平原鏡はマンホール
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マンホールというのは外来語だから、3世紀の人間がマンホールという用語そのもので 考えていた可能性は否定できるが、
ここでマンホールというのは、暗渠や水路などの蓋という 機能面について言及している言葉であり、水路に渡した板などもこの概念に含まれるし、 肥溜めなどの蓋も当然考慮に入れられるだろう
そうした蓋は、もちろん木製で作られていただろうが、鏡としては不必要に大きく作られた 平原1号墓の破砕鏡を見て、3世紀の人間が肥溜めの蓋のようだと考えた可能性があるということだ
これを考えているのが現代人だから、それをマンホールの蓋という現代の用語で記しているだけで 本質においては変わらない
3世紀の人間が、マンホールの蓋のようだと考えた可能性は否定できない お前はどう見えると聞くからマンホール蓋に見えると言ったんだが
弥生人がどう見たか知るか アタマのレベルが違う人間にけんかを売っても、返り討ちにしかならないよw
まあ、九州説は人材が払底しているから仕方ないかw
払底って言葉が分からないっていいそうだしな 基本的な語彙レベルから違う
レベルの高いスレのレベルの高い議論にご期待くださいwwww 肥溜め好きの変態、ここで、弥生時代に肥溜めの蓋があったことをまずは証明しろよ。
「ないこと」は証明できないからな、お前がここで、「あったことを」証明しとけよ。 平原鏡はマンホール
自分で言ってりゃぁ世話ないわww
それが世界の常識ってことで構わないよw 内行花文鏡が太陽信仰の象徴だってのが
「あったこと」の証明はいつしてくれるんだ?
これが根本なんだが?
見た目が太陽だからっていう主観ではどうにもならないっていうところで、がんばれ 結局、伊都国東遷スレで、
990日本@名無史さん2018/07/16(月) 17:55:48.60>>993
>>988
で?弥生時代にマンホールがあった証拠は?
あなた、文脈無視してもダメだよ?
とか言ってたのはお鏡さん本人だったんだな これとかも
992日本@名無史さん2018/07/16(月) 17:59:27.64>>994>>995
>>991
文脈無視の文盲は弥生時代にマンホールがあった証拠を持ってこい、話はそれからだ。 自分は人からの質問に一切答えずに
一方的に要求だけする、だめ人間感が同じだわ こういうのと同じw
623岡上 ◆Lv09mLa3HM 2018/04/25(水) 22:27:56.82
>>621 622
そうですね、三角縁でなくて、大型の内行花文鏡が丁重にあつかわれてましたねぇ。
なんで無視したんですか? 何か不都合でも? 「畿内説者のレベルの低いこの重複偽スレッドでは、岡上氏の能力の全てを引き出せないからね。。。。
岡上氏が投稿しなくなったのも、そういうことなんじゃないのかな、」
とか
「岡上氏の高度なレベルの投稿が懐かしいね。。。 」
とか
「僕たちは、なぜか岡上氏だと勘違いされているね。。。
僕たちにとっては、あの博識な岡上氏と間違えられるのは光栄なのだけれども、、、、、
思い込みの激しい、キナイコシと皆に呼ばれている、奈良の狂った老人に、いわれのない誹謗をされている本当の岡上氏に、申し訳ないね。。。」
とかいうのは、自演ってことでOK?
九州説のやつが他人を誉めることってないしww 太陽の象徴とするのは推測でしかないが、辻褄は合うといったところか
鏡とは、どういう意味があったのだろうな
欠片でも磨いて大事にしてるし
何らかの思想があったのは間違いない 鏡は太陽を映すことができるから、丸い鏡が太陽の表象というのはいいんだよ
その中で、内行花文鏡だけが太陽信仰の象徴とか言い出すから話がおかしくなる
その理由が、太陽に見えるからって、バカっぽいにもほどがある 結局ここも無駄スレだな
まともに返事が出来なくなって逃げただけ 内行花文鏡の模様を見て太陽を想像するのは自然なことだと思うけどね。 見えるから、という理由だけで、
他の鏡種ではなく内向花紋鏡だけが太陽信仰の象徴とか言い出すから
おかしな話になるんだよ
丸い、光を反射する円形鏡が太陽の象徴というのは分かる
古代中国の図像論として、太陽がどのように描写されてるかとかを
きちんと調べて、それから八連弧文が太陽の象徴というならまだ分かるんだがね
内向花文鏡のもとの形は連弧文鏡だが、例えばこの鏡とか、太陽に見えるかい?
https://lh3.googleusercontent.com/-JkoRaOL6zWE/VquP-1b7IqI/AAAAAAAADNs/oeMTR7-sBtk/s2600/rak_thk24.gif >>20
勘違いすんなよ。
ここはマンホールスレだぞ 内行花文鏡がマンホールの蓋だった証拠はまだですか? >>20
太陽に見えなくもない。
平原遺跡までにより太陽に見えるように図案が進化したんだね。 でも、平原1号墓の前から倭王墓には内行花文鏡が副葬されていたとかいうんだよなww >>23
>内行花文鏡がマンホールの蓋だった証拠はまだですか?
逆だろ? 内行花文鏡がマンホールの蓋ではないことを示さなきゃいけないのは マンホールの蓋に見えるなら、マンホールの蓋の象徴だと認めない限りは 価値があるかどうかは問うていない
太陽に見えるから太陽信仰の象徴というガバガバ理論を認めろというなら
マンホールの蓋に見えるからまんっホールの蓋の象徴と認めない理由はない
それ以外は、ただのダブスタ まあ、八咫。古語八頭也。と書いてあるから、大きさは関係ないってことだなww この無駄すれも、とっとと倉庫送りにしないとダメかね 伊勢二所皇太神御鎮座伝記の、神鏡座事を載せておくよ
~鏡座事
一面者。從月天顯現之明鏡。
圓形座。三光天衆五飛龍守護~五座。是天鏡尊之鑄造白銅寶鏡也。
月天所作三面之内也。
崇祭止由氣宮是也。
大田命曰久。崇~天皇御宇止由氣皇太~天降坐弖。天照皇太~與一處雙坐。
于時從天上御隨身之寶鏡是也。~代天御中主~所授白銅鏡也。
是國常立尊所化~天鏡尊。月殿居所鑄造之鏡也。三才三面之内。一面是也。
今二面者。天鏡尊子天萬尊傳持給是。次沫蕩尊。次伊弉諾伊弉冉傳持給天。
~賀吉詞白賜弖。日~月~所化乃眞經津鏡是也。天地開闢之明鏡也。
三才所顯之寶鏡也。當受之以清浄。面求之以~心。視之以無相無位。
因以爲~明之正躰也。今崇祭一面荒祭宮御靈。一面多賀宮御靈坐。
已上三面辭竟奉支。
一面者。八百萬~等以石凝姥~奉鑄寶鏡是也。是則崇祭伊勢太~宮也
一名日像八咫鏡是也。八咫。古語八頭也。八頭花崎八葉形也。故名八咫也。
中䑓圓鏡形座也。圓外日天八座。
一面者。日前宮座也。石凝姥~鑄造鏡也。初度所鑄不合諸~意。紀伊國日前~是也。
已上。~代寶鏡是也。 ~鏡座事
神鏡の鎮座にかかる事
伊勢神宮(外宮、内空)に奉祭されている神鏡及びその関連した鏡の由来や鎮座について 一面者。從月天顯現之明鏡。
一面は、月天顕現による明鏡なり
(神鏡のうちの)一面は、月天(月の精、月の神)の顕現によって(從)
(作られた)明鏡(すばらしい鏡)である 圓形座。三光天衆五飛龍守護~五座。
円形に座す。三光天衆の五飛龍守護神の五座。
円形(の鏡)である。三光天(日月星)の供である五飛龍
守護神の五座(が描かれている) 是天鏡尊之鑄造白銅寶鏡也。
これ、天鏡尊の鋳造せる白銅寶鏡なり。
この鏡は、天鏡尊が鋳造した白銅の宝鏡である。 月天所作三面之内也。
月天の作るところの三面の内なり。
月天(月天顕現)によって作られた三面の鏡のうちの(一枚)である。 崇祭止由氣宮是也。
止由氣宮に崇祭するもの、これなり。
止由氣宮(伊勢神宮外宮、豊受大神宮)に、
おまつり(崇祭)しているご神鏡が、これである 大田命曰久。
大田命曰く。
大田命が曰うことには
久は表音文字 原文では小さく書かれている
大田命は不詳
崇神代の人物なので、大田田根子か? 崇~天皇御宇止由氣皇太~天降坐弖。
崇神天皇の御宇、止由氣皇太神の天降り坐して。
崇神天皇の御代に、豊受皇太神が天降りして坐した。
弖は表音文字 原文では小さく書かれている 天照皇太~與一處雙坐。
天照皇太神と一處に雙び坐す。
天照皇太神と、一つ処に並び坐す。
神道五部書は外宮の宮司家、渡会氏の書いたもの(度会神道)なので、
外宮の神、豊受大神を、天照大神と対等のように記している 于時從天上御隨身之寶鏡是也。
時に、天上より御随身の寶鏡、これなり。
(豊受大神が天降りした)時に、天上から身に随えてきた宝鏡がこの鏡である。 ~代天御中主~所授白銅鏡也。
神代に、天御中主~の授けるところの白銅鏡なり。
神代に、天御中主神が(豊受大神に)授けた白銅鏡である。 是國常立尊所化~天鏡尊。
これ、國常立尊の化するところの~、天鏡尊。
この国常立尊の姿を変えた神が、天鏡尊である。 月殿居所鑄造之鏡也。三才三面之内。一面是也。
月殿を居所に鑄造の鏡なり。三才三面のうち、一面これなり。
(天鏡尊が)月殿にいて鋳造した鏡である。三才三面のうちの、一面がこの鏡である。
三才は通常は「天地人」を意味するが、三枚セットという程度の意味でよさそうだ 今二面者。天鏡尊子天萬尊傳持給是。
今、二面は、天鏡尊の子、天萬尊のこれを傳え持ち給う。
今(述べた三面のうち)二面は、天鏡尊の子の天萬尊に伝えられ、天萬尊が持っていた。 次沫蕩尊。次伊弉諾伊弉冉傳持給天。
次に沫蕩尊。次に伊弉諾伊弉冉傳え持ち給いて。
(天萬尊の)次に沫蕩尊、その次に伊弉諾伊弉冉に伝えられ、持っていた。
天は表音文字 原文では小さく書かれている ~賀吉詞白賜弖。
~賀吉詞、白し賜いて。
神賀吉詞 ( かむほぎのよごと ) 、白し(もうし)賜いて。
弖は表音文字 原文では小さく書かれている 日~月~所化乃眞經津鏡是也。天地開闢之明鏡也。
日~月~、化するところの眞經津鏡、これなり。天地開闢の明鏡なり。
日神や月神の形をもったものである眞經津鏡がこれである。
天地開闢のすばらしい鏡である。
眞經津鏡は、日本書紀では八咫鏡の別名に使われている。
外宮の鏡を眞經津鏡とするのは、神道五部書だけ(だと思う) 三才所顯之寶鏡也。
三才の顯なるところの寶鏡なり。
三才の顕現である宝鏡である。
繰り返しだが、三才は不詳(通常は天地人、この場合は月日星かとも思うが、星は関係ない)
天鏡尊が三面の鏡を月殿で作ったとしているので、その三面を三才としているようだ。 當受之以清浄。面求之以~心。
當にこれを受くるに清浄をもってす。これを求むるに~心をもってす。
これ(三才顕現の宝鏡)を受けるには清浄でなければならない。
これ(宝鏡)を求めるには神心からでなければならない。 視之以無相無位。 因以爲~明之正躰也。
これを視るに無相無位をもってす。因りてもって~明と爲す、これ正躰なり。
これ(宝鏡)を視るには無相無位でなければならない。それによって、神明とするのだが、これがご神体である。
無相は、姿・形のないこと、すべての執着を離れた境地。
無位は、世俗の基準を超えた真実の人。 今崇祭一面荒祭宮御靈。一面多賀宮御靈坐。
今、一面を荒祭宮の御靈として崇祭す、一面は多賀宮の御靈として坐す。
今日、(宝鏡3面のうち)一面は荒祭宮の御霊(ご神体)としておまつり(崇祭)している。
一面は多賀宮の御霊(ご神体)に坐す(います)。 已上三面辭竟奉支。
已上の三面の辭、竟え奉りき。
以上の三面のこと、終え奉りき。
支は表音文字 原文では小さく書かれている 大田命曰久。
「崇~天皇御宇止由氣皇太~天降坐弖。天照皇太~與一處雙坐。
于時從天上御隨身之寶鏡是也。~代天御中主~所授白銅鏡也。
是國常立尊所化~天鏡尊。月殿居所鑄造之鏡也。三才三面之内。一面是也。
今二面者。天鏡尊子天萬尊傳持給是。次沫蕩尊。次伊弉諾伊弉冉傳持給天。
~賀吉詞白賜弖。『日~月~所化乃眞經津鏡是也。天地開闢之明鏡也。
三才所顯之寶鏡也。當受之以清浄。面求之以~心。視之以無相無位。
因以爲~明之正躰也。』今崇祭一面荒祭宮御靈。一面多賀宮御靈坐。」
已上三面辭竟奉支。
「 」内が大田命の言葉
『 』内が神賀吉詞 ( かむほぎのよごと ) 一面者。八百萬~等以石凝姥~奉鑄寶鏡是也。
一面は、八百萬~等、石凝姥~をもって鑄奉る寶鏡これなり。
一面は、八百万の神が石凝姥神に鋳造してもらった宝鏡がこれである。 是則崇祭伊勢太~宮也
これ則ち、伊勢太~宮に崇祭せるなり。
この宝鏡が、すなわち伊勢太神宮におまつり(崇祭)している御神鏡である。 一名日像八咫鏡是也。
一名、日像八咫鏡、これなり。
その名前を、日像八咫鏡という御神鏡がこの鏡である。 八咫。古語八頭也。
八咫。古語でいう八頭なり。
八咫というのは、八頭の古語である。 八頭花崎八葉形也。故名八咫也。
八頭花崎八葉形なり。故に名を八咫とするなり。
(日像八咫鏡)は八頭花崎八葉形をしている。それ故に八咫の名がつけられている。 中䑓圓鏡形座也。圓外日天八座。
中䑓は圓鏡形に座すなり。圓外に日天の八座。
中台は円鏡形をしている。円外に日天の八座がある。 一面者。日前宮座也。
一面は、日前宮に座すなり。
一面は、日前宮に座す(います)鏡である。 石凝姥~鑄造鏡也。
石凝姥~の鑄造せる鏡なり。
石凝姥神が鋳造した鏡である。 初度所鑄不合諸~意。
初度に鑄するところ、諸~の意に合わず。
最初に鋳造した時のもので、諸神の思ったようなものには仕上がらなかった。 紀伊國日前~是也。
紀伊國の日前の~、これなり。
紀伊の国の日前宮の御神鏡が、この鏡である。 已上。~代寶鏡是也。
已上、~代の寶鏡これなり。
以上、神代の宝鏡について(伝えられていることは)この通りである。 >>47の補足
大田命は、猿田彥大神の末裔で、もともとの伊勢の土地神、土君として
祭られていた人物・神のことのようだ https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/sintou_gobusyo/denki01.htm 神道五部書(含む御鎮座伝記)を、やたら重視する向きもあるが、
その根本において、外宮宮司家の渡会氏が、内宮と同格であると主張するための文書だから
かなり牽強付会なところがある
史料の限界を意識して読まないといけない くだらないイチャモンはいいから、さっさとスレの趣旨についての論証を進めろよ。 >>79
>くだらないイチャモンはいいから、さっさとスレの趣旨についての論証を進めろよ。
これについてはもう決着がついてるだろ?
ここのスレタイにも書いてあるじゃないか?ww
「平原鏡はマンホール」 >>79
>くだらないイチャモンはいいから、さっさとスレの趣旨についての論証を進めろよ。
これについてはもう決着がついてるだろ?
ここのスレタイにも書いてあるじゃないか?ww
「平原鏡はマンホール」 3世紀にマンホールがあったという証明は?
あと基本的なことなんだが、マンホールは穴のことで、あえて書くなら「マンホールの蓋」と書くべきだろう。
アホの>>1 纏向珠城宮皇女倭姬命伊勢國渡遇之宇遲乃五十鈴河上之邊。
立礒宮御座之時爾。狹長田之猿田彥大神。宇遲土公氏人遠祖神也。
齋內親王。神主部。天村雲命之孫。大若子命弟。乙若子命等也。
物忌等。天見通命之孫。宇多大牟禰奈。大阿禮命等也。
訓悟白久。「凡天地開闢之事。聖人所述也。爰伊勢天照皇太神。
五十鈴乃河上爾御鎮座之制作。未露紙墨。故元始綿邈。其理難言志。願爾諸聞給倍。
『吾是天下之土君也。故號國底立神也。吾是應時從機比。化生出現之。故號氣神。
吾亦根國‧底國與理麤備疏備來物仁。相率守護之。故名鬼神。
吾復為生物仁授與壽福之。故名-大田神。吾能反魂魄之。故號興玉神。
悉皆自然之名也。物皆有效驗。我將辭訖。』遂隱去矣。」 纏向珠城宮皇女倭姬命伊勢國渡遇之宇遲乃五十鈴河上之邊。
纏向珠城宮、皇女倭姬命、伊勢國渡遇の宇遲の五十鈴河上の邊り。
纏向珠城宮(垂仁天皇のこと)の皇女である倭姬命が、
伊勢国渡会の宇治の五十鈴川の川上の辺りに、 よく考えれば、国宝指定までされて、日本人にとって普遍的価値を持つような考古遺物を、
よりにもよって肥溜めの蓋を象徴しているとまで言うとは、、、
まじ国民の資格ないな、キナイコシは。
マジスグシネヨ >>86
「キナイコシ」が出たよww
日本語がおかしいやつが日本の歴史に口出すなっての つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。 畿内説が、完全に破綻してしまったことが、はっきりした今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば、良いのではないのかな、、、 そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。 他人に対する敬意がまったく持てず、スグシネヨなどと簡単に言える辺りも、
日本人とは違う文化圏の育ちなんだろうね、「キナイコシ」は つまり、口調を変えてごまかそうとしていた節はあるが、
やはり連続句読点と「キナイコシ」は、同じ荒らし野郎ってことだ キナイコシは日本文化への敬意が足りない。
だから八咫の鏡やら祇園祭やら沖ノ島やらをこき下ろそうとする。 しかし、なぜ、畿内説を宣伝するキナイコシは、夜麻登登母母曽毘売を卑弥呼と誤認定したのだろうか、、、 >>93
アンチに袋叩きにあうと、相手は一人だと思い込もうとするんだな。
きっと精神的な防衛機制なんだろう。
全ナントカ病というやつか? キナイコシも、本当は、夜麻登登母母曽毘売を卑弥呼だとは信じていないのではないのかな。。。 >>98
観光業界の宣伝のために、言い張っているだけではないのかな。。。 >>99
そうだね、畿内説で有名な某学者も退官したら倭人伝の記述は九州だと認めたらしいしね、、、 >>95
恣意的な持ち上げはダメだと言ってるだけ
皇統の八咫鏡は崇敬の対象だが、その権威に背乗りしようとする関係のない鏡は
きちんと関係ないと言わないと! 「キナイコシ」は、ザラコクと並んで、一番軽蔑している >>95
>祇園祭
祇園祭の祭神がどの神なのか分かってないんだろうなw 皇統の八咫鏡の起源と、なぜそれが皇位の象徴となったかについて、考えたりしないのかな? 八咫鏡は高天原で石凝戸邊命が作ったことになっているけれど、
石凝戸邊命の奉祭氏族は、唐古鍵近くの作鏡連だ
つまり、実際には唐古鍵の銅鐸を作っていた青銅器製作技術者が、
大和の地で八咫鏡を作ったのだろう
それが、皇室の権威とともに伝世することで神聖な鏡となったんだよ
普通名詞としての八咫鏡の存在も記紀に描かれているし、その中で
皇室の鏡だけが神聖化された
平原に八咫鏡があったという説話も伝承もない
平原1号墓出土鏡は、皇統の八咫鏡とは無関係だよ 昔は八咫鏡は複数あったということだろ。
しかし、高天原で八咫鏡を与えられたニニギは筑紫に降臨したんだぞ。
その時点では大和など影も見えない。 >>105
>石凝戸邊命の奉祭氏族は、唐古鍵近くの作鏡連だ
末裔が筑紫から移り住んだだけ。
>つまり、実際には唐古鍵の銅鐸を作っていた青銅器製作技術者が、
>大和の地で八咫鏡を作ったのだろう
根拠ない妄想ですね。 >>107
銅鐸の同范作成技術で作られたのは三角縁神獣鏡の方だよ。
内行花文鏡は、複製された数が少ないだろう? 銅鐸の同笵は石製鋳型で後半には見られなくなる
三角は土の鋳型
技術の系譜がまったく異なる >>106
>昔は八咫鏡は複数あったということだろ。
複数あったというより、普通名詞だったんだよ
皇統の鏡は、記紀によれば崇神の時代には存在する
それと、雄略紀の小鹿火宿禰の持っていた鏡が、
同時に鋳造されたものってことはないだろう >>107
>末裔が筑紫から移り住んだだけ。
筑紫に石凝戸邊命に関連する説話や神社はあるのかい? 八咫の鏡を持って降臨した筑紫の日向の高千穂だね。
細石神社はニニギと木花開耶媛。
高祖神社は彦火火出見。
いわゆる日向三代の男王達。 >>114
で、筑紫に石凝戸邊命に関連する説話や神社はあるのかい?
なければ、石凝戸邊命の末裔が筑紫から来たという説が根拠薄弱になるんだが? >>114
日向三代と言いつつ、2代しか書いてないぞw >>110
三角や画文に見られる半肉彫りの紋様は石の鋳型では不可能 >>118
日本語読めますか?
「半肉彫りの紋様は石の鋳型では不可能」 で、筑紫に石凝戸邊命に関連する説話や神社はないんだな? >>119
考古遺物として鋳型が出土したわけじゃないのね。びっくりして損した。 この程度で「考古学的事実」とやらを振りかざす滑稽さよ >>120
そりゃあ、高天原で作ったものを筑紫に持ち込んだことになっているからね。 >>123
>そりゃあ、高天原で作ったものを筑紫に持ち込んだことになっているからね。
でも、日向三代の間、筑紫島にあったことを示す説話も伝承も
伊都、三雲、平原周辺には一切ないんだね?
実際、いなかったんじゃないの?
石凝戸邊命をきちんと(?)祀っているのは、
大和の鏡作坐天照御魂神社、鏡作神社、鏡作伊多神社、
和歌山の、八咫鏡の試作鏡との伝承のある日像鏡を御神宝とする日前國懸神宮
辺りがおおどころ
畿内というか、唐子鍵周辺が中心
八咫鏡は、唐子鍵の青銅器製作の特定家系が作ったってのが一番ありそうではある
宮崎にも三宅神社という石凝戸邊命を祀る神社がある
調べた限り、福岡県にはなさそうだよ? >>124
>実際、いなかったんじゃないの?
伊都に日向三代を祭る大きな神社がある(高祖宮)。
>辺りがおおどころ
勝手な妄想は無意味。 >>124
>調べた限り、福岡県にはなさそうだよ?
伝承では高天原で作ったわけだから、問題ない。
ただし考古学的には鋳型などの多くは福岡で見つかる。 >>125
>伊都に日向三代を祭る大きな神社がある(高祖宮)。
だから、日向三代でごまかすなって(繰り返し)
石凝戸邊命は居ないのかと訊いてるんだよ
鏡作上祖石凝姥命は、古事記と日本書紀の一書でニニギと一緒に天下ってるぞ
古事記の表記では伊斯許理度賣命
その痕跡は、伊都国及び福岡県にはないってことでいいな?
宮崎県(日向)には、三宅神社があるけれど >>126
>ただし考古学的には鋳型などの多くは福岡で見つかる。
そこらの鏡の鋳型がいくらあってもしょうがないだろ?
今問題にしているのは、石凝姥命の作った八咫鏡なんだから 結局、伊都国、三雲・平原周辺には、八咫鏡関連の情報が一切なくて
かすりもしないのは確認できたな! >>127
>石凝戸邊命は居ないのかと訊いてるんだよ
たかで作って、筑紫に持ち込んだ。
理解できますかあ? >>127
>石凝戸邊命は居ないのかと訊いてるんだよ
高天原で作って、筑紫に持ち込んだ。
理解できますかあ? で、石凝姥命の足跡が筑紫には一切残ってないって言ってるんだよ
五伴緒神の一人として天下った、重要な神なのにその痕跡すら一切筑紫にはない
よそのスレで鏡作りは職人だとか見下した発言をしていたバカがいるけれど、
祭器の製造を管掌するのは、重要な神であり家系とみなされている
平原1号墓ででかい鏡を作ったのは、天下った日向三代の家系の王だからという
「設定」なのに、その鏡を作るべき「石凝姥命」及びその後裔の気配すらまったくない
これはどういうことなんだろうね?
要は、平原1号墓の鏡を作ったのは、八咫鏡を作った集団=石凝姥命に代表される皇統の鏡作りとは
無縁だったんだろうってことだ
石凝姥命の後裔氏族、奉祭氏族は大和の唐子鍵付近にいる
神代に作ったという伝承になっているが、実際には弥生時代の唐子鍵周辺で作ったとする方が
神道五部書の御鎮座伝記に記された「日像八咫鏡」という名称を説明しやすい >>133
>作った八咫の鏡はどこにある?
日本人ですか? そんなことを疑問に思うなんて?
八咫鏡は、伊勢の御神鏡に決まってるだろうが!
そして、伝承というか記紀の伝えでは、崇神天皇の御代に形代を作っていて、
それが賢所の鏡
こちらも、八咫鏡の名で呼ばれる
この崇神天皇のときの、形代鋳造の試作品が日前神宮・國懸神宮の日像鏡という
社伝がある
一方、伊勢の外宮宮司家、渡会神道の神道五部書・御鎮座伝記の神鏡座事では、
日前神宮の日像鏡は、高天原で石凝姥神が八咫鏡を作ったときの試作品とされている 【八咫鏡】
平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。
内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
伊都にある王墓の代表である三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。
八咫鏡はニニギら日向王家の象徴であるが、それが日向峠のある高祖山周辺にあったことで、伊都が記紀に伝えられる倭国の旧都、筑紫の日向であったことがわかる。
石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口、日前は西の出口にあり、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
筑前国風土記では、沖ノ島辺津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、辺津宮、伊都に5枚で、最低でも10枚は存在していたことになる。
この他に日本書紀では筑紫の帥である神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、顛末は記録されていない(上記のいずれかと重複している可能性がある)。 >>135
>でもその鏡は八咫の大きさではないのでしょう?
神道五部書の御鎮座伝記・神鏡座事では、八咫鏡は日像八咫鏡とされ、
八咫は、八頭の古語と書いてある
八咫が大きさを意味するという、古記録、説話、伝承は一つもない
もともとは、原田大六氏の思い付きみたいなもの
神鏡座事の原文を載せておくよ
前半は、外宮の鏡のこと カギカッコ部分が、内宮の八咫鏡の記述
~鏡座事
一面者。從月天顯現之明鏡。
圓形座。三光天衆五飛龍守護~五座。是天鏡尊之鑄造白銅寶鏡也。
月天所作三面之内也。
崇祭止由氣宮是也。
大田命曰久。崇~天皇御宇止由氣皇太~天降坐弖。天照皇太~與一處雙坐。
于時從天上御隨身之寶鏡是也。~代天御中主~所授白銅鏡也。
是國常立尊所化~天鏡尊。月殿居所鑄造之鏡也。三才三面之内。一面是也。
今二面者。天鏡尊子天萬尊傳持給是。次沫蕩尊。次伊弉諾伊弉冉傳持給天。
~賀吉詞白賜弖。日~月~所化乃眞經津鏡是也。天地開闢之明鏡也。
三才所顯之寶鏡也。當受之以清浄。面求之以~心。視之以無相無位。
因以爲~明之正躰也。今崇祭一面荒祭宮御靈。一面多賀宮御靈坐。
已上三面辭竟奉支。
「一面者。八百萬~等以石凝姥~奉鑄寶鏡是也。是則崇祭伊勢太~宮也
一名日像八咫鏡是也。八咫。古語八頭也。八頭花崎八葉形也。故名八咫也。
中䑓圓鏡形座也。圓外日天八座。 」
一面者。日前宮座也。石凝姥~鑄造鏡也。初度所鑄不合諸~意。紀伊國日前~是也。
已上。~代寶鏡是也。 やはり、出土している事実は重いな
超大型鏡、その鏡が存在していた事は確実なのだから すべて卑弥呼よりはるか後世のものばかり。
筑紫の銅鏡文化が全国を席捲した痕跡に過ぎない。 >>140
そういうこと
平原は弥生時代終末期の墓であり、鏡は最古で最大
ここは重要だね
鏡文化の拡がりでいえば当然そうなる
古墳時代の大量鏡副葬文化はここからだろうし
そして、それは畿内では布留1以降、三角が副葬されるようになってから
ただ、思想の流行なだけかもしれんから、それは頭に置いている でかい鏡が出る墓は、そこかしこにあるけれど、
「その鏡が出たから王墓」だとは考えられていない
「でかい鏡を王墓に副葬するのが伊都国の文化であり、それが全国に広がった
平原はその発端であり、倭王の墓である」
という主張は、「現実」によって否定されるってこと
そして、大きな鏡は内行花文鏡に限らないし、平原1号墓の内行花文鏡の系譜は
どこにも引き継がれていない 平原1号墓の被葬者が、伊都国の歴史を考える上で重要人物だってのは認めてるよ
ただ、伊都国の歴史は史書にほぼ残されていないし、固有名を当てることは未来永劫できないだろう >>144
>伊都国は国邑の名であり、国家としては倭国ですね。
国家としては倭国なのはいいとして、国邑ではないよ
末慮国と同格 倭国の中に邪馬台国があって、その中に伊都国があるなんていうのは
二重帳簿詐欺だろう、と 纏向珠城宮皇女倭姬命伊勢國渡遇之宇遲乃五十鈴河上之邊。
立礒宮御座之時爾。狹長田之猿田彥大神。宇遲土公氏人遠祖神也。
齋內親王。神主部。天村雲命之孫。大若子命弟。乙若子命等也。
物忌等。天見通命之孫。宇多大牟禰奈。大阿禮命等也。
訓悟白久。「凡天地開闢之事。聖人所述也。爰伊勢天照皇太神。
五十鈴乃河上爾御鎮座之制作。未露紙墨。故元始綿邈。其理難言志。願爾諸聞給倍。
『吾是天下之土君也。故號國底立神也。吾是應時從機比。化生出現之。故號氣神。
吾亦根國‧底國與理麤備疏備來物仁。相率守護之。故名鬼神。
吾復為生物仁授與壽福之。故名-大田神。吾能反魂魄之。故號興玉神。
悉皆自然之名也。物皆有效驗。我將辭訖。』遂隱去矣。」 纏向珠城宮皇女倭姬命伊勢國渡遇之宇遲乃五十鈴河上之邊。
纏向珠城宮、皇女倭姬命、伊勢國渡遇の宇遲の五十鈴河上の邊り。
纏向珠城宮(垂仁天皇のこと)の皇女である倭姬命が、
伊勢国渡会の宇治の五十鈴川の川上の辺りに、 立礒宮御座之時爾。狹長田之猿田彥大神。宇遲土公氏人遠祖神也。
礒宮を立て御座の時に、狹長田の猿田彥大神は、宇遲土公氏人の遠祖神なり。
礒宮を立て御座(御神鏡をお祀りしようとした)時に、狹長田に猿田彥大神がいらっしゃったが、
宇治の首長の一族の遠祖神であある。 宇遲土公氏人遠祖神也は、狹長田之猿田彥大神に付けられた注記
二行書きの小さな文字で書かれている 齋內親王。神主部。天村雲命之孫。大若子命弟。乙若子命等也。
齋內親王。神主部は、天村雲命之孫、大若子命弟、乙若子命等なり。
齋內親王(後の斎王、倭姫のこと)、神主部は天村雲命之孫で大若子命、弟乙若子命等である
天村雲命之孫。大若子命弟。乙若子命等也は、神主部に付けられた注記
二行書きの小さな文字で書かれている 柳田康雄「九州弥生文化の研究2002」
(平原王墓p22)
「近年、韓国・・・から同類の瑪瑙管玉が多量に出土しており、時期については明記されていないが
共伴している土器や鉄器が三世紀前半から四世紀と考えられているものであり、多少前後するとし
ても韓国と日本で限定された時期に見られ、二世紀の古いものではない。
大型鏡の・・・銘帯の退化や主文の簡略化があり、中型鏡の・・・主文配置のずれ、L字文の逆方
向、銘文のずれ、鈕の大型化などがあり、その制作年代が三世紀になることが確実になった。」 物忌等。天見通命之孫。宇多大牟禰奈。大阿禮命等也。
物忌等は、天見通命の孫、宇多大牟禰奈、大阿禮命等なり。
物忌等は、天見通命の孫、宇多大牟禰奈、大阿禮命等である。
天見通命之孫。宇多大牟禰奈。大阿禮命等也は、物忌等に付けられた注記
二行書きの小さな文字で書かれている >>154
>銘帯の退化や主文の簡略化があり
要するに、仿製鏡大量生産のための手抜きだよな
倭王の葬祭に、手抜き鏡でいいのか?
>>139に挙げられた鏡は、どれも王墓とはされていない古墳からの出土だが、
平原1号墓出土鏡よりすばらしい優品ばかりだぞ 平原遺跡の超大型内行花文鏡の紋様は、象徴としての抽象化の結果だろうね。
より無条件に神秘性を表現することができる。
中国人から見た卑弥呼の鬼道とは、初期神道の祭祀そのものだよ。 「手抜き」は主観
「内行花文鏡本来の施紋原則から逸脱してる」なら事実
「その施紋方は受け継がれていない」は現時点で事実
「古墳時代の作鏡に影響を与えていない」も現時点で事実
「鏡作りの技術史において平原の内行花文鏡の位置付けはさほど大きくない」は事実から導かれた所見 >>160
えっと…、成分分析されてる方の意見だと、三角などの制作技術は、平原から受け継がれているとの話だったが…
基本的に話がずれていて、技術云々は工人の違いであり、鏡副葬文化の継承の考察とはまた違う
紋様の問題などはその鏡副葬文化"内"での話だし
時代や地域が違えば好みの鏡も違うだろう 平原1号墓出土鏡で、単なる同心円が引かれているだけの領域が、
他のまともな内行花文鏡でどのように表現されているかを見れば、
平原1号墓出土鏡が「手抜き」だってのは分かると思うぞ!
>>139にも3枚、内行花文鏡があるから見てごらん
九州説、伊都国説の人は、周りもちゃんと見れば、自分たちが
根拠のないことを言っていることに気づくと思うよ 抽象化しただけだろ。
単にあんたは平原遺跡が怖いから、無駄な抵抗をしているだけだ。 なんのための抽象化だ?
王のためなら、これでもかと意匠を凝らすものだろ?
実際>>139に挙げた鏡はどれも細かいところまで隙間なく文様を彫り込んでいる
しかもどれも倭王(大王)墓とはされていない古墳の副葬品だ
要するに、平原1号墓出土鏡は「大きくすることだけ」が目的の手抜き鏡なんだよ 平原1号墓しかない九州説は虚勢を張らなきゃいけないから大変だな 嫌われているのは平原遺跡やそこからの出土鏡ではなく
嘘をついたり荒らしたりして周囲に多大な迷惑をかけながら
自分の妄想を押し付けようとする伊都クズの所業 >>163
平原以前の日本製と思われる鏡で、平原より精巧な鏡ってある?
手抜き?の意味がわからん
「日本」での最新技術にしか見えんが? >>168
>平原以前の日本製と思われる鏡で、平原より精巧な鏡ってある?
以前、と区切る必要があるのか?
平原の年代があやふやだから、何をもって平原以前とするのかが分からないんだが?
鏡に限らなければ、弥生中期の祭祀用青銅器で平原1号墓出土鏡よりも精巧なものは
いくらでもあるが? >>169
誤魔化さないで銅鏡で答えろよ。
畿内説だと平原遺跡は2世紀なんだろ? 何を以て精巧であると言えるのか明確でないが
たてえ精巧であると評価できうるとしても
同時代や次代にデザインや技術的に影響を与えていないなら
それは技術史的には進化の袋小路に入り込んでると評価されるだけ >>171
平原遺跡の鏡が弥生時代の最高傑作という意味ですね。 弥生時代のねw
古墳時代の鏡にはまったく影響を与えていないw >>172-173
なんで連投にするの?
複数名いる芝居でもしてるの? 弥生時代の仿製鏡ってのが、あまりないからね
弥生時代の鏡はあくまで舶載鏡が重視されたのであって、仿製鏡の大量埋納というのは
平原1号墓以外ではあまり聞かない
魏から銅鏡100枚もらった卑弥呼の墓に、大量の仿製鏡を破砕供献するというのは
理由が分からないww
まあ、普通に考えて、卑弥呼よりも前の世代で、大陸からの舶載鏡が得られなかった時代に
がんばって仿製鏡を作ったんだろうなってところだね
仿製鏡がいくらたくさん出たところで、それが卑弥呼の墓の根拠にはならないだろ
魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず
墳丘に土壙墓を掘られるような、
径十歩に満たない墓は、
卑弥呼の墓も倭王の墓もない 卑弥呼より前の時代なら、後漢鏡をそのまま使えばいいだけですね。
漢が滅亡したからこそ、仿製鏡を作ったのでしょう。
つまり、平原遺跡は倭国大乱後の卑弥呼の墓の可能性が高いです。
耳璫の年代も、2世紀に遡るのは困難です。 >>176
つまり、日本での技術が最新という事だよな >>177
>後漢鏡をそのまま使えばいいだけですね。
それが、実際には使われていないだろ? >>178
>つまり、日本での技術が最新という事だよな
鏡以外の、銅矛とか銅鐸では、立体整形のもっとでかいのを2世紀には作ってる
半肉彫りでもない鏡を作る分には、技術的には特に問題はなかっただろ?
最新技術というほどの技術はないだろうに >>177
>つまり、平原遺跡は倭国大乱後の卑弥呼の墓の可能性が高いです。
魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず
墳丘に土壙墓を掘られるような、
径十歩に満たない墓は、
卑弥呼の墓も倭王の墓もない >>180
>鏡以外の、銅矛とか銅鐸では、立体整形のもっとでかいのを2世紀には作ってる
銅鐸の技術は途絶したろ。 銅鏡としては連続してる(キリッ
矛の形と名称は連続してる(キリッ
こいつバカだな… >>182
>銅鐸の技術は途絶したろ。
銅鐸の鋳型の出てる唐子鍵の近くに、鏡作神社があるんだよ
三角縁神獣鏡は、銅鐸を作っていた青銅器作成集団が作ったと考えてよい >>188
>三角は魏晋鏡だよ
その後の、大量の仿製鏡を作ったのが、鏡作神社周辺って話 >>190
結局は大和も仿製鏡だな。
平原遺跡の仿製鏡をさんざん馬鹿にして、その挙句がこれだ。 >>190
いや、かつては舶載とボウ製で区分されてたけど
技術的な視点では両者の区分は不可能ってなってるんだよ >>188
三角は最新では国産説の人が多そうだが?
石野さんとかそうだよね >>193
確かに判断は難しいが、三角に関しては国産、外国産とそれぞれ思われていた鏡が実は一緒の型から作られていた事がわかったのだよ
つまり、魏の地域で出土していない以上、やはりどちらも国産の可能性が強いと"普通"は考察するだろうね
そして、三角は古墳それぞれの在地で作られている場合が多い事もわかってきた
配布説は終了かな 石野博信「墓から出てくる三角縁神獣鏡について土器で年代がわかる例を見ると、四世紀の「布留式土器」と近畿で呼んでいる土器と出てくる例はありますが、その前の、三世紀の土器といっしょに出てくる例は一つもない。
それは埋葬年代を示すのであって、製作年代は示さないということはあるんでしょうが、それにしても、ひとつもないのはおかしい。新しいんだろう。」
森浩一「神獣模様や三角縁を持った鏡は長江下流の江南地方に多く発見され、明らかに呉があった地方と関連している。」
白石太一郎「三角縁神獣鏡の変遷過程は極めて連続性が高く、各段階によって製作地が異なるという前提はとても考えることができない。第四段階が日本で作成されたものなら、第一段階も日本で作成したと言わざるをえないだろう。」
菅谷文則「それでは日本への輸出、厳密には卑弥呼への下賜品として特別に鋳造(特鋳)されたものであろうか。これはまず成り立たない仮説といえよう。
魏より前代ならびに魏と同時代の呉、魏に続く晋代においても日本にのみ出土し、中国に出土しない中国鏡はない。三角縁神獣鏡のみがそうであるとする特別の根拠もない。」
原口正三氏「あくまであれは魏でつくったのだと言い張っているのは、もう信仰にも近い考えだろうと思っています」 三角縁神獣鏡の同型鏡を分析すると鏡径に大小があり、小さくなるほど文様が不鮮明になる。
これは母鏡から鋳型を作りできた子鏡をまた同じように鋳型にとって順次コピーしていったとみられる。
踏み返しされた三角縁神獣鏡の母鏡とみられるもっとも大きな径となるものが出土した古墳をみると、北九州と吉備に片寄っていることがわかる。
これは三角縁神獣鏡の流通の起点が畿内ではないことを示しており、たとえ下賜と仮定しても
北九州から畿内にもたらされた蓋然性が高く畿内説にとって非常に不利な結果となっている。
母鏡の出土例
>藤崎方形周溝墓
>天神森古墳
>原口古墳
>名島古墳
>香椎ヶ丘古墳
>
>以上福岡
>
>湯迫車塚古墳 岡山
>赤塚古墳 大分
>造山1号噴 島根
>椿井大塚山古墳 奈良 長方形鈕孔や外周突線が大陸製の鏡と共通してるし
渦文が大陸製鏡の変化と連動してるし
倭鏡の鏡師が理解できなかった漢字をきちんと最後まで認識できてるし
倭鏡の鏡師が理解できずに怪獣化させた神仙と神獣像も最後まで破綻させないし
倭にはいるはずもないゾウやラクダもきちんと描いているし
同時代の倭鏡には見られない同笵技法を使うし
作鏡技術からみれば倭鏡の鏡師とは隔絶してるオーパーツなんだが なんだか平原の鏡が言われていることと似たことが言われている… >>192
>平原遺跡の仿製鏡をさんざん馬鹿にして、その挙句がこれだ。
じゃあ、平原より前でとか区切る必要ないな?
>>139にあげた9枚の巨大鏡と比べたら、手抜きだろ? >>195
>三角は古墳それぞれの在地で作られている場合が多い事もわかってきた
>配布説は終了かな
それだと椿井大塚山古墳と同じ鏡が九州で出るのが説明できないだろ? >>202
>平原が後漢滅亡後だという証拠だね。
いんや、公孫氏による遮断の後ってだけだな >>204
>つまり倭国大乱後。
>卑弥呼か壹與しかない。
そんなことはない
そもそも平原1号墓野被葬者は、倭王でもなんでもない
そこらの地方首長なんだから、いくらでも地方首長はいるだろう 九州説だと、平原1号墓くらいしか、卑弥呼の墓の候補がないんだよな
でも、平原1号墓は
魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず
墳丘に土壙墓を掘られるような、
径十歩に満たない墓で、
卑弥呼の墓も倭王の墓もない >>206
条件は周辺に鉄があり、鏡文化の地域
墓の様相は大陸との関連が深い事
平原以上の墓はないだろ >>207
魏朝から銅鏡100枚もらってる
⇒ 魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されていない
倭王なら倭国が続く間はその墓も尊重される
⇒ 周溝が埋まるくらいの時間で、墳丘内に土壙墓を掘られる
魏志倭人伝に「大作冢徑百餘歩」と書かれている
⇒ 魏尺の度量衡で、十歩に満たない
これでどうやって卑弥呼の墓だと主張するんだ?
>条件は周辺に鉄があり、
鉄は弥生時代ならどこにでもある
>鏡文化の地域
弥生時代中期後半には、相当広い範囲で鏡の副葬が見られる
北部九州の専売ではない
>墓の様相は大陸との関連が深い事
方形周溝墓が大陸との関連が深いなどというのは聞いたこともない >>208
当時の鏡文化の中心は間違いなく北部九州だよ
他に鏡が多量に出土する地域がどこにある?
そして、大陸との関連は周辺の楽浪土器の出土で判断できるね
平原はジトウ一つでも十分
鉄は畿内にはかなり少ない
どこにでも出土する、は間違いだね
そして、その鉄も明らかに多数出土する地域と少ししか出ない地域と格差がある >>209
>当時の鏡文化の中心は間違いなく北部九州だよ
「当時」ってのが、「いつ」なのかって話
紀元前から1世紀、2世紀初頭(107年帥升等の朝貢)までは九州が中心でよいが
その後2世紀中に、北部九州も舶載鏡が入手できなくなっている
そこから100年以上も後の、3世紀半ばには畿内に中心が移っていたって話だよ
九州説の根拠は全て古い
焦点は編年なんだよ >>209
>多数出土する地域と少ししか出ない地域
これは、「出土数」であって発掘バイアスをまったく考慮していない、雑な議論
弥生化は、鉄と稲作が特徴であり、弥生文化の地域で特に鉄が不足していたと
考えるべき状況は観察されない >>209
>平原はジトウ一つでも十分
逆だろ?
耳璫ひとつしか、頼るべきものがないんだろ?
ガラス製品は、丹波の大府路南墳丘墓の方がよっぽど大量に見事なものが出ているよ >>210
>その後2世紀中に、北部九州も舶載鏡が入手できなくなっている
それは倭国大乱に加えて、漢が滅んだせいもある。
>そこから100年以上も後の、3世紀半ばには畿内に中心が移っていたって話だよ
そこはウソ。
そもそも卑弥呼の即位は2世紀末だし、その時点で畿内の台頭はない。 >>212
そんなところを王墓だと言っている人はいない。
持ち出す意味がない。 何より平原1号墓は
周溝が埋まるくらいの時間で、墳丘内に土壙墓を掘られるような、忘れられた墓なんだよ
そんな墓を倭王の墓と強弁するのはむなしくないか? >>211
すり替えるな。
不足ではなく、鉄がたくさんあったのに、纒向は弱小なので入手できなかっただけ。 >>215
それしか反論で頼るところがないのか。
では纒向の遺跡はさぞかしご立派なんだろうな? >>217
>纒向の遺跡はさぞかしご立派なんだろうな?
纏向遺跡だけじゃなく、弥生終末期の地域首長墓(いわゆる王墓級墳丘墓)は
どこも立派なんだよ
北部九州を除いて、ね!
各地の地域首長墓、いわゆる王墓級弥生墳丘墓の大きさ
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え、四方に5〜9mの平坦部、てなサイズがある
纏向型前方後円墳は、弥生墳丘墓に入れる立場だけれど、
纒向石塚古墳で全長96メートル、東田大塚古墳で墳丘長120メートルある
北部九州でも、
須玖岡本遺跡D地点王墓や三雲南小路遺跡王墓は、30メートル四方程度の墳丘があるし
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓も南北約40メートル、東西約27メートルの大きさがある
平原1号墓の墳丘サイズは、平原遺跡の案内看板の数値で、13×8メートル
吉野ヶ里の北墳丘墓の10分の1 >>216
>不足ではなく、鉄がたくさんあったのに、纒向は弱小なので入手できなかっただけ。
畿内に鉄がない、ってのは、単に九州説の思い込みなんだよ
纏向遺跡からも、鉄用の砥石が大量に出てるし、
鉄が行き渡ったことのひとつの指標になる「石庖丁の消失」もむしろ畿内の方が九州より早い
畿内で鉄の出土が少ないのは、発掘バイアスが一番大きいんだと思うよ >>219
>墓の大きさは王かどうかと関係ないと言うことだよ。
立派であることは認めるんだな?ww
そして、王の墓が小さかったら「示しがつかない」んだよ
その辺を無理に意識せずにやり過ごそうとしているけれど、弥生終末期の
活発な人の移動の中で、各地の首長が王墓級の巨大墳丘墓を作っているときに
倭国王の墓がしょぼかったら、誰も倭王と認めなくなる
平原1号墓じゃ無理だろ? >>220
>畿内で鉄の出土が少ないのは、発掘バイアスが一番大きいんだと思うよ
纒向は散々掘ったろ。 >>221
>そして、王の墓が小さかったら「示しがつかない」んだよ
勝手論理。 >>221
>勝手論理。
またお前かw
具体的な指摘ができないなら無駄だよ
古今東西で、臣下よりも小さな墓を作っている王がいたら教えてくれよ では言い直そう
同じ国の中で、王以外に王墓よりも大きな墓の造営を許した王朝があれば教えてくれ 邪馬台国ではないから、同じ国とは言えないよ。
倭種でしょ。 それが通らないって話をずっとしてるんだが?
>>225で「親戚筋がいる」って書いてたのはどこのどいつだ? 土器の移動から見て、人の行き来も盛んだし、
土器様式も庄内期には一体化し始めているし
布留式期になれば、前方後円墳祭祀も共通になる
別の国とする理由がないだろう?
九州説に不利だという理由以外はww 三河国も尾張国も日本の中だろ?
3世紀なら同じ倭国の中だよ >>232
3世紀前半、権力者の墓の様相はバラバラなのに、逆に同国とするのは何故?
4世紀以降だったらまだわかるが…それも微妙になってきてるが…
土器は庶民の流行、交易のあった証でしかない
文化を受容する事も多々あるし
交易は弥生時代から既に盛んだから、その結果だろうね >>233
日本という構成の枠組みを持ち出すなよ。 >>234
>3世紀前半、権力者の墓の様相はバラバラなのに、逆に同国とするのは何故?
なぜ「一斉に巨大な墓を作り始める」んだと思う?
同じ国の中での争いだからだよ
同じ国の中の群雄!
ああ、九周は参加できてないけどね
弱小だから >>239
>>218に挙げられたいわゆる王墓級弥生墳丘墓の年代を調べてごらん
全部卑弥呼の時代より古いんだよ 畿内説は、卑弥呼よりずっと前か直後くらいの話しかしないね。 >>242
>畿内説は、卑弥呼よりずっと前か直後くらいの話しかしないね。
九州説の出してくる根拠が、卑弥呼よりずっと前のものばかりだからだよ
畿内纏向遺跡は、卑弥呼と同時代の倭国の王都だぞ 結局纒向にしがみつくしかない。
でも粗末な建物だけで宮城はない。 だーかーらー、北部九州で時代のあう粗末じゃない建物を挙げてくれ
纏向遺跡辻地区の、柵列付き建物群は、十分に立派だよ
これを超える建物を、早く見つけてね! 伊都国説は、でかい鏡にしがみつくしかないけれど、
八咫鏡ではないことははっきり示されてしまったし、
平原1号墓には古い舶載鏡しかないし、平原遺跡の他の墓はみんな副葬品もしょぼいし
もうこれ以上、うったえるべきものもないだろ?
>>226の
「同じ国の中で、王以外に王墓よりも大きな墓の造営を許した王朝があれば教えてくれ」にも
結局答えられないし、もうダメポなのは明らかだろw >>243
巻向はなぁ、
王都?北部九州とは他の勢力だね
大陸の品物、鉄や土器等の出土状況から、北部九州との関連がみえないのが致命的
布留0になりようやく鉄が入ってくるね
しかし、卑弥呼は3世紀前半には既に擁立されているんだよ
また、3世紀前半はまだ北部九州とは文化的差異もあり、巻向を都とするにはかなり厳しい >>267
各地にできる3世紀前半の巨大な墓は同じ様相なのかい?
違うならば別の文化圏でしかない
文化が違えば、墓の大きさや様相も違うのは当たり前で、もちろん信仰や埋葬の考え方も違う
大きさを勢力の比較材料にできるのは、同時代で同文化圏だけだよ >>247
>同じことを繰り返すばかりのキナイこそネタ切れか?
有効な反論がないからね
バカ除けにちょうどいいんだよww >>249
>大きさを勢力の比較材料にできるのは、同時代で同文化圏だけだよ
魏志倭人伝にも書いてあるだろ
皆倭種だって
つまり、同じ倭種の同じ文化なんだよ
そうすると九州説の成り立つ余地が一切ないのが分かってるから逃げる逃げるww
でもただの詭弁だから、ごまかすことすらできてないw >>251
>つまり、同じ倭種の同じ文化なんだよ
同じ倭種だけど、同じ文化だなんて魏志倭人伝には書いてないよ。 >>248
>大陸の品物、鉄や土器等の出土状況から、北部九州との関連がみえないのが致命的
これを九州説の人は一生懸命言うけど、九州が畿内に何の影響も与えられなかったってだけで、
九州は畿内の祭祀土器の受け入れを始めとして、完全に傘下としての文化になっていく
それが畿内第V様式の頃から次第に進んでいく
卑弥呼の頃に無縁の別勢力っていうのは考古学的遺物の発掘状況からも否定される >>252
>同じ倭種だけど、同じ文化だなんて
同じ倭種だけど、同じ文化じゃないなんて、ものすごく恣意的なご都合主義だよね >>253
畿内だけ特別視するなよ。
筑紫には全国の文化が集まり、一方的に王都に全てが集約されていただけだよ。
筑紫と大和は対等ではなく、筑紫にとっての大和はワンオブゼムに過ぎない。 >>255
>筑紫と大和は対等ではなく、筑紫にとっての大和はワンオブゼムに過ぎない。
いくらがんばっても無駄だよ
佐々木先生の「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」の
ずいぶん恣意的なコピペを何度も貼ってたけど、畿内第V様式から順に、
九州が畿内の土器を受容している
輸入してるんじゃないんだよ
祭祀用の供献土器を受け入れるというのは、畿内の祭祀様式を受け入れたということ
政治も祭事もマツリゴトの時代なのだから、畿内の政治勢力を受け入れてるってことだよ
畿内と九州を別の国にするのも無理
九州の方が中心と言い張るのも無理
九州は女王の都、邪馬台国から遠いから一大率を置かれて監視される存在なんだよ 土器なんておまけじゃん。
最も重要な祭器は鏡であり、その鏡を筑紫から受け入れたのは畿内の方だよ。
どうでもいい重箱の隅をつつくことでまぜっ返すくらいしかできないのが畿内説。 >>257
>土器なんておまけじゃん。
>最も重要な祭器は鏡であり、その鏡を筑紫から受け入れたのは畿内の方だよ。
>どうでもいい重箱の隅をつつくことでまぜっ返すくらいしかできないのが畿内説。
だから、チェリーピッカーって言われるんだよ
前方後円墳祭祀という、首長継承儀礼を兼ねた葬送儀礼を受け入れているという
大枠を見ない聞こえないでごまかそうとする
前方後円墳祭祀が畿内纒向で作られたことは考古学的に確実
その前代から畿内の土器を受け入れ、最終的に葬送祭祀のシステムすべてを
畿内式に変更しているのが北部九州
無縁の別勢力ということも、九州の方が盟主ということも不可能だよ チェリーピッキングはそっちだろう。
祭祀をテーマにするなら、その中心的祭器である鏡を重視して当然なのに、土器の話ばかり。
畿内が筑紫の銅鏡文化で塗りつぶされていき、前方後円墳はそのその部分要素に過ぎない。
都合の悪い話は徹底的に無視して、自分の頭の中で練り上げたストーリーばかりを繰り返している。
ほぼすべての弥生文化が西高東低であり東遷するという大枠が見えていないのは自分だろう? >>259
>その中心的祭器である鏡を重視して当然なのに
鏡は、北部九州の専売特許じゃないから、言い張っても無駄だよ
とにかく、土器の移動と最初期から北部九州でも前方後円墳を作っている時点で
「北部九州と畿内が別の国」も
「北部九州が盟主」も、成り立たないんだから、何を言ってもごまめの歯軋りだよ それより、北部九州で盛行した巴形銅器の話を一切しないのはどうしてだ? 三角縁神獣鏡はマンホールの蓋!
http://blog-imgs-64.f c2.com/1/9/4/19481941/20140424232036c50.jpg
NGワードに引っかかるので、途中にひとつ半角スペースを入れてるよ >>261
銅鐸と同様に、後世に継承されていないからだろう。 >>260
「とになく」で誤魔化すなよ。
畿内説は言葉数は多いくせに説得力がなく、空虚だ。 >>264
>「とになく」で誤魔化すなよ。
そういう一行レスでごまかすのではなく
何をどうごまかしていると主張したいのか「具体的な指摘」をどうぞ
そして、「祭祀土器と前方後円墳祭祀を、九州が受け入れている」ことに対する
有効な反論はできないってことでいいな?
↑
具体的な指摘 >>256
祭司土器は献上品の可能性も高い
巻向に北部九州の土器がないのと、これはあまり関係ない
考古学的には巻向は北部九州との関わりが薄かった、ただそれだけ
つまり、北部九州の庄内土器とは巻向の地域は関連性が低いという事
北部九州の庄内は胎土研究で播磨の多いという話はどうなったのだろう? >>260
鏡副葬文化は北部九州からの流れなのは明らかだろう
畿内は布留0から古墳に副葬される事が多くなる古墳の鏡の大量副葬は北部九州からの流れだね
思想の流れでしかないので、だから同じ国だとか、征服したとかは違うと思う >>266
>祭司土器は献上品の可能性も高い
可能性はないよ
受け入れた後、畿内様式の土器を奴国の中心、比恵・那珂遺跡群で作るようになってる
>考古学的には巻向は北部九州との関わりが薄かった、ただそれだけ
そんなことはないのは
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
を読めば明らか
庄内期の前から、畿内と北部九州の人の行き来は明確
3世紀前半の弥生時代末期、土器、青銅器、鉄器、水銀朱などの多種多様な物資が
日本各地で盛んに流通していたことが確認されている。物資の流通は旧石器時代以降
確認できる現象であるが、弥生時代終末期は遠隔地からのモノの流通を含み、前時代よりも
遥かに交流が盛んにおこなわれたという特徴がある。このような中で3世紀前半には
奈良盆地南西部の纒向遺跡など、交流の拠点となる場所に大規模な集落が形成され、
そのような拠点集落では、地元ばかりではなく遠隔地を含む他地域からの土器が多く見つかっている。 >>267
>鏡副葬文化は北部九州からの流れなのは明らかだろう
邪馬台国の時代に入る前から、西日本の広い範囲で鏡の副葬は見られるんだよ
その淵源を、紀元前の北部九州に求めるのは構わないけれど、2〜3世紀には
北部九州の専売特許でもなんでもない
それを、九州がえらいんだーといってもしょうがないってこと 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 >>269
でもその鏡の大量副葬の文化の中心は伊都の三雲南小路遺跡や平原遺跡だろ? >>271
>三雲南小路遺跡や平原遺跡
三雲南小路遺跡から、平原1号墓まで200年くらい間が空くんだが? 平原1号墓は、同じ九州の王墓ではない特定家族墓(地域首長家系)の
吉野ヶ里の北墳丘墓の10分の1サイズ
三雲南小路、須玖岡本D地点以降、北部九州の王権は失われているんだよ 三雲南小路が王墓で平原が王墓じゃないなんて、こいつ馬鹿だろ。 平原1号墓と平原遺跡の区別も付かないやつが何か言ってるww 方々でこれから逃げ続けているやつがなんか言ってる
平原1号墓は
魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず
墳丘に土壙墓を掘られるような、
径十歩に満たない墓で、
卑弥呼の墓も倭王の墓もない まともな反論がひとつもないからね
>>278も反論できていない
これだけで決まりってことだ 平原1号墓は
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓の十分の一サイズ
その北墳丘墓では、墳丘の軸線に合わせて大柱を立てその先に祭祀用の小さな建物を建てており、
平原遺跡の5号墓、1号墓に同様の大柱があり、1号墓には祭祀用の小さな建物も確認できることから、
共通の墳墓祭祀文化であることが分かる
その上で、時代が先行する吉野ヶ里の首長家系墓より小さいという点で、倭国の王墓とは認められない >>281
>だからなんだ?
>バーカ
反論できないってことだな? >>284
>時代が違えば意味がないと何度も…
そうだよな!
邪馬台国と時代の違う平原1号墓を卑弥呼の墓だと言い張っても意味がないよな >>284
>時代が違えば意味がないと何度も…
時代が違うっていっても、より新しく権力基盤も大きくなっているはずの時代の方が
小さくなるというのは道理に合わないだろう?
さらに、同時代の倭国内の他地域では、各地域の首長墓が巨大墳丘墓になっている時代だ
そこで、ほんの1,2世代前の吉野ヶ里遺跡の地域首長墓より圧倒的に小さい
十分の一サイズの方形周溝墓を、吉野ヶ里地域をも包含する倭国の王墓と主張するのは
無理があるだろう >>286
>小さくなるというのは道理に合わないだろう?
そう考える理由は? >>286
だからさ、勢力の推移や社会状況が謎なのに、時代が違えば比較しても意味がないだろ? >>285
平原は年代はわかってないよ
ジトウや鏡の紋様、ガラス製品の技術から、2世紀末より古くない事だけわかっている そして2世紀末に卑弥呼が即位したと考えられている。 >>288
>だからさ、勢力の推移や社会状況が謎なのに、時代が違えば比較しても意味がないだろ?
だ・か・ら・さ、卑弥呼の時代と>>218に挙げた大墳丘墓の年代は対して違わない
せいぜい1世代50年程度
平原遺跡と、吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓とは祭祀様式も同じだし、ほぼ同時代と見てよい
その範囲で比べて、平原1号墓は小さすぎてしょぼいんだよ >>287
>そう考える理由は?
吉野ヶ里遺跡だけで、北墳丘墓レベルの大墳墓を作る労働力を動員できる
その吉野ヶ里遺跡を含む倭国の王墓が、成人男子が10人もいれば1週間程度で作れる
しょぼい墓では権威が保てないだろ?
何度も書いているけれど、王が王以外よりも小さな墓に葬られている王朝があったら教えてくれ >>290
>そして2世紀末に卑弥呼が即位したと考えられている。
それがあやしい
卑弥呼が高齢になりすぎる
卑弥呼の即位は3世紀に入ってしばらくしてからと考える方が年代の整合性が取れる >>291
>その範囲で比べて、平原1号墓は小さすぎてしょぼいんだよ
副葬品が豪華だから、別に関係ないね。 >>292
>しょぼい墓では権威が保てないだろ?
それはあなたの考えに過ぎない。 >>293
>卑弥呼の即位は3世紀に入ってしばらくしてからと考える方が年代の整合性が取れる
まったく根拠なし! >>294
>副葬品が豪華だから、別に関係ないね。
関係ないというのに、まったく根拠がない
>>295の言葉を借りれば、>>294の考えに過ぎない。
そして、副葬品が豪華といっても、仿製鏡がやたら多いだけで
肝心の魏晋鏡は一枚もない
この時点で卑弥呼の墓の候補から完全に外れる
そして、副葬品が豪華といっても、仿製鏡がやたら多いだけで、
ガラス製品や刀剣では丹波の大風呂南墳丘墓や赤坂今井墳丘墓といった
いわゆる王墓級地域首長墓の方が豪華
これは、卑弥呼と1世代程度しか違わないほぼ同時代
地域首長墓より副葬品で劣る倭王墓はないだろ?
平原1号墓は倭王墓として副葬品でも足りないんだよ >>296
>まったく根拠なし!
根拠は書いてあるだろ
2世紀末だと、卑弥呼の生物学的寿命から考えて難しいって
逆に、二世紀末とする理由が、梁書の霊帝光和年中と、後漢書の桓霊間倭國大亂という
後代史書によるもの
魏志倭人伝には二世紀と特定できるような情報はない >>297
>これは、卑弥呼と1世代程度しか違わないほぼ同時代
年代の根拠が曖昧
>地域首長墓より副葬品で劣る倭王墓はないだろ?
地域が違うから意味なし >>299
>年代の根拠が曖昧
巨大弥生墳丘墓の時代は短いんだよ
すぐに古墳時代に入る
ちゃんと歴史の流れを自分で調べてたら、
そんな間抜けなコメントは恥ずかしくて書けないぞ
九州説は、九州説の人が書いた文しか読まないから
基本的な知識に欠けている
その欠けた知識で自分が正しいと思い込んでいるから滑稽でならない
>地域が違うから意味なし
同じ倭国で同じ倭種だよ
何でもケチを付ければいいってもんじゃないw 倭種がいても、倭国の体制下にないんだよ。
ゆるゆると交易していたんだろう。 >>301
>倭種がいても、倭国の体制下にないんだよ。
これ間違い
>ゆるゆると交易していたんだろう。
緩々とした交易関係で結ばれた首長層が、そのまま祭祀連合で合意したのが
卑弥呼の共立だよ
倭種で前方後円墳を作るとことが倭国 >>303
>妄想乙
出た!ww
反論一つできないときの、根拠なしの一言レス!WW >>305
>何1つ事実に基づかない妄想に反論も何もない。
たぶんこの人、方々のスレで一言スレの負け惜しみを書き逃げしてる人でしょ?
具体論を書くと論破されるから、具体的なことからひたすら逃げて、勝ってるふりの
一言を書いて逃げる人! ダメ! タタリ神なんかにならないで!
でも既に、カタリのダメ人間だわな >>311
>畿内説のことですね
ミラーリング
自分への批判を、相手のこととして言い返すだけの簡単なお仕事
詭弁使いの技法の初歩のひとつ 九州説の一言レスの人も逃亡して消えたので、
このスレの結論として
「平原1号墓出土の巨大内行花文鏡は
マンホールの蓋(弥生時代の実態としては肥溜めの蓋)の
象徴であることは否定できない」
ということでOK? >>314
>3世紀にマンホールがなかったから却下。
つ「マンホールの蓋(弥生時代の実態としては肥溜めの蓋)」
3世紀に肥溜めの蓋がなかったことを立証してね! >>313
否定できなかったら何?
例えば、スフィンクスは宇宙人が作ったとこも否定できないよね。
ちゃんと立証しないとねwww
トンデモ乙。 まずは、弥生時代の実態としては肥溜めの蓋が、丸かったことを立証することから始めようか?
それと、弥生時代の実態としては肥溜めの蓋が内行花文の文様がどう関係するのかも立証してね
www ここは、学問板何だから真面目に論証しろよ。
そのためのスレだろ ああ、立証には論拠となる文献ぐらい添えろよ。
でないと「根拠は?」って言われるぞ。 そもそもキナイコシは、弥生時代に肥溜めがあったということから証明しないといけない。
まあ、農業をやっていたからあってもおかしくはないけど、基本は川に流しっぱなしという認識なんだけど? >>317
>まずは、弥生時代の実態としては肥溜めの蓋が、丸かったことを立証することから始めようか?
まずは弥生時代に限らず、肥溜めのような地面を直接掘った穴の形状が丸くないと
考えることに妥当性はない
さらに肥溜めのような、半液体の流動物を入れる穴の場合は、鋭角を持つ形状の
穴を掘っても内容物によって穴の縁が崩れ、結果として丸い穴となる
丸い穴の蓋は丸い蓋と考えるのが合理的 >>316
>否定できなかったら何?
このスレの発端が分かってないんだなw >321
ちょっとは真面目に論証してるな。感心感心
>322
321のように立証するためのスレだぞ。
で、内行花文の文様と肥溜めの蓋ははどう関係するの? 内行花文は肥溜めに浮いた気泡である
事実だから証拠はいらないのだ おお、即レス。サンクス。
肥溜めに浮いた気泡か、確かに一理あるかもな。
九州北部の弥生時代に肥溜めがあったということろが甘い気がする。
弥生時代に汲み取り機構は併設されていたの??
そういった遺構は当然あるよね? 調査報告書を教えてくれ。 内行花文が肥溜めに浮く気泡だとすると、
マンホール鏡の前の大きな銅鏡の前に、普通の大きさの内行花文も
肥溜めに浮いている気泡だということにならないか。
畿内説はそこのところ、どう考えているんだ? 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 内行花文鏡が太陽の象徴であるという論説に一切何の根拠もないことを証明するスレ >>323
>>322
>321のように立証するためのスレだぞ。
>>322と>>321は同じ人間の書き込みだぞww >>331
あったと主張する側に証明する義務がある。 当たり前だな
ないことを証明するのは悪魔の証明。論理の初歩の初歩。
弥生時代に肥溜めがあって、その蓋を内行花文で象徴したんだろ。
それを主張したい側が真摯に立証するべきだろ。
Wikiには肥溜めは鎌倉時代からとあるが
w
ww
www
wwww
wwwww
wwwwww
悪い、どうしても草生えるわwwwwwwwww >>333
つ>>322
再掲
「このスレの発端が分かってないんだなw」 >>334
>Wikiには肥溜めは鎌倉時代からとあるが
それは確認できてるやつだけだろ?
ないと主張してるやつが証明しないとw あると主張する側が弥生時代の肥溜め遺跡を証明しなよ。 平原の内行花文は太陽を象徴していた。
平原の内行花文は肥溜めの蓋を象徴していた。
同じ理屈と言いたいなら、肥溜めが弥生時代にあったことをまずは証明しろよ。
カス 最初に必要なのは弥生時代に太陽信仰があったことの証明じゃね? 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 違うよ
内行花文鏡が太陽信仰の象徴だという戯れ言の根拠が
それをほざく人には、「鏡の裏面の模様が太陽に見えるから」と
いうのがふざけてるっていう話 それが通るなら
マンホールの蓋に見える人がいたら、マンホールの蓋の象徴だってこと まだバカが言っている。
太陽は弥生時代にあったのだから、太陽を象徴していると考えるのは合理的。
マンホールの蓋、肥溜めの蓋は、当時あったという形跡すらないのだから、
それらを象徴していると考えるのは非合理。おんなじ土俵に立ってないだろ。
皇室に繋がるかもしれない国宝をマンホールとか肥溜めとか、戦前なら即死罪だぞ。
わかったら死ね。わかんなくても死ね。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 太陽があったから太陽信仰はあった
伊都クズの思考がまったく実証を伴っていないことをよく示す迷言www これ「太陽があったから太陽信仰はあった 」と
これ「太陽に見えるから内行花文鏡が太陽信仰の象徴」というのは繋がらない
根拠が「オレにはそう見えるから」でいいなら
「太陽があったから太陽信仰はあった 」から
「太陽に見えるからマンホールの蓋が太陽信仰の象徴」というのが否定できない それから、3世紀に肥溜めの思想が大陸から倭国に伝わっていなかったことに
対する十分な論証がない
肥溜めの存在が鎌倉時代には確認できているのだから、それ以前には
なかったとする理由が薄弱
記紀よりも後に作られた風土記を宗像神社に八咫鏡の存在を肯定するために使うなら
鎌倉時代の肥溜めの存在の確認は、それがそれ以前には存在しなかったものが
鎌倉時代になって新しく発明されたということが証明されない限り、
むしろ当然に肥溜めの存在がそれ以前からあったことを証するものであり、
決して3世紀の肥溜めの存在を否定するものではない
平原1号墓出土鏡は、肥溜めが作物の収量を増加させることへの畏怖の念を
象徴するものであり、平原1号墓出土鏡が肥溜め(現代の用語でマンホール)の蓋に
見える人がいれば、平原1号墓出土鏡がマンホールの蓋の象徴であることの
論証としては十分である
また、平原1号墓出土鏡の鏡背の文様が、肥溜めの表面の泡を示す同心円を
強調していることは事実であり、平原1号墓出土鏡はマンホールの蓋の象徴物で
あることは確実である 否定の論証の無意味さをまだ理解してない
言葉遊びしたいだけの厨二病でしょ? 異論がある
便槽の蓋である可能性も否定できないのではないか >>355
それは、その蓋が存在するかどうか?が重要だね
出土物の中にでもあればいいのだが…
なければ残念だけど、蓋は空想の産物としか言えないかな そして、平原1号墓出土鏡を、八咫鏡に擬えるのも
空想の産物でしかない
それを論証するスレなんだよ
平原1号墓出土鏡がマンホールの蓋であるという言説を、否定すればするほど、
平原1号墓出土鏡が太陽信仰の象徴であり、八咫鏡であるという戯言も同時に否定される 呆れることしかできず、論理的な反論は一言もできないのが
糸クズ「キナイコシ」 >>356
>出土物の中にでもあればいいのだが…
木製の蓋は多くの場合、腐朽してしまって、後代に発掘されることは期待薄なんだよな
肥溜めが耕作地に作られるため、集落遺跡と離れたところで発掘区域に入りにくいこともある >>361
>つまり根拠がないんだよ。
>ひっこめ。
それ、全部「平原1号墓の内行花文鏡は太陽信仰の象徴」っていう騙りに
ブーメランで突き刺さるんだよw
まあ、「平原1号墓の内行花文鏡は太陽信仰の象徴」ってのは、
根拠がないからひっこめ、というのには同意 アマテラスは太陽神としばしば解釈され、その象徴が八咫の鏡とされている。
そして最大の鏡は平原遺跡の超大型内行花文鏡であり、太陽の象徴とみなすのは不自然ではないよ。 不自然ではないとしても、伊都国に八咫鏡があったとする伝承も、記録も、一切ない
伊都国に、アマテラス信仰はない
原田大六氏が、昭和になってから言い出したことで、根拠はないんだよ 天孫ニニギは八咫の鏡を携えて筑紫の日向に降臨したとされる。
筑紫の日向はイザナギが禊を行った地(小戸、住吉)でもあり、福岡県の博多湾沿岸である。
伊都国はその一部に含まれる。 >>365
>筑紫の日向はイザナギが禊を行った地(小戸、住吉)でもあり、福岡県の博多湾沿岸である。
これも一部の九州説が言っているだけで、根拠はないんだよ
普通は、宮崎に比定地を求める
そして、日向三代の物語に、八咫鏡は一切出てこない
まあ、のちになって皇統の奉祭する鏡の起源を高天原にするために
付与された話だからだろうな >>366
>普通は、宮崎に比定地を求める
思考停止?
>>366
>そして、日向三代の物語に、八咫鏡は一切出てこない
ニニギは三種の神器とともに筑紫に降臨したことになっているよ。 >>367
>ニニギは三種の神器とともに筑紫に降臨したことになっているよ。
その後、地上で八咫鏡をどうしたとかどこに祀ったとかの話が一切ない
神武東征の場面でも、八咫鏡を持って行ったかどうか、一切記述がない
日向三代の間、八咫鏡は完全に忘れられてるよ >>367
>思考停止?
だって、福岡の日向って、日向峠があるから、だけじゃん >>351
そもそも、「一個人がそう見える」だけが根拠じゃないし。
百歩譲っても銅鏡自体が天体を表しているのは確実だから、サブカテゴリーの問題。
それに仮に「一個人がそう見えるだけが根拠」だとしても「太陽」と、
時代錯誤のマンホールや肥溜めでは、比較にもならない。
>>369
勉強不足。
ま、要はおまえは、もう死ねよってこった。 >>370
>ま、要はおまえは、もう死ねよってこった。
論理的かつ具体的な説明ができず、暴言で逃げるのが九州説のデフォだねww
まあ、お里が知れるし、知的水準・教育レベルもお察し、だ >>370
>そもそも、「一個人がそう見える」だけが根拠じゃないし。
人数は関係ないんだよ
何人だろうと、「そう思った、そう見える」という印象は根拠にならない
マンホールの蓋に見えるというのが500人いたら、それが根拠になるのか?w >>370
>百歩譲っても銅鏡自体が天体を表しているのは確実だから、サブカテゴリーの問題。
まず、これを論証したらどうだ?
原著論文の引用でもいいぞ
さあ、がんばれ >>368
>神武東征の場面でも、八咫鏡を持って行ったかどうか、一切記述がない
神武は八咫の鏡を持って行きませんでした。
彼は饒速日との会合で天羽羽矢を見の証として提示しています。
景行天皇の時、八咫の鏡は筑紫の帥である神夏磯姫のもとにありました。 >>372
>何人だろうと、「そう思った、そう見える」という印象は根拠にならない
神道という権威においては、多くの人が「そう見える」と納得して、それを認めることが大事なのです。
さらに現代においては、誰も実物を見たことがなくなっても、伊勢には神鏡があると誰もが信じているわけです。
あなたの主観はどうでもいいのです。
あなた以外の全ての人が認めれば、そうなるのです。
それが宗教や国家の仕組みなのです。 >>375
>筑紫の日向の小戸の橘もありますよ。
筑紫に「橘」は無理。
「橘」は南国倭国(阿波)の長国の特産。 @阿波 >>376
>あなたの主観はどうでもいいのです。
もちろん、>>376の主観もどうでもいいんだよ
主観だけを根拠に、何を言っても無駄というのが、このスレの趣旨であり目的
>あなた以外の全ての人が認めれば、そうなるのです。
それが、>>376の主観でしかない
私以外の全ての人が認めているなどということはあり得ないだろ?
>>376以外の全ての人が、マンホールの蓋だと認めているのを、信用しないじゃないか
それと同じだよ >>378
論証に勝てなくて気が触れたの?
お前以外の誰が時代錯誤のマンホールの蓋と主張してるの???
諦めて首吊って死ねば? >>380
だれもそんなこと言ってない 現代人にはマンホールに見える代物ってこと >>381
では君の意見には意味がない。
当時の人たちにとって八咫の鏡であった可能性は全く排除されない。 君の意見にも意味がない。
当時の人たちにとって八咫の鏡であった可能性は全くない。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>379
>論証に勝てなくて気が触れたの?
>お前以外の誰が時代錯誤のマンホールの蓋と主張してるの???
>諦めて首吊って死ねば?
ほら、まともな論理では勝てなくなったから、単なる罵倒に走ってるだろ?
「お前以外の誰が時代錯誤のマンホールの蓋と主張してるの?」の部分をきちんと論証できなければ、
意味がない、というのがこのスレの趣旨だよ
できないだろ?
つまりは、平原1号墓出土鏡がマンホールの蓋の象徴であることは否定できないんだよ >>382
>当時の人たちにとって八咫の鏡であった可能性は全く排除されない。
ちょっと待ったww
またごまかしている
当時の人が八咫という長さを認識していたという戯言は完全に排除できるので、
当時の人たちにとって八咫鏡であった可能性は、完全に否定される
今問題にしているのは、平原1号墓出土鏡が、太陽の象徴がどうかという
実証不能な部分の論証であって、八咫という長さの妥当性という具体論なら
簡単に否定できるし、既に否定されている
ごまかすなよww >>386
お前以外に誰が主張しているんだ??
ほらほら、マンホールの蓋と言い張ってる著作や論文を紹介するだけでいいんだよ。
簡単だろ??
出来ないなら、さっさと首を吊れよ。
>>平原1号墓出土鏡がマンホールの蓋の象徴であることは否定できないだんよ
何度同じことを言わせる気だ?
それは時代錯誤だからありえない。100%否定できるんだよ。
だって、弥生時代にマンホール、ないしね.wwww
詭弁を弄しても無駄だし、認めることができないなら、
サッサと死ぬのがお前の役目。 >>387
誤魔化しているのはお前。
内行花文が太陽を象徴している のと、八咫云々は、別の話。
弥生時代にマンホールや肥溜めがあったってことを早く証明しろ。
できなければ、太陽を象徴していると同列に語るのは詐欺。
詐欺師は死ね。 >>389
あれはね、月をイメージして作った駄作品 なんだ、詐欺師は詐欺だけにすぐ主張を変えるのか??
マンホールの蓋と言い張ってる著作や論文を紹介するだけでいいんだよ。
簡単だろ??
とにかく5ちゃんの名無しと言えども、国宝を侮辱する詐欺師はすぐ死ね。 自説の維持をあきらめたのか?
いかにも詐欺師らしい言い分だな
サッサと回線切って、しんどけよ >>387
>当時の人が八咫という長さを認識していたという戯言は完全に排除できるので、
卑弥呼がこれが八咫の大きさだといえば八咫の鏡になる。
実際、最大の鏡だったし。 >>389
>内行花文が太陽を象徴している のと、八咫云々は、別の話。
別なわけあるか。
太陽神アマテラスが、わざわざ八咫の鏡を自分の分身だと思えという神勅を出したので、現在の伊勢も皇室もそれを守っている。
太陽神の分身が太陽を象徴していなくてどうする! >>388
>弥生時代にマンホール
またごまかしてる
本当に程度が低いな
マンホールは現代的表現で、肥溜めのことだよ
平原1号墓出土鏡は、肥溜めの蓋の象徴、それを現代の分かりやすい用語で表現すると
マンホールの蓋という言い方になる
弥生時代にマンホールがないのは当たり前
そこは論点ではない
論理的な論証ができないから論点ずらしで逃げる卑怯者
九州説はそんなやつばっかりw はぁ?
だから弥生時代の肥溜めの論文の一つでもあげてからでかい顔しろよ。
死ね >>389
>八咫云々は、別の話。
それを持ち出したのは、>>382だろ
そこで論点ずらしに走っている
平原1号墓出土鏡が八咫鏡ではないのは、いろんなスレで何度も論証済み
間違い一つ認められずに何度もウソも百回で繰り返すのが九州説のやり口 全然論破されていないよ。
卑弥呼が、これが八咫の鏡だと言えばそうなるのだもの。 >>390
>あれはね、月をイメージして作った駄作品
神道五部書の度会神道では、外宮のご神体の鏡は月の化身の鏡としているね
平原1号墓出土鏡には、何の謂われも伝承もないし、記録もまったく残っていない
それを昭和になって、八咫鏡だと言い出した人がいるってだけ
何の根拠もないし、八咫という長さは一切関係ないのは既に論証済み >>397
肥溜めが弥生時代にあったという論文はまだ? >>401
>それを昭和になって、八咫鏡だと言い出した人がいるってだけ
そりゃそうだ。
昭和に見つかったのだから当たり前だ。
バカか? >>395
>卑弥呼がこれが八咫の大きさだといえば八咫の鏡になる。
本当にバカなんだな
卑弥呼がそんなことを言うはずがないじゃないか
倭国に咫という長さは伝わっていないんだから >>403
>そりゃそうだ。
>昭和に見つかったのだから当たり前だ。
だろ?
昭和になるまで卑弥呼を含めて誰一人、平原1号墓出土鏡を八咫鏡だと思ったことも
呼んだことも、一切、一度たりともないんだよ >>404
>倭国に咫という長さは伝わっていないんだから
はあ?
その根拠は? >>402
肥溜めが弥生時代になかったという論文はまだ? それは悪魔の証明と言ってね。
あったという方が証明しなくてはいけないのだよ。 >>407
史記での「咫」の字の使用全例
矢長尺有咫
長尺有咫
尺有咫は、尺(10寸)+咫(8寸)で、18寸の長さ
八寸曰咫
咫尺,八寸
咫は8寸である
徒欲日夜望咫尺之地
舜無咫尺之地
奉咫尺之書
今拘學或抱咫尺之義
言拘學守義之士或抱咫尺纖微之事
咫尺で、「少しの(ながさ)」程度の意味
日本語で「ちょっと」を「一寸」と書くのと同じ発想
咫を円周を測るのに使っている例はない 漢書での「咫」の字の使用全例
長尺有咫
石砮長尺有咫
尺有咫で、18寸
八寸曰咫
張晏曰:「八寸曰咫。」
咫は8寸
豈其與水爭咫尺之地哉?
奉咫尺之書
但日夜望咫尺之地
履咫尺之難
臣聞天威不違顏咫尺
且盲不見咫尺
咫尺者,言其簡牘或長咫,或長尺、喻輕率也。
咫尺は、それ「あるいは長さ咫あるいは長さ尺」を簡単に言うもので、比喩である
咫を円周を測るのに使っている例はない 三国志での「咫」の字の使用全例
未能進咫尺之地
終日行不離咫尺
加咫尺之書
咫尺は、一咫か一尺程度の少しの長さの意味
咫を円周を測るのに使っている例はない 後漢書での「咫」の字の使用全例
其長尺有咫
石砮矢長尺有咫
長尺有咫
尺有咫で18寸
八寸曰咫
八寸為咫
咫は8寸
舜無咫尺之地
今拘學或抱咫尺之義
咫尺天儀
咫尺龍沙
咫尺言不以為遠也
夫欲千里而咫尺未發
去營咫尺
今以曲俗咫尺之羞
咫尺は、一咫か一尺程度の少しの長さの意味
咫を円周を測るのに使っている例はない 周の時代は8寸を1尺として、漢の時代は10寸を1尺としたので、漢の時代の1尺が男性の手の大きさだとすると、周の時代の1尺は女性の手の大きさほどになる。この周代の尺を咫とも言う。
この周尺(咫)が使われ続けたのは、円周の計算に便利だからあり、直径二尺の鏡(平原遺跡から出た世界最大の銅鏡)の円周はほぼ八咫となる。
平原遺跡の超大型内行花文鏡は、三種の神器の八咫の鏡の同范鏡またはモデルとなった鏡と考えられる。 だからマンホールか肥溜めのの論文を出せよ。
頭悪いのか。死ね 史記、漢書、三国志、後漢書での「咫」の字の使用例を全例検索
史記9件、漢書12件、三国志3件、後漢書13件 の、全37件
うち、咫尺 で使われているのが23件
尺有咫 で使われているのが 7件
八寸曰咫 で使われているのが 6件
「咫尺」は三国志の「未能進咫尺之地」(未だ咫尺の地を進むに能わず)のように、「一咫あるいは一尺程度のわずかな(距離)」程度の意味で、慣用句的に使われている
「尺有咫」は、矢の長さなどを表すのに用いられ、史記では「矢長尺有咫」(矢の長さ、尺あまり咫(=18寸))のような使われ方になる
「八寸曰咫」は、「咫」の長さの説明、つまり 咫=八寸
ここまでで、全37件中36件
残りの1件は「咫尺」の説明中に使われているもので、漢書の「咫尺者,言其簡牘或長咫,或長尺、喩輕率也。」
咫尺は「あるいは長さが咫あるいは長さが尺」を簡単に言うもので、軽率の喩えなり
というものだ
要するに「咫」は、
「尺とあまり変わらないわずかな長さ」 咫尺という熟語として使う
「具体的な八寸という長さ」 長さの単位として使う
という二つの意味での使い方しかない
そして、円形のものの周囲を測るために使われている用例は「一つもない」
咫を丸いものを計る単位に使った例は、邪馬台国前後にはない
咫を使っていたとされる周代を記録した大陸史書は史記しかないが、もちろん、史記にも咫を丸いものを計る単位に使った例はない
これによって、「咫は、円周率を3.2で近似するための便利な単位」という平原出土鏡を「八咫鏡」に『する』ための戯れ言は、完全に否定されたね
つまり、平原出土鏡は「八咫鏡」ではない スレタイも読めないのか?死ねよ。
お前が弥生時代にマンホールか肥溜めがあったことを
まずは証明するのが本道。
他説は関係ない。 >>416
>「八寸曰咫」は、「咫」の長さの説明、つまり 咫=八寸
つまり平原遺跡の鏡は八咫の鏡になるんだよ。 秦の始皇帝による度量衡の統一時に、もともと身体尺だった「咫」は、
度量衡の体系に採用されなかった
そのため、実用単位として咫は一切使われなくなり、魏代までに400年経過している
大陸中華で使われていない単位が、倭国に伝えられて円周長を測るのに使われたと主張するのが
どんなに愚かで恥さらしなことか理解できないんだろうな だから、スレタイも読めないのか?
どこまで低脳なんだ? 死ねよ。
お前が弥生時代にマンホールか肥溜めがあったことを
まずは証明(略 咫は女性の手の身体尺で、 周尺の八寸とされていたときにも、八寸を言い換えるためだけにしか
使われていなかった
二咫という使い方すらなかったんだよ
それが八咫という使い方があると主張するのがとことんもの知らず
それにどこまで行っても周尺の八寸であり、漢魏尺の体系に咫は入っていない
二重三重の意味で、長さが八咫だから八咫鏡という主張は破綻している そもそも円形物の大きさを円周長で示した例は洋の東西を問わず、ない
平原1号墓出土鏡を八咫鏡だと主張するのは、マンホールの蓋であると主張するのと同程度の
正当性しかないんだよww バカをからかいながら、平原1号墓出土鏡は八咫鏡ではないという論証が再び為されたな
内行花文鏡の模様が太陽に見えるから太陽信仰の象徴っていうのもバカな話だよなw 平原1号墓出土鏡の円周長を正しく咫の長さで示せば「8.63咫」になる
きちんと測っても、八咫にはならない だから、スレタイも読めないのか?
関係ないコピペ貼って頭オカシイの? なぜ八寸にだけ特別に咫という単位を与えたかと言えば、円周を測るのに便利だからだよ。
そうでなければなぜわざわざ咫という単位を作るのか説明できない。 >>422
>平原1号墓出土鏡を八咫鏡だと主張するのは、マンホールの蓋であると主張するのと
>同程度の 正当性しかないんだよww
同程度といいたいなら、マンホールか肥溜めの論文でも出してから言えよ。
言い張ってるばっかりで恥ずかしいやつだな。
生まれついての詐欺師なんだろうな。死ねよ。 >平原1号墓出土鏡を八咫鏡だと主張するのは、マンホールの蓋であると主張するのと
>同程度の 正当性しかないんだよww
よく見たらまた勝手に条件変えてるし。
お前の本来の主張はこうだろ。
>平原1号墓出土鏡を太陽信仰の象徴とするのは、マンホールの蓋の象徴であると主張するのと
>同程度の 正当性しかないんだよww
まじ生まれつきの詐欺師だな。死ねよ。 >>427
>なぜ八寸にだけ特別に咫という単位を与えたかと言えば、円周を測るのに便利だからだよ。
これを言う奴は極限のバカ それから、
咫は女性の手に対する身体尺
尺は男性の手に対する身体尺
それを換算する際に、咫=八寸という対応関係にしたということで、
円周長は一切関係ない だいたい、当時は円周率は3くらいというアバウトさであって
3.2でちょうどという発想はない 咫というのは男性の尺に対して女性の咫という関係から、
「尺に満たない長さ」くらいの意味で使われるだけで、
具体的に八咫にあたる長さを計るにしても、三尺二寸以外の示し方はないよ
八咫という長さの示し方はない 当然、円周長が八咫だから八咫鏡等というのは、
空想の産物でしかない これを信じて主張することしかできない伊都国説は、
九州説の中でもザコ中のザコ
だからカルト化して、頭おかしい度が高くなってるのは
このスレを見れば分かるw
5ちゃんの論争相手に死ねとか言わないと自尊心が保てないとか、
どんなチンピラなんだかww >>433
それはゆとり教育だよw
自分が弥生人より低い知識しかなかったからと言って僻むなよ。 >>435
肥溜めの論証は諦めたんですね
わかります
敗者乙 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 肥溜めの論証ができないと認める=平原1号墓出土鏡が太陽信仰の象徴ではないことを認める、
になるんだが、それでいいならいいよww >>440
どんな理屈でそうなるんだ?
詐欺師の考えることはわからんが、
肥溜めの件は白旗を揚げたのかな? バカをからかいながら、平原1号墓出土鏡は八咫鏡であるという論証が再び為されたな 小学生でもわかる理屈を認めず、
強弁できると思ってるんだからオメデタイね。 >>445
>悪魔の証明が屁理屈であることは小学生でもわかる
それが「平原1号墓出土鏡が太陽信仰の象徴」なんだよな
だから、
肥溜めの論証ができないと認める=平原1号墓出土鏡が太陽信仰の象徴ではないことを認める
になるんだよww はぁ? 弥生時代に太陽は確実にあっただろ。
頭オカシイ人??
サッサと負けを認めてしんどけよ。 >>443
>平原1号墓出土鏡は八咫鏡であるという論証
これに関しては、弥生時代の倭国で咫が使われることがないのが論証済みだし
大陸においても3世紀に咫が使われていないのが論証済みだし
そもそも、周代においても咫を複数形で使わないのが論証済みだし
それ以前に、円形物の大きさを円周長で示すことはないことも論証済みだし
何をどうやっても、成立の余地のない戯言だよww >>448
>大陸においても3世紀に咫が使われていないのが論証済みだし
いつどこで? というか、話を逸らすなよ。
>肥溜めの論証ができないと認める=平原1号墓出土鏡が太陽信仰の象徴ではないこと>を認める、 になる
このトンデモ理論を責任を持って説明しろ。
弥生時代に無かったものについて、弥生人は象徴できないと認めると、
弥生人はなぜ弥生時代にあった太陽を象徴できなくなるんだ??? 肥溜めの論証ができないと認める=平原1号墓出土鏡が太陽信仰の象徴ではないことを認める、
になるんだが、それでいいならいいよww
このトンデモ理論な >>449
>いつどこで?
このスレでも>>410〜>>413、>>416で
こういう、実証的な論証を一切せずに、
「僕チンが見たら太陽に見えるから、太陽信仰の象徴なんだー」って
根拠なく言い張るのがこのスレの頭の悪い、チンピラ>>450ww
だったら、他の人が「どう見てもマンホールの蓋だ」というなら
「マンホールの蓋の象徴」としか言えないだろ?
太陽が3世紀にあったからとか、肥溜めが3世紀にあったことが実証できないから、
というのはこの議論の本質じゃないんだよw キナイコシの話は回りくどくて分かりにくいが、分かりやすくすると嘘がバレてしまうからである。
まさに詐欺師の論法。 マンホールの蓋という意見が成り立つから、太陽の象徴という意見も成り立つということだな。 >>456
マンホールは弥生時代にないので成り立たない。
詐欺師の手口に乗るバカ 銅鏡は天体を表してるし、内行花文は光芒を表しているだろ。
それは銅鏡の銘文を見てもはっきり書かれている。
だいたい丸くて光るものだしね。連想されるのは当たり前の話。
太陽信仰は単なる印象ということにして、
マンホールや肥溜めと等値ということにしたい糞詐欺師の手口。
それも、確実に存在したものと単なる時代錯誤では、全く比較にもならない。
マジ汚いね。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>459
弥生時代に太陽がなかったら、どうやって稲作をするんだ?
光合成が必要なんだが? なんだ?
畿内厨の詐欺がばれて暴れているのか??
暴れるより、サッサと死ねよ
迷惑だし。 キナイコシが嘘で首が回らなくなり、デタラメを言い出した。
(デタラメなのは前からか?) >>458
>内行花文は光芒を表しているだろ。
>それは銅鏡の銘文を見てもはっきり書かれている。
ここが既にウソw
その銅鏡の銘文とやらを、示してごらんw >>458
>太陽信仰は単なる印象ということにして、
また話をずらしている 本当に詐欺師だな、こいつは
印象だからダメといってるのは、
内行花文鏡の鏡背の図象を、「単なる印象、見た感じ」だけで、「太陽の光芒」だと
言い張ろうとしているところ
九州説の狭い見聞で平原1号墓出土の「手抜きなんちゃって図像」の内行花文鏡だけ見て
そう言ってるのがバカの極み
本来の内向花文鏡はその光芒と言っている部分の中にも、線刻があって光芒には見えない
そして、内向花文鏡は連弧文鏡の流れにあるもので、連弧文鏡を見て太陽だと言い出したら
頭おかしいレベル
光芒ということにしたい線は、本来は鏡面の区画線
太陽とは無関係
https://lh3.googleusercontent.com/-JkoRaOL6zWE/VquP-1b7IqI/AAAAAAAADNs/oeMTR7-sBtk/s2600/rak_thk24.gif >>466
>自分で調べろよ カス
お前のようなチンピラと私とどっちが情報検索力があるか、まだ理解できないんだな
「長宜子孫」銘のどこが太陽信仰と関係があるんだ? このスレが盛り上がるだけ、このすれで話題が広がるだけ、
平原1号墓出土鏡が、太陽信仰の象徴っていう主張が、ゴリゴリと削られて
ウソ・インチキ・思い込みしかその芯にないことがはっきりしていくんだよな
太陽に見えるっていう印象だけでは太陽信仰の象徴という主張の根拠に
ならないだけじゃなくて、そもそもからして情弱のずれた思い込みなんだよ >>468
>「長宜子孫」銘のどこが太陽信仰と関係があるんだ?
ほら、またこちらの主張していない謎の主張を持ち出して論破したことにする。
お得意の詐欺手法。
こちらは、銅鏡の銘文に「天体を意識したものがある」だろ。
マンホールや肥溜めが同じと言いたいのだったら、銅鏡に「マンホールや肥溜め」を
意識した銘文を持ってこないと。
ほらほら、ものすごい情報検索力(笑)があるんでしょ。
さっさと銅鏡銘文に「マンホールや肥溜め」の例をあげろよ。
できるなら(笑) ああ、書き忘れた。
国宝を侮辱する国賊詐欺師はサッサと死ねよ >>467
>九州説の狭い見聞で平原1号墓出土の「手抜きなんちゃって図像」の内行花文鏡だけ見て
>本来の内向花文鏡はその光芒と言っている部分の中にも、線刻があって光芒には見えない
より太陽を象徴するように改変したということだよ。
ただの簡略化ではなく、太陽神の分身にふさわしい意匠となっている。 マンホールはまぁ無理があるし、
八咫については"日本"での認識の問題なのに、中国で使用例がない、とか意味が無いよ
じゃあ、八咫鏡はどうして八咫なのか?が必要だが、
直径?ちょっとありえないし
ただ、大きいの意味→平原鏡も当てはまるし
否定の証明はできてないね >>474
>"日本"での認識の問題なのに、中国で使用例がない、とか意味が無いよ
だが、「咫」は、もとが中国の単位であり中国の文字でしか表せないのだから、
"日本"で認識されるためには、日本に伝えられる必要がある
その当時、大陸で使われていないものがわざわざ日本に伝えられることはない
だから、大陸での使用例を確認して、倭国に伝わる可能性を否定している訳だ
伝わらないことが認識されることはないし、使われることもない
日本が咫を認識するようになるのは書物として漢籍がもたらされるようになってからだろう
3世紀には無理だよ >>471
>ほら、またこちらの主張していない謎の主張を持ち出して論破したことにする。
>お得意の詐欺手法。
こいつ本当に見聞の足りないバカだな
内行花文鏡で一番多い銘文鏡が、長宜子孫銘鏡
内行花文鏡一般が太陽信仰の象徴というなら、このレベルの銘文を根拠にしないといけない
まあ、平原1号墓出土鏡は、無銘の手抜き図像のガラパゴス鏡だけどな >>440
>肥溜めの論証ができないと認める=平原1号墓出土鏡が太陽信仰の象徴ではないことを認める、
>になるんだが、それでいいならいいよww
オレとしては、肥溜めの象徴であることを否定できないと認める
=平原1号墓出土鏡が太陽信仰の象徴であることを否定できない
の方がお勧めだけどな
どうする? おいおい、情報検索力(笑)の前に、読解力をあげろよ。
ほんとカスだな。もう一回書いてやるか
こちらは、銅鏡の銘文に「天体を意識したものがある」だろ。
マンホールや肥溜めが同じと言いたいのだったら、
銅鏡に「マンホールや肥溜め」を意識した銘文を持ってこないと。
他にも弥生時代にマンホールがあったとか、肥溜めがあったとかの立証義務も忘れるなよ。
できなけりゃ、お前は国宝を根拠なく貶めるクズ野郎ということだよ 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 八咫鏡ガー!→実証性皆無
三種の神器ガー!→実証性皆無
矛ガー!→実証性皆無
高祖山ガー!→実証性皆無
薄っぺらなイメージだけで語って自己陶酔
それが糸厨 >>475
>日本が咫を認識するようになるのは書物として漢籍がもたらされるようになってからだろう
>3世紀には無理だよ
勝手ルールが全開のようだが、漢籍によって呉の太白の末裔を名乗るくらいの知識はあったようだが? >>476
>まあ、平原1号墓出土鏡は、無銘の手抜き図像のガラパゴス鏡だけどな
独身の卑弥呼のために作る鏡に「長宜子孫」はまずかろう。
そして太陽神の象徴とするなら、あのようなデザインに変形するのも理解できる。 長宜子孫銘鏡
デカデカと宣伝文句が貼り付けられたWindows機ノートパソコン
平原内行花文鏡
シンプルなリンゴマークだけのiPad Pro
どっちが信者を集めやすいかな? このチンピラは、どこの生まれでどんな教育を受けてきたのかって所だけ、
少し興味があるな
今どきの九州説の人には、どんな背景があるんだろう?
まともな日本の教育を受けていたら、そうそう九州説などという妄説を
信じる余地はないんだが >>478
>マンホールや肥溜めが同じと言いたいのだったら、
>銅鏡に「マンホールや肥溜め」を意識した銘文を持ってこないと。
こちらはそんな主張はしていない
捏造乙ww >>478
>こちらは、銅鏡の銘文に「天体を意識したものがある」だろ。
その「天体を意識したものがある」とかいう銘文を示さない限り、
まったく説得力がないんだが?
まあ、チンピラにはその程度のこと(銘文を引用して示す)も
できないんだろうな まあ、こっちで銘文を示してもいいんだが、もうちょっとチンピラを
からかってからにしよう ほれ
>>458 で言っていた
>内行花文は光芒を表しているだろ。
>それは銅鏡の銘文を見てもはっきり書かれている。
光芒であることをはっきりと書いた銅鏡の銘文プリーズ!ww
そんなものはないのは確認済みだが、あると言っているチンピラに
もうちょっとがんばってもらおうかww >>492
その銘文が記された内行花文鏡が1枚もないのはいいかな? 天照大神の孫、伊都高千穂宮に降臨した天孫ニニギの墓である三雲南小路遺跡の内行花文鏡にその銘文があるのだが? >>494
つまり君は、重圏銘帯鏡や連弧文銘帯鏡と、内行花文鏡は区別しない、と
こう主張したいのかな? さらに言えば、三雲南小路遺跡の連弧文銘帯鏡の銘文は
日光鏡の「見日之光天下大明」が記されたものは1枚もないww
結局、情弱が聞きかじりの思い付きを書いてるだけだってのが、
またまた証明されてしまいましたとさww ああ、ごめん
王墓ではない二号甕棺墓の方からは、日光鏡出てるね
最大で径84ミリの小さいやつだけれど さらに、ごめん
84ミリのやつは、日光鏡じゃなくて昭明鏡だ
日光鏡で最大のは74ミリだ それらの意匠を踏まえて大型化し、より太陽の象徴となるように余分な要素を省いたんだろう。
辺縁が広くなったのは、手を抜いたというよりは、天照の威光が広く遍くいきわたるようにという意味かもしれないしね。 三雲南小路の2号墓は、武器が副葬された1号墓の王墓に対して、王妃の墓と考えられている。
そして日光銘鏡は2号墓の方にある。
おそらく、日光鏡は女性の持ち物だという思想があったのだろう。
ならば、平原の内行花文鏡も、女王の持ち物として作られた可能性がある。
平原の内行花文鏡は、三雲の日光銘の連弧文鏡の進化版だよ。 >>500
>平原の内行花文鏡は、三雲の日光銘の連弧文鏡の進化版だよ。
いや、それは通らないなww
内向花文鏡が連弧文鏡の流れを汲むものだというのはいいが、
内向花文鏡は大型化したものは、長宜子孫銘か、大宜子孫銘のどちらか
その直接の系譜はこういうやつだ
https://lh3.googleusercontent.com/-JkoRaOL6zWE/VquP-1b7IqI/AAAAAAAADNs/oeMTR7-sBtk/s2600/rak_thk24.gif
こういう、大宜子孫銘、あるいは長宜子孫銘の連弧文鏡が、内行花文鏡につながる
この鏡を見て太陽を連想するとか言い出したら、頭おかしいわ 三雲南小路の祭殿が細石神社だが、ここに漢委奴国王印が保管されていたという口伝がある。
年代的にも、三雲の被葬者が金印を貰った倭王の可能性が高い。
そして三雲は筑紫の日向の久慈古山(高祖山)の麓にあり、魏の使いが滞在し、弥生時代でありながら硯などの文字文化の痕跡がある。
高祖山の伊都城の前身は、倭国の王城である邇邇芸の高千穂宮だったのかもしれない。
細石神社の祭神は木花咲耶姫だが、倭王と王妃の墓ということであれば、ニニギと木花咲耶姫の墓であろう。
日向三代こそ、魏志倭人伝に卑弥呼の前の男王70-80年に相当するのだろう。 >>501
平原遺跡の内行花文鏡を位置付けられない系統分析など意味がないな。
やり直し。 >>501
これが太陽に見えるようにするためにはどうするか?
中央に円を加えて、辺縁にも余白を加えれば良い。
つまり、平原の鏡は「より太陽に見えるように」改良を加えた意匠だということだ。 そして、数少ない(たったの2面)平原1号墓出土の舶載鏡のうちの1枚は
漢鏡5期の「雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡」16号鏡 18.8センチ
これも内行花文鏡の御多分に洩れず「長宜子孫」銘
平原1号墓の46センチ鏡のモデルは、直接にはこれだろう
「見日之光天下大明」とは関係がない いろんな鏡のいいとこ取りをしたに決まっている。
世界最大の鏡を作るにあたり、作者だっていろいろ考えただろうさ。
太陽の象徴となるように改良し、また独身の女王にふさわしいようにわざわざ「長宜子孫」銘は削ってあるだろ?
特別にしつらえたから、他の鏡の系譜から突出したんだよ。
倭国女王のための特別な鏡「八咫の鏡」だったんだね。 日光鏡を二つほど画像表示しよう「古代文字資料館」より引用
http://www.for.aichi-pu.ac.jp/museum/image2/z2d02.jpg
http://www.for.aichi-pu.ac.jp/museum/image2/z2d01.jpg
連弧文銘帯鏡と方格四乳葉文鏡
どちらも日光鏡で、日光鏡の「見日之光天下大明」が、
特に内行花文鏡と結びついているわけではないことがはっきり分かる
三雲南小路遺跡の2号甕棺墓から出ている径10センチに満たない日光鏡は、
この連弧文銘帯鏡と同じタイプのものだよ
平原1号墓の大形内行花文鏡とは、つながらないだろ? 中華の思想では、天は丸く地は四角いんだよ。
しかし天照の鏡としては四角を排除して、天と太陽を示すようにしたい。
そうしたら円の内側に連弧文を入れる。
平原遺跡の内行花文鏡の出来上がりだ。 それまでの鏡の中から太陽につながる特徴だけを集めた鏡が平原遺跡の内行花文鏡だということがわかってもらえたかな? >>502
>三雲南小路の祭殿が細石神社だが
これがウソ
細石神社が弥生時代にさかのぼる証拠も根拠一切ない
細石神社の由緒にすら
元禄八年の「細石神社御縁起」では天正15年豊臣秀吉により、神田没収とある。
「これ以前については、判明していない。」
といきなり書いてある
あとは九州説お得意の、妄想憶測で補う、だけ >>502
>ここに漢委奴国王印が保管されていたという口伝がある。
口伝って、50年も伝われば、太古からってことになっちゃうんだよ
その口伝は、どこまで遡れるんだい? つまみ食い知識を勝手に結びつけた妄想ばかりで
ちっとも論証がなされない伊都クズの主張 >>502
>そして三雲は筑紫の日向の久慈古山(高祖山)の麓にあり
その当て字、どこから来た? >久慈古山
文献的な裏づけがあるなら教えて 細石神社は三雲南小路遺跡の付属品みたいなものだから、当然1世紀頃だろう。
もちろん現在の建物はもっと新しいだろうけれど。 細石神社は、三雲南小路遺跡の被葬者を祀る祭殿である。
三雲地区は弥生時代にすでに硯などの文字文化があった痕跡があり、魏志倭人伝には郡使が滞在するところとあり、外交の中心地である。
三雲南小路の年代は、倭王が漢委奴国王印を与えられた年代と重なる。
つまり三雲南小路の被葬者が倭奴国王すなわち金印を与えられた倭王である。
その王宮であったと考えられるのが、三雲の東にそびえる高祖山の高祖宮であり、後の怡土城である。
その祭神は日向三代の彦火火出見であり、三雲南小路遺跡の被葬者は日向三代のいずれかであり、金印で冊封された倭王である。
だから、ある時代まで細石神社に金印が保管されていたという伝承にも理があるのである。
高祖山の又の名をクシフル山といい、高祖宮こそ日向三代の祖である天孫ニニギが即位した筑紫の日向の高千穂宮となる。
ニニギが天照から授かったという神宝が、三雲南小路遺跡のすぐ隣の平原遺跡から発掘された八咫の鏡である。
神武は卑弥呼と同世代だという人がいる。
ならば、魏志倭人伝に書かれた、倭国大乱の前の男王70-80年の時代が、伊都国の日向三代の金印の倭王の時代となるのである。 妄想の上に妄想を積み重ねても妄想度合いが高くなるだけ >>510
創建時代は不詳だが、筑前國續風土記拾遺には「天正15年(1587)太閤に神領没収せられ、昔祭日にありし流鏑馬も中絶し、、、」
とあるから、その前はそれなりの大社だったのでしょうね 祭神が木花咲耶姫なら、その時代の創建かもね。
それが1世紀なら、そうなのだろう。 木花咲耶姫を調べていて気がついたのだが、宮崎県の都万神社も祭神が木花咲耶姫なんだね。
つまり、邪馬台国の中心国邑である伊都国の中心にある細石神社と、投馬国の中心である都万神社の祭神が同じであるということになる。
魏志倭人伝で邪馬台国と投馬国が並列で取り扱われているのは、それぞれ似た規模であるだけでなく、先代の倭王であるニニギと木花咲耶姫の時代にどちらも倭国を構成していたからなのだろう。
どこかの時点で、政治的理由か何かでニニギは祭神から外されたのだろう。 >>525
ただ問題は、8世紀以降は記紀がある訳だから、
それに合わせて祭神を「祀っていることにできる」んだよね
要するに、後付かどうかという点が、今となっては調べようがない 邇邇芸が降臨したのは筑紫とされているからね。
そこまで改変されていたら訳がわからなくなるが、金印や八咫の鏡などは、倭王がいたのは筑紫という証拠になるよ。 >>527
>邇邇芸が降臨したのは筑紫とされているからね。
普通は、筑紫といっても筑紫島だから、福岡限定にはならないよ
>金印や八咫の鏡などは
金印は志賀島から出ているけれど、志賀島が奴国の本拠地とも思えないし、
持ち込まれたということは、元がどこなのかが分からないということでもある
八咫鏡は、西海道風土記逸文に宗像大社にあったと記されているけれど、
当の宗像大社の社殿では、一切八咫鏡への言及はない
まあ、皇室所縁のものとは無関係な普通名詞としての八咫鏡だし、王の所在を
示すものとも言えないけれどね >>528
>普通は、筑紫といっても筑紫島だから、福岡限定にはならないよ
勝手な読み替えをする詐欺師。 >>528
>八咫鏡は、西海道風土記逸文に宗像大社にあったと記されているけれど、
>当の宗像大社の社殿では、一切八咫鏡への言及はない
今でもあるけど公言していないだけか、伊勢かどこかに運ばれたのかw
明確に記録があるのに否定しまくるキナイコシw >>530
妄想だけで、駄説戯言を繰り返す糸クズ「キナイコシ」にはうんざりなんだよ このスレの、スレタイが日本史板のスレ一覧にずーっと出続けているってのも
乙なものだねww .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
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| |r┬-| | / < 反日洗脳に侵された
\ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキwww
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日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
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| |r┬-| | / < 反日教育に侵された
\ ` ー'´ // 在日ヒトモドキ丸出しw
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日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》
クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!
耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>545
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| |r┬-| | / < 反日洗脳に侵された
\ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ
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今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
遺跡のメイン部分が今も空き地である事などグーグル地図の航空写真で確認すれば
容易に分かる事であるし、それ以前にこれは国の研究機関の公表であるので悪しからず
. >>548
朝鮮ヒトモドキは玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、同遺跡は意図的に炭素年代測定を行わないまま埋め戻されました。
そして1999年にイ・サンギル氏、イ・ヒョンソク氏、ガク・ジョンチョル氏らによる学術論文「蔚山ムゴドン オクヒョン遺跡」が発表されて以来20年以上も研究対象になっていない遺跡です。
同論文には、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社に売却され既に「文殊中学校」になっていると明記されています。
加えてウルサン市の公式サイトには、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社運営の「オクヒョン第二住公アパート」になっていると明記されています。
いずれにしても韓国本国ですら正確な位置を把握していない程度の遺跡であることは明白で、その無価値さを証明するように玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡を示す記念碑はこの地球上に存在すらしていません。
何より本国唯一の学術論文「蔚山ムゴドン オクヒョン遺跡」に紀元前15世紀や紀元前11世紀という記述は皆無なのです。
これらの主張をしたのは元国立歴史民俗博物館副館長の藤尾慎一郎氏ただ一人であり、そう主張した2019年に同氏は副館長から一般研究員に降格しました。
よって突如として玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の水田遺構が日本最古の水田遺構より古いという主張は、中国における玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為としてすでに韓国歴史学の恥部となっています。
にも関わらず、在日ヒトモドキは国の研究機関の公表だとホラを吹き始め、以前にも増して現実を直視することから逃げ回っているのです。
※玉蟾岩土器とは
1998年に青森県の大平山元遺跡から出土した土器が2008年の炭素年代測定で約1万6,500年前の世界最古と公表されました。
しかし突如として翌年に中国湖南省の玉蟾岩洞穴から件の土器が発掘され、炭素年代測定で約1万8,000年前の物だと主張。
しかし、ロシア国立博物館から再調査の依頼を受けた途端に盗難に遭い、忽然と姿を消してしまったと言い張っています。
出典元:
学術論文「蔚山ムゴドン オクヒョン遺跡」
https://library.knou.ac.kr/user/login?returnUrl=http%3A%2F%2Fopenlink%2Elibmeta%2Eknou%2Eac%2Ekr%3A8090%2Flink%2En2s%3Furl%3Dhttp%3A%2F%2Fkiss%2Ekstudy%2Ecom%2Fthesis%2Fthesis%2Dview%2Easp%3Fkey%3D257061&__referer=http%3A%2F%2Fopenlink%2Elibmeta%2Eknou%2Eac%2Ekr%3A8090%2Flink%2En2s%3Furl%3Dhttp%3A%2F%2Fkiss%2Ekstudy%2Ecom%2Fthesis%2Fthesis%2Dview%2Easp%3Fkey%3D257061
ウルサン市公式サイト「ムゴドン オクヒョン遺跡」
http://ulsan.grandculture.net/Contents/Index?local=ulsan >>549
玉蟾岩土器事件たたいて華南ブタ広鼻半ニグロの日本人アピールが超ウケる(Very嘲笑wwwwwwww
おまえの正体
五毛党(ごもうとう、英語: 50 Cent Party、拼音: wǔmáo dǎng)とは、
中華人民共和国における中国共産党配下のインターネット世論誘導集団を指す
ネットスラングである。正式名は網絡評論員(インターネットコメンテーター)
であり[1]、2005年ごろまでは書き込み1件当たり5毛(5角(=0.5元)を口語で
こう呼ぶ)が支払われていたことからこの蔑称が名づけられた。網軍[2][3]と
呼ばれることもある。
通常は一般人を装い、インターネット上のコメント欄や電子掲示板などに、
中国共産党政権に有利な書き込みをする。または共産党「それに関連する事」を
批判する人に対する集団攻撃をする。ネットを通じ、世論誘導をする役割を
担っている。2015年時点で、約1050万人程度いると見られている[4][5]。
中国政府が世論操作のためにSNSに投稿させている「やらせ書き込み」は、
年間で4億8800万件に上るという[6]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%AF%9B%E5%85%9A#:
. >>550
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(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>553-554
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中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
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日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. >>556,558
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◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>560
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( ´∀`)つ@> 〃〃〃 ∧_∧ .
γ つ∧,,_ `:; , i|l i|l| !|i (・∀・ )
〉 〉 <il`Д´>)') .从[二二二]=O=と )
(__) と;; ::::::〈 そ・<`Д´l|>ヽW / ヘ
('゙゙)::;:*;:つ ∴;;::’ UUと__) (_ノ (__)
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ウソツキは朝鮮人 ∧∧ '’ ` ∧,从 。
(,,゚Д゚) 从 , ━<。Д;゚'il> ・:::∴
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(/ ヽ) ¨``ヽ) __ , ────── 、__
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`ヽ、i (、i´ノ ´い,, ノ ' |;;;::::::::::::::/ なんで、
. i ^~~~ー==─ ー'-+、 /^゙-、;;;;/ 朝鮮人は
{ ヽゝ '-'~ノ ウンコ食べるん?
λ ''゙゙''-''-─、 /-'^"
ヽ,_ ^~^ (
/`''丶、 , - /^l
/ /( ノ `'''''''´~ _, - ' ~ ゙i、
{ / /| ̄ ̄ ̄ ̄ _,-'^¨ }
{/ / ゙ー────'~ \|
/ ヽ \ よお、偽者
∧_∧ な、何するニ… ∧_∧
( ´∀`) ∧,,_∧_ (´∀` )プッ、びびんなよ
( ) (=( ´Д`) ( )
| | | ノ つニセつ | | |
(__)_) (_ ,、 `^)^) (_(__)
おらあああ!! ちっと遊ぶだけだからよお!!!
ニデッ…!! ∧_∧
―=≡三 ∧_∧ \从从/// (´∀` ) 三≡=―
―=≡三と( ´∀`)つ''"´" ⌒_ノ;*;''"´"''::;:,( つ 三≡=―
―=≡三 ヽ  ̄ ̄⌒)>w(;;;((⌒ ̄ ̄ ̄_ ) 三≡=―
―=≡三 / / ̄ ̄´"'''⊂;;;#':*,'´''::;;;;::'''"´ ̄ヽ \ 三≡=―
―=≡三 \__); ///(_ ,、 `^)^) \\\ (__) 三≡=―
ぎゃはははは!!!「ニデッ…」だってよ!!!
救急車・・・ . ∧_∧ 治ったら ∧_∧止めとけよ
,;;⌒,;,、, ..ペッ(∀` )また半殺しな (´∀` )ツバが
:;ノ(:メ,^;w;:ζ 。´. ( ) ( ) もったいねぇってww
{{~(,;,#,"ヾ);U.."`.゚ | | | | | |
.,.{{と,;ノc_).;,...;: (_(_) (_(__)
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| | |/ 支\
| ( `ハ´) < メシの時間アル
| ヽ( つと)
|ブリ || (ヽ ) ) ( ̄◎
| ブリッ )し'し' |~~~|
| ⊆=⊇  ̄゛
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ホルホルホル ♪ ̄ ̄ ̄; :  ̄ ̄|
|. ∧_,,∧ .人. |
| <ヽ`∀´> (__) .....|
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お腹ペコペコだったニダ♪ :::::::::::/ .ま そ 勘 そ ヽ:::::::::::
:::::::::::| ず れ ち れ i:::::::::::
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:::::::::::/ 働 前 い .キ イ:::::::::::::
::::::: | け に だ. .ミ ゙i ::::::
\_,よ .し の,,-'
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:::::::,-‐、,‐、ヽ. )ノ _____
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/. ` ' ● ' ニ 、. [__韓●流___|
ニ __l___ノ (-◎-◎一 ヽミ i
/ ̄ _ | i ( (_ _) U リ6) 知らないのかよ、w
|( ̄`' )/ / ,.. (:: ε ( ∴: ) 韓国は日本をあらゆる分野で追い越しまくってるんだぞ
`ー---―' / '(__ ) ヽ_____ノ ネトウヨ悔しいのうwww悔しいのうwww
====( i)==::::/ ,/ニID:
:/ ヽ:::i /;;;;;;;;;;;;;;;; >>1
SD-1009は海水生簀。
SM-1001はその排水溝で、
魚が逃げないよう下流にスクリーンが張られており、
スクリーン手前には、ゴミ沈殿堆積への対策として大型土坑が掘られていた。
サバ、アジ、マダイ、などの海水魚を、海水ごと輸送してきて、
海水生簀SD-1009で養殖。
運んできた海水並びに、周囲の河川水+塩添加で塩水を維持。
輸送で疲労した魚に、
桃や人糞などを餌として与えて、栄養をつけることで魚の品質を向上させていた。
桃の種や、人糞中の蛙の骨などは、魚が食べないため、下流へ流れて、
スクリーン手前の土坑に沈殿。
海水はアルカリ性なので、スクリーン手前の土坑に沈殿した骨は溶けずに残った。
SD-1009とSM-1001は、庄内3式期〜布留0式期であり、
布留0式が副葬されていたホケノ山古墳被葬者の生前活動時期に一致する。
内行花文鏡片、大量の鉄器、そして海水魚への熱烈なこだわり。
ホケノ山古墳被葬者は、北部九州からやってきた海人族であった。
今や世界中に普及した倭食の歴史を物語る貴重な遺蹟である。
. キムチ臭いなら
∠ ̄ ̄|〕・*: 。..。.:
IIII下 ":・*.゚
」 L
/ \ シュッシュッ":・*.゚
|ファビョリーズ|
|<#ヽ`Д´>|
\___./
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