邪馬台国の倭人は鉄器使用
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倭人は朝鮮半島投馬国経由で鉄を採取 【三国志東夷伝韓条】
3世紀に鉄器を使っているのは「当たり前」
倭人伝に書かれた【鉄鏃】なんて
時代劇の武将ヨロシク、自宅の庭で試射しまくってたわけで
リサイクル回収なんてしないw
あれ?3世紀の遺跡から鉄器ゼロ?
マジくそん???www >>323
稲の根ごと引き抜いて、これを逆さに吊るして稲穂を乾かして、
そのあとスリコギみたいなもので脱穀。
稲ワラは、5本くらいを束にし、根の部分と首の部分は竹の刃ででも切れる。
要するに、稲は根から丸ごと引き抜いた。
鉄鎌は必要ない。 >>323
鉄を使っていた痕跡がその先の朝日遺跡まで残っているから鉄鎌があったのは確実。 >>325
朝日遺跡で出土した鉄器は、袋状鉄斧、刀子状鉄製品、工具の一部の3点のみ。
いずれも周濠付近でみつかっている。
時期は後期初頭頃。
周濠付近ということからすると、この3点は、実用に用いられたのではなく、祭祀に用いられたのではないか。
鉄鎌はなかったのではないか。
実用に鉄鎌を用いたとすれば、一つや二つでは到底足りない。
多数あったとすれば、出土するはず。 鉄がなければ石包丁や黒曜石の
包丁でも使っていたか
そもそも稲作をしていなかった可能性もある >>326
倭国(阿波)には大抵の物があるよ。
鮎喰川下流域で最古の古墳と考えられるのは, 名東町節句山 1。 2号墳であり, 1号墳は石蓋盤棺で鉄製品 (飽
?)のみの出土の点などからして,弥生時代の墳墓の可能性が指摘されている。 2号墳は箱式石棺に
竪穴式石室をしつらえた埋葬施設を有し,棺及び石室内部から舶載の四獣鏡や勾玉,鉄剣,鉄刀子,
鉄斧 ,鉄鎌などが検出されており, 3世紀末ないしは4世紀前半に位置づけられるとされている。(7)
いずれにしても,節句山 1・ 2号墳が古墳発生を考える上での重要な鍵を握っているように思われる。 @阿波 >>326
畿内にはそれまで石包丁があったんだから稲作してた。
土器の流れから密接な関係のある朝日遺跡に鉄器が到達していたのなら、
鉄器の上流に位置する畿内にも鉄器はあった。
稲作してたのなら鉄鎌はあったのだろう。
稲作していなかったのなら、一度稲作社会が壊滅したことになる。 >>329
>稲作してたのなら鉄鎌はあったのだろう。
大和忌部が間違いなく持ち込んでいるよ。
>稲作していなかったのなら、一度稲作社会が壊滅したことになる。
弥生の大洪水により、一度稲作社会は壊滅しているよ。 @阿波 >>330
鉄鎌の時期が問題。
節句山2号墳は古墳前期の築造。
この頃には鉄鎌はあちこちの古墳から出ている。
2世紀後半に石包丁が消えてから4世紀頃に鉄鎌が畿内に現れるまで、稲はどのように収納されたのかが謎。
この間、稲作は一度も壊滅していない。 >>287
そう。丹後〜河内南北線以西は多くはないものの、当たり前に鉄器が出土している。
ということは、大和、近江、尾張など以東、東北などは販売対象外だった。
しかし、3世紀後半になると、なぜか関東で鉄刀や鉄釧が出土するようになる。
これが弥生の歴史を転換させた。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>331
>この間、稲作は一度も壊滅していない。
弥生の大洪水により、一度稲作社会は壊滅してと、何度言えばw @阿波
弥生時代前期末から中期初頭(2400年〜2300年ほど前)にかけて、西日本一帯で発生した大洪水。
灌漑水田稲作は壊滅です。
この洪水被害は大規模かつ広域的なもので、京都盆地や奈良盆地、岡山平野、博多平野、濃尾平野など広く西日本一帯で確認されている。
その大洪水により、阿波においては弥生時代中期初頭には各集落が小規模化し、一部で大柿遺跡の棚田がみられるが、縄文的な生業と地域社会へ回帰するような様相をみせるらしい。
弥生時代前期中葉に大規模化した灌漑水田稲作経営は、災害の影響もあって一段落したものと考えられている。
土器の植物種実圧痕観察(レプリカ法)により、弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流であったようだ。 >>333
>しかし、3世紀後半になると、なぜか関東で鉄刀や鉄釧が出土するようになる。
だから、倭国(阿波)を発った関東忌部がもたらしたものと、何度言えばw @阿波 >>333
大彦とたけぬなかわ父子の東方進出ですね、わかります。 >>335
>弥生の大洪水により、一度稲作社会は壊滅してと、何度言えばw @阿波
これはどの程度認められてるの? >>337
>大彦とたけぬなかわ父子の東方進出ですね、わかります。
それよりずっと前から、「忌部はん」たちが関東を目指し、拓殖に入っていたよ。 @阿波 >>338
>これはどの程度認められてるの?
さぁね、レプリカ法を実践している徳島大学 中村 豊教授に聞いてみれば? @阿波 記紀にあるとおり饒速日が畿内毛人を征服したとする。
鉄鎌を持って来たとする。
いざとなれば武器にもなる鉄鎌を、征服した毛人に渡すはずが無い。
毛人に稲を育てさせて、収穫期に各ムラの収穫日を通知しておいて、
指定収穫日に軍と共に鉄鎌を持ってやって来て、1日だけ鉄鎌を与えて一気に株刈で収穫させ、
稲束ごとまとめて鉄鎌と一緒に運び去る。
各ムラから集めた稲束は、巨大な倉庫に保管して、
倉庫の傍でもみ殻を落として脱穀して米俵にして本国へ輸送する。 >>333
>そう。丹後〜河内南北線以西は多くはないものの、当たり前に鉄器が出土している。
>ということは、大和、近江、尾張など以東、東北などは販売対象外だった。
筑紫を頂点とする倭国の文明の及ばぬ未開の地が大和だな。
そして終わりの強い影響下、すなわち終わりの支配地域。 >>340
>さぁね、レプリカ法を実践している徳島大学 中村 豊教授に聞いてみれば? @阿波
自分の持ち出した話題には責任を持てよ、って、粟に言うだけムダかww >>343
>自分の持ち出した話題には責任を持てよ、って、粟に言うだけムダかww
自分が感じた疑問は自分で解決しろよ、子供じゃあるまいしって、言うだけムダかww @阿波 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>333
鉄鏃が出ないのがポイントだな。
九州など西域の弥生遺跡では時代や系統の分類ができるほど鉄鏃が出土する。
鉄鏃が出土する=民衆に鉄器が普及している
鉄鏃が出土しない=民衆に鉄器が普及していなかった
答えは、征服者だけが鉄器を持ち込んで独占使用していた。
>>331
征服者が貴重な鉄器をリサイクルせざるを得ない一大イベントが空白期後半に起きた。
倭国乱で狗奴国側の支配下にある地域からは鉄器が回収されたわけだ。「金属類回収令」
溶けたのではなく、狗奴国軍の鉄鏃になって九州など西域の弥生戦場から出土している。 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>348
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
畿内から庄内甕が博多に現れるのは3世紀中頃。
そのあとの3世紀後半に筑前型庄内甕が北部九州に広がる。 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江→尾張→纏向
↓
宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
支配の西から東へ侵攻し、土器などの産物は王都である筑紫へ >>341
4世紀頃になって、古墳に鉄鎌が副葬されるようになるのは、なぜ。
それまで副葬されなかった理由は、なに? >>336
だめだめ。
鉄刀と鉄釧は、若狭→長野→関東の流れが判明している。 >>335
ノアの洪水みたいなのが襲ったのなら、人民は死に絶えている。
そんな痕跡はない。
環濠が埋まったくらい。
その環濠は再建されているし。 >>354
>鉄刀と鉄釧は、若狭→長野→関東の流れが判明している。
だめだめ。 ウソはイカンぜよ。 @阿波 >>355
さぁね、レプリカ法を実践している徳島大学 中村 豊教授に聞いてみれば?
自分が感じた疑問は自分で解決しろよ、子供じゃあるまいしって、言うだけムダかww @阿波 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江→尾張→纏向
↓
宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ >>352
>4世紀頃になって、古墳に鉄鎌が副葬されるようになるのは、なぜ。
内行花文鏡
倭国将軍が現地支配者としてやって来たから。
>それまで副葬されなかった理由は、なに?
末端の支配者が毛人相手に威張っていただけだから。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>359
末端の支配者が威張っていたのと、鉄鎌が古墳に副葬されなかったのと、どう関係するん? >>356
ほんなら、弥生後期後半になって、関東に鉄剣と鉄訓が現れるのは、どの経路で入ったん? >>351
みな、東遷説が好きやな。
なんで東遷したん? 東遷ではなく東征だよ。
あくまでも王都は筑紫。
記紀も東征としている。 >>362
>ほんなら、弥生後期後半になって、関東に鉄剣と鉄訓が現れるのは、どの経路で入ったん?
どの経路って、倭国(阿波)の海人族が黒潮を利用して、東海・関東へ鉄器や朱や勾玉など倭国(阿波)の最新文化を持って
開拓に入ったんだよ。 そんなこと常識でしょ。 @阿波 >>361
王族でもなんでもないから、権威品もなければ、鉄器が潤沢にあるわけでもない。 >>362
>ほんなら、弥生後期後半になって、関東に鉄剣と鉄訓が現れるのは、どの経路で入ったん?
ところで、「鉄訓」って、なに? @阿波 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 鉄器本国からの第一陣が、毛人の国を東征
貴重な鉄器を寡占しつつ稲束を根刈して収益をあげる
そんな極貧経営に嫌気がさして、狗奴国に加担
狗奴国のため鉄器を供出したが、狗奴国が敗北
勝者の輝かしい邪馬台国王族支配者が、進駐
お前らこれが鉄器文化だ
文明開化して、内行花文鏡+鉄器を副葬
ドヤ顔w アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RinFM7cedbKFAAyBqU3uV7;_ylu=X3oDMTBhcmNxcTgxBHZ0aWQDSVMwMDI-?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 >>366
船転覆して、鉄刀と鉄釧、海の藻屑となったら元も子もない。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>357
稲は一度、栽培途絶えた、とこの中村プロフェッサーが言うとるのか。 >>377
天孫族は権威を失い、乱世となったため。
魏志倭人伝にある倭国大乱。 >>377
>なんで東征せにゃならんかったの。
東征するに足る理由も言えない上に、東征先が海の無い、ジメジメした奈良盆地ときたら
どうにも、収拾がつかんだろう。 @阿波 どちらにしても、3世紀半ば以降の古墳から鉄器がどしどし出るようになるな。
これが、すべて。
大和が、輸入鉄器ほか貴重財を独占入手するようになったからだ。
それまで鉄器過疎地帯だったのに、突然鉄器過多になった。
なぜに、そうなったのか。
博多が独占していた輸入権を、大和が奪ったから。
単純明快ではないか。 >>382
>博多が独占していた輸入権を、大和が奪ったから。
それは絶対に、無い。
>単純明快ではないか。
単純不明快。 @阿波 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>383
大和に纏向連合が作られたのも、そもそもその独占輸入権の奪取が目的だった。
博多と出雲は強力な関係を築いていたから、出雲が博多支援に回ったら、博多制圧作戦は失敗する公算が高い。
派遣軍の背後から出雲が襲撃したら、派遣軍は孤立して壊滅する。
そのため、纏向連合は、博多制圧作戦の前に出雲を恫喝して、博多支援から手を引くことを認めさせた。
これが、記紀の国譲りの真の姿だ。 記紀の国譲りでは、出雲が降伏して筑紫に統一政権ができたことになっている。
その結果が、筑紫と出雲の緊密な関係だ。
大和は蚊帳の外、田舎の辺境の地。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>386
記紀の国譲りのあとは、北部九州はまったく登場しない。
南九州に天孫が降りて、そこから神武が大和へ行く。
記紀では、北部九州は蚊帳の外。 >>387
鳴門は、記紀でも、現実の歴史でも、蚊帳の外。 >>390
>鳴門は、記紀でも、現実の歴史でも、蚊帳の外。
倭国(阿波)は「記紀でも、現実の歴史でも」、鳴門だけじゃないよ。 @阿波 >>389
天孫族の正体は古代に海を渡って南九州に辿り着いた周王朝の子孫だよ 天孫降臨の舞台は筑紫の日向。
それから三代は筑紫が王都。
実質的に伊都国のことだよ。 【筑紫の日向】
福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。
伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、峰々に楼閣があった。
その中に高祖神社がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高千穂宮が倭王である天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。 >>396
宮崎県を日向国と命名したのは景行天皇。
天孫降臨の筑紫の日向は福岡県。 ■ 祓詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神
かけまくもかしこき いざなぎのおほかみ
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらに
禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等
みそぎはらへたまひしときに なりませるはらへどのおほかみたち
諸々の禍事・罪・穢 有らむをば
もろもろのまがごとつみけがれ あらむをば
祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと
はらへたまひきよめたまへと まをすことをきこしめせと
恐み恐みも白す
かしこみかしこみもまをす 伊弉諾の筑紫の日向における禊にちなんで建てられたのが博多住吉神社。
もちろん筑紫の日向は福岡県。 >>401
博多住吉神社の前身 現人神社を無視しないであげて >>400
>筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
ウソはイカンぜよ。
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」
倭国(阿波)の「竺紫(とくし)」で、倭国(阿波)の「阿波岐原」
高らかに、倭国(阿波)を讃えていますね。 @阿波 筑紫の日向、すなわち高祖山周辺が倭国の王都である。
そこから議論がスタートする。
ならば、女王卑弥呼がいたのは筑紫の日向しかないではないか。
そこには平原遺跡という、れっきとした女王墓も見つかっている。
平原女王は八咫の鏡の保有者であり、アマテラスのモデルとなった卑弥呼にふさわしい。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>397
ニニギ尊を葬った山陵は「日向国」にある、と延喜式に書かれているそうだ。
日向国は薩摩であるから、日向が福岡県であることは有り得ない。 >>407
そのニニギ尊を葬った山稜は、剣山系山岳集落(高天原)から降臨したところに鎮座する邇邇芸命(ニニギノ命)神陵跡
磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ) http://sueyasumas.exblog.jp/7300075/
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>408
イスラエルの大使が訪れた剣山の磐境と同じじゃね。
ユダヤ関連と言われたり、ニニギ尊の墓と言われたり、いろいろ忙しいな。 >>383
まあ、阿波鳴門は、この際も無視通過されたからなあ。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>409
>徳島とか全然そそられない
倭国(阿波)にはビビってるけどね。 @阿波 >>414
反正天皇の淡路宮ってどこなの?
天皇、初生于淡路宮、生而齒如一骨、容姿美麗。
於是有井曰瑞井、則汲之洗太子、時多遲花有于井中、因爲太子名也。 >>341
ちと不謹慎だが、高千穂でナタが凶器に使われてたな。 考古学出土物や魏志倭人伝の記載、吉野ヶ里の戦傷遺体からして、
3世紀倭国兵の武装は、
・鉄鏃や骨鏃の弓矢
・矛あるいは戈
・鉄剣鉄刀
・巴型銅器を中心に嵌めた朱塗盾
なわけですね。
戦う場合は、
鉄鏃での一斉射撃で遠距離先制
矛戈でリーチの長い中距離攻撃
倭国以外の毛人などが相手であれば、ここまでで勝負がつくでしょう。
相手の石鏃や石剣は巴型銅器で跳ね返し叩き折る。 つまり、3世紀邪馬台国兵が畿内に攻め込んで戦いとなった場合、
合戦開始時に鉄鏃の一斉射撃が必ず行われるわけです。
だが鉄鏃が全く出ない。
ということは、
3世紀邪馬台国軍は、ほぼ戦わずに畿内を征服したことになります。
ということは、
3世紀畿内はある程度統一されていて、その首脳が降伏したら、
全域が降伏した、ということになります。 じゃあ倭国が軍事的に東征したのがいつか、
勇猛とされる毛人と戦ったのがいつか、
ということになると、やはり銅戈時代ですね。
1、2世紀だと、北部九州もまだ石鏃や銅鏃が主流です。
これなら畿内からも大量に出土しています。
軍事的には銅戈時代に畿内が東征され、
環濠集落+銅鐸は征服者である銅戈勢力が作ったものでしょう。
淡路島に鉄器工房が長期間運営されたにも関わらず、
銅戈勢力は鉄器を使っていない。
ということは、銅戈勢力、つまりニギハヤヒと瀬戸内オオヤマツミ系は、
倭国王ではなかった、ということになりますね。
軍事的には、
石鏃・銅鏃・戈、の彼らが畿内をある程度統一して行政体系を整備していたわけです。
だからホケノなど3世紀の鉄鏃勢力は、首脳だけ落とせば、
あとは政治的に、
地域丸ごとの支配権を手にすることができた、ということが考古学的にわかりますね。 なぜ矛ではなく戈なのか?
矛は殺傷用ですね。
戦国時代の槍と同じことです。
ちなみに槍を実際に使用した研究では、
リーチの長い槍はしなるため、標的に突き刺すのは至難の業で、
合戦時には大きく振り下ろして遠心力で脳震盪や打撲をもって相手を倒していたそうです。
濊伝だったかに、長い矛を3人がかりで使用していた、という記載がありますが、
これも遠心力を利用して重い銅矛を相手にぶち当てて倒していたのでしょう。 じゃあ戈はというと、こちら側に刈り取る、つまり捕獲するわけです。
生口ですね。
銅戈の最盛期が1世紀から2世紀。
文献上も、107年に160人もの生口がはるか漢へと運ばれています。 ホケノ山には大量の鉄製武器が副葬されていますが、鉄戈はありません。
毛人の地を侵略して、軍事的に生口を捕獲していた時代には、
捕獲武器としての鉄戈が実用された。
北部九州の首長が数多く使用して副葬されていますね。
本拠の北部九州から出陣して、瀬戸内海を行き来して毛人と戦っていたわけです。
銅戈が大阪湾上陸して、畿内を支配下におさめてしまえば、
租庸調の形で政治的に徴発すればいいわけですから、
鉄戈は用が無くなったわけですね。 なんかこの、何の根拠もないことを正しいと信じ込んでとくとくと書き続ける感じが
nn氏っぽいw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています