伊都国東遷スレ 6
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1、魏志にある邪馬台国は「ヤマト」であり、倭王権の基礎となった。
2、ただし、その女王、「ヒミコ(日巫女)」とは伊都国の関係者である。
3、平原一号墓の巫女王は、東遷前の先代のものであり、銅鏡による太陽祭祀を主宰する「日巫女」の墓として、最もふさわしい。
<ポイント>
・記紀の伝承がおおむね歴史的事実の反映であることが視野に入ってくる
・唐古、鍵と纏向の間にある文化的断絶(銅鐸祭祀断絶と銅鏡祭祀開始)を伊都国勢力の進入から説明できる
柳田康雄先生の考え方(仮説)に基本的に一致しています。
<参考 URL >
歴史秘話ヒストリア 「女王卑弥呼はどこから来た?」
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「伊都国を掘る」2000年
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784479840541
柳田康雄 「 弥生王権論 伊都国からヤマト国へ」 2016年
http://www.city.itoshima.lg.jp/m043/010/040/070/030/kankotosyo.html >>587
>日本のアタでも同じですね。
久しぶりに出てきても、相変わらず与太を飛ばすだけだな、お鏡さんは
>>543〜>>547で、鏡の大きさに「咫」も「尺」も意識されていないのは
十分に示されているだろ?
都合の悪いデータは、見ない聞こえない、かな? >>590
なんで都合が悪いんですか?
平原大鏡は、漢代の遺物で径二尺事実ですよ。 >>587
>拇中指咫は18cm程度で、中国の咫と近似していますので、
近似していません
咫,中婦人手長で、
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979___________170.3 18.5 159.0 17.1
と16センチ台
事実を無視してはいけないよ! >>587
>下池山や大塚古墳の
>内行花文鏡が八咫鏡の最有力候補ですね。
下池山古墳も、柳本大塚古墳も、王墓級とはみなされていないよ
王とは関係ない内向花文鏡が、八咫鏡では、王権のシンボルから遠ざかるばかりだろう? >>592
拇中指咫と書いてるの読みましたか?
拇中指咫は、手の大きさより少し大きめなのが普通ですよ。
ご自身で試して見ては? >>593
茶臼山古墳のメスリ山古墳も大型内行花文鏡ですよ。
もう何度も書いた気がしますが。 >>596
なんでコテ付けたりはずしたりしてるんだ? やっぱりか? >>594
それで女性の手が18.5cmになるの? >>593
>下池山古墳も、柳本大塚古墳も、王墓級とはみなされていないよ
これは見直した方がいいと思いますよ。 >>584
>そんな文字記録がどこにある?
現存していないだけだろ。
八咫鏡という名称がはるか上古から継承されてきたわけだろ? >>578
>>王統の正統性
>これと内向花文鏡を結びつける言説が伊都国説では多いけれど、
>きちんと論証されているのを見たことがないんだが?
籠神社の神鏡は関西に降臨した天照大神の孫の饒速日の十種の神宝。
その弟が皇祖である邇邇芸で、八咫鏡とともに降臨したのが筑紫の日向。その筑紫の日向で最大の鏡が平原遺跡の超大型内行花文鏡。 >>603
内行花文鏡が出土した100メートル級の大型古墳がヤマト王権と関係ないと思う方がおかしい。
ヤマト王権というのは、王家以外にも大型古墳を作らせるほどゆるい王権だったのか? >>525
データが少ないから三角縁神獣鏡が比較的新しいくらいしかわからなかったよ。ごめんね。 最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。 動員兵数を古墳築造労働者に投入したと考えると、
どのくらい時間をかけるかにもよるけど
最大の仁徳天皇陵(大仙山古墳)でも
今の大阪府程度で十分足りる。
畿内全部を動員するほどの人手は要らない。 伊勢の鏡も内行花文鏡であるべきだね。
そうでないなら、どこかですり替えられているよ。
前漢と交流していた紀元前の弥生時代から、古墳時代まで、内行花文鏡が王権の象徴だったわけだから。 >>589
この人の自分褒め性癖、かなりキモいんですけど >>594
>拇中指咫と書いてるの読みましたか?
それを書いたのはお鏡さんであって、咫の定義(または語源)を示して
ある説文解字にはそんなことは書いてないねぇ
2018年にお鏡さんがそう書いたからといって、周代の咫の長さとは一切関係がないんだよ
当たり前のこと
そして説文解字に書いてあるのは
咫,中婦人手長で、
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979___________170.3 18.5 159.0 17.1
と16センチ台
事実を無視してはいけないよ! >>595
>茶臼山古墳のメスリ山古墳も大型内行花文鏡ですよ。
>もう何度も書いた気がしますが。
桜井茶臼山古墳のは、破鏡されてるけどいいのか?
大事にされてないぞ?
王権の象徴を破壊していいのか?
それとも桜井茶臼山古墳の被葬者も倭王の日巫女にしちゃうのかい?
ものすごく、恣意的なご都合主義にしかならないんだけど? 破鏡が王族の葬送の儀式の一部だったんでしょうねえ。
その文化が平原遺跡から畿内に持ち込まれたことがよくわかります。
もともと銅鏡・銅矛文化は筑紫の文化なわけですが、それが畿内に進出し、やがて列島を席巻したのですね。 >>601
>これは見直した方がいいと思いますよ。
大きい古墳がほとんどない九州とは違って、畿内では王墓級と呼ぶには
箸中山古墳以降は墳丘長200メートル以上がスタンダードだよ
柳本大塚古墳、下池山古墳レベルまで王墓にしてたら、王が何人必要なんだ?って話になる
記紀の大王の3倍以上にはなるなw
そして、下池山古墳は前方後方墳で天津神の一族の首長の墳形ではない
どうやっても、王位の所在とは関係ない鏡だよ
内行花文鏡の存在が、王位を示す訳ではない >>602
>現存していないだけだろ。
>八咫鏡という名称がはるか上古から継承されてきたわけだろ?
現実にはないものを、「あったはずだ」「なかったとは証明できない」とか
言いだしたら何でもありになるだけで、それはもう科学(歴史学)じゃなくて
ただの妄想
八咫鏡という名称の初出は、8世紀の記紀から
それ以前からの伝承はあっただろうが、どこまで遡れるかの論証抜きに
「あったはず」と言っても、それは何の意味も持たない無意味な戯れ言 >>619
>そして、下池山古墳は前方後方墳で天津神の一族の首長の墳形ではない
天津神は天皇家の直系のことだろ。
前方後円墳は天皇家(大王家)と関係ないと読めるよ。
マジで意味不明なんだけど。 >>605
>籠神社の神鏡は関西に降臨した天照大神の孫の饒速日の十種の神宝。
籠神社に倭王がいたことなんてあったっけ? >>620
実際に舶載の銅鏡を尊重する文化は紀元前からあったわけで、それを否定するのはわけわからんな。
2600年はナンセンスだけども、平原遺跡が2世紀末なら、その頃には記紀の八咫鏡の製作の故事よろしく鏡を作り始めたわけだろ?
卑弥呼の時代に超大型内行花文鏡はすでにあったわけで、それらが伝承として変形しながらアマテラスの八咫鏡の記載になったと想定するのは無理のないところだよ。 >>606
>内行花文鏡が出土した100メートル級の大型古墳がヤマト王権と関係ないと思う方がおかしい。
>ヤマト王権というのは、王家以外にも大型古墳を作らせるほどゆるい王権だったのか?
もちろん大王の墓がその世代で一番大きな墓だし、有力な皇族がそれに続き、
王家以外の豪族の墓はそれ以下だよ?
当たり前じゃないか!
下池山古墳も柳本大塚古墳も、皇族の規模には届かない、畿内では特に
目立たない大きさの古墳だよ
九州からすれば、大型古墳かも知れないけどさw >>622
記紀では王族があちこち降臨しているからね。
倭王でなくてもいいのだよ。
王族、特に天津神の一族であることの証が内行花文鏡だったのだろう。
饒速日は天照国照の称号を持つから、天照大神と大国主の両方の領土を一旦は相続していると思うけど、記紀では(筑紫の視点で)東の方(関西)に行ったきりになってしまったと書かれており、次に登場するのは神武と大和で落ち合うんだけどね。 >>609
>データが少ないから三角縁神獣鏡が比較的新しいくらいしかわからなかったよ。ごめんね。
鏡の大きさを見なよ
そうやって見たくないことから逃げてごまかしてるから、
九州説はまともな仮説にならないんだよ
まあ、まともに考えたら九州説にはならないんだがw >>618
>伊勢の鏡も内行花文鏡であるべきだね。
「あるべき」ってなんだよw
願望を書き散らしても意味ないんだって! >>589
ごまかしてるけど、「丈夫」というのが「成人男子」であり、
「丈」が成人男子の平均身長だってのは理解したのか?
平均身長は凡夫であって、丈夫じゃないとか言ってたのは撤回するのか? >>618
>その文化が平原遺跡から畿内に持ち込まれたことがよくわかります。
でもそれ、定着してないよな?
王が持ち込んだものがそんなにすぐ無視されるのっておかしいだろうが? >>621
>前方後円墳は天皇家(大王家)と関係ないと読めるよ。
前方後「方」墳(地祇系)と、前方後「円」墳(天神系)を区別できてるかい?
下池山古墳は前方後「方」墳(地祇系)だよ
皇統の一員ではないだろう 鏡を天皇位の象徴として千年以上も崇めるくらいには、筑紫の銅鏡文化は定着したよ。 >>611
>今の大阪府程度で十分足りる。
今の大阪府の人口は当時の倭国の総人口を軽く凌駕してるんだけど、それは?
大阪府890万人弱
倭国の総人口65万人(推計値) >>630
>下池山古墳は前方後「方」墳(地祇系)だよ
おっと失礼。
でも、その分類そのものが誤りな気がして来たよ。
そもそも、倭王家以外にも大きな墓を作ることを許容していたことになるね。
そうすると、九州に平原遺跡と同時期に他地域に大きな古墳が登場することも許容していいよね?
そうでないとダブスタになるもんねw >>631
>鏡を天皇位の象徴として千年以上も崇めるくらいには、筑紫の銅鏡文化は定着したよ。
今問題にしているのは、破鏡だ
話をそらしてごまかさないように!
破鏡せずに伝世するのは、平原1号墓出土鏡の儀礼とは別物だよな 方墳は母系に出雲系が入る人たち。
前方後方墳も同じ。 >>619
>柳本大塚古墳、下池山古墳レベルまで王墓にしてたら、王が何人必要なんだ?って話になる
>記紀の大王の3倍以上にはなるなw
大王ではないが、有力な王族だったのだろう。
墳形だけでなく、内行花文鏡などの副葬品の意味をもっと考えるべきだね。 >>637
母方が国津神、父方が天津神なら、やはり天津神の末裔だよ。
その証が内行花文鏡なんだろう。 >>622
倭王ではないが元伊勢だから皇女がいたよ。
後の大丹波国造や因幡国造につながる。
天火明命を祖神とする天村雲以下初期天皇家の家系だよ。 >>619
>柳本大塚古墳、下池山古墳レベルまで王墓にしてたら、王が何人必要なんだ?って話になる
記紀の大王の3倍以上にはなるなw
王墓は倭国(阿波)の山稜に造るもの。 奈良盆地の墓は進出した臣下の墓。
>そして、下池山古墳は前方後方墳で天津神の一族の首長の墳形ではない
それは、蘇我氏系豪族の墓だろう。 @阿波 大型内行花文鏡が副葬されている墓は権威のある巫女でもよさそう
大和王権は「男王」が別にいたわけだから、墓の大きさ的にその方が妥当かな
同じ文化&政権地域の中では墓の大きさの比較も重要と思うし
それなりの大きさだと血筋は王権が絡むだろうけどね >>633
>そもそも、倭王家以外にも大きな墓を作ることを許容していたことになるね。
九州の感覚だと大きいと感じるのかも知れないが、下池山古墳も柳本大塚古墳も
皇統の墳墓と比べたらはっきり小さな格下の墓なんだよ
箸中山古墳 280メートル
西殿塚古墳 230メートル
王の墓はこれくらい
下池山古墳 120メートル
柳本大塚古墳 94メートル
ははっきり格下で、王家の権威を脅かすものではない
「王家以外に大きな墓を」とかはまるで問題にならない
明確な格差が付けられているんだよ
まあ、古墳時代に入ってからの伊都国首長の墓が
端山古墳 78.5メートル
築山古墳 60メートル
と比べれば、下池山古墳も大古墳に見えるんだろうけれど
ついでにその他の大王墓候補の大きさを、築造順に並べておくと
始まりの大王墓、箸中山古墳がいきなり280メートルもあって、その後の大王墓候補も
西殿塚(230m)→外山茶臼山(207m)→メスリ山(224m)→行燈山(242m)
→渋谷向山(300m)→五社神(267m)→宝来山(227m)→佐紀陵山(207m)
→佐紀石塚山(220m)→津堂城山(208m)→仲津山(290m)→百舌鳥陵山(365m)
→誉田御廟山(425m)→大仙(486m)→土師ニサンザイ(290m)→岡ミサンザイ(245m)
外山(桜井)茶臼山とメスリ山は、大王墓とは認めない人も多く、オオビコの系譜に連なるものと考える人も多い >>643
>大型内行花文鏡が副葬されている墓は権威のある巫女でもよさそう
女系相続した国津神系の女王(大王ではない)の墓とかかな。
しかし九州ならいざ知らず、大和まで来て国津神というのもイメージがわかない。
女系が強いのは古代の九州のイメージだ。 >>644
100メートル以下の天皇陵はないの?
あと、伊都国首長というのは畿内説の主張であり、九州説では伊都にいたのは倭王。 >>634
畿内では鏡副葬自体が急に始まるのだよ
思想が流入したのだろうね
破砕鏡ではないから、平原系の直接的な関与ではなさそう 思想が流入とか、過小評価だよね。
王権の象徴そのものが流入したなら、筑紫の倭王権によって畿内が征服されたんだよ。
今日でも鏡が三種の神器に含まれているくらいだから。 >>644
初期の天皇陵は、山の尾根や丘を利用して築かれた。
初代〜第五代天皇の陵墓の記事(『古事記』『日本書紀』『延喜式』)には
まず、初期の天皇陵は、神武陵が畝火山の北方白檮尾上、綏靖陵は衝田岡、懿徳陵は畝火山の真名子谷上、孝昭陵は掖上の博多山上とあるように、
山の尾根や自然の丘陵の一部を利用して築かれている。
これは、第十代崇神天皇とされる奈良県天理市の行燈山古墳や、第十二代景行天皇陵とされる天理市の渋谷向山古墳のような平地に築かれた古墳とは、地形(占地の観念)が明らかに相違している。
また、初期天皇の没年より古く、築造時期がそれより遡るとみられている石塚古墳や勝山古墳など、4基からなる纏向古墳群は、全長90〜100mの前方後円墳で、同時代の古墳としては突出した規模を有するが、
これらも奈良県桜井市の平野部(大田微高地)に築かれている。
初代〜第五代天皇の没年(陵)は、先後に王墓級の纏向古墳群と、天皇陵とされる行燈山古墳などに挟まれた年代に位置づけられるが、
山の尾根や丘陵を利用した初代〜第五代天皇の陵墓の築造地形は、以上のごとく奈良盆地の先後の古墳に連結しない。
初期の天皇陵が築かれた、畝火山や衝田岡、真名子谷は、はたして奈良盆地の湿地帯にあったのだろうか? 推して知るべし。 @阿波 >>648
王権の象徴だって説が否定されてるから
その主張もスカ 王権の象徴が気に入らないようだから
権威の象徴あたりにしとこうか? >>650
いつ誰がどう否定したんだ?
5ちゃんで畿内厨が騒いだだけ? >>636
>今でも鏡は神社で現役ですが何か
鏡は九州の占有物じゃないんだよ
もとから近畿でも出雲でも古い時代の鏡も出ている
その状況下で、伊都国の勢力が畿内に云々という、お鏡流東遷説を
唱えようとするなら、
・超大型内行花文鏡
・破鏡供献
の2点くらいしか、持ち出せるポイントがない
しかし、畿内にある超大型内向花文鏡は、きちんと正しい作図法で鏡面がデザインされていて
連弧文の描かれた内区の比率が小さい異端の平原1号墓出土鏡とは、系譜が異なるし、
それが確認された下池山古墳も柳本大塚古墳も、小さな王墓ではない古墳
また、破鏡の儀礼も桜井茶臼山古墳くらいしか主だった古墳では確認されていないし
葬送儀礼ではなく、青銅器のリサイクルのための破鏡だという説もある
超大型内行花文鏡も破鏡儀礼も、畿内というか古墳時代の埋葬文化に定着してないだろ?
神社の鏡とかに話をずらそうとしても、伊都国に王がいたって話にはならないよ >>646
>あと、伊都国首長というのは畿内説の主張であり、九州説では伊都にいたのは倭王。
すると、
端山古墳 78.5メートル
築山古墳 60メートル
が、倭王の墳墓なんだ ふーん
この二つは、三雲遺跡群の領域にあるから、
紛れもなく伊都国地域のトップの墓だよ
ずいぶん小さな倭王の墓だね
そして、お隣の、伊都国説では倭王ではない格下のはずの
奴国(中心集落は那珂遺跡群)の首長墓、那珂八幡古墳の75メートルと
どっこいの大きさだね
>>633のこの言葉をあげるよ
>そもそも、倭王家以外にも大きな墓を作ることを許容していたことになるね。 >>652
>王権の象徴が気に入らないようだから
>権威の象徴あたりにしとこうか?
つまり、持っていたところで、それが王の所在を意味する訳ではないというのは
認めるんだね!
つまり、「大型内行花文鏡が出たから平原一号墓の被葬者は倭王」、という主張は
引っ込めるんだww
一つ共通理解が進んだな >>654
王権の象徴だってのも5ちゃんで伊都厨が騒いだだけだろ
そして否定された >>648
>思想が流入とか、過小評価だよね。
>王権の象徴そのものが流入したなら、筑紫の倭王権によって畿内が征服されたんだよ。
>今日でも鏡が三種の神器に含まれているくらいだから。
ちがうよ
卑弥呼は共立で、各地の葬送儀礼が持ち寄られることで、古墳祭祀が形成され
その古墳を作る首長層での、共通の副葬品・威信材が剣鏡玉のセット(玉は少し遅れる)
もともとは、普通の副葬品
そのうち、皇統の威信材が、皇室の権威とともに長く伝世することで、神秘化し
神器とされるようになったんだよ >>640
>倭王ではないが元伊勢だから皇女がいたよ。
>後の大丹波国造や因幡国造につながる。
>天火明命を祖神とする天村雲以下初期天皇家の家系だよ。
皇女がいたのも倭姫世紀に拠れば4年間
そして、王位がそこにあった訳ではない
王権の象徴というなら、王のいないところにも存在する鏡について
きちんと説明しなければならないが、できていない
王も、王じゃない人も持っている鏡は、王権の象徴ではない
首長層共通の威信材、ということにしかならない >>656
>この二つは、三雲遺跡群の領域にあるから、
>紛れもなく伊都国地域のトップの墓だよ
墓域じゃなかった市街中心部に外来墓制の墓が出来ちゃうというのは、集落廃絶のしるしであり、外来支配者のマーキングじゃないのかな >>645
>しかし九州ならいざ知らず、大和まで来て国津神というのもイメージがわかない。
日本最大の前方後「方」墳も大和にあるんだよ
新山古墳(しんやま、広陵町大塚、前期、前方後方墳、137メートル) 佐治する男弟がいるんだから権威の場所に王もいるよ。 >>655
鏡の祭祀が畿内で始まる前は三輪山祭祀だったよ?しかも三輪山祭祀は一度中断した上で復活してる。 >>657
よくわからんけど
> 大型内行花文鏡が出たから平原一号墓の被葬者は倭王
とか言ってる人いた? >>660
元伊勢として籠神社にあった時は
王権は垂仁朝で交代してるから当時の王都は
山の辺の和邇だよ。今の天理市。 >>645
天孫族が父系で 国津神は皆女系。
みんな入り婿で権威は妻の家系にあった。 >>665
マンホールの蓋は王権の象徴じゃなくていいんだな?
まあ、割ったんだから当然だが
w >>659
>その古墳を作る首長層での、共通の副葬品・威信材が剣鏡玉のセット(玉は少し遅れる)
玉は遅れるという根拠は?
吉武高木の時点で揃っているけど?
三種の神器の様式は紀元前の筑紫ですでに確立されていた。 >>660
>首長層共通の威信材、ということにしかならない
一般名詞で誤魔化すなよ。
筑紫を源流とする天津神の威信財だろ。 >>656
>そして、お隣の、伊都国説では倭王ではない格下のはずの
>奴国(中心集落は那珂遺跡群)の首長墓、那珂八幡古墳の75メートルと
伊都国説は卑弥呼がいたのが伊都国であり、肩書きとしては倭王だよ。
筑紫全域が支配下だから、とうぜん奴国にいたのも王族だよ。
伊都国だけの王というのは、畿内説側のこじつけ。 >>659
>卑弥呼は共立で、各地の葬送儀礼が持ち寄られることで、古墳祭祀が形成され
>その古墳を作る首長層での、共通の副葬品・威信材が剣鏡玉のセット(玉は少し遅れる)
三種の神器は福岡では紀元前には完成しているけど? >>657
>つまり、持っていたところで、それが王の所在を意味する訳ではないというのは
>認めるんだね!
王族なら持っていた可能性が高いからね。
同時代なら最大の鏡を持っていたのが大王、つまり倭国王だよ。
2〜3世紀なら平原遺跡の主だな。
その頃の倭国王の名前はなんだっけ?
ああ、そうそう!
卑弥呼だよね! >>674
つまり東遷説は廃案
考古学的に否定されている >>672
>筑紫全域が支配下だから、とうぜん奴国にいたのも王族だよ。
「大勢いる王族」と「ただ一人の王」を区別してくれ
王権のシンボルという場合は、
「ただ一人の王」の地位に付随するものをいうのが普通
王権のシンボルは、本来、複数あるものではない >>671
>大和にいた国津神って誰?
大和には出雲という地名もあるんだよ >>670
>一般名詞で誤魔化すなよ。
いや? ごまかしじゃないよ?
ごまかしだと思うようなら>>670の基礎知識が足りない
雄略紀に
別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、
使倭子連(連、未詳何姓人)奉『八咫鏡』於大伴大連而祈請
曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」是以、
大連爲奏於天皇使留居于角國。
とあるように、皇統と関係ない鏡が『八咫鏡』と呼ばれている例もある
普通名詞としての『八咫鏡』ってのがあるんだよ >>668
えっ
ちょっとスレ違いにも程がある
>>1を100ペン読み返す刑に処す。 >>682
>雄略朝では大伴氏は特に皇室に近かった影響だろう
ということは、皇室と血縁がなくても、
ちょっと関係が近ければ持っていていいってことだな
平原1号墓の主も、大和の皇室とちょっと関係が近かったのかもね! >>681
>筑紫にも出雲あるよ
つまり、筑紫にも大和にも、地祇系一族の墓があっても何もおかしくないってことだ
それくらい、弥生時代から列島内の交流、人の移動は盛んだったんだよ
それで、大国主が宗像三神の多紀理毘売命との間に子をなしていたり、
スセリ姫との夫婦喧嘩の後大和に家出しようとしたり、という説話が
書かれている訳だ
弥生末期に、他との交流のない九州限定の倭国を考えるなどというのは
絵空事 >>683
大伴氏は神武の代から皇室に近いが
大伴氏から皇妃になった人物はいない。 共立された卑弥呼と親魏倭王の卑弥呼は別人という趣旨のスレで、
しかも>>1には卑弥呼前代と書かれている
共立された卑弥呼は女王だが、前代は女王じゃないだろ。
共立される前から女王なら、共立じゃなくて支配領域が広がったわけで共立とはならんよ。 >>677
>王権のシンボルは、本来、複数あるものではない
根拠なし。
王族が身分の証として持っていた可能性がある。 >>682
>雄略朝では大伴氏は特に皇室に近かった影響だろう
でも、雄略紀のエピソードは、皇室からの下賜鏡じゃなくて、
皇族でもない小鹿火宿禰という豪族(紀氏)が、これも皇族では
ない大伴大連(室屋)に贈ったという話だよ
紀氏が『八咫鏡』を持ってたってことだけど、
紀氏も皇室に近かったことにするのかい? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています