邪馬台国の倭人は鉄器使用
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倭人は朝鮮半島投馬国経由で鉄を採取 【三国志東夷伝韓条】
3世紀に鉄器を使っているのは「当たり前」
倭人伝に書かれた【鉄鏃】なんて
時代劇の武将ヨロシク、自宅の庭で試射しまくってたわけで
リサイクル回収なんてしないw
あれ?3世紀の遺跡から鉄器ゼロ?
マジくそん???www >>174
畿内に相手してもらわんと辻褄があわへんから 移動しただろ。
九州中部なら熊本とかにも製鉄遺跡はある。
瀬戸内海沿岸にもあるだろうけど、遺跡は見つかってないんじゃないか?
畿内の開拓者である三島溝杭耳を祭る本社である大山祇神社が愛媛県にあるから、間違いなく拠点の一つだったろうね。 >>175
少なくとも、大人口を抱えていた奴国の周辺は生活のための伐採だけでかなり森林は失われていただろうね。
倭国の成長に合わせて、周辺地域の資源に手を伸ばさざる得ない。 >>177
その移動を、各遺跡名と操業時期で表記してみてよ
例
○○県○○遺跡(○○式 ○世紀○四半期)
↓
○○県○○遺跡(○○式 ○世紀○四半期)
↓
○○県○○遺跡(○○式 ○世紀○四半期) 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>150
>淡路島でも近江でも、五斗長垣内遺跡と稲部遺跡が発掘されるまで、
>弥生時代の鉄はほぼ出土していなかった
>その頃は、淡路島にも近江にも鉄は少ないといわれていた
>でも、弥生時代最大級の製鉄遺跡、五斗長垣内遺跡と稲部遺跡が発掘されて、
>鉄が少ないなんてとんでもないってことが分かった
>でも、五斗長垣内遺跡と稲部遺跡以外で鉄の発掘が増えたかと言えばそんなことはない
>要するに、あったと考えるのが相当だが、実際には出土していない
出土していないんだから、鉄がない
なぜなら、鉄は朽ちやすいが、五斗長垣内遺跡と稲部遺跡でも、
同じ日本の北部九州でも鉄が出土しているのだから
これだけのことを、理解できないことにしないと、自説が維持できない説は大変だww >>184
↓の返事がまだだよ
その移動を、各遺跡名と操業時期で表記してみてよ
例
○○県○○遺跡(○○式 ○世紀○四半期)
↓
○○県○○遺跡(○○式 ○世紀○四半期)
↓
○○県○○遺跡(○○式 ○世紀○四半期) >>165
また理屈に合わないことを書いてるな
半島から鉄が来るから九州優位っていう常識
木材が貴重だから
淡路島や近江まで原料を運んで、製鉄してそれを九州まで戻すなんていう手間をかけたんだ
九州にも製鉄遺跡があるが、王族や貴族向けの高級製品だけを作っていたんだろう
九州に製鉄所なんて置きたくないから、淡路島や近江で鉄を仕上げていたってことww >>155
また捏造してるww
こっちの主張は、弥生時代の日本では「どこにでも鉄があるのが当然」だ
そして、鉄が出ないといわれていた地域で弥生時代最大規模の製鉄遺跡が見つかって、
最大量の鉄を作っていても、地元では出土量が少ないことがあることが実証されたと言っているだけ
ただ、福岡も熊本も、製鉄遺跡のある辺りは「真っ先に畿内様式土器が流入する地域」なんだよなww
いいところは、畿内と誼を通じてるんだよ
鉄を畿内で精錬してから九州へ運ぶんだから
その勢力は
畿内から労働力も運んでくるからな 江戸幕府ですら木材を必死に管理していた
五斗長垣内遺跡と稲部遺跡なんて長期稼働してたら
周囲の山々は禿げ上がって
洪水が頻発してただろうなあ
>奈良時代の石高www 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>188
九州のアホは森林の管理も出来ないらしい 鉄器を作るには
製鉄、精錬、鍛冶の行程を得なければならない。
日本国内で製鉄が確認されたのは5世紀以降。
朝鮮半島で製鉄を行い、国内に持ち込んでいる。
精錬、鍛冶遺構は北部九州ならば
弥生中期以降は至るところにある。
日本国内では製鉄遺構と言っても、
実態は鍛冶遺構であることが多い。
国内の製鉄は5世紀以降のたたら製鉄が
よく残っている。 今のところ5世紀以前の国内の製鉄遺跡で
確実なものはない。
製鉄遺跡=5世紀以降、と判断して良い。
精錬、鍛冶遺跡を製鉄遺跡と呼称して
いることがあるので注意せよ >>190
森林を保護するため、製鉄の場を各地に分散させ、日本海ルートと瀬戸内ルートで九州に運び込んだのだろう。
海が使えない大和は後進地域のままで、畿内でも摂津など大きな港が作れるところは発展したわけだね。 森林保護の最先端だったと言うわけだな
北部九州は。 >>194
九州のアホは森林の管理も出来ないらしい >>192
>製鉄遺跡=5世紀以降、と判断して良い。
>精錬、鍛冶遺跡を製鉄遺跡と呼称して
>いることがあるので注意せよ
なるほど。
_φ(・_・
倭人は朝鮮半島で製鉄した延べ板を買い込んでいたのだったね。
それも九州の森林資源に役立ったかもしれない。 >>197
九州のアホは森林の管理も出来ないらしい 鉄器出土数
奈良県 弥生前期 0 弥生前期 0 弥生中期 0 弥生中期 0 弥生後期・終末期 1 弥生後期・終末期 5
徳島県 弥生前期 0 弥生前期 0 弥生中期 3 弥生中期 0 弥生後期・終末期 28 弥生後期・終末期 0
福岡県 弥生前期 2 弥生前期 48 弥生中期 46 弥生中期 365 弥生後期・終末期 213 弥生後期・終末期 753
熊本県 弥生前期 0 弥生前期 1 弥生中期 20 弥生中期 21 弥生後期・終末期 311 弥生後期・終末期 1254
各時代が2つあるのは(前)鉄鏃と(後)その他鉄器に分けてあります。
弥生時代九州が鉄器時代だったのに対して本州は未だ石器時代 鉄鏃しかない阿波は攻め込まれた土地なのかな。
福岡と熊本の覇権争いが目立つから、これが邪馬台国と狗奴国だろうね。 >>201
まあ、奴国の周りの乱開発で早良の倭王の権威が失墜して、伊都の天孫族の王権が成立したのかもしれないし、同じことを天孫族も繰り返して、伊都を追い出されて東征して、卑弥呼の共立につながったのかもしれない。
卑弥呼に森林保護まで目が届く才能があったかは不明だが、重臣の中に伐採禁止と鍛治施設の外部への移転を進めた人物がいたのかもしれない。
必然的に邪馬台国の影響は東の瀬戸内海などに及んで行く。
それが瀬戸内ルートを確立し、古墳時代の到来の基礎となったのだろう。 >>203
九州北部の支配下に入ったことがよくわかりますね。 >>205
九州など相手にしてませんよ。
「倭国(阿波)は鉄器王国」
倭国(阿波)では遺跡発掘が少ないにも関わらず、阿波一国だけで現在、阿波各地7か所の弥生時代鉄鍛冶炉遺構がある。
こんなに集中的に鍛冶遺跡があるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波
「拝原東遺跡」・「光勝院寺内遺跡」・「矢野遺跡」・「名東遺跡」・「庄・蔵元遺跡」・「加茂宮ノ前遺跡」・「芝遺跡」 >>200
をちゃんと見ろよ。
現実から目をそらすなよ。
阿波は後進地域だぞ。 >>207
>阿波は後進地域だぞ。
現実から目をそらすなよ。 @阿波 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 景行親子の活躍がなければ宇宙戦艦ヤマトじゃなくて宇宙戦艦クナ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 北部九州倭人ありきだよ
それが周辺に傀儡国家を作りまくった >>212
単純に旧国名をつけただけ。
二番艦は武蔵、三番艦は信濃。
一番艦が筑紫とかになったかもしれないが。 帝国海軍の筑紫
1代目は巡洋艦、2代目は測量艦
冷遇されているなあ 筑紫
初の帆走設備が撤廃された船で
日清戦争以前に建造された軍艦
日清戦争、日露戦争に参加
旧国名がつけられた船では最初期の時代の船だね 大和、武蔵の名前がついたのは
第二次世界大戦直前が初めてかな。
同名の二代目として名前を使い回すことも
あるよね。 戦艦の名前は旧国名という後期のルールではないよね。
そもそも戦艦ではないし。
大和の名前は使いまわさないだろうなあ。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 信濃は結局戦艦じゃなくて、大和の同型艦だとみんな思ってないし(震え声) 信濃は結局戦艦じゃなくて、大和の同型艦だとみんな思ってないし(震え声) 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 戦艦大和も鉄でできてるけど?
まあ、広い意味では鉄器だな 鉄器が出る=倭国=邪馬台国+狗奴国
鉄器が出ない=毛人の地 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 弥生時代から引き続いて大王が入るのは方形だろが
要するに、
各大王のたびに全国で作りまくったんだよ
江戸時代の参勤交代 街道あり
古墳時代の巨大古墳 街道なし
それぞれの時代の政治の天才が同じことを考えたんだよ
>地方の国力を浪費させて反乱抑制
ぜーんぶ大王のため>方形 同意。
三雲南小路など、歴代の倭国の王墓は方形周溝墓。
そして3世紀を代表する方形周溝墓の倭国女王墓が平原遺跡となる。 だから
歴代の数をはるかに上回る数なんてのは当たり前
そりゃそうだ
全国津々浦々の主張がこぞって自らは円形に入って
方形で大王祭祀して恭順をはかったんだからな >>234
>鉄器から2−3世紀邪馬台国は福岡県で確定しました
こういうデマを飛ばすから九州説は信用をなくした >鉄器から2−3世紀邪馬台国は福岡県で確定しました
そのまんまだからな
朝鮮半島から鉄素材を入手して、
各地に鉄工所があるのはいいが、
鉄工所に弥生燃料を供給する<木材→炭>高地性集落は九州外で東征
完成品の鉄器は九州から大量出土 伊都平原遺跡の卑弥呼様 邪馬台国
高良宮神籠石の卑弥弓呼 狗奴国
この倭国二大勢力以外に有力勢力っていた? 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 伊都平原遺跡の筑紫の女王である卑弥呼様 邪馬台国
肥国王家の卑弥弓呼 狗奴国 【狗奴国】
狗奴国王の名前は卑弥弓呼といい、卑弥呼と瓜二つである。
卑弥呼とはもとより不和であるとある。
倭国大乱は倭国の王位をめぐる争いのことである。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
このことから、狗奴国と邪馬台国は近縁関係であると推察される。
卑弥呼亡き後の争いは、狗奴国が筑紫に攻め上ったものであると考えられるが、壹與の共立によりこれが収まったということは、狗奴国も納得のいく人事であったということだ。
狗奴国熊襲は邪馬台国の南、熊本の勢力であるが、実質的には肥国の王家であり、肥前河上のヨド姫であれば熊襲の姫でもあるので狗奴国の納得のいく人事であった。
また、卑弥呼が筑後山門の出身であるならば、筑後も本来は肥国の一部に筑紫が膨張して張り出した部分であるので、卑弥呼とヨド姫も同属である。
壹與を邇邇芸の妃であり志賀島の海神の娘である豊玉姫に比定しないわけは、豊玉姫では狗奴国との争いを収める立場になれないからである。
後世には肥前のヨド姫は豊玉姫に習合されてしまうが、本来は別人である。
邇邇芸と神功皇后は天津神である筑紫王家、卑弥呼と卑弥弓呼と壹與は肥国王家、綿津見神と豊玉姫は豊国王家に属している。
いずれも連合国家である倭国を構成する中心的な王国である。 熊本の鉄器は倭国乱以降
後世のものを前世紀に持ち込むのは畿内説と同じ ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>236
>そのまんまだからな
>朝鮮半島から鉄素材を入手して、
>各地に鉄工所があるのはいいが、
鉄は生活材であり、1世紀の登呂遺跡でも当然に鉄器使用と考えられている
でも、登呂遺跡からは鉄は出ていない
鉄の出土の有無で言えることはほとんどないよ
鉄が出土した所には鉄があったといえるけれど、
鉄が出土しないところに鉄がなかったとはいえない
鉄が出土しない理由はいくらでもあるからね 鉄が普及していく過程
【鉄を使った痕跡がある】
福岡県 紀元前の菜畑遺跡などなど
畿内 期限後のまきむー遺跡などなど
登呂遺跡などなど
【鉄が実際に使用されていた】
福岡県 紀元後の遺跡全て
畿内 〇〇世紀から??? 鉄の有る地域=北部九州倭人
鉄の無い地域=毛人
饒速日が先に毛人を東征した
続いて神武天皇様が攻め込んだ時には、
{えみしを ひたりももなひと ひとはいへども たむかひもせず}
えみし=毛人は 一騎当百の強者と言われていたが、戦いもせず逃げていった
饒速日が先に毛人を制圧していたから、
神武がやってきても、もはや抵抗する毛人はおらず、
ビビッて逃げ惑う雑魚ばかり
神武を迎え撃ったのは、先に占領支配していた饒速日の子孫と
その関係者、つまり北部九州倭人の先行支配者だけであった 銅鏡鉗文は、銅鏡を紙で包んで、吸湿して保管すること。(文献あり
百枚をそれぞれ紙で包んで、それをしっかりくくって、それぞれを箱に入れたのだろう。
この文は、銅鏡を特注したという内容ではないな。 その解釈は違うのではないか。 白人がアメリカ大陸に持ち込んだ物品を持ち出してもしょうがないでしょw
北部九州倭人が持ち込んだ副葬品の鉄器を持ち出してもしょうがないでしょw ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>248
>鉄が出土しない理由ってなんだよ???www
鉄のはさみを、土に埋めて、10年後に掘り出してごらん
出土しないから
鉄さび、酸化鉄は土に混じってしまえばただの泥と変わらない >鉄のはさみを、土に埋めて、10年後に掘り出してごらん
>出土しないから
マジ?www 甕棺墓ってのが、タイムカプセルとして有能なんだよ
土の中にさびの塊があっても、土に紛れて分からなくなるけど
甕棺の中にあるとこれは鉄だなと思って見てもらえる
とはいえ、甕棺の中でも人体等有機物はなくなってることが多いけれど 平原遺跡は甕棺ではないが、鉄剣はちゃんと出土している。 ついにテンプレ、消えたな。
よし。
神社参拝。
柏手パンパン。 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 >>31
そうじゃないだろう。
寺澤が言うてるのは、集落は川筋の微高地に形成されたと。
その川筋はいわば谷底湿地というようなものと、どこかの研究機関が言っている。
寺澤派は、奈良は稲作の収量の高いところで、その稲作による支えが政権を維持したと言いたいのだろうか、谷底湿地ではなあ。
豊かな稲作地だったというのも、円墳先造説と一緒で、根拠のない話さ。 >>253
>じゃ、なんで九州ではたくさん出土しているんだよ。
畿内説を応援するつもりは毛頭ないけれど、
畿内は湿地帯だったからなんだよ。
だから鉄器は残りにくかった。 一方、木製品は残りやすかった。
逆に九州は、鉄器は残りやすかったが、木製品は腐りやすかった。 ってだけじゃないの?
畿内へは間違いなく「忌部はん」が鉄器を持ち込んでいるよ。 @阿波 >>256
ちゃんと考古資料を読もうよな。
九州じゃ、住居跡などから鉄器がいっぱい出てるからな。
甕棺だけじゃないよ。
大和以東では、3世紀中頃以前は、場所を問わずほとんど鉄器は出てないし。
解けてしまったと言ったのは、佐原真じゃなかったか。
冗談だとかなんとかごまかしていたようだが。 >>235
鉄器の出ない大和があれこれ言ってもなあ、信憑性がないだろう。 大和派は、とうとう下野したか。
万歳三唱。
拍手パチパチ。
神社参拝。
お土産購入。 大和説は無理筋を通すために非科学的なことを口から出まかせ言うんだな。 >>4
女王国から千余里。
そこは、丹後王国だった。
火明族が祀る豊受大神。
豊受比売は伊勢に遷って天照と同格神になった。
その倭種とは、なにを隠そう、火明こと天照の子神だったのだ。 >>237
倭國の二大勢力。
伊都、奴、宗像、不彌など玄海灘連合。
吉野ヶ里、鳥栖、筑後、みやま、久留米など佐賀・筑紫平野連合。
倭國の乱の当事者は、この2大勢力の抗争。
玄界灘連合の盟主奴国から、乱後に邪馬台国(大牟田、みやま、柳川、筑後、八女)に盟主が移った。
卑弥呼が死んだあと立った男王は、再起をねらった奴国の王。
しかし、この抗争は再び失敗して、卑弥呼の後継者とされた邪馬台国の台与が王に擁立された。 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 >>270
その二大勢力にはちゃんと名前がある。
筑紫と肥国だ。
または、天津神と国津神でもいいだろう。
魏志倭人伝に相当する対立項が、記紀にもちゃんと記されている。
魏志倭人伝には九州北部の倭国の歴史が記録されているが、それは記紀にも筑紫における神代の歴史として記録されている。
どちらも、倭国(九州北部)の歴史なのだ。 >>272
>魏志倭人伝には九州北部の倭国の歴史が記録されているが
「其山有丹」で即、アウト と、何度言えばw @阿波 >>270
古代の倭地・倭国を語るすばらしい構図だ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています