肥国が筑後を明け渡した時点で
全力の殲滅戦争ではなく
国を残しての従属関係を選んだのでは
ないでしょうか?

さらに戦争を続けるとなると
肥後国の本部である熊本市あたりまでは
まだまだ先のことですから
兵站補給や長期間の戦争は難しかった
のだと思います。

むしろ従属させることで
肥前、肥後の豊富な生産力を
加えることができ
これが、豊前から日向大隅などを
攻める補給源になったのだと思います。

熊襲攻めのあとに、兵力を連れて
肥後各地を巡幸しているのは
肥後が完全に筑紫の支配下になったのではなく
支配層を残しての従属ですので
兵力を見せつけることで
反乱する気をなくさせるためじゃないでしょうか?