邪馬台国の倭人は鉄器使用
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倭人は朝鮮半島投馬国経由で鉄を採取 【三国志東夷伝韓条】
3世紀に鉄器を使っているのは「当たり前」
倭人伝に書かれた【鉄鏃】なんて
時代劇の武将ヨロシク、自宅の庭で試射しまくってたわけで
リサイクル回収なんてしないw
あれ?3世紀の遺跡から鉄器ゼロ?
マジくそん???www >>235
鉄器の出ない大和があれこれ言ってもなあ、信憑性がないだろう。 大和派は、とうとう下野したか。
万歳三唱。
拍手パチパチ。
神社参拝。
お土産購入。 大和説は無理筋を通すために非科学的なことを口から出まかせ言うんだな。 >>4
女王国から千余里。
そこは、丹後王国だった。
火明族が祀る豊受大神。
豊受比売は伊勢に遷って天照と同格神になった。
その倭種とは、なにを隠そう、火明こと天照の子神だったのだ。 >>237
倭國の二大勢力。
伊都、奴、宗像、不彌など玄海灘連合。
吉野ヶ里、鳥栖、筑後、みやま、久留米など佐賀・筑紫平野連合。
倭國の乱の当事者は、この2大勢力の抗争。
玄界灘連合の盟主奴国から、乱後に邪馬台国(大牟田、みやま、柳川、筑後、八女)に盟主が移った。
卑弥呼が死んだあと立った男王は、再起をねらった奴国の王。
しかし、この抗争は再び失敗して、卑弥呼の後継者とされた邪馬台国の台与が王に擁立された。 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 >>270
その二大勢力にはちゃんと名前がある。
筑紫と肥国だ。
または、天津神と国津神でもいいだろう。
魏志倭人伝に相当する対立項が、記紀にもちゃんと記されている。
魏志倭人伝には九州北部の倭国の歴史が記録されているが、それは記紀にも筑紫における神代の歴史として記録されている。
どちらも、倭国(九州北部)の歴史なのだ。 >>272
>魏志倭人伝には九州北部の倭国の歴史が記録されているが
「其山有丹」で即、アウト と、何度言えばw @阿波 >>270
古代の倭地・倭国を語るすばらしい構図だ >>275
>今朝も早よから、倭種は元気だww
原文読んでるか?
「皆」倭種って書いてあるんだぞ
九州も含めて皆倭種だ
魏略逸文だと分かりやすい
倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種 >>275
>今朝も早よから、倭種は元気だww
倭種とは、倭国(阿波)から1000里東へ渡海した、畿内へ拓殖に入った人々のことだよ。 @阿波 東渡海の倭種の国々は、日の出が小一時間早いからなw 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>50
そこが面白いところ。
吉備の弧文は、墓に邪霊がよりつかんように排除するための模様。
全て埋葬した棺のあたりの周辺に置く。
箸墓も同じ。墳頂に弧文入りの特殊器台を配置した。
ところが、その弧文を彫り込んだ円板が纏向石塚古墳から出た場所は、周濠の底。
吉備なら、絶対水の中には沈めん。
祭祀器具などを水に沈めるのは尾張と近江。
弧文円板を水に沈めたのは、尾張・近江式。
だから、纏向で祭祀を取り仕切ったのは、近江・大和・尾張連合。
吉備は、弧文円板を祭祀に提供しただけ。
ここが面白いところ。 >>274
この構図には、さしもの@阿波も、指をくわえてみてるよりないな。 >>240
それは、ちょっと無理。
菊池・熊本から糸島まで距離がありすぎ。
狗奴国が邪馬台国に攻め込むまで筑紫平野と佐賀平野の海岸を行軍して、松浦川を経て、唐津あたりで布陣しなければならない。
また、唐津あたりに布陣しても、邪馬台国側が背振山地越えて狗奴国軍の背後に回り、前面、背後から挟撃したら狗奴国側はひとたまりもない。
糸島邪馬台国説は、無理。 >>242
熊本の鉄器出土は、弥生後期からが主体で、時期は1世紀後期〜2世紀とするデータがある。
北部九州では、すでに弥生中期以前(1世紀以前)から活用されていたようだ。
倭國の乱は、長い期間の場合は、140年頃からはじまったとされるので、2世紀中頃から。
まあ、それ以前から、熊本では鏃などが活用されていっぽい。 >>252
鉄が出土しない第一の理由は、鉄が流通していなかったこと。
つまり、交易品として鉄が含まれていなかった。
簡単に言えば、売ってくれなかった。
それで、鉄が出土しない。 >>281
>だから、纏向で祭祀を取り仕切ったのは、近江・大和・尾張連合。
ここが面白いところ。
阿波では41遺跡、43口の銅鐸が知られる有数の銅鐸出土地域だが、
銅鐸埋納と相前後して、記号や絵画とは異なる、思想を表現した「弧帯文土器(直線と曲線の組合せにより表されている)」
が矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡から出土している。 @阿波
弧帯文土器
http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/10iron04gaisetsu01.pdf#search=%27%E5%BC%A7%E5%B8%AF%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%27 >>285
魏志倭人伝には邪馬台国に鉄器があったことが明記されているから、纒向は邪馬台国から鉄を入手できなかったかわいそうな辺境の地だよ。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>286
同じ弥生後期としても、吉備の楯築遺跡の弧帯文のほうが完成度が高い。
楯築の弧帯文を取り入れたのだろう。 >>289
>同じ弥生後期としても、吉備の楯築遺跡の弧帯文のほうが完成度が高い。
そりゃ、「楯築遺跡の弧帯文のほうが完成度が高い」 そうなる可能性はあるだろう。
倭国(阿波)の弧帯文を改良して新しく取り入れたのだろう。 @阿波 >>290
阿波のは、土器に手書きだからなあ。
それに、阿波では、この土器絵しかみつかってないし。
楯築弧帯文は磐彫文、特殊器台、弧文円板などいろいろに変化している。
オリジナル性が異なるようだ。 >>289
>楯築弧帯文は磐彫文、特殊器台、弧文円板などいろいろに変化している。
そりゃ、「楯築弧帯文は磐彫文、特殊器台、弧文円板などいろいろに変化している。 」 そうなる可能性はあるだろう。
倭国(阿波)の弧帯文を改良して、「吉備忌部」が新しく取り入れたのだろう。 @阿波 >>292
吉備に忌部がいたのか?
いっぱいいるな。
だ〜が、忌部は5世紀からだ。
弥生後期の阿波、吉備には、忌部はいませ〜ん。 >>293
>弥生後期の阿波、吉備には、忌部はいませ〜ん。
ここでいう忌部一族とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
忌部一族とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。
と、何度言えばw @阿波 >>264
大和の土は特殊でね
1500年前の鉄は出てくるんだけど1700年前の鉄は溶けて無くなる土壌なんだよ
銅も木も骨も残るんだが鉄だけは溶けるんだな >>295
>1500年前の鉄は出てくるんだけど1700年前の鉄は溶けて無くなる土壌なんだよ
湿地帯だったからと、何度言えばw @阿波 >>295
畿内説がザラコク並みのトンデモであることが明白となった。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 古墳で高く土を積んで、その中に置けば残るんだよ
それ以前から、砥石は出てるし、石包丁もなくなってる
出土しない=なかった、ではない >>295
mazi!
この説が科学的に確かなら、大和に鉄が出ないことの根拠となって、3世紀前半には博多から大和に鉄を持って来ていた説の補完になるのに、なんで桜井市は市庁舎前の土の化学分析を専門家に頼まんの。 >>299
ここが謎ね。
畿内などでは、弥生後期後半には石包丁が一斉に姿を消すが、その後鉄鎌が古墳から出るのは4世紀になってから。
石包丁が無くなるのは、稲穂摘みに用いられなくなったから。
なぜいらなくなったのかという疑問に対する答えの一つが、株刈りするようになったため。
稲ワラをいろいろ利用するようになったから株刈りするようになった。
しかし、鉄鎌はまだ見当たらない。
成長した稲の株は硬い。
一体、どんな道具で稲株を刈ったのか。
考古学者たちが頭をひねった。
その中の切れ者が言った、「鉄鎌は溶けたのでは」。
やはり、土壌の科学調査、しろよ。 >>301
>忌部はんやないのか。
「忌部はん」は「忌部神社」や「忌部一族」に対する愛称だよ。 @阿波 >>302
>その中の切れ者が言った、「鉄鎌は溶けたのでは」。
だから、湿地帯だったからと、何度言えばw @阿波 >>305
>湿地帯だと溶けるの?
そりゃ、水に浸かってりゃ、溶けるだろ? 鉄なんだから。 @阿波 >>300
>土の化学分析を専門家に頼まんの。
分析しても意味ないよ
鉄は、どの土壌にも普通に含まれてるからね
地殻に含まれる元素構成比
酸化鉄 9.1% >>305
>湿地帯だと溶けるの?
溶けるというか、赤錆になったらぼろぼろに崩れる 鉄は水に浸かってたら結構保つよ
水中の酸素は空気中よりすくないからね。 >>309
>鉄は水に浸かってたら結構保つよ
結構ってどのくらい? 千年ぐらい? @阿波 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>302
>稲ワラをいろいろ利用するようになったから
それまでは地産地消していたのが、
米俵に入れてどこかに運んだんだろうね。 >>307
大和では鉄器溶けるから出土しない、て。
大和より西は普通に出土してるのに、大和では3世紀以前は鉄器出土せんのは、溶けたからだそうや。
土壌がほかと違うのか科学分析せんと。 >>304
人民が住んだのはその微高地だし。
竪穴の家の中に鎌置いたのとちがうの?
そしたら、水に漬からんし。 >>320
>饒速日の持ってきた鉄鎌
いや、「忌部はん」が持ってきた鉄鎌。
饒速日ともあろうお方が、ジメジメした、海も無い奈良盆地へなど行く訳ないがね。
いつまでもそんなこと考えているからガラパゴス説 @阿波 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>320
竹で切ったのではないか、ということから実験してみたら、竹の刃はすぐ使い物にならなくなったそうな。 >>323
稲の根ごと引き抜いて、これを逆さに吊るして稲穂を乾かして、
そのあとスリコギみたいなもので脱穀。
稲ワラは、5本くらいを束にし、根の部分と首の部分は竹の刃ででも切れる。
要するに、稲は根から丸ごと引き抜いた。
鉄鎌は必要ない。 >>323
鉄を使っていた痕跡がその先の朝日遺跡まで残っているから鉄鎌があったのは確実。 >>325
朝日遺跡で出土した鉄器は、袋状鉄斧、刀子状鉄製品、工具の一部の3点のみ。
いずれも周濠付近でみつかっている。
時期は後期初頭頃。
周濠付近ということからすると、この3点は、実用に用いられたのではなく、祭祀に用いられたのではないか。
鉄鎌はなかったのではないか。
実用に鉄鎌を用いたとすれば、一つや二つでは到底足りない。
多数あったとすれば、出土するはず。 鉄がなければ石包丁や黒曜石の
包丁でも使っていたか
そもそも稲作をしていなかった可能性もある >>326
倭国(阿波)には大抵の物があるよ。
鮎喰川下流域で最古の古墳と考えられるのは, 名東町節句山 1。 2号墳であり, 1号墳は石蓋盤棺で鉄製品 (飽
?)のみの出土の点などからして,弥生時代の墳墓の可能性が指摘されている。 2号墳は箱式石棺に
竪穴式石室をしつらえた埋葬施設を有し,棺及び石室内部から舶載の四獣鏡や勾玉,鉄剣,鉄刀子,
鉄斧 ,鉄鎌などが検出されており, 3世紀末ないしは4世紀前半に位置づけられるとされている。(7)
いずれにしても,節句山 1・ 2号墳が古墳発生を考える上での重要な鍵を握っているように思われる。 @阿波 >>326
畿内にはそれまで石包丁があったんだから稲作してた。
土器の流れから密接な関係のある朝日遺跡に鉄器が到達していたのなら、
鉄器の上流に位置する畿内にも鉄器はあった。
稲作してたのなら鉄鎌はあったのだろう。
稲作していなかったのなら、一度稲作社会が壊滅したことになる。 >>329
>稲作してたのなら鉄鎌はあったのだろう。
大和忌部が間違いなく持ち込んでいるよ。
>稲作していなかったのなら、一度稲作社会が壊滅したことになる。
弥生の大洪水により、一度稲作社会は壊滅しているよ。 @阿波 >>330
鉄鎌の時期が問題。
節句山2号墳は古墳前期の築造。
この頃には鉄鎌はあちこちの古墳から出ている。
2世紀後半に石包丁が消えてから4世紀頃に鉄鎌が畿内に現れるまで、稲はどのように収納されたのかが謎。
この間、稲作は一度も壊滅していない。 >>287
そう。丹後〜河内南北線以西は多くはないものの、当たり前に鉄器が出土している。
ということは、大和、近江、尾張など以東、東北などは販売対象外だった。
しかし、3世紀後半になると、なぜか関東で鉄刀や鉄釧が出土するようになる。
これが弥生の歴史を転換させた。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>331
>この間、稲作は一度も壊滅していない。
弥生の大洪水により、一度稲作社会は壊滅してと、何度言えばw @阿波
弥生時代前期末から中期初頭(2400年〜2300年ほど前)にかけて、西日本一帯で発生した大洪水。
灌漑水田稲作は壊滅です。
この洪水被害は大規模かつ広域的なもので、京都盆地や奈良盆地、岡山平野、博多平野、濃尾平野など広く西日本一帯で確認されている。
その大洪水により、阿波においては弥生時代中期初頭には各集落が小規模化し、一部で大柿遺跡の棚田がみられるが、縄文的な生業と地域社会へ回帰するような様相をみせるらしい。
弥生時代前期中葉に大規模化した灌漑水田稲作経営は、災害の影響もあって一段落したものと考えられている。
土器の植物種実圧痕観察(レプリカ法)により、弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流であったようだ。 >>333
>しかし、3世紀後半になると、なぜか関東で鉄刀や鉄釧が出土するようになる。
だから、倭国(阿波)を発った関東忌部がもたらしたものと、何度言えばw @阿波 >>333
大彦とたけぬなかわ父子の東方進出ですね、わかります。 >>335
>弥生の大洪水により、一度稲作社会は壊滅してと、何度言えばw @阿波
これはどの程度認められてるの? >>337
>大彦とたけぬなかわ父子の東方進出ですね、わかります。
それよりずっと前から、「忌部はん」たちが関東を目指し、拓殖に入っていたよ。 @阿波 >>338
>これはどの程度認められてるの?
さぁね、レプリカ法を実践している徳島大学 中村 豊教授に聞いてみれば? @阿波 記紀にあるとおり饒速日が畿内毛人を征服したとする。
鉄鎌を持って来たとする。
いざとなれば武器にもなる鉄鎌を、征服した毛人に渡すはずが無い。
毛人に稲を育てさせて、収穫期に各ムラの収穫日を通知しておいて、
指定収穫日に軍と共に鉄鎌を持ってやって来て、1日だけ鉄鎌を与えて一気に株刈で収穫させ、
稲束ごとまとめて鉄鎌と一緒に運び去る。
各ムラから集めた稲束は、巨大な倉庫に保管して、
倉庫の傍でもみ殻を落として脱穀して米俵にして本国へ輸送する。 >>333
>そう。丹後〜河内南北線以西は多くはないものの、当たり前に鉄器が出土している。
>ということは、大和、近江、尾張など以東、東北などは販売対象外だった。
筑紫を頂点とする倭国の文明の及ばぬ未開の地が大和だな。
そして終わりの強い影響下、すなわち終わりの支配地域。 >>340
>さぁね、レプリカ法を実践している徳島大学 中村 豊教授に聞いてみれば? @阿波
自分の持ち出した話題には責任を持てよ、って、粟に言うだけムダかww >>343
>自分の持ち出した話題には責任を持てよ、って、粟に言うだけムダかww
自分が感じた疑問は自分で解決しろよ、子供じゃあるまいしって、言うだけムダかww @阿波 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>333
鉄鏃が出ないのがポイントだな。
九州など西域の弥生遺跡では時代や系統の分類ができるほど鉄鏃が出土する。
鉄鏃が出土する=民衆に鉄器が普及している
鉄鏃が出土しない=民衆に鉄器が普及していなかった
答えは、征服者だけが鉄器を持ち込んで独占使用していた。
>>331
征服者が貴重な鉄器をリサイクルせざるを得ない一大イベントが空白期後半に起きた。
倭国乱で狗奴国側の支配下にある地域からは鉄器が回収されたわけだ。「金属類回収令」
溶けたのではなく、狗奴国軍の鉄鏃になって九州など西域の弥生戦場から出土している。 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>348
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
畿内から庄内甕が博多に現れるのは3世紀中頃。
そのあとの3世紀後半に筑前型庄内甕が北部九州に広がる。 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江→尾張→纏向
↓
宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
支配の西から東へ侵攻し、土器などの産物は王都である筑紫へ >>341
4世紀頃になって、古墳に鉄鎌が副葬されるようになるのは、なぜ。
それまで副葬されなかった理由は、なに? >>336
だめだめ。
鉄刀と鉄釧は、若狭→長野→関東の流れが判明している。 >>335
ノアの洪水みたいなのが襲ったのなら、人民は死に絶えている。
そんな痕跡はない。
環濠が埋まったくらい。
その環濠は再建されているし。 >>354
>鉄刀と鉄釧は、若狭→長野→関東の流れが判明している。
だめだめ。 ウソはイカンぜよ。 @阿波 >>355
さぁね、レプリカ法を実践している徳島大学 中村 豊教授に聞いてみれば?
自分が感じた疑問は自分で解決しろよ、子供じゃあるまいしって、言うだけムダかww @阿波 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江→尾張→纏向
↓
宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ >>352
>4世紀頃になって、古墳に鉄鎌が副葬されるようになるのは、なぜ。
内行花文鏡
倭国将軍が現地支配者としてやって来たから。
>それまで副葬されなかった理由は、なに?
末端の支配者が毛人相手に威張っていただけだから。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>359
末端の支配者が威張っていたのと、鉄鎌が古墳に副葬されなかったのと、どう関係するん? >>356
ほんなら、弥生後期後半になって、関東に鉄剣と鉄訓が現れるのは、どの経路で入ったん? >>351
みな、東遷説が好きやな。
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