伊都国東遷スレ 6
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1、魏志にある邪馬台国は「ヤマト」であり、倭王権の基礎となった。
2、ただし、その女王、「ヒミコ(日巫女)」とは伊都国の関係者である。
3、平原一号墓の巫女王は、東遷前の先代のものであり、銅鏡による太陽祭祀を主宰する「日巫女」の墓として、最もふさわしい。
<ポイント>
・記紀の伝承がおおむね歴史的事実の反映であることが視野に入ってくる
・唐古、鍵と纏向の間にある文化的断絶(銅鐸祭祀断絶と銅鏡祭祀開始)を伊都国勢力の進入から説明できる
柳田康雄先生の考え方(仮説)に基本的に一致しています。
<参考 URL >
歴史秘話ヒストリア 「女王卑弥呼はどこから来た?」
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「伊都国を掘る」2000年
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784479840541
柳田康雄 「 弥生王権論 伊都国からヤマト国へ」 2016年
http://www.city.itoshima.lg.jp/m043/010/040/070/030/kankotosyo.html >>622
倭王ではないが元伊勢だから皇女がいたよ。
後の大丹波国造や因幡国造につながる。
天火明命を祖神とする天村雲以下初期天皇家の家系だよ。 >>619
>柳本大塚古墳、下池山古墳レベルまで王墓にしてたら、王が何人必要なんだ?って話になる
記紀の大王の3倍以上にはなるなw
王墓は倭国(阿波)の山稜に造るもの。 奈良盆地の墓は進出した臣下の墓。
>そして、下池山古墳は前方後方墳で天津神の一族の首長の墳形ではない
それは、蘇我氏系豪族の墓だろう。 @阿波 大型内行花文鏡が副葬されている墓は権威のある巫女でもよさそう
大和王権は「男王」が別にいたわけだから、墓の大きさ的にその方が妥当かな
同じ文化&政権地域の中では墓の大きさの比較も重要と思うし
それなりの大きさだと血筋は王権が絡むだろうけどね >>633
>そもそも、倭王家以外にも大きな墓を作ることを許容していたことになるね。
九州の感覚だと大きいと感じるのかも知れないが、下池山古墳も柳本大塚古墳も
皇統の墳墓と比べたらはっきり小さな格下の墓なんだよ
箸中山古墳 280メートル
西殿塚古墳 230メートル
王の墓はこれくらい
下池山古墳 120メートル
柳本大塚古墳 94メートル
ははっきり格下で、王家の権威を脅かすものではない
「王家以外に大きな墓を」とかはまるで問題にならない
明確な格差が付けられているんだよ
まあ、古墳時代に入ってからの伊都国首長の墓が
端山古墳 78.5メートル
築山古墳 60メートル
と比べれば、下池山古墳も大古墳に見えるんだろうけれど
ついでにその他の大王墓候補の大きさを、築造順に並べておくと
始まりの大王墓、箸中山古墳がいきなり280メートルもあって、その後の大王墓候補も
西殿塚(230m)→外山茶臼山(207m)→メスリ山(224m)→行燈山(242m)
→渋谷向山(300m)→五社神(267m)→宝来山(227m)→佐紀陵山(207m)
→佐紀石塚山(220m)→津堂城山(208m)→仲津山(290m)→百舌鳥陵山(365m)
→誉田御廟山(425m)→大仙(486m)→土師ニサンザイ(290m)→岡ミサンザイ(245m)
外山(桜井)茶臼山とメスリ山は、大王墓とは認めない人も多く、オオビコの系譜に連なるものと考える人も多い >>643
>大型内行花文鏡が副葬されている墓は権威のある巫女でもよさそう
女系相続した国津神系の女王(大王ではない)の墓とかかな。
しかし九州ならいざ知らず、大和まで来て国津神というのもイメージがわかない。
女系が強いのは古代の九州のイメージだ。 >>644
100メートル以下の天皇陵はないの?
あと、伊都国首長というのは畿内説の主張であり、九州説では伊都にいたのは倭王。 >>634
畿内では鏡副葬自体が急に始まるのだよ
思想が流入したのだろうね
破砕鏡ではないから、平原系の直接的な関与ではなさそう 思想が流入とか、過小評価だよね。
王権の象徴そのものが流入したなら、筑紫の倭王権によって畿内が征服されたんだよ。
今日でも鏡が三種の神器に含まれているくらいだから。 >>644
初期の天皇陵は、山の尾根や丘を利用して築かれた。
初代〜第五代天皇の陵墓の記事(『古事記』『日本書紀』『延喜式』)には
まず、初期の天皇陵は、神武陵が畝火山の北方白檮尾上、綏靖陵は衝田岡、懿徳陵は畝火山の真名子谷上、孝昭陵は掖上の博多山上とあるように、
山の尾根や自然の丘陵の一部を利用して築かれている。
これは、第十代崇神天皇とされる奈良県天理市の行燈山古墳や、第十二代景行天皇陵とされる天理市の渋谷向山古墳のような平地に築かれた古墳とは、地形(占地の観念)が明らかに相違している。
また、初期天皇の没年より古く、築造時期がそれより遡るとみられている石塚古墳や勝山古墳など、4基からなる纏向古墳群は、全長90〜100mの前方後円墳で、同時代の古墳としては突出した規模を有するが、
これらも奈良県桜井市の平野部(大田微高地)に築かれている。
初代〜第五代天皇の没年(陵)は、先後に王墓級の纏向古墳群と、天皇陵とされる行燈山古墳などに挟まれた年代に位置づけられるが、
山の尾根や丘陵を利用した初代〜第五代天皇の陵墓の築造地形は、以上のごとく奈良盆地の先後の古墳に連結しない。
初期の天皇陵が築かれた、畝火山や衝田岡、真名子谷は、はたして奈良盆地の湿地帯にあったのだろうか? 推して知るべし。 @阿波 >>648
王権の象徴だって説が否定されてるから
その主張もスカ 王権の象徴が気に入らないようだから
権威の象徴あたりにしとこうか? >>650
いつ誰がどう否定したんだ?
5ちゃんで畿内厨が騒いだだけ? >>636
>今でも鏡は神社で現役ですが何か
鏡は九州の占有物じゃないんだよ
もとから近畿でも出雲でも古い時代の鏡も出ている
その状況下で、伊都国の勢力が畿内に云々という、お鏡流東遷説を
唱えようとするなら、
・超大型内行花文鏡
・破鏡供献
の2点くらいしか、持ち出せるポイントがない
しかし、畿内にある超大型内向花文鏡は、きちんと正しい作図法で鏡面がデザインされていて
連弧文の描かれた内区の比率が小さい異端の平原1号墓出土鏡とは、系譜が異なるし、
それが確認された下池山古墳も柳本大塚古墳も、小さな王墓ではない古墳
また、破鏡の儀礼も桜井茶臼山古墳くらいしか主だった古墳では確認されていないし
葬送儀礼ではなく、青銅器のリサイクルのための破鏡だという説もある
超大型内行花文鏡も破鏡儀礼も、畿内というか古墳時代の埋葬文化に定着してないだろ?
神社の鏡とかに話をずらそうとしても、伊都国に王がいたって話にはならないよ >>646
>あと、伊都国首長というのは畿内説の主張であり、九州説では伊都にいたのは倭王。
すると、
端山古墳 78.5メートル
築山古墳 60メートル
が、倭王の墳墓なんだ ふーん
この二つは、三雲遺跡群の領域にあるから、
紛れもなく伊都国地域のトップの墓だよ
ずいぶん小さな倭王の墓だね
そして、お隣の、伊都国説では倭王ではない格下のはずの
奴国(中心集落は那珂遺跡群)の首長墓、那珂八幡古墳の75メートルと
どっこいの大きさだね
>>633のこの言葉をあげるよ
>そもそも、倭王家以外にも大きな墓を作ることを許容していたことになるね。 >>652
>王権の象徴が気に入らないようだから
>権威の象徴あたりにしとこうか?
つまり、持っていたところで、それが王の所在を意味する訳ではないというのは
認めるんだね!
つまり、「大型内行花文鏡が出たから平原一号墓の被葬者は倭王」、という主張は
引っ込めるんだww
一つ共通理解が進んだな >>654
王権の象徴だってのも5ちゃんで伊都厨が騒いだだけだろ
そして否定された >>648
>思想が流入とか、過小評価だよね。
>王権の象徴そのものが流入したなら、筑紫の倭王権によって畿内が征服されたんだよ。
>今日でも鏡が三種の神器に含まれているくらいだから。
ちがうよ
卑弥呼は共立で、各地の葬送儀礼が持ち寄られることで、古墳祭祀が形成され
その古墳を作る首長層での、共通の副葬品・威信材が剣鏡玉のセット(玉は少し遅れる)
もともとは、普通の副葬品
そのうち、皇統の威信材が、皇室の権威とともに長く伝世することで、神秘化し
神器とされるようになったんだよ >>640
>倭王ではないが元伊勢だから皇女がいたよ。
>後の大丹波国造や因幡国造につながる。
>天火明命を祖神とする天村雲以下初期天皇家の家系だよ。
皇女がいたのも倭姫世紀に拠れば4年間
そして、王位がそこにあった訳ではない
王権の象徴というなら、王のいないところにも存在する鏡について
きちんと説明しなければならないが、できていない
王も、王じゃない人も持っている鏡は、王権の象徴ではない
首長層共通の威信材、ということにしかならない >>656
>この二つは、三雲遺跡群の領域にあるから、
>紛れもなく伊都国地域のトップの墓だよ
墓域じゃなかった市街中心部に外来墓制の墓が出来ちゃうというのは、集落廃絶のしるしであり、外来支配者のマーキングじゃないのかな >>645
>しかし九州ならいざ知らず、大和まで来て国津神というのもイメージがわかない。
日本最大の前方後「方」墳も大和にあるんだよ
新山古墳(しんやま、広陵町大塚、前期、前方後方墳、137メートル) 佐治する男弟がいるんだから権威の場所に王もいるよ。 >>655
鏡の祭祀が畿内で始まる前は三輪山祭祀だったよ?しかも三輪山祭祀は一度中断した上で復活してる。 >>657
よくわからんけど
> 大型内行花文鏡が出たから平原一号墓の被葬者は倭王
とか言ってる人いた? >>660
元伊勢として籠神社にあった時は
王権は垂仁朝で交代してるから当時の王都は
山の辺の和邇だよ。今の天理市。 >>645
天孫族が父系で 国津神は皆女系。
みんな入り婿で権威は妻の家系にあった。 >>665
マンホールの蓋は王権の象徴じゃなくていいんだな?
まあ、割ったんだから当然だが
w >>659
>その古墳を作る首長層での、共通の副葬品・威信材が剣鏡玉のセット(玉は少し遅れる)
玉は遅れるという根拠は?
吉武高木の時点で揃っているけど?
三種の神器の様式は紀元前の筑紫ですでに確立されていた。 >>660
>首長層共通の威信材、ということにしかならない
一般名詞で誤魔化すなよ。
筑紫を源流とする天津神の威信財だろ。 >>656
>そして、お隣の、伊都国説では倭王ではない格下のはずの
>奴国(中心集落は那珂遺跡群)の首長墓、那珂八幡古墳の75メートルと
伊都国説は卑弥呼がいたのが伊都国であり、肩書きとしては倭王だよ。
筑紫全域が支配下だから、とうぜん奴国にいたのも王族だよ。
伊都国だけの王というのは、畿内説側のこじつけ。 >>659
>卑弥呼は共立で、各地の葬送儀礼が持ち寄られることで、古墳祭祀が形成され
>その古墳を作る首長層での、共通の副葬品・威信材が剣鏡玉のセット(玉は少し遅れる)
三種の神器は福岡では紀元前には完成しているけど? >>657
>つまり、持っていたところで、それが王の所在を意味する訳ではないというのは
>認めるんだね!
王族なら持っていた可能性が高いからね。
同時代なら最大の鏡を持っていたのが大王、つまり倭国王だよ。
2〜3世紀なら平原遺跡の主だな。
その頃の倭国王の名前はなんだっけ?
ああ、そうそう!
卑弥呼だよね! >>674
つまり東遷説は廃案
考古学的に否定されている >>672
>筑紫全域が支配下だから、とうぜん奴国にいたのも王族だよ。
「大勢いる王族」と「ただ一人の王」を区別してくれ
王権のシンボルという場合は、
「ただ一人の王」の地位に付随するものをいうのが普通
王権のシンボルは、本来、複数あるものではない >>671
>大和にいた国津神って誰?
大和には出雲という地名もあるんだよ >>670
>一般名詞で誤魔化すなよ。
いや? ごまかしじゃないよ?
ごまかしだと思うようなら>>670の基礎知識が足りない
雄略紀に
別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、
使倭子連(連、未詳何姓人)奉『八咫鏡』於大伴大連而祈請
曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」是以、
大連爲奏於天皇使留居于角國。
とあるように、皇統と関係ない鏡が『八咫鏡』と呼ばれている例もある
普通名詞としての『八咫鏡』ってのがあるんだよ >>668
えっ
ちょっとスレ違いにも程がある
>>1を100ペン読み返す刑に処す。 >>682
>雄略朝では大伴氏は特に皇室に近かった影響だろう
ということは、皇室と血縁がなくても、
ちょっと関係が近ければ持っていていいってことだな
平原1号墓の主も、大和の皇室とちょっと関係が近かったのかもね! >>681
>筑紫にも出雲あるよ
つまり、筑紫にも大和にも、地祇系一族の墓があっても何もおかしくないってことだ
それくらい、弥生時代から列島内の交流、人の移動は盛んだったんだよ
それで、大国主が宗像三神の多紀理毘売命との間に子をなしていたり、
スセリ姫との夫婦喧嘩の後大和に家出しようとしたり、という説話が
書かれている訳だ
弥生末期に、他との交流のない九州限定の倭国を考えるなどというのは
絵空事 >>683
大伴氏は神武の代から皇室に近いが
大伴氏から皇妃になった人物はいない。 共立された卑弥呼と親魏倭王の卑弥呼は別人という趣旨のスレで、
しかも>>1には卑弥呼前代と書かれている
共立された卑弥呼は女王だが、前代は女王じゃないだろ。
共立される前から女王なら、共立じゃなくて支配領域が広がったわけで共立とはならんよ。 >>677
>王権のシンボルは、本来、複数あるものではない
根拠なし。
王族が身分の証として持っていた可能性がある。 >>682
>雄略朝では大伴氏は特に皇室に近かった影響だろう
でも、雄略紀のエピソードは、皇室からの下賜鏡じゃなくて、
皇族でもない小鹿火宿禰という豪族(紀氏)が、これも皇族では
ない大伴大連(室屋)に贈ったという話だよ
紀氏が『八咫鏡』を持ってたってことだけど、
紀氏も皇室に近かったことにするのかい? >>688
>王族が身分の証として持っていた可能性がある。
そういうのは、世間一般では「王権のシンボル」とは言わないんだ
ただの身分証だったら、それこそ王族がいるところならどこでも出るし、
それが出たからといって、
『「倭王のしるし」であり伊都国に倭王がいたことの証明』
なんていう話にはならないな
伊都国説の最重要根拠の一つが、伊都国説の人によって否定・排除されましたとさw
もう、伊都国説終了でよくね? 筑紫の鏡文化が畿内であまりぱっとしなかったのは、やはり独自の政治勢力があったんでしょうね。
大田田根子を探す羽目になったりしてますもの。 >>690
>もう、伊都国説終了でよくね?
終了も何も、伊都国説なんて始まってすらいないだろww >>689
紀氏は孝元天皇以下の皇族よ?
橡姫しか皇妃になってないけど。
仁徳朝以降の雄略朝まで対半島政策の一翼だったし、東北政策でも将軍職としての派遣されてるくらい >>685
>弥生末期に、他との交流のない九州限定の倭国を考えるなどというのは
交流がないなんて誰が言った?
畿内説はでっち上げが得意だね。
筑紫が頂点で倭国として君臨していただけで、もちろんあちこちに侵攻している。 鏡を持つ王族(皇族)どうしの中の序列として、最大の鏡である八咫の鏡を持っていたのが倭を代表する倭国王だよね。
3世紀なら倭国女王卑弥呼だな。
八咫の鏡があった筑紫にいたのだろう。 >>695
3世紀には平原の鏡はもう割られて土の中だよ >>696
平原遺跡には魏晋代の流行の耳璫があったので、3世紀だよ。 >>697
魏晋代の流行の耳璫って、もう根拠ないだろ 畿内説がいう「伊都国説」がひどく的外れで畿内説を前提としたものだから、批判も的外れでお話にならないな。 >>699
こりゃまた具体性ゼロな投稿だなあ
ただの悪口? 九州説(伊都国説)が想定していない「伊都国王」を想定した畿内説が話をごちゃ混ぜにして荒らしているようなものだよ。
この数十レスが不毛なのはそのせい。
そもそも伊都国に伊都国だけの名無しの王がいたと想定するのは畿内説だろ。
それを批判して九州説を批判したつもりでいるのだから、話が噛み合わないんだよ。 >>693
>紀氏は孝元天皇以下の皇族よ?
>橡姫しか皇妃になってないけど。
皇別氏族というだけで、皇族ではない
族祖が皇族から出ているというだけで、親王でも王でもない
その範囲まで皇族というなら、神別氏族以外は全て皇族になってしまう
それでは、鏡などのレガリアが王権のシンボルなどという言説は、
ほぼ一切合財意味を失うことになる
王権のシンボルは、一人の王だけに帰属するもので、大勢の王族が
それぞれに持つようなものは、シンボルというには弱い >>699
畿内説は「伊都国説」を主張してない件について どこかに知っている人がいるんじゃないの?
当時の中国から渡来していた人々もいるんだから
いまでは普通の日本人になっているでしょ >>694
>筑紫が頂点で倭国として君臨していただけで、もちろんあちこちに侵攻している。
侵攻しているという根拠は?
実際には3世紀時点で、吉備や出雲や丹波や倭で、ただ一人の首長のために
巨大な墳丘墓を作るだけの地域王権の伸長が見られるのに対し、北部九州では
伊都国でも奴国でも、権力集中を示すような王宮も王墓も検出されていない
交流のある倭国内に、より大きな権力者が確認できる時点で、北部九州の首長が
倭国王に共立される余地はない
実際、北部九州の中心である比恵・那珂遺跡群では、畿内の出先として畿内様式甕の
九州での生産地となっている
こうしたことを全て無視して、より大きな権力の所在とは無関係で、九州内完結の
倭国を想定しない限り、九州に倭王を置くのは無理な話だ >>701
>そもそも伊都国に伊都国だけの名無しの王がいたと想定するのは畿内説だろ。
>それを批判して九州説を批判したつもりでいるのだ・・・
イミフ
自分の想定を批判するわけない >>701
>そもそも伊都国に伊都国だけの名無しの王がいたと想定するのは畿内説だろ。
>それを批判して九州説を批判したつもりでいるのだから、話が噛み合わないんだよ。
伊都国に王がいるというのが、伊都国説の基盤だろ?
そのために、平原一号墓出土の、大陸舶載鏡以来の作図法を無視した、
破鏡供献で墳丘の土中にバラ撒かれていた内行花文鏡を、伊勢の御神鏡の
「八咫鏡」という名称を流用してまで、卑弥呼の鏡に違いないって
主張してるんじゃないのか? >>695
>鏡を持つ王族(皇族)どうしの中の序列として、最大の鏡である八咫の鏡を持っていたのが倭を代表する倭国王だよね。
鏡の序列以上に、前方後円墳体制では墳丘サイズの方が、より直接的に序列を示しているよ
墳丘サイズが12×8メートルの方形周溝墓がどうしたって?
径百歩はどこを計るんだ?
しかも、周溝が埋まる頃には墳丘内にまで土壙墓が作られているような有様
そんな倭王墓ってのは、想定外だわ >>709のいってることと関連するけど、格差による等級がないと秩序になっていない
かつての北部九州の墓には大型漢鏡複数所持者、中型止まり、小型鏡単数など格差があって、それが国王とまでは言わないが「クニ」の「オウ」の存在を示していた
弥生後期後半過ぎには、それがない
巨大鏡の持ち主がいても、そこに社会秩序がなければ最悪ただの変な人なわけ そろそろスレチを察せよ。
伊都国説は別スレの話だからな。似てるが違うぞ
詳しくは>>1 >>702
>王権のシンボルは、一人の王だけに帰属するもので、大勢の王族が
内行花文鏡の出土数からすると、王族がそれぞれにその証として内行花文鏡を与えられていたのだろうね。
だからこそ、最大の八咫の鏡の意味がある。 >>705
>侵攻しているという根拠は?
記紀
>実際には3世紀時点で、吉備や出雲や丹波や倭で、ただ一人の首長のために
ただ一人という根拠はない。
そしてそれはおそらく筑紫倭国からの皇別。
>伊都国でも奴国でも、権力集中を示すような王宮も王墓も検出されていない
王墓はたくさんあるじゃないか。
>実際、北部九州の中心である比恵・那珂遺跡群では、畿内の出先として畿内様式甕の
畿内から徴発された人たちが生産に従事していたんだろう。 >>707
>伊都国に王がいるというのが、伊都国説の基盤だろ?
倭国の王都が伊都国だという説だね。 >>709
>鏡の序列以上に、前方後円墳体制では墳丘サイズの方が、より直接的に序列を示しているよ
根拠なし。
墓の大きさが序列を示すなんて、記紀にも書かれていない。
しかし鏡については、八咫の鏡が天皇位の象徴であるとされてきた。 >>710
>弥生後期後半過ぎには、それがない
>巨大鏡の持ち主がいても、そこに社会秩序がなければ最悪ただの変な人なわけ
ないという根拠は?
畿内を含めて、多数の内行花文鏡が各地から出ているではないか。
それらはすべて、八咫の鏡を持つ筑紫の女王卑弥呼を頂点とする序列に組み込まれていると考えるべきだね。 >>702
藤原宮子が出るまで臣下が皇妃になった例はイワノヒメしかいない。
雄略朝の話なのに平安時代の話をしたらいかんわ。平安時代には皇別氏族になってるけどね
物部中臣三輪に隠れて、表立ってみえてない印象があるかもしれんが、仁徳朝から雄略朝の重要氏族よ>紀氏
そんなだからザラコク氏に畿内などないって余計なツッコミうけるんだよ。 お鏡さんが出てきたときのために再掲
>>589
ごまかしてるけど、「丈夫」というのが「成人男子」であり、
「丈」が成人男子の平均身長だってのは理解したのか?
平均身長は凡夫であって、丈夫じゃないとか言ってたのは撤回するのか? >>713
>王墓はたくさんあるじゃないか。
どこに? >>718
>仁徳朝から雄略朝の重要氏族よ>紀氏
重要氏族であって、皇族じゃないだろ?>紀氏および小鹿火宿禰
雄略紀の「八咫鏡」は、皇統のレガリアとは別物の、
普通名詞としての「八咫鏡」 >>713
>>侵攻しているという根拠は?
>記紀
正直、これをまじめに言うやつがいるとは思わなかったよ
神武の東征は根拠にするけれど、神武の即位年代はウソって言うんだろ?
本当に都合のよいチェリーピッカーだことw 応神天皇元年を390年と考え、そこからの平均在位を計算できる。
平均在位と言っても短すぎるのも長すぎるのも、
正確な数値が出ないと思われるので、
30代を基準に25代〜35代をランダムに採って見た。
・25代平均 応神天皇390年〜39代弘文天皇没672年 11,28年
・28代平均 応神天皇390年〜42代文武天皇没707年 11,32年
・30代平均 応神天皇390年〜44代元正天皇没724年 11,13年
・33代平均 応神天皇390年〜47代淳仁天皇没764年 11,33年
・35代平均 応神天皇390年〜49代光仁天皇没781年 11,17年
11年弱が平均在位。
さらに古くなると若干在位が短くなると考え、
「11年」で計算してみる。
ただし神功皇后は確実な一代と見なし、15代遡ってみる。
11年×15代=165年。
応神天皇390年ー165年=225年。
神武元年は3世紀前半。
卑弥呼の時代である。 大体さ、伊都国説、九州説の人は「八咫の鏡」って書くのが多いんだよね
本来は「八咫鏡」と書いて「やたのかがみ」と読むものなんだが
平原1号墓出土鏡を「八咫鏡」にしようと躍起になっているが、そのわりに
そもそもの「八咫鏡」に対する崇敬の念が足りないんだと思う >>726
>応神天皇元年を390年と考え
これはどこから出てきたんだ? >>726
>30代を基準に25代〜35代をランダムに採って見た。
>・25代平均 応神天皇390年〜39代弘文天皇没672年 11,28年
>・28代平均 応神天皇390年〜42代文武天皇没707年 11,32年
>・30代平均 応神天皇390年〜44代元正天皇没724年 11,13年
>・33代平均 応神天皇390年〜47代淳仁天皇没764年 11,33年
>・35代平均 応神天皇390年〜49代光仁天皇没781年 11,17年
これ、無作為抽出をしていないから、全然ランダムにとったデータとは言えないよ
35代平均の値でも、応神から25代のデータは共有しているから、ここに上げた数値が
大きく動かないのは当然のこと
統計処理のやり方として、まったくなってないし、ほぼ意味がない >>707
そら魏志倭人伝に伊都国が首都であるって書かれてるからな >>707
>伊都国に王がいるというのが、伊都国説の基盤だろ?
伊都国に倭王がいる、というのが伊都国説。
魏志倭人伝にある伊都国にいる王は倭王ではない王だというのが畿内説。 畿内説の説明は回りくどいな。
紹介するだけでも苦しいよ。
畿内説は無理に無理を重ねた、詐欺師の論法だからな。
真似しにくい。 >>724
紀氏
記紀などの所伝によれば、孝元天皇の子孫で、武内宿禰の子である紀角を始祖とするが、この2代はともに母方が紀伊国造家の出自であったとされている。
皇別に分類される。 応神天皇 wikiより
学術的に確定しているわけではないが、4世紀末から5世紀初頭に実在した可能性の高い天皇と見られている。
390年と仮定しても、大きな間違いではないと思う。 >>730
>単にかな漢字変換の都合だと思う。
かな漢字変換した時に、おかしいと感じない程度の感性ってことだろ?
三種の神器に対する崇敬の念が足りないんだよ >>731
>そら魏志倭人伝に伊都国が首都であるって書かれてるからな
そんな誤読、無理読みを振り回されてもww ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています