邪馬台国沖縄(琉球)説 Part1
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年中生野菜を食べられる温暖な気候、
入れ墨やシャマニズムなどの文化習俗、
記録された距離、方向から想定される位置から考えて、
邪馬台国は沖縄に比定するのが妥当である。
邪馬台国の7つの国を統率した女王の墓域は北谷海底遺跡だった。
狗奴国はテイ[魚是]人が居住する先島諸島の21カ国の最果てにある与那国(海底遺跡)だろう。
侏儒国は小笠原諸島、
裸国、黒歯国はサイパン、グアムと推定される。
沖縄の邪馬台国はその後、地球のプレート活動により水没したが、
度重なる自然災害に危機感わ覚え始めていた邪馬台国はそれに先立って、
豊富な鉄器を持って九州・日向(宮崎)に侵攻して新王朝を建設したものと推測される。 >>40
仮に一年中、あるいは数年滞在したなら食文化は詳細に把握できたろう
だが倭人伝にあっては、
伊都国以降に米食の紹介がない
以前の記述でも良田なく欲を満たせておらず、
倭人はもっぱら魚介、海藻類で食を賄っている
酒を飲んでるから米を産してるやも知れないが食用とは思われない
弥生の稲作社会ならまずその社会を形作る稲田や米食にこそ着目し穀高について記載するはずだ
ところが邪馬台国では野菜にのみ言及するに過ぎない
以前からの記載も併せれば、
漁労採集社会と見なすのが自然である
シャーマンの呪術支配も含めれば、
その姿は弥生より縄文の方が近い
であるのになぜその位置を推定しようと吉野ヶ里だの大和の弥生稲作遺跡にその解を求めるのだろうか?
むしろ稲作北限界を超えた先の東北青森のイタコ文化にでも着目するべきではなかろうか? 稲栽培の記述はあるが、
それはカラムシ、養蚕の並びであって、
稲藁の繊維取得が主目的と考えられる
死者が出ると服する期間肉を避ける
牛馬羊はいないとされ、猿とキジあり肉食への言及があるゆえ、ウサギ肉などか
食器に関しては竹で編んだり木をくり貫いた物で土器が出て来ない
刺青文化は狩猟民に対獣の威嚇偽装目的だろうし、
弥生社会を思わせるものは認めがたい 入墨は太平洋海洋文化の典型だものね。朝鮮や北方からの文化ではあきらかにない 年中生野菜を食するとする
本来、コメもまた野菜だ
コメは煮るか蒸さないと食べられない
コメを食べる習慣があるなら野菜も煮るはずだ
その方が食材が増えるからである
例えば芋類が典型だ
そして土器の記述がなく木器や編み器の使用が確認できる
これらはそれ単独では蒸し物料理も無理で火力料理には適さない
一方で魚介食や肉食である事実がある
魚介は生が可能だとしても、獣肉は無理だろう
魚や肉は串刺しにして炉端にしたり、火の上に渡して焼いて食べていたのではないかと推測できる
つまりコメや野菜を煮るための道具の存在が証明されていない
温暖ゆえに年中多彩収穫が可能で、保存の必要性が無かったため、
道具の革新と発展がなかったのではないか?
それは海南島との間に使用道具の差違がないとの記述に対応していると思われる
こうした実情は、この社会が決して弥生のそれではないことを示している
弥生の稲作文化は道具を伴ってこそ普及し発展するものである 沖縄には古代稲作の痕跡が認められない
邪馬台国の周辺が豊穣な米作社会であるなら、中心部たるところが米作でないはずもないが、
魏志倭人伝では、壱岐や対馬における稲作が紹介されてるが、食文化の主たる扱いにはなってないのだから、
邪馬台国もまた同様であったと考えることは可能だ
沖縄は米作は可能だが、盛んではなく、水源と地形に原因があるようだ
その事実は、倭人伝が邪馬台国における米作を無視し去っていることの理由にもなる
確かに「難升米」の表記に「米」が使用されているが、邪馬台国では飲酒文化が盛んだったため、
酒造上の、従って宗教上の重要性があったことが反映されたにすぎないと説明できる 一方で、「有無する所は儋耳・朱崖(海南島)と同じ」
ここで海南島では歴史的に米作は行われてきたのかということが問題になってくる
どうも海南島の先住民が百越に由来するリー族で、今日にも米・粥、竹筒飯が伝統食となってるのだから、
邪馬台国でも米を作ってたろうとなってくる
沖縄の稲作文化
https://kazu0103.ti-da.net/e3917983.html
沖縄、稲作ルーツ巡り
https://komenana.com/%E6%B2%96%E7%B8%84-%E7%A8%B2%E4%BD%9C%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%84/
沖縄の稲作の歴史は、玉城の受水・走水が発祥の地とされているのですが、
弥生時代の稲作の遺構は確認されていないそうです。
中国の古文書には、『伊平屋は米を産する最も佳なり』とあり、
8世紀には既に米を生産していたようです。。
現代沖縄の米農家事情
http://hougen.sa●kura.ne.jp/hidaka/okinawa/2007/2_08.pdf
沖縄で稲作が盛んでない理由は
なぜでしょうか。1日中温暖であるのにと個人的には思います。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7316598.html
No.8ベストアンサー
沖縄の農家の方に伺ったことがありますが、No.7の方のお答えの通りでした。県産米として売ってますが、美味しいとは聞かないです。
また、水田にできるような場所が限定されることも理由だと思います。隆起サンゴ礁の台地では水が得にくいというか
地下に浸透してしまうため、数少ない川の下流域くらいしか適地がないと思いますね。与那国には川があるので水田ありました。
ある程度高い山がある島には川もあり水田がある。テーブル状の地形の島は水が得にくく水田がない。
特に夏は台風が来なければ雨が降らないので、稲作向きの気候や地形ではないのでしょうね。
沖縄(おきなわ)のお米の生産量(せいさんりょう)は、なぜ少ないのですか。:農林水産省
http://www.maff.go.jp/j/heya/kodomo_sodan/0205/04.html
3.かんばつ(長い間雨がふらないこと)がひんぱんにあり、大きい川もないため、水不足になりやすく
多くの水を必要とする稲作(いなさく)がやりにくかった。 食文化自体は後年になって漢族が分割統治目的で入植させた苗族の影響を受けた可能性はあろうが、
ルーツが長江流域民の百越なのだから元からの米食民だと考えざるを得ない
邪馬台国とは文身(入れ墨)やシャマニズムなどの文化宗教上の共通点が多く、同じ母系氏族社会である
海南島
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%8D%97%E5%B3%B6
古来から黎族(リー族)、苗族(ミャオ族)、壮族(チワン族)など少数民族が住む。
北部が温帯気候、南部が熱帯気候に属する。
海南島は降水量に十分恵まれている。年降水量は1,500ミリ・メートル以上、東部では2,000 - 2,800ミリ・メートルに達するので、
水稲・さとうきび・落花生などの栽培に適し、水稲は1年3作である。
海南島の歴史
http://vrai2.blog.f●c2.com/bl●og-entry-759.html
元々は黎族や苗族の島だった。では黎族の起源はというと越族。
これは揚子江(長江)以南、ベトナムあたりの広大な地域に住んでいた民族だ。
その起源をさらにたどると浙江省の海岸部に住んでいた民族らしく、
浙江省といえば上海の南側。これが漢民族に圧迫されて南へ、南へと移動し
ついには海南島に閉じ込められた。中国の黎族の90%がここに住むと言う。
中国史を見ると越という国が登場するが、祖先は、この越を構成していた民族らしい。
ただ、越の名前だけが民族名として残っているが、百越として長江南岸を
長く支配していた。その流れの呉や楚も同系列の民族。
始皇帝を滅ぼした漢の劉邦と楚の項羽だが、最後に劉邦が項羽を破り漢をたて、漢民族が拡大した。
これが逆だったら、中国の歴史は大きく違ったものになってた。
その後も、三国志では江南には同じ民族の呉王朝がたっていて、決して少数民族出などなかったはずだ。
ベトナムあたりが核心的利益は譲れないと、長江南岸までの領有権を主張したら良い。
越民族の今は1億1000万人、ほぼ日本の人口程度。
占領政策があったにせよ、いかに漢民族が繁殖力の強い民族かがわかる。 リー族
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%BC%E6%97%8F
黎族(リー族)は中国の少数民族のひとつ。その約90%以上が海南島に住む。
歴史
百越の分枝駱越(中国語版)が秦・漢以前の時代に移住したことに始まるという。同じく駱越に起源を持つ民族に水族がある。
信仰・文化
「鬼神」と呼ばれる精霊的存在へのアニミズム信仰を持ち、旧暦3月3日「三月三」と呼ばれる豊穣を祈る祭礼を行う。
粥など米類を主食とするが、特色のある料理として、竹筒に米を入れて作る竹筒飯などがある。
海南島の歴史
http://www.kainantou.com/history.php
国家としての記録は、秦の始皇帝時代に秦の統治下にあったことが明らかになっています。
流刑地、役人の左遷の地として利用されていました。
また、日本に渡航しようとした鑑真が流れ着いたことも有名です。
三国時代には呉に属し、これが海南島内の歴史として最も古い記述となります。
漢民族が軍事侵略した当時、原住民のリ族がすでに海南島に居住していたことが明らかになっています。
このリ族は今日の海南島には70万人の人口を持ち、海南島内の最大の少数民族となっています。
その後、中国の歴代王朝の支配を受けながら発展していきます。
16世紀から17世紀にかけて
おもに福建省から多くの漢民族が移民し、リ族は山岳部へと追いやられることになりました。
その後、18世紀に入り圧政を受けていたリ族は、漢民族に対して反乱をおこします。
ところが漢族はこれに対抗させるために傭兵としてミャオ族を本土から連れて来て戦わせました。 歴史-海南島の基本情報-??海南
http://jp.explorehainan.com/jp/realize/lishi.shtml
5000年以上前の新石器時代、長江以南で生活していた百越人の一支族、駱越人が、丸木舟や竹の筏に乗り始めて
無人の海南島に上陸し、母系氏族社会を作りあげました。これが黎(リー)族の祖先であり、当然海南島で最も早く
生活した人々ということになります。
2000年以上前に秦の始皇帝が中国を統一した後、海南島は国境として広西象郡の管轄下に置かれました。
この後の厳しい歳月において、中央政府の海南島管理体制はしばしば変化し、制度を設立して官員を派遣して管理したり、
大陸の郡県に隷属させて辺境に置いたり、「リー族」の?首に父系氏族社会方式での統治を委任したりしました。
海南島の漁民たちは、1000年以上前に南海諸島に居住し始めました。
海南島の歴史と先住民
http://yazumichio.blog.f●c2.com/bl●og-entry-780.html
晋の武帝の時(280年)、珠崖郡は、大陸の合浦州(現広西省)に合併される。南朝宋の文帝の時(431年)、珠崖は、
珠崖郡となり広東省徐聞県(海南島へ伸びた合浦郡の雷州半島)の統治となる。 梁の武帝の時(535〜546年)、
廃された?耳の場所に崖州が設置される。明の始め、イスラム商人がこの島にやってきて回族となり、
同じころ黎(リー)族の反乱を鎮圧するため、広東から苗族が兵として海南島に駐留、そのまま住みついた。
現在の海南島には、黎族(リー族)、苗族(ミャオ族)、壮族(チワン族)、回族などの少数民族が住む。
海南島の歴史と先住民(2)
http://yazumichio.blog.f●c2.com/bl●og-entry-781.html
リー族の言語は、シナ・チベット語族に分類されている。彼らには入れ墨の習慣がある。先祖とされる古代の「百越」の人々も
鯨面・文身をしていた。魏誌倭人伝に書かれた倭人と同じ習慣である。女性は十代前半から入れ墨を始め、
完成すると結婚できる習慣があった。リー族には紀元前の春秋時代から機織りを行っていた記録があり、
早くから木綿生産を始めた人々とされている。主食は米、サツマイモ、トウモロコシ。漁業や家畜の飼育、野生植物の
採取も行っていた。宗教は先祖崇拝や自然界の精霊信仰であった。 ただし道具の共通点>113というのは、
「種禾稻紵麻 蠶桑 緝績出細紵?緜 其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與?耳朱崖同」
あくまで兵器や狩猟道具の共通点であって、耕作や炊事道具の共通点を語ってはいない
また、「難升米」で”米”字を使ってはいるが>112、
難升米は中国から送られ邪馬台国に帰属していた漢族だとの説もある
難升米は漢族
http://www.lun.ac/history/wa-3c/nanshoumei.php
それに、同時に派遣されてた「都市牛利」には”牛”が使われてるが、
上記引用した通り、邪馬台国には牛はいない。
こうしたことから、
魏志倭人伝に紹介された倭国とは、
米作は行われているがさほど盛んではなく、
むしろ海洋漁労民としての性格こそがその主たる特徴であるという認識に重心が置かれており、
その理由は、本来的な倭国の中心部である北部九州から畿内までは扱われず、
倭国中心部は回避されて、その周辺部の島嶼を巡った様子を紹介してるのに過ぎないためだと考えられる 百越
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E8%B6%8A
百越(ひゃくえつ)または越族(えつぞく)は、古代中国大陸の南方、主に江南と呼ばれる長江以南から現在のベトナム北部にいたる
広大な地域に住んでいた、越諸族の総称。越、越人、粤(えつ)とも呼ぶ。日本の明治から昭和期には、かつて中国南部から
ベトナムにかけて存在した南越国から南越族とも表記された。
文化面では、稲作、断髪、黥面(入墨)など、百越と倭人の類似点が中国の歴史書に見受けられる。現代の中国では廃れた
なれずし(熟鮓)は、百越の間にも存在しており、古い時代に長江下流域から日本に伝播したと考えられている[2]。
『魏志倭人伝』について考える(28)
http://yazumichio.blog.f●c2.com/bl●og-entry-789.html
越の国が滅ぼされてできた百越の民と同様の目にあった倭人は、中国南方や東南アジアの各地もしくは半島や列島に
移動し(逃げ)たのであろう。そのような従順な民族に対して、中国の中原を制覇した周・秦・漢など大国の人々は
「倭」という漢字を用いたのかもしれない。鳥越憲三郎氏の説では「日本列島に稲作をもたらした弥生人が『倭人』で、
その『倭』の古音は『ヲ=wo』で、『越』と倭人の『倭』とは、ともに上古音で『wo』といい、越人も同じく断髪・文身あった。
古代豪族 越智氏は『オチ』と発音される。越(wo)の発音が日本に伝わっている。」 長江文明を引き継ぐ越族(=百越)
http://yazumichio.blog.f●c2.com/bl●og-entry-794.html
百越は大きく分けて、楚系(中流域)、越系・呉系(下流域)、巴蜀(上流域)になる。さらに、広い意味での越人は、
雲南省の少数民族、ベトナム、ラオス、カンボジア、タイヤミャンマーの北部、台湾や海南島の先住民も、長江流域から
台湾に逃げ込んだものと考えられている。もちろん、越人の中には、長江流域にとどまり、漢民族と同化した人たちも多い。
今では、中国少数民族といわれる独自の文化を維持する人たちを除けば、漢族と同化したと考えられている。
周代の春秋時代には、楚、呉、越の国を構成する。秦の始皇帝の中国統一で、秦帝国の支配下に置かれた。
漢代になると、混乱のどさくさに紛れて、秦の将軍であった「趙佗」が南越国を建て、約90年後に漢の武帝に滅ぼされる。
中国の?江(福建省)周辺の?越王「無諸」が秦に対して反乱を起こし、後に劉邦に属した。漢は無諸を?越王に封じ、
東冶がその都となった。
漢の勢いが衰え、北方からの異民族に圧迫されるようになった漢族は、徐々に南下した。この時、越人は漢族と混じる人々と、
同化できずに内陸の高地、海岸から避難する人々に分かれた。呉越戦争や秦の統一の戦いで逃げ出した人の一部が、
直接あるいは間接的に日本列島に渡来した。この人たちが弥生人であり、倭人である。
広い意味の習俗において、稲作、住居、断髪、鯨面(入墨)など、倭人は越人の一部であることは、ほぼ間違いないであろう。
現代の漢族には残らなかった熟鮓(なれずし)や納豆は、越族の末裔といわれる雲南の少数民族に残る。
長江から直接あるいは中国沿岸や韓半島を経由して、弥生時代に日本に渡ってきたと考えられる。 長江文明を引き継ぐ越族(2)
http://yazumichio.blog.f●c2.com/bl●og-entry-854.html 長江文明は始めから稲作が中心であり、畑作中心の黄河文明との違いからどちらの農耕も独自の経緯で発展したものと見られる。
長江文明の発見から稲(ジャポニカ米)の原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。
日本の稲作もここが源流と見られる。
中流域の屈家嶺文化(紀元前3000年? - 紀元前2500年?)・下流域の良渚文化(りょうしょぶんか、紀元前3300年? - 紀元前2200年?)
の時代を最盛期として、後は衰退し、中流域では黄河流域の二里頭文化が移植されている。黄河流域の人々により征服された結果
と考えられ、黄帝と神農や蚩尤の対立などの伝説は、黄河文明と長江文明の勢力争いに元があると考えられる。
河姆渡遺跡からは玉で作られた玉器や漆器などが発見されており、また呉城文化(紀元前1400年? - 紀元前1000年?)からは
磁器が発見されている。中国文化の重要な一翼を担うこれらの文物の源流がここから出たのではないかとする説もある。
これらが後の楚・呉・越に繋がったと考えられるが、どのような流れをたどって繋がるのかは未だ解らない。 弥生人が百越の子孫だとしても、
琉球人は縄文人の子孫だし、九州南部から南西諸島民はいずれも百越とは関係がない
もちろん台湾先住民もポリネシア民も、フィリピンなど東南アジアの一部民も
これらはオーストロネシア語族であって、百越ではない
つまりは邪馬台国に示された文化習俗の特徴は>>117、
種族のルーツではなく、地理的地政上の共通点や文化交流の結果として生じているはずである
台湾原住民
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%8E%9F%E4%BD%8F%E6%B0%91
台湾原住民族の言語
オーストロネシア語族(マレー・ポリネシア語族)に属する諸言語を話している。
このことから、台湾原住民族はもともとインドネシア・フィリピン方面から渡ってきた民族であろうとする説もあるが、
台湾原住民諸語がオーストロネシア語族の祖形を保持しており、考古学的にも新石器文化は
台湾からフィリピン、インドネシア方面へ拡大しているため、オーストロネシア語族は台湾から南下し、
太平洋各地に拡散したとする説が有力である。
台湾原住民族の風習
台湾原住民族にとって、入れ墨は通過儀礼の一つである。顔面や体に入れ墨を彫ることにより、大人社会への仲間入りを認められる。 >>117 追加
他の官名に「伊支馬」「弥馬升」「弥馬獲支」
だが邪馬台国に”馬”はいない コピペ貼りまくったらかえって読んでもらえなくなるよ。
掲示板というものの性質をちゃんと理解して投稿してくれ。 >>124
>だが邪馬台国に”馬”はいない
それ、大陸側の当て字の表音文字だから、馬がいるかどうかとは関係がない >>126
124のレスは、「難升米」の”米”は稲作の”米”論への反論 >>123
つまりね、じゃあまとめよう
魏志倭人伝の記述を分析してゆくと、壱岐や対馬で耕作はしている
田を耕してる。だが耕すのは畑であって稲田ではないのでは?とは思うが、
稲田だとしてもいいだろう。だが、それでは食うに足りずに倭人は海産物を食べてるのだとしてる
邪馬台国も同様だ
そこには一言も米を食ってるとは書いてない
稲田の存在への言及は、衣料などの原料目的で栽培してることと、
酒造(の原料)により間接的に言及してるのみで、食料はあくまで魚介と生野菜と肉とのみだ
もし弥生時代の倭国を訪問してその社会的特質を記すならば、
真っ先に米作に触れるはずなのにそうではないことから、
その社会は倭国の中心ではなく周辺部だとみなされる
このことは、邪馬台国を、米作に適してるようで適してない沖縄に定めることに有利な事実だと言える
そして類似性を指摘するのに持ち出した海南島民は、
そのルーツが百越ならば、
当時の海南島は米作社会だったろう
であるならなにより耕作炊事道具の共通点が指摘されるはずだが、
一致してるとしたのはあくまで戦闘・狩猟用道具である
邪馬台国の入れ墨の起源は漁労にあったと記述されている
「今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み、文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。後、稍(しだい)に以って飾と為る。」
入れ墨文化は百越、台湾、邪馬台国、ポリネシアと拡がっている
入れ墨の共通点は、民族の壁を通り越して、南方の太平洋文化の特質となっている
沖縄の邪馬台国の果てに侏儒国、裸国、黒歯国と言った記述は、
そうした広汎な海洋文明間の交流に由来した情報だと推測できる >>127
>124のレスは、「難升米」の”米”は稲作の”米”論への反論
どういう理解だ?
「難升米」の”米”しかない、というのは、
魏志倭人伝に米を食べているという直接の記述はないという意味だぞ 仮に邪馬台国が沖縄だとして、
どのようにして酒を造ったのか、
米を炊く蒸すところからだが、道具がない
だが>>111で青森亀ケ岡式縄文土器が発掘されている
縄文文化圏の超遠距離海上交易によるものだろう
それ以来続く交易ルートから炊飯道具を入手したのではなかろうか?
縄文よりは進んだ集権社会だが、弥生のような耕作社会よりは狩猟採集社会に近い、
関連項目として入れ墨やお歯黒などが出てくるのなら、
邪馬台国はいわゆる「照葉樹林文化」という別個のカテゴリーの観点から分析されるべきではなかろうか? >>129
直接の記述はないが、高位の者に”米”と付けてるからには米作りしてる社会のはずだとの論理が成り立つが、
牛や馬など存在しないものの文字を使ってるのはなんでか、
よって米と書いてても米作りしてたとは言えないと反論したんだよ 海南島民は百越だから米を作ってたろう
弥生人は百越なんだから米作ってて当然なのに、
邪馬台国民は必ずしも米を作ってない
これは邪馬台国民が百越弥生系ではないからだ
文身などの南方海洋民特有性を持ちながらも種族を異にしている >>131
>高位の者に”米”と付けてるからには米作りしてる社会のはずだ
おい、倭人は漢字を知らないし、自分の名前を漢字で付けたりしないぞ
大陸側の当て字の表音文字だから、米を食べてたかどうかとは関係がない >>133
中国はそうやって何かとその特徴と関連付けた当て字をあえてすることが多いだろ >>135
東〔魚是〕(テイ)人@ー倭国と東〔魚是〕国
https://35546864.at.webry.info/201105/article_4.html
「東〔魚是〕人」(東?人)の〔魚是〕の文字です。
*是→「ティ」、と読むときは、「ふち」「さかい」「はし」という意味につかいます。
つまり、「一番端っこ」というときに使われる文字ということになります。
そこで、「東是人」となれば、“東の一番端っこの民族”という意味となります。・・が、この場合は違います。
「是」の文字にサカナ(魚)偏が付いているのです。
このナゾを古田氏は解いたのです。それは・・・、「高句麗」の中の「麗」の文字についてです。
三世紀「魏志」の中では全て、この「麗」の文字を使っています。
ところが、宋の時代となると違ってくるのです。
「高句麗」の「麗」の文字が、五世紀の『宋書』の中では「驪」と、馬偏の付いた文字に変化して使われているのです。
これには、歴史的な由来があるのです。
(元嘉十六年〔439〕)太祖、北闘せんと欲し、lに詔して馬を送らしむ。l、馬八百匹を献ず。・・・・・・・・・・・(『宋書』高句驪伝)
〔注、「l」は、高句麗王(長寿王)の次の王の名です〕
つまり、「l」王のとき、馬が特産物として宋王朝に献上されたことを述べているのであり、その特産物の馬に因んで、
「高句麗」の「麗」の字に馬偏を付けて、書類上の記載時には「高句驪」という名の国名に取り替えて使っていたのです。
・・・・・古田氏は、ここからヒントを得たのです・・・・・。「是」に「魚」偏を付けて〔魚是〕という文字の創出へ・・・、と。
つまり、「漢」の時代から、この特産物に因んだ名前の付け方に由来していた・・・、のだ!・・・、と。
「東〔魚是〕人」の意味とは・・・、
““列島に住む「倭人」の隣の一番東の端っこに住む、魚を献上してきた民族””に対して、「東〔魚是〕人」と名付けていた、ということです。
東〔魚是〕人Aー鯷〔魚是〕(テイ)と銅鐸
https://35546864.at.webry.info/201106/article_1.html
金印の「倭人」と銅鐸の東魚是*(とうてい)人」
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku13/yamaic33.html >>122 >>132
台湾先住民には入れ墨文化があるが、彼らは山岳民族で米は作らない
入れ墨をしてるタイヤル族というのは首狩り族で山岳地域の焼き畑狩猟民
一番多いアミ族は米を作る一方で漁業や畜産も。母系氏族だが入れ墨の習慣はないようだ。
台湾の原住民族 - 台北駐大阪経済文化弁事処
https://www.roc-taiwan.org/jposa_ja/post/169.html
2018年4月17日
台湾 先住民の入れ墨文化「紋面」消滅へ 映像などで保存
https://mainichi.jp/articles/20180418/k00/00m/030/081000c
> 【苗栗(台湾北部)福岡静哉】台湾で、先住民族が成人の証しに顔に入れ墨を施す無形文化遺産「紋面」の保持者が
> 90代の2人だけとなり、消滅の危機にひんしている。
>
> 行政院によると、紋面は台湾北部のタイヤル族、セデック族などが受け継いできた伝統。男性は狩猟、女性は… なお、アミ族が米を作るようになったのはいつからなのかは不明だ 魏志倭人伝は女王の名に卑の文字をあてつけて用い、
国名には邪の文字を押し付けている
だがそこには牛も馬もいないとし、米にも言及がないのに、
なぜ国名や人名にはあえて牛や馬や米の文字を使用しているのだろうか? 縄文人というのはアイヌ人と共通祖先をもつ北方系種族とように思われて、
アイヌ人はあくまで縄文系が北方のオホーツク民と混血した者なのであって、
やはり縄文人は南方に出自し、マレーシアなどの南方系種族ということになってきてる
であれば、縄文系の沖縄民が太平洋海洋文明的特質を持ってるのは当然で、
それは倭人伝の邪馬台国の記述に示された特徴にも通じている
2011/12/05
【人類】アイヌ・沖縄同系論 研究進む祖先の歩み
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1323033748/
2012/10/31
【社会】日本列島に住むヒトの集団の中では、北海道のアイヌは本土日本人よりも琉球人と近縁性が高い
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/ne●wsplus/1351688582/
2014/09/18
【国内】沖縄人ルーツ「日本由来」 南方系説を否定 ★2
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/ne●wsplus/1410968500/
2018/07/13
【人類学】縄文人、ラオス・マレーシアにルーツ? ゲノム配列解読[07/11]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1531460749/256,260,272 百越は長江文明の継承者だが、
稲作は収穫高に優れて人口増産に適し、集落社会の急速の発展に結びつく
そのための灌漑を通じて社会の統制は強化されるも、
農作業に労力と時間を拘束される労働集約型の欠点がある
稲作に適した水資源の豊富な地域は大河や沿岸部に位置し、
蛋白の摂取のためには漁業とセットの産業構造となる
漁業もまた、漁師を長期間海洋に送りだすため人員を拘束される欠点がある
こうして稲作漁労社会は、農業に漁業に人を縛られて戦闘要員に事欠くことになる
一方、漢族は北方文化の黄河文明の民だ
畑作は、畑に種を撒けば勝手に作物が育ってくれる
近場の草原に家畜を放せば数人で放牧が可能で人手を要しない
魚類は痛みを感じないから下処理に気苦労は不要で、必要な道具は鋭利であるだけでよい
だが家畜の食用化のための屠殺には、その抵抗を圧し潰すほどの凶器と狂気が必要だ
それは対人攻撃にも通じる強靭さを涵養するだろう
耕作に関してもぬかるんだ稲田より、乾燥した畑の方が開墾掘削のために農機具に破壊力が必要だ
要するに稲作漁労民よりも、畑作牧畜民の方が戦闘に有利な社会なのである
戦闘力に秀でた彼らは、収穫倍率の高さからより繁栄している稲作社会に嫉妬してその富を奪いにゆくだろう
今日では火器の発達により戦闘における肉弾的な対決が不要になって、
戦闘的な気質や日常の仕事道具の特質が直接の戦闘力を分けることはなくなったがかつてはそうだった
それゆえ百越は漢族に敗れ去ったし、敗れ去ったものが華夏の外縁部に存している
倭人の主要部族もまたその一つだろう
倭国に渡った百越の子孫が築いたであろう弥生社会はその後にどういう未来を迎えたのだろうか? >>136
東〔魚是〕(テイ)人というのはその所在するところが未確定だが、
魚を献上する漁獲に優れた民だと想像がつく
近年は中国との尖閣紛争に乗じて、
台湾が尖閣周辺の暫定水域への出漁をゴリ押ししてきて、
結果、領有権を棚上げして入漁を認めることになった
尖閣周辺は石油ガスが埋蔵されてるからプランクトンやエビがいて、
際だって魚が豊富だから漁民は喉から手が出るほど出漁したいエリアとなっている
魚是人を20数島の先島諸島の民と位置付けるならば、
そこに尖閣諸島が含まれる以上、漁業に特徴を持つ部族であるとの解釈に符合することになる
また、邪馬台国が沖縄の漁猟社会を指してるのだとすれば、
狗奴国との激しい対立の構図は、漁場を巡る争いだったのではないかと想像できてくる
もっとも古代には漁船に冷凍設備がないのだから、遠くの尖閣海域から沖縄まで
腐らせずに漁獲物を持ち帰ることは困難だったろうが、
より近海の漁場に限っても争いは絶えなかったはずだ
近年でも日本が韓国との間で抱えている竹島領有権問題はその発端が李ラインの設定にあり、
日本統治時代の竹島周辺海域での漁業権益継続を狙う韓国の横暴が背景だった
尖閣問題も発端は石油ではなく、漁業権を原点として複雑化している
アイルランドとイギリスとの間のタラ戦争も有名である
好漁場を巡る紛争が、周辺の島や岩礁の支配権の争いとなり、
やがては共同体や国家間の戦争へと発展することは自然の成り行きだろう 2015/01/15
【国際】日台漁業協定、ルール議論で平行線 現行ルールでは台湾のために「操業自粛」を余儀なくされ、日本側に不満募る [転載禁止](c)2ch.net
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/ne●wsplus/1421247728/
2015/12/10
【漁業】台湾のサンマ水揚げ量、今年は去年の半分程度 [無断転載禁止]c2ch.net
http://potato.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1449714535/24-25
2016/04/29
【SAPIO】台湾の「尖閣抗議団」が反日ではない理由…漁民は領土問題とは無関係[4/29]
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1461912955/1-2,76-77
http://log●soku.com/r/news4plus/1461912955/1-2,76-77
2018/04/05
【釜山水産業界】 「韓日漁業協定妥結を待っていたら漁民は死んでしまう」★2 [04/05]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1522895934/
【韓国】 日本との漁業協定 今月内に妥結しないなら「決断」=韓国閣僚 [04/05]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1522901851/
2018.6.7
難航する漁業協定交渉に焦る韓国、「EEZを引き直せ」とは正気か?
https://www.zakzak.co.jp/soc/news/180607/soc1806070005-n1.html 沖縄、宮古、八重山でDNAに差違があってそれが2000年前以前からだとすると、南西諸島は単一種族ではなかったことになる
海に隔絶された近場の閉鎖社会同士でそうであるなら、元来は彼らは異文化異種だったわけだ
先島か、そのうちの宮古か八重山がテイ人だったという想定が現実味を帯びてくる それだけ近場で似た地勢環境にありながらも異種を維持し、その後の交流をもおそらく忌避してのか不均衡な混合に留まったのなら、
その理由は不服従や対立だったと考えざるを得ない
沖縄と先島は敵対関係にあったはずだ
それを邪馬台国と狗奴国との抗争になぞらえることが可能だろう
先島が台湾から南越を経て南朝に通じてたなら、沖縄は難儀を強いられながらも九州から対馬、半島を経て北朝に繋がりを求めよう >139
記紀が蘇我氏に馬子以下、嫌みな名付をした風に、
貶める意味を込めて国名や人名に動物名などを入れるも、
難升米については教養ある漢族の出自だから免れたという解釈に至った >>148
>教養ある漢族の出自だから免れたという解釈に至った
いや、>>148の解釈は、歴史の真実と何の関係もないから
「教養ある漢族の出自」って、どこから出てきた? >>149
難升米は外交官のような存在だろ
中国に貢納するのに独自のつてがあり、中国語が理解できて漢字が読めたはずでナチュラル未開社会人には無理
>>117
卑しい者が支配してる邪な国にはない物で名付けてる
牛馬がいない、だからお前が牛、お前は馬を名乗らす、みたいな
でも漢族の難升米は大事な米にしてやる、そう言う当て字だと想像してる だから邪馬台国は米をほとんど産出してなかったと考える それと蘇我氏も馬だの鹿だのと、
でも稲目は米なんだな 難升米が、魏志倭人伝を引用している日本書紀の神功紀では難斗米に変わる不思議 >>154
1斗=10升だ
日本側は米の量を10倍に増やしたことになる
これは倭人伝の命名の意図するところを理解してそれを屈辱に感じ、
意固地に増産したためである
それでも今日において斗米=僅かの量、僅かの給料の意味となっている
邪馬台国は米を獲れない、
それは古来より公然たる国際常識だったと言える 沖縄でも米は穫れるんだがな
>>156は、沖縄説を批判する立場なのか? >>159
対馬や壱岐に比べれば島も大きいし、当時の人口分くらいの米は取れると思うけれど?
まあ、7万戸は無理だろうけれど >>161
私は、沖縄は無理だと思ってるんだけれど、
魏志倭人伝には米作、水田稲作のことは書いてないから、
米があまり取れない沖縄がばっちし条件に当てはまるって言ってる人がいるんだよ
>>156とか 7万人じゃなくて7万戸だもんな。実数だと仮定すれば
30万人くらいの大都市になる。 >>164
沖縄説のスレまで来てそれかよw
九州説は本当に自己中で、しかも頭が悪い 沖縄の可能性も検討しに覗いてみたが、やはり福岡ということに考え至った次第。
いつも福岡前提でいるわけではない。 >>160
8世紀沖縄のコメの主生産地が伊平屋だと言うんだぜ中国の史書では>>113
そしてそれ以前の生産記録はなく、
遺跡にもない
古代沖縄はほぼコメを作ってないはず 古代日本人の発音と大陸の漢字
https://blog.goo.ne.jp/ikejun_2007/e/82afb37ed34da5470bd46acc3285fec1
魏志倭人伝に登場する人物(難升米と牛利)
https://blog.goo.ne.jp/ikejun_2007/e/9c7f8699954773b744dae556c8a342ae
このサイトの考察には同意できない部分がある
漢字は自己申告ではなく、中国側に一方的な当て字だろうし、
の地位やその後の足跡についても>>117の、
難升米は漢族 http://www.lun.ac/history/wa-3c/nanshoumei.php
の理解の方が妥当だと思う
ともあれ、普通の文字適用であれば、
「奴斯目」あたりが妥当ではないか?
それが”米”を含む「難升米」にしたことには相応の意味が込められたはずで、
これは對海國で<無良田食海物自活 乗船南北市糴>、
一大國で<差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴>の
「田に不足して「市糴」してる、との記述に対応したもののはず
この「田」や「市糴」について、
以下のサイトでは、
魏志倭人伝(原文、書き下し文、現代語訳)
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm
<田んぼ(稲田)に不足して、南北の国に米を買い入れに行ってる>と翻訳している
ただ、中国語では”田”=畑および稲作田の両義性があるのだから畑を意味してる可能性があるし、
”糴”に関しても、日本では一般的に米の買い入れを意味することが多いが、
厳密には穀物全般を対象にしてるのではないか?
であれば、正当な解釈は
<良い畑がない、やや畑があるのだがいくら耕しても食料を満たせず、やむなく南北に赴いて穀物を買い入れている>
という理解もあり得るのではなかろうか? 熟語の読み・一字訓読(その335):糴 糶
https://blog.goo.ne.jp/syuusyuu9701/e/4e02d38de27068ee4982cb38488b0e15
<糴:テキ、か(う)、かいよね、いりよね>
<糶:チョウ、う(る)、うりよね、だしよね、せり>
糴:テキ、か(う)、かいよね、いりよね
意味 :@かう。穀物を買い入れること。「糴糶(テキチョウ)」 Aかいよね。買い入れた米。いりよね。対)@A糶(チョウ)
大見出し:〈糴取(せどり)〉:同業者間の売買の仲介をして手数料を取ること。また、その人。「競取・糶取」とも書く。
糶:チョウ、うりよね、う(る)、せり *「だしよね」の訓掲載ナシ。
意味:@うりよね。売りに出す米。だしよね。また、穀物を売り出すこと。対)糴(テキ) Aせり。せりうり。競売。
下つき:糴糶(テキチョウ)
大見出し:〈糶取(せどり)〉:同業者間の売買の仲介をして手数料を取ること。また、その人。「競取・糴取」とも書く。
糶(せり):@多くの買い手に値段をつけさせ、最高値の人に品物を売る方法。せり売り。競売。「・・・に掛ける」
A競争すること。せり合いをすること。「競り」とも書く。
糶市(せりいち):せり売りの市。売り主が複数の買い手に価格のせり合いをさせる市。「競り市」とも書く
糶売(チョウバイ):@米を売ること。売り米(よね)。 Aせり売りすること。競売。
=主として大字源から=
<糴>
糴価(テキカ):買い入れる米の値段。
糴穀(テキコク):穀物を買い入れること。
糴糶(テキチョウ)穀物を買うことと、売ること。
糴買(テキバイ):穀物を買うこと。
市糴(シテキ):穀物を買い上げる
<糶>
糶糴(チョウテキ):@穀物の売り買い。糴糶。 A売り出す米と買い入れる米。
糶米(チョウベイ):米を売ること。
販糶(ハンチョウ):米を売り出す。
市糶(シチョウ):市場に売り出す米 邪馬台国が常食にしていた肉というのは豚だったのではいか?今日でも沖縄では豚料理が有名だ
また、弥生人は米は炊いて食べてたようで、
炊いて料理する習慣があるなら、野菜は生ではなく同じ様に炊いて食べるはずではないか?
そう考えれば、生野菜を常食にしていた邪馬台国では米は食べてなかったと考えるのが妥当だろう
弥生時代の人もコメを炊いて食べていた
http://best-times.jp/articles/-/1483
当時の生産力は高くなかったという意見もあるが、中期以降の西日本の平野部では1日に必要なカロリーの半分程度は十分に満たしていたという試算がなりたつ。
また、倭人伝には「牛馬なし」と記されるが、家畜のブタの存在が明らかになった。…餌が与えられることによって、頭骨や歯に違い
がみられ、歯槽膿漏が増える。発見された骨にこうした特徴がみられることや、若い個体が多いという年齢構成から家畜のブタが
飼育されていたことがわかる。
イヌも猟犬としてだけでなく、食用にもされた。長崎県壱岐(いき)の原(はる)の辻(つじ)遺跡は一支(いき)国の中心集落であるが、
肉を取るため解体された骨が大量に出土している。
…土器に残ったススやコゲの痕跡と出土品を比較して、…
弥生時代はコメを蒸して食べたのではなく、現在と同じように炊いて食べることが一般的であったことがわかった。
また、古人骨に残るタンパク質(コラーゲン)の炭素と窒素の同位体(アイソトープ)の比率を分析することで、…
この手法を用いて、北部九州の弥生人がコメを含む植物質食料で8割近いカロリーを満たしていた結果が得られている。
・クリ、ドングリは縄文時代からの伝統食だが、弥生時代になっても各地から出土している。
コメの不作をカバーするものとして重要だった。
・漁でとっていたのはカキやアサリ、ハマグリ、タイ、サワラ、スズキ、コイ、フナなど。
海に近い集落だけでなく内陸の遺跡でも、貴重なタンパク源として魚介類が食された。
・狩猟ではイノシシ、シカ、野鳥などを獲物としていた。猟犬を使って弓矢でイノシシを狩る絵が銅鐸に見られる。
家畜のブタの飼育も導入された。 >>93 >>87 >>99
>>95
>>88-89
世界最速の大隆起!うごめく台湾の大地が生み出す大奇観!〜『グレートネイチャー』
https://www.youtube.com/watch?v=bEwWCXxaVR4
> 900万年から600万年前、フィリピン海がプレートがユーラシアプレートに衝突して
> 堆積物を剥ぎ取るようにして持ち上げ始めた。その堆積物が海上に姿を現したもの、それが台湾。
> 今もフィリピン海プレートは年7cmという猛烈なスピードで移動している。
体感!グレートネイチャー 「“怪速”!大隆起の絶景〜美麗島 台湾〜」
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2016067378SA000/index.html
驚き!地球!グレートネイチャー選「美麗島 台湾 世界最速の大隆起!」
http://www4.nhk.or.jp/greatnature/x/2018-08-16/10/2485/2170065/
8/16 (Thu) 12:00 〜 12:30 (30分)
NHK BSプレミアム(Ch.3)
番組概要
「美麗島」と呼ばれる台湾では二つのプレートが地上で衝突、世界最速の隆起が起こっている。
断崖絶壁の大理石峡谷、月世界、朝日に染まる玉山など絶景・奇観が続々登場。
番組詳細
“美麗島”の別名で知られる台湾。その名の通り、大地には絶景・奇観が続く。
標高差千メートルの断崖絶壁、大理石の大峡谷、“月世界”と呼ばれる不思議な泥の山並み。
そして朝日に輝く最高峰・玉山。こうした絶景の誕生には、「世界最速の大隆起」「地表でのプレート大衝突」という
台湾にしかない独特の地殻変動がかかわっていた。 台南台地の高速隆起 (1±0.5cm / 年 ?) に関連する最近の研究動向 杉山雄一
https://unit.aist.go.jp/ievg/katsudo/ievg_news/afrc_news/no.20.pdf#page=6
台湾南西部の台南台地については,’96 〜 ’98 年の InSAR データから,約 1.5cm / 年という非常に大きな隆起速度が
報告されている.地質学的なデータからも,0.5 cm / 年程度の大きな隆起速度が報告されているが,台湾では InSAR による
隆起速度が地質学的な long-term の隆起速度の 3 倍あることが注目さ れている.
富士山より高い!台湾の最高峰「玉山」登山にチャレンジ
https://www.travel.co.jp/guide/article/6246/
玉山の旧名は「新高山」。日本の台湾統治時代に測量をしたら、富士山(3776m)より高い山であることが分かったので、
「新しく見つかった高い山」=「新高山」というわけです。標高は3952m!
皆さんの台湾のイメージと違うかもしれませんが、台湾における3,000m峰の数はなんと200座以上!
日本は21座ですから、いかに台湾が「山国」かわかると思います。
写真のようにこれらの高山が連なる姿を見下ろせるのが、玉山なのです。 >>171-173
台湾は年1.5cmというハイペースで隆起しているという。
これはフィリピンプレートが北西方向に年7cmのスピードでユーラシアプレートに衝突し、
年3〜5cmずつ沈み込んでいる地殻変動の結果だ。
この衝突と沈み込みにより海上に押し上げられているのが台湾なのだ。
フィリピンプレートは年3cm〜5cm、北西方向に沈み込んでいる。
ちなみに太平洋プレートは西北西に年8〜10cmの沈み込みである。
これらはいずれも大地震の発生サイクルを作り出す原動力ともなっている。
年3cmを100年継続して3mに、年10cmを40年継続して4mに達すると大地震のリスクが高まってくる。
しかしその地震で解放される歪みは一部分にすぎず、
更に年月を経て、全解放をもたらす破局的な大地震がもたらされている。
こうして隆起し続ける台湾では、標高3952mの玉山が背を伸ばし続け、
今や我が霊峰富士(3776m)をも上回ってることはけしからん話ではある。
あの決して登ってはならないニイタカヤマノボレの旧・新高山のことだ。
それどころか、あの小さな島の台湾には3000m級の高山が数百もと、まるで砂利のように転がっているのだ。
それほどこの地域の地殻変動は劇的な効果を残している。 仮に台湾の隆起することの反対給付が沖縄の沈下であると考えてみよう。
むろん、地殻変動がもたらす物理的な関係性がそのような単純なものであるわけはないにしても、
年1.5cmのペースは2000年換算でで30mに相当してるのだから、周辺への影響は無視できない。
そちょうどそれと釣り合うように、沖縄の海底遺跡の水深は、概ね20〜30mと確認されているのだ。
仮に遺跡が確かに地上から水没したのだとしたら、
それは台湾の山脈が背を伸ばすように、平均的、持続的に、ゆるやかに沈下して行ったのではなく、
周期的破断のような方式で、地の底が抜けるように突如として沈下することを繰り返してきたはずだ。
その周期性の裏付けが600年間隔と推定されている琉球列島への大津波の痕跡である。
1771年の明和の八重山大津波はM8巨大地震の副産物である。
かくして長い年月をかけて積み上げられた文明が、賽の河原のごとく、一瞬のうちに消失することになった。
繰り返された大地震津波は、かつて280年〜700年の間にも発生してることが確認されている。
であれば、沖縄海底遺跡群がその際に水没したという可能性を否定することはできまい。
沖縄の海底に沈む遺構に残された矢穴や鍾乳洞は、それが確かにかつて地上にあったことを示している。
今我々がその遺構に遭遇して驚嘆する時、彼らもまた、かつて王宮として栄華を誇った時代を振り返り、
自身を愛でた地上の主との数千年ぶりの邂逅を懐かしく思っていることだろう。 >>175
>仮に台湾の隆起することの反対給付が沖縄の沈下であると考えてみよう。
>むろん、地殻変動がもたらす物理的な関係性がそのような単純なものであるわけはないにしても
沖縄もフィリピン海プレートに押されて隆起する側だよ
いい加減なことを書くとますますトンデモにしかならない >>176
しかし東シナ海の大陸棚は琉球孤の東で窪んでるよね
沖縄トラフのことだよ
押されてただ隆起するだけならへこむはずがない
ある時、受ける力を分散するために蛇腹のようにうねりを作り出して、
隆起と沈下とを重ね合わせにする構造を作り出す
日本列島もまた東南から押し上げられるも、北方に日本海、中腹に瀬戸内海という窪みを抱えている >>170
土地の食文化はその地域性に由来するもので歴史的なものだ
鯨と違ってイルカ食は日本人に馴染みはないが、和歌山の太地町のそれは国際的な論争を呼んでいる
今では食べなくなった鯨は縄文以来の伝統だった
壱岐での犬食痕跡は現在との繋がりを持たないが、それは鯨と同じで代替があって絶えたものだ
だが近場の韓国では今でも犬食で鳴らしている
かつて食してたのはゆえあってのことだろう
だから沖縄が豚料理に特色を持つことは地理的伝統的であり、
関西が豚の関東と比較して牛が主流であることもまた古代からの歴史的な因果を持っている
きっと沖縄にあったろう邪馬台国は豚を常食にしていたに違いない 2018/08/14
【お江戸の人らは稗や粟を食べてはるらしいどすなぁ】江戸時代の毛髪分析で食生活判明 上方人は江戸っ子より米を多く食べていた可能性
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1534241043/ http://geo-scape.com/okinawatikei/
沖縄の海岸線は白砂のビーチしかないイメージだが、実際は地盤の隆起にともなう険しい海食崖が圧倒的に多い。 >>181
隆起する地点もあれば沈下する場所もあろう、時によればその逆にもなる
例えば高知で顕著に生じている >>87
この東日本震災では東北の沿岸部で複雑な変動が起きたことは記憶に新しい
邪馬台国論にさほど興味があるわけでもないが、その所在論の一つに近江説があって、過去にそのスレに
いくつか投稿してたことがある
対馬を佐渡に置き換え、水行を琵琶湖水に求めたその発想の、
コペルニクス的斬新さを認めたからだ
考古学や社会的な時事ニュースを元にしたレスだった
こうした学究歴の盲点を付く新説の弱点というのは往々に、
物理的証拠に欠くという面にある
確かな遺跡があるのなら過去に誰かの検証にさらされるのだから当然の話だ
近江と言うならそのどこなのかで隘路に陥ってしまう
あえて近江に求めた中の一つが近年発見された琵琶湖底の沈没遺跡だった
それらは比較的新しく古代遺構はまだ見出だされてはいない
だがそれにしても湖底に没して存在を知られずに済んでいた遺跡は、
その発見により新たな歴史観を創出する可能性を持ち得るだろう
そして琵琶湖沿岸部の水没は、
プレート運動に伴う隆起で成立する日本列島が、実際にはその細部において、複線的に変動してる実態を証明している
琵琶湖それ自体が隆起する地形の中で
逆方向に運動した窪みに他ならない
水没地帯はそうした潮流に飲み込まれたのだろう
沖縄についても同じ想像が成立する >>182
>同じ想像が成立する
どこまで行っても想像でしかない
科学にはならないよ
近江は伊勢遺跡をはじめとする野洲川流域に山ほど遺跡がある
この野洲川が高天原の天安河だとか言い出す人がいてもおかしくないし >>183
想像と言うのは沈下理由についてだよ
沈下した事実それ自体は、まさに海底遺構の歴とした存在がそれを証明している >>184
>沈下した事実それ自体は、まさに海底遺構の歴とした存在がそれを証明している
どれのことだい?
海底遺構だと「言ってる人がいる」だけだと思ったが? >>185
10歩譲ってそれが遺構ではないとしても、沖縄の一部分が沈んだことは事実として確定してる
なぜなら海底に鍾乳洞は形成されない
それはこのところの言い争いにケリをつけてる
沖縄は隆起してるのか沈降してるのかという件の話だ >>186
>10歩譲ってそれが遺構ではないとしても
それが遺跡じゃなかったら、沖縄説は根拠となる遺跡が一切ないことになるよ
沈降、隆起以前の話になる
そして海底鍾乳洞一つと、海岸線の多くが地盤の隆起にともなう険しい海食崖に
なっていることを比べれば、局所はともかく、全体的な傾向としては隆起しているのは明らかだろう 沖縄の狩猟道具は海南島のそれと同一だと記されている
それは文化伝播の結果だろう
海南島先住民は百越であり稲作民だ
稲作道具もいずれ伝播して不思議でなかったはずだ
そして8世紀に沖縄では、
伊平屋にて米作が盛んだった記録が残されている
だが沖縄に弥生稲作の痕跡は認められないのである
なぜだろうか?
この事実は海底遺跡とも目される構造物の、大津波を伴ったであろう沈下の時期を示唆していると言える
縄文系の血筋からして、弥生期の沖縄に人が住んでいた事実は否定のしようがない
さて、沈下地帯に人は住んでいたでしょうか? 私もうかつだったけれど、鍾乳洞ができるほどの時間軸と、
2000年も経たない程度の邪馬台国時代を比べるのは無意味だわ
調べたら今の沖縄の隆起速度は 年に1.5ミリくらい
千年でも1メートル半くらいだ
20メートルも動いたりはしない
海底鍾乳洞ができたのはもっとずっと昔の氷河期の海退期だ
その頃にはまだ邪馬台国は影も形もない まあちょっとうかつだったわ
検索の手数を惜しんでしまった
海底に鍾乳洞は形成されない、
そう言ったのは木村政昭であって他の誰でもない、
動画にはっきり証拠が残ってる
それを引用したまでだ
あくまでそこで形成はされないと言ってるだけわけだが
ともあれ問題は形成過程に関する見解の相違だな
宮古島は珊瑚礁が隆起して出来た島で、
200ほどの鍾乳洞が密集している
海進した水没期に再石灰堆積してそれが侵食された結果としても、
それでも一時水面上にあった海底遺物界隈の方にだって、
もっと多くの水中鍾乳洞が存在してても良さそうじゃないか >>191
>海進した水没期に再石灰堆積してそれが侵食された結果としても、
陸上に石灰岩層がある時点で、隆起していることの直接証拠だろ?
>>192
>それと慶良間海裂あたりが沈降しているものと受け止めてる
>全体が隆起してるとするのはシンプルすぎだろう
なんにしても、>>190に書いたように、隆起にせよ沈降にせよ、
地質学的時間スケールの話で、10万年単位の話
卑弥呼の3世紀から現代までの2000年に満たない時間では、考える必要はない
邪馬台国の遺跡は海底に没しているとかいうのは、トンデモ以上にはならないよ
これにこだわるのは止めたら? >>194
>アトランティスは水没したとされるし、
おいおい、それを信じて根拠にするなら、オカルト板にでも書きなよ
東日本大震災でも、何十メートルの上下方向の地殻変動なんてなかっただろ?
たかだか2000年のタイムスパンで、陸が沈んだとかいうのはタダのトンデモ説 ナイルの河口域にも沈下水没した地域があるし、ある程度それをおもわせる痕跡は
じっさいにはあるんだろうけれども、超古代文明とかまで行くのはただの「お話し」だわな。
なによりまず物証だよ。 話がトンデモに振れると、人がいなくなるんだよな
まあ、しょうがない URLやコピペみるためにサイト巡回してるわけじゃないので 一応、沖縄にもアトランティスならぬニライカナイの伝承があるからな
西じゃなくて東の彼方か海底てことだけど
もしかしたら東に千余里離れた倭種の国やら侏儒国のことかも知れないが 倭種國=伊豆諸島
侏儒國=小笠原
裸國黒齒國=マリアナ諸島 >>199
> 琉球弧は海底地形の二大境界線である吐喝嘲(トカラ)海峡(悪石島と小宝島間)と慶良間(ケラマ)海裂(沖縄本島と宮古島の間)
> を境にして、大きく「北琉球」「中琉球」「南琉球」の三つの島弧グループに区分される(木崎・大城1980;町田ほか2001)。
> 4 原史・古代
> (3)中琉球グループ
> 一方、沖縄諸島では貝塚時代後期(約2,200〜1,000年前)に相当し、サンゴ礁の海を生活基盤にした「漁携文化」が発達した。
> 遺跡の立地は主に台地に生活していた人々が、標高約5m〜10m前後の海岸砂丘に集落を形成するようになり、
> 遺跡集中地域が確認され、半島状に海に突き出た地形周辺の砂丘上に立地し、大規模な貝塚も多く形成されている。
> これは眼下のサンゴ礁海が漁携生業の中心であった為で、これらの大貝塚からは大量の大型貝、魚骨に加え、陸産のイノシシ骨も
> 多く出土した。それは狩猟・採取活動が活発に行われた証左でもある。
>
> 住居は砂地に掘っ立て柱を立てた四角形の平地式であった。
> (4)南琉球グループ
> 新石器時代後期(約2,200〜1,000年前)に相当する。不思議なことに、今まで使用していた土器を忘れ「無土器文化」になってしまった。
> こうした現象は、オセアニア地域の一部(ポリネシア)にも認められるが、他に例を見ない珍しい現象である。遺跡は海岸砂丘に立地
> することが多く、集落規模が前期に比べて拡大している。前面に広がるサンゴ礁の海から得られる豊富な食糧資源に支えられて、
> 人口の増加があり漁携活動は頂点に達していた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています