邪馬台国畿内説 Part353
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1528495001/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>726
「南→東」などの嘘つき騙しの大和一元史観教の・・・・が、
幾ら「絶対的」と言張っても、
倭国は正北抵新羅に拠って九州であり、
「自昔・・・東征毛人五十五國」であり、
「大和日本国は、倭国の別種の旧小国の、地方の市を監督する大倭職」なんだから、
他の夢ロマン近畿説お爺さんの千差万別な説ともども、
まともな科学や学問とは、何の関係もない。 >>743
>その通りだ、桜井市に邪馬台国などない。<
そもそも、邪馬台国なんてものが存在しない。
>女王が住んでいたのは奈良県御所市だ。<
女王が卑弥呼や壹與の事を言っているんだろうから、
「南≠東」などに拠って、×だ。 >>759
>測定結果じゃないんだよ 机上の架空の計算結果 周髀算経にそう書いてある<
周髀算経には、測定結果とした記載がされている。 狗奴国はなにわ、和泉、河内
2世紀末の畿内征伐でなにわは陥落したんだろうな
かつて大坂城の地にあった生國魂神社
神武東征の際に生島神、足島神を鎮魂した謂れが残っている
魏志倭人伝当時の狗奴国は和泉と河内
狗奴国は邪馬台国の南
ヤマトの南の和泉と河内
狗奴国の官、狗古智卑狗は河内彦
武埴安彦の祖父だな >>760
>大地がほぼ平面ならば谷本が計算しているモデルとは違う
後期高齢者には理解するのは無理だろうが<
谷本さんは、大地は地球球面と、太陽光線はほぼ平行光線という現在の知識からの、
夏至正午の8尺棒の影長が、1尺6寸の地から、1尺5寸の地までの距離や、
1尺6寸の地から1尺7寸の地までの距離の近似値を計算確認され、
それと、「千里」であるという記載から、
「千里は76.3km〜76.9km位になる事を確認された。 >>761
大和説者はいつもこんな極論断定をやるんだよなぁ。
「魏志倭人伝は間違っていなる」という、「間違った前提」を基礎において
現実ではありえない比定をしようとするる。
>自然国境も何もないところに、古代の国の境がくるはずがないだろうに<
古代の国は、当然居住外縁部が接している場合と、
遼東〜高句麗や、高句麗〜扶余などの場合と同じように、居住外縁部同士がかなり離れていて、
その間は無人地域や、弱小部族集落はある場合がある。 >>103
この後に続く文が「鉛丹各五十斤」だから、ここの真珠は真朱の誤記は学会でも定説なんだが、異議があるのか? >>767
>だから古田が決めた<
いや、史料事実が決めた。
>古田が思いついた商品の里は、中国、韓国、日本では議論されていない<
現在のような後代の、
広域支配国家主義志向が中心の国での「結論先にありき」の権力学者らの議論は、
古代での都合の悪い事実を否定抹殺する事が多くて、
何の信頼性も価値もない。 >>110
「出真珠」「其山有丹」と真珠と丹は書き分けてる
中国では真珠鉛丹各五十斤なんだが
どの学会で定説? 日本の学会
後漢書では「其山有丹」は「其山有丹土」だから真珠は真朱で丹は赤土のことだな。 後漢書注
漢籍按:「其山有丹土。氣??」疑為「其山有丹。土氣??」之誤。 つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。 >>106
>周髀算経には、測定結果とした記載がされている。
そう書いてあっても、実測値でないことはバレバレなんだよ
ザラコクさんはきちんと原典を読んでないだろうから知らないだろうけど、
八尺棒の冬至と、春分、秋分の影の長さも書いてある
正午における太陽の影長
夏至:1尺6寸
冬至:1丈3尺5寸
春・秋分:7尺5寸5分
これで、春・秋分が、夏至と冬至の影の長さの平均になっているのが分かるか?
でも、現実には、その平均よりも春・秋分の影の長さは長くないとおかしいんだ
こんなところからも、蓋天説に従って「作った数字」だってことがばれてるんだよ 後漢書
土氣極寒「東夷列傳第七十五 挹婁」
土氣多寒「南蠻西南夷列傳第七十六 西南夷 冉駹」
土氣溫和「西域傳第七十八 奄蔡」 畿内説が破綻したことがはっきりした今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば良いのではないのかな。。。 >>103
>真朱はもらってないよ
眞珠のことだよ
真珠貝から採れる宝石の真珠ではないとする方が多数説 >>119
そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。 >>122
最有力の説は、纏向遺蹟大物主倉庫説だね、、 >>124
ネアンデルタール人ではないのかな。。。 >>113
>後漢書では「其山有丹」は「其山有丹土」だから真珠は真朱で丹は赤土のことだな。
ブブー!
後漢書でも
其山有丹土。氣溫腝
漢籍按:「其山有丹土。 氣溫腝 」疑為「其山有丹。土氣溫腝」之誤
となってるよ
土氣で、土地の気候、くらいの意味
同じ三国志の烏丸鮮卑東夷伝の挹婁で
處山林之間,常穴居,大家深九梯,以多為好。「土氣寒」,劇於夫餘。
という使い方も出ている
後漢書と魏志倭人伝の対応箇所は
後漢書
出白珠青玉 其山有丹 「土氣温腝」冬夏生菜茹 無牛馬虎豹羊鵲
魏志倭人伝
出真珠青玉 其山有丹
「倭地温暖」冬夏食生菜
其地無牛馬虎豹羊鵲
魏志倭人伝の3箇所に分かれている記述を要約してまとめただけ >>104
>「南→東」などの嘘つき騙しの大和一元史観教の・・・・が
そもそも現代人は東西南北の四極で方位を捉えることを当然だと思っているが、これとて自明のことではない。
非常に素朴な段階の生活を考えてみると、 初めは地勢によって方位を決めたのである。
例えば一方にしか山がない地域ならば、山側とその逆側、
それに山を前にしてその左右といった捉え方をする。
地域によっては海や川が基準となる。
地形によってはもっと複合的な基準を持つこともありうるだろう。
しかし行動や交流の範囲が広がると、ある地域でしか通用しない方位観では不便になる。
そこでやっと太陽を仰ぐ。
太陽は、どこから見ても、東から出て、南に昇り、西に沈む。
これによって東西南北の段階に達するが、まだ人類普遍の方位観を獲得したとは言えない。
なぜなら、日の出・日の入りの方角は季節によって変動するので、
どこを正位とするかには選択の余地が残るからである。
太陽によって東西を決定するときには、日の出・日の入りの、
夏至の日の方角を基準とするか、冬至とするか、その中間にするか、
または季節に従って正位が変動すると考えることもありうる。
だから東と西が一直線で結ばれるとも限らないし、東西南北の領域が四等分されるとも限らない。
方位とはかくも人為的なものなのである。
さらに複数の方位観が併用されるときには、それらを組み合わせてより複雑な方位観が形成されることもありうる。 三輪 能
思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。
三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
関の向こう側に追いやられていた勢力が、ヤマトを征伐し大和朝廷を作ったんだな。
尾張三河には火明命の子孫の神を祀った石作神社がいくつもあるな
あま市 石作神社
石作明神、石作連、火明命。
どういうことだろう。
近隣に美和の地名もある。
三輪、纒向と何か関係あるのかもしれない。 つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。 畿内説が破綻したことがはっきりした今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば良いのではないのかな。。。 >>132
そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。 畿内説の学者より、九州説の一般人のほうが知力に長けてるようだな >>722
>いや、そんな「原則」を現代人が勝手に作っても、古代人は従わないから <
「居住外縁部」は、陳寿の倭人伝の行程記載で使っているし、
遼東と高句麗や、高句麗と扶余の位置関係の記載でも使われている。 >>771
>数キロ単位というのがウソだな
われらの短里珍説に合わない、とゴネてるだけ<
倭には漢代にも100国があり、馬韓にも魏代に85国位があった位だから、
倭国乱で減った九州の倭國の30国には、
数キロ単位に国があってもおかしくない地域があっただろうなあ。 >>772
>ワープというか 里数表記の後、水行二十日、水行十日陸行一月移動している<
陳寿は、「萬二千余里」の女王之所都への部分行程の説明は、里数記載で説明を完結させており、
日数記載は、部分行程の所要日数ではない。
「南→東」などの嘘つき騙しで、行程里数や日数を操作してるのは、
大和天皇家一元列島支配教にクルった・・・・大和説者だけだろ。 >>777
>福岡の那珂で大和型庄内甕を模倣製作している<
違うね。
柳田に拠って、庄内の最古は三雲であり、
という事は、まず那珂が庄内を模倣し、
更に「東征毛人五十五國」に伝播模倣され、
米田に拠って、播磨や河内が模倣生産して一部を弥生銀座へ搬入上納し、
筑紫からの土器搬入が全くなかった大和からは、弥生銀座への搬入も殆どなかった、
という事が実態。 >>778
>「魏の使いは福岡から出ていない」とかなんの根拠もない <
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっていて、その南に邪馬壹國女王之所都があるから、ほぼ筑紫であり、
魏使自身はそれから他へ行った形跡がないから、
「魏の使いは福岡から出ていない」という事になる。 >>781
>ザラコクさんはどうせグダグダ言い続けるだろうけど、それ以外の人との理解の共有のために
『周髀算経』にみられる数値について 一 一寸千里説の意味するもの 一
下司 和男 計量史研究 33−1 [39] 2011
「一寸千里則」は、天地が8万里を隔てた平行平面をなすという蓋天説の
宇宙像から必然的に導き出される法則であって、実測の結果から帰納されたものとは
考え難い 。」<
こりゃまた・・・・アホの学者だね。
「天地が8万里を隔てた平行平面」だなんて、
始めから誰も知り得ないし、測定不能なもの。
>「『周髀算経』に出てくる「里」は、宇宙を観測する器具である表の影と
蓋天説の宇宙の定数を結びつける、いわば蓋天説における「宇宙里」とでも
称すべき単位であって、現実に土地の計測に使われている計量単位である里とは
異なるものであると認識すべきである。」<
これも下司の・・・・アホの勘繰りだな。
「里」は「田の下に土」だから、田畑の平均的サイズとされた距離単位。
>オマケ 『周髀算経』影の測定<
現代の「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者らの、
周髀算経記載への曲解否定と思われる話など、何の信頼性の価値もなく、
読む暇もないし、読む気もしないし。 >>782
>福岡は搬入庄内式土器は非常に少ない<
最近ようやく、(佐々木の説とは変わって来て)、
そのような話になって来ているね。
要するに、筑紫は、自前の庄内が中心であり、優勢であった、という事。
>在地の特徴がわずかに残った大和型庄内甕の模倣製作<
これが×。
三雲の方が古いんだし、
搬入上納されたのはわずかに播磨や河内の庄内であって、
大和の庄内の搬入は全くないんだから、
「大和型庄内甕の模倣製作」には全くならない。 >>142
>要するに、筑紫は、自前の庄内が中心であり、優勢であった、という事。
自前のwww
庄内www
庄内式土器って時点で、畿内様式の「模倣」なんだよ
王のお膝元が、辺境の土器形式を模倣するか?と考えれば、
どちらに政治勢力の中心があったか、すぐに分かる
以前に「よいものは取り入れても何も問題ないだろう」みたいな
言い訳をしていた九州説がいたが、ここで問題になっている土器様式は
「炊飯甕」であり、機能的には西新町式も庄内式も、差はないんだよ
単にデザインの問題であり、庄内式が「優れた」「よいもの」ということではない
それでいて、庄内式が九州でも模倣製作され、布留式で「統一」されるのは、
政治的意思がその背後にあるからだ >>784
>それなら、末慮国四千余戸、奴国二万余戸という戸数は出てこない
集落はどうがんばっての百戸単位にしかならない <
それほどでもない。
馬韓でも「凡五十餘國」。
辰韓は「始有六國、稍分爲十二國」。
弁辰は「弁辰亦十二國、又有諸小別邑」だから、いろんな大きさの国がある。
>当時の国は、水系単位〜平野単位と見るのが妥当
水系単位での治水・利水のための共同体が国となっていったと考えるのが自然
平野の中に国境線を引いたら、水利権争いの元にしかならない
そういう視点から見て、末慮国の位置を名護屋浦湾の到達地点で示した、などと
いうのは噴飯もの
末慮国が糸島平野に食い込んでいたというのも、ありえない<
「陸行五百里」というのは、末盧國の居住外縁部〜伊都國の居住外縁部間の里数であり、
当時は、その間に、無人地帯や、微小な部族国家や集落が存在していた可能性がある。 >>785
>>里程が福岡で終わっている。<
>つまり、里程と日程の両方が書かれている、陳寿は知っていた、っていう説だよね?
投馬国までは何里になるの? 水行20日だけど?<
投馬國は、巨大な側副傍線國の説明であり、魏使らは行っておらず、
水行二十日は、「夷人不知里數、但計以日」であるから、倭人からの伝聞情報であり、
里数は聞かされていない。 >>789
>魏慶元四年に劉徽『九章算術』註釈本が世に出ました
劉徽はその十章として『海島算経』を書いています
『海島算経』は一歩=六尺、一里=三百歩が前提で答を求めることが出来ます<
劉徽は、(谷本計算が出来なかったんだから)周髀算経の一寸千里からのんだから)里数計算が出来ず、
魏使らの「里」記載や、陳寿の「里」記載も知らなかったアホ学者。
>なお『海島算経』以降でないと三角測量は広まらなかったのではないでしょうか<
簡易三角測量は、既に周髀算経が使っていた。
>裴秀は『禹貢地域圖』を泰始四年〜七年にかけて完成させています
それまでは正確な地図というものは存在しませんでした
詳しくは『晋書』《裴秀伝》に引用されている『禹貢地域圖』序文をお読みください<
裴秀が、周髀算経の北回帰線以北の一寸千里の法や、魏使や郡役人らの地理記録を参照していれば、
多少価値があるが、という程度の事。
>残念なことに正始年に倭を訪問した魏使等は正確に地理情報を得る技術をまだ持ってはいなかったのです<
残念な事に、キミは、
大和説という思想宗教的な結論先にありきのために、
魏使らの計測技術の正確性が理解出来ない、・・・・アホであった、という事です。 >>794
>教えてもらったことをなぞるなw<
「倍正南方」の意味が理解出来ず、教わった事をなぞるなよ。 >>800
>東南陸行五百里到伊都國が末盧國の入口から末盧國内を通り抜ける距離を含むなら
東行至不彌國百里も奴国の入口から奴国内を通り抜ける方位と距離にしないと<
奴國は、出発と到着の間に「途中移動の説明文言」がないから、
側副傍線國の説明であり、魏使らは通っておらず、
通り抜けないんだよ。 >>806
>筑紫日向とか倭人伝にはない 高祖山に遺跡なんかない <
新唐書は、「筑紫城の倭奴國の阿毎氏の、 彦瀲の子の神武が大和へ徙した」と、
はっきり証言している。 畿内説はもはや成り立たないことがわかった仮説をいつまでもごり押ししているだけだからな。 >>819
「南→東」だとか「長里だ」とか言い出すと、大和説者は、
ここまで狂って来ちゃうんだなあ。 >>855
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・アホの詐欺師の大和説者に、
そんなこと要求するのは、魚に鰓呼吸するなと言うようなものだ。 >>143
畿内が庄内の最古という証拠はどこにもない
むしろ庄内期から乾田はじまるんだから九州からの流入だろう
三雲遺跡の庄内式の件も、三角縁鏡信者は三雲遺跡を古すぎると言い、畿内庄内式信者は新しいと言い忙しいことで >>154
>畿内が庄内の最古という証拠はどこにもない
庄内だけの話じゃなくて、畿内第X様式から順に九州に入っているのが
確認されているんだから、あがいても無駄
日本の考古学は、土器形式については世界一細かく見てるから、
通説に逆らっても、ほぼ徒労にしかならないw >>866
>周髀算経ってのは、結局のところ、地面と天が平行な二つの平面として
存在しているという蓋天説に立った計算書で、現実世界には合わないんだよ<
そりゃ、周代の周地付近の人が知り得た範囲内での「天地像」だからだ。
>そこにある、二つの平面間が八万里で、棒の長さが八尺とすると、
千里対一寸という比率が出る<
相変わらず、・・・・アホな事を言ってるね。
その八万里とは、周地付近の人には、計測出来るものではない、んだよ。
だから、周地付近での夏至正午の8尺棒の影長の1尺6寸が、
南へ千里行くと一寸短くなるから、その千里を16回繰り返して南に一万六千里行けば、
夏至正午に太陽直下の場所(現在でいう北回帰線)になり、
8尺棒とその影長の作る直角三角形と、太陽直下長と曼千里の作る直角三角形が相似になるから、
太陽高は8万里だ、と求まったんだよ。
>これを一寸千里の法と言っているだけで、実測値ではないし現実の地理と
関わりのある数字ではない <
周地付近での一寸千里の法の測定から、計算された事だ。 小林行雄氏による弥生土器の編年
@ 弥生土器X様式期に小形丸底鉢(東阿波型土器)の登場
A その後、庄内式大和形甕の登場
@阿波 >>871
>周髀算経ってのは、結局のところ、地面と天が平行な二つの平面として
存在しているという蓋天説に立った計算書で、現実世界には合わないんだよ
そこにある、二つの平面間が八万里で、棒の長さが八尺とすると、 千里対一寸という比率が出る<
この・・・・アホは、その八万里という数字が出て来た根拠が全く説明出来ていない。
>これを一寸千里の法と言っているだけで、実測値ではないし現実の地理と
関わりのある数字ではない <
周地付近の一寸千里の計測から、求まった。 >>155
ここでいう畿内第V様式なんていうのは何の意味もなく
庄内式が古いか新しいかどちらが起源かの問題
三角縁鏡信者からしたら三雲遺跡は古いんだろ?
なら九州が起源 つまり、資料が増えて研究が進んだ結果
九州説は日本の考古学者の研究を完全無視するしかなくなってしまった
九州説の考古学者はいない >>873
>そういう第一次蓋天説と、もうちょい複雑化した第二次蓋天説が混ざってる
要するに、ちぐはぐな寄せ集め <
いや、周代にあっては、十分な天地像の推論。
>円周率も3だし、<
概数。
>後漢代にはもう古臭い説だった<
後代になれば、知的退化も知的進化も起こり得る事。
また、後漢代の学者も現代大和説学者も、
(谷本さんがされたような)一寸千里の法から千里の距離を計算する、
という事をしなかったし、出来なかった、知的退化したアホであった。
>算術の例題としては難易度がそこそこだったので後世にもよく利用されたが、天文学説としては妄説と呼ばれていた<
後代の天文学者も、知的退化したアホであった。 ザラコクさんてさ、きちんと典拠を示されても、絶対に自分では読まずに
その場の思いつきだけで条件反射的に、ごみコメントを書いて、
スレを浪費するのが目的なんだよなぁ
いい加減にして欲しい >>874
>>何で「魏志倭人伝は間違っていない」は「間違った前提」だと言えるの? 根拠は?<
>古代の歴史書で、自国以外のことを書いた文書が「無謬」であると考える方が
そもそもおかしい<
この男も、脳のおかしい・・・・詐欺師。
誰も100%完全な、「無謬」だ、なんて言っていない。
魏使らの実見記録は、はるか後代の史家や現代大和説者の自己解釈よりも、
はるかに客観性が高く、信頼性や確率が高い、と言っているのだ、
>実際、末慮国ー伊都国間も、伊都国ー奴国間も「東南」ではない
つまり、方角が間違っている訳だ<
「東南」は、陳寿の行程記載の規則性からは、末盧國からの出発時点での出発方向であり、
伊都国の方向ではなく、
ほぼ間違ってもいない。
>魏志倭人伝の間違っている部分を実際に示せるのだから、
「魏志倭人伝は間違っていない」と前提とするのは誤りだと確定している<
お前の読み方が間違っていた、とほぼ確定している。
>「正しい部分も間違っている部分もある」として読むのが正しいというよりも当然<
客観的な史料批判に拠って、確率の高い帰納的推論で読むべし、という事が当然。 中国の歴史家より反日民族団体の解釈のほうが
はるかに信頼性や確率が高いと言っているんだよな >>165
>魏使らの実見記録は、はるか後代の史家や現代大和説者の自己解釈よりも、
大和説者の自己解釈じゃなくて、数十年に及ぶ日本の古代史研究の成果としての
比定地の定説から見て、魏志倭人伝の旅程記述は九州上陸直後から正確ではないのは
明白なんだよ
九節論者の無理やり読みや「解読ww」は、本当に無意味な努力
おそらく、「末慮国から東南陸行五百里」は伊都国への旅程ではないし
魏と邪馬壹國(魏志倭人伝表記、これも誤り)との交渉では、
建忠校尉の梯儁さんも、塞曹掾史の張政さんも、末慮国には寄っていない >>877
>>自分の頭の中で勝手なルールを作り、それをもとち妄想するのが畿内説。<
>水争い≒土地争いで、そうした紛争が国家形成の原動力というのは、
割に不偏的に見られる歴史の流れなんだがな
まあ、見聞の狭い人には目に入らないのかもしれないが <
まあ、水の共同利用、というのが、
全生物でも人類でも、の生存共存発展の原動力であったんだがな。
まあ、「南→東」などの嘘つき騙しの宗教的な大和説者や、
見聞の狭い・・・・あほには目に入らないのかもしれないが。 「壹」はおそらく版本段階のころから
「因詣臺」と同じ字を避けるようになったんだろうね >>168
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えサギジジイ! >>167
「濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沈没取之」
末慮国これは末慮国から伊都国への旅程での風景じゃないの? >>167
「濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沈没取之」
これは末慮国から伊都国への旅程での風景じゃないの? >>171
末慮国のところに書いてあるのだから、末慮国のことだろう
別に、次の国への移動の道中を書いたと考える理由はないだろ?
末慮国から、東南陸行五百里であれば、松浦川沿いに遡って行って
笹原峠を越えて佐賀に抜ける道が妥当な想定となるが、そこには伊都国はない
後漢代の記録で、対馬、壱岐を経て末慮国に上陸して、そこから松浦川を
遡って佐賀平野の国に行く旅程記録があって、
それとは別に、北部九州に末慮国、伊都国、奴国がこの順番に並んでいる情報が
あって、それをニコイチにした結果が、末慮国から「東南陸行五百里、到伊都國」
なのだと思う
佐賀平野の国は、吉野ヶ里でもいいし、惣座遺跡でもいい >>879
>その500里もお手製だしなー<
変な言い方で、誤魔化すなよ。
「陸行五百里」は、史料事実であり、史料実態だよ。 >>687
>1例からであっても、その内実には多くの論点に関する事実を持っており、
多数例からの帰納的推論が出来るもの。<
帰納的推理だろ 論じゃないろ
特殊な個々の前提から一般的な結論を帰納により導き出す推理から得られた結論は蓋然的な確かさしかもたない これ常識 北部九州沿岸の情報は漢代のころから楽浪郡にはあっただろうな >>155
V期の土器様式と庄内はつながってないから
畿内に搬入された証拠
と
爆弾落としてみるテスト。 >>175
>じゃあ何時見たの?
末慮国滞在中だろ?
壱岐から1日がかりで渡ってきて、そのまま次の国へ足早に
移動するってこともあるまい
>佐賀平野?www
まあ、筑紫平野でいいんだけれど、佐賀市の辺は佐賀平野でいいだろ >>174
>変な言い方で、誤魔化すなよ。
>「陸行五百里」は、史料事実であり、史料実態だよ。
その五百里を「短里」という「お手製の尺度」でのみ読むっていうのが
ご都合主義だって言うんだよ
短里は史料事実ではなく「史料解釈」
しかも、根拠がなく間違っているお手製の目盛りってことだよ >>880
>>>781に引用されている 『周髀算経』にみられる数値について 一 一寸千里説の意味するもの 一
下司 和男 計量史研究 33−1 [39] 2011 によると、
話としては「第二次蓋天説が混ざってる」けれど、計算部分には 反映されてないみたいだよ
まさに「ちぐはぐな寄せ集め」<
元々、周髀算経自体は、周代の蓋天説で書かれており、
>>781に引用されている
『周髀算経』にみられる数値について 一 一寸千里説の意味するもの 一
下司 和男 計量史研究 33−1 [39] 2011
によると、話としては「第二次蓋天説が混ざってる」けれど、計算部分には
反映されてないみたいだよ
まさに「ちぐはぐな寄せ集め」の、自己解釈の混入が起きているから、
混ざったんんだろうなあ。
いずれにしても、漢初や後漢末期の収集者は、
谷本さんのような「一寸千里の法での千里距離の確認」などしていないので、
まさにこの投稿者や現代大和説学者らと同じく、
「幼稚でちぐはぐな下司解釈の寄せ集め」、という事だな。 ここの畿内説の奴は
他説批判に終始して何も畿内説の進捗状況を語らないネ
時計が止まったままで
畿内で決まりと吠えるだけだもんネ
他説批判もグチとしか聞こえないネ このスレには、山門説(筑紫平野説)で、
水行は海じゃないって言うやつは湧かないんだな
伊都国説の論破より、そっちの論破の方が面倒なんだが >>183
>時計が止まったままで
すでにもう決着はついているからねぇ
あとは少しずつ、発掘成果や研究成果が公表されるのを順番に楽しみにしているだけ >>183
でも、説文解字注の「咫」の解釈とか、
漢籍電子文獻資料庫の後漢書の「其山有丹土氣溫腝」の読点の位置とか、
このスレの議論で解釈の進んだ部分もあるんだよ
少し前までは「漢籍按:「 其山有丹土。氣溫腝」疑為「其山有丹。土氣溫腝」之誤。」の
(夾註)は付いてなかった
私が、英語でメールしてから、この(夾註)がつけられたんだよ ここの畿内説は聞きかじっただけのネトウヨだから、議論を期待しても無駄。
考える頭なんて持っていない。 >>184
畿内説はいつも脳内九州説と戦っているよな。
だから九州説に対する批判が的外れで、ザラコクにすら歯が立たない。 >>894
>実測しなくても書けるよ<
太陽高の八万里は、
何の論拠もなくっちゃ書けるものではないよ。 >>183
>他説批判に終始して
九州説がウソ書きに来なきゃ誰も九州説の話題はしないと思うよ >>687
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
>>史料事実そのものや、史料批判の結果の史料実態からの、
確率の高い帰納的推論だ。<
>一例だけからの帰納って、事実上意味がないんだよ 循環論法でしかない
他例を沢山出せるならともかく、一例だけで言い張っても無駄なんだよね<
変な男。
1例からであっても、その内実には多くの論点に関する事実を持っており、
多数例からの帰納的推論が出来るもの。
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
帰納的推論なんておこがましいね・・・規則性皆無
帰納的推理だろ 帰納的推理とはね
特殊な個々の前提から一般的な結論を帰納により導き出す推理で
得られた結論は蓋然的な確かさしかもたないのだよ
言い訳でよく使うが、論理的では無い ほうほう。
畿内説は閉じこもって自分達だけの妄想にふけっていたいと。
そのまま世の中に出て来なければ迷惑にはならないのだろうけどな。 >>901
>倭国の北限は大海の日本海<
倭国は、「正北抵新羅」だから九州であり、
だから、その北限大海は、九州〜半島の間の海峡。
>筑紫は西服衆夷六十六國の中の一国 <
服は「既に服している」という自動詞の意味での使用。 >>194
畿内説は学者の論文や報告書が情報源だから
新たな調査結果が出なければ基本的に既出の話題はしない >>185さん
纒向の大型掘立柱建物は平地式でなく高床式と確定したのですか >>195
あんたば漢文とかまったく勉強してないんだから
「服」の目的語が何か分からなくて
デタラメ言って恥をかく必要はな
三歳児の脳で孫と遊んでいろ
それが幸せだ >>907
>古田氏は島巡り説なのに末盧國を唐津付近に比定するのは変ですよなね<
違うよ。古田さんの上陸地の比定は、唐津港付近。
>壱岐の南岸から急に唐津付近はないですよね
壱岐の南岸なら次は末盧國の北岸に着かないと。<
郡出発から韓国までは「循海岸水行」コースを選択しているのと同じで、
都市氏の松浦水軍家の案内であれば、
安全最短の原則で、「呼子付近から循海岸水行を採用」した可能性は十分にある。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています