伊都国東遷スレ 6
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1、魏志にある邪馬台国は「ヤマト」であり、倭王権の基礎となった。
2、ただし、その女王、「ヒミコ(日巫女)」とは伊都国の関係者である。
3、平原一号墓の巫女王は、東遷前の先代のものであり、銅鏡による太陽祭祀を主宰する「日巫女」の墓として、最もふさわしい。
<ポイント>
・記紀の伝承がおおむね歴史的事実の反映であることが視野に入ってくる
・唐古、鍵と纏向の間にある文化的断絶(銅鐸祭祀断絶と銅鏡祭祀開始)を伊都国勢力の進入から説明できる
柳田康雄先生の考え方(仮説)に基本的に一致しています。
<参考 URL >
歴史秘話ヒストリア 「女王卑弥呼はどこから来た?」
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「伊都国を掘る」2000年
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784479840541
柳田康雄 「 弥生王権論 伊都国からヤマト国へ」 2016年
http://www.city.itoshima.lg.jp/m043/010/040/070/030/kankotosyo.html 籠神社が元伊勢だってのは、そういう説があるってだけ
宮津の山奥にも元伊勢を主張してる神社がある
延喜式内社の主張と一緒で確定事項でもなんでもない >>552
>籠神社と伊勢のつながりは鏡以外に何かいわれがあるんだっけ?
籠神社の神鏡は天照大神の孫の饒速日の十種の神宝、伊勢神宮の神鏡はその弟の邇邇芸の三種の神器とされている。
実際には籠神社の神鏡は前漢鏡と後漢鏡のペア。
ちなみに平原遺跡の鏡はそれより後(卑弥呼の時代?)の国産。 【八咫鏡】
平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。
内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
伊都にある王墓の代表である三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。
八咫鏡はニニギら日向王家の象徴であるが、それが日向峠のある高祖山周辺にあったことで、伊都が記紀に伝えられる倭国の旧都、筑紫の日向であったことがわかる。
石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口、日前は西の出口にあり、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
筑前国風土記では、沖ノ島辺津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、辺津宮、伊都に5枚で、最低でも10枚は存在していたことになる。
この他に日本書紀では筑紫の帥である神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、顛末は記録されていない(上記のいずれかと重複している可能性がある)。 三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡 西川 寿勝
日本考古学 6(8), 87-99, 1999
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonkokogaku1994/6/8/6_8_87/_pdf/-char/ja
とか読んでみて
この論文の6ページ目の、最上位「宝飾鏡」のところに載せられている写真は、
>>541で示された弁護士バッジの八葉鏡と同じ形をしている
この手の鍍金「宝飾鏡」が「八咫鏡」でもおかしくないし、
三国〜六朝時代に位置づけられる宝飾鏡には、直径27cm,金銀の薄板で神人・車馬・仏像
などを描く超大型宝飾鏡がある
これは、大きさといい、モチーフといい、三角縁神獣鏡のモデルともみなしうる 直径46センチの超大型内行花文鏡と、どちらが威信財としてふさわしいかわかるだろう? 御鎮座記にみえる八葉は蓮華のこと
密教的な世界観では世界の中心を中台八葉院とよぶ
同書にある円外日天八座の記述もそうした視点で始めて理解できる 仏教がからむなら、明らかに後世の改変が入っているから、それは当てにならない。 そもそも「八頭花先八葉形」であって
「八頭花先」と「八葉形」ではない でかいけれど伝統的な作図法から逸脱した、鋳上がりの悪い仿製鏡より、
直径27cm,金銀の薄板で神人・車馬・仏像 などを描く超大型宝飾鏡の方が、
威信材として明らかに上だと思うぞ?
その青銅レプリカでも、鋳上がりのよい精緻なものなら十分に威信材になるだろう >>571
そのあてにあらない記述を根拠にしたのが原田大六であり
その原田説を真に受けたのが岡上と伊都クズ 平原遺跡の八咫の鏡の記録を文字だけで読んだ人が、当時の仏教の影響下で実物を見ないでパチモノの鏡を作ったものが、伊勢に伝わっているような気がしてきたな。 >>573
>直径27cm,金銀の薄板で神人・車馬・仏像 などを描く超大型宝飾鏡の方が、
>威信材として明らかに上だと思うぞ?
前漢以来の伝統的な内行花文鏡の方が、王統の正統性を示すには大事だよ。
デザイン的にも美しい。
Microsoftの広告とAppleの広告と、どちらがいいか的な問題でもあるけど。 >>577
>王統の正統性
これと内向花文鏡を結びつける言説が伊都国説では多いけれど、
きちんと論証されているのを見たことがないんだが?
「でかいからすごいに決まってる(意訳)」以外の理由が書かれていない
それに「王権と無縁なところからも、内行花文鏡は出てる」に対する
十分な説明もない >>580
>お前が不勉強なだけ
だから、勉強させてくれよ!
こっちは、きちんと典拠を添えて論証してるだろ? >>575
>平原遺跡の八咫の鏡の記録を文字だけで読んだ人が
そんな文字記録がどこにある?
平原1号墓は、周溝が埋まる頃には、墳丘内にまで土壙墓を作られるほど、
大事にされず、忘れられてた墓だよ 「王権と無縁なところからも、内行花文鏡は出てる」に対する説明は? >>583はまず
三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡 西川 寿勝
日本考古学 6(8), 87-99, 1999
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonkokogaku1994/6/8/6_8_87/_pdf/-char/ja
を読むといいよ
こういう、プロの文章を典拠として出してくることがないんだよな、伊都国説側は >>498
日本のアタでも同じですね。
拇中指咫は18cm程度で、中国の咫と近似していますので、平原大鏡でちょうど八咫鏡。
拇人指咫なら15cm程度ですが、この場合は円周120cmですので、下池山や大塚古墳の
内行花文鏡が八咫鏡の最有力候補ですね。
八咫鏡の候補としては、間違っても最下層に属する三角縁だけはない(笑)
まだガモンタイがーとかの方がマシですね。 >>587
>間違っても最下層に属する三角縁だけはない(笑)
これがまず認識不足
三角縁神獣鏡には、できのいいのと悪いのとがある
一概に最下層とは言えない <丈夫は、単なる男で169cm説での読み> が、出てきたので、オッズをつけて見ます。
A(周代の平均的な)人長は八尺であるから、(十尺の男のことを)故に丈夫という。
単勝 オッズ: 10倍
*読みとしては無難ですが、平均身長が147cmというのは少し低すぎる。
B(今、漢尺で)人長が八尺であれば、故に丈夫という。
単勝 オッズ: 5倍
*今に時制を戻すのが、是非の別れどころか。まぁ現在時制に変えるだけなら。
C (男の平均的な)人長は(周の)八尺ほどなので、故に丈夫(周小尺で十尺の身長=一人前の男)という
単勝 オッズ: 20倍
*許慎が、周大尺と周小尺を認識していたら、分かりやすく、そう書いていたはずでは?
こんなもんじゃないでしょうかね?
そんなに本命ど真ん中が出来るような話ではないと思いますが。
私はもちろんBを支持です。 >>587
>日本のアタでも同じですね。
久しぶりに出てきても、相変わらず与太を飛ばすだけだな、お鏡さんは
>>543〜>>547で、鏡の大きさに「咫」も「尺」も意識されていないのは
十分に示されているだろ?
都合の悪いデータは、見ない聞こえない、かな? >>590
なんで都合が悪いんですか?
平原大鏡は、漢代の遺物で径二尺事実ですよ。 >>587
>拇中指咫は18cm程度で、中国の咫と近似していますので、
近似していません
咫,中婦人手長で、
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979___________170.3 18.5 159.0 17.1
と16センチ台
事実を無視してはいけないよ! >>587
>下池山や大塚古墳の
>内行花文鏡が八咫鏡の最有力候補ですね。
下池山古墳も、柳本大塚古墳も、王墓級とはみなされていないよ
王とは関係ない内向花文鏡が、八咫鏡では、王権のシンボルから遠ざかるばかりだろう? >>592
拇中指咫と書いてるの読みましたか?
拇中指咫は、手の大きさより少し大きめなのが普通ですよ。
ご自身で試して見ては? >>593
茶臼山古墳のメスリ山古墳も大型内行花文鏡ですよ。
もう何度も書いた気がしますが。 >>596
なんでコテ付けたりはずしたりしてるんだ? やっぱりか? >>594
それで女性の手が18.5cmになるの? >>593
>下池山古墳も、柳本大塚古墳も、王墓級とはみなされていないよ
これは見直した方がいいと思いますよ。 >>584
>そんな文字記録がどこにある?
現存していないだけだろ。
八咫鏡という名称がはるか上古から継承されてきたわけだろ? >>578
>>王統の正統性
>これと内向花文鏡を結びつける言説が伊都国説では多いけれど、
>きちんと論証されているのを見たことがないんだが?
籠神社の神鏡は関西に降臨した天照大神の孫の饒速日の十種の神宝。
その弟が皇祖である邇邇芸で、八咫鏡とともに降臨したのが筑紫の日向。その筑紫の日向で最大の鏡が平原遺跡の超大型内行花文鏡。 >>603
内行花文鏡が出土した100メートル級の大型古墳がヤマト王権と関係ないと思う方がおかしい。
ヤマト王権というのは、王家以外にも大型古墳を作らせるほどゆるい王権だったのか? >>525
データが少ないから三角縁神獣鏡が比較的新しいくらいしかわからなかったよ。ごめんね。 最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。 動員兵数を古墳築造労働者に投入したと考えると、
どのくらい時間をかけるかにもよるけど
最大の仁徳天皇陵(大仙山古墳)でも
今の大阪府程度で十分足りる。
畿内全部を動員するほどの人手は要らない。 伊勢の鏡も内行花文鏡であるべきだね。
そうでないなら、どこかですり替えられているよ。
前漢と交流していた紀元前の弥生時代から、古墳時代まで、内行花文鏡が王権の象徴だったわけだから。 >>589
この人の自分褒め性癖、かなりキモいんですけど >>594
>拇中指咫と書いてるの読みましたか?
それを書いたのはお鏡さんであって、咫の定義(または語源)を示して
ある説文解字にはそんなことは書いてないねぇ
2018年にお鏡さんがそう書いたからといって、周代の咫の長さとは一切関係がないんだよ
当たり前のこと
そして説文解字に書いてあるのは
咫,中婦人手長で、
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979___________170.3 18.5 159.0 17.1
と16センチ台
事実を無視してはいけないよ! >>595
>茶臼山古墳のメスリ山古墳も大型内行花文鏡ですよ。
>もう何度も書いた気がしますが。
桜井茶臼山古墳のは、破鏡されてるけどいいのか?
大事にされてないぞ?
王権の象徴を破壊していいのか?
それとも桜井茶臼山古墳の被葬者も倭王の日巫女にしちゃうのかい?
ものすごく、恣意的なご都合主義にしかならないんだけど? 破鏡が王族の葬送の儀式の一部だったんでしょうねえ。
その文化が平原遺跡から畿内に持ち込まれたことがよくわかります。
もともと銅鏡・銅矛文化は筑紫の文化なわけですが、それが畿内に進出し、やがて列島を席巻したのですね。 >>601
>これは見直した方がいいと思いますよ。
大きい古墳がほとんどない九州とは違って、畿内では王墓級と呼ぶには
箸中山古墳以降は墳丘長200メートル以上がスタンダードだよ
柳本大塚古墳、下池山古墳レベルまで王墓にしてたら、王が何人必要なんだ?って話になる
記紀の大王の3倍以上にはなるなw
そして、下池山古墳は前方後方墳で天津神の一族の首長の墳形ではない
どうやっても、王位の所在とは関係ない鏡だよ
内行花文鏡の存在が、王位を示す訳ではない >>602
>現存していないだけだろ。
>八咫鏡という名称がはるか上古から継承されてきたわけだろ?
現実にはないものを、「あったはずだ」「なかったとは証明できない」とか
言いだしたら何でもありになるだけで、それはもう科学(歴史学)じゃなくて
ただの妄想
八咫鏡という名称の初出は、8世紀の記紀から
それ以前からの伝承はあっただろうが、どこまで遡れるかの論証抜きに
「あったはず」と言っても、それは何の意味も持たない無意味な戯れ言 >>619
>そして、下池山古墳は前方後方墳で天津神の一族の首長の墳形ではない
天津神は天皇家の直系のことだろ。
前方後円墳は天皇家(大王家)と関係ないと読めるよ。
マジで意味不明なんだけど。 >>605
>籠神社の神鏡は関西に降臨した天照大神の孫の饒速日の十種の神宝。
籠神社に倭王がいたことなんてあったっけ? >>620
実際に舶載の銅鏡を尊重する文化は紀元前からあったわけで、それを否定するのはわけわからんな。
2600年はナンセンスだけども、平原遺跡が2世紀末なら、その頃には記紀の八咫鏡の製作の故事よろしく鏡を作り始めたわけだろ?
卑弥呼の時代に超大型内行花文鏡はすでにあったわけで、それらが伝承として変形しながらアマテラスの八咫鏡の記載になったと想定するのは無理のないところだよ。 >>606
>内行花文鏡が出土した100メートル級の大型古墳がヤマト王権と関係ないと思う方がおかしい。
>ヤマト王権というのは、王家以外にも大型古墳を作らせるほどゆるい王権だったのか?
もちろん大王の墓がその世代で一番大きな墓だし、有力な皇族がそれに続き、
王家以外の豪族の墓はそれ以下だよ?
当たり前じゃないか!
下池山古墳も柳本大塚古墳も、皇族の規模には届かない、畿内では特に
目立たない大きさの古墳だよ
九州からすれば、大型古墳かも知れないけどさw >>622
記紀では王族があちこち降臨しているからね。
倭王でなくてもいいのだよ。
王族、特に天津神の一族であることの証が内行花文鏡だったのだろう。
饒速日は天照国照の称号を持つから、天照大神と大国主の両方の領土を一旦は相続していると思うけど、記紀では(筑紫の視点で)東の方(関西)に行ったきりになってしまったと書かれており、次に登場するのは神武と大和で落ち合うんだけどね。 >>609
>データが少ないから三角縁神獣鏡が比較的新しいくらいしかわからなかったよ。ごめんね。
鏡の大きさを見なよ
そうやって見たくないことから逃げてごまかしてるから、
九州説はまともな仮説にならないんだよ
まあ、まともに考えたら九州説にはならないんだがw >>618
>伊勢の鏡も内行花文鏡であるべきだね。
「あるべき」ってなんだよw
願望を書き散らしても意味ないんだって! >>589
ごまかしてるけど、「丈夫」というのが「成人男子」であり、
「丈」が成人男子の平均身長だってのは理解したのか?
平均身長は凡夫であって、丈夫じゃないとか言ってたのは撤回するのか? >>618
>その文化が平原遺跡から畿内に持ち込まれたことがよくわかります。
でもそれ、定着してないよな?
王が持ち込んだものがそんなにすぐ無視されるのっておかしいだろうが? >>621
>前方後円墳は天皇家(大王家)と関係ないと読めるよ。
前方後「方」墳(地祇系)と、前方後「円」墳(天神系)を区別できてるかい?
下池山古墳は前方後「方」墳(地祇系)だよ
皇統の一員ではないだろう 鏡を天皇位の象徴として千年以上も崇めるくらいには、筑紫の銅鏡文化は定着したよ。 >>611
>今の大阪府程度で十分足りる。
今の大阪府の人口は当時の倭国の総人口を軽く凌駕してるんだけど、それは?
大阪府890万人弱
倭国の総人口65万人(推計値) >>630
>下池山古墳は前方後「方」墳(地祇系)だよ
おっと失礼。
でも、その分類そのものが誤りな気がして来たよ。
そもそも、倭王家以外にも大きな墓を作ることを許容していたことになるね。
そうすると、九州に平原遺跡と同時期に他地域に大きな古墳が登場することも許容していいよね?
そうでないとダブスタになるもんねw >>631
>鏡を天皇位の象徴として千年以上も崇めるくらいには、筑紫の銅鏡文化は定着したよ。
今問題にしているのは、破鏡だ
話をそらしてごまかさないように!
破鏡せずに伝世するのは、平原1号墓出土鏡の儀礼とは別物だよな 方墳は母系に出雲系が入る人たち。
前方後方墳も同じ。 >>619
>柳本大塚古墳、下池山古墳レベルまで王墓にしてたら、王が何人必要なんだ?って話になる
>記紀の大王の3倍以上にはなるなw
大王ではないが、有力な王族だったのだろう。
墳形だけでなく、内行花文鏡などの副葬品の意味をもっと考えるべきだね。 >>637
母方が国津神、父方が天津神なら、やはり天津神の末裔だよ。
その証が内行花文鏡なんだろう。 >>622
倭王ではないが元伊勢だから皇女がいたよ。
後の大丹波国造や因幡国造につながる。
天火明命を祖神とする天村雲以下初期天皇家の家系だよ。 >>619
>柳本大塚古墳、下池山古墳レベルまで王墓にしてたら、王が何人必要なんだ?って話になる
記紀の大王の3倍以上にはなるなw
王墓は倭国(阿波)の山稜に造るもの。 奈良盆地の墓は進出した臣下の墓。
>そして、下池山古墳は前方後方墳で天津神の一族の首長の墳形ではない
それは、蘇我氏系豪族の墓だろう。 @阿波 大型内行花文鏡が副葬されている墓は権威のある巫女でもよさそう
大和王権は「男王」が別にいたわけだから、墓の大きさ的にその方が妥当かな
同じ文化&政権地域の中では墓の大きさの比較も重要と思うし
それなりの大きさだと血筋は王権が絡むだろうけどね >>633
>そもそも、倭王家以外にも大きな墓を作ることを許容していたことになるね。
九州の感覚だと大きいと感じるのかも知れないが、下池山古墳も柳本大塚古墳も
皇統の墳墓と比べたらはっきり小さな格下の墓なんだよ
箸中山古墳 280メートル
西殿塚古墳 230メートル
王の墓はこれくらい
下池山古墳 120メートル
柳本大塚古墳 94メートル
ははっきり格下で、王家の権威を脅かすものではない
「王家以外に大きな墓を」とかはまるで問題にならない
明確な格差が付けられているんだよ
まあ、古墳時代に入ってからの伊都国首長の墓が
端山古墳 78.5メートル
築山古墳 60メートル
と比べれば、下池山古墳も大古墳に見えるんだろうけれど
ついでにその他の大王墓候補の大きさを、築造順に並べておくと
始まりの大王墓、箸中山古墳がいきなり280メートルもあって、その後の大王墓候補も
西殿塚(230m)→外山茶臼山(207m)→メスリ山(224m)→行燈山(242m)
→渋谷向山(300m)→五社神(267m)→宝来山(227m)→佐紀陵山(207m)
→佐紀石塚山(220m)→津堂城山(208m)→仲津山(290m)→百舌鳥陵山(365m)
→誉田御廟山(425m)→大仙(486m)→土師ニサンザイ(290m)→岡ミサンザイ(245m)
外山(桜井)茶臼山とメスリ山は、大王墓とは認めない人も多く、オオビコの系譜に連なるものと考える人も多い >>643
>大型内行花文鏡が副葬されている墓は権威のある巫女でもよさそう
女系相続した国津神系の女王(大王ではない)の墓とかかな。
しかし九州ならいざ知らず、大和まで来て国津神というのもイメージがわかない。
女系が強いのは古代の九州のイメージだ。 >>644
100メートル以下の天皇陵はないの?
あと、伊都国首長というのは畿内説の主張であり、九州説では伊都にいたのは倭王。 >>634
畿内では鏡副葬自体が急に始まるのだよ
思想が流入したのだろうね
破砕鏡ではないから、平原系の直接的な関与ではなさそう 思想が流入とか、過小評価だよね。
王権の象徴そのものが流入したなら、筑紫の倭王権によって畿内が征服されたんだよ。
今日でも鏡が三種の神器に含まれているくらいだから。 >>644
初期の天皇陵は、山の尾根や丘を利用して築かれた。
初代〜第五代天皇の陵墓の記事(『古事記』『日本書紀』『延喜式』)には
まず、初期の天皇陵は、神武陵が畝火山の北方白檮尾上、綏靖陵は衝田岡、懿徳陵は畝火山の真名子谷上、孝昭陵は掖上の博多山上とあるように、
山の尾根や自然の丘陵の一部を利用して築かれている。
これは、第十代崇神天皇とされる奈良県天理市の行燈山古墳や、第十二代景行天皇陵とされる天理市の渋谷向山古墳のような平地に築かれた古墳とは、地形(占地の観念)が明らかに相違している。
また、初期天皇の没年より古く、築造時期がそれより遡るとみられている石塚古墳や勝山古墳など、4基からなる纏向古墳群は、全長90〜100mの前方後円墳で、同時代の古墳としては突出した規模を有するが、
これらも奈良県桜井市の平野部(大田微高地)に築かれている。
初代〜第五代天皇の没年(陵)は、先後に王墓級の纏向古墳群と、天皇陵とされる行燈山古墳などに挟まれた年代に位置づけられるが、
山の尾根や丘陵を利用した初代〜第五代天皇の陵墓の築造地形は、以上のごとく奈良盆地の先後の古墳に連結しない。
初期の天皇陵が築かれた、畝火山や衝田岡、真名子谷は、はたして奈良盆地の湿地帯にあったのだろうか? 推して知るべし。 @阿波 >>648
王権の象徴だって説が否定されてるから
その主張もスカ 王権の象徴が気に入らないようだから
権威の象徴あたりにしとこうか? >>650
いつ誰がどう否定したんだ?
5ちゃんで畿内厨が騒いだだけ? >>636
>今でも鏡は神社で現役ですが何か
鏡は九州の占有物じゃないんだよ
もとから近畿でも出雲でも古い時代の鏡も出ている
その状況下で、伊都国の勢力が畿内に云々という、お鏡流東遷説を
唱えようとするなら、
・超大型内行花文鏡
・破鏡供献
の2点くらいしか、持ち出せるポイントがない
しかし、畿内にある超大型内向花文鏡は、きちんと正しい作図法で鏡面がデザインされていて
連弧文の描かれた内区の比率が小さい異端の平原1号墓出土鏡とは、系譜が異なるし、
それが確認された下池山古墳も柳本大塚古墳も、小さな王墓ではない古墳
また、破鏡の儀礼も桜井茶臼山古墳くらいしか主だった古墳では確認されていないし
葬送儀礼ではなく、青銅器のリサイクルのための破鏡だという説もある
超大型内行花文鏡も破鏡儀礼も、畿内というか古墳時代の埋葬文化に定着してないだろ?
神社の鏡とかに話をずらそうとしても、伊都国に王がいたって話にはならないよ >>646
>あと、伊都国首長というのは畿内説の主張であり、九州説では伊都にいたのは倭王。
すると、
端山古墳 78.5メートル
築山古墳 60メートル
が、倭王の墳墓なんだ ふーん
この二つは、三雲遺跡群の領域にあるから、
紛れもなく伊都国地域のトップの墓だよ
ずいぶん小さな倭王の墓だね
そして、お隣の、伊都国説では倭王ではない格下のはずの
奴国(中心集落は那珂遺跡群)の首長墓、那珂八幡古墳の75メートルと
どっこいの大きさだね
>>633のこの言葉をあげるよ
>そもそも、倭王家以外にも大きな墓を作ることを許容していたことになるね。 >>652
>王権の象徴が気に入らないようだから
>権威の象徴あたりにしとこうか?
つまり、持っていたところで、それが王の所在を意味する訳ではないというのは
認めるんだね!
つまり、「大型内行花文鏡が出たから平原一号墓の被葬者は倭王」、という主張は
引っ込めるんだww
一つ共通理解が進んだな >>654
王権の象徴だってのも5ちゃんで伊都厨が騒いだだけだろ
そして否定された >>648
>思想が流入とか、過小評価だよね。
>王権の象徴そのものが流入したなら、筑紫の倭王権によって畿内が征服されたんだよ。
>今日でも鏡が三種の神器に含まれているくらいだから。
ちがうよ
卑弥呼は共立で、各地の葬送儀礼が持ち寄られることで、古墳祭祀が形成され
その古墳を作る首長層での、共通の副葬品・威信材が剣鏡玉のセット(玉は少し遅れる)
もともとは、普通の副葬品
そのうち、皇統の威信材が、皇室の権威とともに長く伝世することで、神秘化し
神器とされるようになったんだよ >>640
>倭王ではないが元伊勢だから皇女がいたよ。
>後の大丹波国造や因幡国造につながる。
>天火明命を祖神とする天村雲以下初期天皇家の家系だよ。
皇女がいたのも倭姫世紀に拠れば4年間
そして、王位がそこにあった訳ではない
王権の象徴というなら、王のいないところにも存在する鏡について
きちんと説明しなければならないが、できていない
王も、王じゃない人も持っている鏡は、王権の象徴ではない
首長層共通の威信材、ということにしかならない >>656
>この二つは、三雲遺跡群の領域にあるから、
>紛れもなく伊都国地域のトップの墓だよ
墓域じゃなかった市街中心部に外来墓制の墓が出来ちゃうというのは、集落廃絶のしるしであり、外来支配者のマーキングじゃないのかな >>645
>しかし九州ならいざ知らず、大和まで来て国津神というのもイメージがわかない。
日本最大の前方後「方」墳も大和にあるんだよ
新山古墳(しんやま、広陵町大塚、前期、前方後方墳、137メートル) 佐治する男弟がいるんだから権威の場所に王もいるよ。 >>655
鏡の祭祀が畿内で始まる前は三輪山祭祀だったよ?しかも三輪山祭祀は一度中断した上で復活してる。 >>657
よくわからんけど
> 大型内行花文鏡が出たから平原一号墓の被葬者は倭王
とか言ってる人いた? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています