邪馬台国の倭人は鉄器使用
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倭人は朝鮮半島投馬国経由で鉄を採取 【三国志東夷伝韓条】
3世紀に鉄器を使っているのは「当たり前」
倭人伝に書かれた【鉄鏃】なんて
時代劇の武将ヨロシク、自宅の庭で試射しまくってたわけで
リサイクル回収なんてしないw
あれ?3世紀の遺跡から鉄器ゼロ?
マジくそん???www 纏向遺跡の集落部分からは鉄器が一つも出土していない
北部九州では大量の鉄器が出土しており、
鉄器大量消費社会に突入している
明らかに文明的断絶があり
魏と金印外交した邪馬台国とは
北部九州であったことが明らかである >>619
碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無い北部九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 >>621
筑紫の首都は奴国と伊都国を合わせた筑紫の日向全体で、総人口が二万戸を超える大きさなので、もちろん王宮の近くには鍛冶場などありませんよ。 なぜチンピラの話ばかりしているんだ?
福岡、筑紫〜チンピラの集団の話だろう 実際は他国の奴隷なのに、
>>1(不明)
ここでは世界の中心だったんだろう そろそろ、
頭の病院に行ったほうが良いんじゃないのか?と言っているんだよ、
べつに刑務所でも良い おまけに殉葬してるって書いてあって日本の墓じゃないってまるわかりなのにな
なんでこんな勘違いをしてるのかと言えば
明治のカルト思想皇国史観で帝大の学者がデタラメやったせいなんだよな
それを未だに鵜呑みにしてる馬鹿が多いから _/⌒)
i"ll==0=l_ < 逃げ回るのは得意だろチョンコ
(@ 'A`)⊃
____i――――i___ ((( ⌒ ⌒ ⌒ )))
| o o|| ̄ ̄ ,,_____|_____,,,,,,_ il|i i|i
|32 _||c ((__,,((―――――'---' ∧_∧ ムギィィィ!
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l ̄ ̄(=) ̄ ̄ ̄ ̄`| =二 <`田´# > 必ずまた帰って
∴ =========\________\ ≡三 ⊂ ⊃ 捏造しまくるニダ〜
∵(◎;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;◎)≡)| |}:}:}:}:}:}| |)≡) =≡二 ( ヽノ
ヽ◎;;;;;;;;◎;;;;;;;;◎;;;;;;;;◎/≡///――‐//≡/ レ(_フ
"""""" ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ """"" ̄ ̄ """ "" """ """ "" 建物群が庄内2から庄内3までの間
ホケノ山が布留0(小型丸底土器、4世紀小枝)
箸墓はホケノ山の後
あれ?卑弥呼?王都?? というか記紀を信奉してるのなら堂々と邪馬台国も倭の五王も広開土王碑も日本の歴史とは全く関係ないと主張すべし 信奉してないからごちゃごちゃ工作してる<反日キナイコシ >>633
日本国と倭国が違う国ならそれでいいかも 朝鮮ヒトモドキ三種の神技
記憶喪失(論破されても半日で忘れる)
文盲病(前後の文脈や論の大局を読めない)
チョンコロ目(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) 鉄は溶けても銅は溶けない。
ホケノ山古墳には銅鏃数十本が副葬されているのだから、
ホケノ山古墳が作られたのは銅鏃が周囲で出土する時代。 隋書の倭国は十万戸
魏代に七万戸なので、増えたといっても3割弱程度
倭国には阿蘇山を含むことから、九州島を含む
ということは
倭国=九州島限定なのだろう 大宰府っていつからあったのか?
大宰府羅城の一部である水城の基礎の一部は炭素年代法で3世紀とのこと。
つまり卑弥呼の時代から実は大宰府はあったのではないか。
福岡県に上陸してから二千里(150キロ)の邪馬台国とは大宰府のことなのではないか。 大宰府としてあったかどうかはともかく倭人は住んでただろうね。 魏志倭人伝の楼閣高くというのは大野城、柵は水城だとしたら、そりゃ郡使も規模の大きさに驚くだろうと。
東夷最大の羅城を持つ大宰府に居を構えた卑弥呼に対して、東夷の国王に対しては唯一の金印を送るという待遇を与えたのかもしれない。 さすがに水城を見たら柵とは表現しないだろ。城壁。土塁。 >>640
>大宰府羅城の一部である水城の基礎の一部は炭素年代法で3世紀とのこと。
どうせコンタミか校正プログラムミス
隋書の記述では筑紫は無城郭 大宰府羅城の一部と考えるから難しくなる。もともとあった防塁を後世羅城を作る時に山や丘と一緒に羅城ラインに含めて利用したのだ。 水城の敷粗朶の年代問題みたわ
三段になってて上が660年代
真ん中が430年代
一番したが250年代と測定された件な
これ予測されることは
まず筑紫平野がデルタ地帯ということを考慮しないと行けない
近代の埋めたてはもちろんだが、河川によって土砂の堆積で海岸線が変わってるだろうということを考慮しないと駄目
つまり昔は海岸線に近く塩害の被害を被っていただろうということは予想でき得る
つまりリザーバ効果によって年代が繰り上がっている可能性があるということ >>647
>つまり昔は海岸線に近く
馬鹿?キナイコシか? リザーバー効果で海中の炭素は400年ほど古く出るのは読んだが、それは炭素が全て海中のものに置き換わらない限り該当しないように思える。
木材を構成する炭素そのものが置き換わることは考えにくく、海水に浸かっていても、400年も古く出ることは考えにくい。 なんだと!水城が海水に浸かるだと!
巨大津波でも襲ってきたのか? リザーバー効果はさておき
大宰府が昔海に近かったのは事実だ 具体的にはどの時代?
具体的にはどの辺りまで海だった? 銅は溶けない。
ホケノ山古墳には銅鏃数十本が副葬されているのだから、
ホケノ山古墳が作られたのは銅鏃が周囲で出土する時代。 鉄は溶ける、水城は海水に浸る。
キナイコシの暴言はとどまるところを知らない。
水城の敷粗朶どういう状態かをわかってない馬鹿いそうなので
>なお、この敷き粗朶の三つの年代について、一部で誤解され、卑弥呼の時代から営々と建設され補修されてきたと解説されていますが、それは当たらないようです。
>報告書を見ると敷き粗朶の基礎工は各年代別に積み重なる、つまり敷き粗朶工+上部工+敷き粗朶工+上部工+敷き粗朶工+上部工とだんだん堰堤が高くなったのではなく、
>いずれの敷き粗朶工も堰堤の最下部にあって、その中での上下関係にしか過ぎないということです。
>一般に流布する言説は、面白いところだけを強調している場合があり、気をつけなければなりません。
>わたくしも旧ブログの中で間違って引用していました。お詫びします。
>この段は九州歴史資料館で直接丁寧に説明を受けて理解し、それとともに恥ずかしい思いをしたことを白状します。
つまり全ての材料は同じ時代のもので、年代の違いは測定誤差だということかな。
まあ、炭素年代法はその程度の精度だろうね。 >>658
水城の場所も構造も知らないキナイコシは黙っとれ。 >>659
てことは、上へ上へと積み上がったのではなく、
3世紀にあった壁が、次第に横方向に拡張されたり分厚くされていった、とも考えられるね。
>3世紀にあった壁が、次第に横方向に拡張されたり分厚くされていった、とも考えられるね。
いいえまったく
文盲らしいのでこれ以上の議論は無駄だな
>リザーバー効果で海中の炭素は400年ほど古く出るのは読んだが、それは炭素が全て海中のものに置き換わらない限り該当しないように思える。
どういう理屈で年代測定してるかまったくわかってないやつの意見
同位体の濃度で年代を決めてる(同位体の崩壊する速度は決まっていて、そして平衡状態が普遍であるという前提のもとに推定している)
>台風での海水運搬か炭酸塩を含んだ地下水が原因
キナイコシは息をするように嘘をつく。。。か。。。 銅は溶けない。
ホケノ山古墳には銅鏃数十本が副葬されているのだから、
ホケノ山古墳が作られたのは銅鏃が周囲で出土する時代。 なんの反論もできないやつw
こういうのをみると屈してるようにしか感じんわw
アホなやつほど反論できなくなると人格否定しかしてこないwwwww 海塩粒子の飛翔距離を測定した資料
台風の海水運搬能力を示唆してる
https://i.imgur.com/5wu8r2w.jpg
炭素年代測定で地下水などによる硬水効果は海洋リザーバ効果と同様なことはよく知られている 反日キナイコシがなんで気が狂ったように
水城の基礎(敷粗朶)の年代に噛みついてくるかというと
同じものが後の百済でも作られていたから
そんな高度な建築技術を倭国で先に行われていたら、
やっぱり金印もらう先進国だった、ということになってしまうから。
キナイコシはまじクズ。 >>672
>海塩粒子の飛翔距離
当然のことだが距離と共に海塩粒子の濃度は低下している。
特に5kmを境に極端に低下するようだな。
内陸の水城から、海側の弥生遺跡までは10km以上は離れているようだが、
>>669キナイコシの言う弥生時代の海岸線とはどこのことだ?
データとしても不十分で、>>672では海塩粒子が飛翔していることを示しているだけで、
炭素年代に影響を及ぼす濃度が飛翔していることが示されていない。
炭素年代に影響を及ぼす塩分濃度はいくらなのか?の科学的データを示して、
海塩粒子の飛翔濃度がそれを上回ることまで証明しなければ、
キナイコシはただの詐欺師。
>炭素年代測定で地下水などによる硬水効果
これも科学データを示さなけれれば、
キナイコシはチェリーピックしてるだけのただの詐欺師。 >>674
>キナイコシはただの詐欺師。
知ってた。
まだこれが理解できない文盲の上に
キナイコシとか訳のわからないこと言ってる糖質
>なお、この敷き粗朶の三つの年代について、一部で誤解され、
>卑弥呼の時代から営々と建設され補修されてきたと解説されていますが、それは当たらないようです。
>報告書を見ると敷き粗朶の基礎工は各年代別に積み重なる、
>つまり敷き粗朶工+上部工+敷き粗朶工+上部工+敷き粗朶工+上部工とだんだん堰堤が高くなったのではなく、
>いずれの敷き粗朶工も堰堤の最下部にあって、その中での上下関係にしか過ぎないということです。
>つまり敷き粗朶工+上部工+敷き粗朶工+上部工+敷き粗朶工+上部工とだんだん堰堤が高くなったのではなく
>いずれの敷き粗朶工も堰堤の最下部にあって、その中での上下関係にしか過ぎないということ
>つまり敷き粗朶工+上部工+敷き粗朶工+上部工+敷き粗朶工+上部工とだんだん堰堤が高くなったのではなく
>いずれの敷き粗朶工も堰堤の最下部にあって、その中での上下関係にしか過ぎないということ
同じ場所で
一番下が汚染がひどく(同位体の濃度が低い)
一番上が同位体の濃度が高い
っていう意味
理解できたかな? >>616
違う
鉄の交易権を持っている人々が便利に暮らして農耕は捗るし潤っていた
その鉄に目をつけた集団がやってきた .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
. ☆★☆生データ☆★☆
三国志に出てくる「治」は433文字。うち、「治+地名(A)」は24か所。
“Aに役所を置いた”の意味で使われた例 ☆22
"Aを治めた"の意味で使われた例 ★2
☆袁紹因表太祖爲東郡太守治東武陽 袁紹は太祖を兗州東郡の太守に任命すると発表し、太祖は東武陽県に役所を置いた
☆徙爲東郡太守治東武陽 (臧洪を)東郡の太守に転任させ、臧洪は東武陽県に政庁を置いた
☆郡所治廣武 郡の庁舎が所在する廣武
☆治廣ィ如舊 (閻柔は)元からの如く廣ィ(上谷郡の寧城)で執務した
☆辰王治月支國 辰王は月支國で政務を執っている。(魏志韓伝)
☆焉徙治綿竹 劉焉は綿竹県に役所を移した
☆焉徙治成都 劉焉は成都に役所を移した
☆羣下推先主爲荊州牧治公安 臣下が先主を荊州の牧に推し立てたので、先主は公安県に役所を置いた
☆治成都 (先主は)成都に役所を移した
☆先主爲漢中王遷治成都 先主は漢中王になると、成都に役所を移した
☆移治味縣 (馬忠は)役所を味県に移した
☆州舊治壽春 揚州の役所は古くから壽春に置かれていた
☆繇乃渡江治曲阿 劉繇は長江を渡って曲阿に役所を定めた
☆權徙治秣陵 孫権は役所を秣陵に移した
☆以慈爲建昌都尉治海昬 太史慈を建昌の都尉(6県)に任命して、太史慈は海昬県に役所を置いた
☆劉備以左將軍領荊州牧治公安 劉備は左将軍となって荊州牧の任務を行い、公安にその役所を置いた。
☆以普爲吳郡都尉治錢唐 孫策が程普を呉郡の都尉に任命したので、程普は銭唐に役所をおいた
☆領江夏太守治沙羨 江夏の太守になって、沙羨に役所を置いた
☆領丹楊太守治建業 (呂範を)丹楊の太守にして、呂範は建業に役所を置いた
☆拜抗都督信陵西陵夷道樂鄉公安諸軍事治樂鄉 陸抗は都督となって、信陵・西陵・夷道・樂鄉・公安の軍事担当となり、樂鄉に役所を置いた
☆假節開府治半州 (孫慮に)政府を開設させて、孫慮は役所を半州に置いた
☆爲吳興郡治烏程 呉興郡を新設して、烏程に役所を置いた
★使司隸校尉留治関中 司隸校尉に関中を留守統治させる
★司隸校尉治弘農 司隸校尉に弘農郡を治めさせた 郷土愛に狂う岡上を筆頭に思考を停止させた古田信者や、在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、
伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の長官であることに疑念の余地はない。
根拠
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
解説
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、
女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は漢代では監督職であったが、魏代には長官職であり、
伊都国には爾支という長官が存在している=長官と同職の一大率は伊都国の長官ではなく、女王国の長官である。
加えて刺史は魏国内の刺史「部」に務め、魏の植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。 >>684
ふむふむ。
女王国は伊都国とその周囲の南になるから、
邪馬台国は吉野ヶ里を中心とする地域だな。
やはりそうだったか。 筑後出身の火の国の女王が倭王に共立され伊都に入り、それまての甕棺墓を持つ天孫族にかわり君臨し、最後は平原遺跡に葬られたのだろう。
これで全て矛盾なく説明できたな。 吉野ヶ里は筑後なのか?
意味が通れば別にいいけどw 吉野ヶ里遺跡からは数百の鉄器が出土しているから、
スレ主も異存あるまいて。 肥前と肥後が離れていて、間に筑後が挟まっている。
これはもともと有明海沿岸ということで肥国としてまとまっていたものが、いつの時代かに筑後が筑紫に組み込まれてしまったのだろう。
本来なら筑後は肥国の一部であるべきだった。
そして、佐賀平野の嘉瀬川(古くは佐嘉川)は、もともとは筑後川に注ぐ支流だったという。
それこそ肥前と筑後は一体であった。 >これはもともと有明海沿岸ということで肥国としてまとまっていたものが、
考古学根拠は? 古事記に九州は筑紫と肥国と豊国と熊襲とある。
筑紫は博多湾沿岸、肥国は有明海沿岸、豊国は遠賀川流域。
弥生時代の主要交通は船なので、海域や流域でまとまるのは当然のこと。 九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、 そのなかでも分かりやすいのが、
九州には自慢できる温泉が腐るほどあるのに、九州に在る温泉への天皇行幸が明治天皇行幸まで一切無いこと。
なんで九州各地の風土記に天皇の行幸記事が無いのだろうか?
九州に倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波 >>692
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンはさっさと首を吊れって(笑) >>693
>思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンはさっさと首を吊れって(笑)
これを無視せざるを得ない九州説。 哀れ! わははははは @阿波
↓
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、 そのなかでも分かりやすいのが、
九州には自慢できる温泉が腐るほどあるのに、九州に在る温泉への天皇行幸が明治天皇行幸まで一切無いこと。
なんで九州各地の風土記に天皇の行幸記事が無いのだろうか?
九州に倭王権があれば、有り得ない話である。 >>694
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンはさっさと首を吊れって(笑) >>695
逃げ回らずに、答えてみ、ヘタレ君! みっともないよ。 わははははは @阿波 >>696
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンはさっさと首を吊れって(笑) >>698
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンはさっさと首を吊れって(笑) 卑弥呼時代は邪馬台国が九州と奈良の2か所、並列で有ったんだよ。
九州邪馬台国は卑弥呼の領地で奈良邪馬台国は男王の領地
これと似た話はアマテラスと弟王スサノオの神話に良く似てる。
日本の歴史上で都が2か所同時の時代が多い
飛鳥と藤原の宮、藤原と平城、平城と平安、明治の京都と東京のように。 卑弥呼、邪馬台国は火の国の斎王だったで、 今の熊本平野の北半分で
南半分がクコチヒコの狗奴国
これは福岡、御笠川を小船で登り太宰府までそこで筑後川の上流宝満川を下れば
有明海に入り南へ水行で熊本の菊池川か白川を登れば邪馬台国に着く。
不弥国から小船で水行すれば十日、内陸行で1か月がピッタリはまる。 じゃあ、卑弥呼ほどの国際通がなぜこんな奥まった阿蘇などに籠ってるのか
伊都国か今の太宰府辺りなら街で使節とも直ぐ面会できるのにと
昔から不思議で九州説は胡散臭く感じてたが有ることに気づいたんだよ。
それはね、「鉄」鉄器、文明をもひっくり返す鉄の存在で軍事面からも鉄はハイテク製品で
農具でも斧、鍬や鎌、ノコギリなんかだと開懇が楽になる。
肥後の国は弥生時代の遺跡から鉄鏃が大量にでてくる
今までは、倭人伝にもある鉄は韓国からの輸入が定説だったが
最近熊本、菊池市辺りの遺跡から製鉄で出るカスのスラグ鉱滓(こうさい)が出土する。
卑弥呼は鉄鉱山、製鉄、利権を持った邪馬台の管理者だった。 それじゃ、阿蘇に製鉄のための鉄資源はどこにあると疑問が湧くが
阿蘇には阿蘇赤土リモナイトてのがあって、焼けばベンガラ、古墳に使ってる赤色。
このリモナイトは正式名褐鉄鉱で、鉄の酸化鉱物、沼地などにある赤土
阿蘇リモナイトは褐鉄鉱や湖沼鉄と云われ、古代イギリスでは湖沼鉄から鉄器を作ってる
湖沼鉄は低い温度800度ほどで溶解し加工しやすい。この時スラグ鉱滓がでてくる。 この肥後には何度となく天皇の熊襲征伐など神話などにも登場する地域で
景行天皇や王子の日本武尊(ヤマトタケル)の熊襲征伐とか筑紫の君岩井の反乱や
北部にはワカタケル大王名の鉄刀が江田船山古墳から出土したりで
何かといわく付きの土地がら。
神話の景行天皇が廻った地は製鉄炉の遺跡がある地域が多いらしい
から鉄生産地の視察の雰囲気なのが不思議。 .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. 日本独自の製鉄と云えば、たたら製鉄でこれは川などにある砂鉄を使う、
たたら製鉄は古墳時代に発展する製鉄で高温なので技術的に難しいが
湖沼鉄は土管や壷に炭を入れて火を付け、下からフイゴで風を送り
その上からか湖沼鉄を入れるだけで 下からドロドロの鉄が出てくる、
量は少ないが矢じりや農具くらいは出来る
今でも、アフリカの部族ではこのやり方で鉄を手に入れてる。 その余の旁国は遠絶にして詳らかにすることを得べからず。
次に斯馬国あり。次に己百支国あり。次に伊邪国あり。次に郡支国あり。次に彌奴国あり。
次に好古都国あり。次に不呼国あり。次に姐奴国あり。次に対蘇国あり。次に蘇奴国あり。
次に呼邑国あり。次に華奴蘇奴国あり。次に鬼国あり。次に為吾国あり。次に鬼奴国あり。
次に邪馬国あり。次に躬臣国あり。次に巴利国あり。次に支惟国あり。次に烏奴国あり。
次に奴国あり。
これ女王に境界の尽くる所なり。 その東には大山(伊勢国から見える富士山)あり。
その南に狗奴国あり。男子を王となす。その官に狗古智卑狗あり。
女王に属せず。 郡より女王国に至ること万二千余里。 旁国は遠すぎて詳しい事はわからないと使節が書いてる。 だから近畿地方の国。
次に斯馬国あり。(志摩国)
次に伊邪国あり。(伊勢国)
次に好古都国あり。(高津国、高津の宮)
次に不呼国あり。
次に姐奴国あり。
次に対蘇国あり。
次に蘇奴国あり。 (添の国、奈良北部の広い郡)
次に華奴蘇奴国あり。(添下郡、そのかの国)
次に鬼国あり。 (紀伊国)
次に為吾国あり。(伊賀国)
次に鬼奴国あり(紀の国)
次に彌奴国あり。(美濃国)
次に邪馬国あり。(山城国、山背国、平安京まえの京都)
次に躬臣国あり。(越コシの国)
次に巴利国あり。(播磨、針間国)
次に支惟国あり。(吉備国?)
次に烏奴国あり。(宇治国、古くは内、うのくに) .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. 郡より邪馬台国までは一万二千里。
郡より狗邪韓国までが七千里。
狗邪韓国より伊都国までが三千里の計一万里
伊都国より不弥国までが七百里ほどで
不弥国より邪馬台国までが南千三百里。水行十日で陸から行けば1か月。
で、大体熊本平野の北部地域になる。 南に水行二十日で投馬国が不明。サツマ? 薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。
西海道に属する。
で、かなり古くからツマと発音する大きな港「津」があって
後にサツマと呼ばれる様になった、ちなみに八女地域も妻と呼ばれて
このツマ、津間、には瀬戸内の鞆の浦のような風待ち港の意味があるのかもな。 推奨NGワード
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@阿波
釜と甑
釜と竈
氏名と所属団体 肥後と筑後の違いがわかっていないアホがいるな。
熊襲タケルは肥前だし、筑紫の君岩井は筑後だ(肥後には肥の君がいた)。
そもそも魏志倭人伝の里程では熊本平野には届かないし、菊池平野には狗奴国の菊池彦がいた。 肥後は欲を出さずにくまもんの弟くなもんを商標登録しとけ
邪馬台国とちがってライバルいないから狙い目だぞw >>715
古代倭王が、九州に居たら、絶対湯治に行くよね。 九州の風土記や万葉集などにも書くよね。 九州に居なかったから書こうにも書けないよね。 わははははは @阿波 714←中国から来た来た詐欺のサギー華南ブタチックボルネオチックセロイピーノwwww ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています