃなく外交屋と軍事屋だろう。
海舟は言わば鈴木貫太郎。 余談だが
勝海舟が西洋兵学を勉強したときになんだよ信玄流と同じじゃねえかよ!と確信したらしい >>212
京都伊勢氏出身で幕府奉公衆の伊勢貞就なる人物が下向して後北条氏に仕えていたりするあたり結構、密接に関係を保っていた模様 おっといけね、元奉公衆だったのは貞就の父、貞辰の方ね 平塚競輪では美味しい思いしかしてないが、小田原競輪でろくな目にあってないから嫌い。 何で「北条」というイメージの悪い姓を名乗ったのだろう 二宮金次郎だって大河ドラマに描いてもよさそうなものだけどな。 まっちゅん(松田憲秀)
かずみん(上総介綱成)
みさセン(笠原美作守)
わか(間宮若狭守)
きぃちゃん(山角紀伊守)
ちー(千葉介)
ひめたん(黄梅院) >>260
頼光四天王の坂田金時と同人物なのかな? ところで、なぜ北条氏(後北条氏)と名乗った?
やはり、鎌倉時代の北条氏の名声が高かったからか? ゆうきまさみの「新九郎、奔る!」(ビッグスピリッツ連載)、おもしろいよ。
北条早雲備中伊勢氏説に基づいてうまくあの時代を描いてる。
出来たら大河ドラマ化かアニメ化してもらいたいもんだ。 北条氏の姻戚として京都小笠原氏がいますが、(北条氏綱の母は、小笠原政清の娘の南陽院殿
とされている。また、北條氏康の娘の種徳寺殿の夫は小笠原康広とされている。)、小笠原政清と
小笠原康広の関係は、曽祖父と曾孫という記述のものと、系図上政清のいとこの孫となっているも
のがあるように思います。
小笠原持長ー持清ー政清。
小笠原持長ー元長ー允康(元清)ー元続ー康広。
ということで良いでしょうか。
それとも、
小笠原持長ー元長(政清)ー允康(元清)ー元続ー康広
でしょうか。
あるいは、
小笠原持長ー持清ー政清ー女ー元続ー康広
でしょうか。 おてもやん「今日から公園も駐車場も閉鎖や」
ガースー「外国人入れます」 新九郎奔るは姉の伊都が好き
今川義忠死なないと姉ちゃんの出番増えないかな .∧__,,∧
<; `Д´> 同胞・・・これこれ、わすれるなニダ。
(つ嘘と) これがないとウリたちどこの国でも生きていけないニダ
`u―u 半万年続くチョンコの伝統職
〃⌒⌒ヽ、 お兄さん遊ばな〜い?
( ノハヾ ゝ(同胞の9cmじゃ物足りないの)
<`∀´*> ノ 安くしとくニダよ〜!
m/^〜し~ (あとで謝罪と賠償を請求するニダ)
(__/ / ウェー、ハッハッハ
ノ~ ̄\___
| γ⌒) ノ
| γY レ^つ
|〃 .|、__/
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/ ヤ /
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| 韓 ノ / ̄\
| 人 | _/ ̄\ / _
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 ̄ ̄ ̄ヽ__ /
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| 韓 ノ / ̄\
| 人 | _/ ̄\ / _
∪~∪ _/ ̄ _/
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━ (,, ゚Д゚) / /
| つ< この歌、歌って
| | \
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∪∪ ♪
∧_∧ ♪ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
<丶`∀´> < 迷子の 迷子の チョンコ君
( チョンコ ) │あなたの国籍 どこですか
| | | │祖国を聞いても 分からない
〈_フ__フ │名前を聞いたら 二つある
│ふぁんふぁん ファビョーん
│ふぁんふぁん ファビョーん
│タカってばかりいる チョンコ君
♪ │犬の 7割半
│喰われて しまって
│わんわん わわん
♪ │わんわん わわん
\__________ 嘘をつきまくる朝鮮ヒトモドキ
/\⌒ヽペタン
/ /⌒)ノ ペタン
∧_∧ \ (( ∧_∧
<丶`∀´>)' ))<`∀´ ;>
/ ⌒ノ ( 嘘ヽ⊂⌒ヽ
.(O ノ?"> ̄ ̄ ̄()__ )
)_)_) (;;;;;;;;;;;;;;;;;;;)(_( ((⌒⌒))
ファビョ━ l|l l|l ━ン!
(⌒;;.. ∧_∧
(⌒.⊂,ヽ#`Д´> <ウリ以外の全員が間違ってるニダ!
(⌒)人ヽ ヽ、从
从ノ.:(,,フ .ノゝ⊃ ∧_∧ ∧_∧
人从;;;;... レ' ノ;;;从人 (∀` ) ( ´∀`) ケラケラ
( つ日ヽ (つ日⊂)
ム__)) (⌒)(⌒)
___________∧____∧_____
世界中でオマエらだけが間違ってるって気づけやw カタカタ ∧在∧
(´∀` )=> <お面まで被ってるのに
_| ̄ ̄||_)_ どうして毎回
/旦|――||// /| 見破られるニカ?
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄| . |
|_____|三|/ . ¶ (´⌒;;)
|| llll 馬鹿チョンコ!
|], ∧日∧ 糞食いや糞酒なんて止めろ!
|] (`ω´# ) 大日本帝国民になりたいんだろう?
人 [||と // )
(._ ). Д | | |
(__ ) (_(_.)
。゚<;゚`Д⊂ヽ
( ) ウリの唯一の楽しみを奪う日帝はなんて酷い奴等ニダ!! アイゴー!!
でも日本人名カッコ良いから名乗りたいニダ
1,200年も奴隷国家だったから宗主国風の名だったニダ
アイゴー! アイゴー!
∧_,,∧ アイゴー! 。 ∧_,,∧ 。
〃,<;∩Д´> :∧,,_∧: < ゚`Д⊂ヽ
/(_ノ ィ \ :<、 ⌒ヽo: ( ノ
⊂こ_)_)`ヽつ :(_,,ィ、__つつ ム_)_) 上州の黄斑 長野業正
箕輪城城主
武田信玄を6度も撃退 どこの馬の骨ともわからない素浪人が実力で伊豆を切り取って戦国時代の幕開けを
飾った。とにかく凄い男だ。 若き日の武田信玄
北条氏康でも
殺せない
殿でも生き残る
籠城したら
滅茶苦茶強い
しぶとい武将
長野業正がいる限り
上州には手が出せない 涙 上泉信綱とは
戦国時代を代表する剣豪
その腕前は
塚原卜伝に匹敵すると
言われる
剣聖
新陰流 開祖
弟子
柳生雪舟斉 信長の野望
チート爺とは
浅倉宗滴、長野業正、宇佐美定満
老いてもその武勇に
衰えを見せなかった名将。
やたら、パラメーターが
高い。能力的には
本多忠勝に匹敵する。 ┏━━┓
┃ ● 〜
┃ 天 〜
┃ 誅 〜
∧∧ ┃ 〜
<二━━━O━━━━━ロニニ>
∧,,∧(゚Д ゚ )]ミ
/・ ・ )Oニ)<;;> この槍くらえ!
/ ノ lミliii|(ヾゝ
(o_o,イ__ヽ´|(__) ノ~⌒)彡エラ張り一族め
ノllllllllヽ| | ̄ノl ノ
/ /~ヽ ノ'''''''~ヽヽ\ヽ_バババッ
ヽニフ|_| (_/ ヽ ドドド〜
(_ヽ >>1
新解釈北条早雲で大河ドラマを作っても良いと思うのだけど、
新解釈の北条早雲は傑作と言える読み物がないなぁ。
まあ大河ドラマは史実無視でも構わないのだから、司馬遼太郎あたりの原作で
作っても良さそうなのだけどな。
何故か北条早雲は作ろうとしないな。
立花宗茂や島津義弘は隣国との兼ね合いで作れないと聞いたことがあるけど、
北条早雲がダメ理由はいったい何なんだろうな。 ウリはウンコだけでドンブリ飯4杯はいけるニダ!
V
∧韓∧
<丶`Д´> ∧日∧
/ \ ( )何言ってんだこいつ
.__| | .| |_ / ヽ
||\  ̄ ̄ ̄ ̄ / .| | |
||\..∧中∧ (⌒\|__./ ./
||. ( ) ~\_____ノ| ∧米∧
/ ヽ 死ねよ \| ( )
| ヽ \/ ヽ. オマエ馬鹿だろ
| |ヽ、二⌒) / .| | | >>340
北条早雲は知名度そのものはあるだろう?
ただ北条早雲を描いた読み物で傑作がないだけでww やっぱり女を馬鹿にしていたからかなぁww
織豊系の大名は割りと女の力を活用していたからな。
家康にしても、側室を外交官として派遣しているしな。
北条早雲は日野富子とリアルで面識があって
「あれはあかん」と思っていた節があるからな。 人物眼については超越してる勝海舟が最大級に賛美してた戦国武将が武田信玄と
この北条早雲 たしかに勝海舟は北条早雲を最高の戦国武将だと三英傑より評価してた 長野業正
殿、籠城、伏兵の名手
家臣に伝説の剣豪
剣聖 上泉信綱
他の家臣も猛者 ドラクエなら
極上 メタルスライム レベルの強さ
とにかくしぶとい 武田騎馬隊
長野業正の
上州兵はヤバすぎる
(ヾノ・∀・`)ムリゲー 涙 勝海舟が史上最大級に賛美してるのが北条早雲だという現実 >>346
北条早雲は今で例えたら、中央官庁に勤めるキャリア組の高級官僚みたいなものだからな。
足利義視の近習をしていたとの話もあるし。 >>349
長野業正は信玄と戦ったことはない
戦国最大の捏造武将やぞ 勝海舟が評価したのは昔の早雲やろ
今の早雲ならそれほど評価しないやろ しかし早雲も小田原城乗っ取りでは騙し討ちの梟雄そのものだったからな
そういうピカレスクロマン的な早雲が俺は好きなんだけどな NHK
天下人豊臣秀吉の影響か
後北条氏の文献は信頼性が低い
河越野戦の資料は何故か曖昧
嘘つきは後北条氏や
後世の歴史家だ。
間違えるなwww
上杉の死因すら曖昧w NHKの結論
この時代の文献は、混乱期でもあり、
信頼性が薄く、また、資料も非常に乏しく、
暗闇の野戦を完璧に知る方法は皆無であり、
話が矛盾するのは、ある程度は致し方ない 豊臣秀吉の影響
後北条氏がらみは文献を
処分された可能性が高い 風魔小太郎とか曖昧だらけ
まあ、通説は忍者だから
致し方ないんだけどw NHKの結論
当時、
名君と評判の高かった
長野業正の家臣に
上泉信綱や剣豪がいたのは
ほぼ間違いないとされる NHK
豊臣秀吉、徳川家康に忖度した
武将や歴史家が多かったのが原因か? 涙 風魔小太郎
最後は盗賊になったとか諸説あり
死因はいまだに曖昧だからな 徳川家康、徳川家光あたりは
歴史歪曲の第一人者だからな
大阪城も取り壊して埋めた位
だから、都合の悪い資料は
闇から闇な可能性大。
柳生や服部半蔵が暗躍かもw
家光は改易連発だったしw 幕府に改易されたら大変だから、
大名が調べて、幕府に忖度し、
歴史書や世間に知られたら
まずい文献を大量に処分した可能性大 箕輪衆と協力し、
武田信玄を止めたのは
間違いないのだが、
資料が処分された為に謎が多く、
やがて神格化されたのであろうw 頭が小学生以下で
アンポンタンな380へ。
お前は漢字解らない馬鹿かwww
他人の説教する前に、
もう一度、小学生からやり直せwww
×話しをしろ
○話をしろ 380へ。在日乙www
なんで話ししろなの?
せめて、話しろではないの?笑 380が激烈馬鹿で、
国語苦手なのは、
これで、確定したなwww 380の言い方だと
日本昔話○
日本昔話し×
になっちゃうよwww
在日乙www まあ北条早雲はマジで調べれば調べるほど面白いと思うのだけどな。
>>367さんが主張するピカレスク的な北条早雲伝説が語り継がれたのかは
関心があるよな。
小田原北条氏は民衆から嫌われていたかと言えば、
むしろ民衆からは結構慕われていたみたいなのにな。 もう梟雄でもなければ最初の戦国大名でもなくなったんだよ 宇喜多直家、斉藤道三、松永久秀のキチガイ3人衆に比べたら若干マシだが 松永久秀も全盛期に比べたら梟雄要素半減してるよなあ 北条早雲は宇喜多直家と同じく岡山県民
さすが梟雄の血塗られた土地 宇喜多直家は息子で救われたよなww
それに対して、北条早雲はどうして梟雄伝説が定着したのだろうな。
小田原北条氏は善政を敷いていたし、北条早雲にしても結構ほのぼのエピソード
もある。 諸事実を勘案してみると、
「早雲=素浪人」説を流布した真犯人は早雲その人であるように思われてきた…。 >>411
しかし、な。
早雲の正体を知らない筈も無い氏綱が、氏康に宛てた遺訓の中で「早雲寺殿は 小 身 か ら 一代で大を成した人であるが」なんてことを云ってんだよ。
事実は幕府中枢の高級実務官僚、
それも名門伊勢氏、傍流とはいえ宗家に近い立場だ。
尋常なら「世間は我が家を『他国の兇徒』と呼ぶが実は立派な身分の」ぐらいは云うだろう。
他ならぬ氏綱にそれを云わせないことが可能な人物は早雲その人以外に考えられない。
他にもこの類の不可解な現象は幾つもあるが、早雲自身が適当なことを吹いてたと仮定すると大体辻褄が合ってしまうんだよ。 だが北条早雲にはロマンがある
ここまでロマンを感じさせられる戦国武将はそうはいない >>413
今時そんなことを云うとは、釣りか?
釣られてやろう。
浪漫に満ちた「北條早雲」はもはや軍記や講談の中に封印された。
幕府高級実務官僚、駿河今川家重臣、扇谷上杉与力勢力として実績を積み上げた「伊勢早雲庵宗瑞」は有能、堅実、冷徹な実務家で浪漫とは対極の場所に在る。
最後の十年だけは独立したが両上杉に喧嘩を売った動機は
あの統治原理を以て領国を存続させる為にスケールメリットを要したこと−−だろう。
早雲庵宗瑞は浪漫の余地無き徹底したリアリストだった。
その統治原理が室町秩序への強烈なアンチテーゼだったこと、
組んだ相手が長尾景春や長尾為景だったこと、
その辺には幽かにアナキズムやニヒリズムが漂ってはいるが…。 幕府高級実務官僚やなんやかんやであっても小身というしか無いほど
衰亡していたんだろう幕府の権力・権威が >>415
それはあるか…。
となると北條に改姓した氏綱にとっては失墜した伊勢という過去なんざ所謂「黒歴史」でしかなくてさっさと抹消したかった、と。
事件によって最大の利益を得た者が真犯人である。
氏綱さん、あんただったのか! 下剋上の梟雄だろ
梟雄そのものだな
そして最近の下手に美化した早雲より梟雄の早雲が好きだ >>417
まあ、そりゃ好き嫌いは人それぞれだからそれで良いんじゃないか。
俺も軍記や講談は大好きだからそれはそれで変わらずに楽しんでるよ。
一つだけ云っとくと、美化じゃなくて冷徹な実証、な。 えげつない手段を平気でとる真実の早雲が好きだ北条早雲 真実の北条早雲とは下剋上の梟雄。
松永久秀、斎藤道三、宇喜田直家とかも実は良いだった説はいらねんだよ >>420
なるほど。
今後とも梟雄たちの血沸き肉躍る活躍を大いに楽しめるといいな。 >>424
扇谷上杉の与力勢力として山内上杉方との間で少なくとも三度以上の争奪、
四年ぐらいの時間をかけて何とか確保。
梟雄、ねえ…。 で早雲は誰に下剋上したの?
初めからの敵を倒すことは下剋上とは言わんだろうし いや上位のものを倒せば広い意味での下剋上と言えるのか
でもそれなら早雲が最初じゃなくなるね では何で戦国時代を巻き起こした漢とかいわれてんだ? ゲームだと北条早雲の能力が三英傑より高くてバケモノみたいになってるよ >>430
単純に、誤認。
そもそも特定の人物が戦国時代を巻き起こしたとかいう思考が白痴そのもの。
戦国時代を生んだものは「人間」ごときじゃなくて、
小氷期とさえ云われる地球規模の寒冷化とそれに起因する壊滅的飢饉の長期継続という「状況」だ。
それを承知の上で、
偶々戦国時代開始の時と場に居合わせてしまった代表的人物を敢えて選ぶとしても、
それは例えば足利成氏であって早雲庵宗瑞ではない。 別に真実の早雲は良い人じゃなかったんだけど
本者のキチガイ武将だった斎藤道三や松永久秀や宇喜多直家に比べると格段に善良に見えてしまう時がある その三人が既知外だというのも現代の価値観で評価すればの話でしょう
それなら戦国時代なんて全員既知外ですよ
イっちゃってる度合いからしたら三人はむしろスケールがちっちゃい
一番イっちゃってるのは信長か秀吉ですね >>441
早雲庵宗瑞については戦国という構造或いは運動の中で引き受けた「役」又は「枠」の特異性こそが重要なんであって、
出自が何家だとか享年が何歳だとかの個人属性や記名性には殆ど意味が無い。
六十四歳だろうが八十八歳だろうが拾萬捌拾捌歳だろうがどうでも良い。
イ. 「戦国大名」成立のモデルケースを提示したこと
ロ. 室町秩序を超克する領国統治原理を実践したこと
ハ. それを意識化・言語化(換言すれば戦国大名である自己を相対化)したこと
この三つの事蹟は不朽不滅だ。 勝海舟が氷川清話で最大級に賛美してる戦国武将が北条早雲と武田信玄の二人 >>452
勝は宗瑞の税制などの民政を褒めてるんであって「下剋上」(←捏造)とか「徒手空拳の成り上がり」(←これも捏造)を褒めてるわけじゃない。
もちろん宗瑞については幕末までの間に訛伝もあれば脚色も多分にあったろうが(「北条早雲」と云う呼称がその最たるもの)、
『氷川清話』を読めば勝が宗瑞の本質は外していないことが解る。 >>454
そんなことは一言も書いてないなあ。
「北条早雲というと、誰もただ炯眼な戦将だとばかり思うけれども、あれはまた、非凡な政治家だヨ。
もとこの関東八州は室町将軍の領地で、租税の苛煩なのは日本一の処だった。大方、七公三民位に当っただろう。早雲はこれを察して、法を三章に約し、大に租税を軽減したものだから、民のこれに従うことは、水の下きに就くようだった。
あれが旅人の身をもって、手につばきして関八州を収め得たのは、ひとり英雄の心をみたためばかりではない。民心を服し得たからだ。」 因みに。
伊勢宗瑞と云えば税率軽減そのものは事実だが史料に「四公六民」の裏付けは無いらしい。
但し検地を基礎とする公正な徴税に加えて災害、飢饉、戦争等による生産減損分の控除交渉を直接に個別の村々と行ったり
荒廃しかかった村の復興政策に力を入れたりしたのも事実で、
結果として村々の負担は軽減される場合も多かったろうし何より相互の納得度が高かったことだろう。
その辺りを全く顧慮しないばかりか恣意的な追徴の多かった室町秩序体制との比較として『宗瑞=善政』の記憶が伝承されたものと推測される。 宗瑞は生涯一度も下剋上をしたことは無い、というのが史実。
駿河クーデターは幕府及び伊勢氏一門の意向を受けてのこと。
伊豆討入も幕意、なかんづく細川政元と足利義澄の下命を受けた今川氏親の配下としての一挙。
小田原城攻略は扇谷上杉定正の与力勢力としての通常軍事行動。
相模制圧戦争は独立勢力として動いているが扇谷とも三浦とも「上下」関係は無い。
この戦争を発動するに当って長尾景春や長尾為景という正真正銘の「下剋上」の猛者たちと同盟したことが宗瑞の印象を決めた一因ではあるだろう。 伊勢新九郎盛時は1456年生。
元服・初出仕が15歳前後とすると1470年頃から職業生活に入ったとみられる。
そうなると、
1470−1487 幕府申次衆
1487−1509 幕府奉公衆 兼 駿河今川家中
1509−1519 伊豆国主(=戦国大名)
という履歴なんだが、
キャリアの80%までを「将軍−守護」の室町秩序ド真ん中で過ごした人物が一体 何時、何処であの領国統治原理や民生政策を発想・涵養できたのか。
頽廃した権力中枢にどれほど深い闇を見てきたのか。
伊勢盛時改メ早雲庵宗瑞の「善政」は、希望や野望よりもむしろ絶望に拠って立ったものかと思われる。 >>464
今川がその政策を採ったのは氏親からなんだよ。
若年の氏親が独力でそれを立案断行したとは考え難い。
黒幕…と云って悪けりゃプロデューサーがいる。
で、
氏親の政治・軍事面に於ける無二の後見人が誰だったかと云うと…。 誰が何と言おうと
戦国三大梟雄の一人は北条早雲
これは揺るぎない >>467
歴史の定説は覆せないよ
一人で頑張れよ 司馬遼太郎も富樫倫太郎も北条早雲は戦国時代を巻き起こした梟雄だと断言してる >>469
> 司馬遼太郎も富樫倫太郎も
思わず茶を吹いた。
しかしこれでやっと解った。
悪かったな。誤解してた。
お前はずーっとギャグのつもりで書いてたんだな。
何度もマジレスしちまって、御免な。 >>471
お前ひとりで博識気取りで世間の世間の定説を覆すのは至難の業だな 戦国三大梟雄とは北条早雲、松永久秀、斎藤道三。
異論あるまい 最近の何故か善人扱いされてきてる北条早雲よりも
乱世の奸雄まるだしのミニ曹操みたいな北条早雲こそ本来の魅力なんだろう コーエーだと北条早雲の能力が合計1位で裏ボスの扱い 伊豆で挙兵した頼朝といい後北条氏といい、伊豆の国ってめちゃくちゃ軽視されてるけど武家にとっては特別な地域でもあるよね
武家の世を開いた頼朝、戦国時代を到来させた伊勢長氏、そして戦国時代に終わりを告げたのが小田原開城と後北条氏の降伏
その後の関東を襲った徳川家康は200年以上戦争がない時代を作った
徳川幕府の幕臣の召し抱えや補任の起証文に伊豆箱根大権現とあるのは鎌倉以来の伝統?
それとも後北条氏の文化なのだろうか?
詳しい人がいたら教えたほしい >>480
「詳しい人」じゃぁないんだが手許の書物から搔い摘まんで。
一言で云うと箱根権現は伊豆山権現と並んで古来関東武士の聖地。
源頼朝が篤く信仰したり北條時頼が再建事業に力を入れたりした。
鎌倉の頃から武家起請文神名筆頭に上げられるほどの神威だったと云うから、
貴問に答えるならば「鎌倉以来の伝統」ということになる。
伊勢早雲庵宗瑞も自身篤く信仰したのみならず、末子長綱(幻庵宗哲)を同社の別当としている。
これは関東軍政に於ける物心両面にわたる実利もさることながら
他国から関東入りした者として「爾後我が家は関東武士として生きる」と云う強烈な決意表明でもあったと考えたい。
伊勢改メ北條氏綱の同社再興事業は正に鎌倉北條得宗家の衣鉢を継ぐ者としての自覚兼宣言であった。
徳川家康もまた大いに心を寄せたと云うが、他国から来て関東に定住する武士として頼朝、宗瑞に己を凝したことは間違いない。
以上、取り留めも無く。 >>481
やはりそうなのかな
当時は武士=関東だったでしょうからさもあらん >>482
氏綱が箱根権現造営に当たって奉納した文書によると同社再興は宗瑞の念願だったそうな。
果たせずに永眠した親父の遺志の成就という意義もあったわけだ。 >>484
関東に志を立てんとする武士は大概、
右大将頼朝公
八幡太郎義家公
新皇将門公
のうちの誰か又は全員を尊崇するものと決まっている。 現代の人気度は圧倒的に義経>頼朝だけど
当時の人気度は圧倒的に頼朝>義経だったんだな 判官贔屓という義経の人気は、頼朝の武家の棟梁としての人気たはまた違うよね
頼義・義家以来、源家に臣下の礼をとる関東武士が伊豆箱根両権現を崇拝するのは自然だったのかもしれないね 伊勢早雲庵宗瑞〜北條氏綱の神仏信仰の篤さは疑うべくも無いこととして、
この二代に於ける社寺との具体的な関係構築の方も一貫して戦略的に行われていて興味深い。
三島明神、伊豆山権現、箱根権現、相模一宮(寒川神社)、そして鶴岡八幡宮と、
何れも社寺領を巡る権利関係の整理や紛争の裁定、運営費用徴収の国税化による経済基盤拡充、施設の再興再建等々によって外護者としての地位を確立しつつ
その必然的な結果として北條式領国統治構造の一装置として取り込んでいく。
しかも彼等は権力体として暴力(※政治学の術語)を発動することなく円滑にこれを成し遂げている。
その手際は実に見事としか云いようが無い。 鎌倉の鶴岡八幡宮は安房の里見によって兵火に巻き込まれたりしてるけど、
八幡宮の板倉氏の日記だか文書が残ってると記憶してるが、小田原に何とかしてくれと保護と自治を要求してる >>490
他者の保護下に於ける自治、ということ自体が既に根源的な矛盾を孕んでいる。
それは「自治」の名の下に当該他者の構造に組み入れられること以外の何物でもない。
実際、鶴岡八幡宮について北條氏は
・同社に対する北條の暴力不行使
・同社に対する第三者の暴力行使の排除
・同社修造に関わる一切合財の手配と実行
等々によって「北條の実力を前提としてのみ存立し得る鶴岡八幡宮」という状態を固定化している。
例えば本願寺の如き独自の暴力装置を持たない同社には他に選択肢も無かった。
同社の云う「自治」は社領に於ける徴税権と裁判権の保証ということになる。
しかし徴税実務も裁判の基礎となる法(社中法度)の制定も北條の手で行われた以上、
そして鶴岡八幡宮の神威・権威の生む有形無形の利を獲得する者が北條である以上、
やはり同社は北條の統治構造の一装置として再定義されたものと云う他ないだろう。 関東を支配するために北条性を名乗ることはは鶴岡八幡宮の保護と同様に必要だったんだろう >>492 >>493
近年の研究によると北條改姓については幕府の御墨付きを得ていたとか。 武田、上杉と違い北条だけは大河ドラマにならない不可思議性 >>495
見せ場に欠けるという巷間の評は伊豆討入、小田原城乗取、国府台合戦、河越合戦、臼井合戦などによって容易に否定できる。
本当の所は、
既得権益の清算や民政の整備によって村や国衆の支持を拡げた
−−という展開基調が自民党政権に差し障ることが大きな要因かと。
実際、かつての大河「風と雲と虹と」(平将門=反ヤマト)や「獅子の時代」(幕末会津藩=反薩長)に対する某方面からの風当たりは物凄いものがあったと仄聞する。 スレチを恐れず附言しておくと、
識者による歴代大河評では上記二作及び「花の生涯」(井伊直弼)の評価が高いという。 >>497
花の生涯といえば,直弼の腹心の宇津木も小田原北条氏の遺臣の家系だよね 徳川家康は武田と同様に北條の遺臣も丸抱えしたようだから時々チラッチラッと見え隠れする。
桜吹雪の遠山金四郎景元も北條重臣で江戸城代だった遠山直景の子孫…だったら面白かったんだけど、
残念ながら金さんの家系は美濃の明知遠山氏の分家らしい。
とはいえ、江戸遠山氏も同じく明知遠山氏から分かれて伊勢新九郎盛時について駿河または伊豆に下ったと云うから遠い親戚ではあるんだな。
そして金さんの娘の一人は旗本「大道寺内蔵助」に嫁いだと云う。
大道寺、どう見てもあの大道寺だろう。
縁は異なもの味なもの。 小田原北条氏の遺臣で家康に召し出されたって大名級になった太田備中守とか中山備前守が思いつくけど
小田原北条氏の遺臣で徳川将軍家旗本になってのは140家あるという >>500
さすが狸。
遺恨の代りに恩を売って堅い味方にする。
根っから悪い奴は決して悪いことはしないという見本(褒めてます)。 後北条氏の家臣団は烏帽子直垂などの服も前立てなどの軍装も細かい規定があって厳しかったというが、やはり北条氏の出自に関係するんだろか?
それとも「北条」を称し関東に号令する者としての矜持だったんだろうか? 後北条のいいところは現存史料の豊富さだろうね
北条の後が徳川家康だったから残ったんだろうけど >>506
黒田基樹氏曰く
一次史料から十分に実像の把握できる戦国大名は北條だけと云っても過言ではない、と。
記録魔北條と丸呑み狸に感謝。 >>507
後北条氏の発給文書のおかげで、北条麾下の馬上の軍装は、兜の前立てと面頬が義務化されていたとか知ったわ
馬に乗るほどの分限の者はみんな佐竹義宣の肖像みたいな感じだったのかな 北条が大途の名で徴発した雑兵の軍装にも「旗指物ひらひら武者めくよう」にとかこだわりが見えるわ >>503 >>509
軍装、直垂、烏帽子、旗差物、その他諸々、
「北條家指定」の規格品製造/販売権を少数の特定業者に免許制で与えて大量販売させて莫大な利益誘導、
その見返りとして業者は免許料の名目で多額のリベートを北條家に支払う、
という魚心あれば水心お主もワルよのういえいえ御殿様ほどでは的な構造が実質的な国策として存在した。
と妄想した。 >>510
実際にはいろいろあったみたいよ
埼玉の狭山の鍛冶衆に槍の大量納入を催促したり、逆にそれは無理だと断られたりしてるから、武具の大量調達は大変だったみたいだよ
後北条の家中の服装についてはなぜか凄く立派だったらしいね
畿内の同時代の人から見ると、まるで鎌倉武士かと思うほどに古風な装束だったとか >>515
> それは無理だと断られたりしてる
そんな生々しくも情けないトホホ噺まできっちり記録を残す北條に乾杯♪
公文書の管理と保全については日本国政府よりも北條権力体の方が遥かに真摯で誠実だ。
しかしこの逸話も興味深い。
一つには職人衆と戦国大名の関係性が窺えること。
もう一つには狭山辺り(鉄との縁は薄い)に鍛冶の職能集団が在ったこと。
記録が残ってる御蔭で様々な切り口から戦国大名領国の実像を考察できる。 狭山市柏原には槍専門の鍛冶集団がいたっぽいね
永禄8年、天正7年の二通ある狭山市柏原の新井家文書に、滞納していた槍の穂先の納入を督促してるが、棟別銭免除の特権の代償として年に槍30筋の納入を求められていたようだ。 北条5代までとは言わないけど、氏康までの3代くらいまでは大河ドラマで実現して欲しいな
なんで頑なに、大河ドラマは 東国史を避けるのだろうか・・・ 難しいから? >>520
氏綱の後半以後はちっとも難しくない。むしろ実に分かり易い。
北條登場以前の方がよっぽど難しい。と云うよりも訳が分からない(だから面白い)。
享徳ノ乱、長享ノ乱、永正ノ乱と敵味方ワケワカな大混乱に長尾景春、小弓義明、長尾為景、伊勢宗瑞が燃料をぶち込んで更に滅茶苦茶。
その滅茶苦茶を止揚して簡潔明瞭な対立構造を立てたのが第一次国府台合戦、という図式になる。
所謂関東三国志もあくまでこの時に出来た構造の枠内に留まるものでしかなかった。 前にも出てだけど、小田原北条氏の史料が他の戦国大名に比べて豊富に残っているのは、やはり次の関東支配者が徳川だったからだろうね。
小田原北条氏の版図だった関東の地域にも稀に武田家発給の文書、あるいは前田、浅野といった豊臣系の発給の文書があるけど、要は由緒と権益を認めてもうために残していたのだろうな。
小田原北条氏が滅亡し、たまたま徳川の次が明治政府だったから残る 駿河の今川から独立・自立して関東の大名になたのは北条と徳川 >>523
> 徳川の次が明治政府だったから残る
ここの件、貴見の詳しい解説を願う。
俺の認識では「明治政府」=薩長藩閥権力体は関東のありとあらゆる社会関係を徹底的に毀損破壊せんとした者、となる。
北條〜徳川の行政記録保存についてもマイナス要因でしかなかったとみるのだが。 >>525
家の由緒や権益を主張するために徳川幕府が滅びるギリギリまで後北条氏発給の古文書の効力を見込んで大事にしていた家が多かったからでは?
後北条氏発給の古文書って、寺社以外はほとんど関東の農家に伝わったものだし、新編武蔵風土記稿を読むと各地の豪農の古文書は虎印のそればっかりだしな 簡単に言えば、後北条氏発給の古文書は江戸時代200年を通じて、ただの古びた紙切れではなかったという事だと思う。
武家の武勇や戦歴を誇る感状もあるにはあるが数は少なく、どちらかと言えば小代官クラスやそれ以下、あるいはた寺社や職人に与えられたような文書が多く残っている印象。
実際に新政府軍が関東に入った時に、それらの後北条時代の古文書を新政府に示し、新しい政府の下でもこれまで通りに御用を仰せつかりたい、または権益を認めて欲しいと申し出た例は多い。 >>526
なるほど。ありがとう。
薩長が関東で何をしたかと考えると北條/徳川からの権益保証は逆効果のようにも思われるから、
もしかしたらもっと多く残っていたものが戊辰前後で少なからず喪われたかもしれないな。 >>527
> 実際に新政府軍が関東に入った時に、それらの後北条時代の古文書を新政府に示し
「ごわぁすごわすっ」「じゃけんのうじゃけん」とか吠え散らかす輩にその場で破り捨てられそうな…。 >>529
言葉はなまっていても、文書においてはほぼ全国通じるから問題も無いと思う。まして幕末なら。
有名な実例だと、関八州の賎民の頭とされていた浅草弾佐衛門が、板橋まで迫っていた新政府軍東山道先方隊本陣に手代を派遣して頼朝公以来の由緒と後北条から認められていた権益、常に時の政府に使えてきた事を主張して警視庁付とか陸軍御用とか東京府の役人として取り立てられた。
農村でも多摩地方では特に名主役等村役人就任を争って後北条氏の虎印の書状を証拠に出す事例があった。 しかも薩摩島津氏も防長の毛利氏も武家としての出自は関東の鎌倉にあるわけだから無下にもできないでしょう でも沼田領に北条氏発給の文書はたぶんないよね
面白いのは北条氏の発給文書が武家よりも主に民間に伝わってるという事実 >>533
それは宗瑞が悪い(悪いのか?)。
北條(伊勢)は村とも職人衆とも直接真摯に向き合います。
中間の有象無象は全部無しにして年貢の減免、モノ作りの注文、泥棒の被害から夫婦喧嘩の仲裁まで北條が扱います。
全て虎ノ印判状で北條扱いの証を残しますから後々まで安心です。
なお、虎のいない書状は無効ですから注意して下さい。
−−なんてやっちまったから怒濤の公文書が民間にばら撒かれることになった。
宗瑞の頃は所帯も小さかったからいいが、
氏康や氏政は物凄い仕事量を強要されて「…ったくあのハゲはよー」と恨んだことだろう。
国主にブラックな企業、小田原北條総業。 氏政氏直公の時代になると、百姓にも戦に出よと申し付ける
しかも当初は槍の長さや軍装にはうるさかった北条が最後には手ぶらでも良いから兵になれとまで言う
お国の為、大途の御為と迫る危機に対してニュアンスを変えてくる
良いか悪いかは置いといて、とりあえずそういう文書が残ったことは有りがたいと思うわ >>535
黒田基樹氏によれば現代日本国の祖型は
天武朝以来の皇国「日本」ではなくて、戦国大名の独立地域国家にこそ求められると云う。
氏政以後微妙に変質していかざるを得なかった(氏政愚将説に非ず)北條権力体の姿は
確かに国家なる共同幻想の本質をリアルに照らし出してくれている。
良きにつけ悪しきにつけ多数の公記録を残してくれた北條権力体は
歴史研究者のみならず現代社会の研究者にも多くの示唆を与えているのかもしれない。 >>536
小田原北条氏は、相模わおろか分国の領民にも「御国の為に」とはっきりと記しているもんね 関東は100年も北条王国だっただろう
関東の文化を作り上げたのは徳川より北条 珍しいと思うのは、北条氏内部の抗争や一で族の殺しあいがあまり無いこと >>542
> あまり無いこと
あまり、じゃなくて、皆無だった筈。
家督を継いで国主なんぞになっても殺人的に忙しいだけで良いことなんか何にも無いと誰もが解っていたから
…かな。 >>544
上杉さんちはもっとずーっと昔から内紛の嵐だぞ。
禅秀ノ乱で既に割れてただろう。
長享ノ乱とか一体何年間やってたんだか。
第三次延長戦ぐらいまであったし。 関東の武士なんて鎌倉時代から親兄弟一族が殺し合とか当たり前だからな
その中では珍しいな後北条は 後北条の文書が突出して豊富に残った事で、他の地域との比較が難しいですか、後北条の領民は年貢以外にも棟別銭や段銭、城米銭とかかなり絞りとられてる印象
百姓の逃散や租税や軍役に耐えられなかった武士も領地を捨てて失踪してる事例もあるから
後北条氏の民政が当時どれ程優れていたのかはわからない
だが、徳川幕府が後北条のそれを、ほぼそのまま継承しているから、他から見てもまあまあな治世だったのだろうな あの時代の善政は今でいえば少しマシな独裁国家にすぎないよ >>550
上に書いたことと重複するが。
氏政期後半以後は別として;
・諸々の年貢/賦役を併せても前代の足利−上杉体制時代よりも軽かったこと
・それらの前提となる「公称課税高に対する控除査定」が村の実情に即して詳細に実施されたこと
・税体系全体が明文化・一律化されていたこと
等々による公正感や納得感の高さが北條善政伝説の核となった事実だと考えられる。
また北條権力が税の収奪の一方で救荒や医療など村存続に注力していたことも大きな要素だろう。 >>553
小田原北条氏の終演=ある時代の終わりだったのだろうな
棟別銭の免除だけで、騎馬武者一騎と槍持ち指物持ち一人の都合三人の軍役はきつい まあしかし、軍役の厳しさもさることながら税制・税目の多種や、きめこまやかさこそ国家らしい感じだな 話を宗瑞に戻して、と。
謎がある。
伊勢新九郎盛時は戦闘者/戦闘指揮者としての能力を何時、何処で、如何にして獲得したのか。
盛時は駿河下向後電撃的にクーデターを成功させた上に約二年という短期間で駿河統一戦争に一定の目処を付けてみせた。
斯様な能力は実戦の修羅場を幾つも踏まなければ身に付くものではなかろう。
然るに現時点の知見によると京都時代における盛時の戦歴はゼロの筈。
また駿河下向時に少数の手勢を連れて行った形跡はあるものの主力は今川家中の龍王丸派だった筈で
彼等から強固な信頼を得ていなければ他国者が客地で戦争を遂行することなど出来ないだろう。
ところが盛時はこの時が駿河初見参だったと謂う。
無視するには大き過ぎる不整合、不可解がここに在る。
先日>>463で書いた疑問と併せて、長享元年以前の伊勢盛時に関する我々の知見には未だ致命的な欠落があるのかもしれない。 なんでもありの下剋上が嫌がられて時代劇の主人公にされにくいのかな? >>558
単に大河ドラマの主役に相応しくないからじゃないの?
地域性、時代背景、有名エピソード等どれも大河向けの要素皆無だし
ちなみに大河に限らずだが、ヒット狙うならダントツで東北地方が舞台 >>559
その人はあんまり相手にしない方が、、、 新九郎、奔るとか面白いんだけどな
ドラマ向けではなくて何故か小説の世界では大人気なのが北条早雲 >>562
その漫画に限っては黒田基樹氏の御墨付きだが、
今でも大概のメディアは既に終わった早雲幻想を無批判に垂れ流してるだけだからゲンナリする。
リアルな伊勢宗瑞像の方がよっぽど含蓄に富んでるんだけどな。 昨日の友は今日の敵を地で行く北条早雲みたいな多重人格者的な人間を今の役者が演じるのは難しいだろ >>566
> 昨日の友は今日の敵
伊勢宗瑞の経歴の何処にもそんな行動は見当たらないが…?
具体的にはどの部分のことだ? 騙し討ちでの小田原城奪取の話を聞いて
嗚呼やはり北条早雲も戦国武将なんだと思ったよ
なんか真田昌幸と性格が瓜二つなんだよね >>568
無知にも程がある。
あれは山内上杉と扇谷上杉の抗争の中で扇谷派だった小田原大森が山内に鞍替えしてしまったことが発端。
伊勢宗瑞は扇谷与同勢力だったからその要請に応えて小田原城を奪取した。
かつて宗瑞が幕命によって伊豆を制圧した時に扇谷も支援したからその見返りという面もあった。
謀略などとは無縁の極めてリーズナブルな、むしろ事務的とさえ云える行動でしかない。
…お前、構ってもらいたくてわざと馬鹿な書込をしてるだろ?
ここは日本史板で、そういうガキの書く場じゃねえから。 やたら北条早雲を美化したがる無知が一匹いるな
俺は生き残るために何でもありの梟雄の北条早雲こそ逆に大好きなのに しかし早雲は映像描写より歴史小説では大人気の分類
こういう人物は他にいない
散々映像化されてる三英傑や信玄、謙信、政宗、元就とは違うな。 俺の記憶では北条早雲役は北大路欣也。
それぐらいだな >>576
司馬遼太郎って「箱根の坂」かね?
あれって新九郎という主人公が伊勢屋敷内の小屋で馬の鞍作ってたり、矢作川で野盗に襲われて糞漏らしたりして全裸で歩いたりする小説だよね?所領や家来達の出身地は宇治田原って事になってたな。
司馬遼太郎の作品の中では、そんなに人気あるとは思えないけどなぁ?
富樫林太郎なんて知らないよ >>579
司馬某は三流講談師だから歴史を議論する板で名前を出すべき対象ではない。
富樫某は題材や内容以前の問題。軽薄過ぎる文体に嘔吐を催す。
>>556に自己補足。
伊勢新九郎盛時の弟で後に右腕として活躍する弥次郎盛興、
彼については足利義材の軍事行動に参加した経歴有とのこと。
伊勢は文官専任と思っていたが、或いは盛時にもそんな機会があったのかもしれない。
史料発掘が待たれる。 調べたら一度も映画化されたことはないみたいだ
まあ最大の同期ライバル格だった太田道灌よりかは扱いが全然いいが ただ現実に大河ドラマ化されるのならば太田道灌だと思うよ >>582
干支二回りも齢が違う上に一度も接点の無かった太田道灌を「ライバル」と云うのは些か違和感があるな。
道灌が実績に比して冷遇され過ぎであることは間違いないが。 今川内紛問題で駿河で一度対面してませんでしたか?
88歳死亡説をとれば1432年生まれで完全に同級生になりますが >>583
たしかに先に大河ドラマ化されてしまうのならば太田道灌だろ >>583
大河ドラマとかにこだわるのやめたら?
意味ないし 長尾影春も歴史に埋もれてる人だな
あれほど面白い武将もいないのに >>585
近年の研究では伊勢宗瑞享年八十八歳説は甚だ旗色が悪い。
また今川義忠戦死直後の伊勢盛時駿河下向は(従って太田道灌との外交戦も)否定されている。
これは盛時の年齢の如何を問わず史料の突き合せから出る結論のようだ。 >>589
それな。長尾景春は実に興味深い。
もしも伊勢宗瑞が映像化されるとしとら、
出自も経歴も目標も信念も何もかも懸け離れた伊勢宗瑞と長尾景春、そして長尾為景が反上杉の一点で同盟していく運命の暴走が一つの見所になるかな。 >>591
もし映像化されたら、とかまるで意味ないし >>593
幾つも発表されている災害飢饉年表を見てもそれは云える。
地球寒冷化と地殻変動の時代、生活者にとっては悲劇の時代、むしろ地獄の時代だった。
伊勢宗瑞の年代記にも連年の凶作、二度にわたる大地震等々その影は濃い。
或いは宗瑞の民政構想は必死の災害対応から涵養されたか。
そもそも戦国乱世全体の根源的な動機はこの自然環境状況にこそ在る。
これについては藤木久志氏以来、専門研究者による一般向け書籍も多いのにその基本認識が殆ど行き渡っていないのが歯痒い。 氏綱こそ小田原北条氏を一躍戦国大名の地位まであげた 88歳説は伊勢貞親弟の貞藤と同一人物とされてた頃の名残りでしょ >>597
「戦国大名」の定義に鑑みればその構造を築き上げたのはやっぱり伊勢宗瑞だったとせざるを得まい。
しかしこれを全く別次元に引き上げたのみならず
関東戦国の座標軸を完全に書き替えたのが北條氏綱であることはいくら強調しても強調し過ぎることは無い。
後の所謂関東三国志と雖も氏綱が打ち立てた枠組から一歩も出るものではなかった。
と、同時に、
宗瑞が掲げた民政原理を具体的かつ強固な政策/制度にまでブレイクダウンしたのもまた氏綱だった。
大北條の礎は氏綱に有り。
本当に氏綱期の北條権力体はもっともっと盛んに議論されなければならない存在だと云いたい。 有名な北条五代の肖像画だけど、初代早雲の出家姿から、氏綱の折烏帽子に紺地の素襖、氏康の折烏帽子に白地の素襖はいかにもという感じでわかるが、氏政・氏直がいきなり衣冠束帯姿になってるのが気にかかる
まあ、かなり後代の作だろうから、五代の勃興、隆盛と滅亡をなぞらえてこうなったのかな? 北条早雲、長尾景春、太田道灌
15世紀日本の東国史を作り上げた三大英雄 後北条氏も二代目までは余所者の成り上がり大名感がするが三代目からは立派な関東の大大名になってるよ >>604
氏綱の代にすでに鎌倉鶴岡八幡宮を造営し、伊豆・相模と武蔵半国、下総の一部を手中にした有力大名になっている それぐらいしないと関東の掌握は無理だった裏返し
やはり完全に関東を掌握したのは氏康から よく斉藤道三と比較されることが多い早雲だが時代的にも真の好敵手は太田道灌だろうな アメリカの日本属国化に誰も違和感を感じなくなるまで戦後75年かかった様に
北条の関東支配も三世代70年以上かけて完成したもんよ >>612
その両者はかなり違う。
対米隷属は他に選択肢が存在しないと衆愚に思い込ませた(特に89年以降)上で傀儡日本政府が行った一元的洗脳だったが、
戦国関東の村や國衆は北條に付くことに利無しと見れば軽々と佐竹や里見や上杉や武田に付いてしまう。
権力体と被統治者との緊張関係としては後者の方が遥かに健全で、
それだけに北條の領国に向き合う姿勢は傀儡日本政府のそれよりもずっと真摯だった筈だ。 関東の有力寺社に莫大な寄進をしたのが人心掌握の秘訣
いまでも文化財保護を熱心にする政治家は好かれる >>614
当然だが、寄進や補修をする一方で寺社の統制もまたきめ細かくしてた模様だ。
大宮氷川神社に残る評定衆、勘解由佐衛門尉康保(石巻下野守)の状には、神域内の木を一本でも切り出す場合は、必ず現地の城主である潮田出羽守(太田三楽斎資正四男)の奉行に相談の上で切り出すようにと指示している。 >>615
氷川神社の広大な杜なら一本ぐらい黙って伐ってもバレないような気もするが、
記録魔北條なら大藤あたりの手の者を潜ませて「あーっ、伐ったーっ、いっけないんだー」とか伐木警察をやりかねないな。
普段から減税相談とか丁寧に対応してあげてんだからコッチの云うことも聞いて下さいよ頼みますよホントに。
って所か、北條からすれば。 >>613
北条支配に対する旧領民の反対運動とか起きなかったのか >>617
史料では反北條の村一揆などは見たことが無いな。
國衆レベルだと処遇不満を理由として太田三楽斎、三田綱秀、太田康資あたりの離叛があるけど。
また少ない史料から窺える鎌倉公方−関東管領体制の領国統治はかなり恣意的で理不尽なものだったようで、
村や社寺の視点からは「北條もうるせぇけどアレよりゃマシ」って所だったんじゃないかと。 >>614
北条早雲が崇敬してやまなかったのが源頼朝。
鶴岡八幡宮への寄進も影響があったに違いない 早雲は自己を頼朝公になぞらえるほど頼朝公を崇拝してたのだ
今日まで三島大社、箱根神社、伊豆山神社の頼朝三社が保存されてるのも
後北条氏の保護が起きすぎるよ 早雲は自己を頼朝公になぞらえるほど頼朝公を崇拝してたのだ
今日まで三島大社、箱根神社、伊豆山神社の頼朝三社が保存されてるのも
後北条氏の保護が大きすぎるよ 北条早雲が最大の抵抗者であった三浦一族郎党を根絶やしにしたから関東を統治しやすくなったのが真実かもしれない
あの時代に話し合いだけで解決なんて嘘が多すぎるよ
泣かぬなら泣くまで待とうの徳川家康でさ大阪の陣で敵方を根絶やしにしたんだからな。
後北条氏の関東統治は全ての汚れ役は北条早雲が実行してる >>622
三浦一族根絶やし?
史料に当たってから書いた方が良い。
それに「汚れ役」とか云う単語を使う辺りに軍記物的勧善懲悪史観が透けて見える。
現実の行政実務に汚いも綺麗も無いよ。
必要な施策を実行するだけ。 >>618
上にも出ているが、潮田出羽守などの太田三楽斎の息子達(梶原源太以外の)やその家臣らが三楽斎追放後もそのまま領地を引き継いで北条氏に奉公してるから、特に北条に対しての不満は無かったと思われる。乗っ取りではなく、むしろ古い体質で領民を苦しめるだけで混乱の種でしかない三楽斎を追放したのは自然の流れだったのかも。
のちに前出の潮田出羽守も豊臣勢に小田原を囲まれた時に、小田原側での唯一といっていい積極的な攻撃で太田十郎氏房の夜討に従って蒲生氏郷勢と乱戦して討死してるくらいだから で、個人的に興味を持っているのは後北条氏麾下の岩槻衆に属した潮田氏の部隊に角井、内倉、岩井といった大宮氷川神社の神主家の一部の子弟が参陣して討死していること
無理やり駆り出された可能性もあるんだけどさ、 >>624
なるほど。
となると太田三楽斎の異常なまでの北條憎しの執念は構造的なものからは遊離した「特異点」として考える方が良いのかもしれないな。
北條の領国統治原理は村にとっては有利な一方、中間支配層の既得権益を奪うものでもあったから不満を溜め込む者達も少なからず生じるのは必然の結果で(康資などは典型)、
三楽斎もその代表事例だと俺は見ていたんだが、少々図式的に過ぎたようだ。 >>625
羽柴勢は氷川神社に対してお定まりの「禁制発行−味方(中立)」の取引はしなかったのかな。
事後にでもバレたら社の存続に関わるぐらい危ない案件だろう、それは。 後北条氏の滅亡は北条早雲が三浦一族を皆殺しにした悪業が祟ったのか 堀越御所襲撃に小田原城奪取に三浦一族殲滅の北条早雲が善人な分けねえだろうがw 奇襲ゲリラ戦術が得意技。
ここら辺が真田昌幸に通ずる >>626
太田三楽、あれは普通じゃないでしょ
早雲より三楽斉のほうがかなりのクセモノ
まわりはさぞ迷惑だっただろうな しかし16世紀の日本が華の武将ぞろいなら
15世紀の日本はいぶし銀の武将ぞろいとでもいおうか 16世紀の日本において後北条氏の目立たなさは異常だと俺も本当に思ってた。 >>627
たしか氷川神社に与えた氏康発給の禁制は残ってる
軍勢甲乙人云々のお決まりの禁制だ
あの辺もしょっちゅう荒らされたんだろう
浅野弾正の禁制はけっこうある >>631
あの世にて
太田三楽「いやーお目にかかりたかったんですよー貴方を尊敬してるんですよー貴方なら俺を解ってくれると思ってー」
長尾景春「こっち見んな迷惑だ」 太田三楽斎は岩槻太田の家督の継ぎかたから異常
戦国の世の常とは言え始めに乗っ取ったのは三楽斎 小田原北条氏の分国の領民はかなり北条が好きだったんじゃないのかな
妄想だけど
武士階層には厳しい軍役、百姓には年貢を課して収奪するのは他に漏れないが、権門寺社の横暴を廃し、小代官クラスの専横と増長を一切許さない方針は一般的な領民にはかなり支持されたのでは? 大多数の百姓には鎌倉堀越古河の公方様がどうしたとか関東管領職とかどうでもいいもんな
御題目はどうでもいいからとにかく食わせてくれよって感じだろ
望んだのは生活の安定だろうしな 各々智勇ヲ奮ヒ以テ一方ニ雄拠ス。
一方ノ民モ倚ツテ以テ一日ノ安キヲ享ク。
他ノ小國ノ庸主、徒ニソノ民ヲ糜爛シテ成ス所無キ者ト日ヲ同シウシテ語ルヘカラス。
江戸時代の史家、頼山陽が北條(及び武田上杉毛利)に与えた評価。 後北条氏は開祖の早雲以降は虐殺行為はしてませんから 大多数の領民のある程度の合意がないと後北条氏のように戦線拡大または戦闘継続できないよね
関東では、すでに足利等の旧来からの権威は地に落ちていたのだろうな
後北条の後に徳川家康が関東を治め、やがて上方と敵対し、それを屈服させて今の時代に繋がるのだから、後北条は滅んだけれど実のある戦国大名だったな >>644
> 領民のある程度の合意がないと後北条氏のように戦線拡大または戦闘継続できない
この「下が上を規定する」原理(マルクスか!)を氏綱から氏康への遺訓の段階で言語化していた(即ち支配側である己を相対化していた)のが北條の特徴的な点。
その遺訓によるとこれは宗瑞が氏綱に口うるさく仕込んだものでもあるらしい。
狸は江戸幕府構築に当たって権力というものに対する異様に冷徹な視点を貫き通したが、
これも北條から受け継いだ遺産だったかもしれない。 >>462で書いたことの修正。
永正六年(1509)以後の相模制圧戦争は伊勢宗瑞の独立行動だと思っていたんだが、これも近年の研究では見直されているようだ。
この件については
イ) 同盟相手の扇谷上杉との間に永正五年頃から利害紛争が発生
ロ) 越後長尾為景から反上杉同盟申入・蜂起要請
という状況を受けての対扇谷宣戦、という基本線は変わらないものの、
ハ) 長尾為景が擁立した傀儡上杉定実の越後國守護正式認定=幕府公認
ニ) 山内上杉顕定の越後侵攻=為景に弑逆された弟(房能)の仇討
ホ) 山内顕定と和睦した扇谷朝良の山内支援行動
という大構造の中で上杉側が幕敵に位置付けられていた、
即ち宗瑞の扇谷勢力圏侵攻は幕府側勢力の対上杉牽制戦略の一環だった可能性があると云う。
(続) (承前)
これが事実とすると、
伊勢宗瑞の軍事行動のほぼ全てから「独自の野心」や「下剋上」の色は消えたことになる。
そして最後に残ったものは領国直轄統治原理の具現化による室町秩序の超克という一点だけ。
1990年代以後の伊勢宗瑞像の書き替えは劇的なものだったが、
それは余計な歪曲や夾雑物を消去して「代表的・典型的な戦国大名」の最もリアルな本質そのものを鮮明に再現する作業だったと総括できるのではないか。 三連投御免。
附記。
駿河クーデター、伊豆乱入、相模制圧戦争の全てが幕命・幕意に沿ったものだったとなると、
伊勢宗瑞は一貫して幕府と良好な関係を維持していたとみることができる。
氏綱の北條改姓や左京太夫任官が極めてスムーズに行われたことの背景にこの対幕府関係があったと考えると万事納得が行くように思われる。 いまだに前半生が不明すぎてドラマ化できないんだろう 『燃えよ剣』『峠』と連続して司馬遼太郎の小説が映画化されてるから
ここいらで箱根の坂を映画化してほしい >>649
伊勢氏があえて関東に入ったのは一定以上の中央の思惑と承認或いは支持があったのだろうと想像する。 北条早雲は岡山出身なんだよな
宇喜多直家や黒田官兵衛と同じく梟雄の地だな >>653
何だかんだ云っても「伊勢」という出自の効果は大きかったんだろう。
しかも家は庶流とは云いながら宗家に近い立場、
宗瑞自身生粋の京都生まれ京都育ちで元服時から将軍直臣だったから幕府との意志疎通の伝手も知識も十分。
この点は北條の動向を考える上でもっと注目されていいと思う。 伊勢なんて言うから三重県の出自かと思ったら岡山かよ >>658
平家というのは平清盛一門を指すもので、普通は桓武平氏=平家とは言わない >>655
しかし二代目氏綱は伊勢を改めて北条氏を名乗る
ここが一番すごいと思う
明らかに関東の覇権を意識している >>660
改姓時点に於ける氏綱は生存の為の妥協に次ぐ妥協を強いられる状況にあった。
そこでいきなり「関東の覇権」まではどうだろうか。
黒田基樹氏の分析の通り、
・正当な相模国主としての地位承認要求
・前相模国主扇谷上杉への宣戦布告
−−という所が精一杯ではなかったろうか。
北條氏綱が関東制覇を現実的な政治課題としたのは
イ) 鶴岡八幡宮修造資材及び労役提供要請で関東諸将に踏絵を踏ませた時
ロ) 古河公方足利晴氏が関東管領山内上杉を差し措いて北條に小弓足利義明撃滅を内命した時
−−の何れかとみている。 しかし、氏綱から
「あ゙ー、俺んち、北條にすっから。伊勢?駄目。全然駄目。関東じゃ巾が利かねえから。てーことで幕府方面の根回しヨロシク。んじゃ。」
とか云われた伊勢宗家は何と思ったのかなあ…。 やはり後北条氏の関東制覇が現実味を帯びたのは河越の夜戦からか やたら北条氏綱が民との義の契りを重んじてた民政家なのは
騙し討ちの謀略をやりすぎた父親の早雲が反面教師になってる面が大きい
下剋上の梟雄である父親の真似をすると人心が離れて北条家は自分の代で滅びると確信していたのであろう 後北条氏は三代目の氏康の存在が大きすぎるね
氏康なくして後北条氏はなし 粛清の内ゲバ闘争に明け暮れてたのが鎌倉北条氏
戦国時代最高の団結力を誇ったのが後北条氏 >>654
岡山県民は日本のユダヤ人とか言われてるとか 北条氏康に仕えた謎の軍師
臼井とやらには興味がある 北条氏康に仕えた謎の軍師
臼井とやらには興味がある 千葉の陪流でしょ?
軍師とかそういうのは知らないけど 臼井合戦で活躍したと伝える白井入道浄三のことか?
千葉の軍師だな。
見え透いた誤字は釣りか?
そうまでして構ってもらいてえのかよ…。 なんだよ軍師って?
梟雄ならまだしもさ
くだらないイメージで語りたいならゲームでもやってろ >>679
そりゃ関東を支配する単独の戦国大名と化したのは氏康からで
氏綱までは今川家の支援なくして北条家は成り立たなかった 北条軍記といえば伊藤潤だろ
どうしてあそこまで北条家に憑かれたのは分からないが
東国大名で信玄や謙信に憑かれる作家はいるが北条に憑かれる作家は伊藤潤ぐらいじゃないか? >>684
それはないな。
戦国大名としての成立要件は
自前の暴力装置によって担保される独自の領国直轄統治を確立すること。
これに照らすと、どんなに遅く見ても伊勢宗瑞の晩年には自立を達成したとみるべきだろう。
関東に於ける地位を評価対象に含めるとしても、第一次国府台合戦より遅くはならない。
「名将」北條氏康(及び氏政・氏直)は氏綱が樹立した座標系の中で遺憾無く働いたものと位置付けられる。 >>689
伊豆侵攻初期までだな、確認できるのは。
長期にわたる伊豆制圧戦本体は伊勢宗瑞の手勢及び味方に付いた伊豆國衆の力で完遂した。
その頃以後は、今川氏親は西部戦線(対斯波)が激化して(させて?)東方支援どころじゃなくなっている。 >>686
神奈川出身だから地元の英雄なんでしょう 氏直ってすごいな
北条氏康と武田信玄公の孫で徳川家康の婿 >>692
> 北条氏康
> 武田信玄公
> 徳川家康
↑さては貴様、山梨県人だな? >>694
そりゃ小田原といえば北条
甲府といえば武田みたいなもん 北条も武田の様に見性院とか信松尼のような女性の繋がりがもう少し強ければなぁ
幕臣に取り立てられたのも武田系の方が高禄な印象だし、尾張藩とか武田遺臣ばかりだもんな >>700
面白い視点だな。
閨閥は確かに重要。
北條歴代の女たちの嫁ぎ先は…、
駿河三浦、太田、吉良、古河足利、武田、今川、千葉、里見と錚々たる「名門」ばっかりではあるんだがみんな没落しちゃったからなあ。
徳川家康の女婿でもある氏直の早逝が如何にも惜しまれる。 初代の北条早雲が素姓が不明な成り上がりもんだから仕方ない 武田勝頼は北条家の女なんかもらわなかったほうがよかったかもしれない まあ女人が名跡を継ぐこともあるし、その辺は乱世の武家の習いだな つまり羽柴秀吉に対しては北條氏政の出仕なんぞよりも、
側室用の女を二、三人も上洛させときゃ勝てたかもしれない、と。
とはいえ、織田の於市様には敵わない。
彼女は一人で大名二つ潰してる。 まあ、その上杉もやがては三十万石で米沢に移封され、さらには上杉の御家改役の危機を迎えるわけだ。
親族に保科正之がいなければ上杉は半知の十五万石すら許されなかったのかもしれない。
その保科正之は、将軍の弟ではあるが、武田信玄の娘である見性院と信松尼に育てられたのだ。
単に不思議なのか縁かもしれないが、どうだろうか? しかも、その保科正之を産んだ女性は後北条の旧家臣の出だともいう。 >>712
狸の丸抱え政策、徳川の旗本に向かって石を投げれば武田か北條に当たる。 >>710
ないからこそ景虎と違い生き延びれたかもしれん 室町〜戦国期、一番難しい土地が関東だな
関東を長く治めたのは北条の奇跡
それを引き継いだのが徳川幕府 北条氏康は息子も娘も嫁ぎ先を滅ぼしてるなw
最悪の疫病神じゃねえか 上杉景虎は北条氏康の実子だろ?
娘は武田勝頼の正室
どうしてこうなった? 織田勢が甲斐武田領に侵攻を始めたときに、武田家の子供や女性は越後に逃げるのと武蔵八王子に逃げるのと二種いたよな
どちらも親戚だけど微妙の賭けだったったのかな?
小田原でなく八王子なのも気にかかるが。 後北条氏は外交が下手だったんだな
鎌倉北条氏とは大違いだ 上杉景勝は北条とは縁を叩き切ったのが功を奏したのか
武田勝頼は北条の娘をもらったのが裏目に出たのか >>726
そんな事ないだろ
ある時期まで徳川、伊達との連係はうまくやってたと思うが 氏康の頃から息子たち、たとえば氏照を由井とか大石、氏邦を藤田とか秩父新太郎氏邦などと名乗らせて、緩衝地帯に送り込んで地域を完全に呑み込む方法が露骨だよね >>731
調略や他家乗っ取りに注力するのはどの戦国大名も変わらない。
織田信長、武田信玄、伊達殖宗、例は枚挙に暇も無いが、派手な戦噺の蔭に隠れて見え難いだけだ。
北條の場合は御用メディアを多くは持たなかった分だけ実像が見え易い。 そうなんだが、ここまで息子たちを上手く使いまくるのはけっこう珍しくないか?
それだけ氏康の息子たちが謀反や諜略されない自信があり、かつ優秀だったって事なのかな? 単純に本家を離れて神輿に担がれるような家柄ではなかっただけでは >>734
佐野氏忠は名門だし家中家政への小田原の介入も少なかった 氏康の娘を与えてる勝頼を助けて援軍を寄こさなかった北条は外交が下手糞だと本気で思うよ
なぜなら最後は北条自体が狙われて滅亡したんだからw
勝頼を全面的に助けてれば武田臣下の真田昌幸とも沼田城で衝突せずに豊臣から攻撃されることもなかったのにw たしかに北条は外交力が弱くて上杉、武田、里見、佐竹と周辺国の全てを敵に回してたからな
外交力の弱さを内政力でカバーしてた感がある 南房総のちっぽけな安房里見氏を滅ぼせなかった関東の支配者w 里見佐竹と仲良くする必要ないし大途の敵だから
小田原北条氏に特に外交下手の印象はないが、関東を治めるという命題に注力するだろうね こんな過疎スレを荒らす奴ってどんだけ暇なんだ。
…ああ、中学校はまだ夏休みだったな。 関白の命により切腹したのが氏政と氏照の二人だったのも小田原方の将兵も納得の仕置きだったわけかな
これ以降、大坂方に戦いを挑み勝利したのは結局は関東勢だし、その次の新政権は遷都までして自ら関東に入って来た たしかに末期の後北条で優秀だったのは北条氏照一人だけや >>739
たとえ武田、上杉の足の裏を舐めても北条に屈することはないという里美は反北条の塊 >>747
房州源氏里見氏って内紛が耐えない印象なんだが? >>747
伊達政宗が人取橋の戦で死なずに済んだ理由を知ってるか? (天正五年)十一月には(里見)義弘からの「懇望」によって、北条・里見両氏の和睦を見ることになった(「喜連川文書」)。
しかし、それは和睦といっても、事実上、里見氏の北条氏への屈服であり、里見氏は上総半国を失い、これより北条氏の非敵対勢力へと転身するとともに、主として内政面に力を注ぐようになったのである。
−−「東国の戦国合戦」(市村高男 2009年)より引用
実際、この後の里見氏は天正壬午ノ乱や沼尻合戦で北條から援軍派遣を強要されているし、
伊達vs佐竹の人取橋合戦に際しては北條の指令で佐竹留守中の常陸國を襲撃している。
顎で使われた、と云っても過言にはなるまい。
>>747
というわけで、
ゲームやマンガやラノベばっかりじゃなくて研究書や論文も読んでからまたおいで。 ゲームとかの影響でどの戦国大名が強いとか、武将がどうとか、確かに学術に添うなら本当にウザいわな どうして里見義堯はあそこまで北条氏康が嫌いなのであろうか?
隣国の脅威とやらだけでは説明がつかんぞ >>754
そりゃそうだ。
戦国大名というのは権力体(共同幻想)であって、総帥といえどもそれを構成する装置の一つに過ぎない。
好きだの嫌いだの魂だの何だのといった個人属性など権力体の行動には殆ど影響を及ぼし得ない。
北條対里見の対立軸は武総之内海(東京湾)の支配権。
更に云えば内海から諸河川へ繋がる内陸水運絡みの利権。
これは権力体の経済基盤に大きく影響する案件だから双方とも譲れない。
関宿城を巡る情勢と併せて見ると面白かろう。 東京湾を挟んで房総半島は目の前だからな
後に里見家が改役されたのも、大久保家に連座とか当主と近臣の乱行だとかもあったのかもしれないが、そもそも戦国以来の外様の大名が東京湾の入口に根を張ってる事が嫌われ除かれた原因だろうな 北条氏康が安房の農民反乱をけしかけたから里美義堯がブチ切れてしまったかもしれなん 北条75年王国は他国への謀略が下手糞だねえ
大日本帝国77年の歴史と同じかよ 最後の最後まで戦おうとしたり内への団結力は強くても
外交や謀略が下手すぎて無用に敵を作りすぎて周辺国すべてを敵に回してしまう
後北条氏は大日本帝国かよ 北条氏康は善良な民政家の顔してえげつない謀略も仕掛けたんだよな。
謀は得意じゃないみたいから失敗してるが 北条早雲からして騙し討ちでの小田原城乗っ取りした人ですから >>757
北條にとって武総之内海の権益獲得は宗瑞以来の主要戦争目的でもあった。
最晩年に上総真里谷武田からの同盟要請を容れたのも扇谷上杉との抗争を有利に運ぶ為とも云われている。
氏綱の江戸城奪取と氏政の関宿城奪取は正に五代通じてのエポックだった。
そういえば黒田基樹氏は、
宗瑞が永く同盟していた扇谷との戦争に踏み切った背景には伊豆七島の利権を巡る対立があった、としている。
北條は「水の北條」でもあったようだ。 >>764
北条vs里見の歴史の知識も無いし「仁義なき戦い」を観たことも無いお前がそれを言う笑 確かに、仁義なき闘い(シリーズ全て)にまったく当てはまらないよな
里見で言うなら、正木や土岐あたりが仁義なきに近いけどな >>765
北条に限ったことではないけど、東京湾の形状と、その沿岸に盤踞する武士達と水運海運は連動していて特に物資の輸送には影響大だね 結局は最後まで南房総のちっぽけな安房里見氏を落とせなかったんだからなw >>769
黒田某なんぞトラック一台分の資料を集めてた司馬遼太郎には遠く及ばんよw >>770
ここは伊東潤の指摘どおり後北条は民政力のみで領土を拡大した戦国でも稀有なる大名
これを勝海舟は先進的だと評価してたが 黒田基樹氏読まないで北条は語れないよ。そんくらい踏まえてよ。 伊勢宗瑞同様に里見(特に前期里見氏)の安房への移動、動向も不明だよな
そもそも義実とか実在すら微妙だし
結城合戦で父を失い落人の身から一転、三浦半島から野島崎に上陸し、安房一国を平定したとか作られた伝説だろうしね >>776
> 伊勢宗瑞同様に
伊勢宗瑞の素姓は勿論、駿河下向以後の「移動・動向」については殆ど不明点は無くなったけどな。
何年何月には駿府にいたのか韮山にいたのか、
某年某月の甲斐侵攻時には現場に出たのか後方指揮か、
というような細かい話は残っているようだが。
個人的には京都時代の軍事経験に関して未だ知られない事実があるんじゃないかと感じている(>>556)。
里見義実勢力については、
足利成氏が安房の上杉勢力掃討の為に他国から放り込んだ破壊工作隊という見方が近年有力らしい。 >>778
ふつうに現代の研究踏まえたらそうなるだけさ。違う人もいるが、いまだに軍記物で定着した早雲像を頭に浮かべてる奴は、終わってる。
まあなんかツッコミされたらとりあえず反駁はするぜ。 >>779
其奴(>>773他)は構ってもらいたくてわざとやってんだよ。
黒田基樹氏他のまともな書籍はおろか、たぶん司馬某の拙い講談さえ読んではいない。
反応するだけ時間の無駄だから放っときなさい。 >>773
司馬遼太郎ほど資料を集めた天才はいないだろ
黒田とは掘り下げ方が違うよ >>775
伊東潤の北条小説を読まないと後北条を語れないよ >>774
勝海舟は民政面では後北条氏を軍制面では武田信玄を最大級に評価してる >>786
勝海舟にさしたる実績が無いので、机上の空論にも等しい単なるホラで、学術の側面から見た場合ほとんど意味がない 勝海舟にしろ他の近世の誰にしろ、軍記物の影響による固定観念があるから、検討するにこいつらの軍記物に対する登場する人物の評価は価しない。
司馬もまあそうで、軍記物からあまり距離が取れていないことが多かったりするから、要注意。 司馬遼太郎学術書いた伊勢新九郎が粗末な小屋で鞍作りとか妄想かだわな 小田原北条氏の軍役は馬上一人に対して槍持ち、旗持ち各一人の計三人ということすら知らなかったんだろうな司馬遼太郎は 軍記物の呪縛は令和にいたるまで続く。昨今の中世ブームがそれを改善してくることを切に望むな >>789
講談師司馬某は、或る時点までは虚構を売る商売人という自覚はちゃんとあったようだ。
「坂の上の雲」のあとがき辺りにはまだその自覚を失わない姿が見える。
皮肉なことにその「坂の…」が契機となってメディアが某を何やら「歴史家」「洞察者」の如く祭り上げてしまった。
その風潮の中、悪いことに当人までもがソノ気になって痛い勘違いを重ねて自らの虚像に取り込まれていった。
取り返しのつかない分岐点は「この国のかたち」だったろう。
「箱根の坂」は丁度そんな時期の製品だった。
しかも老境に差し掛かった某の筆の衰えは無残なほどに明らかで、
以前から指摘され続けてきた欠点が極端なかたちで露呈してしまっている。
司馬某の創作講談群の中でもかなり出来の悪いものだったと判ぜざるを得ない。 勝海舟の氷川談話は最高だぞ
少なくともオマエラの妄想よりかはなw 歴史のご意見番と化してた勝海舟を徹底批判してたのは福沢諭吉ぐらい 司馬遼太郎も20世紀における歴史の御意見番と化してるしな
このままだと磯田道史が21世紀の歴史の御意見番になりそうだが 小田原北条氏の軍役は馬上一人に対して槍持ち、旗持ち各一人の計三人ということすら知らなかったんだろうな司馬遼太郎は 勝海舟に司馬遼太郎などの夢想家・講談師に頼らなくても、
戦国大名小田原北条氏に関しては膨大な古文書が残っているので、そこから読み解くしかないはず。
そこには華々しい関東武者どもの姿などはあまりなく、もっぱら分国内の生産性を気にした地味な姿だ。
面白いと思うのは、小田原北条氏の分国では身分についてはやはり厳格であったことを示す古文書もあること。
佐竹氏との戦いで、岩井の百姓が自発的に参陣して敵の侍を槍で倒し首を取った。これを前代未聞の奇行による大手柄として百姓の身分を給人に引き上げたとかそういう記録がある。 よく後北条をはじめ戦国時代の関東東国は兵農未分離だったとか言うやついるが、後北条氏では百姓と侍とは峻別されているよな
ただし、どちらが偉いとかは、それほどでもなかったかもだが 最低でも年収の3分の一以上の価格の軍馬一匹、
厳しい規定をクリアした甲冑一領、
槍持ち旗持ちの従者二名の人件費・装備等の費用
これを維持できるのは難しい
馬を買えない、養えない物は徒衆として従者二名を従えて軍役を果たした
徒衆として軍役を果たした者は後北条が推進した荒川沿岸とかの新規開墾地の小規模勢力だが、これでも百姓ではなく小代官でもない歴とした武士で、軍役を果た世なければ百姓になった。 >>798
年貢の控除交渉の文書などを見るとかなり「村」の立場が強かったことが窺える。
社会構造、即ち大名権力体が何によって規定されるものなのかを明確に解析・言語化した宗瑞・氏綱以来の伝統。 後北条氏家臣の領地も、一円知行は稀で、領地が細分化されていたのも徳川に受け継がれているように思う。 >>795
磯田道史の強みは古文書を完全に読破できること
黒田某なんかとは歴史の掘り下げ方が違う >>802
は?こいつバカ?アカデミックな学者で、古文書読めない前近代が専門の史学者はいないぜ 古文書を完全にマスターしてるのは磯田道史ぐらいだろ?
黒田や呉座とはレベルが違いすぎるよ
それこそ磯田はトラック一台分の資料をかき集めてた司馬遼太郎に匹敵してる >>806
古文書をマスター?とか言ってるけどさ、
後北条氏発給の文書なんて誰でも読めるやさしいものだよ?
ほぼ定型文だし、難解な洋三皆無だ。
軽トラに古文書を大量に積むとか収集癖もこじらせると大変なんだね?
磯田氏はたしか、神保町の古書店で猪山家の家計簿を買ったのを皮切りに世に出たね いきなりすまん
伊達与兵衛について調べてるんだが実像がわからない!
姉川の七本槍とか池和田城合戦での功名とか有名だけど元々徳川の家臣だったの? >>797 >>798
兵農分離/未分離を語る時、何を閾と見るか。
制度の見地からすると確かに北條は給人とそれ以外の区別を厳格に立てていたことが窺える。
戦争に際しての村からの労役徴発はあくまで臨時の賦役であって常態ではなかったからその意味では明確に「分離」されている。
他方、純物理的な在り方からすると村は相当強度の暴力装置を保有しているのが当たり前の姿で、北條はその収奪(武装解除)までは行っていない。
つまり侍と百姓との間に質的な差異は無かった、即ち「未分離」とも考え得る。
村側からの原則論を云えば北條との契約によって暴力行使を留保している状態だった。
俗説に織田羽柴は兵農分離を達成していた(近年は否定的な見解が優勢か)などと謂うが、その辺りはどうなっていたのだろうか。 >>808
姉川合戦は元亀元年(1570)。
池和田合戦は永禄六年(1563)から七年(1564)。
一人の人物の動向とすると何だか据わりが悪いな。
みんな大好きwikipedia(笑)を見ても記述がえらく混乱してて可笑しい。 >>809
北条氏領国内の有姓かつ百官名を名乗る大百姓が侍身分への転換可能にもかかわらず百姓身分のままにいたケースなど見ると、まず住む世界がちがったんだろうね。 >>810
伊達与兵衛二人説とかあったような気がする 磯田は小説家としても自作が映画化されて大成功したからな
たしかに21世紀の司馬遼太郎だな
これからは他人が何を言おうとも古文書を完全読破できる磯田の主張のみが歴史の事実化されていきそう 小田原合戦でも、松田以外にはそれほど内応者も出なかったし裏切りも少ない
鉢形、忍、岩槻、八王子、玉縄の各支城もそれなりに戦ってるので最後まで求心力はあったのだろうな >>814
バカ?
少なくとも専門領域の古文書は読めるんでさ、まともな歴史学者ならね。まともなプラトン研究者がギリシャ語読めるのとおんなじ。 >>814
磯田氏、小説書いてるのか?私は初耳なんだが。私が知らないだけか? 磯田道史が他の歴史学者や歴史小説家と決定的に差をつけてるのが
古文書を完全に読破できることである いや、だからさぁ、
後北条氏関係の古文書なんて、誰でも読める簡単なものだよ
難解なものは無いね 小田原早川上水に強く興味を惹かれて少し調べ始めたんだが…、なかなか史料も論文も乏しいとみえる。
しかしこの上水の与えたインパクトが凄い。
徳川家康を始め小田原陣参陣諸将が解陣帰国後地元で一斉に上水道建設に着手して一種の社会運動にまでなった観がある。
俺の地元近くでも小石川上水、神田上水、そして玉川上水とその厖大な分水群、遡って北條氏照肝煎で建設した二ヶ領用水、日野用水等々…。
北條は没落してもその民政が後世に承け継がれて行く拡がりには実に計り知れないものがあったようだ。 >>823
確かにそうだろうな
治水だけでなく後北条の公事、評定、裁判の制度も思想も、徳川幕府への影響がかなり強いと思う 新編武蔵風土記稿など見ると武蔵の村の名主、指導的豪農や旧家と云われるほとんどの家に「氏邦に仕え〜」とか「氏照の書状を蔵す」など旧後北条所縁を主張している。
少数だが、先祖は武田家滅亡後に関東に移り住む(だいたい栗原とかそういう苗字)とかがあるけど、いずれにしても北条氏滅亡後には百姓になっている。
中には本多家に仕えて膳所まで行ったが故郷が恋しくなり戻ったり、旗本になって改役されて故郷に戻るケースも見えるが、
逆に大途、小田原の直臣級の家の末裔はほとんど見えな。
これらの層は、徳川家やその譜代大名や他家へわりとスムーズに仕官したのだろうと思う。
つまり関東の農村は後北条氏時代をほぼそのまま徳川が踏襲したものと思う。 >>825
> 関東の農村は後北条氏時代をほぼそのまま徳川が踏襲した
特に武蔵國は顕著だったようで、
新選組や農兵隊のことを調べてるとその辺りが透けて見えることがある。
私見では秩父困民党や五日市憲法にまでその水脈が伏流してるんじゃないか、と。 >>826
秩父事件にも後北条の影は見えるね
絹を通じて八王子との繋がりもあるけど、末期に十石峠を越えて信州佐久に落ちていったのも何となくだがそれを感じる >>826
そういえば土方歳三の家も新編武蔵風土記稿に載ってるね >>828
土方の実家は北條どころの騒ぎじゃないぞ。
更に遡ること数百年、武蔵七党の頃から名を残してる。 >>829
そんな家は関東の農村に数多にある
特に騒ぎにもならないよ
新編武蔵風土記稿には民と書かれていて、まあ単なる開墾土民扱いだ
日野領 土方新田
元文の頃そこにすめる民平大夫と云もの、開墾せし所にして、かの平大夫は氏を土方と稱したれば
己が氏をもて新田の名たせり、 石田村の土方さんと同族かどうか知らないけど、近隣の由木領三沢村の 百姓八右衛門 土方氏なり、名主をつとむ、
とあるね
十騎衆 土方彌八郎殿とかあるけど、これ正規の後北条氏の武士じゃないね
無足とか 走り回りとか言われてるし、小田原降伏直後の秀吉の軍勢甲乙人云々の禁制まで載ってるから後北条氏の分国によくいる名主級の百姓だな 黒田や呉座が古文書を読めるのか?
磯田ぐらいだろ? >>826
農兵は韮山代官の江川英龍の影響よな
そいえば江川氏も後北条の家臣だったが >>832
読めるよ。
私も読めるし。読む力の差と専門領域の違いは、人それぞれあるが、それなりの訓練と努力はしてんでさ、みんな。 後北条氏の場合、氏政あたりから急激な軍拡で本来百姓である農村の名主に扶持も所領も与えずに棟別銭の免除だけで強引に軍役を科しはじめてる
これらはほとんど武士化せずに、そのまま有力百姓として江戸幕府の村統治機構の末端に組み込まれた。 あと後北条の分国によく出てくる小代官だけど、武士と百姓身分の両方いて転勤もあったようだ。
これも江戸幕府の代官所の手付(武士)・手代(百姓出身)に受け継がれている。 大岡越前の関東地方御用掛にも小田原北条の影が見え隠れする
まあ、そもそも大岡忠相が後北条との所縁が濃厚な人物ではあるが >>833
家来っていうか、陸奥守氏照に従属させらていたとは思うけど・・・
家臣とか給人でもなく家中って感じでもなくて、無理やり氏照に臨時雇で駆り出された予備後備ってところが実態だろうね。
その為か、八王子に籠城したとか小田原に籠ったなどの史料も伝聞もないし、さらには小田原降伏直後の秀吉の軍勢甲乙人の禁制を家に伝えている。 多摩地区には帰農した後北条氏元家臣というのがけっこういるが、まあ自称するのはなんとでもいえるわな。 >>843
俺の地元の(正確に云うと隣村の)旧姓である保谷氏もその一例。
上保谷村開基の保谷出雲守直政は北條被官、所謂「保谷六苗」の盟主として村を拓いたと伝える。
伝えるだけで、実在を示す証拠は御墓しか残ってないが。 >>843
三沢衆とか川辺十騎衆とかは、帰農というか、そもそも百姓が後北条氏が緊張を高めた時期に一時的に無足で無理クリ軍役を命じられたのが多いよな
しかも内容はだいたい軍装の指示が、如何にもきらびやかにして〜とか、武者めくように〜とか、または小旗を新調しろなどと本来武士ではないのが明らか
特徴としては大途や小田原の評定衆(康の字がつく)の書状ではなく、一族(氏照とか)かその奉行人(横地とか)からの督促状が残っていて、所領安堵や知行宛がえの書状はほとんどない。
多摩地方だと大石(伊藤)とか有山、豊泉、日野、がそれなりの由緒と古文書を残しているがこれらは帰農した小田原北条の武士だと言えるかも。
いずれにしても多摩地方は他国衆だった関係もあると思うが、後北条氏旧臣で帰農を自称する家に小田原役帳に載っているクラスはほとんど皆無。 まあ、戦功を賞された感状等ならわかるが、歴とした武士だったなら、きらびやかにとか武者めくようにしろ、みたいなそんな書状を大事に持つ必要はないからな
だから後北条氏関連の古文書が関東の農家にたくさん残ったのだろうな 後北条氏の遺臣でも、誰それの首級を取ったとかの感状があれば、選り好みしなければ仕官の口はまあ引く手あまただったろうね
結城に仕官した桜井武兵衛や、氏邦に属し佐竹に仕官した辻加賀守のように、自信の武功を記した覚書と後北条氏発給の感状と生きた証人を揃えれば。
土方家などもそうだが、帰農などと称しているが元々武士ではなかったのでそんなものは無かったのであろうな >>844
昔、田無に住んでたとき下田さんとか桜井さんとかの旧家あったな〜
でもあれらももろに開墾地の百姓でしょ? >>848
主に多摩の、と云うことになるが、
徳川直轄領に於ける「百姓」って何だろうと思うことが多い。
旧幕時代から苗字を名乗るのは公然、
刀槍を備えるのも当たり前、
屋敷内に道場を構えて村の若者を鍛錬する、
果ては公儀までもが害獣駆除の名目で村に鉄砲を貸与する、
…、
年貢減免交渉なども北條時代並みの強かさでやってのけるし、これ、もう、単なる農民の村じゃねえよな、と。
否、それこそ「村」の本来の姿だったと云うことか。
下田氏なんてのもその伝だな。
櫻井氏は保谷六苗の一つ。
田無村(柳澤宿)は成り立ちが特殊で所謂開墾地ではない。 >>849
多摩地方に限らず、江戸時代の百姓は半ば大っぴらに自家の苗字を伝えていたが、国法によって公の場や公文書にはそれを記すことは出来なかった。
武器に関しては帯刀こそ廃れ、また規制もされてたが、別に刀剣類の売買や所持に規制はないし、農家に鉄砲があるのが当たり前で許されていたし、武家奉公人になれば公然と帯刀することもあった。
でも、それは後北条氏時代の関東でもほぼ同じだったのでは?
苗字に関しては後北条氏統治下の関東では百姓の上層や職人の頭だった者は苗字も百官名も名乗って大名からの書状の宛名に殿もつけられた。
また郷村には地侍もいて侍と言われたりもしたが、これはあくまでも村の侍であり、後北条氏の給人のような公儀に使える武士とは明らかに身分が違い、戦国大名からは峻別された。 黒田と呉座は古文書が読めないだろ?
磯田ぐらいだろ? 北条氏照は山伏にも軍役を課したし寺の鐘も供出させた
無視したり怠れば百姓だと「頚切」
武士ならば「切腹か斬首」 『日本最古の水道「小田原早川上水」を考える』(石井啓文氏 著)
を注文してしまった。
在野の研究者の著書だが早川上水について正面から取り組んだ本はこれしか見つからなかった。 >>854
上水から木樋で飲料の水を町にめぐらす辺りは江戸の町と同じだな >>857
小田原北条も江戸幕府も、その崩壊が近づくとやはり百姓から兵を募ったりしたが、寺の鐘まで供出させたとは、学生まで徴兵したり即席士官を大量増員した大戦末期の日本みたいだな
そのスローガンも、今こそ御大途の恩に報いる時、御国の為、とはほとんど同じだ >>857
後北条と豊臣方との緊張が最高潮になっていた頃は、もしかしたら後北条氏滅亡の危機に際し積極的に募兵に応じる百姓や浪人も多数いたのかもね。土方歳三さんみたいなひとが。
まあ、そんな史料は無いけどさ >>859
面白い着眼点だと思う。
私見では、(対「豊臣」戦争以前の時代に)多くはないがそういう人々はいたと見ている。
上で話が出たが、
それこそ「三沢衆」等國衆未満百姓以上の立場から敢えて北條の被官となった層をどう観るか。
>>845氏は彼等が無理矢理被官化を強要されたように解釈しているようだが、
>>812氏の指摘に見る例もあることから全てがそうであったとするのは如何なものか。
事例毎に個々の村(または衆)の思惑はあったにせよ基本的に選択権は彼等の方にあったのではないか。
それこそ近藤土方等が将軍警護浪士徴募に応じた如く自ら進んで北條被官たらんとした人々もいたと考える方が自然だろう。 余計なことを書く。
>>845氏や>>858氏の戦国社会観にはマルクス主義的階級史観、或いは市村高男氏らに代表される権力観の影響があるように思う。
統治権力体と被統治対象は対立的に存在する、両者は常に搾取−被搾取の関係であるという基本認識が。
それらは多くの局面に就いては確かに的を射た解釈を提供するものではあるし、俺も全面的に否定するものではないが、必ずしもその認識の下に全てを一元的に解釈する必要もなかろう。
吉本隆明の云う「共同幻想」にせよ今村仁司の云う「排除された第三項」にせよ、権力の発生存続に就いて個々の構成要素からの意志的関与を認めている。
いま議論になっている案件に於いても被統治対象(村、衆)から権力機構(北條権力体)への自発的関与(参入)を視野に入れて然るべきだと考えている。 >>861
関東広いし同じ後北条の分国内でも個々の村によってもかなりの際がありそうだよね ただ南多摩の三沢衆が無足、つまり所領が無いっていうのはやはり急ごしらえの感は歪めないな
岩槻領の鴻巣七騎とか鉢形領の小前田衆・荒川衆なんていうのもかなり無理した感じはする >>864
それは不明だが、三沢の土方と石田の土方が関係皆無とは思えない。
ちょっと気づいたのは、三沢十騎衆にしろ、その他の後北条の支城に属した荒川とか南川辺とか何々衆とされた集団が後北条氏末期に発生した土地に共通するのは、河川沿いの新興の開拓地だったのでは?ということ。
相模の山勝ちな辺りの村の有力者的な小土豪は小田原所領役帳成立時点でもわずかでも所領を与えられてるんだけど、三沢と荒川とか小前田とかは開拓の年貢は免除だが軍役アリとか棟別銭免除のみで所領が無与えられていない場合が多いのでは? 後北条氏がどうとかより、そもそも関東の民衆がどうだったのかの方が重要っぽいね >>866
全く同感。
大名が衆や村を規定するんじゃなくて、
衆や村が大名を規定する。
北條の民政がそれなりに持続可能だったに就いては関東の自然や地域性も重要な因子だと思うんだが、そういう研究は見たことがないな。
もっとも、仮説を立てて検証しようにも史料も無きゃ再現手法も無いからアカデミズムの対象にはならないか…。 >>861
たしかに小田原・大途と、関東の民衆の間に一定の合意があったから降伏したとはいえ籠城戦も可能だったのだろうな。
名主クラスから被官化した小土豪すべてが後北条によって無理矢理被官化させられたとは俺も思わないな
かなり強引であったとは思ってるけど
小田原や支城の籠城戦で離反者があまり多くないのがそれを裏付けているようにも考えられる。 >>867
関東は平野だからな
それがすべてだと俺は思ってるけど 関東出身で全国各地に転勤したが、個人的に
感覚的に、或いは肉感的とも言えるが信用度高い地域は九州と東北だったな
関西は何もかも合わない
割りとそーゆうちょっとした気質の違いも影響あるのかも
江戸時代の百姓一揆にも、その地域差や違いが表れているように思う。 自前の具足一領はかなりの負担で高価品
祖父親子三代でローン組むほどだったとか
しかも馬の費用と従者の具足皮笠まで負担となると軍役って辛い >>869
それよ、それ。
それが村の在り方に、ひいては大名や「戦」にも決定的な影響を及ぼしたと見ている。
戦国板の某スレでそれを書いたが、関東以外の人が多いと見えてなかなか実感出来ないようだった。
そう考えると伊勢宗瑞は極めて学習能力の高い御仁だったんだな、と。 >>872
堅固な山に囲まれた広大な平野と半島の中にある海
平将門、平忠常、源頼朝、新田義貞、足利尊氏、徳川家康
みな関東を基盤にした武士 いくら戦国の世とはいえ、独自の元号まで使うのは関東武士くらいでは? >>872
後北条時代にも新田開発みないなものがあったと想像する
それと拡大する軍事力とは密接に関係していたのではとも想像する 秀吉は小田原を成敗して天下人になったが、その大坂はやがて関東勢に夏・冬と攻められて完全に負けた
新しい国家をもたらすのは関東から出るのは歴史が証明している まあ、城の堀を掘削するのも土塁を築くのも百姓だしね
百姓の力がないとダメだよ
天正15年から大規模な改修や築城ができたのも国力あってこそ
つまり民の力 >>876
戊辰クーデターを起こして「大日本帝国」をデッチ上げたのは西の方のイモとフグだし、
現時点最新の「日本国」はアメ公がイモフグ政権を滅ぼして拵えた傀儡なんだが。 >>875
江戸時代のように公儀肝煎で全くの客地に入植者を募るかたちじゃないが、村毎の田畠拡張を奨励援助する政策の記録はある。
村内の「荒地」(原野もあり元耕地が荒廃した地所もあり)を新たに耕地化する場合には一定年限年貢を免除したり種を貸し付けたりしたらしい。
勿論それは基礎行政単位である村の存続・安定・繁栄を以て北條権力体の経済基盤の拡充を図るという、極めて正攻法の国力強化策ではあった。
北條が武田上杉の派手派手しい外征略奪路線に比べて地味に見える所以。 >>879
鴻巣七騎っていうのも新田開発で集まった 歴史に埋没してた北条早雲と土方歳三を世の表に出したのが司馬遼太郎なのは皮肉な話 鉢形の氏邦配下の荒川衆の筆頭に持田四郎左衛門というのがいて、馬鎗三人徒歩鎗三人という結構な軍役を課せられていたんだが、最初は所領もなくて棟別銭の免除だけだった
荒川沿いの荒地を開拓していたので他にも免除や権益はあったかもだが扶持として下されたのは一貫五百文程度のひどい仕打ち
おそらく三沢衆というのもこれに似たようなものだったのだろうな 後北条も最期は小田原以外の人心が離れていたんじゃないか? 上杉や武田にはいい勝負してたのに
なんで南房総しか支配していない里見ごときに大苦戦してんだよ >>886
北條は滅亡していないが。という指摘は今は措くとして、
その手の話題が大好きなIF馬鹿やゲーム脳が寄って来る前に云っておく。
列島のヒト社会の歴史段階がそこに到達したから北條は退場した。
中世は気候寒冷化と地殻変動活発化の時代だった。
ヒト社会の事象に変換すれば災害と飢饉の恒常化ということになる。
十五世紀半ば、室町幕府の統治原理はこの状況の前に無能無策を曝け出した。
地域次元からこれを超克してヒト社会の存続を図るべく列島各地に叢生した権力体群を「戦国大名」と謂う。
質的には対等な独立地域権力体群がその暴力装置の相対優位に拠って領国内の暴力を封鎖して「平和」を創出、以て民生の安定を実現する。
世紀末から次世紀にかけて抬頭した北條は「戦国大名」の統治原理の極限を体現した権力体だった。
換言するとそれが北條の限界だった。
十六世紀末、列島のヒト社会は漸くその「次」を求める歴史段階に到達しつつあった。
地域毎の権力体即ち暴力装置群に対して異次元と云うべき圧倒的・超越的な暴力でこれを強制封鎖、以て列島規模の「平和」を実現する一元的権力体が待たれていた。
羽柴″豊臣″権力体は実際に「天下一統」を成就するよりもかなり早い時期から自らを「公儀」と規定した上で「喧嘩停止」「惣無事」を発令していた。
少なくとも権力目的及び政策に於いて既に「戦国大名」を超克しつつあったと見て可だろう。
羽柴″豊臣″は歴史段階の要求に対応し得る資質を有していた。
旧段階の極限である北條は歴史的役割を終えつつあった。
北條が「戦国大名」の最終ランナーとなったのは偶然ではない。 その割には勝海舟が最も近代的な戦国大名に後北条氏の名を挙げていたんだけどな >>890
勝海舟ってそんなに後北条氏の分国体制にくわしかったのか? >>889
秀吉にも平和を実現するという公儀としての意思があったのだろうね
だからこそ家康を関東へ移したとも言えそうだ >>890
確たる文献(「氷川清話」)が存在するものを歪曲しても始まらないと思うが。
勝は「近代的」などとは云っていない(>>455参照)。
そもそも勝の時代の語彙に「戦国大名」という単語が存在したか否か、織豊権力とそれ以前を権力構造の面から区分する議論があったか否か、甚だ疑問だ。
勝海舟の北條評は>>639に挙げた頼山陽のそれとほぼ同じ認識を示したものだろう。 南房総は山がちで攻めづらい上、攻め取ったところで得られるものが少ない
その上何度も鎌倉などを焼き払いに来る水軍力まであり厄介 >>892
「給人も百姓も成り立ち候やうに」という言葉が羽柴″豊臣″権力体、或いは禿げ鼠本人のテーマだったんだろう。
因みに、徳川が旗印に掲げた「厭離穢土 欣求浄土」も狸の切実な本音だったと思う。
禿げ鼠にせよ狸にせよ、彼等は余りにもおぞましい地獄を見続けてきた。 >>894
北條が安房を、里見が相模を本気で獲ろうって戦争じゃなかったのが却って長引く要因だったんじゃないか。
争ったのはあくまでも武総之海の利権。
相手を強かにぶん殴って大人しくさせられれば良い、という。
両水軍の戦争について詳述した本を注文した所なんだが、
最終的に北條優位の和睦が成立した時に里見の権益をどれだけ残して妥協したのか、その辺りが書いてあることを期待している。 >>895
後北条も関白秀吉も徳川家康も、或いは本願寺も望んだのは大名のせこい権益ではなく平和だろうね
理由は民衆がそれを望んだからだと思う 秀吉が小田原北条を倒して鎌倉に入った時に、頼朝公の木造を見に行き、
「多田満仲の後裔であるあなたと、尾張の下層民の出の私だけど、頼朝公とこの私は、これからは天下の友だ」と頼朝の木造の肩を叩いて言ってのけたというエピソードは軍記ものの創作かもしれないが、俺はこの話が好きだ。 血生臭い戦陣において「厭離穢土欣求浄土」の旗をあえて立てたのは民衆の願いを叶えるための戦争をしているのだ、という家康の本気のスローガンだったのだろうな 言われてるほど後北条の関東統治は先進的ではなかったかもしれない >>900
徳川氏の関東御討ち入り以降、貫高制から石高制へ以降したね
後北条は近世への先鞭は着けていたけど完成までは至らなかったね >>902
とりあえず200年以上に渡って戦争が無い時代をもたらしたね
たぶん日本史上最長の平和な時代だろう 先進的かどうかは相対的なものだから後世からではなく同時代で比べないと
北条と同程度の行政史料が残っているとこ少ないので大変になってしまうが 古文書が読めないと現代語に訳された史料で勉強するしかない >>905
古文書っつったって所詮は中世のものだからな。
語彙からして現代語と大して変わらない。
翻刻さえしてありゃ誰だって読めるし理解もできる。 後北条発給文書が数多く残ってるから職人統制の姿もだいぶわかるよな
番匠、鍛治、石切、皮作、砥石とか軍需関係が多いけど
宗教関係で興味深いのは、時宗の鉦打ち・鉢たたきが氏邦に飛脚の任も負わされている事 もし上杉、武田に領土を奪われる覚悟で全戦力を南房総に注ぎ込んだならば里美を滅ぼせたかな? しかし鶴岡八幡宮を焼き討ちにするなんて安房里見も罰当たりなことするね
鶴岡八幡宮の守護者を自称してた北条家が激怒するのも無理はない >>902-903
司馬遼太郎や堺屋太一は日本人の閉鎖性や島国根性の元凶は徳川時代にありと批判ていた >>908
「もし」なんて無意味だからやめた方がいいよ 司馬遼太郎の名が出るとちょいちょいモメるけな
あの人は歴史ではなく歴史上の出来事を借りて、人間、つまり人を書きたかったのであって歴史家でもなんでもない
俺は娯楽小説として夏草の賦とか燃えよ剣なんかはけっこう好きだけどさ
当たり前だが、史学として、資料として、根拠論拠の出典には使うのはナンセンスだ >>913
> 人間、つまり人を書きたかった
それさえ怪しいんだが…。
主人公を立たせる為に周囲の人物や敵役を必要以上に貶める司馬の悪癖は、虚構とはいえ醜怪の域に達していて胸が悪くなる。
坂本龍馬に対する武市半平太
土方歳三に対する近藤勇、大鳥圭介、榎本武揚
明治天皇に対するニコライ二世
児玉源太郎に対する乃木希典、ステッセル
東郷平八郎に対するロジェストウェンスキイ
天野八郎に対する渋沢成一郎
「北条早雲」に対する足利義視、小鹿範満、扇谷定正
…
枚挙に遑が無い。
手口が余りにも見え透いている。
もっと露骨に大衆受けを狙う講談や子供騙しの漫画でも司馬ほど安っぽくはない。 >>910
堺屋太一の堪え難い下品さの元凶は関西の地域性にあり
−−と云うのと同じくらい粗雑な暴論だな。 >>914
彼が後半に歴史家ぶったのは、事故の作品に対する擁護援護だったのかもな 戦争大名やその配下の部将などを変に英雄視したりする風潮には司馬も荷担しているわな トラック一台分の資料を集めてた司馬遼太郎には並みの歴史学者では追い付けないよ 今では古文書よめるって英語を完全にマスターするより難しいよ
磯田道史が日本史の御意見番のごとく引っ張りだこなわけだ >>920
後北条氏関係の古文書は難しい要素皆無だけど? >>914
作風が既に腐ってるよな司馬遼太郎って
あいつ関西人だから仕方ないけど しかし司馬の資料集めは池波正太郎が舌を巻いてたという 司馬遼太郎に匹敵するほど資料を集めてた歴史小説家は吉村昭ぐらいだろ?
吉川英治と池波正太郎は講談家 司馬は関西人のわりには京都の仇敵でもある新選組人気の火付け役になったのはおもろいよ 残存する史料の多さは、それだけ実態に迫れるということ
その意味では後北条氏はダントツでナンバーワンだな 今読んでいる研究書によると、北條は林業にもかなり注力していたらしい。
軍需材や普請材としての杉や竹は勿論、栗、小楢、欅、翌檜、皀莢、…等々
民生用、薬用、飢饉対策食糧用の樹種を植林育成する為に例によってコマカスギル政策を実施していた、と。
附随して上記樹種の苗木の商品化まで進んでいたと謂う。
俺は職業柄か、軍記脳の喜ぶ政治動向よりもこういうハードウェアや生産技術の面から歴史を考える方が面白いんだが、
>>928の云うように北條は矢鱈と文書が残っている御蔭でそんな嗜好にも応えてくれて有り難い。 >>930
関東、武蔵野とかに立野とかそういう地名あるよね
あれも関係ありそう 後北条氏の伊豆相模武蔵の漁村支配に興味がある
番肴の実態を調べたい 北条氏照は奥多摩開発の始祖である
それを大久保長安が引き継ぎ配下の八王子千人同心から新選組が誕生したのも歴史の必然なのである >>925
吉村昭は史料収集による取材力と史実に対する拘りが抜きん出ていた作家
後北条氏関連の作品も書いてほしかった 後北条氏の場合、関東各地に残る古文書等の文献史料も凄いが、小田原の本城や支城から発掘された手づくねのかわらけ等の出土品もなかなか重要な史料だと思う 小田原北条のロクロを使わない手づくねかわらけは氏綱時代から現れるようだから、近衛家との縁組みがきっかけかな?
山内上杉系のかわらけはロクロが右回転で扇谷上杉系のが左回転、古河公方系もまた特有のかわらけだとか? >>929
土方歳三って、己は誰それの生まれ変わりだとかそんな戯言を自称してたの?
聞いたこと無いんだが? >>934
俺は江戸っ子の家系の多摩者なんで、
薩摩のイモと長州の河豚は全員例外無く大っ嫌いだ。 >>940
あなたの個人的な好き嫌いなどという主観はまったく意味無いし、幕末の薩摩とか長州とか後北条氏に関係ないでしょ >>941
正に「個人的な好き嫌い」を訊かれたから答えたまでだが。
文脈も読めない白痴か? 戦国の世に、後北条氏は自らの政治を公儀と定義し、国家を名乗り、その分国において小豪族の支配地を「私領」とし、国法を以て賞罰して治めた
実際に今に残る後北条氏発給の古文書に「公儀」「国家」「国法」という語が多く書かれている
その一方で「大日本」「日本」「扶桑」等の天皇を頂点とする王土の下に分国があると認めている
どの部将が強いとか笑、戦国ロマンとか、好き嫌いとか、そんな軍記物の話はどうでもいい世界がある
後北条氏の戦争の勝敗や強弱よりも、その分国での農業、漁業、林業の実態をもっと深く考察したいよ >>942
あなたが指名されて聞かれたの?その白痴に >>943
遠慮無くどんどん話題を振ってくれ。
そういう方向の話題が振れるんなら。 端っからそんな気はしてたが、いとも容易く語るに落ちたか。 >>941
後北条氏の家来である三沢十騎衆の子孫が土方歳三みたいだから
幕末は全く関係ないわけじゃないですよ >>933
違う。
ところで、三田氏って知ってる? あくまでも俺の独論なんだが関東の文化は徳川より後北条の影響を強く受けてる気がする >>951
奥多摩はそもそもそれほど開発されてないんじゃない? >>953
関東の文化というと、その全容を規定するにはかなり難しい領域なんだけど
平将門、藤原秀郷、平忠常、源頼朝、その他大勢のすべての影響を受けていると思うが?
小田原開城時点では、権力とあえて対峙しない民衆が多かったのだと思う。
現に後北条氏が滅びて徳川氏が関東に入封した関東では反落もないしスムーズに権力移行が達成されてると思うんだが。
それは小田原の分国という小国家をそのまま徳川が受け継いだからだと思っている >>950
おそらく三多摩のそれぞれの違いすら知らない輩 >>952
違うけど、あえて類似点を思えば
東北を控えてその勢力が成り立っている
これだけじゃないの? >>950
氷川の辺りの開発は三田氏から始まったと考えていいのかな。
奥多摩でも日原は秩父から長沢背稜を越えて来た原嶋氏が拓いたと謂う。
原嶋氏は秩父平氏の系統。 三田と北條の関わりについて愉快な小ネタ。
奥多摩ツーリングを好む向きには御馴染みだと思うが…。
【奥多摩名物へそまんじう由来記】
古来へそは大切なものながら世人之れを茶目でユーモアな存在としているが、体の中央に悠然と構へ、その形も千差万別で、満月型あり、月見型あり、谷見型、藪にらみ型、稀には出臍等愉快なのがあれ共、フックラとした月見型を最も可とすると古書に見えたり。
心のひねくれしを臍曲りと例え、可笑しきときは臍が茶を沸すとか臍の宿替とか申し、又、昔漢の項羽が山をも抜く力も、へそごまをとりて力忽ち衰へたりといふ。ゆめゆめへそごまはとるべからず。
抑々弊舗特選のへそまんじうは、その昔永禄6年、当地より程近き辛垣城に構える三田弾正綱秀を小田原の北条左京太夫氏康と其の子滝山城主北条陸奥守氏照父子が昼夜を分たず攻め立てしが、中々落城せず偶々折柄の大雷雨中を隣峰その名寄しらむ雷電山口より攻め込んだ豪勇無双の十勇士により、さすが難攻不落の辛垣城も陥落したるが、この十勇士が当時この附近の茶店で購った兵糧のまんじうを腹巻に包んでおいた所、不思議や全部このまんじうの型に変り大雷雨に臍も取られず、然も勇猛果敢な働きに澤山の恩賞を授けられしとか。
依ってこのへそまんじうを常に賞味し、臍下丹田に力を入れて世に處するなら必ずその成功疑ふ可からず。
秩父多摩国立神代吊橋畔 登録商標へそまんじう本舗 主人敬白 奥多摩中心の八王子は北条氏照に開発されたとみてもいいんですかね?
それを大久保長安および千人同心が引き継いだと もともとは氏照が養子に入った大石氏が領有していたから
そっちに求めるべきじゃないかな
開発って一代で進むもんでもないし 三田氏も大石氏も知らない、奥多摩と八王子の区別もつかない、他人と会話ができない、そんな人には触らない方がいいよ 八王子には武田信玄の娘がいたが千人同心は開発などに従事していない
そんなことよりも秩父や佐久の後背地からの絹の取引で多いに栄えた
桑都たる所以である 絹の道ってあるけどそれも開港以来横浜にとって代わられたな
松任谷由実の実家の荒井屋が呉服店なのも桑都の名残だろう >>967
> 絹の道ってあるけどそれも開港以来横浜にとって代わられたな
「とって代わられた」?
意味不明。
八王子から横浜へ絹を運ぶ浜街道が「絹の道」だ。
明治以後、絹織物が国内のみならず横浜港から大いに輸出されるようになって桑都八王子は更に繁栄を極めたという史実を知らないか? 絹の大暴落で衰退
もっとも被害を受けたのは秩父の養蚕 松姫?
もっと前、大石氏の時代から織物を取引する市が盛んだったようだが。 後北条時代の八王子といえば下原系の鍛治が有名だけど江戸時代には農具の鍛治に移行して作刀はしなくなったみたいだな >>949
そういえば燃えよ剣やっと公開されるんだな 土方歳三 享年三十五
岡田准一 当年四十一
新選組にせよ何にせよ、幕末を扱う映画やドラマは役者の年齢を考えろよ、、、 すると晩年の宗瑞は竹中直人(65)かな。
年齢も風貌も丁度良い。 >>974
燃えよ剣
沖田「歳さん(ニコニコ)・・ サワサワ」
土方「ばか!よせっ・・」
沖田「だってもうこんに?」 沖田の実家は日野在住の白河藩浪人だとされている。
他藩浪人が領内の農村に居住するなど以ての外の事として禁圧する藩が多数の時代、
沖田家は日野の村に融け込んでいる上に領主たる幕府がこれを咎めた形跡も無い。
農と武の関わりについてゾロッペイな幕府の態度にも、武蔵國直轄領に於ける徳川の基本スタンス=北條時代の承継を見る思いがする。 次スレの方にも貼っておいたが、
伊勢宗瑞晩年期の周辺地域勢力分布図。
https://i.imgur.com/Bp4remv.png
(※)
当時の軍事/政治動向を考える時、これを傍らに置くと理解が捗ると思う。
(※)
【無名】東京の武将たち【知りたい】 [無断転載禁止]©2ch.net
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1470119615/
レス番565から引用。作成者氏の御厚意(レス番595)による。 北條と小弓公方の関係について幾つかの書物を読んでるんだが、コレがえらくこんがらがってて実に分からない。
国府台で小弓義明が北條軍の渡河を坐視したのは何故か−−という謎が昔から語られているが、
現場で実際に矢を向けられる瞬間まで義明は氏綱が味方に付く可能性を妄想してたんじゃないか。
国府台に至る両者の相関から、俺はそんなことを考えている。
他スレでも議論して一応は否定的な結論に達したが、どうも捨て切れない。 >>976
>>949で土方家と後北条は関係が深すぎると書かれてるぞ 八王子で思い出したが
司馬遼太郎の「街道をゆく」1巻は甲州街道の特集で
今はともかく昭和の八王子は徳川慶喜の大ファンが多かったと書かれてたのを思い出した 司馬遼太郎はもういいよ それこそこのスレと関係ない だが司馬が箱根の坂を書かなければ北条早雲は有名になれなかったよ
少なくとも今だに悪人扱いされてた
なにしろ北条早雲は孟子の正義を重んじてたと評したのは司馬遼太郎が最初 「箱根の坂」では北条早雲の愛読書は孟子
それまでの悪人評価を180度変えたのが「箱根の坂」 >>940
おれも調布だから近藤勇には特別に感情移入してしまうわ >>988
語るに落ちている。
「北条早雲」「有名」「悪人」「正義」などの軽薄な単語群に、そして小説などというものを引き合いに出す辺りで御里が知れる。
1990年代に藤木久志、峰岸純夫、蔵持重裕等の各氏が戦国時代に関する思考のパラダイムに革命を起こした。
その土台の上に家永遵嗣、山口博、齋藤慎一、黒田基樹、則竹雄一等の各氏が伊勢宗瑞を初め北條氏の研究に新地平を拓いた。
彼等正統アカデミズムの成果が漸く我々素人や世間一般にも浸透しつつあるのであって、司馬某如き売文屋の影響などゼロに等しい。 >>991
だから?
お前の地元が調布だとか歴史に何ら関係ないね このスレッドは1000を超えました。
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