記紀では、神功皇后の子供の応神天皇をとんでもない年齢にずらし、
そして神宮皇后紀に魏志の卑弥呼の記述をわざと挿入してます。
7世紀の朝廷は神宮皇后を卑弥呼と間違えて欲しかった、強い意図が見えます。

これらの事を勘案すると、卑弥呼が誰なのか、7世紀の朝廷は分っていた、しかしそれを言えなかった。
そういう事だと思います。

言えなかった理由は、ヒミコから約5世代100年前の「帥升=スサノオ」
日本の歴史の始まりが中國皇帝への土下座から始まる、
こんな屈辱的な事は耐えられない、
国史として残すことはできない。

これだと思います。