平原鏡はマンホール
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
キナイコシは日本文化への敬意が足りない。
だから八咫の鏡やら祇園祭やら沖ノ島やらをこき下ろそうとする。 しかし、なぜ、畿内説を宣伝するキナイコシは、夜麻登登母母曽毘売を卑弥呼と誤認定したのだろうか、、、 >>93
アンチに袋叩きにあうと、相手は一人だと思い込もうとするんだな。
きっと精神的な防衛機制なんだろう。
全ナントカ病というやつか? キナイコシも、本当は、夜麻登登母母曽毘売を卑弥呼だとは信じていないのではないのかな。。。 >>98
観光業界の宣伝のために、言い張っているだけではないのかな。。。 >>99
そうだね、畿内説で有名な某学者も退官したら倭人伝の記述は九州だと認めたらしいしね、、、 >>95
恣意的な持ち上げはダメだと言ってるだけ
皇統の八咫鏡は崇敬の対象だが、その権威に背乗りしようとする関係のない鏡は
きちんと関係ないと言わないと! 「キナイコシ」は、ザラコクと並んで、一番軽蔑している >>95
>祇園祭
祇園祭の祭神がどの神なのか分かってないんだろうなw 皇統の八咫鏡の起源と、なぜそれが皇位の象徴となったかについて、考えたりしないのかな? 八咫鏡は高天原で石凝戸邊命が作ったことになっているけれど、
石凝戸邊命の奉祭氏族は、唐古鍵近くの作鏡連だ
つまり、実際には唐古鍵の銅鐸を作っていた青銅器製作技術者が、
大和の地で八咫鏡を作ったのだろう
それが、皇室の権威とともに伝世することで神聖な鏡となったんだよ
普通名詞としての八咫鏡の存在も記紀に描かれているし、その中で
皇室の鏡だけが神聖化された
平原に八咫鏡があったという説話も伝承もない
平原1号墓出土鏡は、皇統の八咫鏡とは無関係だよ 昔は八咫鏡は複数あったということだろ。
しかし、高天原で八咫鏡を与えられたニニギは筑紫に降臨したんだぞ。
その時点では大和など影も見えない。 >>105
>石凝戸邊命の奉祭氏族は、唐古鍵近くの作鏡連だ
末裔が筑紫から移り住んだだけ。
>つまり、実際には唐古鍵の銅鐸を作っていた青銅器製作技術者が、
>大和の地で八咫鏡を作ったのだろう
根拠ない妄想ですね。 >>107
銅鐸の同范作成技術で作られたのは三角縁神獣鏡の方だよ。
内行花文鏡は、複製された数が少ないだろう? 銅鐸の同笵は石製鋳型で後半には見られなくなる
三角は土の鋳型
技術の系譜がまったく異なる >>106
>昔は八咫鏡は複数あったということだろ。
複数あったというより、普通名詞だったんだよ
皇統の鏡は、記紀によれば崇神の時代には存在する
それと、雄略紀の小鹿火宿禰の持っていた鏡が、
同時に鋳造されたものってことはないだろう >>107
>末裔が筑紫から移り住んだだけ。
筑紫に石凝戸邊命に関連する説話や神社はあるのかい? 八咫の鏡を持って降臨した筑紫の日向の高千穂だね。
細石神社はニニギと木花開耶媛。
高祖神社は彦火火出見。
いわゆる日向三代の男王達。 >>114
で、筑紫に石凝戸邊命に関連する説話や神社はあるのかい?
なければ、石凝戸邊命の末裔が筑紫から来たという説が根拠薄弱になるんだが? >>114
日向三代と言いつつ、2代しか書いてないぞw >>110
三角や画文に見られる半肉彫りの紋様は石の鋳型では不可能 >>118
日本語読めますか?
「半肉彫りの紋様は石の鋳型では不可能」 で、筑紫に石凝戸邊命に関連する説話や神社はないんだな? >>119
考古遺物として鋳型が出土したわけじゃないのね。びっくりして損した。 この程度で「考古学的事実」とやらを振りかざす滑稽さよ >>120
そりゃあ、高天原で作ったものを筑紫に持ち込んだことになっているからね。 >>123
>そりゃあ、高天原で作ったものを筑紫に持ち込んだことになっているからね。
でも、日向三代の間、筑紫島にあったことを示す説話も伝承も
伊都、三雲、平原周辺には一切ないんだね?
実際、いなかったんじゃないの?
石凝戸邊命をきちんと(?)祀っているのは、
大和の鏡作坐天照御魂神社、鏡作神社、鏡作伊多神社、
和歌山の、八咫鏡の試作鏡との伝承のある日像鏡を御神宝とする日前國懸神宮
辺りがおおどころ
畿内というか、唐子鍵周辺が中心
八咫鏡は、唐子鍵の青銅器製作の特定家系が作ったってのが一番ありそうではある
宮崎にも三宅神社という石凝戸邊命を祀る神社がある
調べた限り、福岡県にはなさそうだよ? >>124
>実際、いなかったんじゃないの?
伊都に日向三代を祭る大きな神社がある(高祖宮)。
>辺りがおおどころ
勝手な妄想は無意味。 >>124
>調べた限り、福岡県にはなさそうだよ?
伝承では高天原で作ったわけだから、問題ない。
ただし考古学的には鋳型などの多くは福岡で見つかる。 >>125
>伊都に日向三代を祭る大きな神社がある(高祖宮)。
だから、日向三代でごまかすなって(繰り返し)
石凝戸邊命は居ないのかと訊いてるんだよ
鏡作上祖石凝姥命は、古事記と日本書紀の一書でニニギと一緒に天下ってるぞ
古事記の表記では伊斯許理度賣命
その痕跡は、伊都国及び福岡県にはないってことでいいな?
宮崎県(日向)には、三宅神社があるけれど >>126
>ただし考古学的には鋳型などの多くは福岡で見つかる。
そこらの鏡の鋳型がいくらあってもしょうがないだろ?
今問題にしているのは、石凝姥命の作った八咫鏡なんだから 結局、伊都国、三雲・平原周辺には、八咫鏡関連の情報が一切なくて
かすりもしないのは確認できたな! >>127
>石凝戸邊命は居ないのかと訊いてるんだよ
たかで作って、筑紫に持ち込んだ。
理解できますかあ? >>127
>石凝戸邊命は居ないのかと訊いてるんだよ
高天原で作って、筑紫に持ち込んだ。
理解できますかあ? で、石凝姥命の足跡が筑紫には一切残ってないって言ってるんだよ
五伴緒神の一人として天下った、重要な神なのにその痕跡すら一切筑紫にはない
よそのスレで鏡作りは職人だとか見下した発言をしていたバカがいるけれど、
祭器の製造を管掌するのは、重要な神であり家系とみなされている
平原1号墓ででかい鏡を作ったのは、天下った日向三代の家系の王だからという
「設定」なのに、その鏡を作るべき「石凝姥命」及びその後裔の気配すらまったくない
これはどういうことなんだろうね?
要は、平原1号墓の鏡を作ったのは、八咫鏡を作った集団=石凝姥命に代表される皇統の鏡作りとは
無縁だったんだろうってことだ
石凝姥命の後裔氏族、奉祭氏族は大和の唐子鍵付近にいる
神代に作ったという伝承になっているが、実際には弥生時代の唐子鍵周辺で作ったとする方が
神道五部書の御鎮座伝記に記された「日像八咫鏡」という名称を説明しやすい >>133
>作った八咫の鏡はどこにある?
日本人ですか? そんなことを疑問に思うなんて?
八咫鏡は、伊勢の御神鏡に決まってるだろうが!
そして、伝承というか記紀の伝えでは、崇神天皇の御代に形代を作っていて、
それが賢所の鏡
こちらも、八咫鏡の名で呼ばれる
この崇神天皇のときの、形代鋳造の試作品が日前神宮・國懸神宮の日像鏡という
社伝がある
一方、伊勢の外宮宮司家、渡会神道の神道五部書・御鎮座伝記の神鏡座事では、
日前神宮の日像鏡は、高天原で石凝姥神が八咫鏡を作ったときの試作品とされている 【八咫鏡】
平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。
内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
伊都にある王墓の代表である三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。
八咫鏡はニニギら日向王家の象徴であるが、それが日向峠のある高祖山周辺にあったことで、伊都が記紀に伝えられる倭国の旧都、筑紫の日向であったことがわかる。
石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口、日前は西の出口にあり、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
筑前国風土記では、沖ノ島辺津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、辺津宮、伊都に5枚で、最低でも10枚は存在していたことになる。
この他に日本書紀では筑紫の帥である神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、顛末は記録されていない(上記のいずれかと重複している可能性がある)。 >>135
>でもその鏡は八咫の大きさではないのでしょう?
神道五部書の御鎮座伝記・神鏡座事では、八咫鏡は日像八咫鏡とされ、
八咫は、八頭の古語と書いてある
八咫が大きさを意味するという、古記録、説話、伝承は一つもない
もともとは、原田大六氏の思い付きみたいなもの
神鏡座事の原文を載せておくよ
前半は、外宮の鏡のこと カギカッコ部分が、内宮の八咫鏡の記述
~鏡座事
一面者。從月天顯現之明鏡。
圓形座。三光天衆五飛龍守護~五座。是天鏡尊之鑄造白銅寶鏡也。
月天所作三面之内也。
崇祭止由氣宮是也。
大田命曰久。崇~天皇御宇止由氣皇太~天降坐弖。天照皇太~與一處雙坐。
于時從天上御隨身之寶鏡是也。~代天御中主~所授白銅鏡也。
是國常立尊所化~天鏡尊。月殿居所鑄造之鏡也。三才三面之内。一面是也。
今二面者。天鏡尊子天萬尊傳持給是。次沫蕩尊。次伊弉諾伊弉冉傳持給天。
~賀吉詞白賜弖。日~月~所化乃眞經津鏡是也。天地開闢之明鏡也。
三才所顯之寶鏡也。當受之以清浄。面求之以~心。視之以無相無位。
因以爲~明之正躰也。今崇祭一面荒祭宮御靈。一面多賀宮御靈坐。
已上三面辭竟奉支。
「一面者。八百萬~等以石凝姥~奉鑄寶鏡是也。是則崇祭伊勢太~宮也
一名日像八咫鏡是也。八咫。古語八頭也。八頭花崎八葉形也。故名八咫也。
中䑓圓鏡形座也。圓外日天八座。 」
一面者。日前宮座也。石凝姥~鑄造鏡也。初度所鑄不合諸~意。紀伊國日前~是也。
已上。~代寶鏡是也。 やはり、出土している事実は重いな
超大型鏡、その鏡が存在していた事は確実なのだから すべて卑弥呼よりはるか後世のものばかり。
筑紫の銅鏡文化が全国を席捲した痕跡に過ぎない。 >>140
そういうこと
平原は弥生時代終末期の墓であり、鏡は最古で最大
ここは重要だね
鏡文化の拡がりでいえば当然そうなる
古墳時代の大量鏡副葬文化はここからだろうし
そして、それは畿内では布留1以降、三角が副葬されるようになってから
ただ、思想の流行なだけかもしれんから、それは頭に置いている でかい鏡が出る墓は、そこかしこにあるけれど、
「その鏡が出たから王墓」だとは考えられていない
「でかい鏡を王墓に副葬するのが伊都国の文化であり、それが全国に広がった
平原はその発端であり、倭王の墓である」
という主張は、「現実」によって否定されるってこと
そして、大きな鏡は内行花文鏡に限らないし、平原1号墓の内行花文鏡の系譜は
どこにも引き継がれていない 平原1号墓の被葬者が、伊都国の歴史を考える上で重要人物だってのは認めてるよ
ただ、伊都国の歴史は史書にほぼ残されていないし、固有名を当てることは未来永劫できないだろう >>144
>伊都国は国邑の名であり、国家としては倭国ですね。
国家としては倭国なのはいいとして、国邑ではないよ
末慮国と同格 倭国の中に邪馬台国があって、その中に伊都国があるなんていうのは
二重帳簿詐欺だろう、と 纏向珠城宮皇女倭姬命伊勢國渡遇之宇遲乃五十鈴河上之邊。
立礒宮御座之時爾。狹長田之猿田彥大神。宇遲土公氏人遠祖神也。
齋內親王。神主部。天村雲命之孫。大若子命弟。乙若子命等也。
物忌等。天見通命之孫。宇多大牟禰奈。大阿禮命等也。
訓悟白久。「凡天地開闢之事。聖人所述也。爰伊勢天照皇太神。
五十鈴乃河上爾御鎮座之制作。未露紙墨。故元始綿邈。其理難言志。願爾諸聞給倍。
『吾是天下之土君也。故號國底立神也。吾是應時從機比。化生出現之。故號氣神。
吾亦根國‧底國與理麤備疏備來物仁。相率守護之。故名鬼神。
吾復為生物仁授與壽福之。故名-大田神。吾能反魂魄之。故號興玉神。
悉皆自然之名也。物皆有效驗。我將辭訖。』遂隱去矣。」 纏向珠城宮皇女倭姬命伊勢國渡遇之宇遲乃五十鈴河上之邊。
纏向珠城宮、皇女倭姬命、伊勢國渡遇の宇遲の五十鈴河上の邊り。
纏向珠城宮(垂仁天皇のこと)の皇女である倭姬命が、
伊勢国渡会の宇治の五十鈴川の川上の辺りに、 立礒宮御座之時爾。狹長田之猿田彥大神。宇遲土公氏人遠祖神也。
礒宮を立て御座の時に、狹長田の猿田彥大神は、宇遲土公氏人の遠祖神なり。
礒宮を立て御座(御神鏡をお祀りしようとした)時に、狹長田に猿田彥大神がいらっしゃったが、
宇治の首長の一族の遠祖神であある。 宇遲土公氏人遠祖神也は、狹長田之猿田彥大神に付けられた注記
二行書きの小さな文字で書かれている 齋內親王。神主部。天村雲命之孫。大若子命弟。乙若子命等也。
齋內親王。神主部は、天村雲命之孫、大若子命弟、乙若子命等なり。
齋內親王(後の斎王、倭姫のこと)、神主部は天村雲命之孫で大若子命、弟乙若子命等である
天村雲命之孫。大若子命弟。乙若子命等也は、神主部に付けられた注記
二行書きの小さな文字で書かれている 柳田康雄「九州弥生文化の研究2002」
(平原王墓p22)
「近年、韓国・・・から同類の瑪瑙管玉が多量に出土しており、時期については明記されていないが
共伴している土器や鉄器が三世紀前半から四世紀と考えられているものであり、多少前後するとし
ても韓国と日本で限定された時期に見られ、二世紀の古いものではない。
大型鏡の・・・銘帯の退化や主文の簡略化があり、中型鏡の・・・主文配置のずれ、L字文の逆方
向、銘文のずれ、鈕の大型化などがあり、その制作年代が三世紀になることが確実になった。」 物忌等。天見通命之孫。宇多大牟禰奈。大阿禮命等也。
物忌等は、天見通命の孫、宇多大牟禰奈、大阿禮命等なり。
物忌等は、天見通命の孫、宇多大牟禰奈、大阿禮命等である。
天見通命之孫。宇多大牟禰奈。大阿禮命等也は、物忌等に付けられた注記
二行書きの小さな文字で書かれている >>154
>銘帯の退化や主文の簡略化があり
要するに、仿製鏡大量生産のための手抜きだよな
倭王の葬祭に、手抜き鏡でいいのか?
>>139に挙げられた鏡は、どれも王墓とはされていない古墳からの出土だが、
平原1号墓出土鏡よりすばらしい優品ばかりだぞ 平原遺跡の超大型内行花文鏡の紋様は、象徴としての抽象化の結果だろうね。
より無条件に神秘性を表現することができる。
中国人から見た卑弥呼の鬼道とは、初期神道の祭祀そのものだよ。 「手抜き」は主観
「内行花文鏡本来の施紋原則から逸脱してる」なら事実
「その施紋方は受け継がれていない」は現時点で事実
「古墳時代の作鏡に影響を与えていない」も現時点で事実
「鏡作りの技術史において平原の内行花文鏡の位置付けはさほど大きくない」は事実から導かれた所見 >>160
えっと…、成分分析されてる方の意見だと、三角などの制作技術は、平原から受け継がれているとの話だったが…
基本的に話がずれていて、技術云々は工人の違いであり、鏡副葬文化の継承の考察とはまた違う
紋様の問題などはその鏡副葬文化"内"での話だし
時代や地域が違えば好みの鏡も違うだろう 平原1号墓出土鏡で、単なる同心円が引かれているだけの領域が、
他のまともな内行花文鏡でどのように表現されているかを見れば、
平原1号墓出土鏡が「手抜き」だってのは分かると思うぞ!
>>139にも3枚、内行花文鏡があるから見てごらん
九州説、伊都国説の人は、周りもちゃんと見れば、自分たちが
根拠のないことを言っていることに気づくと思うよ 抽象化しただけだろ。
単にあんたは平原遺跡が怖いから、無駄な抵抗をしているだけだ。 なんのための抽象化だ?
王のためなら、これでもかと意匠を凝らすものだろ?
実際>>139に挙げた鏡はどれも細かいところまで隙間なく文様を彫り込んでいる
しかもどれも倭王(大王)墓とはされていない古墳の副葬品だ
要するに、平原1号墓出土鏡は「大きくすることだけ」が目的の手抜き鏡なんだよ 平原1号墓しかない九州説は虚勢を張らなきゃいけないから大変だな 嫌われているのは平原遺跡やそこからの出土鏡ではなく
嘘をついたり荒らしたりして周囲に多大な迷惑をかけながら
自分の妄想を押し付けようとする伊都クズの所業 >>163
平原以前の日本製と思われる鏡で、平原より精巧な鏡ってある?
手抜き?の意味がわからん
「日本」での最新技術にしか見えんが? >>168
>平原以前の日本製と思われる鏡で、平原より精巧な鏡ってある?
以前、と区切る必要があるのか?
平原の年代があやふやだから、何をもって平原以前とするのかが分からないんだが?
鏡に限らなければ、弥生中期の祭祀用青銅器で平原1号墓出土鏡よりも精巧なものは
いくらでもあるが? >>169
誤魔化さないで銅鏡で答えろよ。
畿内説だと平原遺跡は2世紀なんだろ? 何を以て精巧であると言えるのか明確でないが
たてえ精巧であると評価できうるとしても
同時代や次代にデザインや技術的に影響を与えていないなら
それは技術史的には進化の袋小路に入り込んでると評価されるだけ >>171
平原遺跡の鏡が弥生時代の最高傑作という意味ですね。 弥生時代のねw
古墳時代の鏡にはまったく影響を与えていないw >>172-173
なんで連投にするの?
複数名いる芝居でもしてるの? 弥生時代の仿製鏡ってのが、あまりないからね
弥生時代の鏡はあくまで舶載鏡が重視されたのであって、仿製鏡の大量埋納というのは
平原1号墓以外ではあまり聞かない
魏から銅鏡100枚もらった卑弥呼の墓に、大量の仿製鏡を破砕供献するというのは
理由が分からないww
まあ、普通に考えて、卑弥呼よりも前の世代で、大陸からの舶載鏡が得られなかった時代に
がんばって仿製鏡を作ったんだろうなってところだね
仿製鏡がいくらたくさん出たところで、それが卑弥呼の墓の根拠にはならないだろ
魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず
墳丘に土壙墓を掘られるような、
径十歩に満たない墓は、
卑弥呼の墓も倭王の墓もない 卑弥呼より前の時代なら、後漢鏡をそのまま使えばいいだけですね。
漢が滅亡したからこそ、仿製鏡を作ったのでしょう。
つまり、平原遺跡は倭国大乱後の卑弥呼の墓の可能性が高いです。
耳璫の年代も、2世紀に遡るのは困難です。 >>176
つまり、日本での技術が最新という事だよな >>177
>後漢鏡をそのまま使えばいいだけですね。
それが、実際には使われていないだろ? >>178
>つまり、日本での技術が最新という事だよな
鏡以外の、銅矛とか銅鐸では、立体整形のもっとでかいのを2世紀には作ってる
半肉彫りでもない鏡を作る分には、技術的には特に問題はなかっただろ?
最新技術というほどの技術はないだろうに >>177
>つまり、平原遺跡は倭国大乱後の卑弥呼の墓の可能性が高いです。
魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず
墳丘に土壙墓を掘られるような、
径十歩に満たない墓は、
卑弥呼の墓も倭王の墓もない >>180
>鏡以外の、銅矛とか銅鐸では、立体整形のもっとでかいのを2世紀には作ってる
銅鐸の技術は途絶したろ。 銅鏡としては連続してる(キリッ
矛の形と名称は連続してる(キリッ
こいつバカだな… >>182
>銅鐸の技術は途絶したろ。
銅鐸の鋳型の出てる唐子鍵の近くに、鏡作神社があるんだよ
三角縁神獣鏡は、銅鐸を作っていた青銅器作成集団が作ったと考えてよい >>188
>三角は魏晋鏡だよ
その後の、大量の仿製鏡を作ったのが、鏡作神社周辺って話 >>190
結局は大和も仿製鏡だな。
平原遺跡の仿製鏡をさんざん馬鹿にして、その挙句がこれだ。 >>190
いや、かつては舶載とボウ製で区分されてたけど
技術的な視点では両者の区分は不可能ってなってるんだよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています