邪馬台国畿内説 Part362
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1531400560/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。 ◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1 ◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百x四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で3世紀末か4世紀だろう! 奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。黒塚も3世紀とされる。黒塚築造年代の根拠は近刊の報告書入手後に詳説したい。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て築造年代を纏向3類中葉とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と比べて劣後しない。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
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注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし 邪馬台国はヤマト国
生駒葛城山系の東側
他の畿内、なにわや河内、和泉は邪馬台国ではない。
ヤマトは山外、山の向こう側の土地という意味
カワチ河内やヤマシロ山背と同じく、地形に由来する地名 近畿の男系は縄文系の遺伝子は結構残っていて、他の地域と大差ない。
畿内の弥生時代の遺跡は縄文時代の遺跡に連なるものが多い。
渡来人が縄文人達の水源を奪った痕跡もない。
渡来人達が新たに住み始めたのは洲や井戸の技術がないと住めない水利の悪い台地。
2世紀半ば迄は環濠が要らなくなるくらい平和な時代になっていた。
神武東征前のヤマトの記述。
ナガスネヒコ、ヤソタケル、土蜘蛛、皆仲良く暮らしていたんだな。
混血が進んでどんどん人口が増えたんだろう。
2世紀半ば以降の倭国大乱、畿内征伐でこれらは崩れ去る。
攻めてきたのは、出雲など山陰と尾張三河など東海の勢力だよ。彼らが平和な世界を破壊したんだな。 私どもが行った現代日本人頭骨の分析から見ても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近いという意味で『特殊な日本人』ともいえる
(埴原和郎・国際日本文化研究センター名誉教授)
畿内古代人は韓国朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属している
(池田次郎・京都大学名誉教授)
大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い
(欠田早苗・兵庫医科大学名誉教授)
関西人には細い目をした髭の薄いのっぺり顔が多いが、沖縄の人は眉や髭が濃く、ぱっちりした二重まぶたの人が多い
(中橋孝博・九州大学大学院教授)
熊本は古来より北からの流れと南からの流れが見事に交錯してきた美人の産地
(松下孝幸・土井ヶ浜人類学ミュージアム館長) 近畿は元々縄文系勢力も渡来人系勢力も仲良く暮らしていた。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。
スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。
結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした邪馬台国、大和朝廷だよ。
近畿は大和朝廷の最初の討伐ターゲットだったんだな。
大和朝廷は4世紀前後四道将軍で関東東北を征伐する。
大和朝廷に虐げられていた元々の近畿の勢力、関東の先住民が手を結び、神功皇后応神を旗頭にして大和朝廷の旧勢力に叛旗を翻すんだよ。
藤原氏の守り神が関東の人々であるように、近畿と関東は同盟関係だったんだな。
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1 魏志倭人伝
邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。
出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。
出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。
邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。
伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか? 「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
もともと第一の道論は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先 進性をことさらに高く見積もり、前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一 の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、 修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続 けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改 善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道とは、(中略)大和弥生社会がこの時期により大き な別の権力主体によって征服、あるいは包括、
刷新されるという苛酷な道であり、そこでは農業共同体構造の再 編は外的強力によって強制的に達成されたことになる。
旧稿において私は、(中略)第二の道を主張した。
しかしこのことが、私があたかも北部九州勢力の東遷論 者であるかに評価されることとなり、
5年後に刊行された橿原考古学研究所論集では改めて、いわゆる「東遷論」 一般には与するものではないことを明記した。
こうした小共同体の安定した強固にすぎる程の紐帯とそれを安住させ得る自然条件の卓越性、それゆえの保守的基盤と非闘争性をもつ大和の弥生社会が、
いわゆる「ヤマト王権」と呼ばれる政治的連合体の権力中枢を内的に生成させ、国家形態を「王国」にのし上げ得るだけの母胎にはたしてなりうるのだろうかという疑問をもつにいたった。
そもそも私は、橿原考古学研究所に入所し自らこのテーマを追い始めた1976 年頃から、大和弥生社会の自然的、社会的、
そして文化的安定性とそれゆえの緊張関係の欠除、いわば内陸後背地の保守的地域がそうした王権機構を生成するような母胎にはたしてなりえたのか、というこの疑問が終始脳裏を離れることがなかった。
(一)大和にとっての外的強力とはいかなる地域のいかなる集団であったか(権力中枢の系譜)、
(二)彼らの征服活動に興ずる必然性とその対象としての大和とりわけ東南部の重要性、
(三) 農業共同体再編の具体化と階級的支配関係の実体については、その後の論攷で私なりの一応の答えは用意することができた。 鳥取県の上石見に伝わる伝承。
牛鬼伝説の中でも、一番古いものじゃないかな。
孝霊天皇が牛鬼を討つ話。
上の岩を見よと言って牛鬼を倒す。
ここでは、牛鬼は石に倒されるんだな。
次に神功皇后。
瀬戸内海で神功皇后が住吉明神と、頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話。敗れた牛鬼に似た塵輪鬼はバラバラになり、島々になるとある。八雷神と似ている。
その後は西日本各地で様々な時代の牛鬼伝説。
共通しているのは、
◎牛鬼は海や水辺に現れる。
◎牛鬼は磯女と一緒に現れる。
◎牛鬼の子供は石である。
同じようなこととして、牛鬼に「石は流れる、葉は沈む」などあべこべなことを言うと助かる。
◎また蓑火に関するものもある。
◎牛鬼は老いた椿という言い伝え。古い海神ということか。
見えてくるストーリー。
牛鬼(古い海神)は孝霊天皇の時代に石にやられた。
海神の姫達は、石の子を産むようになった。
神功皇后の時代に、瀬戸内海の牛鬼に似た塵輪鬼が倒され海賊になった。
また、久留米では、牛鬼を退治し、その耳を耳納山に埋めたとある。
牛鬼は磯女を娶ったミミなのかもしれない。 畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
畿内征伐によって誕生した大和朝廷の主体は、尾張、出雲、吉備。
次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子の討伐、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。 かつてなにわの大坂城の地にあった生國魂神社。
神武東征の際に生島神と足島神を鎮魂したという謂れが残っている。
畿内征伐の際に真っ先になにわは制圧されたんだろう。
魏志倭人伝当時は既に、邪馬台国卑弥呼、大和朝廷に支配されていたと思われる。
卑弥呼と対立する狗奴国卑弥弓呼。
魏志倭人伝当時の邪馬台国の南の狗奴国は、河内と和泉だろう。
狗奴国の官、狗古智卑狗は河内彦。
武埴安彦の祖父、河内青玉繋だろうな。
神功皇后、応神のエピソードは、
尾張出雲吉備を中心とした邪馬台国体制(初期の大和朝廷)に対するクーデターだな。
大和朝廷に虐げられていた九州北部、畿内、関東の先住民が手を結び立ち上がったんだろう。
かつてのクナ国体制側の反撃とも言える。 三輪 能
思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。
三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
関の向こう側に追いやられていた勢力が、ヤマトを征伐し大和朝廷を作ったんだな。
あま市など東海地方には石作神社が散見される
石作明神、石作連、火明命。
どういうことだろう。
近隣に美和の地名もある。
三輪、纒向と何か関係あるのか? やっぱりシラ、白が重要なキーワードな気がする
しら、おしらさま、白日、天白、しらぬひ、
おしらさま伝承は伊勢以東、東海を中心に東北まで分布
白澤、人面の牛、牛妻
白も牛と繋がってくる
新羅も本来はシラ
白根か、島根、鳥取→新羅、神奈川、埼玉 >>985
>>判っている事は、「苑」は宛と襄陽の間のどこか?であって、宛と襄陽の真ん中辺の新野よりは、宛や襄陽の緊急時に出動に不便な場所。<
>九州王朝説はデタラメだなあ 原文は「今屯苑、去襄陽三百餘里、諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴、乃表徙治新野、習水軍于二州、広農墾殖、倉穀盈積。」常識では「いま宛に屯す」だが、<
おや?。ようやく、張元済本の原文を出して来たね?。しかし、書陵部本の方はまだ。
>非公式古田説では「いま屯苑(だ)」と動詞なしに変な読み方をする<
古田第1書では「屯苑=屯した苑」という意味での引用をされたが、
大和説者が「屯苑」という固有名詞だと書いた、という誹謗をする人間がいたので、 最新のミネルヴァ書房本では、「苑に屯した」というような注釈を入れられた。
≧現在地が宛でないと言い張るなら、この文章には「宛」城はまったく出てこないんだから 「宛と襄陽の間のどこか?であって」なんてナンセンスだ
「宛」との位置関係は問題にしてないことになるからね<
上表文に余計な事を書けばアホに見られるから。
>それに「諸軍散屯」なんだから、現在の駐屯地は宣池の近くではない 「諸軍散屯」なんだからね<
宣池の名前を出した、という事は、宣池を中心とする散屯だ。
>そして現在の駐屯地は襄陽から300里も離れていて緊急時に対応できない だから新野の方が襄陽に近いんだ <
新野が川沿いで便利で、(山越えよりも)早い、という事もある。
>新野〜襄陽は鉄道で65km 300里というのは、それより遠いんだ
およそ知性ある人間にとって、短里なんて存在してないのは一目瞭然だろう <
新野と襄陽の間の山間部にいたのなら、新野よりも襄陽にずっと近くなり、
宛からなら4分の1位にずっともなり、長里よりも短里である事の方がはるかに適切。 杵築大社の天井図。八雲が一つ欠け七つしかないだろ。 あれは、紀元前後出雲地方の内乱の結果、神庭にいた出雲の王族が追放されたから。
出雲地方で元々信仰されていたのは、姫神の幸神、東!から来て文物をもたらしたクナトの神。そしてその子のサルタヒコ。 サルタヒコ一族は、オオナムチに破れるんだな。 そして、畿内など各地に逃げ延びる。
加茂岩倉遺跡との同笵銅鐸が各地で出ている。
猿田彦で注目すべきは最初に出会った場所。
天の八衢。
道が幾つにも別れる処、方違。
面白いことに上町台地と泉北丘陵の間に方違神社がある。なにわ、和泉、河内、淡の境。
その近傍にイシズ川。サルタヒコが消えたのはイスズ川の川上。
猿田彦が溺れたとされるのが、阿邪訶の海。
方違神社のすぐ北がアサカ、浅香。
浅香の北がオサカ、大阪。
浅香の南、泉北丘陵にコサカ、小坂。
伊勢と同じものが揃っているんだな。
凄い偶然。
更にサルタヒコはヒラブカイに挟まれて亡くなるとある。
泉北丘陵、イシズ川を遡った地に平井と深井という弥生時代から立地が変わっていない集落がある。
平井と深井の間が弥生時代の鈴の宮遺跡。
サルタヒコは最後はこの辺りに逃れていて、殺されたんだろう。
サルタヒコ。
出雲族の姫神幸神と、倭人の彦神クナトの神の子。
倭人と出雲族の同盟の証。
月夜見にして大国主、狗奴国の卑弥弓呼。日見彦。
津ツはノという意味かな。
国津神はクナの神々のことかな。
スクナヒコナ、素クナ彦名も関係あるのかな、倭人の王かもね。 ヤマタノオロチは、元々は丹後半島だろう。
王が殺されて、一族が畿内で逃げ延びた。
紀元前後の話かな
その後一部伊吹山辺りに移った可能性がある。
伊吹山、ヤマタノオロチの神霊が住むと言われているな。
ヤマタノオロチ族と風宮の神との関係が気になるな。
級長津彦命
級長戸辺命
しなは息が長いという意味。
息が長い、吹子、鉄と関係あるかもしれない。
丹後半島に遅れて、畿内淡路島や池上曽根、彦根で鉄工房が始まるからな。
伊吹山、和歌では一途な想いの代名詞。
畿内に逃げ延びたヤマタノオロチ族は、助けてくれた勢力に恩義を感じていたのかもな。
伊吹山の神は、大和朝廷と最後の最後まで戦い抜いている。
環大阪湾の倭人、丹後半島を追われたヤマタノオロチ族、出雲の神庭を追われた出雲族が協力して作ったのがクナ。 南海トラフ地震は津波の堆積物でいつ頃あったか分かっている。紀元前後、次は二世紀半ば。
色々伝承があるが例えば、
潮嶽神社
ヒコホホデミノミコト(山幸)に追われたホデリノミコト(海幸)がこの地にたどり着き、居を構えたと伝えらています。
神話、海幸彦、山幸彦では山幸彦の影に隠れ、山幸彦ほど有名ではありませんが、海幸彦は隼人(南九州に居住する氏族)の祖といわれております。
隼人の祖は海幸彦。
海幸彦と山幸彦は対立していた。
海幸彦は内陸へ追いやられたとある。
山幸彦系の天武朝に隼人の乱が起きたのは当然と言える。 (wikiより)
葛城・金剛山高天台 - 奈良県御所市高天
奈良県南部の御所市高天。金剛山の麓に広がる台地上に位置する。古くは葛城といわれた地域である。
付近は天上の神々が住んだ高天原の伝承地で、ここに所在する高天彦神社は延喜式では最高の社格とされた名神(みょうじん)大社で、
祭神は葛城氏の祖神高皇産霊(たかみむすひ)神。鎌倉時代の『三流抄』には『太神・・・大和国葛城山高間原天岩戸ニ閉籠リ玉フ』とあり、また能の葛城や代主などの舞台もこの地とされることから、中世における高天原の所在地は葛城山付近と理解されていたと考えられる。
なお、高天原の石碑はこの地区にある寺の駐車場のところにある。
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ここは神(王)が住む水源。
高天彦神社の周囲には縄文時代からの遺跡もあり、
境内には土蜘蛛(奴婢)が埋められた径百余歩の塚(小山)がある。
なによりも重要なのは大和朝廷の発祥地であること。
邪馬台国とはここを中心にした場所以外にない。
ヒミコことヒメ(踏鞴五十鈴)媛も、その土蜘蛛(奴婢)が埋められた径百余歩の塚に埋葬されたのであろう。 八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば 津守経国
八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。
○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、大阪湾の話であるのを当たり前のように理解していた。
八十島祭にかつて幣帛が供えられていた海神二座、今では不詳となっているが。
空想だが、ヤマタノオロチとサルタヒコだったのかもしれない。 真十鏡 可照月乎 白妙乃 雲香隠流 天津霧鴨
この歌は古代史を要約した和歌なんじゃないかな
白を纏った雲、香、
シラの姫を娶った香具山の勢力、蜘蛛、火明命を連想させるな
天津、霧、鴨
天津、アマタラシ、
霧は切り、
そんなことないと思うが、アマタラシ系を切ったのは鴨? ひさかたの天行く月を網に刺し我が大君は蓋にせり
大空をわたる月を、鳥でも刺すように網でからめとり、大君はその月を蓋になさっている。
天武朝では、月は嫌われていたのかな
桜井市のホームページにも載っている
桜井市にこの歌の碑もあるな
天武はよっぽど月や鳥が嫌いだったんだろうな
朱鳥なんて血塗れの鳥を連想するし >>81
>新野と襄陽の間の山間部にいたのなら、新野よりも襄陽にずっと近くなり、
新野と襄陽の間に山間部とかないよw アマタラシ系はどうなったんだろう
少なくとも聖徳太子の時代迄は存在したはずだが
息長タラシ系はどうなったんだろう
最後は大津皇子かな
ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
金烏臨西舎 鼓声催短命
泉路無賓主 此夕離家向
にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも 龍田神社
天武天皇4年(675年)4月10日に勅使を遣わして風神を龍田立野に祀り、大忌神を広瀬河曲に祀ったと『日本書紀』の記述が初見である。
祭神
天御柱命は級長津彦命(男神)、国御柱命は級長戸辺命(女神)のこととされている。
天武は息長タラシ系を滅ぼしたんじゃないかな
そして鎮魂したと 和歌の父母
難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花
安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思はなくに
難波、この、安積山(アサカヤマ)、山の井
重要なキーワードが散りばめられている 古代史に於いて、
上町台地〜泉北丘陵、ナニワ〜イズミ、大阪湾の汀はかなり重要なポジションにあると思うが、無視する人が多過ぎる >>81
>古田第1書では「屯苑=屯した苑」という意味での引用をされたが、
文法メチャクチャだな >>992
〉京都は畿内だから、京都説も畿内説の一つだろう。
桜井市が畿内の中心だとか思っている?<
畿内なんてなかったし、「南≠東」で、京都も桜井も×。
有り得る事は、どちらも倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国。 もう一つ古代史で重要なのは、白と表現される勢力
イトシロ石徹白の地の役割ってなんだったんだろう
イトって何なんだろう
郡上市、白山中居神社の五段神楽の謂れは興味深い
五段神楽は、古代史上最大の王権をめぐる闘いに勝利した天武天皇の即位を称えて、
天下太平国家安全を五行相生の原理に基づいて宮廷の五節舞いと同様に天武期に越の宗廟(石徹白)と岩見、出雲等で舞われる様になった。
吉田神道は、宝暦騒動の頃に、朝廷を中心とした、天下太平国家安全を祝う祭りの性格を、一地方の単なる春祭りの神楽に移行され、五行舞を五段神楽に改められた。 >>993
>(屯宛の地は)「宣池」付近で、新野に「転屯」した方がベターな地、
という事しか判らない。<
>漢文が読めない? 襄陽から遠くなっちゃったらベターじゃないんだが <
要は襄陽への短時間性や至便性の問題。
距離は近くても山越えになったんでは、迅速な大軍移動など出来ない。 >>81
>宣池の名前を出した、という事は、宣池を中心とする散屯だ。
・・・
>新野と襄陽の間の山間部にいたのなら
支離滅裂だな
山間部なのか池なのか、ハッキリしろよ
だいたい新野と襄陽は川の上流下流だ
間の山間部とか、有るわけないだろ >>998
>九州王朝説がどれほどトンデモか、よくわかる
お「短里」で、襄陽から20キロちょいのところに駐てた魏軍が
「緊急時に対応するため」3倍も遠くに引っ越しするなんて 支離滅裂だよ<
山越えよりも河川の舟行の方が、はるかに迅速に移動出来る。 >>97
何処にそんな山があるの?
なんて名前の山? >>999
>それ、方角が反対です<
「行護軍将軍」は、当然、
「一か所にいる事」よりも、「駆けずり回る」事の方が仕事です。 >>1000
大和説は、「南→東」などのように、嘘つき騙しのトンデモだなあ。 >>67
>邪馬台国はヤマト国 生駒葛城山系の東側 ・・・<
邪馬台国なんて存在しないし、「南≠東」などに拠って×。 >>101
涼州軍閥と連戦したあと祁山の事件があったんだから、どう考えても夏候淵が駐屯していたのは長安だよ。
その間に洛陽に返って来たという記録も無い >>68
>攻めてきたのは、出雲など山陰と尾張三河など東海の勢力だよ。
彼らが平和な世界を破壊したんだな。<
攻めて来たのは、九州倭国の「東征毛人五十五國」の軍。
「出雲など山陰」は、どちらかと言えば縄文毛人系で、独立的であった。 >>101
甘粛省まで救援に行くのに邯鄲まで往復する時間が惜しいのだと
定説の長安じゃなくて洛陽で言わせるセンスが
実にあきれる
完全に脳がブッ飛んでるだろ どうも古田一派はなぁ
・・・
東南に何百mか進んだあと東北に何十kmか行くことを
「東南陸行」と称したり、みたいな
バランスの悪い思考をするねぇ 王都は纏向では無い 奈良は王家の墓
王都は京都できまり >>74
〉第二の道とは、(中略)大和弥生社会がこの時期により大き な別の権力主体によって征服、あるいは包括、
刷新されるという苛酷な道であり、そこでは農業共同体構造の再 編は外的強力によって強制的に達成されたことになる。
旧稿において私は、(中略)第二の道を主張した。
しかしこのことが、私があたかも北部九州勢力の東遷論 者であるかに評価されることとなり、
5年後に刊行された橿原考古学研究所論集では改めて、いわゆる「東遷論」 一般には与するものではないことを明記した。<
つまり、寺澤は、「自昔・・・東征毛人五十五國」という一級史料事実を考慮しない騙しをしている、
という事のようだね。 >>76
畿内も大和朝廷も皇后も皇子もいなかったから、×。 西洋史においては、
古代ギリシアにおけるエーゲ文明の成立から西ローマ帝国の崩壊(476年)まで
中国史においては
秦王朝の成立(紀元前221年)から、後漢王朝の崩壊(220年)
韓国・朝鮮史においては
新羅の成立(紀元前57年)から後三国時代の終わりまで(936年)
それに比べ日本の古代は新し過ぎる・・・・・・朝廷により抹殺されてしまった
よって、邪馬台国はヤマト王権と全く関係ない、ヤマト王権が抹殺した >>116
史料は無視しないけど
珍解釈は考慮しないよ普通 >>77
畿内も邪馬台国も大和朝廷もなかったし、
「南≠東:に拠っても、×。 >>851(前スレ)
>だから、お前の漢文の訳が「張元済本の苑を全部宛に変えてあった」からおかしいんであって、
失礼だなぁ。
>>210(前スレ)
のは書き下しただけで訳していないよ。()内は理解しやすいように補足してあるだけ。 >>78
魏志での長里説のいかがわしさが、一気に吹き出したな。 >>117
九州王朝説は証拠も論理もなかったから、×。 >>82
畿内なんてなかったし、
卑弥弓呼も、「南≠東」に拠って、×。 >>975(前スレ)
>そうだね。この男は、どうしても、書陵部本と張元済本の該当箇所の提示しないで、
>勝手に「間違えたまま」とするインチキ詐欺師であった訳だね。
提示するとかしないとか関係ないでしょ。
書写や刊行本を作るときの原理原則で「間違えたまま」になるのだからさ。
>結局この男も、唐代史家や現代大和説者らと同じく、「自己解釈に拠る書き換え」を肯定するインチキ詐欺師であった訳ね。
(再掲)書き換えはないんだよ。逆もないわけ。ただ誤記だけがある。
肯定してないでしょ。的外れな誹謗中傷だね。
>「海」と「馬」の誤記なんて、可能性が全くないよ。
そんなの希望だって。書写する人の能力に左右される。
>前代にあった、というのが史料事実であり、史料実態。
この男は、科学や学問には向いておらず、宗教や詐欺師に向いている男。
補強材料もないのに言い張っているだけでしょ。
学問には慎重さが必要なんだよ。
反論に誹謗中傷で返していて学問になるの? >>122
つか、城もないよな山の中(笑)が荊予二州総司令官の治所だと言い張る人々って、どういう頭の構造しとんのかね >>85
邪馬台国も大和朝廷もなかったし、
卑弥呼も「南≠東」に拠って、×。 >>67
鋭い。
その生駒葛城山系の東側に高天原が有るしね。
大和朝廷の発祥地だし。
そういうとアホがすぐに何遺跡なのかと聞いてくる。
日本では太古の王の痕跡は神社になってる。
式内社の中でさらに霊験あらたかな名神大社をみればいい。
遺跡云々は考古バカの言う事。 畿内説って負けてない負けてないって掛け声だけだよな >>133
名神大社の発掘などできないのだから考古バカは消えるが良い。
最も大事なのは神社伝承を含む文献史や地名の成り立ちなどの「謂れ」
日本は外国のように征服されて血筋を絶やされたような国ではないのだから、
卑弥呼に関係する信仰も伝承も残ってる。 >>132
式内社の名神大社
でも
弥生集落遺跡でも倭国(阿波)。 @阿波 >>135
式内社の名神大社
でも
弥生集落遺跡
でも
卑弥呼に関係する信仰や伝承 でも倭国(阿波)。 @阿波 >>140
ほら、逃げた
やっぱりウソだったんだね >>139
阿波の名神大社は3社
大和 50社 山城 29社 摂津 18社 筑前 16社 陸奥 15社
但馬 14社 近江 13社 紀伊 12社 河内 9社 尾張 8社 >>142
それ全部、倭国(阿波)を発った忌部一族が興した所だね。 @阿波 >>89
>>新野と襄陽の間の山間部にいたのなら、新野よりも襄陽にずっと近くなり、<
>新野と襄陽の間に山間部とかないよw<
川が南北に流れ、東側が遠くからの山地があり、窪地に池にがあるんなら、
窪地付近は、最低山地だろうなあ。 >>103
>長安を中心にな<
長安は督すれば済むだけ。 >>147
Google Earthでも一目で確認できる山がない平地を山地と言張る反日どろぼう >>135
記紀を読むといくつかの勢力が滅亡している。
最終的に現在の天皇家が生き残っているが、それだけ見て万世一系を唱えるのはナンセンス。
卑弥呼の王統だって消えてしまった勢力の一部であった可能性が否定できない。 >>105
>涼州軍閥と連戦したあと祁山の事件があったんだから、どう考えても夏候淵が駐屯していたのは長安だよ。
その間に洛陽に返って来たという記録も無い <
淵の任ぜられた「護軍将軍」は「都」にあって「司直」「武官選」を司る職である。
その上、『魏略』には太祖時点の史料がある。
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石、旋軍並止罷。」(「後漢書志」百官一、劉昭註)
これは「都に護軍中尉を置き、(都に)護軍将軍を置く。」の省略形であるから、護軍将軍の官は「都」に置かれているのである。
したがって山尾氏の立論の基礎たる在長安説は成立できない。 出雲には名神大社は2座しかないのに
式内社は187座と、大和 286座 伊勢 253座の次に多い >>107
戦前の「万世一系皇国史観」の殺人テロや侵略戦争戦争大好きな、
キョクウの大和説者の会。 >>150
記紀
でも
式内社の名神大社
でも
弥生集落遺跡
でも
卑弥呼に関係する信仰や伝承 でも倭国(阿波)。 @阿波 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています