邪馬台国の倭人は鉄器使用
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
倭人は朝鮮半島投馬国経由で鉄を採取 【三国志東夷伝韓条】
3世紀に鉄器を使っているのは「当たり前」
倭人伝に書かれた【鉄鏃】なんて
時代劇の武将ヨロシク、自宅の庭で試射しまくってたわけで
リサイクル回収なんてしないw
あれ?3世紀の遺跡から鉄器ゼロ?
マジくそん???www ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>386
記紀の国譲りのあとは、北部九州はまったく登場しない。
南九州に天孫が降りて、そこから神武が大和へ行く。
記紀では、北部九州は蚊帳の外。 >>387
鳴門は、記紀でも、現実の歴史でも、蚊帳の外。 >>390
>鳴門は、記紀でも、現実の歴史でも、蚊帳の外。
倭国(阿波)は「記紀でも、現実の歴史でも」、鳴門だけじゃないよ。 @阿波 >>389
天孫族の正体は古代に海を渡って南九州に辿り着いた周王朝の子孫だよ 天孫降臨の舞台は筑紫の日向。
それから三代は筑紫が王都。
実質的に伊都国のことだよ。 【筑紫の日向】
福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。
伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、峰々に楼閣があった。
その中に高祖神社がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高千穂宮が倭王である天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。 >>396
宮崎県を日向国と命名したのは景行天皇。
天孫降臨の筑紫の日向は福岡県。 ■ 祓詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神
かけまくもかしこき いざなぎのおほかみ
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらに
禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等
みそぎはらへたまひしときに なりませるはらへどのおほかみたち
諸々の禍事・罪・穢 有らむをば
もろもろのまがごとつみけがれ あらむをば
祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと
はらへたまひきよめたまへと まをすことをきこしめせと
恐み恐みも白す
かしこみかしこみもまをす 伊弉諾の筑紫の日向における禊にちなんで建てられたのが博多住吉神社。
もちろん筑紫の日向は福岡県。 >>401
博多住吉神社の前身 現人神社を無視しないであげて >>400
>筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
ウソはイカンぜよ。
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」
倭国(阿波)の「竺紫(とくし)」で、倭国(阿波)の「阿波岐原」
高らかに、倭国(阿波)を讃えていますね。 @阿波 筑紫の日向、すなわち高祖山周辺が倭国の王都である。
そこから議論がスタートする。
ならば、女王卑弥呼がいたのは筑紫の日向しかないではないか。
そこには平原遺跡という、れっきとした女王墓も見つかっている。
平原女王は八咫の鏡の保有者であり、アマテラスのモデルとなった卑弥呼にふさわしい。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>397
ニニギ尊を葬った山陵は「日向国」にある、と延喜式に書かれているそうだ。
日向国は薩摩であるから、日向が福岡県であることは有り得ない。 >>407
そのニニギ尊を葬った山稜は、剣山系山岳集落(高天原)から降臨したところに鎮座する邇邇芸命(ニニギノ命)神陵跡
磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ) http://sueyasumas.exblog.jp/7300075/
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>408
イスラエルの大使が訪れた剣山の磐境と同じじゃね。
ユダヤ関連と言われたり、ニニギ尊の墓と言われたり、いろいろ忙しいな。 >>383
まあ、阿波鳴門は、この際も無視通過されたからなあ。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>409
>徳島とか全然そそられない
倭国(阿波)にはビビってるけどね。 @阿波 >>414
反正天皇の淡路宮ってどこなの?
天皇、初生于淡路宮、生而齒如一骨、容姿美麗。
於是有井曰瑞井、則汲之洗太子、時多遲花有于井中、因爲太子名也。 >>341
ちと不謹慎だが、高千穂でナタが凶器に使われてたな。 考古学出土物や魏志倭人伝の記載、吉野ヶ里の戦傷遺体からして、
3世紀倭国兵の武装は、
・鉄鏃や骨鏃の弓矢
・矛あるいは戈
・鉄剣鉄刀
・巴型銅器を中心に嵌めた朱塗盾
なわけですね。
戦う場合は、
鉄鏃での一斉射撃で遠距離先制
矛戈でリーチの長い中距離攻撃
倭国以外の毛人などが相手であれば、ここまでで勝負がつくでしょう。
相手の石鏃や石剣は巴型銅器で跳ね返し叩き折る。 つまり、3世紀邪馬台国兵が畿内に攻め込んで戦いとなった場合、
合戦開始時に鉄鏃の一斉射撃が必ず行われるわけです。
だが鉄鏃が全く出ない。
ということは、
3世紀邪馬台国軍は、ほぼ戦わずに畿内を征服したことになります。
ということは、
3世紀畿内はある程度統一されていて、その首脳が降伏したら、
全域が降伏した、ということになります。 じゃあ倭国が軍事的に東征したのがいつか、
勇猛とされる毛人と戦ったのがいつか、
ということになると、やはり銅戈時代ですね。
1、2世紀だと、北部九州もまだ石鏃や銅鏃が主流です。
これなら畿内からも大量に出土しています。
軍事的には銅戈時代に畿内が東征され、
環濠集落+銅鐸は征服者である銅戈勢力が作ったものでしょう。
淡路島に鉄器工房が長期間運営されたにも関わらず、
銅戈勢力は鉄器を使っていない。
ということは、銅戈勢力、つまりニギハヤヒと瀬戸内オオヤマツミ系は、
倭国王ではなかった、ということになりますね。
軍事的には、
石鏃・銅鏃・戈、の彼らが畿内をある程度統一して行政体系を整備していたわけです。
だからホケノなど3世紀の鉄鏃勢力は、首脳だけ落とせば、
あとは政治的に、
地域丸ごとの支配権を手にすることができた、ということが考古学的にわかりますね。 なぜ矛ではなく戈なのか?
矛は殺傷用ですね。
戦国時代の槍と同じことです。
ちなみに槍を実際に使用した研究では、
リーチの長い槍はしなるため、標的に突き刺すのは至難の業で、
合戦時には大きく振り下ろして遠心力で脳震盪や打撲をもって相手を倒していたそうです。
濊伝だったかに、長い矛を3人がかりで使用していた、という記載がありますが、
これも遠心力を利用して重い銅矛を相手にぶち当てて倒していたのでしょう。 じゃあ戈はというと、こちら側に刈り取る、つまり捕獲するわけです。
生口ですね。
銅戈の最盛期が1世紀から2世紀。
文献上も、107年に160人もの生口がはるか漢へと運ばれています。 ホケノ山には大量の鉄製武器が副葬されていますが、鉄戈はありません。
毛人の地を侵略して、軍事的に生口を捕獲していた時代には、
捕獲武器としての鉄戈が実用された。
北部九州の首長が数多く使用して副葬されていますね。
本拠の北部九州から出陣して、瀬戸内海を行き来して毛人と戦っていたわけです。
銅戈が大阪湾上陸して、畿内を支配下におさめてしまえば、
租庸調の形で政治的に徴発すればいいわけですから、
鉄戈は用が無くなったわけですね。 なんかこの、何の根拠もないことを正しいと信じ込んでとくとくと書き続ける感じが
nn氏っぽいw 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 巴型銅器付きの盾が導入された時点で、戦争用としての近接武器は陳腐化されますね。
あの形状は刃を受けるためのものでしょう。
単なる円形なら銅器部分で剣撃を受けても滑ってしまいますが、
巴型銅器ならフォークにナイフを刺しこむように剣を受けることができます。
倭人同士が戦った場合、お互い巴型銅器付きの朱盾を持っているので、
正面からだとなかなか突き破れません。
巴型銅器付き盾を装備した兵の生存率は上昇し、
混戦でガラ空きの後方から攻撃された場合などに死傷したのでしょう。
北部九州の戦傷遺骨の調査がそれを裏付けますね。
例えば、
巴型銅器付き盾+矛の部隊と、
木製盾+剣の部隊だと、
後者の盾は割られ、剣は折られで、一方的な勝負になりますね。 開発が先行していた北部九州なら陸戦もあったでしょうけど、
その他の地域、特に瀬戸内での戦いは海戦ばかりだったでしょうから、
陸地から出土する遺物の数だけでは弥生の戦争は見落としてしまいますね。 そうですね。
大山祇、三島の神などが瀬戸内海を東征した痕跡として後世まで祀られているので、その年代の確定が必要ですね。
古墳の出土品から考えると、弥生末期に東征が繰り返しあり、筑紫の倭国が畿内に進出したのでしょう。
畿内が突如として発展するのは、外部勢力の流入に他なりません。 >>427
妄想は聞き飽きた と、何度言えばw @阿波 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 海戦が主体なら、そりゃあ剣よりも矛や戈の方が有利だな。
矛で突くもよし。リーチ差で一方的。
戈で引くもよし。ひっかけて海に落として弓撃。
先行して瀬戸内を開発していた銅剣は、
跡からやってきた銅矛にボロ負けして、
銅剣武装解除、関連各集落の銅鐸を献上して、各集落の首長娘たちが銅矛王の後宮に入って
その腹違いの子供たちが各地の首長になったのだろうな。
逆から言うと、想像よりもかなり早い時期に荒神谷加茂岩倉銅鐸群関連の地域は銅剣によって征服されていたということだな。 弓撃なんてすんなよ弓も敵兵ももったいない。
あっぷあっぷしてるのを捕らえて
生口一人ゲッツ!!! 昨日、仕事で黒歯國行ったんです。黒歯國。
そしたらなんか無許可の舟がめちゃくちゃいっぱいで進めないんです。
で、よく見たらなんか垂れ幕下がってて、横取り禁止、とか書いてあるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、生口狩り如きで普段来てない黒歯國に来てんじゃねーよ、ボケが。
毛人相手だよ、毛人。
なんかファミリータイプの舟で下戸が子供3人連れてとかもいるし。家族みんなで生口狩りか。おめでてーな。
よーしパパこの鉄戈で生口捕まえちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、祭祀用の銅戈やるからその席空けろと。
黒歯國ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
すれちがう舟の向かいに座った毛人といつ戦争が始まってもおかしくない、
刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。下戸は、すっこんでろ。
で、やっと鉄戈で毛人ゲットしたかと思ったら、隣舟の奴が、船行一年で、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、船行一年なんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、船行一年で、だ。
お前は本当に船行一年で生口を送りたいのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、船行一年って言いたいだけちゃうんかと。
生口狩り通の俺から言わせてもらえば今、生口狩り通の間での最新流行はやっぱり、庄内式土器、これだね。
庄内式土器。これが通の頼み方。庄内式土器ってのは生口の汗が多めに入ってる。そん代わり鉄器が少なめ。これ。で、それに大盛り朱儒国産朱。これ最強。
しかしこれを頼むと次から一大率にマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。 下戸にはお薦め出来ない。
まあお前ら下戸は、魚鰒でも取ってなさいってこった。 黒歯國で鉄戈により捕まった生口
↓
生口島で教育
↓
北部九州倭国へ
ここまで船行一年(10代)
北部九州倭国で倭国乱
↓
北部邪馬台国の卑弥呼様に仕える
↓
魏に朝貢されることが決まって洛陽へ
ここまで陸行1日水行20日+水行10日(30代)
陳寿と面会して、懐かしい祖国=黒歯國とその周辺国について語る
(老年の60代) ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 キナイコシがそう言っているのだから、
100%の確立で、
日本稲作が長江・江南から伝わったのだな ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>435
有楽町海進の前までは、黄海は陸地だよな。
長江河口域ってどこら辺だ。 海底地形が分かる地形図を見れば、海底谷として海退時の流路が分かるんじゃないかな? 根拠なし。
邪馬台国と投馬国が別扱いで併記されていることから、これらは複数の国邑を持つ領域国家を示していると考えられる。 >>443
>邪馬台国と投馬国が別扱いで併記されていることから、これらは複数の国邑を持つ領域国家を示していると考えられる。
これこそが、根拠なしだww
邪馬台国・畿内ヤマトと投馬国・山陰イズモは既に
共通文化圏を構築する広域の勢力になっているということ >>444
じゃあ畿内説が成り立たない。
つまり、それらは邪馬台国とそもそも関係ない。 レーダー照射の見苦しい論点ずらしをみててどこかで見たことのある見苦しい姿だなと思ったら畿内説の論点ずらしだったw自滅して周囲があきれてるのにまだやってるというw 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>445
>じゃあ畿内説が成り立たない。
>つまり、それらは邪馬台国とそもそも関係ない。
なぜ?
投馬国・イズモまで北部九州から水行20日
邪馬台国・ヤマトまでイズモから水行10日、陸行1月は妥当な日数となる
ばっちりじゃないか
九州説は、理由もなくけちをつけるだけww 世界の古代史の常識
石器時代<青銅器時代<鉄器時代
さて・・・
日本海沿岸〜北部九州=鉄器時代
まきむー=(???) 投馬国と邪馬台国は韓での馬韓、辰韓、弁韓のようなもので
朝鮮半島南岸の狗邪韓国が投馬国の中心地
九州北部の伊都国が邪馬台国の中心地。 投馬国と邪馬台国は韓での馬韓、辰韓、弁韓のようなもので
朝鮮半島南岸の狗邪韓国が投馬国の中心地
九州北部の伊都国が邪馬台国の中心地。 九州北部が邪馬台国、九州東部が投馬国、九州西部が狗奴国。 >>454
>投馬国と邪馬台国は韓での馬韓、辰韓、弁韓のようなもので
ではなぜ投馬国の構成国は書いてないんだ?
馬韓弁韓弁辰は、その中の国が書いてあるぞww
詭弁もいいところw
九州説はご都合主義でその場しのぎの言い訳ばかりww 帯方郡の南の韓人領土で十五万戸くらいだろ?
奴国だけで二万戸だろ?
北部九州七万戸でちょうどいいじゃないか
畿内をはじめ各地からの年貢もあるし(庄内式土器大量流入www ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 詰んどるなー
無鉄器で王墓もない地域が連合して七万戸というなら
鉄器社会で統一王墓のある地域はますます連合して七万戸
つか北部九州が統一されておらんと他地域からそこを越えて外交できんジャマイカw
笑えるのう >>461
>鉄器社会で統一王墓
統一王墓??? なにそれ? 新語? @阿波 統一されていないと通過できないと言うなら馬韓も統一されとらんが通過しとるぞ。 馬韓は通過していない。
沿岸航行つまり水行したからね。 馬韓にだって領海みたいなもんはあっただろ。通過しとるやん。 それは詭弁。
当時はあまり陸から離れないから、領海という認識もなかったろう。
ただ、対馬海峡は倭人だけが渡航技術を持ち、一大率を置いて制海権を握っていたと考えられる。 沿岸航行といっても休息や補給で寄港するんだから、敵対していたら拿捕される。
馬韓はその頃は楽浪の支配下でしょ。
もともと全体を統べる王がいたっぽいこと書かれてるからそれなりに統率が取れていたのを、
魏が公孫氏を滅ぼした勢いで馬韓も制圧して、帯方郡を設置した。
史料を読む限りでは、南行部分は魏の支配下。東行部分は倭の支配下。 >>466
いい加減気になって仕方ないので、たまには突っ込みたい。
一大率は一人の大率って意味であって、一大率という組織ではない。 >>468
>一大率は一人の大率って意味であって、一大率という組織ではない。
ああ、同意するのだが、一般的な表現にしないとそこに突っ込む人もいるので、うっかり一大率にしてしまったよ。
すまないね。 一人の大率を置いて、その部下達が構成する組織が出入国管理をしてたんだろ?
同じことじゃん >>470
内陸の伊都国(直方辺り)に一大率が置かれた理由を教えて進ぜよう。
伊都国は一大率(筑紫忌部)が大陸出入りを監視するための言わば、「出入国管理局」。
その伊都国は千戸程度だから、感田上原遺跡や帯田遺跡だろう。 @阿波 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>470
魏志倭人伝では
於國中有如刺史
魏の刺史(郡の長官)のような存在と書かれてる。
当然部下はいたんだろうけど、魏志倭人伝中では一個人の職責について書かれてる。 一大率でも大率でもいいけど、倭人関係の名詞の中で、一大率と一大國だけ中国風の名前なんだよね。 一大国は一支国の誤字だろ。
と、大率は百済にもあった官名。
もちろん部下はいただろうけど。 だとしても他の官名も和風なのに大率だけが中国風だね。 >>477
大率の他に伊都国もおそらく表意文字として表記しているから、伊都国周辺だけめちゃくちゃ中華文明が導入されていたのかもね。
伊都国以外にどこを王都と呼べばいいのか。 北部九州の邪馬台国本国内は副官の卑奴母離が共通しているから、
順番としてはまず北部九州が統一されて卑奴母離が配置されて倭国成立。
筆頭の官名は統一前の旧小国王の名が反映されているのだろう。
倭国が版図を広げるのにつれて、
北へ耳垂り東へ鼻垂りといった版図外の暫定官職が置かれた感じだね。
以上は政治的役職だね。
大率や大倭は官といっても、役人的だね。 >>480
>伊都国もおそらく表意文字として表記しているから、
表意文字と考える理由がない
都支國、好古都國でも、表音文字(万葉仮名的使用)として使っている
それとも都支國、好古都國も首都だったって主張してみるかい?
伊都国と、邪馬台国が別の国として書かれているってのは、
一部のトンデモ信者以外には常識
伊都国が都というのは、非常識ww 伊都國王=爾支(ni-qi) =一大率=奴母離(na-mori)が
治所としたのが1,000戸の伊都國(yi-tu)で
邪馬+壹の
壹のほうの縄張りをまとめあげる拠点が伊都 一大率は一支率の誤記かもな
壱岐を中心に諸国を検察していたんだろう。 一支率は伊都国に居る倭王卑弥呼が朝鮮海峡の諸国を監視する為に置いていたんだろうな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています