【北条得宗家】北条時宗【最後の英雄】
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>>1
おまえさんの意気込みは評価する。
乱立する邪馬台国スレを駆逐するため、今後の検討を祈る。 モンゴル帝国に蹂躙されなかったのは北条時宗の栄光なり 1よ、無理すんな
連投したところで住人が集まるわけではない。 現実は厳しい 生前は正五位下だったが明治天皇は時宗を高く評価して従一位を追贈している >>11
明治時代の日本は軍国主義だったから
中国の軍隊を追い返した北条時宗は戦前の英雄
元寇の時には神国日本に神風が吹いた
第二次世界大戦の時も「神風特攻隊」ってぐらいだから いや北条時宗は中国とは同盟でモンゴル帝国と戦争したんだが? 元軍=モンゴル軍。
いまで言うならロシア軍みたいなもんだろ?
ロシアが南下して日本を侵略しにきたようなもんだ。
北条時宗が鎌倉に多くの文化人を受け入れた南宋出身者=中国人だろ? 国技大相撲はモンゴルに征服された
朝青龍・白鵬・日馬富士・鶴竜と今世紀に入ってからモンゴル人横綱4人
唯一の日本人横綱稀勢の里は7場所連続休場 >>15->>16
それをいうなら清もモンゴル軍だぞ
漢民族を追いやってモンゴル民族が建国した国
日清戦争は対中国ではなく対モンゴルかよw
中国人は日清戦争で日本がモンゴル人を追っ払ってくれた
日本侵略軍ありがとうございますと歓迎したのかよ >>21
元寇はモンゴル帝国だろうが
日中戦争にすり替えるな馬鹿が! 日本に攻めてきた元は中国じゃないぞクビライ・ハンのモンゴル帝国だぞ。
意地でも中国にしたがる馬鹿ネトウヨがいたもんだww 鎌倉幕府と南宋は対モンゴル帝国の同盟関係あった
いまで言うなら日中連合vsロシアみたいになるのか まあ糞ネトウヨは日本と漢民族が対モンゴルで同盟関係にあったと認めたくないだろうなw 実際に戦争しているのにも関わらず日元貿易は続けて行われていた
中国と少し関係が悪くなるだけですぐ国交断絶しろとか言ってる糞ネトウヨ連中どもには
耳が痛い話だわな
糞ネトウヨどもに絶対通用しない言葉「それはそれ これはこれ」 神風神話はGHQが鎌倉武士を過小評価させるために広めた話
当時の武士は神風なしでモンゴルを撃退できたという事実が重要 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
JOV 元の史書にも高麗の史書にも文永の役では対馬、壱岐、今津を征圧したと書いてある。
文永の役で博多の街が元軍に占領されたとかいう話は嘘な。
実際には元の主力の蒙漢軍が百道原で日本軍に完敗し、今津に追い詰められて撤退を余儀なくされた。 ,
織田ザコナガの天下統一はまだか?
織田ザコナガが強いのは池沼の脳内とゲームの世界だけか?
北条義時は朝廷も叩き潰して天下の覇王になったけどな >>45
意味わからん。
1回目も2回目もモンゴル軍に圧勝して撃退してるだろ。 1回目は上陸したモンゴル軍を1日で撃退し、モンゴル軍の犠牲者は1万3500余人。
2回目も九州に橋頭堡を与えることなく撃退し、モンゴル軍の犠牲者は10万人以上。
両方とも日本の「圧勝」としか呼びようがない。 >>48
何人以上殺すと圧勝になるんですか?
日本人は何人殺されましたか? 何で元寇みたいに圧勝としか呼びようのない戦いを素直に圧勝と書くのが気に入らないのか?
モンゴル軍なんて所詮は羊飼いじゃん。
当時のユーラシア大陸は「好鉄不打釘、好人不当兵」と言うように質の悪い軍しか無かったから
無双できてただけで、戦いのプロフェッショナルである日本の武士には通用しなかった。 >>53
ごめん、間違えた。
19人じゃなくて195人。
この数字には御家人だけじゃなく郎党とかも含まれてそうだな。 一般市民は無傷だったのか
この当時としては珍しい戦だな へー
モンゴルって一般人には手出ししないんだ
ずいぶん紳士的なんだな 朝廷の権威を完全に無効化した北条義時こそ人類最強! 幕府が問題視するレベルの被害は一般人にも無かったってことだろ。
「又日本人死事百九十五人、下郎ハ数ヲ不知有事云云」だからな。 北条時宗の凄いのは軍事力でモンゴル軍を粉砕したことだけじゃない。
策略も併用したところ。
モンゴル帝国の背後でベトナムに反乱起こさせてモンゴル軍を釘付けにした策はお見事。 >>67
それ凄く興味深い話だね!日本がベトナムとつながってたって言う証拠になる資料を教えて🙇 かようにホージョー厨は歴史をねつ造してまで北条アゲを画策するのである >>69
鄭思肖『心史,雑文,大義略叙』
「辛巳(1281年)六月, 韃兵由明州渉海,至倭口,遭大風雨作,人与船倶陥,叉大敗而回。
倭遣使責占城不戦而附韃 。占城有悟意,始背元韃。」 北条得宗家を倒すのや〜
時宗の息の根を止めるのや〜
ブェヘブェヘブェヘへへへ 細かいところは自信がないが>>69を訳してみる
>鄭思肖『心史,雑文,大義略叙』
>「辛巳(1281年)六月, 韃兵由明州渉海,至倭口,遭大風雨作,人与船倶陥,叉大敗而回。
>倭遣使責占城不戦而附韃 。占城有悟意,始背元韃。」
「韃」や「元韃」は元、「占城」はベトナム南部のチャンパ王国だから
>元兵が明州か、海を渡り日本の海岸に至ったが、大風雨にあって人と船を失い、大敗して撤退した。
>日本は使者を派遣してチャンパが戦わずに元に従ったことを責めた。チャンパはその意を悟りはじめて元に背いた
だと思う
ただ元の勘違いの可能性もあるし
ググってみるとこの『心史』が信用できるかも疑わしい気もする >>82
有り難うございます。もっと明確な資料がみつかると良いですね。 >>82
仮に行ったとすれば日本からベトナムまでの旅って当時だと凄いだろうな 北条時宗の評価は元の侵略を避けられなかったことで批判されるようになったらしいですが、
そもそも時宗が努力して外交で?避けられるようなものだったんですか?
国書の内容は色んな解釈ありますけど、従属を望んでいたなら、
どっちにしても拒否すれば戦いにはなっていたんじゃ?
まさか従属しなかったから戦いになったから悪いって意味ではないでしょうし ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています