邪馬台国沖縄(琉球)説 Part1
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年中生野菜を食べられる温暖な気候、
入れ墨やシャマニズムなどの文化習俗、
記録された距離、方向から想定される位置から考えて、
邪馬台国は沖縄に比定するのが妥当である。
邪馬台国の7つの国を統率した女王の墓域は北谷海底遺跡だった。
狗奴国はテイ[魚是]人が居住する先島諸島の21カ国の最果てにある与那国(海底遺跡)だろう。
侏儒国は小笠原諸島、
裸国、黒歯国はサイパン、グアムと推定される。
沖縄の邪馬台国はその後、地球のプレート活動により水没したが、
度重なる自然災害に危機感わ覚え始めていた邪馬台国はそれに先立って、
豊富な鉄器を持って九州・日向(宮崎)に侵攻して新王朝を建設したものと推測される。 一年以上滞在したのなら、季節ごとに食事や服装、仕事(農業・漁業)や風習や風俗、文化の差違に関して叙述したはずだ
それがないのは季節の違いが小さいから、
つまり一年を通じて温暖だからだ 魏志倭人伝の記述者は、実際には倭国を訪問してないというのが実情のはず
記述はあくまで伝聞にすぎないと理解してたが。 少なくとも冬に郡使は伊都にいて生野菜を食べたんだよ。
何を食べたんだろうね? 古代で生食できる植物なんてあったのかね。「生菜」は地面に生えてる艸(くさ)という
解釈のほうがただしいんじゃないのか。漬物とかは理論的には「なま」で、ダイコンは
弥生時代には日本に来てるみたいだから、そういうたぐいの漬物の可能性はあるけれ
ども。 べつにageではないだろ。会稽の東にあると明記されてるのに北九州だの奈良だの
言われてるのはあきらかにおかしーんじゃないかという在野のゴロツキどものため息の
ごみすて場所であって >>45 現代の視点で過去を計るなばかたれ。古代にレタスやキャベツがあったのかよ。 でも、逆に言うと「所有無與儋耳朱崖同」と「計其道里當在會稽東冶之東」以外には
沖縄だっていう理由なくね?
陸行一月もきついし、七萬余戸も無理 白菜は明治以降に日本に来てるので多分違う。なんらかの地場産の
野草は食用にしていたのは確実だけれども、なまで食べると言うのは
江戸時代ですら無かったのだから、漬物なり乾物なりとおもうんだがな。 短里と長里がごちゃまぜになって帯方郡からの南行を過大評価したっぽいな。
やはり邪馬台国は九州で落ち着くだろう。 >>52
>短里と長里がごちゃまぜになって帯方郡からの南行を過大評価したっぽいな。
「當」在會稽東冶之東で、「まさに」と書いてあるから、倭国が
會稽東冶之東にあるという知識が、その道里を計る前から存在してるんだよ
で。距離を計算してみてもやっぱり(=まさに)會稽東冶之東だった、という認識 >>30
温暖だから冬も夏もと言う場合に、
冬も食べることは可能であるとの意味にはならない
冬も夏と同じように、同じレベルで食べられる、同じように収穫できるのだと述べている
江戸時代を見た外国人は、
例え冬に生野菜を食べてたとしても、
そのようにはまず書かない
冬に収穫される野菜が限定されてるのだから、それはあくまで稀な事例、
例外的な事実でしかなく無視されるべきことだ 沖縄説もあってもいいけれど、
さっきからだんだん、無理筋のトンデモに向かってるぞ >>50
女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至 黒潮に乗れば東に室戸岬なり房総なり本州のどこかにたどり着く
四国や武蔵野平野はまだ閑散としてたろうそれも倭種だ
南方に出れば伊豆諸島、小笠原諸島がある
そのはるか南方にも有人島があるとの知見は、
漁中島民の漂流体験から不確かな情報として共有されてたはずだ
なにしろ縄文人ですら太平洋をまたいだ推論すらあるのだから
こうした推測は史書の記述の説明になる
だが九州や大和では無理である
なぜ帯方郡から対馬を経ての頭からの行程を事細かに検証しながら、
尻の部分の記述は一切が無視されてしまってるのだろうか?
あまりに整合性がとれない事実は、
人は無視し去ることに平穏を求めてしまいがちでそれは日常にもよくあることだ。「これは夢に違いない」
だが前提に置かれた認識の方こそを捨て去るならば、整合性の取れる別の解釈が浮上するものである
必要なことは固定観念に囚われず、
新しい考えを受け入れる勇気を持つことである
だが往々にして最も得難いものがその勇気なのだ >>57
まさか、侏儒國、裸國、黒齒國が、実在の国だとか思ってないだろうな?
山海経や、淮南子に載ってる、伝説の国だぞ? >>51
豆とかじゃね?
トマトやきゅうり的なものが当時に別種であるならそれなんだろうが >>59
伝説だろうが何だろうが、
邪馬台国の東方、さらに東南海の地理的認識が示されてる
すなわち邪馬台国は絶海中にある島嶼国で、はるか遠くにまだいくつもの島国があると
その島々を何に紐付けるかで不確かな記述が紛れ込むこともあろう 史書が違えば倭国もまた不確かな伝聞から想像された「伝説の国」にすぎない
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1290130003/161
http://www.geocities.jp/kanreisai/nikki.19.7.3.htm
「女人国」はもともとチュウゴクの記録に現れてくる国ですが、この女人国には二つあります。?東女国と?西女国
と区別されます。まずは、?の東海海中にある女人国(これが女護が島伝説の元となった)からその記録をひも
ときますと、最初の記録とされますのが、後漢書・東夷伝中の
(北沃沮(朝鮮半島北方あたりを指すようである)の)海中有女国、無男人。或伝其国有神井?之輙生子云。
海中に女国あり、男人なし。あるいは伝えて、その国に神井あり、これを?(うかが)うにすなわち子を生じると云う。
その先の海の中に「女国」がある。ここには男のニンゲンはいません。ある伝説に、その国には神聖なる井戸があり、
この井戸を覗き込むと、女たちはこれに感じてコドモを身ごもるのである、という。
ギッチラ波越え卑弥呼の文来(239)る
で有名な、魏志・東夷伝にも、
チュウゴクからの使者が(北沃沮の)老人に、
海東復有人不。
海東にまた人有りやいなや。
この海の向こうにもニンゲンは住んでいるのか。
老人、これに続けまして、また言う、
有一国亦在海中純女無男。
一国あり、また海中に在りて純女にして男無し。
「もう一国あったそうでございます。これも海の中にあり、女だらけでございまして、男はいないのだそうで
ございまする。」
このころのまでですと、卑弥呼さまが支配する倭の国々の情報がどこかでひね曲がって伝わったのではないか、
という仮説も成り立ちますが、これ以後の記録からも女人国の情報は消えることがありません。 >>61
>東南海の地理的認識
>>61自身が書いているように、大陸中華の地理的「認識」が書かれているだけなんだよ
現実の地理と一致している訳でもない https://yomogi.5ch.net/test/read.cgi/history/1290130003/157-163
森は九州から畿内への邪馬台国東遷論だが、
魏志倭人伝の執筆者は、邪馬台国には実際には来ていない、
来たのはせいぜい伊都国あたり、北部九州までで、
後の記録は各種記録を元にした事務的な記述にすぎないとしている。
倭人伝を読みなおす (ちくま新書) [新書]
森 浩一 (著) 出版社: 筑摩書房 (2010/8/6)
ttp://www.amazon.co.jp/dp/448006558X >>62
http://jump.5ch.net/?www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku12/kanen41.html
その方が目をつけられたのは、同じ東夷伝中の、東沃沮(よくそ)末尾にある記事なのです。
「王[斤頁](おうき 魏人)、別に遣わして宮(きゆう 人名。高句麗王)を追討し、其の東界を尽す。
其の耆老(きろう)に問う。『海東に復(また)人有りや不(いな)や』と。
(一)耆老(きろう)言う。『国人嘗(かつ)て船乗りて魚を捕う。風に遭い、吹かるること数十日。東に一島を得(う)。
上に人有り。言語、相暁(あいさと)らず。其の俗、常に七月を以て童女取りて海に沈む』と。
(二)又言う。『一国有り。亦海中に在り。純(ただ)女にして男無し』
(三)又説くに『一布衣を得(う)。海中より浮び出で、其の身、中国人の衣の如し。其の両袖(そで)、長さ三丈』と。
(四)又『一破船を得。波に随いて出(い)でて海岸の辺に在り。一人有り。項(うなじ)中、復(また)、面有り。
生きて之を得(う)。与(とも)に語、相通ぜず。食わずして死す』と。
其の域、皆、沃沮(よくそ)の東の大海の中に在り」
王?を別に派遣して宮を追討させ、東界に尽きる。そこの古老に「海東にも人が有りや無きや」を問う。
古老が言うには、かつて船で漁をしていた国人が数十日も風に翻弄され、東に孤島を発見して上陸すると、
人はいたが言葉が通じなかった。そこの風俗では、常用の七月に童女を海に沈めるという。また、海中に一国あり、
女だけで男はいない。また、海中から浮きでた一枚の衣を得る。身頃は中国人の衣のごとく、両袖の長さ三丈。
また、難破船を得る、海岸辺に波に打たれていた。船内に一人あり、襟首のなかに顔があり返事をした。
生きていたが、言葉が通ぜず、食せずして死す。その海域は皆、沃沮の東の大海中にあり。
これは位宮の追討を命じられた王?(きん)が、朝鮮半島の東界の果てまで追撃して、自ら見聞を基に、
後に通称『魏志倭人伝』と呼ばれる『三国志魏書』東夷伝の倭人条が編纂された。従って、
この追撃がなければ倭人伝に接することはできなかったのである。 >>59 >>63
魏の使節が沃沮にて倭国の情報を仕入れて記録に残している
その内容は現実離れをしてるが全くの嘘ではなくそれなりの真実が反映されている
それらは中国の地理的観念や認識に過ぎないとは言っても、
一次情報はあくまで伝聞に依存しており、
その情報はあくまで現地人の持つ地理的な理解なのである
それは倭国や邪馬台国、そして邪馬台国の東海や東南海の情報もまたしかりだ
その情報をどのように解釈し加工したのかに中国の観念が混じっているのにすぎない
侏儒國以下が伝説でしかないという場合、邪馬台国遠方に侏儒國に類する国などまるで存在しないということにはならない
むしろ確かに存在していると裏付けてさえいる
なぜなら存在しないのなら記述する理由がないのだから
https://yomogi.5ch.net/test/read.cgi/history/1290130003/159
古田「沃沮は、朝鮮半島の東海岸(北半)の国だから、その東とは、日本海、その彼方の島や国となれば、
先ず、日本列島しかない、よね。それに先の『童女を取って海に沈む』に類した伝説も、山陰・北陸には
分布しているようだからね。これは貴重な“三世紀時点における民俗学的採取”というべきだろうね」
A「“女だけで男なし”というのも、“巫女(みこ)の住む男子禁制の聖地”としての国(島)が考えられますよね。
姫島(ひめしま 大分県)や今は女子禁制の島になっている沖(おき)の島(福岡県)も、天照大神(あまてるおおかみ)
の娘たちの島だっていうんだから、案外、昔は男子禁制の島だったかもしれませんね」
古田「たしかに、みな不思議な話だが、いずれも奇妙な真実味(リアリティ)があるよね。不幸な双生児の問題も、
『古事記』に“葦舟(あしぶね)の蛭児(ひるこ)流し”の形で反映されている日本側の習俗とピッタリ相応しているし、ね。
ともあれ、朝鮮半島の『海東』が日本列島になることは自明の理だ。のちに李氏(りし)朝鮮のとき作られた
『海東諸国記かいとうしょこくき』(成宗せいそう二年、一四七一)という本があるけど、これも日本列島のことを
書いた書物だからね。“『海東』は日本を指さない”なんて、とんでもない話だよ」 例えば韓国は、不当に竹島(韓国名・独島、リアンクール島)の領有権を主張する際に、
過去の文献に記録された、時に鬱陵島の異名であったり、
もしくは附属する小島である竹嶼(チュクト)の呼称である于山島が竹島のことだと偽証したり、
あるいは附属する観音島であろう石島という、後年に出された政令に記された島名を竹島の別称だと強弁していたりする。
韓国の主張はともあれ、竹島(独島)自体が存在していることは確かな事実だ。
存在してるからこそ争いになっているし、文献上の記述が捜索されているのだ。
侏儒國以下の話もまた同じことである >>68
>侏儒國以下の話もまた同じことである
つまり>>68の主張は、韓国の独島領有の主張と同様ってことだな
つまり、ウソ・でまかせだってことだ >>69
そうじゃなくて、
沖縄遠海島を侏儒國に結びつけることが間違いだとしても、
遠海に島があることはおそらく事実である
竹島はれっきと存在しているが、
韓国がそれを于山島だと主張するのは出鱈目である、
そういう関係性 沃沮人は東海上に海東(倭国)という女人国があって、奇妙な習俗と宗教を奉じていると語っている
語られた内容は怪しげなものだが、倭国がそこに位置していたことは確かな事実ではあった。 >>71
>韓国がそれを于山島だと主張するのは出鱈目である
つまり、このスレの趣旨に真っ向からけんかを売って、
沖縄は存在するが、それを邪馬台国だと主張するのは出鱈目である、と
そういう関係性なんだな! >>73
そこがまさに議論になってるところな
議論になり得るということだ >>74
>議論になり得るということだ
韓国の独島云々は、議論にならないだろ
韓国が一方的に言い張ってるだけで >>75
だから古の邪馬台国とは沖縄のことかと議論になってると言ってるだろあほめ >>50
あらゆる情報が沖縄を示唆してるではないか、いや沖縄のみを
他のどこが該当するというのか
特に地名と現代にも続く間切との一致は決定的ですらある
不都合なのは陸行1か月くらいなもの
過去の論争に無知な者が一から考えれば確実に沖縄だと断定するはずだ
実際、台湾など海外の学者は沖縄なのでは?と語ってくる
そうでない者は先入観に支配されてるに過ぎない
>>2 地名、間切が一致
>>10 対立する狗奴国わテイ[魚是]人がとするならその21カ国を先島諸島に比定できる
>>30 海南島と同じ風俗
>>31 冬も生野菜で裸足の温暖気候
倭国は島嶼国の連なりである
>>57 一般に島では大生物は小さくなり(ミニカバなど)、小生物は大きくなり(インドネシアのカブトムシ)、また低緯度ほど低身長になる法則性、
小島国の近親婚奇形で、
侏儒国なる小人国は南方島嶼、黒歯国も南方風俗と考えられるため、
沖縄の東南海上島嶼と推測できるし、
海洋民だからこそ知り得た情報 そして帯方郡からの距離方向が沖縄を示している
これでなぜ沖縄を否定できるのか、その方が不思議だ >>76
>だから古の邪馬台国とは沖縄のことかと議論になってると言ってるだろあほめ
だから、
>>71の「そういう関係性」ってことは、韓国の主張と同等ってことになるから
ヤ・メ・レ!って言ってるんだよ
韓国を引き合いに出していいことは一つもない >>77、>>78
沖縄説原理主義の人?
前から言ってるけれど、
陸行一月
戸数七萬余戸
は沖縄説では致命的だよ
あとこの辺もつらい
・邪馬台国の発音に近い地名
・30近くの国々の盟主
・宮室、楼観、城柵
・卑弥呼の墓径百歩
・徇葬百人 >>80 その辺は全て説明可能
>>6 偽装の結果
>>8 水没による消失(邪馬台国名も) >>81
>水没による消失(邪馬台国名も)
おいおい、ここまでトンデモだとは思わなかったよ >>82
とんでもも何も、
本来移籍年代的に無理だったのが、
水没遺跡が年代一致で俄然変わってきたとの話なんだが
個人的には南海トラフの3連動地震の延長上に、
宮崎沖から南西諸島沖にも発生して、
大地震で地形が水没するなり、
大津波で文明一時消失途絶の可能性もあると見てる
実際、縄文文化か鬼界カルデラの自然現象により消滅したのだから そういうこともあったかもしれないが、邪馬台国ではない。 有史以降に地震の津波まるかぶりで島民全滅した島もあるものな。とはいえ沖縄本島より
巨大な島が「水没」してしまったというのは海底地形図から考えても想定しなくていいレベルの
トンデモ説 素直に読めば琉球だし、おれも琉球説がなぜ有力でないのかが不思議でしょうがないんだが
「海底にしずんだ巨大文明」を主張するのなら、まず見つけてから言えと。トロイアは見つけて
ようやく科学の遡上に上ったんだよ。くちさきだけでペラペラ証明しようとせず先ず見つけろと。 誰も島まるごと沈んだなんて言ってないだろ
島の一部が沈んだと言ってる
北谷沖海底遺跡および与那国海底遺跡がそれだ
沈まなくても、東日本震災では東北の沿岸部が大津波でさらわれている
歴史的には南海トラフ地震により、30m超の大津波に襲われる高知県は壊滅を繰り返す宿命にあるとされているし、
三重県や、かつては海だった河内泉州も襲われてきたろう、そして宮崎日向だって危うい
静岡にある弥生の登呂遺跡などは大津波に滅ぼされた痕跡を残している
沖縄で同様のことが無かったとなぜ言えるのか?
僕らはいつも、今確かにあるものだけを持ってして過去を語りがちだ
だが過去の大事な何かが失われ隠されたままであるのなら、
欠落した事物を元にして語られる過去に真実味がないのも当然だろう
2013年9月03日
南海トラフ地震で世界遺産・三保の松原と登呂遺跡が消滅する!(週プレNEWS)
http://www.asy●ura2.com/13/jisin19/msg/261.html
2013/10/15
南海大地震で高知県は沈んでなくなりますか?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12114998337
確かに高知県の一部は宝永、安政、昭和の南海トラフの地震によって沈降してきた。古くは白鳳や康和の南海トラフ地震でも
田畑の海没の記録がある。だから、その叔父さんの言うことも一部は正しい。
実際には安田と野根を結ぶ線より南東側の室戸岬側が隆起し、それより北西側の高知や須崎などが沈降するのだが。
その変異は最大でも1〜2m程度です。足摺岬は昭和や安政では隆起したが宝永では沈降したらしい。
高知県では684年に、かつて53万石あった土佐の地が白鳳地震で一気に海没しそのために現在24万石になってしまった。
現在の土佐湾の湾曲はその時の名残だ、という愉快な口碑が残っていますが、尾ひれはひれ付けば話はここまで大きくなって
しまうという好例です。
9−2 中国・四国地方の地殻変動
http://cais.gsi.go.jp/KAIHOU/report/kaihou79/09_02.pdf この発生周期と痕跡が、
卑弥呼の時代(200年代)以降に、
大津波が沖縄を襲っていることが分かる
2017年12月09日
高さ30m!「八重山地震」級の巨大津波 600年毎に4回発生 沖縄県
https://www.hazardlab.jp/know/topics/detail/2/2/22988.html
堆積物のうち、3つは石灰質の砂が堆積した地層で、最も新しい地層は1771年の八重山津波によるものだった。
放射性炭素年代測定法で調べた結果、それ以外は、西暦1330?1030年ごろに起きた津波の堆積物と、
700?280年ごろの津波で運ばれた石の塊で、
最古のものは紀元前750年から西暦700年にかけて発生した津波の堆積物であることが判明した。 沈んだ云々が琉球説を台無しにしてるんだよ
沈んだっつーなら見つけてから言え
「みつけられなかったので存在しなかったとはいえない。よって存在した」
これがトンデモの標準理論。みつけられなかったのなら何も言うな。 だから与那国沖合い他にいくつも沈んでるのが見つかってるだろ
上の映像>>8見てみろよ 沖縄は沈下して台湾は隆起してるそうだ
沖縄は昔は今よりもっと大きかったのかもしれない 探掘してから言えっつってんだよ
文明らしきものなど火星にだってあるわ 沖縄の海底遺跡(2)沖縄与那国島の遺跡と環太平洋地域の遺跡の関連
http://www.okinawainfo.net/iseki2.htm
http://www.okinawainfo.net/nannmata2.jpg
ナンマタール遺跡
与那国、数年前からちょっと有名になっています。
なぜかといえば、すぐそばの海底に人間が手を加えて作ったとおぼしき遺跡が発見されたからです。
また、遺跡付近のサンニヌ台と言うところにも同じような石の建造物が見られ、加工された跡が見られる事から、
これも含めた大掛かりな構造物があったと思われます。 ここだけでなく、慶良間近海、北谷近海、粟国近海などでも
人工物と思われる構造物が発見され、話題になりました。 どこも、そんなに深海ではなく、5〜20mくらいの所だそうで
同じ時期に水没したと考えられます。
有名なポナペ島のナンマタール遺跡をはじめ、太平洋の西南域にかけての古代巨石文化は、共通点の多いもの のようです。
パラオ諸島の最大の島、バベルダオブ島には、アケズと呼ばれている巨大石造テラス状の人工の丘が多数存在します。
有史以前の用途不明の遺跡で、与那国の海底遺跡と外観が良く似ています。
南太平洋にあるポナペ島には、無数の人工島と、縦横に走る運河があり、玄武岩質の石柱を組み合わせた
石造都市の遺跡があります。 一本の柱が5トンから60トンもある石柱で、どのようにして作られたかは今もって不明です。
ここの周辺の海底には遺跡は続いていて、古くからの言伝へでは、それは、神々の都であるとされています。
実際、近年になって珊瑚に覆われた街路や石門が海底から発見されてい ます。 この付近、半径2400キロ以内の
島々には、人工が5万人足らずしかなく、彼等がこれを集まって作ったと考えるのは不可能です。
ということは、ここももっと昔に海面がより低い位置にあり、陸地がもっと広くて組織的に動員できる文明があったと
考えざるおえないのではないでしょうか。 沖縄の海底遺跡(3)他の沖縄にある海底遺跡との関連
http://www.okinawainfo.net/iseki3.htm
http://www.okinawainfo.net/isekikerma1.jpg
http://www.okinawainfo.net/isekikerama2.jpg
http://www.okinawainfo.net/isekicyatan.jpg
与那国の海底遺跡のほかにも、沖縄近海では常識的に考えれば人工物だろうと思われるポイントが、いくつも発見されています。
右はケラマ諸島近海で発見された、ストーンサークル状の遺跡と言われているものの中心にある、センターサークルと
言われている物。 直径、高さ共に約3メートルもあるものです。
ここを中心にして、四方に道状のくぼみが何十メートルも伸び、その先には拝むための祠と思われるもの、鏡岩状のもの
(これで、ぴんと思い当たるものがある人はかなりの超古代史マニア. )ピラミット状の岩などがあり、道の行き先に階段状のものも。
この他にも、北谷の沖合いにもピラミット状の石造物と思われるポイントがあります。
粟国島近海にも人工物と思われるポイントが発見されているし、宮古には地上に支えになる石柱とその上に乗る大きな石とで
出来ている構造物で、飛鳥の石舞台など世界各地に点在していると同じようなドルメン(弥生時代に稲作と共に大陸から伝わって
きたとされているのが通説)が有ります。
地元ではおっぱい山といわれている所に、アガームイ、イリムイと言われている森にそれが残されているという事です。
これらは紀元前後の建造らしいと言われていますが、定かではありません。
沖縄の海底遺跡(エピローグ)他の沖縄にある海底遺跡との関連
http://www.okinawainfo.net/iseki4.htm
http://www.okinawainfo.net/iseki2005-3.jpg
http://www.okinawainfo.net/iseki2005-2.jpg 締めくくり的にまとめるなら、 この琉球弧が、2〜3千年くらい昔に今よりもっと隆起していたとしたら、
歴史が、そして地学が改められなくてはいけなくなるでしょう。
しかし、先史時代の巨石文明は世界各地に点在していて、学者たちを困らせています。
ポナペ島のナンマタール遺跡、グアムのラットストーン、そして、沖縄海底の遺跡。
きっと元は同じ文明のものだったのでは無いでしょうか。
太平洋岸に有る各島々の石造遺跡との関連性も、それらの神話の共通性と共に研究されるべき課題ではないかなーと思うのですが…。 太平洋に浮かぶ謎の島「ナンマトル」、紀元後1世紀に造られた可能性が浮上
https://switch-news.com/science/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E3%81%AB%E6%B5%AE%E3%81%8B%E3%81%B6%E8%AC%8E%E3%81%AE%E5%B3%B6%E3%80%8C%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%88%E3%83%AB%E3%80%8D%E3%80%81%E7%B4%80%E5%85%83%E5%BE%8C1%E4%B8%96/
ナンマトルの正確な建設時期がわかる記録は見つかっていない。しかし驚くべきことに研究者らは、
これまで紀元後1180年から1200年とされてきた建設時期が紀元後1世紀から2世紀まで遡る可能性があるとしている。
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ナンマトル(Nan Madol[注釈 1])は、ミクロネシア連邦のポンペイ州に残る人工島群の総称であり、後述するように、
その考古遺跡の規模はオセアニア最大とさえ言われる。人工島が築かれ始めたのは西暦500年頃からだが、
ポンペイ島全土を支配する王朝(シャウテレウル王朝)が成立した1000年頃から建設が本格化し、
盛期を迎えた1200年頃から1500年(または1600年)頃までに多数の巨石記念物が作り上げられていった。
人工島は玄武岩の枠の内側をサンゴや砂で埋めて造ったもので、100以上とされる人工島は互いに水路で隔てられており、
その景観は「太平洋のヴェニス」[3][4][5]、「南海(南洋)のヴェニス」[6][7][8]、「ミクロネシアのアンコールワット」[9]などとも呼ばれる。
人工島の上に築かれた巨石記念物群は王や祭司者の住居のほか、墓所、儀式の場、工房など様々な役割をもっており、
その大きさも様々である。巨石記念物群は数トンから数十トンにもなる玄武岩柱を積み上げたもので、
どのような技術を使ったのかは解明されていない。レラ遺跡などのミクロネシア連邦の他の遺跡、
さらには広くポリネシア等の遺跡との関連性についても研究が進められているが、明らかになっている点は限られる。 ナンマトル#竜宮城
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%88%E3%83%AB#%E7%AB%9C%E5%AE%AE%E5%9F%8E
ナンマトルは、日本の御伽噺『浦島太郎』に出てくる竜宮城のモデルとされることもある。
地元の名士マサオ・ハドレイをはじめとする古老たちは、海底に沈んだ聖なる都市カーニムェイショの伝説と、
竜宮城伝説の類似性を指摘した[199][200]。
ほかにも、近くの海底深くに巨大な石柱が眠っているという伝説や、ナンマトル近くの島の古称が「ウラノシマ」だという伝説、
北方から東洋人らしき漁師が漂着して長期滞在した伝説などもあるという[201]。
その一方、そうした類似性については、20世紀前半の日本の委任統治領だった時代に、
日本からもたらされた浦島太郎伝説がポンペイ島の伝説に混入したとも言われている[202]。
また、20世紀末以降には日本のテレビ番組でも複数回取り上げられたが、そうした番組の取材も、
地元民の伝承に影響を与えた可能性が指摘されている[203]。
なお、地元民がカーニムェイショと呼ぶ近海には、水深15 m ほどの海底に規則的に並んだ五本の柱らしき構造物が確認できる[204]。
ただし、泥土の流入や造礁サンゴ等の付着により、人工物とは断定できない状態である[204]。 ラッテ・ストーン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%86%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B3
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/43/Latte1.jpg
グアムの首都ハガニャのラッテ・ストーン公園にあるもの
ラッテ・ストーン (Latte stone) とは、グアム、サイパンなどマリアナ諸島に見られるサンゴ石でできた石柱群である。
9世紀から17世紀にかけて作られたチャモロ人の古代チャモロ文化の遺跡である。古代のマリアナ諸島の王「タガ」にちなみ、
タガ・ストーン (Taga stone) と呼ばれることもある。北マリアナ諸島の旗にも描かれている。
ラッテ・ストーン公園
http://guam-saipan.com/guam/latte.html
http://guam-saipan.com/guam/images/latte2.jpg
http://guam-saipan.com/guam/images/latte3.jpg
http://guam-saipan.com/guam/images/latte5.jpg
グアムの首都であるハガニアに位置しているラッテ・ストーンで有名な公園です。ラッテ・ストーンとはサンゴ石でできた
こけし状の石柱のことで、ここの公園には全部で8つの石柱が2列に並んで配置されています。
グアム以外にもサイパンやロタなどといったマリアナ諸島にて発見されています。
今日に至るまで様々な説が発表されてきましたが、最も有力とされているのが、何らかの建造物の土台として使われていたという説です。
高床式建物の土台として使われていたと思われる様子がインドネシアのボロブドゥール遺跡に描かれていたという裏付けがあります。
このほか、墓石や宗教施設であったなどといった説が発表されています。 ラッテストーンの謎を知ると、もっとグアムが楽しくなる!
みんなもラッテストーンを探してみよう!!
http://weekly.visitguam.jp/2011/10/post-230.html
チャモロ文化を代表する遺跡といえば、巨石「ラッテストーン(Latte Stone)」。ハガニア地区にある「ラッテストーン公園
(Latte Stone Park)」はガイドブックで必ず紹介され、多くのツーリストが訪れます。
こけしのようなユニークな形をしたラッテストーンは、9世紀から15世紀の「ラッテ期」と呼ばれる時代に数多く作られた巨石遺跡です。
元々チャモロ人は文字を持たない民族なので、ラッテストーンが何のために作られ、どのように利用されてきたのか記述は残っておらず、
今だに謎の多い不思議な遺跡です。 しかし古代チャモロ社会においては、石は生活に欠かせない必需品であり、
調理器具やフィッシング道具など様々な形に削られ利用されてきました。そしてラッテストーンは、高床式住居の土台として
使われていたというのが有力な説です。
理由の1つとしては、ラッテストーンは必ず8基や10基が長方形に並んだ形で発見されていること。
人々はその上に家を建て、暮らしていたと言われています。それを裏付けるように、1565年にメキシコからフィリピンへ向かう
スペイン船の乗組員がマリアナ諸島に立ち寄った際、当時のチャモロ人の家屋の様子を次のように書き残しています。
「彼らの家々は高く、上手に建てられ耐久性も高い。それらは地面から人ひとり分の高さの大きな石の柱の上に建てられていて、
その上に床が敷かれている・・・」
もう1つの理由は、ラッテストーンの周辺から発掘された遺跡です。古代チャモロ社会では、亡くなった家族は家の敷地内に
埋葬していました。ラッテストーン周辺からは人骨や装飾品などの埋葬品が、数多く発見されているのです。 グアムでは先祖の霊を
「タオタオモナ(TAOTAOMO' NA)」と呼び、人々から崇められています。ラッテストーンにもそのタオタオモナが宿っているとして、
今でも恐れおおく、近づこうとしない人もいるようです。 さて、初めに「チャモロ文化を代表する遺跡といえば、巨石ラッテストーン」と紹介しましたが、ラッテストーンはグアム特有の文化
ではなく、グアム島と北マリアナ諸島(サイパン島、ロタ島、テニアン島、パガン島など)の文化です。巨石遺跡は世界各国に
残されていますが、ラッテストーンが発見されたのはグアム島、サイパン島、ロタ島、テニアン島、パガン島のみ。
発見されたものの中で最も高いのはテニアン島で発見されたもので、約5mもあるそうですよ。
しかしグアムには、もっともっと大きなラッテストーンが登場しています。ガバナージョセフフローレスメモリアルパーク
(イパオビーチパーク)に建設中のラッテストーンがそれです。まだ1基しかありませんが、これから来春までに10基完成させ、
その上に住居も作る予定だそうですよ。
http://weekly.visitguam.jp/2011/10/14/lattestone002.jpg
ホテル・ニッコー・グアムの敷地内で発掘されたラッテストーン。8基きれいに並んでいるのを、ホテル入り口付近で見ることができます。
http://weekly.visitguam.jp/2011/10/14/lattestone003.jpg
ガンビーチ北側にある「グアム カルチャー&エコ パーク(Guam Culture & Eco Park)」では
500年前の古代チャモロ人の暮らしを再現しています。
http://weekly.visitguam.jp/2011/10/14/lattestone005.jpg
この週末、「第24回 グアム・ミクロネシア・アイランド・フェア(24th Guam Micronesia Island Fair)」が行われる
ガバナージョセフフローレスメモリアルパーク(イパオビーチパーク)に登場した巨大なラッテストーン。
http://weekly.visitguam.jp/2011/10/14/lattestone006.jpg
これが来春の完成イメージ。「タサ(TASA)」と呼ばれるグループにより進められているこのプロジェクト。 >>40
仮に一年中、あるいは数年滞在したなら食文化は詳細に把握できたろう
だが倭人伝にあっては、
伊都国以降に米食の紹介がない
以前の記述でも良田なく欲を満たせておらず、
倭人はもっぱら魚介、海藻類で食を賄っている
酒を飲んでるから米を産してるやも知れないが食用とは思われない
弥生の稲作社会ならまずその社会を形作る稲田や米食にこそ着目し穀高について記載するはずだ
ところが邪馬台国では野菜にのみ言及するに過ぎない
以前からの記載も併せれば、
漁労採集社会と見なすのが自然である
シャーマンの呪術支配も含めれば、
その姿は弥生より縄文の方が近い
であるのになぜその位置を推定しようと吉野ヶ里だの大和の弥生稲作遺跡にその解を求めるのだろうか?
むしろ稲作北限界を超えた先の東北青森のイタコ文化にでも着目するべきではなかろうか? 稲栽培の記述はあるが、
それはカラムシ、養蚕の並びであって、
稲藁の繊維取得が主目的と考えられる
死者が出ると服する期間肉を避ける
牛馬羊はいないとされ、猿とキジあり肉食への言及があるゆえ、ウサギ肉などか
食器に関しては竹で編んだり木をくり貫いた物で土器が出て来ない
刺青文化は狩猟民に対獣の威嚇偽装目的だろうし、
弥生社会を思わせるものは認めがたい 入墨は太平洋海洋文化の典型だものね。朝鮮や北方からの文化ではあきらかにない 年中生野菜を食するとする
本来、コメもまた野菜だ
コメは煮るか蒸さないと食べられない
コメを食べる習慣があるなら野菜も煮るはずだ
その方が食材が増えるからである
例えば芋類が典型だ
そして土器の記述がなく木器や編み器の使用が確認できる
これらはそれ単独では蒸し物料理も無理で火力料理には適さない
一方で魚介食や肉食である事実がある
魚介は生が可能だとしても、獣肉は無理だろう
魚や肉は串刺しにして炉端にしたり、火の上に渡して焼いて食べていたのではないかと推測できる
つまりコメや野菜を煮るための道具の存在が証明されていない
温暖ゆえに年中多彩収穫が可能で、保存の必要性が無かったため、
道具の革新と発展がなかったのではないか?
それは海南島との間に使用道具の差違がないとの記述に対応していると思われる
こうした実情は、この社会が決して弥生のそれではないことを示している
弥生の稲作文化は道具を伴ってこそ普及し発展するものである 沖縄には古代稲作の痕跡が認められない
邪馬台国の周辺が豊穣な米作社会であるなら、中心部たるところが米作でないはずもないが、
魏志倭人伝では、壱岐や対馬における稲作が紹介されてるが、食文化の主たる扱いにはなってないのだから、
邪馬台国もまた同様であったと考えることは可能だ
沖縄は米作は可能だが、盛んではなく、水源と地形に原因があるようだ
その事実は、倭人伝が邪馬台国における米作を無視し去っていることの理由にもなる
確かに「難升米」の表記に「米」が使用されているが、邪馬台国では飲酒文化が盛んだったため、
酒造上の、従って宗教上の重要性があったことが反映されたにすぎないと説明できる 一方で、「有無する所は儋耳・朱崖(海南島)と同じ」
ここで海南島では歴史的に米作は行われてきたのかということが問題になってくる
どうも海南島の先住民が百越に由来するリー族で、今日にも米・粥、竹筒飯が伝統食となってるのだから、
邪馬台国でも米を作ってたろうとなってくる
沖縄の稲作文化
https://kazu0103.ti-da.net/e3917983.html
沖縄、稲作ルーツ巡り
https://komenana.com/%E6%B2%96%E7%B8%84-%E7%A8%B2%E4%BD%9C%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%84/
沖縄の稲作の歴史は、玉城の受水・走水が発祥の地とされているのですが、
弥生時代の稲作の遺構は確認されていないそうです。
中国の古文書には、『伊平屋は米を産する最も佳なり』とあり、
8世紀には既に米を生産していたようです。。
現代沖縄の米農家事情
http://hougen.sa●kura.ne.jp/hidaka/okinawa/2007/2_08.pdf
沖縄で稲作が盛んでない理由は
なぜでしょうか。1日中温暖であるのにと個人的には思います。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7316598.html
No.8ベストアンサー
沖縄の農家の方に伺ったことがありますが、No.7の方のお答えの通りでした。県産米として売ってますが、美味しいとは聞かないです。
また、水田にできるような場所が限定されることも理由だと思います。隆起サンゴ礁の台地では水が得にくいというか
地下に浸透してしまうため、数少ない川の下流域くらいしか適地がないと思いますね。与那国には川があるので水田ありました。
ある程度高い山がある島には川もあり水田がある。テーブル状の地形の島は水が得にくく水田がない。
特に夏は台風が来なければ雨が降らないので、稲作向きの気候や地形ではないのでしょうね。
沖縄(おきなわ)のお米の生産量(せいさんりょう)は、なぜ少ないのですか。:農林水産省
http://www.maff.go.jp/j/heya/kodomo_sodan/0205/04.html
3.かんばつ(長い間雨がふらないこと)がひんぱんにあり、大きい川もないため、水不足になりやすく
多くの水を必要とする稲作(いなさく)がやりにくかった。 食文化自体は後年になって漢族が分割統治目的で入植させた苗族の影響を受けた可能性はあろうが、
ルーツが長江流域民の百越なのだから元からの米食民だと考えざるを得ない
邪馬台国とは文身(入れ墨)やシャマニズムなどの文化宗教上の共通点が多く、同じ母系氏族社会である
海南島
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%8D%97%E5%B3%B6
古来から黎族(リー族)、苗族(ミャオ族)、壮族(チワン族)など少数民族が住む。
北部が温帯気候、南部が熱帯気候に属する。
海南島は降水量に十分恵まれている。年降水量は1,500ミリ・メートル以上、東部では2,000 - 2,800ミリ・メートルに達するので、
水稲・さとうきび・落花生などの栽培に適し、水稲は1年3作である。
海南島の歴史
http://vrai2.blog.f●c2.com/bl●og-entry-759.html
元々は黎族や苗族の島だった。では黎族の起源はというと越族。
これは揚子江(長江)以南、ベトナムあたりの広大な地域に住んでいた民族だ。
その起源をさらにたどると浙江省の海岸部に住んでいた民族らしく、
浙江省といえば上海の南側。これが漢民族に圧迫されて南へ、南へと移動し
ついには海南島に閉じ込められた。中国の黎族の90%がここに住むと言う。
中国史を見ると越という国が登場するが、祖先は、この越を構成していた民族らしい。
ただ、越の名前だけが民族名として残っているが、百越として長江南岸を
長く支配していた。その流れの呉や楚も同系列の民族。
始皇帝を滅ぼした漢の劉邦と楚の項羽だが、最後に劉邦が項羽を破り漢をたて、漢民族が拡大した。
これが逆だったら、中国の歴史は大きく違ったものになってた。
その後も、三国志では江南には同じ民族の呉王朝がたっていて、決して少数民族出などなかったはずだ。
ベトナムあたりが核心的利益は譲れないと、長江南岸までの領有権を主張したら良い。
越民族の今は1億1000万人、ほぼ日本の人口程度。
占領政策があったにせよ、いかに漢民族が繁殖力の強い民族かがわかる。 リー族
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%BC%E6%97%8F
黎族(リー族)は中国の少数民族のひとつ。その約90%以上が海南島に住む。
歴史
百越の分枝駱越(中国語版)が秦・漢以前の時代に移住したことに始まるという。同じく駱越に起源を持つ民族に水族がある。
信仰・文化
「鬼神」と呼ばれる精霊的存在へのアニミズム信仰を持ち、旧暦3月3日「三月三」と呼ばれる豊穣を祈る祭礼を行う。
粥など米類を主食とするが、特色のある料理として、竹筒に米を入れて作る竹筒飯などがある。
海南島の歴史
http://www.kainantou.com/history.php
国家としての記録は、秦の始皇帝時代に秦の統治下にあったことが明らかになっています。
流刑地、役人の左遷の地として利用されていました。
また、日本に渡航しようとした鑑真が流れ着いたことも有名です。
三国時代には呉に属し、これが海南島内の歴史として最も古い記述となります。
漢民族が軍事侵略した当時、原住民のリ族がすでに海南島に居住していたことが明らかになっています。
このリ族は今日の海南島には70万人の人口を持ち、海南島内の最大の少数民族となっています。
その後、中国の歴代王朝の支配を受けながら発展していきます。
16世紀から17世紀にかけて
おもに福建省から多くの漢民族が移民し、リ族は山岳部へと追いやられることになりました。
その後、18世紀に入り圧政を受けていたリ族は、漢民族に対して反乱をおこします。
ところが漢族はこれに対抗させるために傭兵としてミャオ族を本土から連れて来て戦わせました。 歴史-海南島の基本情報-??海南
http://jp.explorehainan.com/jp/realize/lishi.shtml
5000年以上前の新石器時代、長江以南で生活していた百越人の一支族、駱越人が、丸木舟や竹の筏に乗り始めて
無人の海南島に上陸し、母系氏族社会を作りあげました。これが黎(リー)族の祖先であり、当然海南島で最も早く
生活した人々ということになります。
2000年以上前に秦の始皇帝が中国を統一した後、海南島は国境として広西象郡の管轄下に置かれました。
この後の厳しい歳月において、中央政府の海南島管理体制はしばしば変化し、制度を設立して官員を派遣して管理したり、
大陸の郡県に隷属させて辺境に置いたり、「リー族」の?首に父系氏族社会方式での統治を委任したりしました。
海南島の漁民たちは、1000年以上前に南海諸島に居住し始めました。
海南島の歴史と先住民
http://yazumichio.blog.f●c2.com/bl●og-entry-780.html
晋の武帝の時(280年)、珠崖郡は、大陸の合浦州(現広西省)に合併される。南朝宋の文帝の時(431年)、珠崖は、
珠崖郡となり広東省徐聞県(海南島へ伸びた合浦郡の雷州半島)の統治となる。 梁の武帝の時(535〜546年)、
廃された?耳の場所に崖州が設置される。明の始め、イスラム商人がこの島にやってきて回族となり、
同じころ黎(リー)族の反乱を鎮圧するため、広東から苗族が兵として海南島に駐留、そのまま住みついた。
現在の海南島には、黎族(リー族)、苗族(ミャオ族)、壮族(チワン族)、回族などの少数民族が住む。
海南島の歴史と先住民(2)
http://yazumichio.blog.f●c2.com/bl●og-entry-781.html
リー族の言語は、シナ・チベット語族に分類されている。彼らには入れ墨の習慣がある。先祖とされる古代の「百越」の人々も
鯨面・文身をしていた。魏誌倭人伝に書かれた倭人と同じ習慣である。女性は十代前半から入れ墨を始め、
完成すると結婚できる習慣があった。リー族には紀元前の春秋時代から機織りを行っていた記録があり、
早くから木綿生産を始めた人々とされている。主食は米、サツマイモ、トウモロコシ。漁業や家畜の飼育、野生植物の
採取も行っていた。宗教は先祖崇拝や自然界の精霊信仰であった。 ただし道具の共通点>113というのは、
「種禾稻紵麻 蠶桑 緝績出細紵?緜 其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與?耳朱崖同」
あくまで兵器や狩猟道具の共通点であって、耕作や炊事道具の共通点を語ってはいない
また、「難升米」で”米”字を使ってはいるが>112、
難升米は中国から送られ邪馬台国に帰属していた漢族だとの説もある
難升米は漢族
http://www.lun.ac/history/wa-3c/nanshoumei.php
それに、同時に派遣されてた「都市牛利」には”牛”が使われてるが、
上記引用した通り、邪馬台国には牛はいない。
こうしたことから、
魏志倭人伝に紹介された倭国とは、
米作は行われているがさほど盛んではなく、
むしろ海洋漁労民としての性格こそがその主たる特徴であるという認識に重心が置かれており、
その理由は、本来的な倭国の中心部である北部九州から畿内までは扱われず、
倭国中心部は回避されて、その周辺部の島嶼を巡った様子を紹介してるのに過ぎないためだと考えられる 百越
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E8%B6%8A
百越(ひゃくえつ)または越族(えつぞく)は、古代中国大陸の南方、主に江南と呼ばれる長江以南から現在のベトナム北部にいたる
広大な地域に住んでいた、越諸族の総称。越、越人、粤(えつ)とも呼ぶ。日本の明治から昭和期には、かつて中国南部から
ベトナムにかけて存在した南越国から南越族とも表記された。
文化面では、稲作、断髪、黥面(入墨)など、百越と倭人の類似点が中国の歴史書に見受けられる。現代の中国では廃れた
なれずし(熟鮓)は、百越の間にも存在しており、古い時代に長江下流域から日本に伝播したと考えられている[2]。
『魏志倭人伝』について考える(28)
http://yazumichio.blog.f●c2.com/bl●og-entry-789.html
越の国が滅ぼされてできた百越の民と同様の目にあった倭人は、中国南方や東南アジアの各地もしくは半島や列島に
移動し(逃げ)たのであろう。そのような従順な民族に対して、中国の中原を制覇した周・秦・漢など大国の人々は
「倭」という漢字を用いたのかもしれない。鳥越憲三郎氏の説では「日本列島に稲作をもたらした弥生人が『倭人』で、
その『倭』の古音は『ヲ=wo』で、『越』と倭人の『倭』とは、ともに上古音で『wo』といい、越人も同じく断髪・文身あった。
古代豪族 越智氏は『オチ』と発音される。越(wo)の発音が日本に伝わっている。」 長江文明を引き継ぐ越族(=百越)
http://yazumichio.blog.f●c2.com/bl●og-entry-794.html
百越は大きく分けて、楚系(中流域)、越系・呉系(下流域)、巴蜀(上流域)になる。さらに、広い意味での越人は、
雲南省の少数民族、ベトナム、ラオス、カンボジア、タイヤミャンマーの北部、台湾や海南島の先住民も、長江流域から
台湾に逃げ込んだものと考えられている。もちろん、越人の中には、長江流域にとどまり、漢民族と同化した人たちも多い。
今では、中国少数民族といわれる独自の文化を維持する人たちを除けば、漢族と同化したと考えられている。
周代の春秋時代には、楚、呉、越の国を構成する。秦の始皇帝の中国統一で、秦帝国の支配下に置かれた。
漢代になると、混乱のどさくさに紛れて、秦の将軍であった「趙佗」が南越国を建て、約90年後に漢の武帝に滅ぼされる。
中国の?江(福建省)周辺の?越王「無諸」が秦に対して反乱を起こし、後に劉邦に属した。漢は無諸を?越王に封じ、
東冶がその都となった。
漢の勢いが衰え、北方からの異民族に圧迫されるようになった漢族は、徐々に南下した。この時、越人は漢族と混じる人々と、
同化できずに内陸の高地、海岸から避難する人々に分かれた。呉越戦争や秦の統一の戦いで逃げ出した人の一部が、
直接あるいは間接的に日本列島に渡来した。この人たちが弥生人であり、倭人である。
広い意味の習俗において、稲作、住居、断髪、鯨面(入墨)など、倭人は越人の一部であることは、ほぼ間違いないであろう。
現代の漢族には残らなかった熟鮓(なれずし)や納豆は、越族の末裔といわれる雲南の少数民族に残る。
長江から直接あるいは中国沿岸や韓半島を経由して、弥生時代に日本に渡ってきたと考えられる。 長江文明を引き継ぐ越族(2)
http://yazumichio.blog.f●c2.com/bl●og-entry-854.html 長江文明は始めから稲作が中心であり、畑作中心の黄河文明との違いからどちらの農耕も独自の経緯で発展したものと見られる。
長江文明の発見から稲(ジャポニカ米)の原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。
日本の稲作もここが源流と見られる。
中流域の屈家嶺文化(紀元前3000年? - 紀元前2500年?)・下流域の良渚文化(りょうしょぶんか、紀元前3300年? - 紀元前2200年?)
の時代を最盛期として、後は衰退し、中流域では黄河流域の二里頭文化が移植されている。黄河流域の人々により征服された結果
と考えられ、黄帝と神農や蚩尤の対立などの伝説は、黄河文明と長江文明の勢力争いに元があると考えられる。
河姆渡遺跡からは玉で作られた玉器や漆器などが発見されており、また呉城文化(紀元前1400年? - 紀元前1000年?)からは
磁器が発見されている。中国文化の重要な一翼を担うこれらの文物の源流がここから出たのではないかとする説もある。
これらが後の楚・呉・越に繋がったと考えられるが、どのような流れをたどって繋がるのかは未だ解らない。 弥生人が百越の子孫だとしても、
琉球人は縄文人の子孫だし、九州南部から南西諸島民はいずれも百越とは関係がない
もちろん台湾先住民もポリネシア民も、フィリピンなど東南アジアの一部民も
これらはオーストロネシア語族であって、百越ではない
つまりは邪馬台国に示された文化習俗の特徴は>>117、
種族のルーツではなく、地理的地政上の共通点や文化交流の結果として生じているはずである
台湾原住民
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%8E%9F%E4%BD%8F%E6%B0%91
台湾原住民族の言語
オーストロネシア語族(マレー・ポリネシア語族)に属する諸言語を話している。
このことから、台湾原住民族はもともとインドネシア・フィリピン方面から渡ってきた民族であろうとする説もあるが、
台湾原住民諸語がオーストロネシア語族の祖形を保持しており、考古学的にも新石器文化は
台湾からフィリピン、インドネシア方面へ拡大しているため、オーストロネシア語族は台湾から南下し、
太平洋各地に拡散したとする説が有力である。
台湾原住民族の風習
台湾原住民族にとって、入れ墨は通過儀礼の一つである。顔面や体に入れ墨を彫ることにより、大人社会への仲間入りを認められる。 >>117 追加
他の官名に「伊支馬」「弥馬升」「弥馬獲支」
だが邪馬台国に”馬”はいない コピペ貼りまくったらかえって読んでもらえなくなるよ。
掲示板というものの性質をちゃんと理解して投稿してくれ。 >>124
>だが邪馬台国に”馬”はいない
それ、大陸側の当て字の表音文字だから、馬がいるかどうかとは関係がない >>126
124のレスは、「難升米」の”米”は稲作の”米”論への反論 >>123
つまりね、じゃあまとめよう
魏志倭人伝の記述を分析してゆくと、壱岐や対馬で耕作はしている
田を耕してる。だが耕すのは畑であって稲田ではないのでは?とは思うが、
稲田だとしてもいいだろう。だが、それでは食うに足りずに倭人は海産物を食べてるのだとしてる
邪馬台国も同様だ
そこには一言も米を食ってるとは書いてない
稲田の存在への言及は、衣料などの原料目的で栽培してることと、
酒造(の原料)により間接的に言及してるのみで、食料はあくまで魚介と生野菜と肉とのみだ
もし弥生時代の倭国を訪問してその社会的特質を記すならば、
真っ先に米作に触れるはずなのにそうではないことから、
その社会は倭国の中心ではなく周辺部だとみなされる
このことは、邪馬台国を、米作に適してるようで適してない沖縄に定めることに有利な事実だと言える
そして類似性を指摘するのに持ち出した海南島民は、
そのルーツが百越ならば、
当時の海南島は米作社会だったろう
であるならなにより耕作炊事道具の共通点が指摘されるはずだが、
一致してるとしたのはあくまで戦闘・狩猟用道具である
邪馬台国の入れ墨の起源は漁労にあったと記述されている
「今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み、文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。後、稍(しだい)に以って飾と為る。」
入れ墨文化は百越、台湾、邪馬台国、ポリネシアと拡がっている
入れ墨の共通点は、民族の壁を通り越して、南方の太平洋文化の特質となっている
沖縄の邪馬台国の果てに侏儒国、裸国、黒歯国と言った記述は、
そうした広汎な海洋文明間の交流に由来した情報だと推測できる >>127
>124のレスは、「難升米」の”米”は稲作の”米”論への反論
どういう理解だ?
「難升米」の”米”しかない、というのは、
魏志倭人伝に米を食べているという直接の記述はないという意味だぞ 仮に邪馬台国が沖縄だとして、
どのようにして酒を造ったのか、
米を炊く蒸すところからだが、道具がない
だが>>111で青森亀ケ岡式縄文土器が発掘されている
縄文文化圏の超遠距離海上交易によるものだろう
それ以来続く交易ルートから炊飯道具を入手したのではなかろうか?
縄文よりは進んだ集権社会だが、弥生のような耕作社会よりは狩猟採集社会に近い、
関連項目として入れ墨やお歯黒などが出てくるのなら、
邪馬台国はいわゆる「照葉樹林文化」という別個のカテゴリーの観点から分析されるべきではなかろうか? >>129
直接の記述はないが、高位の者に”米”と付けてるからには米作りしてる社会のはずだとの論理が成り立つが、
牛や馬など存在しないものの文字を使ってるのはなんでか、
よって米と書いてても米作りしてたとは言えないと反論したんだよ 海南島民は百越だから米を作ってたろう
弥生人は百越なんだから米作ってて当然なのに、
邪馬台国民は必ずしも米を作ってない
これは邪馬台国民が百越弥生系ではないからだ
文身などの南方海洋民特有性を持ちながらも種族を異にしている >>131
>高位の者に”米”と付けてるからには米作りしてる社会のはずだ
おい、倭人は漢字を知らないし、自分の名前を漢字で付けたりしないぞ
大陸側の当て字の表音文字だから、米を食べてたかどうかとは関係がない >>133
中国はそうやって何かとその特徴と関連付けた当て字をあえてすることが多いだろ >>135
東〔魚是〕(テイ)人@ー倭国と東〔魚是〕国
https://35546864.at.webry.info/201105/article_4.html
「東〔魚是〕人」(東?人)の〔魚是〕の文字です。
*是→「ティ」、と読むときは、「ふち」「さかい」「はし」という意味につかいます。
つまり、「一番端っこ」というときに使われる文字ということになります。
そこで、「東是人」となれば、“東の一番端っこの民族”という意味となります。・・が、この場合は違います。
「是」の文字にサカナ(魚)偏が付いているのです。
このナゾを古田氏は解いたのです。それは・・・、「高句麗」の中の「麗」の文字についてです。
三世紀「魏志」の中では全て、この「麗」の文字を使っています。
ところが、宋の時代となると違ってくるのです。
「高句麗」の「麗」の文字が、五世紀の『宋書』の中では「驪」と、馬偏の付いた文字に変化して使われているのです。
これには、歴史的な由来があるのです。
(元嘉十六年〔439〕)太祖、北闘せんと欲し、lに詔して馬を送らしむ。l、馬八百匹を献ず。・・・・・・・・・・・(『宋書』高句驪伝)
〔注、「l」は、高句麗王(長寿王)の次の王の名です〕
つまり、「l」王のとき、馬が特産物として宋王朝に献上されたことを述べているのであり、その特産物の馬に因んで、
「高句麗」の「麗」の字に馬偏を付けて、書類上の記載時には「高句驪」という名の国名に取り替えて使っていたのです。
・・・・・古田氏は、ここからヒントを得たのです・・・・・。「是」に「魚」偏を付けて〔魚是〕という文字の創出へ・・・、と。
つまり、「漢」の時代から、この特産物に因んだ名前の付け方に由来していた・・・、のだ!・・・、と。
「東〔魚是〕人」の意味とは・・・、
““列島に住む「倭人」の隣の一番東の端っこに住む、魚を献上してきた民族””に対して、「東〔魚是〕人」と名付けていた、ということです。
東〔魚是〕人Aー鯷〔魚是〕(テイ)と銅鐸
https://35546864.at.webry.info/201106/article_1.html
金印の「倭人」と銅鐸の東魚是*(とうてい)人」
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku13/yamaic33.html >>122 >>132
台湾先住民には入れ墨文化があるが、彼らは山岳民族で米は作らない
入れ墨をしてるタイヤル族というのは首狩り族で山岳地域の焼き畑狩猟民
一番多いアミ族は米を作る一方で漁業や畜産も。母系氏族だが入れ墨の習慣はないようだ。
台湾の原住民族 - 台北駐大阪経済文化弁事処
https://www.roc-taiwan.org/jposa_ja/post/169.html
2018年4月17日
台湾 先住民の入れ墨文化「紋面」消滅へ 映像などで保存
https://mainichi.jp/articles/20180418/k00/00m/030/081000c
> 【苗栗(台湾北部)福岡静哉】台湾で、先住民族が成人の証しに顔に入れ墨を施す無形文化遺産「紋面」の保持者が
> 90代の2人だけとなり、消滅の危機にひんしている。
>
> 行政院によると、紋面は台湾北部のタイヤル族、セデック族などが受け継いできた伝統。男性は狩猟、女性は… なお、アミ族が米を作るようになったのはいつからなのかは不明だ 魏志倭人伝は女王の名に卑の文字をあてつけて用い、
国名には邪の文字を押し付けている
だがそこには牛も馬もいないとし、米にも言及がないのに、
なぜ国名や人名にはあえて牛や馬や米の文字を使用しているのだろうか? 縄文人というのはアイヌ人と共通祖先をもつ北方系種族とように思われて、
アイヌ人はあくまで縄文系が北方のオホーツク民と混血した者なのであって、
やはり縄文人は南方に出自し、マレーシアなどの南方系種族ということになってきてる
であれば、縄文系の沖縄民が太平洋海洋文明的特質を持ってるのは当然で、
それは倭人伝の邪馬台国の記述に示された特徴にも通じている
2011/12/05
【人類】アイヌ・沖縄同系論 研究進む祖先の歩み
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1323033748/
2012/10/31
【社会】日本列島に住むヒトの集団の中では、北海道のアイヌは本土日本人よりも琉球人と近縁性が高い
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/ne●wsplus/1351688582/
2014/09/18
【国内】沖縄人ルーツ「日本由来」 南方系説を否定 ★2
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/ne●wsplus/1410968500/
2018/07/13
【人類学】縄文人、ラオス・マレーシアにルーツ? ゲノム配列解読[07/11]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1531460749/256,260,272 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています