邪馬台国の倭人は鉄器使用
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倭人は朝鮮半島投馬国経由で鉄を採取 【三国志東夷伝韓条】
3世紀に鉄器を使っているのは「当たり前」
倭人伝に書かれた【鉄鏃】なんて
時代劇の武将ヨロシク、自宅の庭で試射しまくってたわけで
リサイクル回収なんてしないw
あれ?3世紀の遺跡から鉄器ゼロ?
マジくそん???www 邪馬台国は伊都を首都とする北部九州国家
熊本など南部九州の狗奴国と戦っていた
東に渡海して日本海沿岸の倭種国家
壱岐対馬〜朝鮮半島南部投馬国
日本海沿岸倭種(青玉=翡翠)
などを伊都一大率が監視支配
鉄器ゼロとか倭人じゃねー 黒歯国=河内(最古お歯黒出土)
朱儒国=阿波(国産朱)
裸国出身の生口が、生口島経由で船行一年かけて北部九州邪馬台国へ
→そこから魏へ献上された
→人生の晩年に洛陽にて陳寿と面会 吉備狗奴国物部さんは東に拡大し近江の鰐さんと結婚し三輪王朝とあいなった(解決 住吉は一大率だよ。
伊都から壱岐、奴国、東方倭種、を監視している。 ワニもカモもムナカタも
なんで河内にはいないの?
住吉だけ 北部九州倭国邪馬台国はわかった。
瀬戸内海からの河内ではなく、
日本海琵琶湖からの大和に、後のヤマト政権主要メンバーが集結していく考古学的理由が知りたい。
海上治安?
単に日本海ルートが先行開発されていたから?
けど紀伊とか早くから開発されていたよね。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 末端の集落にも鉄器ゴロゴロ
リサイクルシステムとか関係ないよねwww >>18
弥生期の特徴の一つに人口増加があります
農耕の発展安定と共に人口が増加する当たり前のことですが顕著な地域
たとえば美濃近江吉備等は農地拡大の限界農閑期の労働など問題も出てきます
一方で奈良盆地などは奈良湖跡の湿地であり度重なる水害等で過疎化していく集落もあります
2,3世紀河内辺りは河内湖が汽水から淡水湖に移行する時期で農耕を始めるのは数世紀またなければなりません
余剰の労働力を持つ東海や瀬戸内の勢力が奈良盆地に目をつけるのは自然な事なのですが
未開の湿地を干拓、開墾、灌漑するのは半端じゃありません
争って土地を手に入れるより共同で開発した方がお互いにwinwinの関係を築けます
地元の集落も抵抗するより土地を提供した方が得だと納得したでしょう
大規模な振興開発に必要なものに資材置き場、倉庫、現場事務所等があります
纏向に巨大な建物群が突如あらわれ消えていったのには理由があったのでしょう
工事の始まり農耕の始まりには祭祀を行う事もあったでしょう
開発も落ち着くと余った労働力と残土,産廃が残ります
ちょうど古墳時代の始まりがこの時期になります >>26sage
それは、「忌部一族の奈良盆地開拓史」ですね。 @阿波 >>26
そこらのお話しやったら奴隷制無しには語れんな
古代農業事情やね?マックスなんたら >>26
>未開の湿地を干拓、開墾、灌漑するのは半端じゃありません
これが間違い
弥生時代始めには、奈良盆地は既に陸地だよ
「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」寺澤薫(2016)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf 奈良盆地は京都や大阪、兵庫と比べても
住居跡が少ないから、
低湿地で開拓が遅れていた地域なんだね。
そういう土地は水路を掘り
土砂を嵩上げして農地にするんだよ。 >>31
まあ陸地は陸地なんだけどね
どんな陸かが問題でね
↓のは良く出る図だけど
http://ikomashinwa.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2015/08/01/53narakojpg53.jpg
縄文期の遺跡が注目でさ
周辺の数m高いとこに多いでしょ
盆地の中ほどは竪穴式には無理だったんだよ
まあそういう土地だったって事でしょ
>>26も奈良湖跡の湿地って書いてあるでしょ
掘ってる人には分かると思うけどちょっと掘ると水が出るってあの辺のあるあるじゃない 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>32、>>33
「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」寺澤薫(2016)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
はちゃんと読んだのかい?
弥生時代の一番初めの頃から、奈良盆地の一番低いあたりで集落遺跡があるよ
集落遺跡として記録されてるのが200以上ある
住居が少ないというのも、奈良湖があって人が住めないというのも
はっきりと間違いだと言える >>35
>弥生時代の一番初めの頃から、奈良盆地の一番低いあたりで集落遺跡があるよ
>集落遺跡として記録されてるのが200以上ある
で、弥生時代後期末の、一押し集落遺跡はどれ? @阿波 >「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」寺澤薫(2016) <
ざっと読んだ
寺澤君は庄内0での奈良盆地権力の外的要因再編なんたらは指摘してはるが肝心要の布留0大変革は無関心やな
まあ彼も美味いもん食べてよく考えたらええな?
つうかしょうもない話で論文ひっぱったるな(奈良は湖やったんか? 国土地理院
奈良盆地周辺の地形の変遷
縄文期(約6000年前)
「奈良盆地の中は、幾つもの川が大和川の谷に流れており、合流付近は、河川が氾濫したり湿地になったりする場所で、
排水の悪い場所は沼地や盆地湖になっていました。」
奈良期(約1300年前)
「奈良盆地においても同様に、沼地や盆地湖が消えかかり、氾濫原に変わってきています。」
http://files02.up.seesaa.net/image/5E4B887E588861E99B86E68890E59BB3E3808CE5A588E889AFE3808DE5A588E889AFE79B86E59CB0E591A8E8BEBAE381AEE59CB0E5BDA2E381AEE5A489E981B7EFBC88E59BBDE59C9FE59CB0E79086E999A2EFBC8F2010EFBC89narako28tiriin29.pdf
奈良湖推定図
ttp://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/1a/e080e77ea19c21ed40a5f43e9b34ad6e.jpg >>35
奈良盆地の周辺の少し標高の上がった場所は大概扇状地で稲作には向かないんだよ
弥生期に入って水稲を耕作するようになれば湿地に足を踏み入れるのは当然で
殊更に強調する事でもあるまい
ただ湖沼跡の湿地は大変なの>>32の人も書いてるけどまず排水、それからかさ上げ
それでも集落ごとの開拓には限界があるんだよね
集落の遺跡も出てくるけど水害の痕跡も出てくるでしょ
奈良から覇権を持つほどの大きな勢力が出来上がったのか外部の大きな勢力が奈良を開拓したのか
纏向辺りが転換期だとすれば どっちなんだろうね >>39
>外部の大きな勢力が奈良を開拓したのか
その「外部の大きな勢力」とは、「忌部一族」。 後にも先にも「忌部一族」以外に存在しない。 @阿波 >>39
>奈良から覇権を持つほどの大きな勢力
>>35にあげられた論文にも書いてあるけれど、
奈良盆地は河内南部勢力が拡大していった地域
畿内第V様式土器を共通に使う、「大和+河内〜環大阪湾の地域」で一つの勢力圏とみなしていい
そう考えると、弥生時代最大規模の製鉄遺跡、淡路島の五斗長垣内遺跡もその勢力圏の内部になる >>41
>奈良盆地は河内南部勢力が拡大していった地域
奈良盆地は「忌部はん」達が最も遅く開拓に入った地域。
>畿内第V様式土器を共通に使う、「大和+河内〜環大阪湾の地域」で一つの勢力圏とみなしていい
>そう考えると、弥生時代最大規模の製鉄遺跡、淡路島の五斗長垣内遺跡もその勢力圏の内部になる
その「淡路島の五斗長垣内遺跡」もその勢力圏、倭国(阿波)の内部になる。 @阿波 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 しらふのうちにおじいちゃんらにレクチャーよ(鼻ほじ
近畿V域いうんが政治ネットワークだとしてもそこの銅鐸祭祀が吉備祭祀に駆逐されるなあ?
これがまず庄内0異変な?淡路島も込みよ
この時期以降畿内への鉄供給が制限されるのは吉備が卑弥呼さんと不仲だったからよ?
吉備が狗奴国やで(マジレス
次に畿内とくに纒向に鉄供給されるのが卑弥呼さん亡くなったあとや
多分吉備が近江若狭と同盟したんやろなあ(遠い目 >>44
>吉備が狗奴国やで(マジレス
吉備忌部が狗奴国? そんなアホな。 @阿波 2世紀後半に吉備が畿内併合して日本の国【=狗奴】 の礎を築いたのな
葛城や神武さんはようわからん?? おじいちゃんらに小学五六年生程度の理解力あったらレクチャー進めるんやが?(マティス国防長官風 海峡交易牛耳てはった卑弥呼さんも死期近づいては求心力低下するやろ?
細々と鉄分けてもらってた吉備や若狭近江が人口勝負で発言力増したに1000000勾玉 >>46
その辺が纏向の面白いとこだよね
搬入土器なんかは東海近江が多いのに弧帯文、特殊器台・壺とかの祭祀関係は吉備由来なんだよね
主従とか単純ではないんだろうが開発組織の上部に吉備が係ってたのは想像できる
神武がどこのどんな人かはともかく8年住んでた吉備から来たってのは興味深い >>50
>搬入土器なんかは東海近江が多いのに弧帯文、特殊器台・壺とかの祭祀関係は吉備由来なんだよね
>主従とか単純ではないんだろうが開発組織の上部に吉備が係ってたのは想像できる
吉備は吉備忌部の開拓地。「弧帯文、特殊器台・壺とかの祭祀関係」も倭国(阿波)からの流れ。
楯築繋がりとして
阿波では41遺跡、43口の銅鐸が知られる有数の銅鐸出土地域だが、
銅鐸埋納と相前後して、記号や絵画とは異なる、思想を表現した「弧帯文土器(直線と曲線の組合せにより表されている)」
が矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡から出土している。 @阿波
「弧帯文土器」
http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/10iron04gaisetsu01.pdf#search=%27%E5%BC%A7%E5%B8%AF%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%27 >>50
もともと纏向あたりにいた銅鐸民が東海方面に押し出されただけで、東海から搬入されたものではない。
纏向以降で東海は独自の発展してるので、
吉備勢力に征服された、のが実態。 >>52
それらは、全部「忌部はん」の活動痕跡。 実に簡単な事。 @阿波 >>52
>もともと纏向あたりにいた銅鐸民が東海方面に押し出されただけで、東海から搬入されたものではない。
それは、時期的にはいつ頃のことなのかな?
もう、適当なウソばっかりなんだからww 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>54
よう嘘つきキナイコシ。なんで生きてるの?
嘘つきは有害だから死んでるいいぞ。 >>57
よう嘘つきキナイコシ自己紹介しなくていいぞ いつもの伊都クズ「キナイコシ」とは口調が違うけど、別のキャラ作りを始めたの? >>50
>主従とか単純ではないんだろうが開発組織の上部に吉備が係ってたのは想像できる <
まあそうなんやけど纒向で吉備が上位やったのは庄内までで布留0以降は近江若狭から日本海沿岸交易ルートの影響受けはじめてるんやなあ
鉄供給やら割竹なんたらやらもそうですけど布留土器自体が北陸始原らしいし
まあ近江の誰かさんに畿内に入っていた吉備物部?さんが泣きついたのかも
そもそも庄内期の吉備祭祀東進が近江に浸透せんかったんはここに一大勢力があったからや? >>52
>纏向以降で東海は独自の発展してるので、
>吉備勢力に征服された、のが実態。
ふーん、纒向は筑紫を出て吉備に滞在していた神武らにより占領されたのか。
じゃあ纒向はニギハヤヒ=物部氏の集落だったんだな。
記紀の記述のままだな。 >纏向以降で東海は独自の発展してる<
前方後方のこというてる?
やったら高尾山と箸墓の設計者設計図同じらしいよ(多分 ほほう。
もう纒向は物部の集落だと宣言してしまえよ。
テンプレは文字数だけ長いだけの無用の長物。 >>64
>テンプレは文字数だけ長いだけの無用の長物
それ違うスレ >>63-64
物部、物部言ってるけど、物部も含めてみんな「忌部一族」ってこと、未だに認識しとらんようだw
物部の本拠地は倭国(阿波)旧麻植郡。
その証拠:日本唯一「伊加々志神社」 @阿波 >>62日
>やったら高尾山と箸墓の設計者設計図同じらしいよ(多分
高尾山古墳は、「蛇紋岩製勾玉」から、倭国(阿波)の「忌部はん」のお墓に決定済み。 @阿波 >>67
あ、そうだった。
稲持遺跡(徳島県三好郡東みよし町稲持)は、弥生時代後期の玉作遺跡として代表的である。
斉一性の強い小型勾玉の一群が阿波地域を中心に 讃岐地域・吉備地域と西縁・伊予地域・豊前、筑前、肥前地域 に点在しており、石材・色調・形状から特定の場所で作られたと考えられる。
蛇紋岩の製作遺跡 東みよし町稲持遺跡・徳島市矢野遺跡・上板町七条経塚遺跡
原石産出地 徳島県吉野川加茂谷川水系蛇紋岩
徳島県で勾玉が出土された遺跡:稲持遺跡、矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡など。
中でも稲持遺跡(徳島県三好郡東みよし町稲持)は、弥生時代後期の玉作遺跡として代表的である。
井手上遺跡(徳島県三好市井川町西井川)(弥生時代後期終末〜古墳時代前期初頭の集落)出土の翡翠製勾玉は、
新潟県糸魚川で産出する翡翠を使用し北陸周辺で加工されたものであることがわかっている。
出土した遺物は、吉野川下流域、讃岐、吉備等の搬入土器が含まれており、
当時の交易の範囲を知る上で貴重な発見となっている。 @阿波 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 まあ三輪王朝からは近江が主役やね?物部さんの娘さん孕ませて崇神さん産ませたのも近江に10000000近江土師器 近江の影に宗像さんあり?
佳子様の直系ご先祖様もまた近江 因幡より
おうみにうつり
てんかとる
だれぞしるらむ
わにが黒幕 繋がった!
敦賀や?🐬イルカや!(あのあたりが玄関口や 神宮さんのご実家も近江やろ?
関西人の鉄は敦賀からや! >>77
伊勢神宮度会氏の直系ご先祖様は「忌部はん」なんやでぇ @阿波 卑弥呼さんが亡くなった後は輸入鉄のレート決定権は翡翠商人になったのかも? 対馬海峡海運と日本海沿岸海運のせめぎ合いが3世紀までにダブルオークションで決着したんかも >>80
>阿波は凄い(なんべんいったらええんや?
いつも唱えなはれ! @阿波 >>79
卑弥呼さんが生きてるずっと前から輸入鉄のレート決定権は倭国(阿波)商人に決まってるがな。 @阿波 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 ヨーロッパ文明史のような、 石器時代⇒青銅器時代⇒鉄器時代という推移は、
日本(倭国)では見られない
日本には、青銅器と鉄器がほぼ同時に入ってきたため、鉄器が実用に、
青銅器が祭具に、と使い分けされるようになる
土中では青銅器の方が鉄器より残りやすいので弥生時代は青銅器時代のようなイメージがあるが
青銅器だけで鉄器のない弥生文化などはない
鉄器が出ない地域があったとしても、弥生文化である以上は鉄器は存在するものと
考えてよい 例外があり、交通事情が悪い未開拓の地であった大和などが該当する。 鉄の扱う技術伝播を論じないとそんな総論はただの妄想。 日本は縄文の昔から、広域流通の交易圏を持っていた
ヒスイも黒曜石も干し貝も、特産品として遠隔地にもたらされている
内陸まで、この交易圏は届いているよ
諏訪までタケミナカタが逃げ込んだという神話は、内陸の諏訪まで
出雲からの交易路があったことを示しているし、内陸の遺跡からでも
ヒスイが出ている
鉄がもたらされて、鉄もその交易路に乗っただけ
鉄が届かない地域があるという想定がそもそも恣意的なもの 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 鉄刀で絹裁断してた卑弥呼さんが伊都に居た頃の巻向は無鉄器無文字やな? そりゃあ無人だろうさ
おもしろいこと、何も書いてねーもん 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 龍の記録を古く遡っていくと、想像上の神獣ではなく、飼うこともでき鳴き声も
記された普通の生き物として描かれていることが分かる 縄文末に渡来した渡来人、いわゆる弥生人は龍信仰を伝えなかったでしょ。
だから彼らが中国系ではないという事が簡単に分かる訳。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています