邪馬台国沖縄(琉球)説 Part1
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年中生野菜を食べられる温暖な気候、
入れ墨やシャマニズムなどの文化習俗、
記録された距離、方向から想定される位置から考えて、
邪馬台国は沖縄に比定するのが妥当である。
邪馬台国の7つの国を統率した女王の墓域は北谷海底遺跡だった。
狗奴国はテイ[魚是]人が居住する先島諸島の21カ国の最果てにある与那国(海底遺跡)だろう。
侏儒国は小笠原諸島、
裸国、黒歯国はサイパン、グアムと推定される。
沖縄の邪馬台国はその後、地球のプレート活動により水没したが、
度重なる自然災害に危機感わ覚え始めていた邪馬台国はそれに先立って、
豊富な鉄器を持って九州・日向(宮崎)に侵攻して新王朝を建設したものと推測される。 >>328
歴史の授業時間にも限りがあるからねぇ
何もかもは扱えない 沖縄の学校では教えてるんじゃないのか。
地方史じたいはそれぞれの地区でそれなりに
やるだろ。受験に出ないだけで。でも琉球史は
もうすこし取り上げようがありそうだよな 日本という国の成り立ちの多様性を学ぶには、沖縄史は有用だと思うけどね
ただ、受験に出ないものは学校で教えない学ばないってのが徹底してるからね 沖縄は、人種的にも文化人類学的にも日本のルーツなんだが、
長らく独立国のままで、日中両国に二重貢納してる特殊性があった
第二次大戦の問題と、戦後は本土復帰をはさんで米軍統治下に置かれてる外交政治上の障害が大きいといのがある
それにしても、古代でも倭国と沖縄との関係も特殊だったと思う
掖玖(南西諸島民)が来朝して帰化するようになって、
朝廷から遣使が出されて倭国への編入が模索されるようになっても、
目的はもっぱら多禰国であって、それは米がとれて税収を期待できた(実際は持ち出し)からだ
米作の北限外の東北や北海道が長らく異国だったのと同じで、沖縄では米がとれないというのが大きい
中国への遣使は、半島から山東半島を経る北路と、五島列島から東シナ海を横断する南路、
そして南西諸島を経由して横断する南島路の3つの路線があったが、
初期は当然、安全な北路で、
敵対する新羅が半島を統一してからは南方ルートを余儀なくされたが、
南島路をとった場合でも、奄美までは行っても沖縄は経由してない
唯一使ったケースが復路に鑑真を乗せた回で、それもたまたま沖縄に漂着しただけ
東シナ海を横断する先は揚子江口の蘇州あたりで、そこから洛陽などへ陸路を踏破するのだと、
緯度的には沖縄まで行く必要がない、台湾から福建を経るなんて遠すぎるということになるんだろうけど
関係の悪い新羅とは交易面では往来があったようで、
ゆえに、古代から日本は沖縄とは何かと微妙な関係だったと言える
>No.15 遣唐船の航路
https://blogs.yahoo.co.jp/umayado0409/41467546.html
日本からの遣唐使、遣隋使が行き帰りで遭難し…
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1382477553
多禰・掖玖両嶋と曰本古代王権
https://ir.kagoshima-u.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=940&item_no=1&attribute_id=16&file_no=1&page_id=13&block_id=21
日米関係と沖縄(1) - 東洋大学学術情報リポジトリ
https://toyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=70&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1 ニニギの「笠沙」という地名は、
鹿児島西端の野間半島にあるのは後からでっち上げたもので、
他に日本のどこにも地名上の該当地が見つかってない
奄美に笠利町という地名があるね
ここは創造神アマミコの降臨地で、阿麻弥姑神社のある場所だ
同地には大和村という地名もあるが、こちらの方は大和朝廷の大和に由来して命名されたそうだが >八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣作る その八重垣を
というのはスサノオが作った歌で和歌のルーツだが、
実際には後世の作品とされてる
八という数字が多いのと、八重垣の繰り返しが変だし、
いまいち意味もとりにくい歌になってて、
その意味の通説には釈然としない気分が残る
今これを強引にレイラインの話に結びつけると、
伊平屋のヤヘ(ヤへー)岩と高千穂(神社)のライン上に出雲・八重山神社があり、
八重山というのは、そもそも南西諸島・先島諸島の八重山と同じだ
語源は不明で、この八重山諸島に石垣島がある、
八重山諸島と東北の青森・八戸のちょうど中間が出雲だ
このことと何かしら関係してくると感じるのは自然ではなかろうか?
そもそもスサノオは数字の八にちなんだ事柄が多い
スサノオが退治したのは八俣大蛇で、八坂神社の祭神はスサノオだ
歌の「八雲立つ」というのは、出雲の枕詞になってる
これに意味を付与してみて、掖玖の字を当ててみたらどうか?
>掖玖を発(た)つ、出雲・八戸、 投馬込めに、石垣作る、ヤヘ岩を
などと意味不明になってしまうが 卑弥呼は古代琉球王国の巫女王で、聞得大君の前身と考えられます。 前身というかおなじ文化に帰属すると考えるべきだろう。
文化の中心が遷移するというのは普通にあることだ。
また逆に中心でその文化が失われ、周縁でのみその
文化が保持されるということもあるのだから、そのあたり
断定には慎重さが必要 青森下北半島恐山のイタコは恐山には住んでなくて八戸あたりからイタコマチに出張してるそうだ
先のスサノオの話になってしまうが、
よりによって八戸って...
イタコは北東北で、南東北にもオガミサマなど各種名の巫女文化があるようで
沖縄も含め、いずれも縄文文化圏だろ?
弥生文化の本質部分ではない気がするが 怨念に対する理性というのは、鮮やかな分類だから
逆に縄文と弥生の二分法にも疑惑の目をもつことは
あんがい大切。 社会体制と民族が違うのだから、そこを区別することには意味がある。 ちらっと検索見してる分には、
琉球神道てかなり本格的じゃね?
日本の古層文化が極まったみたいな感じでさ 八雲立つ | 古事記・現代語訳と注釈?日本神話、神社、古代史、古語
https://kojiki.ys-ray.com/1_7_5_suga_2.html
日本最初の和歌は「スサノヲの命」が詠んだといわれています。…
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1060337135
古事記の原文を翻訳してみた。 日本最初の和歌である、八重垣の歌と太安万侶。
https://plaza.rakuten.co.jp/ubout51/diary/201407180000/
>「夜久毛多都。伊豆毛夜幣賀岐。都麻碁微爾。夜幣賀岐都久流。曾能夜幣賀岐袁。」 ※原文
<八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣作る その八重垣を> >掖玖を発(た)つ、出(い)・投馬(つま)[薩摩]、八戸垣、 苫小牧。 ・・・ 東大阪市に八戸ノ里(やえのさと)という駅がある。
名の由来は、豊臣の家臣の住民が8戸だけ住んでたことだと、東大阪に居を持っていた司馬遼太郎が説明してるそうだが、
それなら七戸ノ里や九戸ノ里もあってしかるべきで、どうにも頼りない解釈だ。
丁未の乱で蘇我馬子・聖徳太子が物部守屋を討った衣摺の戦いはその近場で起きてる。
その後、馬子は近くの高井田に長栄寺を建設している。
ここら辺りはかつては大和側がもっと近くまで流れてて、東大阪全体が物部氏の勢力圏だった。
同市にある石切神社の祭神は物部の祖先である饒速日尊であり、
石切の語源は「イシキルイ」(彼の大いなる脚)という蝦夷語で、饒速日に仕えた長髄彦のことを指している。
その東大阪にはもう一つ”八”にちなんで八尾市という地名がある
この語源は、8枚尾の鶯が止まった木を八尾木と呼んだ、弓矢の生産が盛んで矢負いが矢尾、八尾になった、
大和側の洪水防止に八百(たくさん)の杭を打ったからだとか、いんちき臭い理由が挙げられているのだが、
八戸ノ里にしろ八尾にしろ、八にちんだ地名は、八重山や八戸と同じで、
状況的にみて縄文系の言葉がルーツだと考えるべきではなかろうか?
福岡に八女市という地名があって、その音韻ゆえ邪馬台国所在地に擬す者までいるが、
書記の景行天皇の条に出てくるほど古い地名で、八女津媛に由来しているという。
しかしそれでは説明不足で、八女津媛の八女からの解釈が欲しい。
”や”(湿地)に接尾語という説明があるくらいである。
東大阪には瓢箪山という地名があって、双円墳という瓢箪型の古墳があったことから付いたそうだが、
双円墳というのは日本では数少ない一方、旧新羅の慶州には多くみられるようだ。
瓢箪にちなんだ建国エピソードがあることの反映だろうが、
日本にも帆立貝形古墳というのがあるわけで、古墳設計の思想が外観を決めてるとするなら、
前方後円墳壺型説には有利な傍証になるのかもしれない。 八尾市に弓削町があって、
弓製作の弓削氏の本拠
他に矢作、鞍作など、
一帯は武具製造氏の拠点だ 魏志倭人伝における邪馬台国の記述
>「計其道里當在會稽東冶之東」
會稽東冶(会稽郡東冶県≒福建省福州市?侯県)の東に存在するとしてる
>「兵用矛楯木弓。木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無與儋耳朱崖同。」
兵器には矛、盾、木の弓を用いる。木の弓は下が短く上が長い。竹の矢は鉄のヤジリであったり、骨のヤジリであったり。
持っている物、いない物は?耳、朱崖(=中国・海南島)と同じである。
會稽東冶はどこに定めるかで判断が変わるにせよ、
今の福建省あたりとみられ、
その東は南西諸島から台湾までの間のどこかにあたるのは確実
狩猟道具が海南島と同じだともする。 隋書琉球伝を見てみよう
>「流求国,居海?之中,当建安郡?,水行五日而至。土多山洞。」
(流求國、居海島之中、當建安郡東、水行五日而至。土多山洞。)
琉求は海島の中にあり、建安郡の東に当り、水行5日で到着する。地勢は山洞が多い。
>「土宜稻、粱、?黍、麻、豆、赤豆、胡豆、K豆等,木有楓、?談、樟、松、?塚、楠、杉、梓,竹、籐、果、藥同於江表,
>風土氣候與嶺南相類.」
(土宜稲、梁、[广中禾]黍、麻、豆、赤豆、胡豆、黒豆等、木有楓、[木舌]、樟、松、[木便]、楠、杉、梓、竹、籐、果、薬同於江表、
風土氣候與嶺南相類。」
土は稲、あわ、きび、麻豆、胡豆等によろしく、木には楓、?、くすのき、松、うるち、梓、竹、藤等があり果薬は江表(揚子江の左岸)に同じ
で、風土気候は嶺南と似ている。
(土は稲、コーリャン、黍、麻、豆、アズキ、エビス豆、黒豆等を作るのに適しており、木は楓、ヒノキ、松、楠、杉、杏、竹、籐であり、
果実は江表地方とほぼ同じ、気候風土は嶺南地域に似ている。) 隋書琉球伝
>「大業元年,海師何蠻等,?春秋二時,天清風靜,東望依希,似有煙霧之氣,亦不知幾千里.
三年,煬帝令羽騎尉朱ェ入海求訪異俗,何蠻言之,遂與蠻?往,因到流求國.言不相通,掠一人而返.明年,帝復令ェ慰撫之,
流求不從,ェ取其布甲而還.時倭國使來朝,見之曰:「此夷邪久國人所用也.」
(大業元年、海師何蠻等、毎春秋二時、天清風静、東望依希、似有煙霧之氣、亦不知幾千里。
三年、煬帝令羽騎尉朱寛入海求訪異俗、何蠻言之、遂與蠻倶往、因到流求國。明年、帝復令寛慰撫之、
流求不從、寛取其布甲而還。時倭國使來朝、見之曰:「此夷邪久國人所用也。」)
大業3年(607)、皇帝・煬帝は朱寛に命じて東海の異俗を探らせた。
流求国にいたり、その国人をひとり捕らえて連れ帰った。
翌年、皇帝は再度、朱寛に命じて行かせたが、流求は拒絶した。朱寛は「布甲」を持ち帰ったが、
それをたまたま来朝していた倭国使に確認したところ倭国使は「これは夷邪久国人が用いている物です」と答えた。
(大業元年、船乗りの間に、春と秋の風が静かな晴れ渡った日に、東の彼方に蜃気楼が見えるという話が伝わった、
ただ、どれだけ遠方かは判らない。
同三年、皇帝煬帝は羽騎尉(役職名)の朱寛に、海の彼方の異民族の調査を命じて何やら言った、
そして(朱寛は)出発し、琉求国に到達した。
あくる年、皇帝は再び朱寛を派遣して恫喝させたが、琉球が臣従を拒否したため、朱寛は琉求の布や兜を奪って帰って来た。
ちょどその時、来朝していた倭国の使者がそれを見て、「これは夷邪久(イジャク)国の品物です」と言った。) 建安郡というのは福建省あたりで、その東なら台湾や沖縄あたりになる
嶺南というのは中国南部の南嶺山脈の南の地域のことで、
広東省、広西チワン族自治区、海南省あたりのことだ
ここで言う「琉球」が台湾なのか沖縄なのかで判断は分かれているが、
隋の「琉球」侵攻時に、ちょうど倭国から遣隋使が来てて、
「琉球人」から奪った布甲を見せて確認したら「夷邪久国人」の物だと証言してることや、
洞窟が多いとする点で掖玖(琉球諸島)を指しているとと考えることには無理がない
とりわけ洞窟に着目するなら宮古島に限定するのも可能だろう
その場合、後述される王の居住地「波羅檀(はらたん、はらだん)洞」は平良(ひらら)を指してると考えられる
ようやくにして、中国史書は琉球に着目し始め、
それを倭国の付随情報として扱うようになった
おそらく史書編纂者には、倭国と邪馬台国、邪馬台国と琉球との同一性に関して、
認識の混乱と確信の揺らぎが生じていたことだろう
ともあれ、実に、魏志倭人伝と隋書琉球伝における、
倭国の一地域の位置説明と、気象説明とがほぼ一致していることが分かる。
その他の描写にも共通点が多い
何のことはない、邪馬台国の所在論争はとっくに決着が着いているのだ。
邪馬台国とは琉球(沖縄)のことに他ならない―。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 こういう休眠スレの板汚しはよくないから、スレ立てした人は使い切るまでがんばれ! ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. おーい、琉球説はもう諦めたのか?
荒らしのコピペ貼りしか来てないぞ アー タノシーデスネー 長江の鬲wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RCL54jcK9b5z4Aih.U3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 おーい、沖縄説でスレ立てしたなら、放棄せずにがんばれよ! 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 もうちょっといじってみて、それで応答なければ人知れず埋めとくからさ 黙ってsageたまま埋めろ雑魚ミジメったらしんだよ いや、せっかく沖縄説でスレ立てしたんだから、
沖縄説の人にできるだけがんばって欲しかったんだがな
こうやって、バカが釣れるとその分埋める手間が減るし 北九州も近畿も普通に考えればあり得ない
どんなに遺跡が発掘されようが無関係
位置的風土的には沖縄が有力だが、これも致命的におかしいのが
東に海隔てて(70km?)また倭人の住む国ありの所
南にこれだけ来てて、本土方面を東とは言わない
北だよね、しかも距離が全然違う
よって沖縄でもない
残るのは南九州と四国か 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 奈良 前方後円墳
全国的には、徳島県の萩原一号墳や鳥取県南部町の浅井11号墳、福岡市博多区那珂1丁目の那珂八幡古墳など
3世紀の前方後円墳が多数ある。近藤義郎によれば、全国の前方後円墳を築造された時期別に
畿内編年の1期から10期の10段階に分けて整理すると、最も古い1期でもっとも多いのは筑前(福岡県北部)で9基、
第二位が播磨(兵庫県)で8 基、第三位が大和で6基、以下備前、美作、備中(岡山県)、讃岐(徳島県)となっている。
さらに朝鮮には3世紀に石積みながら前方後円墳が多数ある。以上から、この地が前方後円墳の発祥地とは言えない。 最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。 >>270 >>273 >>298 >>320 >>334 >>338
2016/04/07
【邪馬台国】 畿内・九州以外の説も考えてみるべきでは? 島根説、沖縄説、四国説、奄美大島説、台湾説、etc… [231982652]
http://maguro.2ch.s●c/test/read.cgi/po●verty/1460018135/
邪馬台国の所在地を奄美大島とする著者は、周の要求に応じ、倭人が特産の桑の木と蚕を献上したのではないかという。
奄美大島では現在も大巫女をフミコと呼び、そのフミコが卑弥呼へ転化したと解説。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています