>>210
>>襄陽付近から、川を下って宛に直ぐに行ける、という「苑」の地であった事になったから。<

>ならんだろ。淯水は南に流れている。つまり宛の方が上流に位置する。<

何をアホ言ってんだい。 位置関係は、その川の上流から下流に向かって、襄陽→新野→宛の順にあり、
宛に緊急の事があった時に直ぐにの水軍が宛に行ける場所として新野を選択したんだから、 それまで駐屯していた苑(宣池付近)は、
襄陽と新野の間の、中間地点よりも少し襄陽よりの、その川に直ぐに出られるような場所だ。

>>要は、陳寿が「苑」と書いたのか?、「宛」と書いたのか?の問題だな。
後代学者なら、「苑」の場所が判らなければ、「苑→宛」の書き換えをしてしまう事は、いくらでも起こり得る。<

>それまであったのに場所が判らなくなってしまったのなら可能性を探る必要があるだろう。<

宣池付近であった、という事が判る。

>しかし「苑」は魏晋以前にも登場せず以降にも登場しない。<

後代の中国人学者らの中のかなりの人が、「自己解釈に拠る書き換え」をする学者であった事は、唐代史書などを見れば、直ぐに判る。

>「宛」という最有力候補がある以上、後世の誤字と判断するのが妥当。<

これも×。
苑があったと思われる宣池の位置が、宛の緊急事態に間に合わないようなが場所であったから、新野に陣を移したのあり、
だから、苑は、襄陽と新野の間の襄陽寄りの地。

>記事の内容から考えて、陳寿は「苑」と書いていない。<

変な男。屯した場所が宛であったんなら、宣池の事も新野の事も書く必要がない。
陳寿が「苑」と書いた事が判ったから、新野に「屯する地」を新野に変更した意味が判った。