邪馬台国畿内説 Part353
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1528495001/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>546
「大作冢 徑百餘歩 殉葬者奴婢百餘人」
徑百餘歩とは何が徑百餘歩なのだろうか?殉葬者奴婢百餘人の範囲が徑百餘歩ではないのかな。 >>551
>なんでアタ?
よく言われるのは、手を「当て」て測ったことが、
あて⇒あた、の語源だったんじゃないか、ってこと
手に合う箸の長さが、一あた半、というのは、
実際に手を当てて確かめる身体尺としての長さ >>538
ネアンデルタール人ではないのかな。。。 >>530
そうだね、、、
そして、僕たちは最近新しい情報を手に入れたね。。。 改めて狂人のキナイコシが貼り付けているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。 >>531
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 解釈の原因は解釈者自身の固定観念。解釈の自由には責任が伴う
言葉風紀世相の乱れはそう感じる人の心の乱れの自己投影。人は鏡
憤怒は一時の狂気、無知無能の自己証明。中途半端な知識主ほど激昂
「真実は一つ」は錯誤。執着する者ほど矛盾を体験(争い煩悩)
他人に不自由(制約)を与えれば己も不自由(不快)を得る
問題解決力の乏しい者ほど自己防衛の為に礼儀作法マナーを要求
情報分析力の低い者ほどデマ宗教フェイク疑似科学に感化洗脳
自己肯定感の欠けた者ほど「己の知見こそ全で真」に自己陶酔
人生経験の少ない者ほど嫌いキモイ怖い想定外ウザイ不可解を体験
キリスト教は世界最大のカルト。聖書は史上最も売れているト本
全ては必然。偶然 奇跡 理不尽 不条理は思考停止 視野狭窄の産物
人生存在現象に元々意味価値理由目的義務使命はない
宗教民族領土貧困は争いの「原因」ではなく「口実動機言訳」
虐め差別犯罪テロ紛争は根絶可能。必要なのは適切十分な高度教育
体罰は指導力問題解決力の乏しい教育素人の独善甘え怠慢責任転嫁
死刑は民度の低い排他的集団リンチ殺人。「死ねば償える」は偽善
核武装論は人間不信と劣等感に苛まれた臆病な外交素人の精神安定剤
投票率低下は社会成熟の徴候。奇人変人の当選は議員数過多の証左
感情自己責任論 〜学校では教えない合理主義哲学〜 m9`・ω・) つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。 畿内説が破綻したことがはっきりした今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば良いのではないのかな。。。 >>528
同じじゃないのかな。。。
倭国である女王国から、東に海を渡った土地にも倭種が住んでいたと魏志倭人伝に紹介されているからね。。。 >>564
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、しかし、一部の良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 >>560
こうやって一般人に周知していくのはいいことだわ
着実に一歩一歩進んでる
あとは早いこと教科書を書き換えてもらいたい >>558
横ですまんが、ここは毎回の事なんだが、倭人伝の記載は大きい冢ではなく、大いに作るなんだよ
墓域の可能性もあると、モリコーさんも言ってたね >>575
モリコも駄目だね
大いに冢を作ったが出来たのは小さい墳丘
などと言っても
笑い者だ >>470
>>後に筑紫の文化が流入して初めて発展し始めることになる。<
>わざわざ、遠路遥々九州から御出まし頂かなくとも、(尤も流入させるほどの文化はないがw)
すぐ前の倭国(阿波)の最新最高度の文化が揃っていますから。 ご心配なく。 @阿波<
倭国は九州であり、「倭国(阿波」は×。 >>473
>瀬戸内海航行説の場合、名称の類似から備後国の鞆とする説等があり、
日本海航行説では出雲国や丹後国、但馬国等にあてる説がある。<
どちらも「南≠東」に拠って×。
>投馬国は日向にあった。投馬国を中心とした九州勢力が
東征で畿内邪馬台国を制圧しヤマト王権樹立 神武東征<
畿内も邪馬台国もなかったから、×。 >>474
>>ベンガラは、火山地形に多いんだろ?。 中国では火山は少ない。<
>ベンガラは酸化鉄 どこにでもあるよ
日本の古墳時代頃の最大の生産地は濃尾平野付近
濃尾平野に火山なんてないだろ?<
濃尾平野のどこに最大の生産地があるんだい?。
しかし、焼岳や御嶽山や白山は火山だし、室生火山群があった筈だし、
伊吹山も火山のようだったし、
周りじゅう火山だらけ。 >>475
>>そうやって、大和説学者の論文の掲載から逃げ続けて、<
>この話題はもともとが、畿内説の貼った論文をザラコクさんが読みもせずに
見当違いの嘘を書き続けてるって話なんだが
こっちはいちいち論拠の論文その他を示してるんだよ<
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者の論文なんて、
始めから価値もない、といっているんだし、
関心もない。
>こうやってさらに嘘を重ねていくのが、ザラコクさんクオリティww<
こうやってさらに、世間の人々に嘘やヘイトスピーチを重ねて騙していくのが、
wwのクオリティww。 >>476
>>いや、一寸千里は計測であり、<
>でもどこで測ったのかは、言えないんだろ?ww<
周地付近とその南北千里の位置で測った、と書いてあるし。
>当時、きちんと子午線に沿って千里を測れたかというと、無理なんだし、<
東西南北の計測法もかいてあるし。
>実際、影の長さの差が南北等距離で等しくなるなんてことはないんだから、
実測してないのは確実なんだよ<
大地平面近似が出来る地域では、「影の長さの差が南北等距離で等しくなる」んだし、
実測していたのは確実なんだよ。 >>479
大和説は、「南=東」などの嘘つき騙しの怪しい陰口ばっかり言ってる。
卑しいことだ。 >>501
>そんな陰口に辟易しているよ<
大和説人種の、
そんな「南→東」などの嘘つき騙しや、
根拠を言わないで、口先だけのヘイトスピーチ陰口に、
辟易しているよ。 うぜーから
これなんとか論破してくれ
「「南→東」などの嘘つき騙し」 >「「南→東」などの嘘つき騙し」
そもそも現代人は東西南北の四極で方位を捉えることを当然だと思っているが、これとて自明のことではない。
非常に素朴な段階の生活を考えてみると、 初めは地勢によって方位を決めたのである。
例えば一方にしか山がない地域ならば、山側とその逆側、
それに山を前にしてその左右といった捉え方をする。
地域によっては海や川が基準となる。
地形によってはもっと複合的な基準を持つこともありうるだろう。
しかし行動や交流の範囲が広がると、ある地域でしか通用しない方位観では不便になる。
そこでやっと太陽を仰ぐ。
太陽は、どこから見ても、東から出て、南に昇り、西に沈む。
これによって東西南北の段階に達するが、まだ人類普遍の方位観を獲得したとは言えない。
なぜなら、日の出・日の入りの方角は季節によって変動するので、
どこを正位とするかには選択の余地が残るからである。
太陽によって東西を決定するときには、日の出・日の入りの、
夏至の日の方角を基準とするか、冬至とするか、その中間にするか、
または季節に従って正位が変動すると考えることもありうる。
だから東と西が一直線で結ばれるとも限らないし、東西南北の領域が四等分されるとも限らない。
方位とはかくも人為的なものなのである。
さらに複数の方位観が併用されるときには、それらを組み合わせてより複雑な方位観が形成されることもありうる。 >>576
それ、主観でしかないよ
「冢」と「墳」の違いも重要とする説もあるが、何度も話題に登っているけど、明確な答はでてないな
ただ、卑弥呼の墓は表現は「冢」
個人的には径100歩もあって、なぜ「墳」ではなく「冢」なのかが気になるがね >>503
>>畿内説はザラコク氏に反論せずに人格攻撃ばかり<
>いやいや、「平安時代」の「藤原氏を送った朝廷」が畿内の朝廷じゃないって言う人は
まともに相手にできないだろ?<
「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」という事が、
唐会要の(日本国伝には書かず)倭国伝に書かれている、
という史料事実の説明が出来ないんだろ?。
>旅程記事の方角は、出発方向だって謎理論を使うし<
奴國と投馬國に関しては、
出発説明と到着説明との間に途中移動の説明文言が存在しない、
という史料事実の説明が出来ないんだろ?。 >>505
>『海島算経』も1里=1800尺だよ 短里なんて無い<
『海島算経』も、
慶元四年(263年)なら周髀算経や魏使らの記録は知っていたのに、
それの持つ「1里の距離や意味」が判らなかったアホであった。 >>509
>九州説は中傷ばっかりだな<
大和説は、
「南→東「」などの、史料事実を否定曲解する嘘つき騙しや、
口先で九州説者へのヘイトスピーチ中傷ばっかりだな。 >>584
ザラコクの「「南→東」などの嘘つき騙し」は
ザラコクがテンプレを読んでいないから無理
読めばある程度理解できる >>510
>福永もボケてきた 意地を通すのもいいが、推論を強要しすぎて困る<
福永って誰?。どんな人?。 >>511
>中傷と捉えるか、意見として捉えるかは自由だから許す<
大和説は、
「南→東「」などの、史料事実を否定曲解する嘘つき騙しや、
口先で九州説者へのヘイトスピーチ中傷ばっかりだから、
黙過し難く、許さない。 邪馬台国へのルートである。
魏志倭人伝において、ます到着するのは末盧国である。500里をはるばる歩き、伊都国(博多湾一帯)に至る。
伊都国から奴国(飯塚市を中心とした遠賀川流域一帯)へ。さらに東に進み、周防灘に面する不弥国(行橋市)に至る。飯塚市から行橋市に古くからルートがあり、関門海峡が通れなかった当時、玄界灘と周防灘を結ぶ重要な迂回路だった。
そこから船で南へ沿岸を航行し、20日かけ大隅半島を抑えている投馬国へ着く。
大隅半島を南へ漕ぎ出し黒潮に乗る。黒潮は時速7Kmであり、何もせずとも1日に150Km進む。黒潮は自然と潮岬に接岸する。(現代において観測され証明されている)つまり10日で潮岬に流れ着く。
熊野辺りにに上陸し、陸行1ヶ月でヤマトに至る。
これが魏志倭人伝当時の邪馬台国へ至るルートである。 >>513
>九州説は陰口ばっかりだな<
大和説学者や大和説シンパらは、
「南→東「」などの、史料事実を否定曲解する嘘つき騙しや、
口先で九州説者へのヘイトスピーチ陰口中傷ばっかりだから、
黙過し難く、許さない。 魏志倭人伝には、伊都国が千戸しか人がいないと書かれている。漢数字で千と万は間違えるはずはないので、実際千戸程度しかいなかったんだろうね。
もう一つ魏志倭人伝には、一大率が伊都国に置かれているとある。
3世紀半ばに大兵団が置かれていた場所の候補地は博多那珂地区しかない。
博多も区域としては伊都国に含まれるが、一大率が支配していたのだろう。
つまり伊都国は、平原周辺(王とその取り巻き)以外の大部分を一大率に召し取られたと考えると矛盾がない。
魏志倭人伝によると、
伊都国から奴国までは百里、奴国から不弥国まで百里とある。また不弥国からは南へ船で20日進むとある。
不弥国は周防灘に面した国と考えるのが妥当。
奴国は不弥国と伊都国の中間にある。地図を見ると遠賀川がその辺りにある。
遠賀川流域は、縄文時代〜弥生時代にかけての石器の一大製造拠点。その石器は九州全土に広がり、特に九州北部に強い影響力を持っていた。
また遠賀川流域の飯塚市から、行橋市には古くからルートがあり、関門海峡が通れなかった当時玄界灘と周防灘を結ぶ重要な迂回路であった。
奴国は2万戸の大国であり、遠賀川流域一帯の国であったと考えられる。
問題は不弥国である。
魏志倭人伝によると伊都国と同じように千戸しかないとある。壱岐ですら三千戸であることを考えるとかなり不自然。
行橋市の北は京都郡、苅田。
石塚山古墳など早期の前方後円墳がある。
巨大古墳のあるところは、労働力の集積地(非農業人口集積地)。つまり拠点地域。
不弥国も伊都国と同じように、大部分の領地を女王国に召し取られた可能性がある。
その地域支配の拠点が苅田辺りに作られていた可能性がある。
九州北部支配の拠点、博多那珂地区の一大率と苅田の駐屯兵団。少なくとも二ヶ所は魏志倭人伝の時代から存在。 >>515
>せっかく客観的なそれらを主観的に解釈する奇妙な頭だ。<
大和説学者や大和説シンパらは、
「南→東「」などの、史料事実を否定曲解する嘘つき騙しや、
口先で九州説者へのヘイトスピーチ陰口中傷ばっかりであり、
せっかく客観的で信頼性の高いそれらの史料事実を、
主観的に解釈する、インチキの奇妙な頭だ。 >>578
貴様は許さん
>投馬国は日向で南に向かって黒潮で南紀、陸行で畿内><
これに対して何も答えていない
貴様こそ、都合のいいとこだけ部分的に揶揄してだけのアンチ畿内説のバカ
言葉尻をとる以前に聞く耳を持たないバカ
貴様が
東南陸行 五百里 到伊都國 の方位について
末盧国から伊都国は東だろと言ったら、伊都国に行くまでにまずは東南に向かう必要があったと言っただろ
貴様は支離滅裂なんだよ >>584
>うぜーから
>これなんとか論破してくれ
>「「南→東」などの嘘つき騙し」
何度も論破してあるんだが、ご本人が認めないんだよ
この人、ザラコクさんには、何を言っても通じないんだ
ザラコクさんは
まともな知識がなく、何も知らない
教えてもらっても、決して調べようとはしない
明確に間違いを指摘されても、何をどうしようと認めない
知らない、調べない、認めないの「三ない主義」で、
対話が不能だから、どうしようもない 女王国まで12,000里、不弥国と投馬国の境界まで12,000里だな。
不弥国以北は卑奴母離が置かれている。一大卒管轄下の属領だな >>596
ザラコクよ
貴様の拠り所は支離滅裂の方位だけじゃん
伊都に邪馬台国も方位や距離だけとっても無理・・これ常識
不弥国から伊都までの行程で 九州説で説明せよ
貴様は本当は畿内説だろ 畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
畿内征伐によって誕生した大和朝廷の主体は、尾張、出雲、吉備。
次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子の討伐、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。
神功皇后、応神のエピソードは、
尾張出雲吉備を中心とした邪馬台国体制(初期の大和朝廷)に対するクーデターだな。
大和朝廷に虐げられていた九州北部、畿内、関東の先住民が手を結び立ち上がったんだろう。
かつてのクナ国体制側の反撃とも言える。 >>595
>魏志倭人伝には、伊都国が千戸しか人がいないと書かれている。漢数字で千と万は間違えるはずはないので、
魏略では
「東南五百里 到伊都國 『戸万余』」と書いてあるよ
「漢数字で千と万は間違えるはずはない」のであれば、魏略か三国志のどちらかが
意図的に虚偽記載をしたことになる
古代のことは、なかなか正確には分からないものだし、
「○○なはずがない」式の決め付けをすると、議論が歪むばかりで、生産性のない議論に
堕してしまうよ
ザラコクさんを見れば、勝手な決め付けはろくなもんじゃない、のがよく分かるだろ?ww >>518
>> 大和が、第四から第五に、わざわざ変わったのは、 倭国の東征や年代や差から、
大和も三雲の第五を模倣したからだ、 という事になるだけではないか。<
>大和が三雲の第五を模倣したと?<
第五は、三雲にも弥生銀座にも存在するし、
大和で第四が第五になった理由は存在しないし、
九州倭国には楽浪土器などで早くから「庄内類似の第五」を作る理由があり、
大和は、倭国の東征毛人五十五國の中の一国であるから、
「庄内類似の第五」が伝来した可能性は十分ある。
>それが畿内の第四になった? 基地外もここに極まれり<
「それが畿内の第四になった」なんていっていない。
筑紫の第五が大和に伝来した、と言っている。
基地外詐欺師もここに極めれり。 >>520
>>「南≠東」に拠って<
>そもそも現代人は東西南北の四極で方位を捉えることを当然だと思っているが、
これとて自明のことではない。・・・<
何だ?、また同じことの貼り付けか。
つまらん。
古代人も現代人も、東西南北は、太陽や天体の動きから決めていただけだ。 >>597
大平洋ルートは畿内説では✖だから
まずザラコクより畿内説を纏めろよwww 悪い
✖まずザラコクより畿内説を纏めろよwww
〇まず畿内説が説として容認しろ・・・主流は瀬戸内でいいがね >>603
ぞうやって失笑を買い、まず東遷説が消えていった
安本の轍を踏むわけね >>521
>また理由もなく言い張るだけ 九州説は困ったものだ<
また、史料根拠や理由もなく、ヘイトスピーチを言い張るだけか。
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・大和説者は、
困ったものだ。 >>523
>ちゃんと掘立柱と公表されてるのに ”「石床」の非存在の隠蔽” などと誹謗する神経が
理解できない <
掘立柱だった、と言っておいて、
未だに、纏向を、高床建築だとか、卑弥呼の「居處宮室樓觀、城柵嚴設」だとかを、
宣伝し続けている大和説学者や、右翼マスコミや、大和説シンパらの、
神経が理解出来ない。 >>603
第五は、三雲にも弥生銀座にも存在するし、
大和で第四が第五になった理由は存在しないし、
理由も何も大和では第一から第五まであり、そして土師器(庄内・布留)へと普通に続いてただけだが。
>九州倭国には楽浪土器などで早くから「庄内類似の第五」を作る理由があり、
おまえはハゲ頭にウジ虫が湧いてるのか?
楽浪土器の存在がなんで「庄内類似の第五」を作る理由になるのだ?
>大和は、倭国の東征毛人五十五國の中の一国であるから、
「庄内類似の第五」が伝来した可能性は十分ある。
いや大和には第五以前の四、三、二、一があるわけだが。
やっぱりハゲ頭にウジ虫が湧いてるわけだな。 >>526
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
ヘイトスピーチ的怒号ばかりで中身がない 。 とんでもかな
出雲や阿波は神武東征の出城だと思う・・出城にするだけの文化は以前よりあった
当然 畿内に国か連合体があった(邪馬台国では無く首都は奈良と限定しない)
畿内の圀の包囲網が出雲・阿波
阿波・出雲説では、邪馬台国が阿波・出雲とするがその場合も
邪馬台国の所在地に限らず東征は認めるべきだ >>534
>>(大和説者は)「他例」などという「無いものねだり」をして、口先でヘイトスピーチをして、
議論に勝っているかのように装って、<
>「他例」が「無いものねだり」だったら
出せと要求して批判した側が議論に勝っている <
出せと要求した方が、嘘つき騙しをしている事になる。
>だって帰納してないのが暴かれたんだから<
一例からでも帰納的推論が可能である、という説明はしてあるんだから。 >>609
ご存知でしょうが念のため
「家」は当時 「生きてる人の住居」を指す場合もあり「死んだ方の住居=墓」を示す場合もあります
また「塚」は墓だけに限られた文字ではありません >>613
>出雲や阿波は神武東征の出城だと思う・・
違う。 神武東征は倭国(阿波)国内での出来事。 阿波市→鳴門市への東征譚。
誇大妄想してはいけない。 @阿波 >>557
大いに冢を作る 徑百餘歩に 殉葬者の奴婢は百餘人 >>601
こいついつも同じコピペしてるが畿内説のレベル下げてるだけでほんと邪魔
乏しい知識で与太話作ってるだけ 卑弥呼の墓考察
卑弥呼の墓は径百歩と記述されてるが、
小山に葬られたでも良いのではないか
「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩」 ですが径百餘歩の墓には異論がありませんが
自然を利用して墓を作り、その全体像が小山も含め墓であり径百歩でもいいかもしれないと思う
自然を利用した大邸宅も数多くありますが、家屋だけでその邸宅の大きさを表現していないのは周知ですが >>618
>ほんと邪魔
そういうのに対してスルースキルを磨かないと、
匿名掲示板への出入りはやってられないよ? 続きです>>618です
前方後円墳は殆ど人工的な手を加えられてますが、
卑弥呼の墓は自然を利用した墓ではないかと思います
畿内説で言う纏向や箸墓は三輪山信仰も含まれており
墓は三輪山信仰とズレてないでようか?
箸墓の方位(前方から後方に至る)も気になります、大型建物群と方位は合わせる必要があると思う 大家(おおや)さんの話?
大家という名前の人の話ではないよ
家の老婆は、
そのような事を言ったりしていた事があるんだけど、
なぜだと思う?
もれ(仮)の兄にwそのような事を言っていた でも人に土地や家を貸したり売ったり、何やら・・・とか、
そのような家でもないし、何なんだろう
昔の話なのかな、数代前の話とか? >>614
帰納の意味を知らないだけ
それは説明とは、言わない >>621
不思議だね
纒向の神殿は三輪山(ご神体?」)の同一方向に向かっているが
箸墓はそれにならっていない
不思議なんだよね
三輪山(ご神体)のどの方向には立てるかは目で確認できたので誤差はあまり無いと思う
三輪山に向かっているなら誤差は気にしなくていいかもしれないが、箸墓近辺しかり前方後円墳の方位はバラバラ
現在の地方の墓地の方が規則正しいかも 『松傾』「▢▢力夫」?
このような名前の家なんだけど、なぜだと思う 纒向と箸墓の建物は關係無いから
畿内説は強引すぎる >>616
@阿波
阿波は邪馬台国の土地
阿波説は
畿内説の範疇で王宮の所在地が奈良か阿波かの論争だろ
畿内説内部で片付けろ >>631
根拠は?
論ずること止めたか、脳が着いて行けないのか? >>634
>阿波は畿内説と関係ないので謝絶するわ
阿波は畿内説と関係ないが、
阿波は畿内と大いに関係がある。 @阿波 >>626
興味あり
纒向の祭事建築物がどこに向かってるかもわかる
箸墓がどこを向いてるかもわかる
箸墓と纏向の祭事建築物の時代が違う
炭素年代法が進めば、箸墓以前の纏向以前・・
こんがらがってきた
炭素年代法で箸墓と纏向のどちらが古いのか???????????????????
モモソは宮内庁が決めただけ 纏向消滅時と箸墓成立時が同じくらいというストーリーじゃなかったか >>636
箸墓が布留0で纏向の最盛期
大型建物が庄内3でその直前 サルタヒコの遺言。
「底どく御魂」「つぶたつ御魂」「あわさく御魂」
底、独、常、立、阿波サク
国底立神
&国常立神、鬼門に封じられた神、天香久山に祀られている神
&阿波咋
倭国大乱を引き起こした張本人 >>619
>卑弥呼の墓は径百歩と記述されてるが、
>小山に葬られたでも良いのではないか
全くその通り。
死んでから径百余歩の墓なんか作ってたら10年はかかる。
その間、殯をおこなってたというアホな話になる。
>「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩」 ですが径百餘歩の墓には異論がありませんが
>自然を利用して墓を作り、その全体像が小山も含め墓であり径百歩でもいいかもしれないと思う
ヒミコの墓は大和盆地最上座の単純明快な場所にある。
。
高天原(御所市高天)だ。
高天原(御所市高天)の日本最古の神社の境内に径百余歩の墓(山)があり、
魏志倭人伝の記述通り、周囲に奴婢が埋葬されている。
奴婢とは土蜘蛛である。
https://textream-cimg.west.edge.storage-yahoo.jp/58/b6/1835208-96a8cbd6169180a157075d145f086b7f/24/b0c96b994750a363867d0a717b81e934.jpg
かつてここの地で土蜘蛛を葛城で土蜘蛛を征した男がいた。
日向から来た神武である。 × かつてここの地で土蜘蛛を葛城で土蜘蛛を征した男がいた。
〇 かつてここ葛城で土蜘蛛を土蜘蛛を征した男がいた。 また訂正w
〇 かつてここ葛城で土蜘蛛を征した男がいた。 纒向の桃の種 (朝日新聞 本年5月
西暦135〜230年・・・・纏向学研究センター公表(放射性炭素(C14)年代測定)
卑弥呼の死亡時期 (倭人伝)
西暦247〜248年
箸墓古墳 (どこかの公表)
西暦240〜260年築造 (土器の付着物より炭素年代法)土器は「布留(ふる)0式・・この年代比定は広範囲」 『周髀算経』の里は「三分里之一、即為百歩」というものですよ
魏のナンバー1数学者が知らないのだから魏では誰も知らないんじゃないですか?
『禹貢地域圖』泰始四年〜七年(268〜271年)より古い地図に
馬王堆漢墓出土の『長沙国南部図』(前168年以前)があります
これは約18万分の1の縮尺で書かれています
1800尺=1里が基本になっていますね >>646
考古学上
布留遺跡は貴重です
あまり畿内説では脚光は浴びてませんのが残念です
不都合があるのでしょうか >>640
ああ、思い出した
纏向消滅時じゃなくて、纏向の神殿消滅時だったわ >>646
炭素年代は摩訶不思議だな
科学者にも狂いが数十年以上という奴もいるし
誤差が大きいので
万年前、億年前なら通用する、否、氷河期はどうする 日本の歴史的風土はどうする
ベニバナ花粉やバジルの炭素年代も調査済みだと思うが何故公表しないのかな しかし九州説もよくもまあ短里説をそれらしく粉飾するために
周髀算経の記述の中から見つけ出して来たもんだ >>619
あんた偉いが
学会では通用しない
馬鹿学会に聞いてもらいたいもんだ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています