邪馬台国畿内説 Part353
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1528495001/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>319
推定されると有るとの違いは?
規模もついでに教えて >>319
それって、大型建物だけの物じゃん
都市を守っていない >>326
柵を定義してくれるかな?
「建物群全体を 取り囲む『柵や塀のような構造』になると推定される」ような構造物は
普通に柵と呼んで差し支えないと思うが? >>326
>規模もついでに教えて
だから、貼ってある発掘調査報告書(概報)を読みなって
怠け者なんだから、もう
「地形からの推定に頼らざるを得ないが、周辺には東西150m×南北100m前後の範囲に
居館域が展開する可能性を考えており、その内部は柱列を境として内郭と外郭に区画
されていたと思われる。」 掘立柱建物は床をつくる高床建物と床はつくらず土間とする平地式建物に分かれる
床下を支える束柱があるということは高床式で、古墳時代になってから登場する つまり掘立柱建物だから高床じゃないと思い込んでる九州じいさんは
確実に無学痴呆 狗奴国と争っているのに
纒向は無防備すぎると思うよ
市場兼斎場だろうな
周辺は墓地 >>327
だから何?
なんで都市を守らんといかんの? >>331
高床式と公言している学者誰?
著書は?
数多く挙げれば説得力も増すよ >>327
>都市を守っていない
日本では、環濠中に逆茂木を植えたものはあっても、都市を囲むような柵は
一例も見つかっていないと思うが?
つまり日本には、邪馬台国はなかったという主張かな?
「居處宮室樓觀『城柵』嚴設、常有人持兵守衞」
一応、「城」柵、とはなっているけれど、弥生時代に城構えの集落はないんだから
大陸風の都市国家を想定する必要はないだろ?
「これらの柱穴は多くが径30p前後、深さ40p程度の規模を持つ」
「この柱列を構成する柱材の太さは約15p」
(纒向遺跡発掘調査概要報告書 -トリイノ前地区における発掘調査-より)
結構立派な柵だと思うよ >>117
>>周髀算経には、測定結果とした記載がされている。<
>そう書いてあっても、実測値でないことはバレバレなんだよ
ザラコクさんはきちんと原典を読んでないだろうから知らないだろうけど、
八尺棒の冬至と、春分、秋分の影の長さも書いてある<
冬至は、影長が長くて半影部分も多きくて、影端の位置がはっきりしなかったための多きくて、
やや不正確な計測値。
そして、春分秋分の影長は、
冬至晷長一丈三尺五寸,小寒丈二尺五寸,大寒丈一尺五寸一分,立春丈五寸二分,
雨水九尺五寸二分,啟蟄八尺五寸四分,春分七尺五寸五分,清明六尺五寸五分,
穀雨五尺五寸六分,立夏四尺五寸七分,小滿三尺五寸八分,芒種二尺五寸九分,
夏至一尺六寸,小暑二尺五寸九分,大暑二尺五寸八分,立秋四尺五寸七分,
處暑五尺五寸六分,白露六尺五寸五分,秋分七尺五寸五分,寒露八尺五寸四分,
霜降九尺五寸三分,立冬丈五寸二分,小雪丈一尺五寸一分,大雪丈二尺五寸
を見りゃ判るように、夏至と冬至の間を等分に分割しただけの計算値。
>正午における太陽の影長 夏至:1尺6寸 冬至:1丈3尺5寸 春・秋分:7尺5寸5分
これで、春・秋分が、夏至と冬至の影の長さの平均になっているのが分かるか?
でも、現実には、その平均よりも春・秋分の影の長さは長くないとおかしいんだ<
お前の脳の邪悪性とインチキ性が、おかしいんだよ。
>こんなところからも、蓋天説に従って「作った数字」だってことがばれてるんだよ <
夏至と冬至は近似計測値であり、その他は近似計算値だよ。 >>118
>後漢書
土氣極寒「東夷列傳第七十五 挹婁」
土氣多寒「南蠻西南夷列傳第七十六 西南夷 冉駹」
土氣溫和「西域傳第七十八 奄蔡」 <
成程。 狗奴国
消滅説、、邪馬台国に戦争で負けた
継承説、、隼人、熊襲になった
ヤマト王権になった説、、東征
逃亡説、、九州から逃亡者ヤマト王権になった >>127
>「南→東」などの嘘つき騙しの大和一元史観教の・・・・が <
>そもそも現代人は東西南北の四極で方位を捉えることを当然だと思っているが、これとて自明のことではない。
非常に素朴な段階の生活を考えてみると、 初めは地勢によって方位を決めたのである。
例えば一方にしか山がない地域ならば、山側とその逆側、 それに山を前にしてその左右といった捉え方をする。<
山があっても、太陽は見える。
>地形によってはもっと複合的な基準を持つこともありうるだろう。<
地形では、東西南北の決めてにならない。 >>129
>関の向こう側に追いやられていた勢力が、ヤマトを征伐し大和朝廷を作ったんだな。<
大和朝廷なんてなかったんだから、
この男も、皇国史観にクルった×人種ね。 >>135
大和説学者や大和説者っていうのが、六拾二病っていうのかな?。 >>137の訂正
倭には漢代にも100国があり、韓にも魏代に85国位があった位だから、
倭国乱で減った九州の倭國の30国には、
数キロ単位に国があってもおかしくない地域があっただろうなあ。 >>339
>冬至は、影長が長くて半影部分も多きくて、影端の位置がはっきりしなかったための多きくて、
>やや不正確な計測値。
いや? 半影までの長さと考えられるって、
『周髀算経』影の測定 http://www.geocities.jp/yamauo1945/shuhisankei1.html
に書いてあるだろ?
まずは、提示された情報を読んでから答えなよ
ザラコクさんの頭の中には、ほとんどまともな知識は入っていないんだから、その状態で何か書いても、意味のある文章にはならないんだって!
>見りゃ判るように、夏至と冬至の間を等分に分割しただけの計算値。
こっちはずっと、そう言ってるだろ? 『周髀算経』の数値は、基本、机上の計算値であって、実測値じゃないんだよ
>お前の脳の邪悪性とインチキ性が、おかしいんだよ。
罵倒しかできないねぇ まともな反論ができない人は大変だw
知識と根拠と論理展開で、相手を説得する・納得させるのが、こういう掲示板での討論の基本なんだがな
ま、ザラコクさんには無理だろうけれどww
>夏至と冬至は近似計測値であり、その他は近似計算値だよ。
つまり、「全部」「近似計算値」で、実測値はないってことだね!
つまり、現実の地理とは無関係ってことだ!
ザラコクさん本人認定ww
よって、『周髀算経』の千里に、短里の根拠を求めても、まったく意味がないってことだ
九州説、終了! お疲れ様でした >>340
>成程。
なるほどとか書いてるけど、これ、
「後漢書に「其山有丹土」と書いてあるから九州でよく使われている
ベンガラのことだ、だから、九州でいいんだ」
っていうのを否定してるんだぞ?
なるほどなら、それでいいけど、また一つ、九州説の論拠が潰えたな 纒向の大型建物だが平地式だと思う
溝の深さが1m以下では到底❓階建てはムリ >>350
溝の深さって、いったい何の話だ?
お前の日本語はわからない 卑弥呼は唐古・鍵遺跡に住んでいて
祭事は纏向で行われたでいいでしょうか? >>348
「其山有丹 土氣」であっても
否定してたことにはならないよ
丹が赤土(ベンガラ)のことだよ。 >>357
>丹が赤土(ベンガラ)のことだよ。
ベンガラのような「どこにでもあるもの」は、倭国の産物として特記されない
魏志倭人伝に限らず、倭国を世界の東の果ての神仙郷=東王父の蓬莱山のように
捉える観念が通底しているんだよ
徐福が目指したのは、倭国じゃなくて蓬莱山だというのを意識した方がいい
其山有丹の丹は、仙薬たる水銀朱を意識した記述なんだよ
ベンガラでは弱すぎる つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。 畿内説が破綻したことがはっきりした今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば良いのではないのかな。。。 そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。 >>365
最有力の説は、纏向遺蹟大物主倉庫説だね、、 >>367
ネアンデルタール人ではないのかな。。。 >>360
いや、それは主観で思い込みにすぎないと思うよ
「丹」だけの記述ではベンガラでも水銀朱でも意味合いは合ってるからね
文献上、厳密に言えば、「丹」は「有」で「出」ではないから、鉱山があり天然の物があれば条件的にはそれでokなんだよ
真珠を魏から貰ってるが、これは「真朱」の事であると通説では考えられるているから、倭国では「真朱」あまり産出はしていなかったとは推定できる
ただし、これについても「真珠」の可能性が無い訳ではないので、根拠にはできないね >>369
真珠が誤字というのはどの学者が言ってるのかな? 「有」は丹だけじゃなくて、
「其木有枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香 其竹篠簳桃支 有薑橘椒襄荷」も「有」
真珠は海中から採れるから「出」だろう 出青玉も、富山の宮崎海岸や境海岸は通称ヒスイ海岸と言われるように
海から海岸に打ち上げられるから青玉はヒスイだろう >文献上、厳密に言えば、「丹」は「有」で「出」ではないから、鉱山があり天然の物があれば条件的にはそれでokなんだよ
そんなこと言ってる学者はいないな
なぜって、学者は大抵漢文が読めるから >>355
吉野ヶ里は紀元前4世紀頃から律令制時代まで長期間存在してたようだから
時代的には含まれているよ。 >>373
「丹」は「有」で「出」ではないから丹は倭の特産物ではないんだよ。 >>366
そんなこと言ってる学者はいないな
馬鹿だと学者にはなれないから >>375
そんなこと言ってる人はいないな
理由がないことを言い張るのはサルだから 中国でたくさん採れる真珠は色、形、大きさが不揃いだから
重さで表しているのだろう
倭地の真珠は白珠と孔で表されているから色、大きさが揃っていたんだろうな
https://zhongyibaike.com/wiki/%E7%9C%9F%E7%8F%A0 >>143
>>要するに、筑紫は、自前の庄内が中心であり、優勢であった、という事。<
>自前のwww 庄内www 庄内式土器って時点で、畿内様式の「模倣」なんだよ<
王のお膝元が、辺境の土器形式を模倣するか?と考えれば、
どちらに政治勢力の中心があったか、すぐに分かる<
弥生銀座よりも三雲の方が古いんだから、
弥生銀座も、弥生銀座と近い時期の河内や播磨も、三雲の模倣になるんであり、
倭国王のお膝元が、辺境の近畿の土器形式を模倣するか?と考えれば、
どちらに政治勢力の中心があったか、すぐに分かる。
>ここで問題になっている土器様式は
「炊飯甕」であり、機能的には西新町式も庄内式も、差はないんだよ
単にデザインの問題であり、庄内式が「優れた」「よいもの」ということではない<
庄内式の方が薄くて熱効率が良かったから、広がった。
>それでいて、庄内式が九州でも模倣製作され、<
近畿が模倣した。
>布留式で「統一」されるのは、 政治的意思がその背後にあるからだ<
米田は、布留は、近畿よりも南加賀の方が古い、といっているんだよ。
どっちにしても、田舎の大和が先行した事もなければ、「模倣された」事もない。 >>164の訂正。
劉徽は、(谷本計算が出来なかったんだから)、
周髀算経の一寸千里からの里数計算が出来ず、
魏使らの「里」記載や、陳寿の「里」記載も知らなかったアホ学者。 >>154
>畿内が庄内の最古という証拠はどこにもない
むしろ庄内期から乾田はじまるんだから九州からの流入だろう
三雲遺跡の庄内式の件も、
三角縁鏡信者は三雲遺跡を古すぎると言い、畿内庄内式信者は新しいと言い忙しいことで<
成程。 >>155
>>畿内が庄内の最古という証拠はどこにもない<
>庄内だけの話じゃなくて、畿内第X様式から順に九州に入っているのが
確認されているんだから、あがいても無駄、
馬鹿だね。
三雲にも第五様式があった、という事は、
第五様式も三雲が先行していて、
それを弥生銀座や近畿が模倣した、という事になるんではないか。
>日本の考古学は、土器形式については世界一細かく見てるから、
通説に逆らっても、ほぼ徒労にしかならないw<
そりゃ好都合だ。
柳田や米田の説に逆らったって、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者のインチキも、ほぼ徒労になる、って事だ。 >>369
>文献上、厳密に言えば、「丹」は「有」で「出」ではないから、鉱山があり天然の物があれば条件的にはそれでokなんだよ
いや、丹の鉱山があるかどうかを知るには、丹を採らないことには分からないだろう?
土の中にありますって、上を歩くだけじゃ分からないんだから
畿内の古墳で使ってる水銀朱の量は、えげつないほど多いよ
桜井茶臼山古墳で、200キロくらい使ってる
50斤=30キロなんて、その1/7強くらいにしかならない >>158
>小林行雄氏による弥生土器の編年
@ 弥生土器X様式期に小形丸底鉢(東阿波型土器)の登場
A その後、庄内式大和形甕の登場 @阿波<
小林は、明確な「南→東」などの嘘つき騙しの大和説教授であるから、
そんな嘘つき騙しの教授の編年など、何の価値もなく、
(阿波と同じように)根拠にはならないよ。 >>161
>つまり、資料が増えて研究が進んだ結果
九州説は日本の考古学者の研究を完全無視するしかなくなってしまった
九州説の考古学者はいない <
つまり、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の学者の中の、
柳田や米田や石野や久住らが、
ついうっかり、「大和説教授らの説を否定してしまう事になる情報」をしゃべってしまって、
大和説教授らや右翼マスコミらは、困り果てている、ってことだ。 >>163
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者らは、
周髀算経が周地付近での「天地像の推論」であった、という事も判らず、
「谷本さんの千里距離の確認計算」を思いつく事も出来ず、
太陽高が8万里のいう事の計算法も判らなかったような、
・・・・アホ集団であった。 >>387
>「天地像の推論」であった
つまり、実測値じゃないってことだろ?
現実の地理的な推定には使えないって! >>164
>ザラコクさんてさ、きちんと典拠を示されても、絶対に自分では読まずに
その場の思いつきだけで条件反射的に、ごみコメントを書いて、
スレを浪費するのが目的なんだよなぁ いい加減にして欲しい<
まあ、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者の「典拠」提示など、
嘘つき騙しである確率が非常に高いし、
私は忙しいから、そんな嘘つき騙し人種の文など関心も読む暇もない。
まあ、読んで欲しけりゃ、この掲示板に書きだしてくれ。 >>166
この大和説男らは、
中国の「使節の実見などに拠って書かれた記録」よりも、
国家国粋皇国史観大和説の民族団体の自己解釈の方が、
はるかに信頼性や確率が高いと言っているんだよな。 >>383
>三雲にも第五様式があった、という事は、
>第五様式も三雲が先行していて、
>それを弥生銀座や近畿が模倣した、という事になるんではないか。
おまえは真正のアホなのか。
畿内は第一から第五まで弥生土器が揃っていて、九州は第五からなら、
それは畿内の方が古いということだろ。
おまえアホ過ぎ、もう消えろ。 畿内説のテンプレもそういう風にわかりやすく書けばいいのに。
妄想ばかり先行していて読みにくい。 >>389
>嘘つき騙しである確率が非常に高いし、
確率が高いかどうかは、読んでみないことには分からないだろ?
そうやって逃げ続けて、意味のないウソを書き続けるのがザラコクさんクオリティだなww >>167
>>魏使らの実見記録は、はるか後代の史家や現代大和説者の自己解釈よりも、<
>大和説者の自己解釈じゃなくて、数十年に及ぶ日本の古代史研究の成果としての
比定地の定説から見て、魏志倭人伝の旅程記述は九州上陸直後から正確ではないのは
明白なんだよ<
「南→東」などの、
史料事実を否定曲解の嘘つき騙しの大和説の「古代史研究家」の説なんて、
何の信頼性もないよ。
>九節論者の無理やり読みや「解読ww」は、本当に無意味な努力<
大和説信者の国民は、本当に無意味な努力。
>おそらく、「末慮国から東南陸行五百里」は伊都国への旅程ではないし
魏と邪馬壹國(魏志倭人伝表記、これも誤り)との交渉では、
建忠校尉の梯儁さんも、塞曹掾史の張政さんも、末慮国には寄っていない <
張政らは、詔書や金印や大量の下賜品を持っていないから、
一大國から伊都国へ直行した可能性もあるが、
梯儁らは、持っているから、「安全最短の原則」で、末盧國上陸した、と思う。 素人の唱えるトンデモ説を「勉強」すると
脳が腐るぞ >>169
>「壹」はおそらく版本段階のころから
「因詣臺」と同じ字を避けるようになったんだろうね<
宋明清代の考証校勘学者は、
三国志の写本版本の「壹」に関しては、誰も「壹」の考証校勘をしておらず、
魏志倭人伝の中で校勘対象になったのは、「都支国と郡支国」と、「黄幢と黄憧」だけだ。
という事は、版本の底本写本も「壹」であったのであり、
お前の「版本段階の頃」というのが、嘘つき騙しのインチキだ。 >>171
>「濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沈没取之」
末慮国これは末慮国から伊都国への旅程での風景じゃないの?、」
いや、記載の順番からは、末盧国内付近での見聞移動の風景だ。 >>173
>末慮国から、東南陸行五百里であれば、松浦川沿いに遡って行って
笹原峠を越えて佐賀に抜ける道が妥当な想定となるが、<
陳寿の行程説明の原則は「出発説明+途中の説明+到着説明」であり、
だから、「東南」は、目的地方向ではなく、
出発時点での出発方向説明であり、
その後は、案内人や道なり移動だ。
>そこには伊都国はない<
伊都国は、風土記や書紀に拠って、「怡土郡」にある、と判っているから、
佐賀は×だ。
>後漢代の記録で、対馬、壱岐を経て末慮国に上陸して、そこから松浦川を
遡って佐賀平野の国に行く旅程記録があって、
それとは別に、北部九州に末慮国、伊都国、奴国がこの順番に並んでいる情報が
あって、それをニコイチにした結果が、末慮国から「東南陸行五百里、到伊都國」
なのだと思う 佐賀平野の国は、吉野ヶ里でもいいし、惣座遺跡でもいい <
まるで分裂幻覚の妄想、だな。 >>397
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えテメエ! >>176
1例からであっても、その内実には多くの論点に関する事実を持っており、
その多数の事実からの、帰納的推論が出来る。 >>180
>>「陸行五百里」は、史料事実であり、史料実態だよ。<
>その五百里を「短里」という「お手製の尺度」でのみ読むっていうのが
ご都合主義だって言うんだよ <
郡から末盧國までの記録での「里の距離≒短里」が、
末盧國から突然「長里」での記録に変わる、と言い出す事が、
「お手盛りの尺度」や「ご都合主義」って言うんだよ。
>短里は史料事実ではなく「史料解釈」<
いや、史料実態。
>しかも、根拠がなく間違っているお手製の目盛りってことだよ<
そして、この男も、
途中で「短里記載から長里記載に変わる」といういうインチキ男だ、って言うんだよ。 >>402
>途中で「短里記載から長里記載に変わる」といういうインチキ男だ、って言うんだよ。
そんなことを言っている畿内説はいないよww
一貫していっているのは、
「里で書いてある以上は、魏晋里以外にはない」
そして、
「魏晋里と合わないのであれば、それは不正確な数値であてにならない」 >>185
すでに、「南≠東」や、
「倭国は正北抵新羅で九州」や、
「大和は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国」や、
大和は、「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国で、
倭国の地方の市を監督する大倭職の国、
もう決着はついているからねぇ。
あとは少しずつ、発掘成果や研究成果が公表されるのを順番に楽しみにしているだけ。 >>403
魏晋里と合わない上に、規則性がないからね >>186
>でも、説文解字注の「咫」の解釈とか、
漢籍電子文獻資料庫の後漢書の「其山有丹土氣溫腝」の読点の位置とか、
このスレの議論で解釈の進んだ部分もあるんだよ
少し前までは「漢籍按:「 其山有丹土。氣溫腝」疑為「其山有丹。土氣溫腝」之誤。」の
(夾註)は付いてなかった
私が、英語でメールしてから、この(夾註)がつけられたんだよ<
成程。そうだったのでしたか。 >>187
>ここの畿内説は聞きかじっただけのネトウヨだから、議論を期待しても無駄。
考える頭なんて持っていない。<
賛成です。 >>189
>自意識過剰 <
大和説者は、「南→東」などのような嘘つき騙しの・・・・性過剰。 >>192
スレ主や大和説者が、「南→東」などのようなウソ付き騙しを書きに来なきゃを、
誰も大和説を話題には、しないと思うよ。 九州説は議論でも何でもなく畿内説にイチャモンつけたいだけ >>193
一例だけであっても、
それが正しい場合と、間違っている場合と、どちらでも言えない場合の3論点があり、
どこで、何時、誰の証言であるのか?などの問題点が起こるし、
何故その例が発生したのか?など、
最低6点以上の論点が発生し、それらの根拠からの帰納的推論が必要になるんだよ。 >>207
>大分の玖珠と大和葛城の国栖は、音韻も文字も違うから、始めから×であった。
ならば九州と畿内の地名の類似自体を放棄するわけだな?
東遷説も放棄でいいね? >>197
>畿内説は学者の論文や報告書が情報源だから
新たな調査結果が出なければ基本的に既出の話題はしない<
大和説者は、始めから「南→東」や「大和説→畿内説」などの嘘つき騙しであるから、
大和学者の論文や報告書は、全く信頼性も客観性もなく、
だから新たな調査結果が出ても、
基本的には、何の信頼性も価値もなく、
話題にされず、放置される。 『九章算術』劉徽註序にあるように洛陽城の南北で表の影を測定してますよ
一寸差千里が実用的ではないことは分かっていたんじゃないですかね
果たして数学者に外交情報が公開されますかね?
『海島算経』慶元四年(263年)=蜀の滅亡
『三國志』太康元年頃(280年)
ですので劉徽は陳寿を知らないかもしれません >>199
あんたは、漢文や漢字とかをまったく勉強してないんだから、
「服」が自動詞か他動詞か?が判らないだけではなく、
日本国伝と倭国伝とをはっきり別の場所に書き分けた唐会要の倭国伝の、
「正北抵新羅」に拠って、
倭國は九州にある事になるから、倭王武も九州の人であり、
だから「西服衆夷六十六國」は九州倭国の事になる、
という事も判らない・・・・アホであった事になり、
これ以上デタラメ言って恥をかく必要はなく、
三歳児の脳で孫と遊んでいろ。
それが幸せだ。 >>215
>邪馬台国には関係ないが <
邪馬台国なんて存在しないが。 >>219
>その広告史観というのは、いつできたの?<
皇国史観は、記紀の史観であり、だから、
白村江の後で倭国を併合吸収継承した大和日本国の天武の命令で出来た事になり、
中世の日本書紀学者や近世の古事記学者らの、大和説学者らが広めた偽史観である、
という事になる。 >>221
以前から聞いているはずなんだけど、
なぜ、奈良県が出てくるんだ?。
「南≠東」などに拠って、
嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説だ、っという事が判っているはずなのに。
新興宗教か何かの信者?。 気に入らない記事は全て正しくないことにしたい畿内説 >>406
>成程。そうだったのでしたか。
>>186は、ザラコクさんの主敵の私の書き込みだよ?ww >>227
>(纏向遺跡)推論として
@遺跡の性格としては居住域というよりも 、頻繁に人々や物資が集まったり祭祀のための聖地と考えられる。<
倭国の地方の市を監督する大倭職の、祭祀用建築である。
>A高い規格性と、この時代最大の建築物であることから、卑弥呼の居館ではないかと推定される。<
「南≠東」などに拠って×。「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」になっていない。
>B土器の出土はきわめて広範囲であり、弥生時代以前にはみられない規模の広汎な地域交流があったと思われる。<
筑紫倭國からの搬入は0であり、
纏向→筑紫への搬入上納は、播磨や河内にもはるかにおとり、非常に少量である。
>畿内説における纏向の位置づけ<
畿内なんて存在しないから、×。
>@〜Bの特徴より、纏向遺跡は居住用の都市ではなく、巨大祭祀施設と考えられる。<
弥生銀座や吉野ケ里と違って、地方の市を監督する大倭職の国だった、という事だ。
>その祭祀施設には、全国から人々が集まっていることから、全国の祭祀の中心となるものであったと考えられる。<
筑紫からの搬入は0。
>纏向遺跡の中心の建物群に卑弥呼が居住し、祭祀をしていたものと考えられる。<
「南≠東」などに拠って×。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています