邪馬台国畿内説 Part353
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1528495001/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>930
>ワロタ、チョンみじめwww <
この、分裂幻覚の妄想のようなヘイトスピーチの・・・・男は、
どうやら、ssnのようだね。 纏向遺跡の特徴
@ 纒向遺跡は大集落でありながら、人の住む集落跡が発見されていない。祭祀用と考えられる建物と土抗、祭祀用具、物流のためのヒノキの矢板で護岸された大・小溝(運河)などである。
A 平成21年に3世紀前半〜中頃の大規模な建物群の遺構が見つかった。4棟の建物が軸線をそろえて東西に一直線に並んでおり、立地は人工的に整地が施され、付近には特殊な工房跡もみつかっている。
B 日本全国で作られたと思われる遺物の出土が多い。特に伊勢国、尾張国が突出している。また、搬入品のほか、大和で製作されたが各地の特色を持つとされる土器も多く、 関連遺構ではその比率が高くなる。
推論として
@遺跡の性格としては居住域というよりも 、頻繁に人々や物資が集まったり祭祀のための聖地と考えられる。
A高い規格性と、この時代最大の建築物であることから、卑弥呼の居館ではないかと推定される。
B土器の出土はきわめて広範囲であり、弥生時代以前にはみられない規模の広汎な地域交流があったと思われる。
畿内説における纏向の位置づけ
@〜Bの特徴より、纏向遺跡は居住用の都市ではなく、巨大祭祀施設と考えられる。
その祭祀施設には、全国から人々が集まっていることから、全国の祭祀の中心となるものであったと考えられる。
纏向遺跡の中心の建物群に卑弥呼が居住し、祭祀をしていたものと考えられる。 >>932
>そうだよ。
だから7世紀の朝廷は白村江の敗戦が途方もないショックだったわけ。
尾張氏の末裔の国=新羅に日本が負けたのだから。<
白村江で負けたのは、「正北抵新羅」の九州倭国であったんだよ。 >>933
>だいたいヒミコやトヨの墓が何らかの神域になってない方がおかしい。
平原遺跡のようなミカン畑がヒミコの墓であるはずがない<
白村江の後で、大敗した九州倭国を併合吸収継承した大和は、
かなり、九州倭国の存在や歴史を隠蔽抹殺しようとしたんだよ。 でも、たい焼き、今川焼きというのも、
少なからず関係していると思う、鉄板、型を鋳造したりという話でしょ
職人など つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。 畿内説が破綻したことがはっきりした今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば良いのではないのかな。。。 そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。 >>234
最有力の説は、纏向遺蹟大物主倉庫説だね、、 >>935
>古代の歴史書で、自国以外のことを書いた文書が「無謬」であると考える方が そもそもおかしい
正しい部分もあれば「間違っている部分もある」というだけのことが どうして認められないのか?
現実に合わない部分を、記述に合うように無理やり「変な解釈」をでっち上げて
正しいと言い張りながら読むような、やり方が九州説の基本であり
間違っているところの根本なんだよ<
九州説は、何も「無謬だ」なんて断定をしていないよ。
魏志倭人伝のような、魏の役人たちの実際の実見記録のような史料の方が、
後代の史家や現代大和説学者らの自己解釈や「南→東」などの嘘つき騙しよりも、
客観性も信頼性も、正しい確率も高い、と言ってんだよ。 >>939
>ヒミコ、トヨ、男弟、ヒミコの両親、叔父さん叔母さんなど高天原の神々の墓だから。<
面倒くさいから、「南≠東」などに拠って×、ね。 >>940
>畿内周辺には、卑弥呼以前にも興味深い遺跡は色々あるからな
伊勢遺跡とか池上曽根遺跡の巨大神殿とか <
どちらも、「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国であり、
倭国将軍に拠って出来、地方の市を監督する「大倭」職の国であったんだろう。 >>193
テンプレの朝鮮通信使のことだろ
あんた正解
通信使の一例からは多数列は見つからない・・・帰納法を理解していない
畿内説の研究者が見つけてきた一例を書きこんだのだろう
南→東は
誤認したか、転写ミスぐらいで納めれば良い・・・問題山積だが >>227
>A高い規格性と、この時代最大の建築物であることから、卑弥呼の居館ではないかと推定される。
楼閣高く、兵が厳かに守り、千人の下女が働く王宮ではないですね。 ザラコク?の畿内説に対する厳しい指摘は理解できないでもない 時折脱線するが
畿内説の若い者は疑心暗鬼にならないで、盲目的に従っているとは思えないが
学問を志すなら自分なりに私利私欲なくで研究してみる事を勧める
九州説も弱点は多々ある 九州内の邪馬台国の位置はいろいろ説があり、九州説内部で議論は続く
畿内説は纏向・箸墓の一枚看板でないことを望む >>942
>故・金関 恕(かなせき ひろし)がさん奈良県天理市和爾の東大寺山古墳から発見した「国宝」中平銘鉄刀。
金関さんは2017年3月の考古学雑誌で、この刀は卑弥呼の五尺刀ではないかという見解を述べられている。<
卑弥呼は九州の共立女王で、
明帝からの下賜の五尺刀の一本が、卑弥呼から東征将軍の一人にから下賜されたもの、
という解釈であるんなら、構わない。
>同じく京都教育大学名誉教授で元・奈良県立橿原考古学研究所指導研究員の和田萃さんも
和邇氏の系譜に卑弥呼がいるのではという見解を述べられているようだ。<
これも、和邇氏が、卑弥呼の部下の東征将軍の一人であった、という事なら、構わない。 >>242
高床式かも不明 年代も不明
王宮じゃ無いだろう
まず
王宮なら周辺に王以外の居館域が多数あるはずだが無い
蛇足
畿内説の応急(王宮)措置が纒向なんちゃって >>247
>畿内説の応急(王宮)措置が纒向なんちゃって
本当にそれ。
出てきたものをなんでもいいからなんとか卑弥呼に結びつけようと屁理屈ばかり。
しかし実態がわかるにつれてますます矛盾が大きくなる。
200回も掘ってろくな成果が出ないなら、纒向は卑弥呼と関係ないよ。 纒向はヤマト王権の象徴で邪馬台国と関係ない
(魏志倭人伝から纏向は解せない ▲も無い、鉄も無い、居住域でも無い、等々
地方から人々を呼び寄せ、その祭祀施設を見せることにより、
初期ヤマト王権の権威を高めようとしたもの程度かな・・ヤマト王権は九州の弱小国の東征だがね
倭種の別国 スマソ
九州の弱小国か難民が行きついたところが奈良 >>954
>邪馬台国は大和国なのにな<
邪馬台国なんて存在しないし、
「南≠東」に拠って、×な。 >>958
>>遺跡数に比べて、鉄器がおそろしいほどない。<
>その「おそろしいほど」ってのはただの主観
纒向遺跡の庄内土器の時代の範囲内の、 纒向石塚の北東200m近辺から鞴羽口や鉄滓等が確認された
鉄鍛冶を伴う遺構が出土してるよ<
何だ?、鉄鏃の数量や、鉄製品の数が言えなかったのかい?。
よっぽど少なかったようだね。 >>247
高床式では無いことは調査で立証済み
出所不明の纏向復元図 これ学者は関係無いから
https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&gdr=1&p=%E5%B7%BB%E5%90%91%E5%BE%A9%E5%85%83%E5%9B%B3++%E7%BA%8F%E5%90%91%E5%AD%A6 >>252
賛同する
大和は文明的に相当遅れていたのであろう
九州経由で鉄の技術を持ち込み文明開化で再開発されたのが大和
邪馬台国なんて畿内には存在しない 倭種の別国
大和は狗奴国でも無い小国 在日韓国人が圧倒的に多いのは畿内なんだよ
連れてきたわけでもない、軍需工場や炭鉱があったわけでもない
古より大陸との交流があった証拠なんだよ
畿内に邪馬台国があり大陸との交流が盛んだった証拠
http://todo-ran.com/t/kiji/11618 >>235
薄笑いして書き込んでるなww
>>255
ヤマト王権は東征で
倭人と渡来人の連合が築いた国だから当たり前の話
邪馬台国では無い
松本清張曰く「明日香の常用語は百濟語」 桓武天皇の妃は百済のブネイ王の末裔
出典
続日本書紀 畿内説が破綻したことがはっきりした今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば良いのではないのかな。。。 そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。 >>221
古代
福岡県も奈良県も無い
感覚的な位置でいいんでねーの >>252
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
早く言えサギジジイ! 野鍛冶は賤民だからね
動員力が必要な大規模土木工事を行えるのが支配者 >>261
神武東征の前に長脛彦とかなにかが統治してた勢力の遺跡だろう 遺跡と遺蹟の区別が付いてないんだな
日本語ではほぼ遺跡で統一されているんだが、
そういうのが分からない育ちの人なんだろうな >>67
>畿内説は実は東遷説だな。<
畿内なんてなかったし、
大和は、正北抵新羅の九州の倭国から別れた別種の旧小国であり、
白村江の後で、大敗した倭国を併合吸収継承したのだから、
東遷説も×だな。
>「伊都国の太陽祭祀を継いだ卑弥呼が、瀬戸内海勢力の実力を背景として、総花的に纏向で共立された」<
南≠東に拠って×。
>「首長のいない広域政治集団が発生したが、圧力が高まって、急激な首長権が確立した」<
「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国であり、倭国の地方の市を監督する大倭職の旧小国。
>「弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した」<
倭奴國から別れた伊都国は、卑弥呼の頃も王や一大率がおり、
壹與や銚子塚や端山の倭王を輩出し、
磐井が姫氏に代わってまた倭国王になり、
タリシホコは天子を称し、
白村江の大敗で大和の同じ阿毎氏に併合吸収継承されたが、
その残映は、太宰府に平安中期まで存続した。 >>80
>「突然やってきて、展示物などに持論を語った上で 『自分がやってきた研究成果を発表する機会をつくってほしい』
という人が、最近多いんですよね」
そう話すのは、近畿地方にある郷土資料館の職員だ。 すでに10年あまり資料館で働いているが、最近になり、
リタイアした団塊の世代による独自研究の「持ち込み」が増加しているという。
「ちゃんと、これまでの歴史を学んだ上で新たな視点を提示するような研究なら聞く価値があります。
でも、だいたいはトンデモ論。
原典になる史料や基本文献、学術論文をあたることもなく、 一般読者向けの軽めの本だけをたくさん読んで
『これまでにない発見をした』という人が多いんですよ」(同) <
大体、「近畿地方にある郷土資料館の職員」なんて、
出身大学の教授らの、「南→東」などの、史料事実の否定曲解をする嘘つき騙しの、
文部省や右翼マスコミなどの思想宗教に狂った大和説に、隷従するばかりの非学問的なハクチばかりであり、
何の価値もなく、国民の7割に否定されており、放っておけばよいのであり、
国民は、どんどん史料事実に基づいた九州説の成果を、国民に広げて行けばよいんですよ。 >>81
>岸本直文「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」
『国立歴史民俗博物館研究報告』第185集,2014年
上野祥史「日本列島における中国鏡の分配システムの変革と画期」
『国立歴史民俗博物館研究報告』第185集,2014年<
国立歴史民俗博物館研究報告なんて、
文部省や右翼マスコミや嘘つき騙しの学会教育界の、
「南→東」などの嘘吐き騙しに拠る宣伝でしかないんだから、
何の価値もなく、読んでもむしろ精神衛生上の害になるばかりであり、
国民の7割にも拒否されており、
国民は、放置して、ゴミ箱に捨てて置けばよいんですよ。 このスレでは畿内説は破綻してしまった
さっさと閉めろ >>82
>畿内説が破綻したと主張しているのはキチ
纒向遺跡 邪馬台国論争「畿内説」に画期
毎日新聞2018年5月14日 14時07分(最終更新 5月14日 14時35分)
解説・・・<
朝日ですら、社長以下の支配者は「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説に支配されてしまっており、
キョクウの読売産経などと朝日との、中間である毎日なんても、全く信頼性がなく、
国民は、そんな新聞は黙ってゴミ箱に捨てて放っておき、
黙々と、史料事実を学習研究しておいて、子や孫に伝えて行けばよい、んですよ。 >>270
掘立柱建物を誇大広告する頭の中が見てみたいな >>84
>倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。
結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした大和朝廷だよ。<
倭国大乱もなかったし、朝廷なんてもなかったから、この投稿子も×人間。
もう、ずっと毎回のように、
テンプレに引き続いて、
「南→東」などの史料事実の否定曲解をする嘘つき騙しの・・・・大和説者の、
九州説者らへのヘイトスピーチ街宣や、テンプレ擁護の大量投稿をし続けているが、
国民の皆様は、騙されないように、気を付けて、黙殺しておきましょうね。 >>92まで、殆ど全て、
「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・大和説者の宣伝投稿ばかりでしたね。 >>270
arigatou
纏向の掘立柱で高さ10Mは無い 住居として使えない
もしあったとしたら、建てたが歪んで失敗作となり短期間でボツ
ましてや纏向の地盤は弱く石床は必需だが無い
倉庫なら理解できるが
観光目的で似非復元するとしか思えない 畿内説は虫の息だな
でも殺すなよ
からかう楽しみがなくなる >>277
>掘立柱建物を誇大広告する頭の中が見てみたいな
そんなことより「高床式では無いことは調査で立証済み 」なら、
それをきちんと示してよ! 畿内説が支持されていないことがよくわかるスレ
早く締めた方が無難 >>283
調査報告でも掘立柱建物でしょ
調査報告書一読すれば良い
高床式ではない >>280
>纏向の掘立柱で高さ10Mは無い 住居として使えない
出雲大社も掘立柱だったと思ったが?
直径数十センチ級の柱はそうそう沈めようと思っても沈まないよ?
奈良盆地全体が湿地だと思ってるんじゃないかな?
この建物があるところは扇状地の微高地で、地下水面も低いところだよ >>285
掘立柱建物だと、なんで
高床式ではないの? >>285
>調査報告でも掘立柱建物でしょ
>高床式ではない
その「掘立柱=高床式はあり得ない」っていう思い込みをどうにかしなよww
>調査報告書一読すれば良い
>>270で引用のhttp://www.makimukugaku.jp/pdf/gaihou.pdfは
概報だけど、調査報告書そのものだぞ?ww >>285
今のところ不明が正解じゃ無いのか
不明なのに高床式の復元は非難されるべきだろうがネ >>275,>>277,>>281,>>282,>>284
こういうのがキウス?
「遺蹟」を咎められたからキレてるのかな? >>288
2013年の報告だね
現在の位置づけは掘立柱建物
(同じ纏向学研究センターのHPより) >>292
だから、なんで掘立柱建物だと
高床式ではないと思い込んでるの? >>293
この質問は論理的に無意味だな。
ついいつものクセが疑問文で返しているようだが、それで何かを証明できるわけではない。
こいつの言葉はナンセンスだということだ。
畿内説自体がろくな出土品もないのに言い張っているだけだからナンセンスだけどな。 >>292
「建物Bと柱列との間は狭い所で1.5m、広い所でも1.7mと非 常に近接しており、
建物Bが床の低い建物であるとすれば屋根と柱列が干渉する可能性が考えられるこ とから、高い位置に床面が想定されている。」
「(建物Dは)建てられていた柱の太さは15cm前後と推定される円形の柱穴が検出されており、その配列から 柱間の広い南北方向の床を支えるための束柱であった可能性が高いと考えている。」
(纒向遺跡発掘調査概要報告書 -トリイノ前地区における発掘調査-) >>295
答えられないんだな
だからその「掘立柱=高床式はあり得ない」っていう思い込みをどうにかしなよww >>295
なんで論理的に無意味なんだ?
論理的に説明してくれ >>97
>◎纒向には、万単位の人々が暮らし、土木作業を行っていた。纒向集落は、ヤマトの地が外部勢力に征圧され、その結果できた集落。
纒向は、ヤマトの地を征圧した兵と徴用された地元民が万単位で土木作業に従事した大集落。
卑弥呼は鬼道で民を纏める役割を担っていた。<
「南≠東」に拠って、卑弥呼は筑紫の共立女王であり、
大和には直接的な関係がなく、
卑弥呼の名前を出した時点で、×。 >>98
>福岡の丹は本邦産じゃないからな
朱丹を以って其身體に塗る、中國で粉を用いるが如し
一部の支配層だけが墓に使うのではなく、倭地では豊富に産するということだな<
朱丹は、原料は多種あるが、全て顔料。
九州には、ベンガラなど、大量に産出する。 >>296
柱が太さが15cm前後細くて柱間が1.5m〜1.7mの建物だと平屋の背の低い建物だな。 >>99
>邪馬台国は葛城だ。<
邪馬台国なんて存在しないし、
葛城も、「南≠東」に拠って×だ。 >>103
>真朱はもらってないよ <
又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華kei五張、白絹五十匹、
金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、眞珠、鉛丹各五十斤、
皆裝封付難升米、牛利還到録受。 以前にも掘立柱建物=掘立小屋と思い込んでいたバカがいたなwww >>107
>狗奴国はなにわ、和泉、河内 <
「南≠東」に拠って×ね。 >>301
纒向は平地式掘立柱建設だな
それよりも、竪穴式住居跡が纒向には欲しいな >>292
纒向学研究センターがサボってるだけ
高床式だと思う >>295
同意
訳が分からなくなると逆質する典型
自論が無い証拠 高床であっても、楼閣も柵もなく、下女が待機するところもないのなら、卑弥呼の王城ではないな。 >>286
出雲大社の原型は長瀬高浜遺跡で
高床式ですが
纒向は高床式とは断定出来ない無いのでパス
高床式でもい >>270
これを見ると、400年前に建てたという故郷の神社、本殿じゃなくてというかその横に
ある建物に似ているわ。
めちゃくちゃ床が高くて、ずっと不思議だったんだよな。 すまん
長瀬高浜遺跡は高床式は断定済み
纒向は掘っ立て柱建物まで確定
高床式かどうかは現段階では不明 >>292
この人、めっちゃ変わってるね。
掘立柱建物と高床式が共存しないらしい。
じゃあ、この当時の高床って、どんな基礎ななの?
掘立柱建物は、土間?
纏向の建物は、「掘立柱の高床」だけどな。 >>315
なら堂々と公表すれば良いのだが、
推論段階ではないのかしらね 2013年報告「これは高床式や」
現在の報告「高床式は早まった、掘立柱建物あたりの表現に抑えとこ」 >>311
>高床であっても、楼閣も柵もなく
いい加減に、調べもせずに思い込みで難癖をつけるだけっていう芸風、何とかしなよ
「纒向遺跡発掘調査概要報告書 -トリイノ前地区における発掘調査-」より
柱列
第162・168・170次調査区において検出された遺構である。この
柱列はすでに第20次調査時にその存在が想定されていたもので、第162次
調査では先に確認されている部分も含めて南北方向に約23m分検出されている。
この柱列は当初、微高地上を東西に区画するものかと考えられたが、途中で
柱列が90°曲がり東へと延びることが判明しており、建物B〜Dの建物群全体を
取り囲む『柵や塀のような構造』になると推定される。」
『 』は引用者
柵はあるねw 古墳の序列は大>中>小だがそれ以外にもある。
立地場所だ。
上座>中座>下座になる。
実際、各地域の上座にはその地域の始祖王らしき人物の墓がある。
例を挙げれば河内の玉手山古墳群、交野の森古墳群、讃岐の萩原墳墓や猫塚などなど。
では大和盆地の最上座とはどこか。
高天原(御所市高天)だ。
高天原(御所市高天)にある日本最古の神社の境内に径百余歩の塚があり、
魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。
https://textream-cimg.west.edge.storage-yahoo.jp/58/b6/1835208-96a8cbd6169180a157075d145f086b7f/24/b0c96b994750a363867d0a717b81e934.jpg
トヨもヒミコも、ヒミコの父さんやお母さんも、叔父さんや叔母さん、
そして男弟までみんな死後にこの地に埋葬され、高天原の神々になったのだ。 >>113
>日本の学会
後漢書では「其山有丹」は「其山有丹土」だから真珠は真朱で丹は赤土のことだな。<
後漢書は、
魏志のような魏使らの実見記録ではなく、
後代での「自己解釈に拠る(魏志などに)書き換えが多い」半分×書であるから、
信頼性が低く、
日本の学会は、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しを止めない犯罪者的集団であるから、
信頼性は全くない。 >>319
推定されると有るとの違いは?
規模もついでに教えて ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています