邪馬台国沖縄(琉球)説 Part1
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
年中生野菜を食べられる温暖な気候、
入れ墨やシャマニズムなどの文化習俗、
記録された距離、方向から想定される位置から考えて、
邪馬台国は沖縄に比定するのが妥当である。
邪馬台国の7つの国を統率した女王の墓域は北谷海底遺跡だった。
狗奴国はテイ[魚是]人が居住する先島諸島の21カ国の最果てにある与那国(海底遺跡)だろう。
侏儒国は小笠原諸島、
裸国、黒歯国はサイパン、グアムと推定される。
沖縄の邪馬台国はその後、地球のプレート活動により水没したが、
度重なる自然災害に危機感わ覚え始めていた邪馬台国はそれに先立って、
豊富な鉄器を持って九州・日向(宮崎)に侵攻して新王朝を建設したものと推測される。 魏志倭人伝における邪馬台国の記述
>「計其道里當在會稽東冶之東」
會稽東冶(会稽郡東冶県≒福建省福州市?侯県)の東に存在するとしてる
>「兵用矛楯木弓。木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無與儋耳朱崖同。」
兵器には矛、盾、木の弓を用いる。木の弓は下が短く上が長い。竹の矢は鉄のヤジリであったり、骨のヤジリであったり。
持っている物、いない物は?耳、朱崖(=中国・海南島)と同じである。
會稽東冶はどこに定めるかで判断が変わるにせよ、
今の福建省あたりとみられ、
その東は南西諸島から台湾までの間のどこかにあたるのは確実
狩猟道具が海南島と同じだともする。 隋書琉球伝を見てみよう
>「流求国,居海?之中,当建安郡?,水行五日而至。土多山洞。」
(流求國、居海島之中、當建安郡東、水行五日而至。土多山洞。)
琉求は海島の中にあり、建安郡の東に当り、水行5日で到着する。地勢は山洞が多い。
>「土宜稻、粱、?黍、麻、豆、赤豆、胡豆、K豆等,木有楓、?談、樟、松、?塚、楠、杉、梓,竹、籐、果、藥同於江表,
>風土氣候與嶺南相類.」
(土宜稲、梁、[广中禾]黍、麻、豆、赤豆、胡豆、黒豆等、木有楓、[木舌]、樟、松、[木便]、楠、杉、梓、竹、籐、果、薬同於江表、
風土氣候與嶺南相類。」
土は稲、あわ、きび、麻豆、胡豆等によろしく、木には楓、?、くすのき、松、うるち、梓、竹、藤等があり果薬は江表(揚子江の左岸)に同じ
で、風土気候は嶺南と似ている。
(土は稲、コーリャン、黍、麻、豆、アズキ、エビス豆、黒豆等を作るのに適しており、木は楓、ヒノキ、松、楠、杉、杏、竹、籐であり、
果実は江表地方とほぼ同じ、気候風土は嶺南地域に似ている。) 隋書琉球伝
>「大業元年,海師何蠻等,?春秋二時,天清風靜,東望依希,似有煙霧之氣,亦不知幾千里.
三年,煬帝令羽騎尉朱ェ入海求訪異俗,何蠻言之,遂與蠻?往,因到流求國.言不相通,掠一人而返.明年,帝復令ェ慰撫之,
流求不從,ェ取其布甲而還.時倭國使來朝,見之曰:「此夷邪久國人所用也.」
(大業元年、海師何蠻等、毎春秋二時、天清風静、東望依希、似有煙霧之氣、亦不知幾千里。
三年、煬帝令羽騎尉朱寛入海求訪異俗、何蠻言之、遂與蠻倶往、因到流求國。明年、帝復令寛慰撫之、
流求不從、寛取其布甲而還。時倭國使來朝、見之曰:「此夷邪久國人所用也。」)
大業3年(607)、皇帝・煬帝は朱寛に命じて東海の異俗を探らせた。
流求国にいたり、その国人をひとり捕らえて連れ帰った。
翌年、皇帝は再度、朱寛に命じて行かせたが、流求は拒絶した。朱寛は「布甲」を持ち帰ったが、
それをたまたま来朝していた倭国使に確認したところ倭国使は「これは夷邪久国人が用いている物です」と答えた。
(大業元年、船乗りの間に、春と秋の風が静かな晴れ渡った日に、東の彼方に蜃気楼が見えるという話が伝わった、
ただ、どれだけ遠方かは判らない。
同三年、皇帝煬帝は羽騎尉(役職名)の朱寛に、海の彼方の異民族の調査を命じて何やら言った、
そして(朱寛は)出発し、琉求国に到達した。
あくる年、皇帝は再び朱寛を派遣して恫喝させたが、琉球が臣従を拒否したため、朱寛は琉求の布や兜を奪って帰って来た。
ちょどその時、来朝していた倭国の使者がそれを見て、「これは夷邪久(イジャク)国の品物です」と言った。) 建安郡というのは福建省あたりで、その東なら台湾や沖縄あたりになる
嶺南というのは中国南部の南嶺山脈の南の地域のことで、
広東省、広西チワン族自治区、海南省あたりのことだ
ここで言う「琉球」が台湾なのか沖縄なのかで判断は分かれているが、
隋の「琉球」侵攻時に、ちょうど倭国から遣隋使が来てて、
「琉球人」から奪った布甲を見せて確認したら「夷邪久国人」の物だと証言してることや、
洞窟が多いとする点で掖玖(琉球諸島)を指しているとと考えることには無理がない
とりわけ洞窟に着目するなら宮古島に限定するのも可能だろう
その場合、後述される王の居住地「波羅檀(はらたん、はらだん)洞」は平良(ひらら)を指してると考えられる
ようやくにして、中国史書は琉球に着目し始め、
それを倭国の付随情報として扱うようになった
おそらく史書編纂者には、倭国と邪馬台国、邪馬台国と琉球との同一性に関して、
認識の混乱と確信の揺らぎが生じていたことだろう
ともあれ、実に、魏志倭人伝と隋書琉球伝における、
倭国の一地域の位置説明と、気象説明とがほぼ一致していることが分かる。
その他の描写にも共通点が多い
何のことはない、邪馬台国の所在論争はとっくに決着が着いているのだ。
邪馬台国とは琉球(沖縄)のことに他ならない―。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています