>>621(前スレ)
>関心がない。素人オジンは、忙しいし体力もないから、知り得た範囲内で帰納的推論をするのみ。
少量の情報からでは間違いに行きつくだけ。

>問題の原点は、古田さんは、張元済本で、 (「宛」ではな区)「苑」と書いておられる事であり、
張元済は最も古い刊本を復元したのだから、誤字は温存されたままなんだよ。「對海國」がいい例だね。

次のように記事の内容から「苑」は誤字と判断出来る。
『(王昶は)「今は(治所である)宛に駐屯し、襄陽から三百余里もあり、諸軍は散屯し、船は宣池に在り、危急があっても相い赴くのに不足である」と上表し治所を新野に徙(うつ)して、(荊・豫)二州の水軍を習練し、農事の開墾と殖産を広め、倉の穀類は盈積した。 』

宛は後漢代からの中国最大級の都市となっており、魏はここに拠点を置いていた。
襄陽は呉と対峙する最前線だが、宛から距離があり不便であるため、治所を宛から新野に移したという話。「苑」という謎の地名では話が通じない。

>>636 (前スレ)
>襄陽付近から、川を下って宛に直ぐに行ける、という「苑」の地であった事になったから。
ならんだろ。淯水は南に流れている。つまり宛の方が上流に位置する。

>要は、陳寿が「苑」と書いたのか?、「宛」と書いたのか?の問題だな。 後代学者なら、「苑」の場所が判らなければ、 「苑→宛」の書き換えをしてしまう事は、いくらでも起こり得る。
それまであったのに場所が判らなくなってしまったのなら可能性を探る必要があるだろう。しかし「苑」は魏晋以前にも登場せず以降にも登場しない。
「宛」という最有力候補がある以上、後世の誤字と判断するのが妥当。記事の内容から考えて、陳寿は「苑」と書いていない。