邪馬台国沖縄(琉球)説 Part1
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年中生野菜を食べられる温暖な気候、
入れ墨やシャマニズムなどの文化習俗、
記録された距離、方向から想定される位置から考えて、
邪馬台国は沖縄に比定するのが妥当である。
邪馬台国の7つの国を統率した女王の墓域は北谷海底遺跡だった。
狗奴国はテイ[魚是]人が居住する先島諸島の21カ国の最果てにある与那国(海底遺跡)だろう。
侏儒国は小笠原諸島、
裸国、黒歯国はサイパン、グアムと推定される。
沖縄の邪馬台国はその後、地球のプレート活動により水没したが、
度重なる自然災害に危機感わ覚え始めていた邪馬台国はそれに先立って、
豊富な鉄器を持って九州・日向(宮崎)に侵攻して新王朝を建設したものと推測される。 江戸時代に藤貞幹と上田秋成が本居宣長と論争してる
貞幹は神武年代を否定し、神武が太伯の末裔で、恵平也(伊平屋)の生まれ、
天の岩戸はクマヤ洞窟としてる
このうち、神武の在位繰り下げは当然だし、
太伯の末裔というのは、弥生倭人が百越ルーツとする観点からは間違いとも言えない。
天の岩戸も、宮崎の仰慕ケ窟よりは確かに伊平屋のクマヤ洞窟だ
神武の母・玉依姫は、海宮(あまみ)の玉依彦の娘で、
この海宮が伊平屋だとするが、そこは奄美と言うならわかるが 伊平屋島は伊平屋伊是名諸島に属している
仲宗根の地名の今帰仁村のある、沖縄北東の東シナ海に突き出た本部半島の沖合だ
そして本部半島と伊平屋島の間にあるのが伊是名島
これが伊邪那岐・伊邪那美と同音じゃないか
論争が江戸時代からとすれば、
神話にかこつけて後から命名した可能性も否定はできないが
伊平屋伊是名諸島というのは伊平屋と伊是名を含む7つの島からなってて「伊平屋の七離れ」と言われてるそうだが、
伊邪那岐・伊邪那美は神世七代の中に入ってる
伊是名村 - 伊是名島
http://vill.izena.okinawa.jp/izena/intro
http://vill.izena.okinawa.jp/izena/wp-content/themes/izena/images/map_izena.jpg
伊平屋村データ > 歴史 由緒ある島・伊平屋
http://www.vill.iheya.okinawa.jp/detail.jsp?id=12547&menuid=4251&funcid=1
質問(Question)
神武天皇の母(母方の親戚)が沖縄の人だったということについて書いてある資料を見たい。
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000104319 那覇というのはもともと島だったそうだ
海を埋め立てて本島とドッキングさせたんだってよ
嘘みたいなほんとの話だ
東京も大阪も元は湿地だったのを埋め立てたんだから似たようなもんだろうけど wikipediaに普通にのってたわ。こういうのは意識して読まないと
スルーしちゃうな。 >>264
>那覇というのはもともと島だったそうだ
何をもって「那覇」とするのかってのもあるけれどね
ウィキペディアを読むと「那覇は国場川河口の港」で、
その河口にいくつも島があったということみたい
港町が那覇で、島まで含めて埋め立てって港湾整備したということなら、
那覇が島だったというのも少し違う気がする
まあ、ウィキペディアの記事以上のことは知らないから、
うるさいことを言うつもりはないけれど 藤貞幹はスサノオノミコトを新羅国王だと言って激しく非難された。
確かにスサノオは新羅に逗留後に日本に来てるからそう受け取るのは自然ではある
むしろ貞幹の思考の柔軟性は当時として驚くべきほどだが、
新羅から倭国に向かう動きが、渡来人固有だという認識は、
根本から錯覚であるケースも多いだろうとは思う
新羅(もしくは意富加羅)からアメノヒボコ[天日槍/天之日矛](都怒我阿羅斯等)が
日本にやってきたことを記紀が紹介してる
播磨から淡路、近江、若狭を経て但馬に定着しているが、いずれも神武の東遷ルートに関係しており、、
定住地に選んだ但馬はおそらく鉄の運搬中継地に適すると考えたと思われる
都怒我阿羅斯等は「角がある人」の意味に解されてるが、
元は新羅の官職名の「角干(カッカン)」と名前(アリシト=敬称)を足したものを
和語読みしたものと考えれば、それは百官名であって、言わばニックネームだ
蘇那曷叱智というのも同名別音である
いずれも同一のエピソードを指してると見られてる。
新羅系と思われて、しかし天日槍は歴然と和名である 日本の古代史理解では、倭国と百済王家との密接な関係を重点に置いて考えるから、
新羅との関係も同様の方向性で認識してしまいがちだ
しかし新羅の建国史を読むと、倭人がそこに深く関与してることが分かる
日本側の新撰姓氏録においては、神武天皇の姉・稲飯命が新羅王朝の祖であるとされている。
朴氏初代の朴赫居世に仕えた倭人・瓠公(最高官位・大輔)は朴赫居世と同一人物と考えられてるし(朴=瓠[ひさご/瓢箪])、
朴赫居世は国号を徐羅伐(ソラボル)と定めたが、ヨナバルと読んだら沖縄の与那原がちらついてしまう。
昔氏始祖の脱解尼師今は倭国の東北一千里の多婆那国出身の倭人だ
金氏始祖の金閼智(あっち)は神話上の人物だろうが、瓠公が拾ってきてる。
「閼智」は知恵者(小さい子の意味とも)で、アリシトと同じ敬称的意味。
瓢箪は干ぴょうの原料で、食用のユウガオが今日の日本では栃木県が生産の中心だが
沖縄でもよく食されてる野菜で、生でも炒めても食べるそうだ
瓠公は腰に瓢箪をぶら下げてたからそう呼ばれたが、
瓢箪を浮きにしていかだにくくりつけてたのかとも思ったが、
真水を入れる携行容器に瓢箪が最適だと言うことだろう
ポリネシアの東部では長い航海に活用してて、特にハワイでは文化上の重要素材としても利用されてきた
南洋文化としての瓢箪が縄文文化圏に伝わってきたからか、
日本海側の福井や琵琶湖の縄文遺構から瓢箪の種が発掘されている 三国史記の言う、倭国東北一千里(400km)の多婆那がどこを指してるのかも重要なテーマだ
但馬、丹波、玉名(肥後)などが候補になってるが、
倭国の起点をどこに置くかが問題で、
大和に置くなら東北地方になってしまうし、福岡に置いたら能登半島に飛んでしまう
海流を読んで、海に流した時に加羅から慶州に辿り着くことも条件に挙げなければならない
まさに邪馬台国の所在論争さながらの難しさで今なお決着がついてない
仮に起点を沖縄に置いたてみたらどうだろう?
種子島(多禰)が候補に入るし、射程を延ばせば日向、無理すれば玉名も入る
しかし倭国を沖縄邪馬台国と考えるなら魏志倭人伝の知見の流用なのだから、
距離は短里にすべきで、すると奄美になるが、奄美のどこを探してもタバナという地名がない
しかし三国遺事では龍城国(ワナ国)とされてる。奄美には龍郷町という地があるのである(大和村もあるが)。
また、三国史記には母の国が女(ヨ)国だと記されている。まさに卑弥呼の国ではないか。
奄美から船で流せば黒潮に乗って対馬に流れ、対馬から東鮮暖流により、加羅、慶州へと流れてくれるのである
近代に入ってからでも丸木船に乗った沖縄の漁民が黒潮で対馬まで漁に来てたという証言があるから
それはごく自然な現象だと言える
奄美から玉名を経て慶州に漂着したか、
奄美から慶州を経て但馬へと向かう定型的な航路を通っただったということではないか? 中国の山海経に「蓋国は鉅燕(きょえん)の南、倭の北に在り。倭は燕に属す」とある。
BC300年頃で、この倭というのはおそらく縄文倭を意味してると思われるが、
縄文交易ルートは、沖縄から朝鮮半島を経て糸魚川へと続く広範囲の経済文化圏を形成していて、
古代から、瓢箪に飲料水を詰めて、縄文人が日本海ルートで航行していていた歴史が、
その後の裏日本の交易ルートにずっと生きていたということだと考えられるわけなのだ
その時、沖縄から裏日本への最短航路は、一旦朝鮮半島を経由し、その東海岸から海流に乗って
出雲や越への漂着するというルートだったように思われるのだ
そのルートで、遼寧文明が山陰や近江にもたらされたと考えられる
弁辰の鉄は倭国の死活的戦略物資だったが、それをサウジアラビアの石油に例えるなら、
糸魚川の翡翠や沖縄の貝(夜行貝・子安貝)は工芸品はもとより、殷では通貨として利用されており、
南アフリカのダイヤモンドや金に相当する価値を持っていたと言える。
そのたえ中国北朝、高句麗、新羅、沖縄の提携網において、沖縄の占めた地位は大きかったはずで
その文脈において考えてみて初めて、新羅の建国主体に倭人がいることの意味が理解されてくるはずだ
辰韓地域は元、秦や燕の遺民からなる寄せ集めゆえに、外部権力に依存して統一を図ることになったのだろう
その後に百越が朝鮮南西部や九州・瀬戸内に弥生文化を確立し中国南朝と結びついてゆく中、
日本海文化圏はそれと併存しながら一貫して先進文化地域だったと考えられる こうして一口に言って新羅王家や高官と言えど、その実態は倭人であることが十分考え得るわけで、
スサノオが高天原を追われ、新羅を経由して出雲に定着したこともまた天之日矛と同じ足跡にあたるわけである。
天之日矛/都怒我阿羅斯等(蘇那曷叱智)の話に戻ると、
日本海側の有力氏族に、皇室との外戚関係に特質のある息長オキナガ氏という氏族があるが、
それが沖縄・翁長と同一語源でないかという推測が可能である一方で、
これをソナガと読んだらどうだろうか?
蘇那曷叱智の音に通じてくるし、ソ(ナ)ガ=蘇我でもある
蘇我氏=小野妹子とすれば、その始祖は天足彦国押人命で、当時の倭国王は阿毎多利思北孤
蘇我氏もまた、息長と同様、皇室に嫁がせて姻戚関係を構築することに努めた氏族である。
ここから、蘇我=都怒我(蘇那曷)=息長、天=阿毎となる。
蘇我氏(のちの石川氏)や息長は後世に創作された氏であって、
当時は存在しなかったはずだ。
彼らの真の姓は「天(アマ)」である。
ではその「天」姓は何に由来して生まれたのかでだ。
天武の時代には既に「海見」「阿麻弥」としてその名が残されている「奄美」ではなかろうか?
奄美開闢神話の女神・阿摩弥姑(アマミコ)に由来するとも言われるが、
これが琉球のアマミキヨ(アマミク)と同一だとされている
語源はオーストロネシア語のアマン(やどかり)だという説もある。 >>272
>ここから、蘇我=都怒我(蘇那曷)=息長、天=阿毎となる。
>蘇我氏(のちの石川氏)や息長は後世に創作された氏であって、
>当時は存在しなかったはずだ。
>彼らの真の姓は「天(アマ)」である。
ほうほうと思って読んでいたが、この辺りでトンデモだと確認した。
あれこれを後世の創作と呼ぶのは、大抵が何かを誤魔化している。
そして、姓がアマというのは、天皇家そのもののことだ。 >>273
天皇に姓はないことになってるわけだが
それに蘇我氏は簒奪によって天皇になっている
なった事実を後世に消されただけだ もちろん、本当はあるんだが、出してないだけだという考えもあり得る
だが、出さないでいるのだとするのなら、それは出せないからだ
出すと不都合があるからずっと隠してたということになる
そういう姓として考え得る姓があることは確かだが、
少なくとも天皇の姓がアマならそれを隠す理由などどこにもない 沖縄=高天原が前提になってくる
その上で蘇我氏が天(アマ)氏であり、神武が蘇我氏であるのなら、
まさしくそれが天孫天神建国神話の原点になる
仮説と呼ぶべきか妄想にすぎないかは別として
もっとも、さすがに琉球の中山世鑑(17世紀作)を持ち出して天孫氏王統は記紀の天孫族なりなどとは、
荒唐無稽すぎて誰も言い出したりはしないけど 完全版 天皇家の謎
https://books.google.co.jp/books?id=LLhVBAAAQBAJ&pg=PT47&lpg=PT47#v=onepage&q&f=false
つまり、天皇家は日本にひとつしかない特別な「家」だから、「姓」や「氏」などで他者と判別する必要はない、というのである。
では、昔から一度も姓をもったことはなかったのだろうか?
たとえば、中国は歴史書『宋書』には、「秋七月甲辰、安東将軍倭国王倭濟、安東大将軍に進号す」との記述がある。
ここには「倭国王である倭濟」――つまり、「倭」という姓を名乗っているのだ。
さらにいえば、推古以前の「天皇の」名前、「大王」がもともとの姓だったのではないか、という指摘もあるようだ。
確かに、最初から天皇家だけが唯一無二だったという説明は受け入れがたい。
天皇家の姓は、勝ち抜き、国家の支配者となる過程で失われた――そう考えるべきなのだろう。 高句麗の王姓「高」、新羅の「金」、百済の「余」
これらはいずれも国名や民族名を仮の姓に利用しただけで、本来的な姓ではない
日本の天皇家がこれにならうなら、
天皇家の仮の姓は「倭」もしくは「日」ということになる
「倭」は蔑称で、日本に改名したのは7世紀だからね
すると「日」だなんて、今さらもういいやということになったのでは? >>274
天皇家に姓がなくなるのは後世のこと。
隋書にはおう姓はアマとあるし、記紀でも多くの王族が「天の〜」とある。 古来は、王姓とその国邑の名はそもそも一致するものだった。
それだけのこと。 >>279
後世に、などというのは大抵が何かを誤魔化している。
なお、隋書では推古天皇時の男王で破綻してるから 古代において、大王、大連、大臣らの間にどれだけの格差があったかは定かではない。
乙巳の変の前に蘇我蝦夷が国記を編纂していたのは、蘇我家が王家として機能していたことを意味する。
物部氏もアマテラスの直系の、大和においては神武より古い王統であり、倭王として列せられるべきだろう。
天皇家が最高位というのは、8世紀以降の創作かもしれない。 >>279
古代だと後から付けてるケースが多いのでは
つまり、天孫天神という概念が導入されたから、
それに準ずる方式で命名してゆくと そうでもないだろう。
天孫は天孫なんだろう。
ただ、当時は絶対的優位かどうかわからないということ。
記紀は創作による足し算ではなく、都合の悪いことを書かないという引き算で歴史を歪曲しているように思える。 【福島が羨む、地元愛】 辺野古で立ち上がった県民 <安室奈美恵> 国民的人気ナンバーワン歌姫
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1535767009/l50
薩長に屈した会津と琉球、200年たって大差がでた。 天之日矛は貢物を納めて、定住する先を探したいと各地を見分して、
近江を回って但馬に落ち着いた
その名からして自明だが、明らかに戦闘士の名前そのものだ
彼は、瀬戸内から河内、大和へと侵攻する計画の神武を、
武器の供給と補給の体制を構築する後方支援部隊の指導者であり、
諜報工作員である。
使者の懐に小刀を忍ばせていたことが露見して、
神社に奉納を強いられるも、消失して淡路で発見されたという逸話を加えることで、
書紀はその素性を知らしめている
近江の琵琶湖から淀川水系を利用することを想定したが、
但馬から播磨、そして淡路へのルートを選択した
淡路には大規模な製鉄遺構が発見されている
それは神武が利用した武器庫であり侵攻のための前衛基地である
もちろん天之日矛は人物ではなく、渡来集団の総称にすぎないという見方もある
それはどちらでも同じことだ。
問題はなぜその天之日矛は、天神でもないのに「天」と名乗っているのかだ
理由は単純で、最初から天氏だったからだ
天神でもないのに天氏の者があるなら、
天神すなわち皇族は皆、天を名乗らせるしかないではないか 鉄は古代、至高の戦略物資だ
ゆえに製鉄氏族と目される息長氏≒天之日矛の役割は重責だったと言える
日本神話ではアマテラスより上位になる最高神の一人、
タカミムスビ(高皇産霊尊)の表記に含まれる”高霊”の字が、
大伽耶国の地にある高霊を指してるとして、
ゆえにそこをして高天原だとする愚論を唱えた者がいるが、
仮にタカミムスビが高霊の地神であるとするなら、
それはその地が倭国が供給を依存する鉄の産地だからこそ神聖視されるということだ
>>220-221
製鉄の重要性(古代史の復元)
http://www.geocities.jp/mb1527/N3-05-3tekki.html やたら、鉄が、鉄が、って言う人が多いけれど、
弥生時代に鉄を使っていないところなんて逆にないと思うんだが? 纒向とかいう田舎があってね、鉄が見つからないんだってさ。
そこが卑弥呼の王都だなんて夢見ている狂信者もいるらしいけど。 鉄は九州が押さえているから巻向には鉄がないとか言う人がいるけれど
その向こう側の1世紀の登呂遺跡で鉄を使っていなかったと考えている人はいない 纒向が屈指の後進地域だったというだけ。
真空地帯だったから次世代においては何もないところで開発が進んだかもしれないが、3世紀においてはただの辺境。 >>294
>真空地帯だったから次世代においては何もないところで開発が進んだかもしれないが
その理解でいいよ
卑弥呼の共立に伴い、倭国で初めて「何もなかったところに計画都市を造った」のが
纒向遺跡なんだから
開発が進んだ次世代っていうのが、既に3世紀半ばに訪れている状況だよ >>294
>纒向遺跡なんだから
その纒向が辺境の後進地域だったという話なのだけれど? 纒向は開発計画が頓挫した未来都市だろ
頓挫したからには国家存亡の危機に直面したからに他ならない
4世紀初頭の頓挫となれば、古墳時代の勃興と同時なんだからその意味は大きい
それはその後の支配層の変更に直結してくる
だいいち纒向からは大陸との交易品の遺物が出て来ない
魏に朝貢してるのだから何かしら大陸由来の物がないとおかしい
それに邪馬台国特産のはずの絹も出てこない
そこは邪馬台国とは何の関係もない場所だ 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 魏志倭人伝の、邪馬台国の特産品としての絹への言及だが、
古代琉球にはどうも絹織物のイメージがないし、
今日に至っても関連付けられる根拠も薄弱だ
ところが奄美大島には大島袖という、
今日でも高級品として評価され、世界三大織物にも数えられる絹織物があって、
奈良時代に進貢してる史実がある
奈良時代に進貢してるからには産業の存在はそれ以前、
弥生時代からとみて不都合はない
奄美は遣唐使の中継地になっており、
奄美は現在の行政区分では鹿児島県の扱いではあるが、
文化的な区分ではトカラ海峡以南の中琉球グループに属する掖玖(琉球諸島)の一つだ >>142
> アイスランドとイギリスとの間のタラ戦争 >>295
>その纒向が辺境の後進地域だったという話なのだけれど?
それは物事の見方がおかしい
纒向は、「銅鐸製作の中心地であり人口集積も進んだ当時の先進国」で
ある奈良盆地の中での、未利用地が広がっていた領域であり、そこを計画的に
開発した新しい王都なんだよ >>302
>王都であるというなら王統を示せ。
王統というか、皇統が記紀に記録されてるだろ?
崇神天皇が、卑弥呼の男弟で、その9代前から記録されてるよ
記紀にも、崇神の代に都が纏向遺跡周辺に移ったと書いてある
崇神前代の開化天皇の都は、奈良盆地の北のほう >>303の補足
もちろん、記紀がまとめられるまでに長い時間差があるから、
当然間違っている部分もあるだろうし真実という訳ではないが、
それなりに整合性の取れる記録があるのも確かだよ >>303
畿内説のテンプレとはかなり食い違っているけどいいの? 記紀をどう受け止めるかはそれぞれの態度でいいだろう?
畿内説スレのテンプレに沿って主張したいならご自分でどうぞ( ・∀・)つ ていうかさ、畿内説ならあのテンプレを何とかしろよ。 >>307
長いって言うけれど、本質はコメ番号14までだから、そこまで長くもない
九州説が繰り返し呪文を唱えるから、順に論破した記録が積み重なってるだけだよ キナイコシはちゃんと大学出てからテンプレ書かないとダメ。 糸クズ「キナイコシ」は、幼稚園レベルの道徳、倫理を学べなかったんだな
通常の日本の教育課程で学んでいないのだろう
迷惑なことだ 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 幼稚園で道徳とか倫理?どの星の日本の話をしてるんだ? >>312
>幼稚園で道徳とか倫理?どの星の日本の話をしてるんだ?
さては日本人じゃないな?ww
日本の幼稚園では、おはよう、こんにちは、さようならの挨拶や
人の嫌がることはやめようとか、仲良く遊ぶにはどうしたらいいかとか
ちゃんと習うんだよ
大声で相手がいやになるまで付きまとえとか
相手がいやになって相手にしなくなるまで言い張れば要求が通るとか、
そういうのは教えていないw キナイコシは日本語を誤読する上に詭弁をふるうからまともな人はあいてにしないよ。
長文読解力に大いに欠ける。 >>313
え
それはキナイコシその人のことだな。
なんだ自分が倫理観がない声がでかいだけの人って自覚はあったんだな。
それでも自重しないんだから相当な恥知らずだ。 そうだな、>>314の糸クズ「キナイコシ」の人のことだなww 前にひょうたんの話をしたんだけど、
沖縄で神の島として神聖視される久高島は、琉球始祖神のアマミキヨが最初に国造りを始めた島だ
この島に五穀の種子が流れ着いて、そこから沖縄で農業が始まって、五穀発祥の地とされてる
種子が入ってた器が瓢箪だった。五穀というのが粟、麦、キビ、小豆、他にボチョウジだと何とかで、
米ではない
でも古代沖縄でも米は作ってたのではないか?8世紀には伊平屋で盛んだったのは確認されてる
それ以前となると、多禰国(種子島)で二期作が可能だと天武朝の記録になってる
琉球弧を一体的に捉えるなら、当然、沖縄にも伝播したはずだろう
ただ、沖縄で適してるのは伊平屋のみだった
農耕発祥の久高島が神聖視されてるのだから、米が収穫できる伊平屋は別格だろう
だから天岩戸だの、伊弉諾の推定が生じてくる
金や食料の欠乏は人を狂気に陥れがちだ
対外拡張の動機というのは、経済的な欠乏が原因であることが多い
豊かな国は侵略する必要がない
沖縄で米が不足するからこそ外地への進出を要することになる
沖縄を起点にして考えると、
ニニギノミコトや、スサノオの行動は極めて合理的だ
屋久島の三岳が山岳信仰の起源だという推測があるが、
琉球弧を島々の高山を航海上のシマアテにしながら北上すると、>>234
最後に霧島山が視界に入る。その最高峰の韓国岳は、九州島から韓国を視認できる唯一の場所になる
ここは韓国に向い、笠沙の御前を真来とおりて、…
というのは、韓国を経て日本海へとつながる航海ルート上の標識としての特別の価値を求めてる
辿り着いた薩摩では、今度は屋久島最高峰の宮之浦岳から半島への直線的なルート上にある野間半島を選ぶだろう
そこを橋頭保として九州南端で稲作適地を探すのだから、天下ったのは日向の高千穂となる
一方、スサノオは半島を経て、海流に流されたならば出雲に漂着している。
こうした航海上の意識を視点に考えて天孫降臨を分析すれば、その出発点が琉球弧にあることは明らかだろう。
現実に存在するレイラインが、そうした視点が行動原理になってることを証明している。 沖縄や奄美と同様に、宮古島にも開闢神話があって御嶽由来記に残されてるのだが、18世紀の作だ。
宮古島はともかく、沖縄と奄美のそれは日本のそれとよく似ている。
沖縄の中山世鑑は17世紀。17世紀じゃ価値に乏しいとは言っても、
韓国の三国史記は12世紀成立だし、三国遺事は13世紀。それでも資料価値は認められている。
一方で、東国文献備考(18世紀)とか増補文献備考(20世紀)のような信憑性の乏しいのやら、
桓檀古記(20世紀)のような露骨な偽書もあることもまた事実ではあるんだが。
世界の神話には奇妙な共通項を持つこともありがちで、
相応の口承神話が反映されているのではないか?
仮に大和朝廷の有力指導層に掖久人がいたら、
それが日本の開闢神話の基盤になったり、混入するということもあり得るのではないか。
沖縄が高天原で、そこから本土に天下った天孫が、
創始した王朝に、琉球神話を持ち込んだと考えると全て辻褄があってくる
もちろん、神代以降の王統がどうなったのかはそれとは別の問題でここでは関知しない。
御嶽由来記
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%8F%A4%E5%B3%B6#%E7%A5%9E%E8%A9%B1
沖縄県風土記や奄美を学んで旅に出よう
http://beguiles60.rssing.com/chan-39952244/latest.php 15世紀中葉沖縄で、衆に頼まれ第二尚氏を創始した金丸は、伊平屋の百姓出身領主だった。
面積だけで見れば小さな島だ。沖縄で唯一米が獲れたことの意味は大きく、
藤貞幹もまたあの大昔にこの小島に比定し得てる。
一方、鹿児島にのみ地名として存在する笠沙が、
降臨神話の笠沙之御前だとしたところで、
事実は神話にちなんで地名の片鱗もかすらぬ場所に新規命名したものであって、
となれば伊是名島などもいつからの島名なのか分かったものじゃないということは否定し得ない。 古事記のプロットの神話の部分は山海経と共通するところもあるし
環東シナ海文化とでも呼ぶべき古代文化のかすかな交流の痕跡が
そういう物語りのなかにあるのかもしれんね。 >>320
伊是名島のすぐ隣、伊平屋島には天岩戸がある >>323
>伊平屋島には天岩戸がある
天岩戸は日本中にあるからなぁ あるけれどもいろんなものがフルセットで揃ってるのは宮崎と沖縄しかない 仮に宮崎だとすれば、
宮崎から宮崎に天下ったことになる
よって高天原は沖縄だ
であれば高天原が邪馬台国であり、
邪馬台国は沖縄になる いや、時代的に天下った先の方が邪馬台国じゃね?
さらには、神武の移動先が発展して邪馬台国になった、とか? >>328
歴史の授業時間にも限りがあるからねぇ
何もかもは扱えない 沖縄の学校では教えてるんじゃないのか。
地方史じたいはそれぞれの地区でそれなりに
やるだろ。受験に出ないだけで。でも琉球史は
もうすこし取り上げようがありそうだよな 日本という国の成り立ちの多様性を学ぶには、沖縄史は有用だと思うけどね
ただ、受験に出ないものは学校で教えない学ばないってのが徹底してるからね 沖縄は、人種的にも文化人類学的にも日本のルーツなんだが、
長らく独立国のままで、日中両国に二重貢納してる特殊性があった
第二次大戦の問題と、戦後は本土復帰をはさんで米軍統治下に置かれてる外交政治上の障害が大きいといのがある
それにしても、古代でも倭国と沖縄との関係も特殊だったと思う
掖玖(南西諸島民)が来朝して帰化するようになって、
朝廷から遣使が出されて倭国への編入が模索されるようになっても、
目的はもっぱら多禰国であって、それは米がとれて税収を期待できた(実際は持ち出し)からだ
米作の北限外の東北や北海道が長らく異国だったのと同じで、沖縄では米がとれないというのが大きい
中国への遣使は、半島から山東半島を経る北路と、五島列島から東シナ海を横断する南路、
そして南西諸島を経由して横断する南島路の3つの路線があったが、
初期は当然、安全な北路で、
敵対する新羅が半島を統一してからは南方ルートを余儀なくされたが、
南島路をとった場合でも、奄美までは行っても沖縄は経由してない
唯一使ったケースが復路に鑑真を乗せた回で、それもたまたま沖縄に漂着しただけ
東シナ海を横断する先は揚子江口の蘇州あたりで、そこから洛陽などへ陸路を踏破するのだと、
緯度的には沖縄まで行く必要がない、台湾から福建を経るなんて遠すぎるということになるんだろうけど
関係の悪い新羅とは交易面では往来があったようで、
ゆえに、古代から日本は沖縄とは何かと微妙な関係だったと言える
>No.15 遣唐船の航路
https://blogs.yahoo.co.jp/umayado0409/41467546.html
日本からの遣唐使、遣隋使が行き帰りで遭難し…
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1382477553
多禰・掖玖両嶋と曰本古代王権
https://ir.kagoshima-u.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=940&item_no=1&attribute_id=16&file_no=1&page_id=13&block_id=21
日米関係と沖縄(1) - 東洋大学学術情報リポジトリ
https://toyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=70&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1 ニニギの「笠沙」という地名は、
鹿児島西端の野間半島にあるのは後からでっち上げたもので、
他に日本のどこにも地名上の該当地が見つかってない
奄美に笠利町という地名があるね
ここは創造神アマミコの降臨地で、阿麻弥姑神社のある場所だ
同地には大和村という地名もあるが、こちらの方は大和朝廷の大和に由来して命名されたそうだが >八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣作る その八重垣を
というのはスサノオが作った歌で和歌のルーツだが、
実際には後世の作品とされてる
八という数字が多いのと、八重垣の繰り返しが変だし、
いまいち意味もとりにくい歌になってて、
その意味の通説には釈然としない気分が残る
今これを強引にレイラインの話に結びつけると、
伊平屋のヤヘ(ヤへー)岩と高千穂(神社)のライン上に出雲・八重山神社があり、
八重山というのは、そもそも南西諸島・先島諸島の八重山と同じだ
語源は不明で、この八重山諸島に石垣島がある、
八重山諸島と東北の青森・八戸のちょうど中間が出雲だ
このことと何かしら関係してくると感じるのは自然ではなかろうか?
そもそもスサノオは数字の八にちなんだ事柄が多い
スサノオが退治したのは八俣大蛇で、八坂神社の祭神はスサノオだ
歌の「八雲立つ」というのは、出雲の枕詞になってる
これに意味を付与してみて、掖玖の字を当ててみたらどうか?
>掖玖を発(た)つ、出雲・八戸、 投馬込めに、石垣作る、ヤヘ岩を
などと意味不明になってしまうが 卑弥呼は古代琉球王国の巫女王で、聞得大君の前身と考えられます。 前身というかおなじ文化に帰属すると考えるべきだろう。
文化の中心が遷移するというのは普通にあることだ。
また逆に中心でその文化が失われ、周縁でのみその
文化が保持されるということもあるのだから、そのあたり
断定には慎重さが必要 青森下北半島恐山のイタコは恐山には住んでなくて八戸あたりからイタコマチに出張してるそうだ
先のスサノオの話になってしまうが、
よりによって八戸って...
イタコは北東北で、南東北にもオガミサマなど各種名の巫女文化があるようで
沖縄も含め、いずれも縄文文化圏だろ?
弥生文化の本質部分ではない気がするが 怨念に対する理性というのは、鮮やかな分類だから
逆に縄文と弥生の二分法にも疑惑の目をもつことは
あんがい大切。 社会体制と民族が違うのだから、そこを区別することには意味がある。 ちらっと検索見してる分には、
琉球神道てかなり本格的じゃね?
日本の古層文化が極まったみたいな感じでさ 八雲立つ | 古事記・現代語訳と注釈?日本神話、神社、古代史、古語
https://kojiki.ys-ray.com/1_7_5_suga_2.html
日本最初の和歌は「スサノヲの命」が詠んだといわれています。…
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1060337135
古事記の原文を翻訳してみた。 日本最初の和歌である、八重垣の歌と太安万侶。
https://plaza.rakuten.co.jp/ubout51/diary/201407180000/
>「夜久毛多都。伊豆毛夜幣賀岐。都麻碁微爾。夜幣賀岐都久流。曾能夜幣賀岐袁。」 ※原文
<八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣作る その八重垣を> >掖玖を発(た)つ、出(い)・投馬(つま)[薩摩]、八戸垣、 苫小牧。 ・・・ 東大阪市に八戸ノ里(やえのさと)という駅がある。
名の由来は、豊臣の家臣の住民が8戸だけ住んでたことだと、東大阪に居を持っていた司馬遼太郎が説明してるそうだが、
それなら七戸ノ里や九戸ノ里もあってしかるべきで、どうにも頼りない解釈だ。
丁未の乱で蘇我馬子・聖徳太子が物部守屋を討った衣摺の戦いはその近場で起きてる。
その後、馬子は近くの高井田に長栄寺を建設している。
ここら辺りはかつては大和側がもっと近くまで流れてて、東大阪全体が物部氏の勢力圏だった。
同市にある石切神社の祭神は物部の祖先である饒速日尊であり、
石切の語源は「イシキルイ」(彼の大いなる脚)という蝦夷語で、饒速日に仕えた長髄彦のことを指している。
その東大阪にはもう一つ”八”にちなんで八尾市という地名がある
この語源は、8枚尾の鶯が止まった木を八尾木と呼んだ、弓矢の生産が盛んで矢負いが矢尾、八尾になった、
大和側の洪水防止に八百(たくさん)の杭を打ったからだとか、いんちき臭い理由が挙げられているのだが、
八戸ノ里にしろ八尾にしろ、八にちんだ地名は、八重山や八戸と同じで、
状況的にみて縄文系の言葉がルーツだと考えるべきではなかろうか?
福岡に八女市という地名があって、その音韻ゆえ邪馬台国所在地に擬す者までいるが、
書記の景行天皇の条に出てくるほど古い地名で、八女津媛に由来しているという。
しかしそれでは説明不足で、八女津媛の八女からの解釈が欲しい。
”や”(湿地)に接尾語という説明があるくらいである。
東大阪には瓢箪山という地名があって、双円墳という瓢箪型の古墳があったことから付いたそうだが、
双円墳というのは日本では数少ない一方、旧新羅の慶州には多くみられるようだ。
瓢箪にちなんだ建国エピソードがあることの反映だろうが、
日本にも帆立貝形古墳というのがあるわけで、古墳設計の思想が外観を決めてるとするなら、
前方後円墳壺型説には有利な傍証になるのかもしれない。 八尾市に弓削町があって、
弓製作の弓削氏の本拠
他に矢作、鞍作など、
一帯は武具製造氏の拠点だ 魏志倭人伝における邪馬台国の記述
>「計其道里當在會稽東冶之東」
會稽東冶(会稽郡東冶県≒福建省福州市?侯県)の東に存在するとしてる
>「兵用矛楯木弓。木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無與儋耳朱崖同。」
兵器には矛、盾、木の弓を用いる。木の弓は下が短く上が長い。竹の矢は鉄のヤジリであったり、骨のヤジリであったり。
持っている物、いない物は?耳、朱崖(=中国・海南島)と同じである。
會稽東冶はどこに定めるかで判断が変わるにせよ、
今の福建省あたりとみられ、
その東は南西諸島から台湾までの間のどこかにあたるのは確実
狩猟道具が海南島と同じだともする。 隋書琉球伝を見てみよう
>「流求国,居海?之中,当建安郡?,水行五日而至。土多山洞。」
(流求國、居海島之中、當建安郡東、水行五日而至。土多山洞。)
琉求は海島の中にあり、建安郡の東に当り、水行5日で到着する。地勢は山洞が多い。
>「土宜稻、粱、?黍、麻、豆、赤豆、胡豆、K豆等,木有楓、?談、樟、松、?塚、楠、杉、梓,竹、籐、果、藥同於江表,
>風土氣候與嶺南相類.」
(土宜稲、梁、[广中禾]黍、麻、豆、赤豆、胡豆、黒豆等、木有楓、[木舌]、樟、松、[木便]、楠、杉、梓、竹、籐、果、薬同於江表、
風土氣候與嶺南相類。」
土は稲、あわ、きび、麻豆、胡豆等によろしく、木には楓、?、くすのき、松、うるち、梓、竹、藤等があり果薬は江表(揚子江の左岸)に同じ
で、風土気候は嶺南と似ている。
(土は稲、コーリャン、黍、麻、豆、アズキ、エビス豆、黒豆等を作るのに適しており、木は楓、ヒノキ、松、楠、杉、杏、竹、籐であり、
果実は江表地方とほぼ同じ、気候風土は嶺南地域に似ている。) 隋書琉球伝
>「大業元年,海師何蠻等,?春秋二時,天清風靜,東望依希,似有煙霧之氣,亦不知幾千里.
三年,煬帝令羽騎尉朱ェ入海求訪異俗,何蠻言之,遂與蠻?往,因到流求國.言不相通,掠一人而返.明年,帝復令ェ慰撫之,
流求不從,ェ取其布甲而還.時倭國使來朝,見之曰:「此夷邪久國人所用也.」
(大業元年、海師何蠻等、毎春秋二時、天清風静、東望依希、似有煙霧之氣、亦不知幾千里。
三年、煬帝令羽騎尉朱寛入海求訪異俗、何蠻言之、遂與蠻倶往、因到流求國。明年、帝復令寛慰撫之、
流求不從、寛取其布甲而還。時倭國使來朝、見之曰:「此夷邪久國人所用也。」)
大業3年(607)、皇帝・煬帝は朱寛に命じて東海の異俗を探らせた。
流求国にいたり、その国人をひとり捕らえて連れ帰った。
翌年、皇帝は再度、朱寛に命じて行かせたが、流求は拒絶した。朱寛は「布甲」を持ち帰ったが、
それをたまたま来朝していた倭国使に確認したところ倭国使は「これは夷邪久国人が用いている物です」と答えた。
(大業元年、船乗りの間に、春と秋の風が静かな晴れ渡った日に、東の彼方に蜃気楼が見えるという話が伝わった、
ただ、どれだけ遠方かは判らない。
同三年、皇帝煬帝は羽騎尉(役職名)の朱寛に、海の彼方の異民族の調査を命じて何やら言った、
そして(朱寛は)出発し、琉求国に到達した。
あくる年、皇帝は再び朱寛を派遣して恫喝させたが、琉球が臣従を拒否したため、朱寛は琉求の布や兜を奪って帰って来た。
ちょどその時、来朝していた倭国の使者がそれを見て、「これは夷邪久(イジャク)国の品物です」と言った。) 建安郡というのは福建省あたりで、その東なら台湾や沖縄あたりになる
嶺南というのは中国南部の南嶺山脈の南の地域のことで、
広東省、広西チワン族自治区、海南省あたりのことだ
ここで言う「琉球」が台湾なのか沖縄なのかで判断は分かれているが、
隋の「琉球」侵攻時に、ちょうど倭国から遣隋使が来てて、
「琉球人」から奪った布甲を見せて確認したら「夷邪久国人」の物だと証言してることや、
洞窟が多いとする点で掖玖(琉球諸島)を指しているとと考えることには無理がない
とりわけ洞窟に着目するなら宮古島に限定するのも可能だろう
その場合、後述される王の居住地「波羅檀(はらたん、はらだん)洞」は平良(ひらら)を指してると考えられる
ようやくにして、中国史書は琉球に着目し始め、
それを倭国の付随情報として扱うようになった
おそらく史書編纂者には、倭国と邪馬台国、邪馬台国と琉球との同一性に関して、
認識の混乱と確信の揺らぎが生じていたことだろう
ともあれ、実に、魏志倭人伝と隋書琉球伝における、
倭国の一地域の位置説明と、気象説明とがほぼ一致していることが分かる。
その他の描写にも共通点が多い
何のことはない、邪馬台国の所在論争はとっくに決着が着いているのだ。
邪馬台国とは琉球(沖縄)のことに他ならない―。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています