漢委奴国王印 いわゆる金印part2
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有意義なスレだと思ったので 勝手ながらpart2を立てました 前スレから面白い書き込みは 転用しておきますね 前スレから、59(1): 2012/07/13(金)22:21 AAS >>58 > 蛇の形をした紐通しは何の意味があるのさ 『漢旧儀』の規定によれば、・・・ 皇帝・皇后は螭虎鈕、皇太子・丞相・大将軍・列候などは亀鈕、諸候王は橐駝(駱駝)鈕、そして千石以下の役人は鼻鈕とされている。 その適用の厳しさは、出土印を網羅した『秦漢南北朝官徴存』(羅福頥編1987)で検証できる。 ・・・駝鈕は漢代を通じて匈奴などの北方諸民族(韓族を含む)に61例と集中しており、諸候王が漢朝廷のそれでないことがわかる。 つまり、明記はされていないが、『漢旧儀』の諸候王が正確には外臣である北方民族の諸候王をさすことを示している。 東夷の得た官印の最古の遺存例は、‥‥平壌市出土の「夫祖ワイ君」駝鈕銀印である。 紀元前後のころのものだが、以後、晋印に韓・濊・夫餘・高句麗の例がある。 韓が駝鈕であるのをはじめ、馬鈕をまじえるものの駝鈕が多い。 したがって、駝鈕を東夷を含めた北方民族(北狄)用とする印制が確立していることを理解できよう。 (「漢委奴国王」金印は)蛇鈕という特異な鈕の形態を理由のひとつとして偽物説がつきまとう段階があったが、 雲南省晋寧県石寨山6号墓からの「滇王之印」蛇鈕金印の発見と、 岡崎敬による綿密な論証によって、現在は真印と認められている。 ・・すなわち後漢において北狄に駝鈕、西南夷に蛇鈕を与えるという印制 が確立したと推定できるのである。(高倉洋彰) 前スレからです 992: 09/15(土)03:38 AAS 技術なんて何度も失われ、何度も再発明されるし。 そろそろスレ終わりそうだから書いとくか。 親魏倭王の印貰ったから漢委奴国王の印は埋めたんかもね。 邪馬台国のあった時代は戦乱続いたから親魏倭王の印は 奪い合う中、燃えて溶けたりして消滅。 漢委奴国王は「かんわのこくおう」だね。奴の発音は 「な、ぬ、の」どれなのか知らんけど、連体格の格助詞を 当てたもの。匈奴国も同じ。あっちの言語の格助詞もナ行 (格変化が複雑なので不正確かもしれんが)。 漢委奴をアイヌって言う説もそういうのもありかなと思った。 アイヌ語が語源じゃなくて、 中古音(han iwe nu)がアイヌ語に 入った。 前スレから転用です。 99: 2012/08/10(金)19:05 AAS 弥生時代末期、 漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)国も、跡継ぎを巡る「大乱」で卑弥呼(アマテラス)に国を譲る。 奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分) 狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向→神武東征≡瀬戸内海⊇≡大和 ....................隼人(鹿児島) 筑紫邪馬台国♀女王「台与」は日向投馬国王♂を婿として迎えた後、薩摩隼人との三つ巴で肥後狗奴国(後の熊襲)を滅ぼす。 その男系末裔であることを示すため、神武は本拠地・投馬国(日向)から大和へ東征(東遷)。大王に即位し、大和朝廷を樹立。 ※記紀が投馬国王の祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の叔母・卑弥呼(アマテラス)をその姉としたのは、 (台与の子孫である)大王家の時間軸操作。 -大和朝廷における、♂投馬国(日向)系大王と♀邪馬台国(筑紫)系大王の(それぞれの男系が途絶えたことによる)政権交代 【前期古墳】…イリ三輪(銅鏡)王朝(神武〜仲哀)=投馬(日向)系大王 【中期古墳】…ワケ河内(鉄剣騎馬)王朝(応神〜武烈)=邪馬台(筑紫)系大王(朝鮮半島支配強化で王権強大化) 【後期古墳】…近江王朝(※継体〜天智〜桓武〜現在)=投馬(日向)系大王 ※ -継体・安閑・宣化=日向系大王→継体の大王即位が筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫君磐井の乱」を誘発 -欽明〜皇極(斉明)=筑紫系大王(筑紫系大臣蘇我氏による日向系皇族大弾圧)→「乙巳の変」へ -天智〜弘文=日向系大王、「白村江の戦い」惨敗で朝鮮半島権益を完全喪失→「壬申の乱」へ -天武〜考謙(称徳)=筑紫系「天皇」、両系和解の記紀編纂(イリ三輪王朝の活躍>>>ワケ河内王朝の活躍) -光仁・桓武〜現代=日向系天皇、筑紫系天皇の平城京から本拠地・琵琶湖近くの平安京に遷都 一白 大王 前スレからの転用です 136(1): 2012/09/28(金)21:58 AAS 江戸時代福岡藩士「青柳種信]は、「宣化紀」「斉明紀」にある【那の津】を 現在の河口から二・三里遡った三宅村から仲村地区と思い、その海岸線が、 時代とともに、現在の住吉神社付近になったと考えた。 ここには、【現人神社】 福岡県筑紫郡那珂川町仲3-7-8 がある。 この社が住吉神社の元宮であり、奴国発祥の地である。 博多湾の河口は年々堆積物で浅くなる。 反対に船は大型化していく。 漢委奴国王時代、最も適していた外国交易の港は「今津」と思われる。 その権利を求めて戦いが起こった。 早良・志摩・唐津は制圧された。 107年倭国王帥升による「伊都国」の建設である。 >>5 ありがとう、疲れたもう寝る 前スレから 139: 2012/10/08(月)13:32 AAS 金印消しゴムは売れる 全国の小学生に人気を博すこと請け合い 137名無しのひみつ2017/11/20(月) 21:30:46.06ID:tIdxnd4R 中国の博物館には万を数える古銅印が収蔵されているが(日本にも流れて来たのがある)、半分は明から作られた贋骨董 だろうと言われている。木竹製品、陶磁器は制作年代を物理的に調べる方法があるが、金属には方法が無いので、真贋判 定はされずほったらかされている。 この漢倭の金印も判定に物理的方法は無いので状況証拠を検証するしかない。 http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20171020002376_comm.jpg しかし偽派の言い分は随分お粗末なもので全く証拠にならない 1、ハネを彫る字体は漢代に無い・・・これは間違い。むしろこれは漢印に特徴的にある。https://i.imgur.com/JPF6avZ.jpg 2、出土状況があいまい・・・もし亀井南冥が計画して芝居打ったのなら正確に記録しているだろう。あいまいなのは亀井南冥も 知らなかったからだ。 3、字の彫り方が広陵王璽と異なる・・・印彫り職人は大勢居る、人により彫り方が異なるのは当たり前。 真派の言い分も積極的に真だとする証拠にはならないが、その他の状況、幕府公認に限られる格式高い金細工師に、内緒で贋作 依頼できないなど亀井南冥には贋作できないだろうから、偽が作られた可能性は無い 132名無しのひみつ2018/02/24(土) 22:59:59.88ID:6F1b13sj 偽と言う奴は、”後漢時代の金印がポロと田んぼで見つかるはずがない、 亀井南冥が売名の為に偽造して仕組んだ芝居だ”と言うんだな。 なら亀井南冥がそんなことをする可能性があるのか検証しないといけない。 1、まずこの言い方が矛盾している。確かに金印が出たのは奇跡的なことだ。 ならば、亀井南冥が売名の為にそんなありそうもないことを仕組むだろうか、 それはない、やるのならありそうな誰もが納得することを考えるだろう。 2、亀井南冥は既に福岡藩随一の碩学と言われ、藩の御典医で藩主の信頼 厚く、新設の藩塾の塾長を任された。既に学者として成功しており、今更 売名の企てをする必要などない人物だ。 3、もう一つの藩塾が金印の解釈でバカ言って恥をかいた、それで奴らは 印は偽だ、漢の属国扱いの印など潰せとわめいたが、藩主は亀井南冥を 信頼して、金印は黒田家の家宝として保管し、金印の件はそれで終わった。 4、その後に亀井南冥が塾長を辞め蟄居を命ぜられたのは、松平定信の 寛政異学の禁で、それを批判して、”ま 気持ちは分かるが、幕政を批判 するのはマズいよ”ということで、金印の件とは全く関係ない。 これでまず亀井南冥が売名の為に偽造した可能性は100%無いね もう一つ調べた事を書く。 日本と中国に現存する南北時代以前の金印は 41個しかなく、その30個は現代になって発掘したものだ。銅印が万個ある のにこれは驚くほど少ない。 これは中国で偽の銅印は何千個もあるが、 金印の贋作は無かったということだ。何故なら、あまりに少なくて贋作者 も金印は見たことがないからだろう、モデルが無いのでは贋作できない。 ”漢委奴国王”は完全な後漢時代のデザインにできている。江戸時代に あった銅印しか載っていない印譜からはこのデザインの贋作はできない 899日本@名無史さん2018/05/08(火) 14:42:33.01 金印が何故そこにあったのか推察すると、おそらく奇跡の呂皇后と同じだろう。 西安の陝西歴史博物館にある呂皇后の玉印は、今中国にある歴史的印章で一番の お値打ち品だ。 これは小学生が学校から帰り道で、道端の空き地で見つけた。省博物館に持って 行くとみんなびっくり仰天、拾った場所は劉邦と呂皇后の長陵から1kmの所、 呂皇后の玉印が出た。 なぜそこにあったか推察すると、これは呂皇后の墓内 でなく周囲の建物に調度品と共に安置してあった。それが前漢末の反乱で 焼き討ち略奪の時、誰かが守って持ち出し、落としたか埋めて隠した。 それから2000年、今は家や道の並木があったりするが、埋まった所は奇跡的に 何の変化も無く、表土が雨で徐々に流れて、2000年後に現れた。動かなかったから 傷一つなく綺麗な原形のまゝだった。正に奇跡の呂皇后だ。 で 金印は、魏書に倭国大乱とあるように、その頃は喧嘩ばかりやっておった。 喧嘩の時、金印はどっかに隠す、奴国が負ける隠した奴が死ぬとどこに隠したか 分からなくなる。 中国の何千個もの古銅印はほとんどが何故そこに落ちとったか推察しようもない。 そこに昔は持ち主の家や役所の建物があったとしても、千数百年過ぎると全く 跡形無くなってしまう。小さい銅印なんて丈夫な物だからそれだけが残る。 949日本@名無史さん2018/07/15(日) 09:45:01.71 1958年発掘 蛇鈕金印”晋蛮夷帰義侯” http://www.whmuseum.com.cn/WB_collectionl_connect.aspx?id=20 この蛇鈕、造りは雑だが、形式は漢委の金印と同じ。 滇王は前漢だから蛇そのものだが、 後漢からの蛇鈕はこういう形式になった。 江戸時代ではこういう印形のデータが無いんだから、あの漢委の蛇鈕を贋作はできない 950日本@名無史さん2018/07/16(月) 08:55:10.33 蛇鈕はこれが江戸時代の贋作ではないことの決定的証拠だな。 中国に現存する蛇鈕金印は、現代で発掘された三個しかない。 中国でも明から作られた贋作印に蛇鈕は無い、どんなものか分からなかった からだ。 日本で江戸時代に作れるわけが無い。 福岡市博物館 金印 http://museum.city.fukuoka.jp/gold/index.html 真贋問題は決着 これで考古学会が保証してユネスコMemory of the Worldに登録申請する。 これは中国の滇王之印とセットで申請すればええだろ。史書に書かれた印、歴史上人物の持ち印 が出土するのは奇跡的なことだが、文字どおり歴史の記憶文物だ 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約6500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 福岡市博物館の記事の終りに[宣和集古印」とあるが、これは明末頃のふざけた贋作印譜だ。 924日本@名無史さん2018/05/21(月) 21:34:15.37>>925 山中にある古墓から、宋徽宗帝が作らせた印譜が出たと称して印刷した贋の印譜にある”親魏倭王” http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku12/senwa51.jpg 中国では明の頃、文人の骨董収集ブームで、古銅印から印譜まで贋作が出回った。 印は魏の頃日本へ行ったのに、宋で印譜に出せるわけねえだろ。 魏書には金印と書いてあるのになんで銅印だ、中国の贋作屋もええ加減なやつらだな。 実際問題として、卑弥呼が受けた”親魏倭王”は、後に魏から晋になって壱与が晋に使者を 送って慣例により返却し溶かされ、新たに”親晋倭王”が授与されたと思われる。 "状況証拠"と言うが、文字どうり清の頃古代金印はどういう状況だったかを見ると まずあの漢委の金印以前は地上に一つも無かったのだ。金石学が盛んになって古文字 資料の印章も収集されたが、最大の収集家乾隆帝のコレクションも銅印ばかりで金印 は無い。現物が無いのでは印譜にも金印は無い。 あの漢委の金印は初の出土品だった のだ。その後山東で亀鈕の漢印が出土した。これは珍しい貴重だということでレプリカ を作った、かなり雑で、今みたいな精巧な物ではないが。あと清末に重慶で一つ出た。 清代での出土はこの三顆だけのようだ。 勿論モデルが無いのだから金印の贋作は無い。 974日本@名無史さん2018/09/08(土) 23:16:58.76 状況証拠と言えば江戸時代はどういう状況だったか。 金印発見について、藩主から村へ 褒美50両が渡され、印は黒田家の家法として収蔵された。勿論亀井南冥の進言によることだ。 もしそれが偽物となったら、当然主君を騙した亀井南冥は切腹だ。 偽とばれないように金細工師 に頼むなぞできない。 偽と言う奴は今の感覚で言うとるが、江戸時代は悪ふざけでは済まん のだよ。 そういう時代では亀井南冥は贋作など全く思い付きもせんだろう。勿論そんなこと 考えもしない人物だろうが。 976日本@名無史さん2018/09/11(火) 14:33:04.54 そもそも 偽という奴らの思い付きがナンセンスだからな 田んぼでポロと出る筈が無い ・・・ 発掘考古学を全然知らない 中国の何千個の古代印がどこで拾われたか調べてみろ 亀井南冥が売名のため作った ・・・ まずそんなことする人物かどうか。 絶対バレないよう誰に作ってもらうんだ バレたら切腹、人生終わりだ。大体2000年前の金印が出ました、そんな突飛なこと 常識的に誰も考えんだろ 南冥の贋作は有り得ない 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、 ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 改めて古代金印の事情を調べてみて、漢委の金印が初の出土品で、それ以前は地上に無かった のは意外だった。 では地上から消えてしまったのは何時頃のことかと推察するのだが、おそらく宋の中頃だろう。 南北時代までは作られていたが、唐になると印章の骨董文物としての価値認識が無かった。それで盗掘 などで見付かっても全部溶かされてしまった。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、 中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。 そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、 石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、 石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、 木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。 石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも 伝わっていないのだ。 それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の 耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。 オール木製で。 しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も 日本の最古水田には一切伝わっていない。 日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと 言っているのと同じレヴェルの話である。 ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も 経ってからの事で、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか 経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、 佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、 日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、 朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。 このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。 この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で 比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。 ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。 日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>20 googleは狂うとる 南ベトナム王の天皇の墓である「温泉」は、中国の封印の初期の例である。 西漢王朝博物館の監督、南ベトナム美術館の呉凌雲(Wu Lingyun) 一部の学者は、「皇帝線Xi」は数千年に表示されるボタンを推し進め長い時間に思える 「歌竜ボタン」と呼ばれる記事を書きましたが、ドラゴンのボタンの南越墓。学者シャオ華は 言った「竜を行うには 『天皇線Xi』ボタンは、現在の中国のアザラシの最も初期の例である。」 :南越王博物館の学芸員呉凌雲はぶっきらぼう週刊インタビュー記者コレクションに語った 「皇帝の龍と最高の権威を表し玺の組み合わせは、南ベトナムの先駆的な仕事です。 目前中国玺印最早的实例 → 現在の中国のアザラシの最も初期の例である 接受收藏周刊记者采访时直言 → ぶっきらぼう週刊インタビュー記者コレクションに語った 英語はさむと 玺印 → seal → アザラシ だ 何がぶっきらぼうか分からんが おもしろい 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約6500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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