伊都国東遷スレ 6
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
1、魏志にある邪馬台国は「ヤマト」であり、倭王権の基礎となった。
2、ただし、その女王、「ヒミコ(日巫女)」とは伊都国の関係者である。
3、平原一号墓の巫女王は、東遷前の先代のものであり、銅鏡による太陽祭祀を主宰する「日巫女」の墓として、最もふさわしい。
<ポイント>
・記紀の伝承がおおむね歴史的事実の反映であることが視野に入ってくる
・唐古、鍵と纏向の間にある文化的断絶(銅鐸祭祀断絶と銅鏡祭祀開始)を伊都国勢力の進入から説明できる
柳田康雄先生の考え方(仮説)に基本的に一致しています。
<参考 URL >
歴史秘話ヒストリア 「女王卑弥呼はどこから来た?」
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「伊都国を掘る」2000年
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784479840541
柳田康雄 「 弥生王権論 伊都国からヤマト国へ」 2016年
http://www.city.itoshima.lg.jp/m043/010/040/070/030/kankotosyo.html >>657
>つまり、持っていたところで、それが王の所在を意味する訳ではないというのは
>認めるんだね!
王族なら持っていた可能性が高いからね。
同時代なら最大の鏡を持っていたのが大王、つまり倭国王だよ。
2〜3世紀なら平原遺跡の主だな。
その頃の倭国王の名前はなんだっけ?
ああ、そうそう!
卑弥呼だよね! >>674
つまり東遷説は廃案
考古学的に否定されている >>672
>筑紫全域が支配下だから、とうぜん奴国にいたのも王族だよ。
「大勢いる王族」と「ただ一人の王」を区別してくれ
王権のシンボルという場合は、
「ただ一人の王」の地位に付随するものをいうのが普通
王権のシンボルは、本来、複数あるものではない >>671
>大和にいた国津神って誰?
大和には出雲という地名もあるんだよ >>670
>一般名詞で誤魔化すなよ。
いや? ごまかしじゃないよ?
ごまかしだと思うようなら>>670の基礎知識が足りない
雄略紀に
別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、
使倭子連(連、未詳何姓人)奉『八咫鏡』於大伴大連而祈請
曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」是以、
大連爲奏於天皇使留居于角國。
とあるように、皇統と関係ない鏡が『八咫鏡』と呼ばれている例もある
普通名詞としての『八咫鏡』ってのがあるんだよ >>668
えっ
ちょっとスレ違いにも程がある
>>1を100ペン読み返す刑に処す。 >>682
>雄略朝では大伴氏は特に皇室に近かった影響だろう
ということは、皇室と血縁がなくても、
ちょっと関係が近ければ持っていていいってことだな
平原1号墓の主も、大和の皇室とちょっと関係が近かったのかもね! >>681
>筑紫にも出雲あるよ
つまり、筑紫にも大和にも、地祇系一族の墓があっても何もおかしくないってことだ
それくらい、弥生時代から列島内の交流、人の移動は盛んだったんだよ
それで、大国主が宗像三神の多紀理毘売命との間に子をなしていたり、
スセリ姫との夫婦喧嘩の後大和に家出しようとしたり、という説話が
書かれている訳だ
弥生末期に、他との交流のない九州限定の倭国を考えるなどというのは
絵空事 >>683
大伴氏は神武の代から皇室に近いが
大伴氏から皇妃になった人物はいない。 共立された卑弥呼と親魏倭王の卑弥呼は別人という趣旨のスレで、
しかも>>1には卑弥呼前代と書かれている
共立された卑弥呼は女王だが、前代は女王じゃないだろ。
共立される前から女王なら、共立じゃなくて支配領域が広がったわけで共立とはならんよ。 >>677
>王権のシンボルは、本来、複数あるものではない
根拠なし。
王族が身分の証として持っていた可能性がある。 >>682
>雄略朝では大伴氏は特に皇室に近かった影響だろう
でも、雄略紀のエピソードは、皇室からの下賜鏡じゃなくて、
皇族でもない小鹿火宿禰という豪族(紀氏)が、これも皇族では
ない大伴大連(室屋)に贈ったという話だよ
紀氏が『八咫鏡』を持ってたってことだけど、
紀氏も皇室に近かったことにするのかい? >>688
>王族が身分の証として持っていた可能性がある。
そういうのは、世間一般では「王権のシンボル」とは言わないんだ
ただの身分証だったら、それこそ王族がいるところならどこでも出るし、
それが出たからといって、
『「倭王のしるし」であり伊都国に倭王がいたことの証明』
なんていう話にはならないな
伊都国説の最重要根拠の一つが、伊都国説の人によって否定・排除されましたとさw
もう、伊都国説終了でよくね? 筑紫の鏡文化が畿内であまりぱっとしなかったのは、やはり独自の政治勢力があったんでしょうね。
大田田根子を探す羽目になったりしてますもの。 >>690
>もう、伊都国説終了でよくね?
終了も何も、伊都国説なんて始まってすらいないだろww >>689
紀氏は孝元天皇以下の皇族よ?
橡姫しか皇妃になってないけど。
仁徳朝以降の雄略朝まで対半島政策の一翼だったし、東北政策でも将軍職としての派遣されてるくらい >>685
>弥生末期に、他との交流のない九州限定の倭国を考えるなどというのは
交流がないなんて誰が言った?
畿内説はでっち上げが得意だね。
筑紫が頂点で倭国として君臨していただけで、もちろんあちこちに侵攻している。 鏡を持つ王族(皇族)どうしの中の序列として、最大の鏡である八咫の鏡を持っていたのが倭を代表する倭国王だよね。
3世紀なら倭国女王卑弥呼だな。
八咫の鏡があった筑紫にいたのだろう。 >>695
3世紀には平原の鏡はもう割られて土の中だよ >>696
平原遺跡には魏晋代の流行の耳璫があったので、3世紀だよ。 >>697
魏晋代の流行の耳璫って、もう根拠ないだろ 畿内説がいう「伊都国説」がひどく的外れで畿内説を前提としたものだから、批判も的外れでお話にならないな。 >>699
こりゃまた具体性ゼロな投稿だなあ
ただの悪口? 九州説(伊都国説)が想定していない「伊都国王」を想定した畿内説が話をごちゃ混ぜにして荒らしているようなものだよ。
この数十レスが不毛なのはそのせい。
そもそも伊都国に伊都国だけの名無しの王がいたと想定するのは畿内説だろ。
それを批判して九州説を批判したつもりでいるのだから、話が噛み合わないんだよ。 >>693
>紀氏は孝元天皇以下の皇族よ?
>橡姫しか皇妃になってないけど。
皇別氏族というだけで、皇族ではない
族祖が皇族から出ているというだけで、親王でも王でもない
その範囲まで皇族というなら、神別氏族以外は全て皇族になってしまう
それでは、鏡などのレガリアが王権のシンボルなどという言説は、
ほぼ一切合財意味を失うことになる
王権のシンボルは、一人の王だけに帰属するもので、大勢の王族が
それぞれに持つようなものは、シンボルというには弱い >>699
畿内説は「伊都国説」を主張してない件について どこかに知っている人がいるんじゃないの?
当時の中国から渡来していた人々もいるんだから
いまでは普通の日本人になっているでしょ >>694
>筑紫が頂点で倭国として君臨していただけで、もちろんあちこちに侵攻している。
侵攻しているという根拠は?
実際には3世紀時点で、吉備や出雲や丹波や倭で、ただ一人の首長のために
巨大な墳丘墓を作るだけの地域王権の伸長が見られるのに対し、北部九州では
伊都国でも奴国でも、権力集中を示すような王宮も王墓も検出されていない
交流のある倭国内に、より大きな権力者が確認できる時点で、北部九州の首長が
倭国王に共立される余地はない
実際、北部九州の中心である比恵・那珂遺跡群では、畿内の出先として畿内様式甕の
九州での生産地となっている
こうしたことを全て無視して、より大きな権力の所在とは無関係で、九州内完結の
倭国を想定しない限り、九州に倭王を置くのは無理な話だ >>701
>そもそも伊都国に伊都国だけの名無しの王がいたと想定するのは畿内説だろ。
>それを批判して九州説を批判したつもりでいるのだ・・・
イミフ
自分の想定を批判するわけない >>701
>そもそも伊都国に伊都国だけの名無しの王がいたと想定するのは畿内説だろ。
>それを批判して九州説を批判したつもりでいるのだから、話が噛み合わないんだよ。
伊都国に王がいるというのが、伊都国説の基盤だろ?
そのために、平原一号墓出土の、大陸舶載鏡以来の作図法を無視した、
破鏡供献で墳丘の土中にバラ撒かれていた内行花文鏡を、伊勢の御神鏡の
「八咫鏡」という名称を流用してまで、卑弥呼の鏡に違いないって
主張してるんじゃないのか? >>695
>鏡を持つ王族(皇族)どうしの中の序列として、最大の鏡である八咫の鏡を持っていたのが倭を代表する倭国王だよね。
鏡の序列以上に、前方後円墳体制では墳丘サイズの方が、より直接的に序列を示しているよ
墳丘サイズが12×8メートルの方形周溝墓がどうしたって?
径百歩はどこを計るんだ?
しかも、周溝が埋まる頃には墳丘内にまで土壙墓が作られているような有様
そんな倭王墓ってのは、想定外だわ >>709のいってることと関連するけど、格差による等級がないと秩序になっていない
かつての北部九州の墓には大型漢鏡複数所持者、中型止まり、小型鏡単数など格差があって、それが国王とまでは言わないが「クニ」の「オウ」の存在を示していた
弥生後期後半過ぎには、それがない
巨大鏡の持ち主がいても、そこに社会秩序がなければ最悪ただの変な人なわけ そろそろスレチを察せよ。
伊都国説は別スレの話だからな。似てるが違うぞ
詳しくは>>1 >>702
>王権のシンボルは、一人の王だけに帰属するもので、大勢の王族が
内行花文鏡の出土数からすると、王族がそれぞれにその証として内行花文鏡を与えられていたのだろうね。
だからこそ、最大の八咫の鏡の意味がある。 >>705
>侵攻しているという根拠は?
記紀
>実際には3世紀時点で、吉備や出雲や丹波や倭で、ただ一人の首長のために
ただ一人という根拠はない。
そしてそれはおそらく筑紫倭国からの皇別。
>伊都国でも奴国でも、権力集中を示すような王宮も王墓も検出されていない
王墓はたくさんあるじゃないか。
>実際、北部九州の中心である比恵・那珂遺跡群では、畿内の出先として畿内様式甕の
畿内から徴発された人たちが生産に従事していたんだろう。 >>707
>伊都国に王がいるというのが、伊都国説の基盤だろ?
倭国の王都が伊都国だという説だね。 >>709
>鏡の序列以上に、前方後円墳体制では墳丘サイズの方が、より直接的に序列を示しているよ
根拠なし。
墓の大きさが序列を示すなんて、記紀にも書かれていない。
しかし鏡については、八咫の鏡が天皇位の象徴であるとされてきた。 >>710
>弥生後期後半過ぎには、それがない
>巨大鏡の持ち主がいても、そこに社会秩序がなければ最悪ただの変な人なわけ
ないという根拠は?
畿内を含めて、多数の内行花文鏡が各地から出ているではないか。
それらはすべて、八咫の鏡を持つ筑紫の女王卑弥呼を頂点とする序列に組み込まれていると考えるべきだね。 >>702
藤原宮子が出るまで臣下が皇妃になった例はイワノヒメしかいない。
雄略朝の話なのに平安時代の話をしたらいかんわ。平安時代には皇別氏族になってるけどね
物部中臣三輪に隠れて、表立ってみえてない印象があるかもしれんが、仁徳朝から雄略朝の重要氏族よ>紀氏
そんなだからザラコク氏に畿内などないって余計なツッコミうけるんだよ。 お鏡さんが出てきたときのために再掲
>>589
ごまかしてるけど、「丈夫」というのが「成人男子」であり、
「丈」が成人男子の平均身長だってのは理解したのか?
平均身長は凡夫であって、丈夫じゃないとか言ってたのは撤回するのか? >>713
>王墓はたくさんあるじゃないか。
どこに? >>718
>仁徳朝から雄略朝の重要氏族よ>紀氏
重要氏族であって、皇族じゃないだろ?>紀氏および小鹿火宿禰
雄略紀の「八咫鏡」は、皇統のレガリアとは別物の、
普通名詞としての「八咫鏡」 >>713
>>侵攻しているという根拠は?
>記紀
正直、これをまじめに言うやつがいるとは思わなかったよ
神武の東征は根拠にするけれど、神武の即位年代はウソって言うんだろ?
本当に都合のよいチェリーピッカーだことw 応神天皇元年を390年と考え、そこからの平均在位を計算できる。
平均在位と言っても短すぎるのも長すぎるのも、
正確な数値が出ないと思われるので、
30代を基準に25代〜35代をランダムに採って見た。
・25代平均 応神天皇390年〜39代弘文天皇没672年 11,28年
・28代平均 応神天皇390年〜42代文武天皇没707年 11,32年
・30代平均 応神天皇390年〜44代元正天皇没724年 11,13年
・33代平均 応神天皇390年〜47代淳仁天皇没764年 11,33年
・35代平均 応神天皇390年〜49代光仁天皇没781年 11,17年
11年弱が平均在位。
さらに古くなると若干在位が短くなると考え、
「11年」で計算してみる。
ただし神功皇后は確実な一代と見なし、15代遡ってみる。
11年×15代=165年。
応神天皇390年ー165年=225年。
神武元年は3世紀前半。
卑弥呼の時代である。 大体さ、伊都国説、九州説の人は「八咫の鏡」って書くのが多いんだよね
本来は「八咫鏡」と書いて「やたのかがみ」と読むものなんだが
平原1号墓出土鏡を「八咫鏡」にしようと躍起になっているが、そのわりに
そもそもの「八咫鏡」に対する崇敬の念が足りないんだと思う >>726
>応神天皇元年を390年と考え
これはどこから出てきたんだ? >>726
>30代を基準に25代〜35代をランダムに採って見た。
>・25代平均 応神天皇390年〜39代弘文天皇没672年 11,28年
>・28代平均 応神天皇390年〜42代文武天皇没707年 11,32年
>・30代平均 応神天皇390年〜44代元正天皇没724年 11,13年
>・33代平均 応神天皇390年〜47代淳仁天皇没764年 11,33年
>・35代平均 応神天皇390年〜49代光仁天皇没781年 11,17年
これ、無作為抽出をしていないから、全然ランダムにとったデータとは言えないよ
35代平均の値でも、応神から25代のデータは共有しているから、ここに上げた数値が
大きく動かないのは当然のこと
統計処理のやり方として、まったくなってないし、ほぼ意味がない >>707
そら魏志倭人伝に伊都国が首都であるって書かれてるからな >>707
>伊都国に王がいるというのが、伊都国説の基盤だろ?
伊都国に倭王がいる、というのが伊都国説。
魏志倭人伝にある伊都国にいる王は倭王ではない王だというのが畿内説。 畿内説の説明は回りくどいな。
紹介するだけでも苦しいよ。
畿内説は無理に無理を重ねた、詐欺師の論法だからな。
真似しにくい。 >>724
紀氏
記紀などの所伝によれば、孝元天皇の子孫で、武内宿禰の子である紀角を始祖とするが、この2代はともに母方が紀伊国造家の出自であったとされている。
皇別に分類される。 応神天皇 wikiより
学術的に確定しているわけではないが、4世紀末から5世紀初頭に実在した可能性の高い天皇と見られている。
390年と仮定しても、大きな間違いではないと思う。 >>730
>単にかな漢字変換の都合だと思う。
かな漢字変換した時に、おかしいと感じない程度の感性ってことだろ?
三種の神器に対する崇敬の念が足りないんだよ >>731
>そら魏志倭人伝に伊都国が首都であるって書かれてるからな
そんな誤読、無理読みを振り回されてもww 新撰姓氏録 wikiより
皇別
筆頭にあげられた「皇別」の姓氏とは、神武天皇以降、天皇家から分かれた氏族のことで、335氏が挙げられている。
代表的なものは、清原、橘、源などがある。
皇別氏族は、さらに、皇親(「真人」の姓(カバネ)をもつ氏族)とそれ以外の姓をもつ氏族に分かれる。
神別
「神別」の姓氏とは、神武天皇以前の神代に別れ、あるいは生じた氏族のことで、404氏が挙げられている。
神別姓氏は、さらに、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天孫降臨した際に付き随った神々の子孫を「天神」とし、瓊瓊杵尊から3代の間に分かれた子孫を「天孫」とし、天孫降臨以前から土着していた神々の子孫を「地祇」として3分類している。
「天神」に分類された姓氏は藤原、大中臣など246氏、「天孫」は尾張、出雲など128氏(隼人系の氏族は天孫に分類される。)、「地祇」は安曇、弓削など30氏がある。 >>733
それ、証拠でもあるの?
なければ、中傷になるよ >>742
どちらがシンプルかな?
伊都国に倭王がいる、というのが伊都国説。
魏志倭人伝にある伊都国にいる王は倭王ではない王だというのが畿内説。 >>724
>重要氏族であって、皇族じゃないだろ?>紀氏および小鹿火宿禰
仁徳朝において、皇族と皇別がどのように区別されたのか、ご教授ください。 >>740
誤読だという根拠は?
ないなら中傷とみなしてもいい? >>740
誤読もなにもまんま書かれてるんだが
まあ、日本語もまともに理解出来ない池沼に中国語が分かるはずも無いか >>743
>どちらがシンプルかな?
伊都国と邪馬台国が別に書いてあるのに、それを同じ場所だと強弁することの、
どこがシンプルなんだかww >>745
>誤読だという根拠は?
始度一海千餘里 至對海國
又南渡一海千餘里名曰瀚海 至一大國
又渡一海千餘里 至末廬國
東南陸行五百里 到伊都國
東南至奴國百里
東行至不彌國百里
南至投馬國水行二十日
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
という旅程で、伊都国が邪馬台国だというのが誤読でない理由がむしろ聞きたいww
別の国だって書いてあるじゃないかww
>ないなら中傷とみなしてもいい?
中傷って言葉が好きなんだねww >>746
>誤読もなにもまんま書かれてるんだが
それが、無理読みの誤読といわれる所以w >>742
>なければ、中傷になるよ
議論をしたら中傷とかw
中傷という言葉が好きなんだねw >>724
>重要氏族であって、皇族じゃないだろ?>紀氏および小鹿火宿禰
仁徳朝において、皇族と皇別がどのように区別されたのか、ご教授ください。 >>748
伊都国も邪馬台国も女王国(倭国)の中の一国
女王国の首都が伊都国
そう書かれてるだろうが 伊都厨は結論を言い張るだけで、理由をなにも説明出来ないな
トンデモのあかしだ このスレに入り浸っている畿内説の人は独自の歴史観を持っているみたいだね。
記紀に疑問を呈するのはまだいいけど、平安時代の新撰姓氏録までガン無視だなんて、どういう歴史観を持っているのか。
いや、どんな歴史を作り上げ(でっち上げ)ようとしているんだろう。 >>755
魏志倭人伝に決まってるじゃん
池沼なのかな 中国人が、都でもない国邑に都という文字を当てるだろうか?
音で当てるだけなら他にも文字はいくらでもあるはず。
魏志倭人伝は、伊都が倭の都という前提で書かれているのではないだろうか。
初めて読む人でも、都という字を見ればその意味はわかるだろうし。 >>759
それは同意
ただし、過去の都であったとしてもおかしくはない
私は伊都説押しだけどね >>752
>仁徳朝において、皇族と皇別がどのように区別されたのか、ご教授ください。
仁徳朝において、というのは立論として無理だね
仁徳朝に書かれた文書はないのだから
遠く八世紀に書かれた記紀より以前のことは知りようがない
分かるのは記紀の編集方針においてどうだったか、までだね
基本的には各天皇記紀の、子女とその後裔氏族の記載から判断することになる
孝元紀に「彥太忍信命、是武內宿禰之祖父也」とあり、
孝元記に「此建內宿禰之子、幷九。男七、女二。
波多八代宿禰者、波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君之祖也。
次許勢小柄宿禰者、許勢臣、雀部臣、輕部臣之祖也。
次蘇賀石河宿禰者、蘇我臣、川邊臣、田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣等之祖也。
次平群都久宿禰者、平群臣、佐和良臣、馬御樴連等祖也。
次木角宿禰者、木臣、都奴臣、坂本臣之祖。
次久米能摩伊刀比賣、次怒能伊呂比賣、次葛城長江曾都毘古者、玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣等之祖也。
又若子宿禰、江野財臣之祖。」とある
まあ、単純に線引きすれば、彥太忍信命までが皇族、
武内宿禰以下、○○臣之祖と書いてある部分から先は皇別氏族でいいだろう >>754
>あんたは実行が好きなんだね
あんた呼ばわりされる筋合いはないんだが?
実行って何が言いたいんだろうね?
>>754が仲間とつるんでよくやるようなことを想定しているのかな? >>758
>魏志倭人伝に決まってるじゃん
魏志倭人伝を普通の人が呼んでもそんな記述は見当たらないんだが、
「魏志倭人伝のどこに」書かれているのかを訊かれているんだよ?
日本語が不自由な人ですか?
>池沼なのかな
こういうのは、中傷にあたるの? それとも、実行にあたるのかな? >>727
ごめん、ちょっと笑った
突っ込むところそこ??と
いや、いいんだけどね
面白いから >>759
>中国人が、都でもない国邑に都という文字を当てるだろうか?
魏志倭人伝の餘旁國の中にも、
次有「都」支國、次有好古「都」國
と、都という文字を当てているね?
これらの国も都であって、卑弥呼がいると主張するのかな?
簡単に反例が見つけ出せるものを、自説に都合がいいからってだけで
簡単に信じてちゃだめだよw >>764
神は細部に宿るっていうけどさ、こういうのをないがしろにしてて、
きちんとした論考ができるのかってことなんだよね どちらが正解というものでもなかろう。
九州説は畿内説よりはよほど記紀も尊重しているよ。 >>766
畿内から出た内行花文鏡はガン無視しといて良くいうよ。
ホントにキモい奴 >>767
>九州説は畿内説よりはよほど記紀も尊重しているよ。
尊重するのはいいけれど、史実とするのは無理ってところはきちんと押さえてね! >>768
>畿内から出た内行花文鏡はガン無視しといて良くいうよ。
ガン無視はしてないよ?
むしろ、下池山古墳とか柳本大塚古墳のデータをきちんと示しているのは私の方だ
そして、その上で、いろんな古墳、いろんな弥生墳墓で出ることを確認している
「内行花文鏡が王権のシンボル」、「内行花文鏡が出た墓は王墓」ってのに
根拠がないっていってるだけで
>ホントにキモい奴
こういうのは、中傷にあたるの? それとも、実行にあたるのかな?
他人を貶める文言を使うのは、むしろ伊都国説側の人間の方が多いだろ? >>724
皇別は平安時代の分類だから雄略朝の氏族関係を表現するのには不適切。
皇妃を認められて出して子が天皇になっている以上、一般的な言語感覚としては皇族と呼ぶべき。
とはいえ
当時は大王とも呼ばれてたかも定かでないから
人類学的な婚姻類型にそった族称が適切かもね。
姻族と言い切ってしまうと母系が一つに決まってしまうからまた不適格。
悩ましい。 >>765
伊都
都支
好古都
現代の感覚では確かに意味があるかも?と思うが、字に対して当時の中国人の感覚がわからないからなんとも…
中国人が行き来して知っている国は意味がある字を使っているかもしれん >>759
なぜ中国語を理解出来ない池沼が中国語の事を語ってしまうのだろうか
これが分からない
https://light.dotup.org/uploda/light.dotup.org532307.png
>>763
?
女王国の中に伊都国や邪馬台国がある事は書かれてるし、伊都国が首都とも書かれてる >>757
ほら考古学板にかえれとまで言われてる。ネー。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています