壱岐に三千家がある可能性は当時の人口的にない
三韓に十五万家以上ある可能性は当時の人口的にない
当時千人以上収められる一つの建築物はない
当時径百歩の冢などない

「破賊文書旧以一為十」

三国志には実際に十倍されている記述が散見される
韓と倭の里数、日数、戸数、奴碑数、冢の径数もまさにそれであろう